2009/06/24

続々・たけくらべ論争~娼妓取締規則をめぐって

 たまにこのブログのアクセス解析っていうのをやる。相変わらず一番読まれているのは、もう4年も前の記事だが、たけくらべ論争についての記事である。今でもほぼ毎日、いくつかのアクセスがある。もちろん、これは僕のブログに人気があるからではなく、名作『たけくらべ』の人気のせいである。

 そのアクセスの先月分が飛躍的に増えていた。一日数百のアクセスが数日間続いた。どうして増えたんだろうって思って調べると、どうやら、この記事を、ある有名な文学者の方がブログでとりあげたり、ご自身の私塾の授業資料に使用したりしたかららしい。というわけで、今度のはその文学者の方の人気のせいである。

 それはともかく、塾での授業で僕の記事がどのようにとりあげられたのか関心がある。が、まあ、それは知りようもない。ただ、塾の生徒の方で授業ノートをネット上に公開されている人や授業感想をブログに書いている人などがいらっしゃるので、それらを興味深く読ませていただいた。また、それらの記事からのリンクで、山本欣司「売られる娘の物語:「たけくらべ」試論」(『弘前大学教育学部紀要』87、2002)も読んでみた。
 ここで本来は、ちゃんとした討論のかたちをとるべきかもしれないが、当方で勝手に集めた間接的で部分的な情報だけをもとに、ご当人がご意見を公表されていない段階(あるいは公表されていても私が知らないだけ?)で、件の文学者の方のお名前を出して反論するのは良くないかなと。というわけで、以下、自問自答みたいなかたちで考察をすすめてみよう。とはいえ、これはこれで相手の方に失礼なんだろうけど。どうかご勘弁のほどを。関連ブログへのリンクなども当面は控える。もし、状況が整えば、リンクなりトラックバックなりしようかなと。

 さて・・・

 たけくらべ論争の概要についてはこちらこちらの過去記事を。
 要は、物語の終盤、急に元気を無くした主人公の少女美登利について、彼女が元気を無くした原因をめぐる論争である。初潮をむかえたからだという初潮説のほか、吉原の遊女屋で初めて客を取ったからだという初店説、あるいは、娼妓に対して義務付けられていた身体検査を遊郭隣接の検査場で初めて受けたからだという検査場説(初検査説)などがある。

 以前の記事においては、これらの諸説のうち、初店説と検査場説は成り立たない、と主張した(ただし、私が否定するのは一般的な遊女デビュー形式での初店説。佐多稲子が主張するような違法な“秘密の初店”説は成立の可能性がある)。

 私がこれら2説は成り立たないとする論拠は当時の娼妓取締規則にある。そこでは、16歳未満で娼妓になることは禁止され、娼妓の遊郭外居住も禁止されている。まだ14歳で、かつ、遊郭外に暮らし続ける美登利が、正式に娼妓デビューしたり、デビューのための身体検査を受けたりすることはありえない。

 こうした主張に対しては、当時の吉原において、年齢をごまかして16歳未満の者を娼妓にすることは可能だろう、という反論や、作者の一葉が娼妓取締規則を知らなかったこともありえるだろう、という反論も成り立つようだ。

 たしかに一般論として年齢詐称もありえるだろう。たとえば、どこか遠い地方から売られてきた少女ならそれは容易かもしれない。しかし、吉原界隈のちょっとした有名人で、かつ、いまだ地元の小学校に在学中の美登利の場合、年齢の詐称は困難だろう。遊女屋の経営者にとって、これほどあからさまな違法行為はリスクが大きすぎる(仮にライバル業者やら逆恨みした客やらが警察に告発したら、かなり厄介だろう)。
 先に挙げた山本欣司氏の論文では、16歳になって娼妓デビューする前の見習い奉公開始もひとつの可能性として示唆されているが、見習い奉公なら遊女屋に移り住む必要がある。作品中に明記されているとおり、美登利は廓外に暮らし、遊女屋に行くのは、そこで働く姉に「用ある折」だけなので、見習い奉公も始まっていないと考えられる(山本氏がこれとは別に指摘する、美登利と遊女屋との間でなんらかの契約が成立した可能性については、検討の価値があると思う)。
 そもそも、正式に娼妓として就業していないことは、上記の年齢問題を別にしても、こうした美登利の遊郭外居住からも、明らかである。

