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2005/03/30

その時歴史が・・・樋口一葉

今夜はテレビづけになりそう。
もちろんバーレーン戦は見たい。

それから、もう一つ。NHKの「その時歴史が動いた」で樋口一葉がとりあげられる。
このブログでも書いたが、遊郭吉原周辺の町あるきをきっかけに、樋口一葉の『たけくらべ』を読んで以来、すっかり一葉ファンである。

今夜の番組には、あの瀬戸内寂聴さんが出て一葉を語るんだとか。一葉の援助交際に関する自説も展開されるんだろうか?ちょっと興味あり。「寝てもくれない女に、そんな大金くれてやる男なんていませんよ。」ってな具合で。

番組予告をみると、『たけくらべ』ではなくて、『にごりえ』を書いた時が、「歴史が動いた」時だそうです。
まあ、それは当然。

『にごりえ』は本当に凄い作品だと思う。主役の売れっ子娼婦は、お力って名前でしたっけ?よく書けてるなぁ。
賢くて、可愛くて、弱くて、明るくて。今、風俗嬢やっても絶対人気が出るに違いない。で、やっぱり切ない運命をたどるんだろうけど。

一葉は、何人もの娼婦と付き合っていたらしいが、そうした交流のなかで、売れっ子とそうでない子の違いってのを事細かにつかんでいったんだと思う。それにしても鋭い観察眼だけど。
で、その観察眼は、『にごりえ』っていう傑作だけでなく、あのインチキ?占い師から大金を貢がせるための手練手管にも結実したように思う。

ここで問題なのは、今朝、保育園に行く次女とした約束。朝ご飯をパクパク食べたら、夜は、しまじろうのビデオと彼女がお気に入りのドラマ「王様のレストラン」のDVDをたっぷり見せてやると約束しちまった。
「王様のレストラン」! 三谷幸喜が脚本を書いた奇跡の最高傑作ドラマ。次女が物まねする「しずか」(山口智子演じる橋幸夫ファンの女性シェフ)は、この上なく可愛い(ただの親バカ・モードですみません)。それにしても、あの頃の山口智子は輝いているなぁ。

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「私の研究は面白いですか?」その2

 私は、都市社会の歴史=都市社会史を研究しています。江戸・東京がもっぱら研究のフィールドです。

「秘密基地」

 話はとびますが、皆さんは子供の頃、「秘密基地」を作ったことがあるでしょうか?私も小学生の低学年頃、よくやった記憶があります。近所の野原では、枯れ草や竹などで小さな掘っ建て小屋を作りました。町はずれのあまり使われていない建築資材置き場では、足場を組む木の柱やら板やらで囲んだ穴蔵のなかへ廃車のシートを引っ張り込んで作りました。
 「秘密基地」が子供の心をワクワクさせた理由は、そこが大人に隠れた「秘密」の場所であるから、という他に、もうひとつ、そこは、小さいながらも、この世の中で初めて手に入れることのできた自分(たち)だけの場所だったからだと思います。親から与えられた勉強部屋やお仕着せの遊具が揃った公園とは違う、自分(たち)の力で作った自分(たち)のための場所です。

私の研究テーマ

 自分(たち)で作る自分(たち)のための場所。こうした空間を我々は都市の内部に築くことはできるだろうか?その可能性を問うことが、私の都市社会史研究のテーマです。

 もちろん、私が今その可能性を追究しているのは、かつての「秘密基地」のように、ただそこで寝ころんだり、漫画を読んだりする場所ではありません。
 都市に生きる人々が誇りをもって働き、安心して暮らすための空間について考えています。

都市は誰が作るのか?

