たけくらべの道
地下鉄三ノ輪駅出口から吉原まで歩いて15分ほどの道のりはなんの変哲もない市街地だが、樋口一葉の『たけくらべ』を片手に歩くとその印象はがらりと変わる。
『たけくらべ』は、ご存じのとおり、ほのかな恋心を互いに抱く美登利と信如、そしてその二人をとりまく子供たちの姿を描いた物語だが、その舞台となったのがこの界隈である。子供たちの世界をその周囲からじわじわ浸食して解体していく大人の世界。大人の世界の極は言うまでもなく吉原で、その吉原に依存して経済的に成り立っているのがこの界隈であった。そして美登利は将来吉原で遊女として働くことが約束された少女である。
「物いふ声の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したる」美登利は「子供中間の女王様」だったが、酉の市で町が賑わうなか彼女は初潮を迎え、ついに吉原で働く日が近づく。まだ子供の信如はとうてい美登利を救い出す存在たりえず、彼女は否応なく吉原にからめ捕られていくのである。
三ノ輪からの道を歩きながら吉原が次第に近づくと、そんな美登利の宿命の道をなぞっているような気がしてくる。
自分が『たけくらべ』を初めて読んだのは小学校だか中学校だかの頃で、現代語訳されたものだったと思う。全然面白くなかったのを覚えているけど、ガキの時分には理解できない世界だな。なかなか凄まじい内容だとあらてめて思う。
さて『たけくらべ』をテキストにこの界隈を歩く場合の必読文献を紹介します。前田愛さんの『都市空間のなかの文学』。ちくま学芸文庫から出ています。この本のなかの「子どもたちの時間」の章。前田さんは、物語の冒頭に出てくる千束神社の夏祭をムラのマツリととらえ、一方でクライマックスの酉の市をマチのマツリと位置づける。そして、村落社会が解体し近代東京の市街地へと移りゆくこの界隈の都市化の状況と、子供たちが「金銭がつくりだすこうした非情な関係」に入りこんでいく状況とを、この二つの祭の間の落差が二重に象徴していると指摘する(ホント、するどいなぁ)。
今回の巡見当日は、ちょうど11月の二の酉前日。次回は酉の市の様子を報告します。
2005年1月9日追記:この記事中、「酉の市で町が賑わうなか彼女は初潮を迎え」と何気なく書いてしまいましたが、この件については有名な論争があったんですね。我が身の無知が恥ずかしい。なんでも、初潮ではなくて、初めて美登利が吉原で客をとらされた、って解釈が示され、従来信じられてきた「初潮」説との間で論争が繰り広げられています。いまだに決着していないとのこと。ネットで検索すると、反「初潮」説、つまり初めて客をとらされたっていう説とその根拠を示す文章が結構たくさんみつかりました。個人的には、初めて客をとらされたって説にはやや無理があるような気もしますが。「たけくらべ」を読んだ皆さんはどうお感じでしょうか?
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