 もうひとつ。一葉が娼妓取締規則を知らずに、16歳未満で遊郭外居住の美登利を娼妓にしてしまったのではないか、という反論。その可能性については、私も前の記事でふれた。でも、やはりそれは無理センだと思う。まず、16歳未満の娼妓就業禁止の方について。おそらくこれは、現在のなんとか条例の18歳未満云々程度には、世間の常識(?)だったと思う。一葉が正太に歌わせている流行節に「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」とあるとおりだ。そして、娼妓の遊郭外居住の禁止の方は、江戸時代から続く、遊郭の営業独占を守るための最重要かつ最も有名な“おきて”である。吉原のすぐ近くに居を構えていたことのある一葉がそれを知らなかったことなどありえないだろう。

 というわけで、やっぱり、初店説(秘密の初店説はのぞく)と検査場説(初検査説)は成り立たないと考えられる。

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2009/06/17

江戸柳原の古着市場

 ブログ読者の皆様一般に対しては申し訳ありませんが、ちょっとした業務上の都合で、場違いながら、以下、江戸の柳原というところにあった古着市場に関するメモを掲載します。興味のある人はご笑覧を。

柳原土手通りの古着市場

 神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.5km弱の土手に沿った通りに、土手を背にして床店が並んでいた。軒数は不明。明治初年に同所での床店営業の許可が検討されるが、その許可軒数は約550軒。そこから判断して、500軒程度というのがひとつの目安か。
 成立年代は不明。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。それらの認可はおおむね18世紀前半に順次出されたが、それ以前から無認可の営業が存在した可能性も大きい。
 この床店場所において、古着市場が開かれていた。古着市場の成立年代も不明だが、諸文献における同所の古着商売への言及は、1730年代以降に現れてくる。床店場所が幕府から認可された18世紀前半頃に、柳原土手通りの古着市場も形成されたのではないだろうか。古着を扱う床店の軒数も不明だが、100~200軒程度だったのではないか。

柳原土手通りの古着市場についての要点

 この古着市場については、これまで史料もみつからず、実証作業を欠いたまま、同所は詐欺的な商売が横行する怪しげな場所であったという見解が出されていた。しかし、近年、貴重な史料を発見できた。明治7年1月付で、古着商の住吉屋幸左衛門という人物が東京府知事宛に提出した書類のなかに、近世段階の柳原土手通りの古着市場について説明した記述が見つかった。その記述内容から導き出せる要点は次のとおり。

①江戸の主要な古着市場として、富沢町の市場と柳原土手通りの市場とが両立していたが、富沢町市場の取扱商品が高級化するにつれて、古着市場としての「人気」が柳原土手通りへと移ってきた。
②市場の場所は「床店最寄」である。おそらくは、床店前の路上において、古着の市場取引(糶売買)が行われていた。そうした取引に対しては、床店は商品の保管場所としての機能を果たしていたと考えられる。
③市場での売り手は、床店の古着商人たちである。買い手は、「府下市中見世」、すなわち江戸市中の小売の古着屋と、「諸国」から古着を仕入れにやってきた「旅人」である。また、売り手である床店の古着商人が市場で古着を買うという「互ニ売買」という取引もおこなわれていた。
④市場では、どんな古着でも「値次第」で「悉売捌」けるので、「薄元手」の零細な商人たちが「尚以糶合出市」し「日々営業」していた。