 そのような空間は、お仕着せの公園みたいに、時の権力者やお役人、都市計画の専門家といった人たちが作って与えてくれるものなのでしょうか。
 あるいは、一定のスペースを買い取ったり、借り受けたりすることのできるような、相当の資産をもつ人や組織だけが、都市において自分(たち)のための場所を思うように作り上げることができるのでしょうか。

 私が都市社会史をやる上で、特に注目しているのは、都市のなかの広場や市場といった場所です。広場や市場を舞台に自分(たち)の場所を主体的に作り上げていく人々の営みについて、その可能性を追っています。

 以上、抽象的な話でしたが、今回はここまでです。
次回は、江戸の広場に生きる人々を例にとって、少し具体的な話を書かせてください。


追記

 ところで、都市・広場・市場といえば、昨年亡くなった高名な歴史研究者の名前を思い浮かべる人が多いでしょう。1978年に『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(平凡社)を発表し、大反響を呼び起こしたその研究者は「都市のできる場」・「市の立つ場」という論文も書いています(なおこれらの論文は上掲書の増補版に収められました)。
 実は、今回、私が「秘密基地」の話で記事を始めたのは、エンガチョ・スイライカンジョーといった子供の遊びの分析で始まる『無縁・公界・楽』の真似です。

 中世史が専門のこの研究者、網野善彦さんは、近世の都市・広場・市場について詳細な研究をされたわけではありません。おかげで私もこれまで、網野史学と正面対決するという難事を回避させてもらってます。
 ただ、網野さんの研究以後、網野さんに学ぶことで、江戸の広場において無縁の原理、アジール的要素を見いだし、江戸という都市のもつ解放性を高く評価する研究=「大江戸万歳!!」的研究は、少なくありません。
 このような江戸研究に対して、私は学術論文上でかなり激しく批判を加えてきました。ただし、学術論文の場合は、それらの研究における事実認識が単純な誤りを多く含んでいることを指摘すれば、批判は成立します。
 しかし、このブログでは、そんな「史実」をめぐる細かな議論ではなく、もっと大まかな都市観・歴史観などを論じる方が良いでしょう。そんなわけで、ここ数日、久しぶりにご本家、網野さんの『無縁・公界・楽』を読み返してました。今後、うまく議論ができるといいのですが。

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2005/03/22

脳みそのフライに代えて簡単白子フライ

連休中、熱を出して寝込んでしまいました。しんどかった。
やっと回復し食欲も出てきました。料理欲も。そうなると作りたい、食べたいのはイタリア料理。

一皿目は、先の記事で紹介したホタルイカのスパゲッティ。

少し唐辛子が効きすぎて、自分は美味しかったけど、子どもは大変。麦茶をごくごく飲みながら食べてました。ごめんな。

二皿目は、ローマ風子羊脳みそのフライの代用で、真ダラの白子のフライ。

BSEの影響で、子牛の脳みそのフライや骨の髄をすするオッソブーコ(牛の後すねのぶつ切り煮込み)といった料理が、レストランでもなかなかメニューに載らなくなりました。羊の脳みそもそれに倣ってのことなのか、みかけにくくなりました。とくに脳みそフライは好物だったから残念。そんなわけで、仕方なく時々作っているのが、脳みその代わりに真ダラの白子でつくるフライ。漫画『美味しんぼ』で似たような話があったような。たしか、ふぐの白子の代わりに羊の脳みそ使うんでしたっけ。
真ダラの白子は、子羊の脳みそと比べると淡白な気もしますが、まあ、十分そのつもりになれます。下処理も血抜きなどが不必要な分、かなり楽ですし。

1、最初に白子をかるく茹でてから扱うと楽です。茹でた後、筋みたいなところをハサミなどで切り離して小さめの鶏唐揚げくらいの大きさに。これに、塩コショウを少しふり、レモン汁・オリーブオイルをかけて7、8分おいときます。

2、白子に小麦粉をつけて、そのあとで溶き卵にくぐらせ、中温の油で揚げます。衣がサクっとした感じになればいいです。揚がったら油をきり、かるく塩をふって、熱いうちに食べます。

相変わらず簡単料理です。最後につける溶き卵メインの衣ってところが、ちょっとこだわりのローマ風。
ローマの食堂だと、これにカルチョーフィ(アーティチョーク)やズッキーニのフライを盛り合わせることがしばしば。
シャバシャバの白ワインをぐびぐび飲みながらフライをつまめば、目の前にパンテオンが見えてくる?

