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2005/01/30

読書ノート1~阿部和重『シンセミア』

阿部和重

最近、とあるところで知り合って仲良くしてもらってる友に、その友と同郷の阿部和重という小説家が面白そうだと教えてもらった。阿部和重は近作『グランド・フィナーレ』が芥川賞を受賞したから、名前を知ってる人も多いのかな。

阿部は、自分の出身地、山形県にある神町という実在の小さな町を舞台にして、いくつか作品を書いている。芥川賞を獲った『グランド・フィナーレ』もそのひとつ。ディープなロリコンであることがばれて妻と娘に去られた男が、故郷の神町に帰る。そこで出会った二人の小学生の女の子と親しくなって・・・というお話。


歴史小説『シンセミア』

さて、今回読んだ『シンセミア』は、その神町という町を舞台に、というより、神町の社会そのものを主人公にした小説である。歴史小説と呼ぶのがふさわしいかもしれない。神町には戦後アメリカ占領軍の基地ができる。この占領軍との関係を梃子にして町の実力者にのしあがったグループがあった。こうして彼らが作り上げた町の社会・権力構造は、今、まさに崩壊しようとしている。産廃処理施設をめぐる抗争、盗撮組織の暗躍、売春、淫行、ドラッグなどなどがグルグルと渦を巻いて、町の旧来の秩序を崩していく。

上・下2冊、1600枚の長編全体にわたって、おおよそ救いがたいエピソードがえんえんと積み重ねられていく。唯一美しいのは、ノアの箱舟の話を念頭にして書かれた、町を襲う大洪水の話で、雨があがったあと、盗撮グループを抜けようとしているパン屋の若旦那が妻を追って山に登ったときの情景である。雲間から差す陽光の帯のごとく、希望の光が物語にも差し込むかと思われる。だが、結局、夫婦は新世界の存在を確かに告げてくれるはずの鳥を見つけることができない。

戦後史

若旦那のパン屋の戦後史が、この小説のひとつの軸である。占領軍の基地に出入りし、また、アメリカの占領政策ともうまく結びついて大きくなっていったパン屋は、一方で、町の政治やヤクザの世界と裏でつながる。こうして町のボスのひとりとなったパン屋の初代と二代目。若旦那はそうした家の宿命から逃れようともがく三代目である。

この小さな町の話を、ぐうっと拡大して戦後日本社会全体のあり方にあてはめることは容易である。また、山形以外のどこか別の地方都市にだぶらせることもできる。この本が語る神町フォークロアは戦後日本において相当に普遍的なフォークロアである。

さて、本を読み終えて得られるのは、感動やら爽快感やらとはかけ離れた、グッタリするような読後感であり、「こんな小説は嫌いだ。」と文句言う人も多いだろうが、そうした読後感とは無関係に、また本人の意思とも関係なく、読み終わった人の意識の深いところに必ず決定的な何かを残す小説だと思う。

阿部和重『シンセミア』上・下(朝日新聞社2003)

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巡見~江戸を縦貫する7 山谷って聞いたことある?

受け持っているいくつかの講義で大学生諸君に尋ねてみた。「山谷って知ってる?聞いたことある?」 誰も知らなかった。もちろん、知ってたけど黙ってた、という人がいるかもしれないけど。


山谷の風景

さて、巡見一行は遊郭吉原をあとにして山谷へ向かう。
最初はアーケードがしつらえられた商店街。その商店街を抜けると、立ち飲みの居酒屋さん。まだ営業時間ではないらしいが、その前の路上に車座になって座り込み、酒をあおっているおじさんたち。「こんにちは。」と声をかける。向こうも愛想良く返事を返してくれる。車座を通り過ぎたあたりで「福祉の人たちだね。」ってしゃべり声が背後から聞こえる。我々は、山谷の困っている人を援助する学生ボランティアの一行に見えたらしい。

泪橋交差点の近くまで行ってから、折り返すようなかたちで玉姫神社の方へ進む。周囲は簡易宿泊所や安い「ビジネス」旅館が密集している。山谷というところは、日雇い労働者たちの宿・やど=ドヤの集まる地域、ドヤ街だ。

学生のひとりが、「ここは日本じゃないみたいですね。どっかアジアの別の国みたいです。」と率直な感想をはいている。このせりふにみえる日本観・アジア観の問題はさておき、周囲の町なみや道端で座り込んでいるおじさんたちを眺めながら、これもひとつの典型的な日本の風景だと感じる自分と、その学生とを比較して、隔世の感ってのはこういうことなのかな、とも思う。

山谷について勉強したい人には、西澤晃彦さんという社会学者の方が書いた『隠蔽された外部-都市下層のエスノグラフィー』(彩流社1995)という本がおすすめできる。もともと多様な都市下層の結節点であった山谷が、その姿を変え、男性の単身日雇い労働者の街へと純化させられた過程を明らかにしている。

次回はこの西澤さんの本から、山谷の純化の過程について紹介する。


「都市へのまなざし―淫らな好奇心」  (西澤書2000より)

ところで、我々巡見一行が車座で酒を飲むおじさんたちの前を歩いていると、向こうから40人くらいの学生の一行が整然と列を組んで歩いてきた。引率している教員らしい複数の男が、ボディーガードみたいにして列の一番前と一番後ろ、あるいは列の横に配置されている。車座のおじさんたちはこの一行にも声をかけた。列を組んでいる学生のうちのひとりが「こんちわっす。」とおどけた感じであいさつを返していた。が、教員らしい男たちは口もきかずにずんずん進んでいく。

「サファリパークでもあるまいに。」と思う。いくらなんでも無作法だと思う。今回、吉原・山谷あたりの巡見については参加者をなるべく少人数にしたくて、日程を11月と12月の2回設定し人数を振り分けた。やっぱり大人数で行列作って練り歩くのは避けたかった。サファリツアー化しないよう、それなりに配慮したつもりである。
しかし、その大学生ご一行に出くわして感じた嫌悪感には、鏡にうつる自分をみてしまったことによる自己嫌悪がかなり混じっていたんだろう。

西澤書2000:町村敬志・西澤晃彦『都市の社会学 社会がかたちをあらわすとき』(有斐閣2000)33頁


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2005/01/29

笹塚のイタリア料理店サルサズッカ

2008.8.6.付記
 現在、サルサズッカの元シェフの小川洋行さんは、かつて修業されていた大宮のリストランテ・ベネチアへ戻られて、そこのシェフをつとめていらっしゃいます。小川さんの料理がまた食べたいって方は、大宮までお越し下さい。大宮ベネチアについては、こちらの記事をごらんくださいませ。

(ここから元のサルサズッカに関する記事2005.1.29.付です。)

