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2005/03/09

江戸の橋、三橋、三橋会所 (前編)

三橋会所って知ってますか?

高校で日本史を勉強した人は聞いたことがあるでしょう。江戸市中の問屋商人たちが、自分たちの流通独占体制を維持・強化しようとして、文化6(1809)年に作った組織です。

では、なぜその組織が三橋会所と呼ばれる組織なのか?昔から気になって仕方ありません。以前に発表した論文の註(後掲参考文献の第6章)でも、今後の検討課題だと書きました。この問題について、職場の同僚とのおしゃべりから、最近またムクムクと興味が湧いてきました。

なぜ三橋会所なのか?今、考えていることを、ここで少しまとめておきます。

現代、見事な長大橋は、それを架けた国の工業レベルの高さを象徴するという。橋の設計・建設技術はむろんのこと、高品質の建設素材を製造加工する技術も欠かせない。このように高度に発達した工業の総合力が架橋には必要とされるからである。ただ、そんなシンボルへの熱狂時代を過ぎた国では、築き上げた架橋技術が次代に引き継がれることなく、衰退してしまうこともあるらしい。例えば、アメリカなどでは、かつて建設した長大橋と同じクラスの橋を新たに架けようとしても、技術者を再結集したり、高品質の材料を揃えたりすることが、自前ではなかなか困難な状態にあるという話を、なにかのテレビ番組でみたことがある。

江戸時代、大川(隅田川)には、五本の橋が架けられた。上流から、千住大橋・大川橋(吾妻橋)・両国橋・新大橋・永代橋の五本である。そのうち、大川橋・新大橋・永代橋の三本をまとめて三橋と称した。ところでこれは、“大川に架かる橋を代表する三本の橋”という意味の呼称ではない。江戸市中を外れた場所の千住大橋は別にして、大川の橋といえば何と言っても両国橋が名高い。その両国橋を外して、なぜ三橋と呼ぶのかといえば、これら三本の橋は、お上(幕府)ではなく、町人たちが主体となって維持していた時期をもつからである。それに対して両国橋は、お上が架けて維持保全する橋=「御橋」であり続けた。

これらの橋が完成した当時の人々の感慨は、我々がかつて黒部第四ダムに抱いた思いや本四連絡橋を見物したときの感嘆に匹敵するか、あるいはそれを上回るものだったのかもしれない。余談の上の余談だが、今日、隅田川を渡る橋を木造でつくろうとしても、技術的に不可能な気もする。

 文化4(1807)年8月19日、富岡八幡の祭礼の見物客であふれた永代橋が突然落下した。2000人近い死者が出たともいう。当時、爛熟期の江戸が衰退に向かっている兆候を、この事件からなんとなく感じとる人がいたかもしれない。さしずめ、不沈船と呼ばれたタイタニック号の遭難事件が、世界経済のリーダーの地位から陥落寸前の英国に与えたのと似たショック。あるいは、不況にあえぐ某国の国産ロケットの打ち上げが失敗したというニュースを聞いたときに人々が感じた「技術大国」空洞化の印象。そんな連想をしてみた。

(後編につづく)

 参考文献: 三橋の維持管理体制の歴史について、詳しくは拙著『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社2002)の第2章を参照してほしい。

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コメント

「職場の同僚とのおしゃべりから、最近またムクムクと興味が湧いてきました。」
ん? お呼びですか? 永代橋崩落、映画にしてみたい。かっこいい男の恋人が落ちて死んじゃうはなし。タイタニック調で。

投稿: 高尾 | 2005/03/10 12:27

映画の構成は、月並みなところで、何組かの男女や親子などを中心としたオムニバス風にして、それぞれの当事者が、あの日、事故に遭遇するというかたちがいいでしょうか?
それはともあれ、幕末の写真とかで両国橋や三橋の姿を見ると、凄いモノを作って維持してたんだなぁと感心します。本記事にも書いたけど、いま同じモノを作れって言われても、もう作れないんじゃないかなぁ。神社仏閣の方をやる宮大工さんはまだ頑張っていらっしゃるみたいですが、橋大工はもういらっしゃらないんじゃないかな。

投稿: 小林信也 | 2005/03/11 11:49

初めてお便りいたしますことをお許し下さい。
 大阪におりますが、江戸の橋に興味があって色々と調べております。主として『東京市史稿』を見て調べておりますが、『橋梁篇』は安永年間で中断しておりますし、大阪の公共図書館では市街編などが全部がそろっていませんので史料を見るのにも時間がかかってしまいます。
 現在、江戸の特に御入用橋の建設、補修費をだれがどんな形で出したのかを調べておりますが、はっきりしたことが分からず、立ち止まっておりました。そこで、先生の著書を見つけ、新大橋の管理制度の変遷をを明確に分類されているのを読ませて頂き、目から一枚の鱗が落ちた気がしました。
 そこで、お教え頂きたいのは、御著『江戸の民衆世界と近代化』の57pの14行目の「十組引受御免、御入用橋に相成候」と16行目の「三橋御手当町屋敷」の旧幕引継書の整理番号です。番号が分かれば、国会図書館へコピーの請求をしたいと考えております。
 旧幕引継書のごく一部を見たことはありますが、相当膨大なもののようで、橋に関わる部分に目を通すのにも大変な印象をもっています。
 お差し支えがなければぜひお教え下さるようお願い致します。
 また、幸田成友『江戸と大阪』の80pに「……天保改革の時に十組問屋は解散を命じられ、冥加金上納は中止となった。それからは町方の付属地、助成地の地代で三橋の修繕をした。毎年724両の予定額ですが、これは修繕費で、架替費は町会所の積立金から支出した。」と書かれておりますが、この根拠となる文献をご承知でしたらお教えください。特に「町会所から支出した」というのは本当でしょうか?
 三橋が永代橋落橋後、直轄化されたのかにつきましては、私は、民営化された橋はその構造が貧弱になってしまい、幕府が危機感を持ったためではないかと考えております。永代橋と新大橋の構造を推定する資料を得ておりませんが、安永三年に架けられた大川橋の仕様から新設の坪単価は11両ほどになります。これに対して両国橋の寛保四年の仕様では継杭を多用する最安値のものでも坪当たり30両、継杭を少なくすると50両にもなっております。そのため、両国橋では杭の太さが2尺もありますが、大川橋では1尺から1尺2寸で、根入れも随分違っていたようです。
 このように幕府が一貫して費用負担をしていた両国橋と他の3橋では費用のかけ方が違い、3橋は構造的に貧弱で、耐久性に不安があったのではないでしょうか。可能なら橋の構造が分かる資料をもっと得たいと思っております。
 勝手なことを書きましたが、ご容赦ください。お願いの件よろしくお願いいたします。
  小林信也先生
               松村 博拝