少し食べ残しておいて、後で冷めたのを食べてると、アンソニー・ホプキンス演じる映画版のレクター博士になった気分も味わえます。
レクターは機内食なんて食えないよ、と文句いいながら持参したランチボックスの脳みそ料理を喰うんですが、たぶん冷めたのは機内食と大差無い気もする。レクターが作ったのはバターソテーでしたっけ?

で、映画だとレクターは隣り合わせた小さな男の子にもすすめて食べさせるんですが・・・

今夜は娘たちに、美味いからコレ食べてみな、と言って白子フライ食わせつつ、ついついレクターを思い出しちまった。我ながらひどい悪趣味だぜ。

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2005/03/18

沿志奏逢、桜井さんの魅力

バンクバンド
月末には、バンクバンドのライブDVD「沿志奏逢」がリリースされる。楽しみだなぁ。
と言っても、このブログに来てくださる方で、バンクバンド知らない人も多いだろうから、説明すると・・・。

Mr.Children-いわゆるミスチルというバンドのヴォーカル、桜井和寿さんが参加している別のバンドがあって、それがバンクバンドです。

バンクバンドって名前は、桜井さんや、ミスチルのプロデューサーもやっている小林武史さんたちが作った非営利の貸金業=銀行 ap bankに由来しています。この銀行は、環境問題に取り組むプロジェクトに対してのみ融資するというもの。

こんなふうに「いい人」をやる桜井さんってのが、僕にはすごく興味深い。別に皮肉めいたことを思っているわけじゃないし、茶化しているわけじゃなくて、本当に興味をそそられる。というか、どうしようもなくシンパシーを抱いてしまう。

Sign
こうした「意識の高い」活動に限らず、桜井さんが切々としたラブソングを歌うスタンスや、こてこてのencouragingな曲を歌うスタンスにも同じような魅力を感じる。

そうした真摯な曲を歌う自分を、どこか別のところから、胡散臭いなぁとか、恥ずかしいなぁとか思って眺めつつ、それでも、そんな冷やかしの自分はとりあえず振り切っちまって、懸命に愛や勇気を歌う。

そういう屈折を抑え込んだ上での、愛やら勇気やらの歌だからこそ、どうしようもなくリアルに感じてしまう。

昨年のレコード大賞とったSignはすごくいいラブソングで心にしみる。「君が僕に向けてみせるサインを何ひとつ見落とさないよ。」って歌いあげつつ、実は、恋愛の脆さやはかなさが切り離せない陰として終始つきまとう歌詞。
リアルぅ!

さらには、シングル盤でSignといっしょに収録された2曲がなんとも良い。

「純真」なミスチルファンは、Signが終わったところで、急いで停止ボタンを押しているんじゃないだろうか。

Signにつづく2曲目では、夜の公園で偶然見かけた知らない女性がなぜかエッチさせてくれるという、とんでもなく都合のいい妄想を歌う。3曲目の最初では、今では妻も子もいるけど、それでも、むかしの恋人がエッチのあとでぬれちゃったシーツを洗濯機に投げ込む姿が忘れられないんだなぁ、と。
なかなか笑わせてくれます。

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2005/03/16

「私の研究は面白いですか?」その1(たとえばオデン屋にて)

 私が大学院生だった頃、今はもう退官された、とある大先生いわく、「自分の研究はどのような内容で、そのどこが面白いのか、3分以内で説明できなくてはいけない。」と。
 ただし、本当に「3分」とおっしゃったのか、実は「5分」だったのか、記憶が曖昧だが。

 それはともかく、この場合、説明する相手として想定すべきは同業者ではない。もし同業者が相手なら、「私は×××の問題について研究しています。」とひとこと言えば、「へぇー、×××ですか。それは面白いですね。」でコトは足りる。
 そうではなく、ここでは、「×××の問題」について何の予備知識も持っていない人が相手となる。ただし、最近は、同業者であっても、研究の細分化の影響で、「×××の問題」の面白さについて、事前の了解がほとんど成立しない場合が増えてきている。
 まあ、いずれにせよ、「×××の問題」に関する予備知識のない人を相手に、自分の研究の面白さなり、重要性なりを説明しなくてはならない、という状況を想定しよう。