今サルサズッカにいますって前の記事は、笹塚のイタリア料理店サルサズッカの店内で、お店の人にブログ始めることをすすめながら、お店のPC借りて書きました。こんなに簡単だからぜひぜひって感じで。

さて、サルサズッカは美味しいですよ。兄弟が中心のお店で、お兄さんがシェフ。弟さんがホール担当。
弟さんはイタリアでソムリエ資格をとってます。すごーい。

リストのワインも面白いものが揃ってますが、弟さんにお任せして、料理に合わせグラスワインをいろいろ出してもらうのも楽しいですよ。ぜひ食前・食後酒についてもお任せで。

料理は素晴らしい。材料もホントに良いもの使ってます。別に派手派手しいブランド食材が並ぶわけではないけど、ベーシックが充実してます。たとえて言うなら、普段から美味しいお米食べてない時は、たまに美味しいお米食べてもその良さが今ひとつピンとこなかったりする。でも、普段、美味しいお米食べ続けてると、たまに美味しくないお米食べるとその違いが分かったりしますよね。分かる人なら、誰しもがここのお店の食材の水準にまず安心し、それから感心するでしょう。もしそれがピンとこなくても、普段サルサズッカで食べつけていて、時折、他店で食べる機会があったりすると、あらてめてここのお店の美味しさがわかるかもしれません。

似非高級店のハリボテ料理に白々しさや嘘っぽさを感じて欲求不満になってる人は、サルサズッカを一度試してみてください。プリフィックスのコース料理が2900円。腰のすわった美味しい料理が出てきます。この値段なのにこんな料理が食べられるなんて、という誉め方はあまりしたくありません。コストパフォーマンスの加点を無しにしても、サルサズッカの料理は東京のイタリア料理店として一流レベルにあります。

ただし、小さな厨房でシェフと助手って感じで作ってますから、混み合う時は料理がなかなか出てこなかったりも。ネットでこのお店の評判を読んでると、時々、料理が出るのが遅すぎって文句を目にします。
僕は美味しい料理が出るのを待つのは何十分でも全然苦にならないので構わないんですが、それが我慢できないって人のとるべき道はふたつ。曜日や時間帯を選んでお店が空いている時に行く。あるいは、サルサズッカで美味しい料理を食べることはあきらめて、どっかの大きなお店で、その店の広い厨房のための家賃とたくさんのコックさんの人件費を応分に負担しながら順調な料理の進行を楽しむ。

それはともかく、このお店の特徴のひとつは、弟さんがイタリアにいらっしゃった頃に働いていたマルケ地方の料理やワインの美味しさです。以前記事に書いたポタッキオもそのひとつ。マルケの美味しい白ワインとポタッキオの取り合わせがおすすめ。

最後に、もうひとつ、このお店へ行く時の楽しみをあげると、笹塚の駅からお店までの道のりがとても良い。駅から甲州街道を越えると、そこは十号通りという名の商店街。活気にあふれた良い町です。仕事がら、この商店街の歴史には興味津々。

2005.11.11.付記
 サルサズッカの小川シェフは退店されたそうです。弟さんもいずれいらっしゃらなくなるのかな。このあと、このお店がどのようなスタッフで再出発するのか知りませんが、この記事に紹介した状態のサルサズッカはもうありません。
2006.2.1.付記
 小川シェフが退店後しばらくしてから、サルサズッカへ2回ほど行きました。弟さんは健在。新しいシェフの相馬さんは、日本人の口に合う料理がきっちりできる上に、今はイタリアの伝統的な料理の研究にも熱心。2900円で素晴らしいコース料理が楽しめます。自信をもっておすすめのサルサズッカです。

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2005/01/28

今、サルサズッカにいます

今、笹塚のサルサズッカで食べています。
詳細は後ほど。

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2005/01/23

菜の花スパゲッティの工夫

美味しい菜の花スパゲッティを作ろう!

 料理の写真は、こちらの記事に。

 今年もスーパーなどで菜の花をよくみかける時期になりました。
それ見ると菜の花スパゲッティ作りたくてたまらなくなります。大好物。
作り方は簡単で、

1 まず大きめの鍋に水を入れて湧かし始める。

2 フライパンにオリーブオイルを入れて、そこにたたいてつぶしたニンニクと唐辛子を加え、弱火にかける。

3 菜の花はよく洗う。アブラムシがたくさんついていることもあるから。で、3センチくらいの長さに切る。根元寄りの方と葉っぱの方とを分けておく(火の通りがちがうから)。

4 フライパンのニンニクの色がかるく茶色になりかけてたら取り出す。唐辛子も。

5 そろそろ鍋の湯が沸騰。鍋に塩を入れる。塩はたくさん入れる。水1Lあたり塩10gが標準とのこと。もちろん個人の好みの差もあるし、ソースやパスタの種類によっても違う。時々お湯を飲んで塩加減をみることで自分なりの基準を記憶しておくと便利。

6 切り分けておいた菜の花の根元寄りの方を先に鍋に入れる。これでお湯の温度がいったん下がる。少し待って再沸騰してからスパゲッティを入れる。スパゲッティはぜひ細めのものを。

7 ゆであがりの2分くらい前に、スパゲッティのゆで汁を少しフライパンに入れる。フライパンをゆすったり箸で混ぜたりして、オイルとゆで汁をよくなじませる。ドレッシングを作る要領。火は弱火。

8 鍋に菜の花の葉っぱの方を入れる。

9 スパゲッティがゆであがったら鍋からあげる。今回は菜の花と麺とを一緒にゆでてるから、一気にゆで汁ごとザルにあけて湯切りするのが楽。

10 湯切りした麺と菜の花とを、火をとめたフライパンに入れてオイルとよくからめて出来上がり。皿に盛る。

 菜の花のスパゲッティは最近あまり珍しくないけど、上のレシピの特徴は、菜の花のゆで時間が長いこと。よく料理本とかで紹介されるゆで方は、麺がゆであがる直前に菜の花を入れて、歯ごたえや苦さを楽しみましょうというもの。
 まあそれも美味しいけど、その場合は麺と菜の花のからみ方がいまいち。菜の花が煮くずれるくらいで麺とよくからむ。菜の花の緑色が溶け出たゆで汁で麺をゆでた方が、麺にしっかりと風味が移るという話も。
 
 それでも、自分はやっぱり軽くさっとゆでた菜の花の歯ごたえが欲しいって人は、麺と一緒に長い時間ゆでる菜の花とは別に、麺がゆであがる直前に適量の菜の花を追加投入する手もある。で、さっとゆでたその菜の花は、麺がゆであがる前に鍋から取り出し、スパゲッティを皿に盛ったあとからトッピングすれば見た目もきれいかな。

