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2005/04/28

ミョウガのスパゲッティ

イタリアの田舎町で食べた、忘れられない味のパスタがある。
それは、カルチョーフィのパスタ。

カルチョーフィというのは、英語でいうアーティチョーク。和訳すると朝鮮アザミとかいうそうだ。
そのカルチョーフィのみじん切りを、ニンニクと唐辛子をきかせたオイルで軽く炒め、それをソースとして麺に絡めたものだ。カルチョーフィは日本でも時々売られているので、何度か家でも作ってみた。美味しい。ただし、フレッシュにかぎる。水煮?の瓶詰めとかじゃ、まるでだめ。

で、日本の野菜山菜を使ってその真似をしたいと思い、いろいろと試してきた。
カルチョーフィは、かなりアクが強い。味は違っても、それに匹敵するクセの強い素材がないものか、と。

お寿司屋さんの「ガリ」をみじん切りにして、ニンニク・唐辛子オイルとあわせ、スパゲッティにあえる。これは、なかなか美味しかったけど、やや、甘さが邪魔かも。甘さを抑えた「ガリ」を探すか、自作するか。

以前、フキノトウのみじん切りを試したけど、いまいち。

最近、タラノメのみじん切りでもやってみた。これはまあまあ美味しいけど、やや淡白。タラノメの分量を増やしたり、加熱具合を再調整して、もういちどやってみよう。

で、比較的成功したのは、ミョウガ。ミョウガの好きな人はぜひお試しを。

1、フライパンのオリーブオイルにニンニクと唐辛子をいれて弱火。ニンニクはたたいてつぶしたもの。みじん切りを入れると強すぎる。唐辛子もニンニクも早めに取り除いて、利かせ過ぎないように注意。

2、細めのスパゲッティを茹で始める。

3、茹で汁適量をフライパンに入れてよく混ぜる。ドレッシングを作る要領。

4、麺が茹で揚がる直前に、みじん切りのミョウガ(一人分4~5個)をフライパンに入れて、ごく軽く加熱。塩を入れて味をみる。こしょうなどは入れない方がいいと思う。

5、茹で揚がった麺の湯をよく切って、フライパンにいれてあえる。出来上がり。

先日、笹塚のイタリア料理店サルサズッカで、面白いパスタを食べました。
麺は、スパゲッティじゃなくて、タリオリーニ。手打ちの細め平麺ってところ。
たらのめ、こごみ、つくし が入っていた。あと、ウドかなにか。
つくしを使ったパスタは昔から作ってみたかった。でも、今回食べて、かなり淡白だとわかった。工夫がいりそう。
それはともあれ、今回サルサズッカのタリオリーニは美味かった。

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2005/04/27

「私の研究は面白いですか?」その8

出稼ぎをする人々
 ここまで、江戸の町人の最多数を占める其日稼ぎの人々について、その居住形態や生計などをみてきました。
ところで、前々回、其日稼ぎの人々の多くは、出稼ぎという働き方をしていた、とお話しました(なお、「出稼ぎ」というのは当時の史料用語です)。
 其日稼ぎの人々のほとんどは、裏店(裏長屋)に住んでいます。裏店というところは、低家賃の賃貸アパートみたいなものです。簡単な内職仕事ぐらいはできるものの、そこは主に寝起きのための空間です。
 其日稼ぎの人々のうち、商売を営む人々は当然、自分の住む裏店から出て、行商、あるいは、床店などの露店商いをやっています。日雇いの人足たちは、それぞれの“現場”へと出かけて働きます。
 職人のうち、大工や左官はそれと同じです。細工物などをする職人はどうでしょうか。これについては、従来、さしたる分析作業もなく、なんとなく「居職」であるとして、つまり、自分の部屋で仕事をしている職人として扱われることがありましたが、その扱いに対して、私は疑問を持っています。詳しい説明は省きますが、従来「居職」とされてきた職人のなかには、親方職人が構える作業場へと出かけていって、そこで仕事をする裏店住まいの職人、つまり出稼ぎの職人が少なからず含まれると思っています。
 仮に、「居職」の可能性について最大限留意するにしても、それを除いた大多数の其日稼ぎの人々は、自分の寝起きする裏店から外へ出かけていって仕事をする、出稼ぎの人々です。
 表店に常設店舗を構える商人や、同じく表店に作業場兼売り場をもつ親方職人たちにおいては、職と住の場所が一致しています。そんな職住一致の表店の人々とは対蹠的に、其日稼ぎの人々の多くは、職住不一致の生活を送っていたのです。

