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2005/03/01

巡見~江戸を縦貫する9 山谷から浅草新町へ

山谷に泊まってみようかな 
 山谷の旅館街を歩いていると、観光旅行中とおぼしき外国人たちと何度かすれ違った。予約も不要で一泊2000円台の宿は、安くあげたい個人旅行者なんかにとっては魅力的だろう。出張のビジネスマンや受験生などの利用もあるという。そのうち自分も、浅草で飲んでて終電逃したら泊まってみようと思う。山谷にはバッハという名前の有名な喫茶店があって、コーヒーはめっぽう美味い。ここでモーニング・コーヒー飲んで帰るのも悪くない。
 初めて山谷に行ったのはもう20年くらいも前だ。それ以後、この町の雰囲気は確実に変わってきている。タコ部屋タイプの宿泊所は減ったような気もする。そして明らかに人影は薄くなってきた。ひとことで言えば、だんだんと枯れてきている感じ。
 こうして山谷が「枯れ」ていく一方で、現在の東京においては、新しい形態の“見えにくい”下層社会が、拡散しながら着実に拡大しているのだろう。

浅草新町 
 さて、巡見一行は、山谷をあとにして旧・浅草新町方面へと向かう。江戸の浅草新町は、関東の「えた頭」、弾左衛門の屋敷がおかれ、江戸において「えた」身分とされた人々が弾左衛門の支配の下で集住した場所である。南北に細長い浅草新町の中央をたてにメインストリートが貫通する。その北端が裏門で南端が表門。弾左衛門の屋敷はその表門寄りにあった。
 まず裏門があったと考えられる場所にたどりつく。そこから、かつてのメインストリートを表門があった方へと下っていく。現在、道の両側の景色は、この周辺他地域の“下町”風景と変わるところはない。皮革関連の町工場や商店がやや目立つ。

メインストリートを歩きながら考える浅草新町についての研究課題
 江戸の浅草新町に関する研究は、最近停滞気味に思える。特に関西、京都・大坂あたりのそれと江戸とを比べた場合、そう思える。新しく発表される研究論文の数も減っているように感じる。たしかに史料的には困難な条件も存在するだろう。利用しうるわずかな史料、それもすでに先行研究の手垢のついた史料をもとに新しい議論を組み立てるのは大変である。
 しかし、未検討の重要な論点も数多く残されているように思える。周知のごとく、浅草新町では皮革加工や燈心製造などの産業を基盤に活発な経済活動がみられる。こうした活発な経済活動の結果、本来の弾左衛門支配組織における上下関係とは異なったかたちの社会階層の分化が予想される。そうして近世段階で成立した階層分化は、近代の「解放」令以後の被差別部落のあり方にも当然大きな影響をもたらしたと考えられるが、実態は不明である。
以前、浅草新町の土地の売買証文(沽券)をいくつか読んだ。これら土地売買の背景には上に述べた経済活動と階層分化があったかもしれない。ところで、土地の売買は新町の居住者同士に限定されていたのだろうか?
 さらには、そうした証文を読むと、土地の売買にともなう役負担の移動が部分的だが確認される。浅草新町における「えた」の諸役とは、完全に人に付いた役だと勝手に思い込んでいたら、どうやら違うらしい。町人の役と同様、土地(屋敷)に付いた役かどうかという点についても議論が必要だと思う。これは身分論的には非常に重要な論点だと思うけど。すでに検討がなされていて、不勉強な私が知らないだけだろうか。詳しい方はご教示をくださいな。

 現在は閑散としたかつての新町のメインストリートを歩きながら、近世、この通りに人があふれ、その中を原材料や商品を積んだ大八車が行き交う光景を想像してみた。

※なお、この記事中にはいわゆる身分差別的呼称が含まれていますが、いうまでもなく、差別的意図や差別を助長する意図をもって用いたものではありません。歴史研究と身分差別の問題については、次号の記事(江戸を縦貫する10)で少し考えてみる予定です。

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