2005.2.3.追記 菜の花スパにもうひと味
アルポルトの片岡シェフの本『パスタ歳時記』(講談社1995)には、菜の花パスタには味のバランスからいってタンパク質を足すのがよいとあります。さすがプロ。片岡さんは、生ハム、鯛、からすみ、アサリを紹介してます。美味しそう。生ハムとアサリは実際試しました。ばっちり。あと私がよく使うもうひとつオーソドックスな材料は、アンチョビー。フライパンにニンニク・唐辛子を入れたすぐ後にアンチョビーをいれるといいと思います。フィレでもペーストでも。ただし、アンチョビーを使う場合は、スパゲッティと菜の花を茹でるお湯の塩分を薄くする必要があります。

 

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巡見~江戸を縦貫する6 吉原からの帰り道

五十間道のS字カーブ

 遊郭吉原の正面玄関は吉原大門。その大門から土手通りと呼ばれる表通りまでは100メートル弱離れている。こうして外界からしっかり隔離された吉原と表通りとをつなぐ一本の道の名が五十間道。この道は直線ではなくて、S字につくられている。なんでも、土手通りに将軍の御成があった時に吉原の内が見えないようにするためのカーブだという説がある。ホントかなぁ。

 まあ、道の設計者の意図はともかく、このカーブは実際いろいろ便利だと思う。お客にしてみると、例えば吉原の帰り、もしこの道が直線であったなら、大門を出て土手通りまでの間をニヤニヤしながら歩く自分の姿が、表通りを行き来する人に始終ずっと晒され続けちゃう。このカーブがちょうどよい緩衝。
 もうひとつの利点。大事なお客がお帰りの場合、遊女はこの大門まで一緒に行って見送ったという。もしその先の道が直線なら、お客が表の土手通りに辿り着きそこで曲がって姿が見えなくなるまでのかなり長い時間、見送る遊女は大門のところに頑張って立っていなくちゃならない。去りゆく客がいつ振り返って手を振るかわかんないもんね。そんときにアクビとかしてちゃまずいしね。土手通りに出たところの大きな柳の木は、その名も見返り柳。実際は、カーブがあるおかげで、大門を出てちょっと行けば客も遊女も互いの姿が見えなくなる。お見送りにはこれくらいがちょうどいい加減でしょう。

 現在、五十間道のS字カーブはそのまま残る。土手通りに出たところ、右手のガソリンスタンドの前、かつて見返り柳があったところには柳の若木が植えられている。

 巡見の一行は土手通りを横断してから通りを少し北西に進み、右の商店街に入る。これから山谷地区へ向かう。次回の記事は山谷地区の戦後について概説の予定。

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2005/01/20

巡見~江戸を縦貫する5 吉原の通り抜け後編

酉の市の準備で賑やかな鷲(おおとり)神社を後にして吉原へ向かう。

吉原弁財天
 まず吉原のすぐ裏手にある吉原弁財天へ。歩いて三分足らず。ここには関東大震災で亡くなった遊女の供養塔がある。この供養塔は不思議なかたちをしている。弁財天の像が据えられた塔はおおよそ厳かなたたずまいといったものではなく、まるで大きな岩が溶けかかって崩れたようなかたちをしており、むしろ不気味さを感じる。たしか小さな池もあったような気がする。そのせいか、この場所はいつも蚊が多い。今回は11月下旬だというのに、やっぱりたくさん蚊がたかってきた。ここにいるといつも落ち着かない気分になる。
 すぐ目の前はNTTの敷地だが、そのなかにかつて吉原公園内の池があったようである。関東大震災の時、火に追われた遊女たちがこの池の水に救いを求めて殺到し、490人が池を埋めつくすようにして亡くなった。その凄惨な状況を撮った写真も残されている。
 この供養塔の前で地図や資料を広げて学生さんたちに吉原の歴史を簡単に説明し、NTTの敷地の裏手へと進む。江戸時代であれば、この付近は吉原の裏手だが、現在は国際通りから吉原へ入っていく道筋にあたっていて、吉原へと向かう車の通行が多い。出勤してくる女性たちを乗せたタクシーが何台もこの弁財天の前を行き過ぎていく。

遊郭吉原
 遊郭吉原の全体は長方形をしている。長方形の長い辺が400メートル弱で、短い辺がおよそ300メートルである。この長方形の中央を貫通するかたちの全長300メートルのメインストリートが仲の町通りである。このメインストリートを進むと左右にそれぞれ奥行き200メートルの横丁が何本かある。
 私たち巡見の一行は、遊郭の外側からそうした横丁の1本に入って、吉原の中心へと向かう。この横丁はかつて揚屋町通りと呼ばれた道だ。そう、酉の市の日、『たけくらべ』の美登利が髪を初めて島田に結って廓内へと入っていった道。
 道の両側にはソープランドが並ぶ。まだ陽も高く、客の姿はほとんどない。店の前には呼び込みの従業員がすでに立っているところもあるが、多くはまだ準備中といった風情で玄関のドアも開け放してある。ドアの奥には受付のカウンターがあり、壁には在籍女性の写真が並ぶパネル。我々が歩く道路には、ピカピカに磨かれた白や黒の大型高級国産車がたくさん駐車してある。これらの車は、三ノ輪や浅草あるいは鶯谷といった最寄り駅との間で客を送迎するためのものだ。高級店ならではのサービスだと聞く。
 メインストリートに到達する。ここで左に折れてメインストリートを進み、かつて吉原遊郭の正面玄関であった大門の跡地まで行く。このメインストリートの両側も多くはソープランドだ。大門跡の脇にある派出所前で一休み。この派出所は、以前はもっと吉原の中心に位置していたように記憶しているが、あまり自信のない記憶である。
近くの寮から集団で徒歩通勤している女性たちを横目でみながら、学生さんたちに再び解説をする。

ソープランドの間口
 今回歩いてみて気づいたのは、メインストリートに面した店の多くは間口が狭いのに対して、横丁の店の方は間口が広いということである。こうした違いがあるのはなぜか?
 かつてメインストリートには、引手茶屋と呼ばれ、客と遊女屋との仲介をする店がずらりと並んでいた。一方、遊女屋はメインストリートではなく、横丁に面して営業していた。江戸時代の吉原の地図や近代以降の写真などをみると、引手茶屋の間口は狭い。この引手茶屋の間口割が、現在メインストリート沿いにあるソープランドの間口の狭さにつながっているように思える。できることならこの仮説をちゃんと検証してみたいものだ。