町内完結社会とは
 江戸、および明治初期東京の町人社会の特徴をめぐって、小木新造さんという人が、町内完結社会論を主張しています。小木さんは、江戸東京学を提唱した中心的人物でもあります。
 小木さんは、「小商人、職人、雑業層」といった「庶民」の暮らしに注目しながら、そうした人々の生活はそれぞれの町内で完結する傾向が強かったとして、町内完結社会なる概念を作りました。
 小木さんいわく「町内完結社会とは、・・・ 小商人層、諸職人層、雑業層を主体とする一町内単位の生活圏をいう。その行動範囲も狭く、その生活意識も旧来の“しきたり”“きまり”に拘束され、たえず“世間様”がその生活行動を律する社会で、きわめて封鎖的である。」、「町内完結社会とは、極めて土着的な性格であった。伝統に生き、しきたりに拘束され、いきのつまる要素がないとはいえない。・・・ しかし、そこには逆に現代が喪失してしまった血のかよいあった地縁的人間関係が息づいていたことも見逃してはなるまい。」(小木新造『東亰庶民生活史研究』日本放送出版協会1979、終章および結語より)。

町内完結社会論に対する批判
 しかし、この町内完結社会という概念は大きな欠陥をかかえています。その欠陥とは何か。今回のシリーズ記事をここまで読んでこられた方は、もうお分かりだと思います。小木さんが注目する庶民=「小商人、諸職人、雑業層」といった人々は、このシリーズ記事で取り上げてきた其日稼ぎの人々に他なりません。そして、多くの場合、出稼ぎをする彼らの仕事の場は、町の外にあります。つまり、彼らの生活の特徴は、町内でそれが完結しえない点にあるのです。
 彼らの生活のうち、居住=寝食の要素を最重要視するなら、小木さんのいわれる町内完結社会論も成立します。しかし、社会の仕組みについて考える場合、人々の仕事とそれがおこなわれる場、そこで取り結ばれる社会関係といった要素を捨象してしまうことは不可能だと思います。居住にかかわるあれやこれやよりも、仕事にかかわるあれやこれやの方こそを基本に据え直して、社会の仕組みを考えるべきではないでしょうか。

 つまり、江戸の町人の最多数である其日稼ぎの人々に注目すると、彼ら彼女らが、江戸という都市社会のなかで生き抜くために、自分の住む町の外部世界においてどのような出稼ぎの場を獲得していたのか、という問題が、重要な論点となるのです。

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2005/04/23

日清カップヌードルのCM

カップヌードルのCMの最新版には、銃をもってパトロールする少年兵が登場。
広がる青い海の美しさと、その彼方をみる少年の姿に心を打たれた。
もちろん、そこに流れるミスチルの歌もすごく良い。

だが、どうやら、このCMにはクレームがついたようだ。
放送は中止だとか。日清のHPからも関連ページが落ちている。

アニメで子供らが武器を扱うシーンはOKだが、実写だとダメってことなんだろう。おそらく。
報道番組で十分な説明を付けて実際の少年兵を取り上げるのはOKだが、CMにいきなり少年兵を登場させるのはダメってことなんだろう。おそらく。

でも、説明なんてなくったって、あの少年の姿が投げつけてくるインパクトだけで十分な気もする。
視聴者が子供であっても、そのインパクトを受け止めてCMの意図の本質を直感的に理解できると思うんだけど。無理かなぁ。
家庭において、親子で遠い国の少年兵の問題を話しながら、戦争について考える良いきっかけにもなると思うんだけど。だめかなぁ。

残念でした。制作者の方々、これにめげず、シリーズの続作、頑張って下さい。

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「私の研究は面白いですか?」その7

 前々回、前回で、江戸の町人の最多数は其日稼ぎの人々であったことを確認しました。また、そんな其日稼ぎの人々の多くが暮らしていた裏店(裏長屋)は、町内のどのような場所に建てられていたのかということをお話しました。裏店といっても、これは店舗ではありません。道路から離れた、町屋敷の裏手部分に建てられ、主に住居として貸し出される建物です。上野山下の床店商人だった文蔵も、そうした裏店に寝起きする其日稼ぎの典型です。