 柳原土手通りの古着市場を、小売市場とする誤った見解もあるが、③で明らかなように、この市場の主な機能は、小売店や旅商人を相手にした、いわゆる卸売であった(それと平行して、個々の床店における素人相手の小売も行われていたことはほぼ間違いない)。
 このように、売り手・買い手ともにプロフェッショナルな商人である以上、これまで喧伝されたような詐欺的な商売の横行といった状況はありえない(そんな商売が一部にはあったとしても)。
 こうした柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある富沢町市場と肩を並べさらにはそれを凌駕する卸売市場として発達を遂げていた(明治前半にはこの柳原土手通りの市場をもとに岩本町古着市場がつくられ、ここが東京の古着流通における最大の拠点となる)。
 市場での売り手として商品を豊かに供給しときには買い手ともなる古着商人たちが、恒常的に多数集合すること、これが市場を発達させた基本条件であろう。零細な経営規模の商人たちが、個々単独では決して作りえない巨大な集客力や活発な市場取引は、彼らが多数の共同によって柳原土手通りに生み出し育んだものである。

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2009/06/15

最近のお気に入り~YUIの「again」

 今よく聴いている音楽は、もちろん(?)、YUIの歌う「again」。個人的には、なぜか西原理恵子と並んで最近お気に入りのYUIです。それについてはこちらの記事を。

 昨秋からの活動休止期間を経ての新曲。早口で畳みかける歌詞が乗せられた疾走感満開のギターロック。いさぎよくシンプルかつ骨太の曲構成。そうしたシンプルさは初めて聴いたときちょっと物足りないくらいだったけど、繰り返し聴いてると、やっぱり満足の聴き応え。うーむ、歳とるとどんどん鈍感になっちゃうねぇ。

 オリコンの週間ランキング1位で、今年度女性アーティストのCD初動売り上げも、あゆを抜いて1位。さすがー。

 さて、この曲、CD以外で楽しめるのは、2種類のPVと、これをオープニングテーマにしているアニメ。

 まずPV。初回限定版CDに付いているDVDに収録された普通のPVと、それ以外にもう一種類。普通のPVと同じスタジオで録られた、なんと、通しで一発録りのライブヴァージョン。実際には、このライブ映像を編集して普通のPVも作られているから、両者の画像はかなり重なっているけども。
 それにしても、緊張感があってとても良いPV。こっちのPVも、ときどき、音楽専門系のTVチャンネルで流れるし、たしかどっかで公式配信されてたはず。おすすめです。どちらのPVも、PVディレクターの、YUIと曲とに対する「敬意」が感じられる。まあ、いろんなPVがあってよいとは思うけど・・・やっぱりこういうPVが良いね。

 アニメの方は、日曜夕方に放映中の『鋼の錬金術師』のオープニング。この番組の過去のテーマ曲だと、ポルノの「メリッサ」や、アジカンの「リライト」も好きだったなぁ。だけど、やっぱ、「again」、いいですね。アニメキャラクターがこの曲を口ずさむシーンがところどころ挿入されていて、それがなかなかかっこよい。

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2009/05/25

5月30日実施予定、巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 今週末の30日土曜午後に、巡見「江戸を縦貫する」を実施する予定です。

 前回は、江戸城とその周辺のコースで、半蔵門→井伊家上屋敷→桜田門→二重橋前→大手門→本丸まで歩いたところで、豪雨にめげて巡見を中断しました。

 今回はその続きです。東京駅→丸の内ビジネス街→常盤橋→日銀・三井タワー→本町通り・大伝馬町→江戸橋広小路→魚河岸→日本橋、といった界隈を歩きながら、江戸町人地の「中心」であった日本橋地区の様子や、その後の変容、現在の町並みなどについて解説したいと思います。

 基本的には、各大学での私の担当授業の受講生・元受講生に声をかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方も遠慮なくいらっしゃってください。

 集合場所の詳細は各大学での授業の際に連絡します。元受講生や一般の方は私あてのメールにてお問い合わせください。今回が初参加の一般の方はそのメールに住所・氏名をお書き添えください。あて先のアドレスはこのブログのプロフィール頁で。