吉原の歴史研究について思うこと
 今から100年後、吉原の歴史について調べようとしたとき、20世紀後半から現在にかけての吉原については、ほとんど何も分からなくなっているのではないだろうか。江戸時代から戦前にかけての吉原の方が史料も豊富でよく分かるという状況が生じるのはほぼ確実だろう。江戸時代や戦前の吉原について興味を持って学術研究する人のほとんどは、なぜか現在の吉原についてまるで関心を欠いているようにみえる。これは私にとってとても不可解なことだ。そのような無関心はさておき、現在の吉原についてきちんとした資料を残すことはやはり重要である。社会学の分野などでは調査活動が行われているのだろうか?自分でやらなきゃいけないかなぁ。

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2005/01/17

ミスチル栄養ドリンク

多くの人が「自分で自分を元気づけてやらなきゃいけないな。」という時の儀式やらおまじないやらを持っていると思う。ユンケルぐいっとあおって、「さあやるぞ!」(←いったい何をやるの?)という人もいるでしょう。私の場合は、ちょっと仕事に出るのが億劫だったりすると、ミスチル聴いて元気出したりすることも多いかな。

まず「PADDLE」を聴いてから次に「蘇生」。これは強力カンフル剤って感じ。
あと、アルバム・ディスカバリーの最後の方、「ラララ」・「終わりなき旅」・「IMAGE」って組み合わせも結構効く。
「ALIVE」も意外と元気になる(というか開き直れるっていうか)。

今日はこれから非常勤講師やってる川村学園女子大の行事で、浅草へ行って新春歌舞伎鑑賞。もちろんまったく億劫じゃないので、ミスチルの力を借りなくても勇んで出かけるけど・・・・何か1曲聴いて家を出よう。何にしようかな。

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2005/01/10

「たけくらべ」論争について

  2011.4.10.たけくらべ論争についての最新記事はこちらをクリック


先日書いた記事、江戸を縦貫する2~たけくらべの道に関連して、今回は「たけくらべ」の最終場面における美登利の変貌の原因について少し思うところを書いてみたい。この変貌原因をめぐっては論争がある。

それまで、お転婆で愛らしく活発な少女だった美登利が、突然その元気を失う理由について、従来、学界で定説とされていたのは、美登利が初潮をむかえたから、という説明だった。それに対して、初潮程度であの美登利が変貌するわけはないだろう、変貌の理由は、美登利が初めて客をとって処女でなくなったからだ、という説が出された。変貌した美登利の描写の一部に、「たけくらべ」においてしばしばあらわれる源氏物語の見立てがやはり組み込まれていて、それは若紫が光源氏によって処女を奪われた直後の描写に照応しているという指摘も、美登利の処女喪失=初店説の有力な根拠となっている。

しかし、「たけくらべ」を読む限りにおいて、初店説に対して私は違和感を感じる。その一番の理由は、漠然としているのだが、美登利が初めて客をとったのだとすれば、そういう事実を読者が感じられるような叙述がもっとなされてもよいと思える。むろん、これだと、単なる個人的印象の域を出ない。でも、それが一番の理由である。

それ以外にも理由がある。変貌の日以降の毎日を、美登利は吉原の郭内ではなく、廓外の親元(母親の住み込みの職場でもある)で生活している。初店説を採るとすると、美登利は初めての客をとったその日から遊女としての生活を開始したはずである(一日限り遊女の真似事をさせられて、そのあと放っておかれている、というのは不自然な話だと思う)。遊女生活を始めた美登利は廓内へ移らなくてはいけない。それとも、当時、廓外からの通いの遊女って形態がありえたのだろうか?(たぶん無いのでは?) 「たけくらべ」を読むと、その頃、美登利が遊女屋である大黒屋に行くのは、そこで遊女をしている姉に「用ある折」だけだ。つまり美登利が遊女として働きはじめた痕跡がまったくみあたらない。というか、遊女としての生活がまだスタートしていないのはほぼ明らかではないだろうか。

しかし、初潮を迎えた美登利は、自分が遊女となる日のくるのを現実のものとして感じ始めたのだろう。あるいは、すでに指摘があるようだが、初潮があったことをきっかけに、この日、美登利の遊女デビューについて大黒屋との間で契約が成立し、その日程も具体的にかたまったのかもしれない。さらに想像をたくましくすれば、大黒屋の得意客のなかの裕福で遊び慣れたオジサンたち(「銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小さま」たち?)の誰が美登利を“水揚げ”するのか決まっているのかもしれない。

初店説の論拠のひとつとして紹介した源氏の見立ての問題も、すでに客をとった後の美登利にではなく、遊女となって客と寝る自分の姿が、目の前にせまった現実として思い描けるようになってしまった美登利に対して用いられた、と解釈することは可能だろう。

にわかに迫った遊女デビューの日(そして、その日からは程遠くないであろう金銭づくの処女喪失の日)までの残された日数を数えながら、美登利は「何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事ばかりしてゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このように年をば取る、もう七月十月、一年も以前へ帰りたいに」と嘆いているのだろう。
美登利がもしすでに客をとっているのなら、ここはこうした“駄々”ではなくて、もう少し開き直った、諦念めいた思いを吐くのではないだろうか。

それはそうと、歴史研究者としての自分にもどると、吉原の遊女に関する歴史研究はほとんど手つかずのように思える。主に遊客の視点に立った風俗研究は多い。また最近になって遊女屋を主な分析対象とした研究がいくつか出されるようになった。しかし、吉原の遊女を対象とした研究、遊女の視点に立った研究はあまりなされていないように感じられる。史料的な困難があるのは当然のことだろうが、遊女の存在形態などについての研究成果が蓄積されれば、歴史学の分野から「たけくらべ」論争に対しても何らかの有益な見解を示すことができるように思える。

(なおこの記事は、ピッピさんのブログ「お江戸日和。」を読ませていただいたことをきっかけに、「たけくらべ」のことをもっとちゃんと読み込まなきゃ、と感じて書いたものです。)

2007.8.28.付記:最近、美登利の変貌は初検査を受けたことによるという説をご紹介いただき、それについて、検証してみました。結果、初検査説は成り立たない、という見解にいたりましたが。興味のある方は、こちらの記事を
2009.6.24.付記:さらにその続編記事を書きました。興味のある方はこちらの記事へも


2010年5月21日付記
たけくらべ論争に対する私見のまとめ

 このブログのアクセス解析というのをやってみると、相変わらず一番よく読まれている記事は、たけくらべ論争について書いた一連の記事である。
 ちなみに、その次に読まれているのは、明太子スパゲッティの作り方を紹介した記事である。試しにグーグルで「明太子スパゲッティ」と入力して検索すると、有名な料理レシピサイトや企業運営のサイトを抑えて、このブログ記事が堂々の第2位や第3位に出てくる。こんなへっぽこブログの記事がなんでそんな上位にランキングされるのか、理由はまったく不明だが、ともかく、そんなわけで、この記事もアクセス数が伸びているのだろう。
 当ブログのタイトル「江戸をよむ東京をあるく」も、いっそ、「たけくらべをよむスパゲッティをつくる」に変えた方が良いかもしれない。