其日稼ぎの人々の生計
 ここで、其日稼ぎの人々の生計をみることにしましょう。江戸時代の中ごろ、江戸の日雇い人足の賃金はだいたい200~300文くらいです。江戸時代後期、江戸の救済機関である町会所が、生活に困窮した其日稼ぎの人々に支給する救済金も、だいたい250文、300文という日額ですから、200~300文が、其日稼ぎの人々の平均収入(1日あたり)と考えてよさそうです。
 それに対して生活費は、たとえば家族4人暮らしの場合、物価にもよりますが、だいたい日額250文程度が必要とされています。夫の収入のほかに、妻子の得る賃収入も幾分かはあったと思いますが、その日の収入の大部分をその日のうちに使い果たしてしまう人たちが多かったと考えられます。だからこそ、彼ら彼女らは、其日稼ぎとか、其日暮らしとか呼ばれているわけです。

表店との格差
 そんな暮らしから抜け出て、たとえば、道路に面した表店に、立派な常設店舗を構えるためにはどのくらいお金が必要だったのでしょうか。
 以前、私がみた史料によると、餡子や白玉粉の製造販売をする店の権利金が20両ぐらいでした。他業種の店とくらべて、この額は決して高いものではないと思われます。其日稼ぎの人の収入を1日あたり250文前後とすれば、この権利金はざっと年収の1倍半強といったところでしょうか。
 ただし、それで手に入るのは、単に店の権利のみ。仕入れ金や人件費などを含めた開店経費全部で一体いくらかかるのか不明ですが、先に見たように、貯蓄もままならず、ときには質屋通いなどをしながらかつかつの生活を送る其日稼ぎの人々にとって、表店に店を構えるには、なかなか越えられない高いハードルがあったといえます。
 脱サラして退職金を元手にラーメン屋開業、といった具合にはいかないのです。年金も払えないフリーターが繁華街に自分の店を持とうとするのと同じくらい難しかったのではないでしょうか。
 おそらくは、幼少の頃からどこかの商店で住み込みの奉公人として働きながら、その真面目さと商才を主人からかわれたごく一握りの者が、主人の援助も受けながらいつの日か独立して自分の店を持つ、といったようなコースが、其日稼ぎからの脱出方法としてもっとも一般的だったのではないでしょうか。
 他にも、商才と好運に恵まれた人が行商や露店商売で大成功を収め、表店の商店の主人に出世するという例もありますが、それは大半の其日稼ぎの人々にとって、めったにかなうことのないサクセスストーリーだったと思います。


 今回は、裏店に暮らす其日稼ぎの人々の階層と、表店に常設店舗を構えているような人々の階層との間に、大きな格差があったことについてお話ししました。

予告
 ところで、江戸の町々は、それぞれ、閉鎖的で完結した地域コミュニティ=町内完結社会を形成していた、などという話をよく耳にします。こうした見方はさらに展開して、そんな濃密なコミュニティがあったからこそ、町々の治安は良かっただとか、人々のマナーが洗練されていたとかいった主張も生まれたりしてます。
 次回は、ここまでみてきた裏店に暮らす人々の立場に視点を置いて、そんなコミュニティ論にイチャモンをつけてみましょう。

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2005/04/18

巡見~江戸を縦貫する12 浅草寺の宗派はどこ?

分離独立
 
 さて、ここで問題です。現在、浅草寺はどの宗派に属しているでしょうか?

 江戸時代、浅草寺が上野寛永寺と深い関係にあったことを知っている人は、天台宗って答えるかもしれませんね。でも正解は、天台宗ではありません。

 浅草寺は、独自の宗派「聖観音宗」を自分で立ち上げています。ただし、「聖観音宗」ができたのは昭和25年のことで、それ以前、浅草寺は天台宗に属していました。その天台宗から分離独立して「聖観音宗」を作ったというわけです。