 集合:5月30日(土)14:00 JR東京駅
 所要時間:だいたい3時間。
 雨天決行

 なお、第3回は兜町・東京証券取引所や神田の繊維問屋街あたりを歩きます。各大学がおおむね夏休みに入った7月最終週あるいは8月第1週の平日午後に実施予定です。
 その後のスケジュールはまだ流動的ですが、11月23日(月・祝日)の午後に、吉原・山谷・浅草を歩きます。24日午前零時に始まる浅草酉の市の準備の様子も見学しましょう(希望者はそのまま夜の酉の市まで浅草滞在かな?)。(追記:あらら、そういえば24日は平日で、朝1限から授業だっけ。というわけで、私はおとなしく終電で帰るつもり。最近、オールのあとは2日くらいダメージが残る。歳には勝てないや。)

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2009/05/03

サモエド・スマイル

 うちにはオス・メス2頭の犬がいる。もとは保健所で処分されそうになった犬たちで、3年ほど前、犬猫救護のボランティア団体を介してうちにやって来た。

 そんな素性のワンコたちなので、てっきり雑種だと信じていた。飼ってみると、純血種のワンコも良いが、雑種犬というのは、一匹一匹が他にないその犬固有の顔・かたちをしていて、それはそれで良いなぁと思っていた。

 オスの方は、ともかく人懐っこくて、口を開けると口角がすこしあがって、ちょうど笑っているようにみえる。で、最近まで、これがこいつの個性的な表情なんだとばかり思っていた。

 ところが、ときどき、このオスを見た人が、「サモエドですか?」と尋ねてくることが重なり、気になってネットで検索してみた。「サモエドっていったい何なんだ?」と。すると・・・あらら、うちの奴と同じ顔のオンパレード。てっきり、この世にひとつだけの顔だと思ってたのになぁ。ちょっと残念な気もする。まあ、よく似た仲間がたくさんいるのもそれはそれで良いか。

 サモエド犬は、ロシア・シベリアが原産で、もともと狩猟やそり曳きに使役されていたらしい。またサモエド犬のうちの純白なのを小型化したのが、かつて大人気だったスピッツだそうだ。
 うちでも、サモエドって犬の種類を知らない頃は、うちの奴は、秋田犬とスピッツの混血に違いない、と冗談で話していた。

 で、このサモエド犬ってのは、子犬がけっこうな値段で取引されているらしい。そんな高い犬がどうして捨てられたんだろう?ちょっと調べると、日本では、サモエドは白い毛が喜ばれるらしい。うちの奴はけっこう薄茶色がかっている。それから、うちの奴の鼻はピンク色だが、鼻は黒の方が好まれるらしい。そんなこんなで売れ残って捨てられちゃったのかなぁ?まあ、本当のことはわからないけども。

 といった人間の思惑とはまったく関係なく、食いしん坊のうちの奴は、散歩の際も、散歩仲間の皆さんに愛嬌をふりまいてはおやつをもらい、楽しい毎日を過ごしているらしい。ただし、うちに帰ると、同居のメスに、完全に尻に敷かれてしまい、へいこらしてるけど。まあ、それもそれで彼は納得しているらしいがPhoto_2

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2009/04/27

巡見「江戸を縦貫する」の報告と次回の日程

 おととい25日に巡見をやりましたが、強い雨のため、江戸城本丸まで歩いたところで中断。コース後半に予定していた丸の内・日本橋はまた次回。
 というわけで、次回は例年より少し早めの日程で、来月、5月30日土曜の午後を予定しています。今回行けなかった丸の内と日本橋界隈を歩きましょう。最近話題になった中央郵便局も見に行きましょうか。それから、丸の内のビジネス街を少し見て回って、日本銀行・三井タワー・本町通り・江戸橋広小路・日本橋魚河岸・日本橋くらいかな。

 以下、25日の巡見の模様を簡単に。

 去る25日は、豪雨の中、巡見を決行しました。途中から合流した方も含めて、だいたい20人弱で歩きました。実際ひどい雨で、数人のこじんまりとした巡見になりそうだなぁと思ってましたから、予想外にたくさんの人が来てくださってうれしかったです。皆さん、足元はびしょ濡れだったと思います。お疲れ様でした。