 さて、先日、学生さんたちと三ノ輪から吉原界隈を歩く巡見の準備をしながら、たけくらべ論争のことを再び考えてみた。
 たけくらべ論争とは、物語の終盤になってそれまでの元気をすっかり失ってしまった主人公・美登利の変貌の理由をめぐる論争だ。初潮説・初店説が主で、他に検査場説なんていうのもある。論争のおおまかな構図については、こちらの元記事の冒頭を参照のこと。
 現在、たけくらべ論争は、いろんな人がいろんな主張を展開して、すっかりこんがらがってしまっているようにみえる。
 それに辟易して、自分が『たけくらべ』を読むときは、美登利が変貌した原因なんか考えないようにしている、とまで言い出す人もいる。だけど、『たけくらべ』を読むとき、どうして美登利ちゃんはこんなに変わってしまったんだろう?って疑問を頭から外して読むことは不自然だろう。
 そこで、自分なりにその答えを探して、最初はちょっとした素人の思いつきを書いただけだったこの記事も、その後、意外にもたくさんの人に読まれ、有益なコメントもいただいた。そうした反響にお答えするかたちで追加記事などを重ねているうちに、それら全体としてかなり長文になってしまった。
 このあたりで、なるべく簡略に、たけくらべ論争についての私見をまとめておく。

初店説(と検査場説)は不成立
 まず、単純な初店説が成立しないことだけは確かである。初店説というのは、吉原で娼妓デビューしたことが原因で美登利は変貌した、という説である(ただし、ここで私が否定しているのは、正式な娼妓デビューを想定した初店説である。佐多稲子が主張する秘密裡の違法な初店の可能性は否定できない)。
 初店説否定の理由は、美登利が14歳であることと、廓外に住み廓の内外を自由に行き来していること、の二つである。
 当時の法律では、16歳未満での娼妓就業は禁止されていた。また、娼妓は廓内の遊女屋に住むことが法律で義務づけられていて、美登利のように廓外に住むことは認められていなかった(なお、この廓内居住の義務は、法律ができる以前から、吉原の営業独占を守るための最重要の掟としてあった)。
 そんな法律なんか、私たち読者は知らないぞ、って思うかもしれないが、『たけくらべ』が書かれた当時の読者の多くはそれを知っていた可能性が高い。
 さらに、娼妓就業の年齢制限については、作者の一葉自身が、わざわざ正太に「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」という流行節を歌わせることで、読者にその存在を明示している。
 また、当時の吉原の娼妓が廓内の遊女屋に囲われて暮らす境遇にあったことは、昔も今も常識であろう。ところが、美登利は変貌後もなお家族と共に廓外に住み続け、廓内の遊女屋へ引っ越したりはしていない。そして、そんな美登利が廓内の大黒屋へときどき出向くのは、そこで娼妓として働いている姉に「用ある折」だけだ、とこれまた一葉がはっきり書いている。
 したがって、正式な娼妓就業はもちろんのこと、16歳未満での見習い奉公開始というケースも併せて、いずれにせよ、売られた美登利が吉原で働き始めた、とするこれらの読み方は無理なのである。
 つまるところ、初店説の可能性は作者の一葉によって完全に否定されているといってもよい。
 初店説を主張する人のなかには、美登利は年齢を詐称して働き始めた、という苦し紛れ(?)の仮説を立てる人もいるらしいが、それは無意味である。たとえ、それで年齢制限の問題をクリアできたとしても、美登利の廓外居住という事実がある以上、初店説はやはり不成立だからである。
 したがって以下は蛇足になるが、年齢詐称の想定自体も困難であることを指摘しておこう。
 どこか遠い地方から吉原に来たばかりの身寄りのない娘ならいざ知らず、いまだに地元の小学校に在学中で、界隈ではいっぱしの有名人である美登利が、年齢を詐称し通して所轄の警察署から就業許可を得るのは無理である。そんなリアリティのひとかけらも無い設定を一葉がしたとは考えられない。
 
 これで、一般的な初店説については明確に否定できたと考える。ついでにいえば、美登利の変貌の原因は、初店直前に受けた身体検査だという主張=検査場説(初検査説)も、直近の初店が不可能である以上、これまた不成立である。

一葉の“企み”?
 一方、佐多稲子が提唱する、秘密の初店説は成立可能である。ただし、こうした秘密の初店などというアクロバティックな読み方を、一般の読者が自力でおこなうのは難しいという気がする。したがって、もし一葉の真意が、佐多の指摘どおり、秘密の初店にあるのならば、当然一葉は、多くの読者の“誤読”を予想しながら作品を書き上げたことになるだろう。そんな一葉の“企み”を想定して『たけくらべ』を読んでみるのも、また面白いとは思う(こうした“誤読”を誘う一葉の“企み”については、この記事につけたコメントのうち、二番目の2005年1月12日付のコメントと、六番目の2005年3月21日付のコメントもご覧ください)。
 まあ、正直、初潮説で読むのが一番素直かな、という気がするのだが・・・。

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2005/01/09

改・大河ドラマと歴史考証

前の記事で大河ドラマの歴史考証について感想を書きました。やっぱ読み返すと意味不明ですね。恥ずかしい。こうやって自分で書いたものを、少し時間をあけて読みなおして、やっと自分の言いたいことがわかる。
(思うに、締め切り直前に論文を書き上げる悪癖も直さなきゃね。頭脳明晰・理路整然ってのとは程遠い私のような人間は、一度書いたものを読み返してからもう一度書き直すくらいでやっと人並み。)

前の記事では厳密な歴史考証の不可能性について、という当たり前のことも書いたけど、まあ、それは話の本筋ではなかったみたい。

本当は次のように書くべきだった。もし仮に完璧な歴史考証というものが可能であったとしても、それに縛られたドラマづくりをする必要はまったくない、と。

さて、今日から新しい大河ドラマが始まるけど、わけ知り顔した「歴史家」のどんなコメントが出てくるのか、そっちも楽しみにしたいな。

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2005/01/08

英会話始めようかなっと

正月、私も人並みに新しいことを始めたくなりました。
で、思いついたのが英会話。

きっかけは、非常勤で通ってる大学の講師仲間。
カナダ人の男性で英会話の教師J氏。大学以外にも高校や英会話学校で教えていると。

で、毎週1回、大学帰りの電車が一緒なんだけど、二人とも家が大学から遠く、車中1時間半以上は一緒。
二人ともビール好きで、缶ビール飲みながらワイワイしゃべる。
もちろん、私は英会話はできない。J氏の日本語も相当怪しい。そんな二人がゲラゲラ笑いながらしゃべってられるのは、多分にアルコールの魔法。