 むろん、厳密には、相手が日本史に興味ある人か、歴史に興味ある人か、はたまた社会科学に興味ある人か、そうでないか、といった条件を考慮すべきだろうが、まずは大雑把に、近所のオデン屋のカウンターで偶然隣り合って意気投合したサラリーマンのおっちゃんを相手に、自分の研究を説明するといった場面を思い浮かべてみよう。

「ふーん、あんた、歴史の先生やってんだ。」
「ええ、そうなんです。日本史が専門です。」
「日本史っていうと、奈良時代とか、戦国時代とか?」
「いちおう、江戸時代から明治の始め頃がナワバリですね。」
「そうかぁ、江戸時代ねぇ。そういえば、この前、テレビかなんかで、切腹ってのは、実際、刀で腹を刺したり切ったりしないことが多かったって言ってたけど、本当なの?」
「いやぁー、そういうの、全然わかんないんですよね、私。すんません。ふだんは、町なかの露店だとか市場だとか、そういったものを研究してて、サムライのこととか、あんまり知らないんです。すみません。」

 ここで少し気まずい沈黙があって、たがいにビールのグラス傾けた後、やおら、こっちから、ライブドアの話や出身地の質問などへと話題を転じていく、ってのがよくあるパターンです。

 たまたま相手が心優しい人格者だったり、はたまた、会社では“接待の神様”という異名をもつ、話上手ノセ上手だったりすると、「露店や市場の研究ですか。楽しそうですね。むかしはこうしたオデン屋も、露店っていうか、屋台が多かったんですか?」という具合に話を継いでくれるかも知れない。
 そんな時、どうするか。

 と、まあ、“仮想オデン屋空間”のお話はこの位にして、「私の研究は面白いですか?」というタイトルで、次回から少しばかり、自分のこれまでの研究の内容紹介を書かせてください。このブログを読んでくださる皆さんに、「それって、ちょっと面白いかもね。」って思ってもらえるように頑張ってみます。

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幼児に作らせるメインディッシュ~“ミラノ風カツレツ”風カツレツほか

幼児に作らせるメインディッシュ~その1
超簡単ハンバーグ

1、赤身比率の多い牛ひき肉を、そのまま手でこねてハンバーグのかたちに成形する。子どもにやらせると、ハート形にしたり、星形にしたり、適当にあそんでくれる。うちでは、子どもの手に合わせて小さめのをひとり2~3個つくらせる。分量は適当に。

2、(その間、自分は刺身をつまみにビールのんだり、チーズをかじりながら赤ワインをぐびぐびやる)

3、成形できた肉に塩と胡椒をふる。何度かやってれば、子どもも塩の加減をおぼえる。少々しょっぱくても自己責任だよん。

4、よっこらしょと立ち上がって、ワイングラスを片手に、フライパンで両面を焼く。これで出来上がり。強火で表面をこんがり香ばしく焼くと、パリッとした表面と柔らかな内部との食感のコントラストが調子いい。

以上でできあがり。けっこう美味いですよ。ソースはお好みで。できれば、肉をひっくり返す直前くらいに、片手にもったグラスの赤ワインをフライパンにドボドボっと。これでソースが一緒にできます。ひき肉にありがちな臭みも抑えられます。普通は焼きあがった肉を取り出してから、フライパンにワインを入れて煮詰めるのでしょうが、こうやった方が、ひき肉の臭い消しには有効な気がします。第一、調理時間が省けるし。


幼児に作らせるメインディッシュ~その2
“ミラノ風カツレツ”風カツレツ

揚げ物ができるホットプレートがあれば、作りながら揚げたてが食べられ便利です。なくてもフライパンで平気だけど。

材料
一口カツ用の豚肉を用意する。スーパーに行けば、一口カツ用に切った豚もも肉とかが売ってたりします。なければ豚もも肉のブロックを自分で切ったり、あるいはヒレカツ用の豚肉を買ってくる。
あとは、卵と小麦粉とパン粉。揚げ油。できればパルミジャーノ(パルメザン)チーズ、それからバター。