 集合は地下鉄半蔵門駅。階段をのぼって地上へ出ると、強い雨脚と寒い風。まずは、半蔵門へ。門の内側の吹上地区のことやら、もともと江戸城の正面は、現・大手門側ではなく、こちらの甲州街道方向だったとする、江戸博の斉藤慎一氏の説などを紹介する。
 それから、堀にそった坂道を桜田方向へ下りながら、国立劇場・最高裁判所などを横目で見て、彦根藩井伊家の上屋敷跡へ。現在、屋敷跡には憲政記念館などが建っているが、戦前はここに参謀本部があった。すぐ脇に三宅坂という坂があるが、戦前「三宅坂」といえば参謀本部を指し、戦後しばらくたつと、今度はここに本部を構えた社会党のことを指したそうだ。また、最高裁のことも「三宅坂」と称するらしい。

 井伊家上屋敷跡を過ぎると警視庁。井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された現場はこのあたりだろうか、などと確かめながら桜田門へ。桜田門の次は、二重橋前。中国人の団体旅行者が多く、皆、めいめいのカメラで記念撮影をしている。めがね橋の外には丸の内警察署の警察官。橋の内側には皇宮警察の警察官。見比べてみたりする。ここから坂下門外を経て、大名小路を通り、大手門へ。

 大手門から入ると、各自一枚ずつの入園証。退園をしようとしていた修学旅行とおぼしき男子中学生一行のひとりがもらった入園証を無くしたらしく難儀している。休憩所で一休み。雨が強い。絵葉書や工芸品などの皇室グッズが販売されている。しばらく休んでいると、ロシア人とおぼしき団体旅行客で一杯に。

 休憩所を出て下乗門跡へ。登城した大名はここで駕籠から出て自分の足で歩き始めたわけだろうが、なんとなく、このあたりの石垣は、特に気合を入れて立派に積まれているように見える。殿様たちは、きっと、頭の中で自分の城の石垣と比べてみたに違いない。

 本丸御殿跡に着き、芝生の上を歩きながら、大広間や白書院、黒書院などの位置を確かめていく。老中の出勤ルートなども。それから中奥を通り、大奥へ。将軍の寝室と正室の寝室との近さに、あらためて感慨。

 天守台にのぼる。ますます雨強し。というわけで、ここで巡見は切り上げ。地下鉄の竹橋駅へ。最後に竹橋事件のことを少し話して解散。

 その後は、常連の方々や懐かしの方と共に新宿へ移動し、3軒ほどはしご。アイリッシュパブ→新潟地酒の居酒屋(美味しかった!)→ヴェネツィア風居酒屋。今年度は、池袋北口のチャイナタウンへも行きたいなぁと構想を練る。

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2009/04/20

巡見「江戸を縦貫する」のご案内・続報

 前の記事でご案内しましたとおり、今年度最初の巡見を、今週末の25日土曜午後に実施します。私が出講する各大学では今週の授業の際に、集合方法などをお知らせします。
 各大学での私の授業の受講生・元受講生を対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをご覧になった一般の方も歓迎します。一般の方の場合は、ご面倒ですが、このブログのプロフィール頁にあるアドレス宛に、氏名・住所を明記したメールを、前日夜までに送ってください。こちらからのご返信にて、集合方法などをご連絡いたします。元受講生の方は、氏名を明記したメールを送ってください。

 日時:4月25日(土) 13:30~
 行程:半蔵門→井伊家屋敷→桜田門→二重橋
     →江戸城本丸(東御苑)→丸の内ビジネス街
     →日本銀行→三井タワー→魚河岸→日本橋

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2009/04/13

2009年度第1回目・巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 本年度も、巡見「江戸を縦貫する」を始めます。今のところ、4月25日の土曜午後の予定です。

