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2004/12/31

ミスチル

レコード大賞、やっぱMr.Childrenだぜい。うれしいな。
受賞曲Signはすごくいい曲。テレビで聴きながらこれ書いてます。おめでとう。
歌ってる映像にテロップがかぶるのは時間が押したせいか。まったく。
さてと、風呂入ってあたたまってからシフクノオトのDVDでも見ながら年越ししよう。

ただ、同じミスチルでも昨日からはタガタメが何度も頭の中で鳴る。
奈良の小学生の女の子の事件で犯人が捕まったニュースきいてから。
やりきれない事件だったなぁ。
「子供らを被害者に加害者にもせずに、この街で暮らすため、まず何をすべきだろう。」

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レコード大賞

今年は久しぶりにレコード大賞みてます。最優秀新人賞は応援してた大塚愛ちゃんが受賞して万歳!!
あとはMr.Childrenが大賞獲ってくれれば言うことなしなんだけどなぁ。

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2004/12/30

巡見~江戸を縦貫する2 たけくらべの道

 たけくらべの道

 地下鉄三ノ輪駅出口から吉原まで歩いて15分ほどの道のりはなんの変哲もない市街地だが、樋口一葉の『たけくらべ』を片手に歩くとその印象はがらりと変わる。

 『たけくらべ』は、ご存じのとおり、ほのかな恋心を互いに抱く美登利と信如、そしてその二人をとりまく子供たちの姿を描いた物語だが、その舞台となったのがこの界隈である。子供たちの世界をその周囲からじわじわ浸食して解体していく大人の世界。大人の世界の極は言うまでもなく吉原で、その吉原に依存して経済的に成り立っているのがこの界隈であった。そして美登利は将来吉原で遊女として働くことが約束された少女である。
 「物いふ声の細く清しき、人を見る目の愛敬あふれて、身のこなしの活々したる」美登利は「子供中間の女王様」だったが、酉の市で町が賑わうなか彼女は初潮を迎え、ついに吉原で働く日が近づく。まだ子供の信如はとうてい美登利を救い出す存在たりえず、彼女は否応なく吉原にからめ捕られていくのである。

 三ノ輪からの道を歩きながら吉原が次第に近づくと、そんな美登利の宿命の道をなぞっているような気がしてくる。

 自分が『たけくらべ』を初めて読んだのは小学校だか中学校だかの頃で、現代語訳されたものだったと思う。全然面白くなかったのを覚えているけど、ガキの時分には理解できない世界だな。なかなか凄まじい内容だとあらてめて思う。

 さて『たけくらべ』をテキストにこの界隈を歩く場合の必読文献を紹介します。前田愛さんの『都市空間のなかの文学』。ちくま学芸文庫から出ています。この本のなかの「子どもたちの時間」の章。前田さんは、物語の冒頭に出てくる千束神社の夏祭をムラのマツリととらえ、一方でクライマックスの酉の市をマチのマツリと位置づける。そして、村落社会が解体し近代東京の市街地へと移りゆくこの界隈の都市化の状況と、子供たちが「金銭がつくりだすこうした非情な関係」に入りこんでいく状況とを、この二つの祭の間の落差が二重に象徴していると指摘する(ホント、するどいなぁ)。

今回の巡見当日は、ちょうど11月の二の酉前日。次回は酉の市の様子を報告します。

2005年1月9日追記:この記事中、「酉の市で町が賑わうなか彼女は初潮を迎え」と何気なく書いてしまいましたが、この件については有名な論争があったんですね。我が身の無知が恥ずかしい。なんでも、初潮ではなくて、初めて美登利が吉原で客をとらされた、って解釈が示され、従来信じられてきた「初潮」説との間で論争が繰り広げられています。いまだに決着していないとのこと。ネットで検索すると、反「初潮」説、つまり初めて客をとらされたっていう説とその根拠を示す文章が結構たくさんみつかりました。個人的には、初めて客をとらされたって説にはやや無理があるような気もしますが。「たけくらべ」を読んだ皆さんはどうお感じでしょうか?