作り方
1、ボールに生卵をといて、その中に、胡椒と、オリーブオイル少々。あれば、おろしたパルミジャーノ(パルメザン)チーズを入れる。それぞれ量は適当に。うちでは、ぜんぶ子どもがやってくれます。あとは、皿を2枚用意して、それぞれ、小麦粉とパン粉を入れておく。

2、肉を、肉たたきで薄く叩きのばす。これも子どもが喜んでやってくれます。薄く叩くと、火の通りが早いし、肉も繊維が壊れて柔らかくなり、子どもでも食べやすい。

3、薄く叩いた肉に塩をふります。特に仕上げで味付けしませんから、塩はややしっかりめに。

4、あとは、小麦粉の皿、卵のボール、パン粉の皿、揚げ油を180度くらいに熱したホットプレートを順に並べます。

5、さて、子どもに仕上げをさせましょう。肉に小麦粉をつけ、卵をくぐらせ、パン粉をしっかりめに押しつけて、ホットプレートにそっと投入。ホットプレートの油は、肉の厚さの半分が浸かる程度の少ない量でOK。フライパンで揚げる場合も同じ要領。途中で肉をひっくり返します。肉の両面の衣が美味しそうな色に揚がれば出来上がり。薄く叩いた肉には火が十分通ってます。揚げる油にバターを落として溶かすと、風味が増します。やらなくても大丈夫だけど。

熱々を食べましょう。大人が、材料の配置と熱い油の管理をやってやれば、あとはママゴト程度の作業です。卓上のホットプレートで揚げるようにすれば、ちょっとずつ、何枚か揚げては食べ、また揚げては食べ、ができます。

以前、子どもが友達を何人か連れてきてのホームパーティでも、みんなに作ってもらい、好評でした。

本当のミラノ風カツレツは子牛肉ですが、淡白な子牛肉は白身肉に近く、豚肉で十分代用可です。
ルッコラとプチトマトを同じ皿の中に盛れば、かなり、それっぽく仕上がります。

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2005/03/12

巡見~江戸を縦貫する10 地図から消えた浅草新町

江戸の古地図

 古地図を片手に江戸の名残を訪ね歩く人が増えている。そうした需要に応えてのことなのかもしれないが、近世期に発行された江戸図の複製や、それを盛り込んだガイドブックなどが数多く出版されている。以前は、印刷技術もそれほど進んでいなかったせいか、そうした複製をみたあとで、鮮やかに彩色された実物の地図にお目にかかると、作成されてから100年以上たっているにもかかわらず、複製をはるかに上回る実物の美しさに見とれたりもしたものである。ところが最近は、実物と比べて遜色のない複製本も売られるようになった。さらには、色の修正などが施されているせいか、実物よりも美しい(というか、刷り上がった直後の実物はきっとこんな感じだったのだろうというくらい鮮やかな)複製本も売られている。
 これらの地図に描かれた通りの一本一本、町名のひとつひとつを目で追っていると、江戸の町々が生き生きと蘇ってくる思いがする。
 しかし、そうやって蘇生することのない町がある。それは浅草新町である。

浅草新町の消去

 現在、「えた村 俗ニ新町ト云」などといった浅草新町の位置を示す原図の記載は、複製にあたって消去されることが一般的である。“部落問題”への配慮からである。同様の理由で複製にあたって地図上から抹消された文字は他にもいくつかある。
 そして多くの場合、そうした消去作業を施したという説明が複製図にはっきりと書き添えられることはない。それらの複製図の見事さに見とれていると、もともと、浅草新町などという町は、そこに存在しなかったかのようにも思える。というか、実際、浅草新町に関する歴史的知識がなければ、これらの地図を手にした人にとって、浅草新町という町は存在しなかったことになる。