 江戸城本丸をスタートして、丸の内ビジネス街→日本橋金融街→神田浅草橋問屋街→山谷ドヤ街→吉原売春街までを、3回に分けて歩き通すこの巡見コースは、都市・江戸の一方の端からもう一方の端までを縦貫すると同時に、現代都市・東京の端から端までを縦貫するコースです。年度末には、番外編として、都内各所の都市再開発地域(六本木ヒルズだとか品川インターシティとか)を歩く予定です。また、外国人街としての歌舞伎町や新大久保へも、巡見各回の終了後の恒例“オプショナルツアー”としてちょくちょく足を向けるつもりです。
 こうした巡見の趣旨についてはぜひこちらの記事もご覧ください。

 基本的には、私が出講する各大学の受講生・元受講生の皆さんを対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方もどうぞ遠慮なくいらっしゃってください。

 さて、第1回目は、4月25日(土)の午後を予定しています。コースは、皇居二重橋前・江戸城本丸跡(東御苑)・丸の内ビジネス街・日本橋・三井旧本館と三井タワー・日本銀行などをめぐるコースです。
 詳しい案内は、近日中にこのブログに書きます。また、各大学の講義の際に、チラシなどを配布します。皆さん、ふるってお出ましくださいませ。

 

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2009/04/07

川上村の中国人「研修生」と農業経営はどうなっていくの?

 昨日の自分の記事を読みながら、ちょっと反省というか、再考。

 多数の中国人「研修生」を受け入れて、レタスや白菜を生産する長野県の川上村の事例をちょっとあげた。しかし、「小経営の時代の終焉」という連載のテーマからすると、これは矛盾してるなぁと。
 要するに、現状としての川上村は、外国人の「労働力」に依存することで小経営の維持に成功している事例ということになる。

 川上村の場合は、村内約600戸の農家のうちの3分の1強の農家が組合を作り、その組合が「研修生」の受け入れ事業をおこなっているそうだ。いわゆる集落営農的な傾向を強めつつある地域だと思う。「平均年収2550万円の農村」が村長のキャッチフレーズみたいだ。
 一方、そんな川上村で農作業に従事する中国人「研修生」の「時給」は、長野県の最低賃金669円を大きく下回る530円程度。まあ、農家の人たちも、たくさん儲かっている分、「研修生」にはもっと多くのお金を渡したいだろうが(?)、それができないのは、彼ら彼女らがあくまで「研修生」であって「労働者」ではないという制度の壁のせいもあるのかな。また、こうした「研修生」のなかには、このまま日本にとどまって働き続けることを希望する人も少なくないようだ。

 ともあれ、この先の川上村が、「農家」という小経営の単位を維持しつつ集落営農の方向へ進んでいくのか、あるいは、その途中で、法人経営の大農場へと移行していくのか、今後、興味深く追っかけていくことにしたい。
 あるいは、川上村以外の日本各地の農業における外国人「研修生」、あるいは外国人労働者の雇用(「研修」)形態はどのようなものなのだろう。最近は自動車関連工場から追い出された日系ブラジル人の人々を雇い入れた農業法人のニュースなども目にする。

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2009/04/06

近世の終焉としての現在 23 連載のおしまいに

 400年も続いた小経営の時代が終わることで、次はいったいどのような時代がやってくるのだろうか。もちろん、そんなことは誰にも分からない。まあ、誰にも分からないのをいいことにして、勝手な想像を書くことにしよう。

 現在、日本列島において「日本人」の数は減少傾向にある。遠い昔のことは知らないが、少なくとも17世紀以降でみれば初めての事態だろう。
 今回の連載記事では、農家や個人経営の商工業者といった小経営や擬似小経営的サラリーマンの衰退によって、結婚や子づくりが不必要化したことが人口減の最大の原因ではないかと書いた。ちゃんとした根拠は無いが、たぶんこれは当たっているだろう。

 さて、素人考えだと、「日本人」の減少によって、日本社会は移民社会へと変化していくことになると思う。ごくごく大雑把にいって、日本経済が人口減に合わせてどんどんダウンサイズしないかぎり、「日本人」の減少は移民の増加を必然化する。
 いやいや、産業の合理化やら、はてはロボット技術の進化(?)やらで、「日本人」労働力の減少はただちに移民増加には結びつかない、ということを主張する人もいる。政治的・文化的な障害もあるだろう。
 しかし、事実として、外国人労働者は増加し続けている。工場労働者や都市部のサービス産業の労働者以外にも、農業や老人介護の分野でも外国人労働者は欠かせない存在となりつつある。