投稿: 松村 博 | 2005/03/30 14:39

松村様、ていねいなお便りありがとうございます。また、拙著に目を通していただいたとのこと、光栄です。

早速ですが史料典拠についてご報告します。「十組引受御免、御入用橋に相成候」の文言は、旧幕府引継書『新大橋』(806-69)全5冊のうちの第5冊「弘化三 新大橋付手当舟一件書留・弘化五 大川橋西橋番屋修復一件」に収められた、弘化4年5月付「新大橋掛り名主共」差出の返答書(写)からの引用です。見出しに「新大橋東西御橋番屋・・・」とある文書です。この史料は拙著の別の箇所(63・64頁)で部分的に引用していますので、そちらもご参照ください。肝心の文言部分は略してしまってますが。

なお、この史料は、たしか、以前行われた旧幕府引継書のマイクロ化の対象からは外れていたと思います。私は原文書を筆写して利用しました。最近、国会図書館では追加のマイクロ化が相当進んでいるようですが、あいにく詳細を知りません。

同様の文言(「仲間」の「引受御免」で「町方御入用橋」になった、等々)は、やはり旧幕府引継書『町方書上』(803-1)の「大川橋書上」・「新大橋書上」・「永代橋書上」からも拾えます。こっちは確実にマイクロ化されており、また細目も国会図書館が作っていますから、利用しやすいです。各橋「書上」の請求記号等は、細目をご覧になるか、国会図書館に問い合わせるかしてください。

「三橋御手当屋敷」の方は、いろんな史料に出てきますが、さしあたり、旧幕府引継書『三橋』(806-70)全?冊のうち第11冊の「永代橋新大橋大川橋 弘化ニ巳年同三午年両年分右三橋御手当屋敷地代金取立御入用仕払御勘定目録」などがあります。これもマイクロ化されているかどうか分かりません。私が閲覧した当時は、マイクロがなくて、やはり原文書を利用しました。

幸田成友氏の「町会所の積立金から支出した」は誤りだと思います。たしか大川橋だったと思いますが、普請費用を町会所の積立金でいったん立て替えて、その後、手当屋敷の地代などでもって返済する、ということがあったようです(上掲の「三橋」第11冊などを参照)。あくまで、立て替えですから、幸田氏のいう「支出」は厳密には誤りということになると思います。なお、三橋会所設立以前の町橋段階においても、町会所の積立金による立て替えはあります。

私が実際に史料分析をして論文を書いたのは10年以上も前のことだったので、当時の史料が見つかるか不安でしたが、まずは以上のとおり、ご報告します。

両国橋と三橋とでは、いろいろ規格も違うんでしょうね。橋の幅や高さなども、橋ごとにずいぶんと違うのでしょうか?おっしゃるとおり、三橋は構造も貧弱だった可能性が大きいと思いますが、規模自体にもかなり差があったりはしないのでしょうか?御入用橋化されたあとの三橋において構造強化が施されたか否かが論点になるのですね?

旧幕府引継書には、文政2年以降の御入用橋段階の関係史料が、おそらくは軽く3桁の冊数に達する量で残されていたと思います。先にも書きましたが、そのかなりの部分は、以前のマイクロ化事業の対象外だったため、細目などもありません。きっとその中には、松村様のお役に立つような、仕様書や勘定書が含まれていると思います。

投稿: 小林信也 | 2005/03/31 00:55

小林先生 どうもありがとうございました。東京出張のチャンスがあり、時間を見つけて国会図書館へ行ってきました。旧幕引継書のマイクロ化が進んでおりまして、お教え頂いた文献はコピーの依頼ができました。
古文書を読む訓練ができておりませんので、これからが大変です。
まずは御礼とご報告まで。     松村 博

投稿: 松村 博 | 2005/04/12 11:39

松村先生、わざわざのご報告、ありがとうございます。
私事で恐縮ですが、現在、東京都公文書館で『東京市史稿』産業篇の編さんのお手伝い(お邪魔?)をさせてもらってます。次巻(来年度)の産業篇には、三橋会所関係の史料がたくさん掲載される予定です。その準備作業として、もう一度、三橋の維持管理制度の概史をまとめる作業に取り組んでいます。ゆくゆくは、大坂の橋々の維持管理制度との比較対照も試みたいと思っています。その際には、よろしくご教示をお願いします。

投稿: 小林信也 | 2005/04/12 22:51

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