話が脱線するが、以前、ローマの居酒屋でしたたかに飲んでホテルへ帰るタクシーの中。
運転手が私にぶつけた素朴な質問、「日本人の女の子はなんでO脚が多いんだ?」
これに答えて「日本人は床の上にじかにすわって生活するからかもしれないなぁ。」と、何の根拠もない仮説を堂々と提示する私。この問答をきっかけに、30分くらいずっと日・伊両国の女性の脚についてバカ話。最後は互いの国の女性を賛美し合って車を降りた。
(これを読んでる女性の方で気を悪くされた方がいらっしゃいましたらごめんなさい。酔っぱらったジャポネーゼのオジサンとローマっ子のタクシー運転手が真夜中陽気に盛り上がるとしたら、たいていこんな程度の話題です。)
ところが翌朝になると、話の内容は詳細に憶えているんだけど、お互いそれをどんな言葉でしゃべっていたのか、まったく思い出せない。日本語でないことは確か。でも私のイタリア語能力はあちらの3歳児にも劣る。英語も似たり寄ったり。そもそも「脚」ってどう言うの?ってレベル。なんでそんな込み入った話ができたのか今でも不思議、摩訶不思議。やはりアルコールの魔法。

だったら、これから外国人と話すときは、いつも酔っぱらうようにすれば怖いもの無しだとも思うけど、そう上手くもいかない。そもそも、アルコールの魔法が効くのは、大学帰りのJ氏との会話を思い返しても、また、ローマの夜を思い出しても、どうやら、ある「特定の話題」に限られているような気がする。

そんなわけで、ちょっと真面目に英会話を勉強しようと思う。大学帰りの電車の中でJ氏にむかって、自分の研究の面白いところをちゃんとアピールできるくらいにはなりたいからだ。とか言っちゃって、英会話を勉強しようと考え始めたのは、J氏がやっている英会話のプライベートレッスンの授業料を聞いたから。だってタダで一流の先生のプライベートレッスンを受けられるんだから、利用しない手はありませんぜ。

このブログでも、今後、何か研究ネタの記事を書いたときには、いくつかキーワードを選んで、その英訳を付けるようにしようと思う。
例えば、こんな具合に。 
「アルコールの魔法」~magic of alcohol  前置詞合ってる?それとも単に alcohol magic がいいかな?
来週、J氏に尋ねてみよう。


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2005/01/06

巡見~江戸を縦貫する4 吉原の通り抜け前編

現在の吉原とその“システム”について

酉の市(の準備)で賑わう長国寺・鷲神社を後にして吉原へ向かう。

吉原。江戸時代、江戸市中における幕府公認の遊郭であったことは有名である。その後、公認された売春街としての歴史は戦後まで続く。で、いわゆる歴史事典類を引くと、昭和32年の売春防止法施行により“吉原の灯は消えた”という解説が書かれていたりする。

しかし、現在もなお吉原が事実上の公認の売春街であるということは、知っている人は知っている。新宿歌舞伎町などでは店舗型風俗業を根絶やしにすべく徹底的な弾圧を加えている東京都も、吉原の郭内で行われている売春については、当分これを咎める気は無いらしい。新宿の店舗型風俗の大多数が“最後まで”はやらない、いわゆる非・本番の風俗であるのに対して、吉原は本番を最大のウリにしているにもかかわらず、である。

現在、吉原で“遊ぶ”手順について知りたければ、ネットで検索し、吉原のどこかのお店のホームページにいけばよい。しばしば“システム”と題されるページをみれば、入浴料××円と書かれている。この入浴料とはお店(ソープランド)に支払うお金である。吉原のお店は特殊浴場として営業許可をとっているのである。浴場だから入浴料。で、別のところをみると総額△△円と書かれている場合もある。この入浴料と総額との違いが重要である。

実は、客はお店に入浴料を払った上で、さらに、相手をしてもらう女性にも別途、サービス料を支払うことになる。入浴料と女性に支払うサービス料とを合計したのが「総額」なのである。私もちゃんと関係各位に確認をとったわけではないが、おそらく、売春行為はあくまで客と女性との間の相対の(1対1の)合意でなされていることで、お店は関知していないという建前なのであろう。お店は客から入浴料をとって、接待をしてくれる女性のいる浴室へ客をあげているだけであって、そこから先のことは知らないよっていうことかな。つまり、こうやってお店側は管理売春という違法行為を回避しているのではないか。

ただまあ、客が女性に渡す金額はお店ごとに一定額だから、以上は単なる茶番。でも、その茶番でもって「吉原の灯」はいまだアカアカとともり続けているのかな。

だいたい吉原で営業しているソープランドは150軒弱とされている。在籍している女性の数はどのくらいだろう?出入りが激しいし、幽霊在籍嬢も多いだろうから確定しにくいだろうけど、仮に1軒20人としたら3000人、30人としたら4500人。だいたいその間くらいの人数じゃないかな(歴史屋さんなのにテキトーですみません)。
 参考文献:岩永文夫『フーゾク儲けのからくり』(kkベストセラーズ 2003)

システムの話が長くなったので(^^)、吉原通り抜けのお話は後編につづく。

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2005/01/02

大河ドラマ新選組と歴史考証

酒を飲みつつ、年末に録画したNHKのアンコール放送をみた。新選組の「友の死」の回。堺雅人演じる新選組総長の山南敬助が切腹する話。いつ見ても泣けるなぁ。鼻の奥だか喉の奥だかわかんないけど、ツーンと痛くて大変。鈴木砂羽の明里も名演だぁ。

それはともあれ、大河ドラマに対してはいつも歴史の「専門家」とやらから文句が寄せられる。こんどの義経に対しても、予告編が流れただけですぐにイチャモンが出始めている。

わけのわかんない「歴史家」やら「評論家」やらが、主にオジサン向けの雑誌なんかで、“近藤勇と桂小五郎が昔からの顔なじみであるわけない”だとかあげつらって、これは荒唐無稽なドラマですね、なんてケチつけているのは、まあ聞くに値しないだろう。編集側が欲しがってるとおりのコメントだして謝礼もらうのが彼らの商売なんだろうから。

歴史ドラマにおける歴史考証の役割ってのは、そのドラマにリアリティなどの効果を与えるため、脚本家や演出家などの要請を受けて過不足のない歴史的知識を提供することにつきると思う。決してそれ以上ではないだろう。

