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2005/03/11

江戸の橋、三橋、三橋会所 (後編)

通説批判

三橋会所について、江戸の歴史に関する代表的な事典(『江戸学事典』1994)を開くと、江戸の問屋が「三橋の架け替え・修復という幕府への協力姿勢を通じて、十組問屋を株仲間として公認してもらい、その再編強化をも目論むものであった。」と書かれている。つまり、問屋たちは、幕府に恩を売っておいて、自分たちの商売上の独占的権益を確保したのだとされる。

さらに、ここで三橋の維持管理という話が出てきた背景としては、「これらの橋の架け替え・修復には多額の費用がかかり、困窮財政の幕府にとってその出費は頭痛の種であったため、この十組問屋の申し出は、まさに渡りに船であった。」と説明されている。

問題となるのは、前の記事にも書いたとおり、この時期の三橋は、幕府が維持管理する両国橋とは異なり、民間が維持管理している橋だという点である。
つまり、「困窮財政の幕府にとってその出費は頭痛の種であった」という事典の説明は不可解なのである。

もちろん、民間の管理といっても、ときには幕府から拝借金などのかたちで援助がおこなわれていたようだから、多少は幕府のフトコロも痛んだかも知れないが、まあ、頭痛の種というほどのことではなかったと思う。


巨大インフラとしての三橋

では、会所を設立して三橋の維持管理を負担することが、なぜ問屋たちの権益強化を正当化しえたのか?

問屋たちが自分たちの利権を強化するために恩を売った相手を、ただ幕府ひとりとするのではなく、三橋を利用している都市住民一般に拡大すべきかもしれない。この仮説を展開していけば、都市の「公共」のあり方をめぐる議論にむすびつく。

そうではなく、永代橋崩落で民間による維持管理の限界が認識され、ここはやはり幕府による維持管理が必要である、という声が高まった矢先、問屋たちが代わりに維持管理を引き受けることで、幕府相手に恩を売った、という理屈が成り立つのかもしれない。この場合は、永代橋事故以前に橋を管理していた「民間」組織と、三橋会所という「民間」組織の差について議論すべきだろう。

ところで、三橋会所設立以前の段階では、権益強化をもくろむ問屋たちの“冥加表現方法”は何通りか想定可能だっただろう。たとえば、後に実現することになるが、幕府への現金上納という方法だってありえた。そうした何通りかのなかから三橋の維持管理というひとつの“表現方法”が選びとられた理由も問題である。

隅田川をまたぐ、当時としてはおそらく最大級の都市インフラストラクチャーであった三橋。その維持管理という行為がもったであろう、現代人の我々が想像する以上に重大なシンボリックな意味を考慮しながら、上に書いたいくつかの問題を今後考えてみるのが有効ではなかろうか。

会所の設立といえば、三重大の塚本明さんの画期的な研究(『岩波講座日本通史14』 1995)が今なお重要だろう。ただし、塚本さんが会所設立の時期的ピークと主張するのは宝暦-天明期。寛政改革以降、三橋会所設立の文化年間などは、都市において会所機構が否定されていた時期だと塚本さんは言う。いっそうの議論が必要。

こんなにふうに未開拓の論点にあふれた江戸の都市史研究。やる人がもっと増えて欲しいなぁ。

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