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2005/01/02

巡見~江戸を縦貫する3 酉の市

 三ノ輪から歩いて、吉原の裏手に到着する手前に浅草酉の市で有名な長国寺・鷲神社がある。

 浅草酉の市は11月の酉の日に行われる祭り。元来は農村の収穫祭。鶏を鷲大明神に奉納。縁起物の熊手を販売。農産物や農具を販売する露店で熊手を売る際、運を掻き込む・福を掃き込む縁起物として売ったのが始まりであるとされる。それがだんだん、商売繁盛を願う商人たちがこれを買うようになり、都市的な色彩の強い祭りとなる。ただし、商人が年末に熊手を買って店に飾る風習は東国のあちこちでみられる。どこがルーツなのだろう。

 巡見の翌日が三の酉。境内のみならず、周辺の道路も熊手を売る店がびっしり並んで華やか。

 酉の市の売場にいくと、境内中央の“良い”場所には、ピシッと半纏を着て、いかにも昔からやってるって感じのお店の人々(境内を出て端っこの方の店に行くと、半纏ではなくて、黒に金刺繍の入ったジャンバーにパンチパーマのおじさんたちが多い)。学生たちはすぐに店の人と打ち解けていろいろとインタビューしてる。頼もしいね。だれか卒論のテーマにすればいいのに。

 酉の市は、真夜中の零時に始まる。「そんな時間で人が集まるんですか?」と尋ねたら、「商売してる人が店が終わってその帰りに寄るからちょうどいいんだよ。それから、一番に買うのが縁起良いってお客さんも多いし。」とのお答え。愚問でした(^^)。「で、その後、夜の2時3時は、料亭やバーの女将さんママさんが、得意の代議士さんなんかと一緒にやってくる。まあ、最近は少なくなったけどね。」とのこと。
 吉原のことを書いた本によると、かつてはお金持ちの遊客も熊手を買ってから馴染みの相手のいる遊女屋へ行ったそうだ。で、遊女屋ではそれを飾る。これじゃ、いやでも大金はたいてカッコつけなきゃね。その日はにぎやかに応対してもらったら、“お遊び”は無しで帰るんだと。
 今日ならさしずめ、クリスマスイブに、でっかいツリーとケーキ持参で高級ソープへ行って、お気に入りの女の子の顔だけ見て、あとは従業員にチップをまいてから帰るってところかな。でもそんな客いないだろうな。

 さて、浅草酉の市については、長国寺がかなり力作のホームページを作っている。史料を集め、また年配の人からの聞き取りもおこなっていて、本格的な酉の市研究としての水準に届いている。以下、そこから引用して、「吉原の通り抜け」について紹介します。http://www.torinoichi.jp

 吉原の通り抜け~「天保の末(1843年頃)刊行された柳花通誌によれば、「西河岸の門開きて見物はなはだし、常には一方口にて通り抜けならず。」また、「昔は遊女残らず参詣させて、この里の物日とせし事郭の記にありという。郭中の賑わい常にことなれり。」とあります。時代は下って、明治30年発行の風俗画報にも「酉の市の日には吉原遊廓の諸門を開き、遊女を参詣せしめ客を引くの手段をなすことなり。さてもさても商売には抜け目なきものかな。」との記事が見えます。」「酉の寺と同じご町内(龍泉寺町)に住んだ樋口一葉は、たけくらべの中で酉の日の廓内への出入りについて、南無や大鳥大明神の賑わいとともに「・・・・・大鳥神社の賑わいすさまじく、ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若者.....角町京町所々のはね橋より・・・・・」「美登利さんは揚屋町のはね橋から入って行った・・・・・」と述べ、このはね橋わきにある番小屋の番人の子供をも子細に描写しています。ちなみに橋は遊女の逃亡を防ぐため通常はね上げてあり、郭の内側からしか渡すことが出来ないようになっていたようです。このように明治になると酉の市には多くの通用門が開かれ、老いも若きも男も女も吉原遊廓の通り抜けを酉の市でのお目当てにしていたのです。余談ですが筆者の隣家の70歳程になられる夫人が、幼少の頃親に手を引かれておとりさまに参詣し、吉原を通り抜ける時はいつもドキドキしたと話してくれました。」

 つまりは、酉の市の時だけは、吉原が一般開放されるというわけ。
男女混合の大学生(と教員)一行という、吉原には場違いな我々も、その顰みに倣って今日は吉原を通り抜けてみることにする。では、次回、吉原通り抜けの巻、乞うご期待。 

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