歴史に忠実なドラマなんてありえない。

セリフひとつとっても、当時の人々の言葉使いや発音をすべて再現することは不可能だし無意味である。セリフの背後にある人々の道徳観念やら人生観だって忠実な再現は不可能だ。建物の復元だって至難のワザ。

ただ、歴史を無視することで著しくドラマの効果が薄れる(とドラマの作り手が判断した)場合は別である。例えば、鳥羽伏見の戦いで新選組が大活躍して幕府軍は大勝利、近藤勇はどっかの大名にとりたてられる、なんて逸脱はドラマがシラけるだろうから、あまりよろしくないだろう。

そうした場合をのぞけば、歴史に忠実であれ、とドラマに要求するのはナンセンスである。

ところが、先ほど挙げた“売文家”的「歴史家」ではなくて、専門の研究者などがドラマのあら探しをすることがままある。しかもそうしたあら探しの成果が学術雑誌に載ったりもする。その多くが啓蒙臭い論調。

もし真剣にドラマ批判を展開する必要があるとすれば、そのドラマを支配するなんらかの思想なり価値観があって、それが社会に有害であると批判者が考えた場合のみであろう。その場合は、その思想・価値観がどのようなものであるのか明らかにし、かつ、それが広汎な視聴者に対して実際に大きな影響を及ぼしている(あるいは及ぼす可能性が高い)ことを立証すべきであろう。さらにはそれに対置する批判者自身の思想・価値観を明確にして、そのドラマの思想・価値観の問題点を指摘すべきであろう(もちろん、こうした“なされるべきドラマ批判”が研究者の手によっておこなわれた例だっていくつもある)。

さて、今年の大河は面白いかな?
それより、三谷幸喜さんが朝の連ドラを書いてくれないかな。毎朝楽しいだろうな。

(以上、最初にアップした記事に若干加筆しています。元が酔っぱらって書いてたもんで、論旨がとりにくい部分があるように思えたからです。ご寛恕ください。2005.1.8.記)

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巡見~江戸を縦貫する3 酉の市

 三ノ輪から歩いて、吉原の裏手に到着する手前に浅草酉の市で有名な長国寺・鷲神社がある。

 浅草酉の市は11月の酉の日に行われる祭り。元来は農村の収穫祭。鶏を鷲大明神に奉納。縁起物の熊手を販売。農産物や農具を販売する露店で熊手を売る際、運を掻き込む・福を掃き込む縁起物として売ったのが始まりであるとされる。それがだんだん、商売繁盛を願う商人たちがこれを買うようになり、都市的な色彩の強い祭りとなる。ただし、商人が年末に熊手を買って店に飾る風習は東国のあちこちでみられる。どこがルーツなのだろう。

 巡見の翌日が三の酉。境内のみならず、周辺の道路も熊手を売る店がびっしり並んで華やか。

 酉の市の売場にいくと、境内中央の“良い”場所には、ピシッと半纏を着て、いかにも昔からやってるって感じのお店の人々(境内を出て端っこの方の店に行くと、半纏ではなくて、黒に金刺繍の入ったジャンバーにパンチパーマのおじさんたちが多い)。学生たちはすぐに店の人と打ち解けていろいろとインタビューしてる。頼もしいね。だれか卒論のテーマにすればいいのに。

 酉の市は、真夜中の零時に始まる。「そんな時間で人が集まるんですか?」と尋ねたら、「商売してる人が店が終わってその帰りに寄るからちょうどいいんだよ。それから、一番に買うのが縁起良いってお客さんも多いし。」とのお答え。愚問でした(^^)。「で、その後、夜の2時3時は、料亭やバーの女将さんママさんが、得意の代議士さんなんかと一緒にやってくる。まあ、最近は少なくなったけどね。」とのこと。
 吉原のことを書いた本によると、かつてはお金持ちの遊客も熊手を買ってから馴染みの相手のいる遊女屋へ行ったそうだ。で、遊女屋ではそれを飾る。これじゃ、いやでも大金はたいてカッコつけなきゃね。その日はにぎやかに応対してもらったら、“お遊び”は無しで帰るんだと。
 今日ならさしずめ、クリスマスイブに、でっかいツリーとケーキ持参で高級ソープへ行って、お気に入りの女の子の顔だけ見て、あとは従業員にチップをまいてから帰るってところかな。でもそんな客いないだろうな。

 さて、浅草酉の市については、長国寺がかなり力作のホームページを作っている。史料を集め、また年配の人からの聞き取りもおこなっていて、本格的な酉の市研究としての水準に届いている。以下、そこから引用して、「吉原の通り抜け」について紹介します。http://www.torinoichi.jp

 吉原の通り抜け~「天保の末(1843年頃)刊行された柳花通誌によれば、「西河岸の門開きて見物はなはだし、常には一方口にて通り抜けならず。」また、「昔は遊女残らず参詣させて、この里の物日とせし事郭の記にありという。郭中の賑わい常にことなれり。」とあります。時代は下って、明治30年発行の風俗画報にも「酉の市の日には吉原遊廓の諸門を開き、遊女を参詣せしめ客を引くの手段をなすことなり。さてもさても商売には抜け目なきものかな。」との記事が見えます。」「酉の寺と同じご町内(龍泉寺町)に住んだ樋口一葉は、たけくらべの中で酉の日の廓内への出入りについて、南無や大鳥大明神の賑わいとともに「・・・・・大鳥神社の賑わいすさまじく、ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若者.....角町京町所々のはね橋より・・・・・」「美登利さんは揚屋町のはね橋から入って行った・・・・・」と述べ、このはね橋わきにある番小屋の番人の子供をも子細に描写しています。ちなみに橋は遊女の逃亡を防ぐため通常はね上げてあり、郭の内側からしか渡すことが出来ないようになっていたようです。このように明治になると酉の市には多くの通用門が開かれ、老いも若きも男も女も吉原遊廓の通り抜けを酉の市でのお目当てにしていたのです。余談ですが筆者の隣家の70歳程になられる夫人が、幼少の頃親に手を引かれておとりさまに参詣し、吉原を通り抜ける時はいつもドキドキしたと話してくれました。」

 つまりは、酉の市の時だけは、吉原が一般開放されるというわけ。
男女混合の大学生(と教員)一行という、吉原には場違いな我々も、その顰みに倣って今日は吉原を通り抜けてみることにする。では、次回、吉原通り抜けの巻、乞うご期待。 