寝た子は起こすな

 “部落問題”の解消のためには、寝た子を起こすな、という主張がある。差別の歴史や部落の位置などを、あいまいにしたり、隠したりし続けていれば、いずれ子や孫の世代では差別のことを知らない人が大多数となる。そうすれば差別は無くせる、というやり方である。逆に、地図などで部落の位置が知れ渡ると、差別が再燃する恐れがあるというわけである。
 今日、東京の町なかにはかつて被差別部落は存在しなかった、という俗説を信じる人が決して少なくないことを考えると、この寝た子を起こすなというやり方が、かなりの効果をもたらしたことは確かだろう。就職や結婚などをめぐる差別が減少しているのも確かであろう。一方、最近目立つのは、いわゆる“便所の落書き”的な嫌がらせの頻発だろうか。

常識

 相手の心を傷つける目的で行われるこのような確信犯的嫌がらせ自体を根絶することは、そもそも困難である。この場合必要なのは、社会一般が、そうした嫌がらせを愚かな“落書き”だと判断できるような“常識”を共有することだろう。
 また、こうした“常識”は、しばしば感情的で短絡的なものになりやすい“同和利権”をめぐる議論を、冷静かつ客観的に受けとめるためにも必須だと思う。
そんな“常識”を形成するためには、被差別部落に関するボカシのない歴史研究と教育を進める必要があるように思えるのだが。どうだろう。
 さらに一般論をつけくわえるなら、我々の社会が過去陥った愚行の数々については、その具体的な様相を知っておく方がよい。自虐的と呼ばれようがなんだろうが、それは絶対必要である。
 差別の問題だって、我々の社会は、差別の対象をときに交替させつつ、似たような愚行を、今日も将来も確実に繰り返す。
 そんなときに「ああ、俺たち、また似たようなバカやってるなぁ。」といちはやく覚醒するための“常識”は、ぜひ皆で共有しておきたい。差別に苦しむ誰かのためにも。そして、時や場所が変われば差別の対象となりうる自分のためにも。

 古地図の問題に戻れば、少なくとも部落解放同盟の中央本部は、かつての隠蔽方針から転換しつつあるみたいだ。江戸の古地図に浅草新町が復活する日はくるのだろうか。

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2005/03/11

江戸の橋、三橋、三橋会所 (後編)

通説批判

三橋会所について、江戸の歴史に関する代表的な事典(『江戸学事典』1994)を開くと、江戸の問屋が「三橋の架け替え・修復という幕府への協力姿勢を通じて、十組問屋を株仲間として公認してもらい、その再編強化をも目論むものであった。」と書かれている。つまり、問屋たちは、幕府に恩を売っておいて、自分たちの商売上の独占的権益を確保したのだとされる。

さらに、ここで三橋の維持管理という話が出てきた背景としては、「これらの橋の架け替え・修復には多額の費用がかかり、困窮財政の幕府にとってその出費は頭痛の種であったため、この十組問屋の申し出は、まさに渡りに船であった。」と説明されている。

問題となるのは、前の記事にも書いたとおり、この時期の三橋は、幕府が維持管理する両国橋とは異なり、民間が維持管理している橋だという点である。
つまり、「困窮財政の幕府にとってその出費は頭痛の種であった」という事典の説明は不可解なのである。

もちろん、民間の管理といっても、ときには幕府から拝借金などのかたちで援助がおこなわれていたようだから、多少は幕府のフトコロも痛んだかも知れないが、まあ、頭痛の種というほどのことではなかったと思う。


巨大インフラとしての三橋

では、会所を設立して三橋の維持管理を負担することが、なぜ問屋たちの権益強化を正当化しえたのか?

問屋たちが自分たちの利権を強化するために恩を売った相手を、ただ幕府ひとりとするのではなく、三橋を利用している都市住民一般に拡大すべきかもしれない。この仮説を展開していけば、都市の「公共」のあり方をめぐる議論にむすびつく。

そうではなく、永代橋崩落で民間による維持管理の限界が認識され、ここはやはり幕府による維持管理が必要である、という声が高まった矢先、問屋たちが代わりに維持管理を引き受けることで、幕府相手に恩を売った、という理屈が成り立つのかもしれない。この場合は、永代橋事故以前に橋を管理していた「民間」組織と、三橋会所という「民間」組織の差について議論すべきだろう。