 もし、現在の国策どおり、小経営の農家に代わって大規模経営の「農家」・「農園」が農業の担い手として増えるならば、農業における雇用労働力の需要も増加する。しかも、低賃金で季節的な期間限定の非正規雇用の労働力がもっぱら必要となるわけだ。
 日本一のレタス生産を誇る信州南佐久の川上村では、農家戸数約600戸に対して約600人の中国人「研修生」を受け入れていることが昨年の朝日新聞に掲載されていた。彼ら彼女らは、時給530円程度で年間7ヶ月ほど、レタスづくりと白菜づくりのかなりハードな「研修」をしていくそうだ。私たちが食べる“安心安全”の国産朝どりレタスやら北関東の朝づみイチゴやらには、中国などからやってくる彼ら彼女らの労働が不可欠らしい(※脚注参照)。こうした事例がどこまで日本農業全体に一般化できるのかは知らないが、もしかりに私が、無農薬・有機栽培が売り物の「小林農園」の経営者になったら、いかにして安い季節労働者を確保するかが、経営上の最大の懸案となるだろう。国内外のライバルに負けないために。
 また、小経営の崩壊は老人介護の構造を変えた。かつて、相続される小経営や擬似小経営の内部においては跡継ぎ夫婦が年老いた親たちを介護した。これが小経営の時代の老人介護であった。しかし、小経営・擬似小経営が無くなれば、老人の介護を担う「家」も無くなる。これにより、老人介護の分野でも雇用労働者は不可欠の存在となった。この分野も、今後、外国人労働者への依存が急速に強まることはほぼ確実であろう。

 2000年から2050年までの間で、日本の生産年齢人口(15~64歳)を現状で維持する場合には、延べで3千万人以上の移民が必要であるという国連の推計がある。たぶんかなりざっくりとした推計だろうし、実際に3千万人もの移民を日本社会が受け入れられるとは思えないが・・・さあ、どうだろう。
 かつて、自民党の一部の人が、人口の10%にあたる1000万人の移民受け入れ計画を発表した際、たちまち世間から大きな非難がよせられた。
 しかるに、2006年の数字だと、外国人労働者の数は合法的就労者が75万人で、これに不法就労者を加えて、およそ92万人とされている。おそらく今頃は100万人前後に達しているだろう。
 この先、少なくとも数十年間、「日本人」の生産年齢人口の超・激減はもはや確定した事態だし、もし日本経済が今より回復すれば、外国人労働者はたちまち数百万人規模へ増加するように思える。
 こうした事態は、日本社会の歴史において、まったく新しい時代がやってきたことを意味しているだろう。

 さて、小経営の時代が終わって、次に来る時代とは何か。それは、たぶん、資本と労働者の時代ではないだろうか。
 資本と労働者、それは、商工業・サービス業のみならず、第一次産業のうちのかなりの割合までをも包摂していく。ただし、そこにいる労働者の内実は、かつてイメージされていた均質的な近代労働者集団ではない。そのエスニシティーにおいて、そのジェンダーにおいて、働き方において、まったく相異なる多種多様な人々から成っている。そんな人々をくくる唯一の共通項が、労働者であること、だろう。あるいは、マルチチュード、という呼び名もすでに出されている。

 小経営の時代のあとは、資本と労働者の時代。こんなことを書いたりすると、年配の人たちからも、また、若い人たちからも、何を今さら、と鼻で笑われるような気もするが・・・。だけど、これから、本格的な資本と労働者の時代が始まるんだと思ってる。

 
 ※本文を読み返してみると、この川上村の事例は、ちょっと矛盾してますね。外国人「研修生」の「労働」に頼りながら、当面は小経営の維持が図られている事例であって、連載のテーマ「小経営の時代の終焉」とは逆の事態かも。ちょっと補足記事を書いてみました。こちらをご覧くださいな。

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