 千数百年の歴史を持つという浅草寺も、現在の宗派の歴史という面からみれば、新興宗教と言えるのかもしれません。

 現在、「浅草寺」を中心に、たしか24ヶ院くらいの子院がまとまって、“グループ浅草寺”=「聖観音宗」を構成しているようです。そのうち、2、3ヶ院をのぞいた子院20ヶ院余りがまとまって“入居”している僧坊が、前回の記事で紹介したお寺のアパートです。

浅草寺の「受難」史

 ところで、江戸時代、将軍綱吉がかの生類憐み令を出した頃から、この「聖観音宗」ができる昭和20年代なかばまで、浅草寺は250年以上の長きにわたって「受難」の歴史を歩んだとされています。

 次回は、その浅草寺「受難」史のうち、明治維新期から戦後昭和20年代なかばまでの流れをおおまかに紹介します。

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「私の研究は面白いですか?」その6

其日稼ぎ・裏店・出稼ぎ
 
前回、江戸の町人の半分くらいは其日稼ぎ(そのひかせぎ)の人々で、それが町人の最多数であったとお話しました。したがって、江戸の町人社会について考える場合、其日稼ぎの人々について検討することが最重要課題のひとつだともいえます。もちろん、其日稼ぎの人々について検討すれば町人社会がすべてわかる、というものではありませんが、其日稼ぎの人々を視野から欠いた研究は、江戸の町人社会の研究として、かなり大きな欠落をかかえてしまうことだけは間違いありません。
 そんな其日稼ぎの人々の多くは、当時、裏店(うらだな)と呼ばれる場所を居所としていました。今回はその裏店についてお話します。

裏店ってどんなところ?

 先の記事で、其日稼ぎの典型としてその暮らしぶりを分析した床店商人の文蔵も、幡随院門前という名前の町(ちょう)の裏店に住んでいると考えられます。
 では、その裏店とは、どんなところだったのでしょうか。まずは江戸の町人地の基本的構成を簡単に紹介します。そのなかで裏店はどのような位置にあったのか確認しましょう。

江戸の町人地は、町(ちょう)の集合体
 
 江戸時代の後期になると、江戸の町人地は、だいたい1500~1600の町(チョウ)で構成されていました。「花のお江戸は八百八町」と歌うTV時代劇の主題歌も昔ありましたが、「八百八」は修辞表現で、町の実数はその約2倍です。
 これら1500~1600個もある町が、江戸の町人社会の基本単位です。ひとつひとつの町が個別のコミュニティ的性格をもっていました。

その町(ちょう)は、町屋敷の集合体

 さらにズームアップして個々の町の内部をみます。すると、ひとつの町はだいたい10~30個ぐらいの土地区画から成っていることがわかります。その区画を町屋敷(まちやしき)と呼びます。江戸の町人地で土地を所有する場合、この町屋敷を単位にして土地を所有することになります。
 江戸の中心部では、有力な商人が、町の境を超え、あちこちの町でたくさんの町屋敷を所有していました。例えば、三井越後屋などは100個近くの町屋敷を所有しています。したがって、個々の町屋敷をみると、地主自身が住んでいない場所が多くあります。地主は管理人を雇ってそんな町屋敷の世話をさせます。そうした管理人のことを、家守(やもり)といいます。家主・大家とよぶこともあります。
 地主は、自分が住んでいない町屋敷については、他人にその土地を貸したり、家屋を建てて貸したりして、賃貸収入を得ていました。

町屋敷は、表店(おもてだな)と裏店(うらだな)からできている

 そんな町屋敷の内部は「表」と「裏」に分けることができます。「表」とは道路に面した部分で、店舗を建てて商売をするのに適しています。「裏」とは道路から細い路地を入った裏手の部分で、商売には向きません。
 町屋敷の「表」部分の土地や家屋を地主から借りるのは、主に商人や親方クラスの職人たちです。商人はそこに常設店舗を構えます。職人の場合は作業場(あるいは作業場兼店舗)などとしてそこを使用します。同時にこうした商人・職人の居住スペースとしても使用されます。職住一致の空間といえます。この「表」の建物を、表店(おもてだな)と呼びます。
 それに対して、町屋敷の「裏」は主に居住の場です。いわゆる裏長屋が建てられたりします。そこにはさまざまな職業の人が住んでいました。現代の都市における、低家賃の賃貸アパートなんかを思い浮かべてください。おおまかにはそれと似た空間です。ちょっとした内職ぐらいはそこでできますが、基本的には寝起きの場所です。主な仕事はそこから他所へ出かけていってやることになります。この「裏」の建物を、裏店(うらだな)と呼びます。