ところで、三橋会所設立以前の段階では、権益強化をもくろむ問屋たちの“冥加表現方法”は何通りか想定可能だっただろう。たとえば、後に実現することになるが、幕府への現金上納という方法だってありえた。そうした何通りかのなかから三橋の維持管理というひとつの“表現方法”が選びとられた理由も問題である。

隅田川をまたぐ、当時としてはおそらく最大級の都市インフラストラクチャーであった三橋。その維持管理という行為がもったであろう、現代人の我々が想像する以上に重大なシンボリックな意味を考慮しながら、上に書いたいくつかの問題を今後考えてみるのが有効ではなかろうか。

会所の設立といえば、三重大の塚本明さんの画期的な研究(『岩波講座日本通史14』 1995)が今なお重要だろう。ただし、塚本さんが会所設立の時期的ピークと主張するのは宝暦-天明期。寛政改革以降、三橋会所設立の文化年間などは、都市において会所機構が否定されていた時期だと塚本さんは言う。いっそうの議論が必要。

こんなにふうに未開拓の論点にあふれた江戸の都市史研究。やる人がもっと増えて欲しいなぁ。

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2005/03/09

江戸の橋、三橋、三橋会所 (前編)

三橋会所って知ってますか?

高校で日本史を勉強した人は聞いたことがあるでしょう。江戸市中の問屋商人たちが、自分たちの流通独占体制を維持・強化しようとして、文化6(1809)年に作った組織です。

では、なぜその組織が三橋会所と呼ばれる組織なのか?昔から気になって仕方ありません。以前に発表した論文の註(後掲参考文献の第6章)でも、今後の検討課題だと書きました。この問題について、職場の同僚とのおしゃべりから、最近またムクムクと興味が湧いてきました。

なぜ三橋会所なのか?今、考えていることを、ここで少しまとめておきます。

現代、見事な長大橋は、それを架けた国の工業レベルの高さを象徴するという。橋の設計・建設技術はむろんのこと、高品質の建設素材を製造加工する技術も欠かせない。このように高度に発達した工業の総合力が架橋には必要とされるからである。ただ、そんなシンボルへの熱狂時代を過ぎた国では、築き上げた架橋技術が次代に引き継がれることなく、衰退してしまうこともあるらしい。例えば、アメリカなどでは、かつて建設した長大橋と同じクラスの橋を新たに架けようとしても、技術者を再結集したり、高品質の材料を揃えたりすることが、自前ではなかなか困難な状態にあるという話を、なにかのテレビ番組でみたことがある。

江戸時代、大川(隅田川)には、五本の橋が架けられた。上流から、千住大橋・大川橋(吾妻橋)・両国橋・新大橋・永代橋の五本である。そのうち、大川橋・新大橋・永代橋の三本をまとめて三橋と称した。ところでこれは、“大川に架かる橋を代表する三本の橋”という意味の呼称ではない。江戸市中を外れた場所の千住大橋は別にして、大川の橋といえば何と言っても両国橋が名高い。その両国橋を外して、なぜ三橋と呼ぶのかといえば、これら三本の橋は、お上(幕府)ではなく、町人たちが主体となって維持していた時期をもつからである。それに対して両国橋は、お上が架けて維持保全する橋=「御橋」であり続けた。

これらの橋が完成した当時の人々の感慨は、我々がかつて黒部第四ダムに抱いた思いや本四連絡橋を見物したときの感嘆に匹敵するか、あるいはそれを上回るものだったのかもしれない。余談の上の余談だが、今日、隅田川を渡る橋を木造でつくろうとしても、技術的に不可能な気もする。

 文化4(1807)年8月19日、富岡八幡の祭礼の見物客であふれた永代橋が突然落下した。2000人近い死者が出たともいう。当時、爛熟期の江戸が衰退に向かっている兆候を、この事件からなんとなく感じとる人がいたかもしれない。さしずめ、不沈船と呼ばれたタイタニック号の遭難事件が、世界経済のリーダーの地位から陥落寸前の英国に与えたのと似たショック。あるいは、不況にあえぐ某国の国産ロケットの打ち上げが失敗したというニュースを聞いたときに人々が感じた「技術大国」空洞化の印象。そんな連想をしてみた。