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2004/12/28

巡見~江戸を縦貫する1 投げ込み寺

 「浄閑寺の骨壺」
 
 巡見のスタートは三ノ輪の浄閑寺。亡くなった吉原の遊女の投げ込み寺として名高い。

 11月のとある日。午後2時、地下鉄日比谷線の三ノ輪駅の3番出口の改札外に集合。駅前の大きな交差点からみてちょうど駅出口の裏手すぐのところに浄閑寺はある。本堂などの建物はおそらく戦後に建て直されたもので、門をくぐって入った境内の風景は意外に明るい印象。でも本堂脇の入り口から進むと、やはり暗く寂しい墓地の光景。
 遊女屋らしき屋号が刻まれた墓石には女性の戒名がならび、またそれに混じって、幼児のものとおぼしき戒名も。水子のものなんだろうか?ここには何度もきたが、いつも身が引き締まる気がする。

 浄閑寺は明暦元(1655)年開基と伝えられる。明暦3(1657)年の明暦大火後、日本橋葭町(葭原)にあった遊郭が浅草に移転して新吉原となる(ただし移転計画は大火前から)。新吉原の遊女のうち無縁で没した者の多くはこの浄閑寺ほか2ヶ寺に埋葬された。浄閑寺には寛保3(1743)年以降の過去帳が残されているという。同寺に埋葬された遊女は、推定で2万5千人にのぼる。安政2(1855)年の大地震で亡くなった遊女のうち約千人の遺骨が一つの穴に投げ込まれるように葬られたことから、投げ込み寺と称されるようになったといわれる。
参考文献:三の輪町史編さん会編『三の輪町史』(1968年)

 さて、無縁仏となった遊女の供養塔は本堂の裏手にある。先ほどみた遊女屋が建てたらしい墓に眠る遊女たちは、こうして無縁仏として供養塔に葬られた遊女とくらべると、まだしあわせなのかもしれない。まあ、死んでしまえば同じかな。

 供養塔の側壁にある小さな窓から内部をのぞく。薄暗い通路が地下へ続いているようだ。その通路の脇にしつらえられた棚には、骨壺らしき瀬戸物の壺がたくさん並んでいる。薄暗い穴の中にぼんやりと浮かぶたくさんの壺の肌の白さが脳裏に焼き付いてしまった。間違いなく一生忘れられない光景だ。

 墓守をしているおじいさんの手がすいているようなら、ぜひ案内を乞うてみると良いだろう。名高い遊女や、心中して隣り合わせに葬られた遊女と客の墓などをみせてくれると思う。

 浄閑寺をあとにして、次はちょうど酉の市でにぎわう鷲神社へ。『たけくらべ』の町です。

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巡見~江戸を縦貫する 序章

 先月末と今月、私の講義を忍耐強く聴いてくれている学生さんたちをお誘いして、東京の町あるきに出かけた。
 町あるきのタイトルは、「江戸を縦貫する」。そのスタート地点は、吉原(かつての遊郭、今はソープランド街)の裏手、少し離れた所にあって、亡くなった遊女たちの“投げ込み寺”として名高い三ノ輪の浄閑寺。ゴール地点は、江戸城本丸(現在は東御苑という名前の公園として公開されている)の天守閣跡。
 途中、吉原、山谷、旧浅草新町、浅草寺、浅草橋や神田の問屋街、日本橋周辺(三井本館や日本銀行など)、丸の内オフィス街その他を見て回るコース。もちろん、一日で全行程を踏破するのはつらい。浅草橋を中間点として前半と後半に分け、別々の日にそれぞれ4~5時間かけて歩いた。
 
 東京という巨大な都市社会を串刺しに貫こうとする場合、色んな方向に串を刺すことができると思うが、そのひとつが今回の巡見コース。こうした串刺しコースをずっと歩き通してみることで、都市社会の厚みが体感できるように思える。特に今回のコースは、近代・現代の東京の社会空間構造に対する近世江戸の社会空間構造の強い影響を確かめることもできる内容だろう。

 今日から何回かに分けて巡見の様子を報告してみよう。

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はじめました

今すぐ簡単にはじめられるよ、という声に励まされつつ。以後よろしく。

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