出稼ぎに生きる裏店の人々

 幡随院門前に住む文蔵も、上野山下の床店へ、つまり、自分の住む町の外へと出かけて商売をしています。こうした仕事のしかたを、当時の言葉で、出稼ぎといいます。江戸の裏店に暮らす人々の多くは、こうした出稼ぎで生きる人々です。

予告
 次回は、裏店の人々の社会的な位置について、もう少し考えてみましょう。次回をふくめて、あと3、4回でこの「私の研究は面白いですか?」シリーズも完結したいとは思っています。ちょうど10回で終われるとキリがいいですね。

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2005/04/13

「私の研究は面白いですか?」その5

床店商人の生活

 床店商人である文蔵の暮らしぶりについて、もう一度整理してみましょう。
 基本となる稼業は、上野山下に出した床店での商売です(床店撤去後は同所の路上販売)。ただし、それだけでは生活が成り立たず、様々な賃仕事も並行してこなしています。
 そうやって、その日、その日に得た収入でもって、なんとか暮らしています。

江戸の町人の代表は其日稼ぎ

 このような渡世のスタイルを、当時は、其日稼ぎ(あるいは其日暮らし)と呼びました。其日稼ぎの彼ら彼女らがたずさわる仕事の種類は多様ですが、その所得形態や生活レベルの共通性でもって、おおきくひとまとめに把握しうる人々です。

 江戸時代後期、江戸の町人の人口は、だいたい50万人から60万人の間です。そのなかに含まれる其日稼ぎの人々の正確な数は不明ですが、飢饉や災害のときに実施される救済事業などの見積もりでは、江戸の町人の半数が其日稼ぎの人々であるとされています。

 残りの半分の人々は、表通りに店を構える商人、親方と呼ばれるような上層の職人、ごく一部の大商人、それからそうした商人の店で雇われて働く奉公人などです。
 其日稼ぎの人々を除いた、江戸町人の残り半分にあたるこれらの人々は、その所得形態や生活レベルの差にもとづいて、さらにいくつかの異なるグループに分かれるはずです。
 そうしてみると、渡世のスタイルに注目して江戸の町人を分類するとき、まずは「其日稼ぎの人々」という範疇が最多数であることは間違いなさそうです。

江戸町人社会における文蔵たちの位置

 つまり、文蔵とその家族は、当時の江戸町人社会において最も広汎にみられるタイプの人たちだったわけです。この家庭の場合、早くに父親を亡くすという特殊事情はありますが、貧窮・貧苦に彩られたその生活は、江戸の民衆生活の典型であり、特に珍しいものではないのです。

 次回は、文蔵たち江戸の都市民衆の多くが生活していた、裏店(裏長屋)の空間についてお話します。

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2005/04/11

「私の研究は面白いですか?」その4

江戸の広場に生きる人々~床店商人とは?
 前回の最後に引用した上野山下の床店商人の家族に関する史料を、もう一度引用します。
江戸の広場に生きる床店商人とは、どんな人たちだったのでしょうか。

 史料は、文蔵という床店商人を「孝行息子」として表彰する町奉行所の申渡しを記録したものです。

史料(天保13年12月20日付)
「その方のことであるが、父の文蔵が古道具古鉄物の商売で上野山下の床店へ毎日通っていたところ、幼い頃から朝に夕に商品を持ち運んできた。父母のいうことには背くことはなかった。ところが、去る子年の正月から父文蔵は癪気がひどく寝込んでしまった。その折には昼夜おこたりなく看病し、母と一緒に薬を飲ませて手当をしてきたが、その年の五月には父親が病で亡くなったため、力蔵から文蔵へと改名し、上野山下の床店へ毎日商いに出るようになり、帰宅したなら深夜まで古釘を直して、少しばかりの賃銭を得てきた。母も洗濯物などの仕事をしてきた。その方は、母の好物を買ってきたり、父親の命日には母を伴い菩提所へ墓参りに行ったりしていた。ところが、去る巳年(丑年?)八月には母が眼病になったので、薬を飲ませ手当をおこなってきた。アワビのわたは眼病の薬だときいて、毎日それを買ってきては母に食べさせたが、同年の十月下旬には盲目同様になり、その上、全身に吹き出物が出て、立ち居もできなくなってしまった。床店へ商いに行く間は、同じ敷地の借家に住む従妹のすへに母のことは万事気をつけさせていたが、今年の春に上野山下の床店が撤去されてしまったため、同所の路上で商売をするようになり、雨のときには(商売ができなくなったため)手紙の使いなどをして賃銭をもらい、その日その日を送っている。母の眼病の全快を毎日神仏に祈り、貧苦をいとわず、一途に孝心をつくしていることは、若者としてとりわけ奇特であるため、褒美として鳥目十貫文をとらせる。」