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2005/01/01

シフクノオト

このブログ始めてまだ何日もたたないけど、アクセス解析かけたら31日の夜にアクセス急増。理由はもちろん、レコード大賞直後にミスチルの記事書いたから。せっかく検索かけてここに来てくださった方々、薄っぺらい内容ですみませんでした。せめてものお詫びに、シフクノオトDVDの感想書きますね。

ミスチルの曲は、桜井さんの声が良いのはもちろんだけど、その前に流れるイントロがいいんだよね。それも適当に手抜きで作ったワンパターンのイントロじゃなくて、その曲その曲にあわせてよく作り込まれたイントロ。DVD1曲目の「終わりなき旅」のイントロ始まると、鳥肌もんで思わず座り直して姿勢正しちゃう。アンコール・オーラスの「Sign」のピアノのコード聴くと胸がジーンとする。で、短めのイントロのあとの歌い出し「届いてくれるといーな」でウワァーって感じ。名曲。

ミスチルの曲のイントロ人気投票とか楽しそう。もうどっかでやってるのかな。

それにしても、レコード大賞の時は残念。古式ゆかしく、慣例にのっとって、司会の曲紹介コメントがイントロにかぶさる。いつまであのスタイルにこだわるのかね。まったく。あと、桜井さんは、それ相当の思いで熱唱なのに、曲の間ずっと番組おしまいのテロップが流れる。生で時間が押してたんだろうけど、がっかり。まるで日テレ歌の大辞典の第一位みたいじゃないか。

と、正月そうそう文句言っててもつまんないから、シフクノオトDVDの見所をひとつ。「Youthful days」で歌詞間違えるよね。そこで歌につまった桜井さんのみせる「アレレ、おかしいな」って顔がすごく微笑ましい。
ここまで書いて、この話、もう有名かなと思ってgoogleで検索したら、やっぱり話題にあがってましたね。
まだそのつもりでご覧になってない方がいましたら、一度みてくださいな。その前の「乾杯をしたんだ」とかで思い切りお客にサービスしたところで少しハメ外しちゃって、という感じです。

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かんたん鶏料理イタリアの田舎風

あけましておめでとうございます。
ゆえあって一人きりの年越しと正月。カミさんは子供たちつれて実家へ帰ってしまいました。

といっても家族崩壊の危機に瀕しているわけではなく、仕事が溜まってて正月も帰省できず、ひとり家で仕事しているだけのことですが(^^)

今朝はベーコンエッグにトーストとコーヒーという、喫茶店のモーニングセットみたいな朝メシ。でもベーコンエッグ作るかたわら、晩ご飯の仕込みを。
さすがに元旦の夜くらいは上等のワイン抜いて楽しみたいし。

仕込んだ料理は、鶏のポタッキオ Pollo in potacchio。
長靴型の細長いイタリア半島の中ほどから下半分のアドリア海側(東側)一帯で作られる田舎料理。
いちおう今回はその地域の中のマルケ州ってところのアンコーナ地方風かな。
水をたくさん入れて煮るので、鶏の水煮って感じの料理。

すごく簡単な料理。作り慣れて手順がのみこめてれば、煮込み時間を別にすると、20分もあれば完了。
以下、1~2人分のレシピを紹介。

●鶏のもも肉1枚を4~6個に切り分ける(唐揚げ用に切り分けるより少し大きめ。たくさん作るとき、切り分けがめんどうなら、スーパーで唐揚げ用に切ったもも肉買ってきてもよいかな)。
●タマネギ半分をみじん切りに(そんなに細かく刻まなくてもいい)。
●フライパンにたっぷりオリーブオイルを入れて刻んだタマネギを炒め始める。好みで皮つきのままのニンニクも1かけか2かけ。オリーブオイルは大量に。量は好みだけどカップ1杯入れてもかまわない。炒めるより揚げる感じ。
●1~2分してからそこへ鶏肉を入れ炒める。白ワイン(辛口)も入れる。火は強め。タマネギ焦がさないように。肉をひっくり返したりしながら色が変われば、トマトソースを少し(量は好みだけど大さじ5くらい?)入れる。
●トマトソースいれたら、水をコップ1杯くらい入れてかき混ぜ、鍋に移す。鍋の大きさは肉が重ならないで入る程度の大きさがいい。鍋に移したらさらに水を足す。肉がほとんど浸るくらいたっぷりと。ここで軽く下味に塩コショウ。
●あとは強火で沸騰させ、沸騰したら火を弱めて鍋にフタして1時間くらい煮込む。こんなんで美味しくなるの?と不安になるくらい簡単だけど、煮込んでいるうちに、ほぉーら、いい香り。で火を消す。

仕込みは以上で完了。
すぐに食べてもいいけど、そうすると全然美味しくない。煮汁は十分うまいけど、肉はスカスカ。肉から煮汁へ出たうまみが煮汁の味と一緒になって再び肉に染み込むのを待って食べる。朝ここまでやっておけば夜には美味しく食べられる。お昼に食べても大丈夫だとは思うけど、やっぱり夜まで我慢。

●さて、食べる直前に鍋を火にかけて軽く暖める。その時に生のローズマリーを2~3枝入れる。乾燥だったら入れない方がいいと思う。アツアツにしなくても、肉が芯まで暖まっていればそれで十分。最後に塩とコショウを足して煮汁の味を調えて出来上がり。煮汁はごくごく飲むのではなくソースがわりだから濃いめの味がいいと思う。できれば上等のオリーブオイルを香りづけで軽くかけ回す。深めの皿に煮汁を張って肉を盛りつけてできあがり。ワインは白が合うけど、軽めの赤でも美味しい。

オリーブオイルたっぷりが本場風とのこと。まあ、苦手な人は少な目に。
トマトソースのストックなんて無いよって人は、かわりにプチトマトを何個か、二つか四つに切って入れても美味しい。
トマトソースやトマト無しでも大丈夫。
あとは、乾燥トマト入れても美味しい。オリーブの実やケイパー、タカノツメを入れてもなかなか。

トマトソースやトマトの代わりに少し梅干し入れても美味しそうだけど、まだ試したことはない。
有名な地鶏使って「××地鶏のポタッキオ、紀州××梅風味」とかブランド名ならべると、その辺のこじゃれた創作イタリア料理屋でお金とれそうな気がする(^^) だめかな。

簡単に作れて、食べる直前は暖めて皿に盛るだけだからパーティ料理に最適。本当は骨付きのもも肉そのままとか、それをぶつ切りにしたのを使えば、骨から煮汁に味が出て、それが肉に染み込み、めちゃウマだよ。

今晩食べたらまた感想をアップします。そのうち写真も載せようかな。

あ、そうそう。ポタッキオって料理を教えてくれたのは笹塚にあるサルサズッカというイタリア料理店。このお店のことはまたあらためて紹介します。

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