(後編につづく)

 参考文献: 三橋の維持管理体制の歴史について、詳しくは拙著『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社2002)の第2章を参照してほしい。

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2005/03/01

巡見~江戸を縦貫する9 山谷から浅草新町へ

山谷に泊まってみようかな 
 山谷の旅館街を歩いていると、観光旅行中とおぼしき外国人たちと何度かすれ違った。予約も不要で一泊2000円台の宿は、安くあげたい個人旅行者なんかにとっては魅力的だろう。出張のビジネスマンや受験生などの利用もあるという。そのうち自分も、浅草で飲んでて終電逃したら泊まってみようと思う。山谷にはバッハという名前の有名な喫茶店があって、コーヒーはめっぽう美味い。ここでモーニング・コーヒー飲んで帰るのも悪くない。
 初めて山谷に行ったのはもう20年くらいも前だ。それ以後、この町の雰囲気は確実に変わってきている。タコ部屋タイプの宿泊所は減ったような気もする。そして明らかに人影は薄くなってきた。ひとことで言えば、だんだんと枯れてきている感じ。
 こうして山谷が「枯れ」ていく一方で、現在の東京においては、新しい形態の“見えにくい”下層社会が、拡散しながら着実に拡大しているのだろう。

浅草新町 
 さて、巡見一行は、山谷をあとにして旧・浅草新町方面へと向かう。江戸の浅草新町は、関東の「えた頭」、弾左衛門の屋敷がおかれ、江戸において「えた」身分とされた人々が弾左衛門の支配の下で集住した場所である。南北に細長い浅草新町の中央をたてにメインストリートが貫通する。その北端が裏門で南端が表門。弾左衛門の屋敷はその表門寄りにあった。
 まず裏門があったと考えられる場所にたどりつく。そこから、かつてのメインストリートを表門があった方へと下っていく。現在、道の両側の景色は、この周辺他地域の“下町”風景と変わるところはない。皮革関連の町工場や商店がやや目立つ。

メインストリートを歩きながら考える浅草新町についての研究課題
 江戸の浅草新町に関する研究は、最近停滞気味に思える。特に関西、京都・大坂あたりのそれと江戸とを比べた場合、そう思える。新しく発表される研究論文の数も減っているように感じる。たしかに史料的には困難な条件も存在するだろう。利用しうるわずかな史料、それもすでに先行研究の手垢のついた史料をもとに新しい議論を組み立てるのは大変である。
 しかし、未検討の重要な論点も数多く残されているように思える。周知のごとく、浅草新町では皮革加工や燈心製造などの産業を基盤に活発な経済活動がみられる。こうした活発な経済活動の結果、本来の弾左衛門支配組織における上下関係とは異なったかたちの社会階層の分化が予想される。そうして近世段階で成立した階層分化は、近代の「解放」令以後の被差別部落のあり方にも当然大きな影響をもたらしたと考えられるが、実態は不明である。
以前、浅草新町の土地の売買証文(沽券)をいくつか読んだ。これら土地売買の背景には上に述べた経済活動と階層分化があったかもしれない。ところで、土地の売買は新町の居住者同士に限定されていたのだろうか?
 さらには、そうした証文を読むと、土地の売買にともなう役負担の移動が部分的だが確認される。浅草新町における「えた」の諸役とは、完全に人に付いた役だと勝手に思い込んでいたら、どうやら違うらしい。町人の役と同様、土地(屋敷)に付いた役かどうかという点についても議論が必要だと思う。これは身分論的には非常に重要な論点だと思うけど。すでに検討がなされていて、不勉強な私が知らないだけだろうか。詳しい方はご教示をくださいな。

 現在は閑散としたかつての新町のメインストリートを歩きながら、近世、この通りに人があふれ、その中を原材料や商品を積んだ大八車が行き交う光景を想像してみた。

※なお、この記事中にはいわゆる身分差別的呼称が含まれていますが、いうまでもなく、差別的意図や差別を助長する意図をもって用いたものではありません。歴史研究と身分差別の問題については、次号の記事(江戸を縦貫する10)で少し考えてみる予定です。

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