父子
 床店の商品は、朝、家から店へ運び入れ、夕方、店じまいの後は、また家へと持ち帰らなくてはなりません。文蔵父子が売っているのは古道具や古鉄物。ノコギリや金づち、釘などを店に並べていたのでしょう。朝夕の運搬はかなり重そうです。
 それぞれ持てる限りの重い荷物を背負った父と子が、それでも楽しげに話をしながら、夕暮れの家路をたどる姿が目に浮かびます。「父ちゃん、今日はたくさん売れたね。いつもこんなだと帰りの荷物が軽くて楽ちんだな」。夕日は上野のお山の向こうへと沈んでいきます。微笑ましい光景ですね。

働く文蔵
 そんな父を失った力蔵こと文蔵。その時、彼がいくつだったのか史料からは分りません。若くして一人で床店を切り盛りすることになった彼は、十代なかばくらいだったかもしれませんね。
 床店での商売を終えると、彼がひとりで荷物を家に持ち帰ります。肩に喰いこむ荷物の重さに耐えながら、口をキッと結んで歩く彼の横顔は、もう大人の表情です。
 家では、曲がった釘をまっすぐに直す内職仕事が待っています。おそらく、床店で売る古道具・古鉄物を仕入れる先の商人が彼にくれた仕事でしょう。

母の病
 母は、日中、洗濯仕事をしています。近所で一人暮らししている若い男の職人などが客なのでしょう。
 ところが、父に続いて、そんな母をも病が襲います。眼の病です。同様の史料を読んでいると、当時、庶民の間では眼の病に苦しむ人の多かったことが分ります。網膜や角膜の疾患になすすべがなかったのはもちろんのこと、例えば、眼に雑菌が入っても今と違って抗生物質などもなく、適切な消毒処置も施されないままなのでしょう。そうして視力のほとんどを失う例が少なくありません。
 懸命の文蔵には悪いけど、たぶんアワビの内臓はあまり有効ではなかったかも。

床店撤去
 そんな文蔵をさらに苦しめるのが、天保13年春の床店取締です。上野山下の床店はすべて撤去されます。文蔵は仕方なく路上で商売をするようになります。おそらく、それまで床店があった場所の近くに莚などを敷いてその上に商品を並べたりしたのでしょう。床店があれば、屋根もついていますから、少々の雨は平気だったのですが、今は雨の日の商売は休みです。そんな時も、手紙使いなどの仕事を引き受けてお金をかせいでいます。電話もネットもない当時、商用もふくめ、手紙使いの需要はかなりあったようです。
 苦境の文蔵をさらに苦しめたこの床店取締は、老中水野越前守が推進する天保改革の一環です。この問題については、水野の敵役、遠山の金さんこと、町奉行の遠山左衛門尉にも登場してもらって、次々回あたりに少し検討してみましょう。
 
 次回は、今回読んだような暮らしぶりの文蔵たち家族が、当時の江戸の町人社会でどのような位置にあったのか、お話します。

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2005/04/06

「私の研究は面白いですか?」その3

 江戸の広場や市場はどんな場所で、どんな人たちがそこで活動していたのでしょうか。実例を紹介しましょう。
 今回は上野山下という地域で商売していた床店をとりあげます。

床店とは

 床店というのは露店の一種です。とこみせ、と読みます。色んな形の床店がありますが、一般には、板でできた簡単な屋根・壁・床を備えています。間口は1間から1間半くらいが多かったようです(1間は背の高い男性の身長くらい。1間半はそれプラス1メートル弱)。店の奥行きは3尺程度(1メートル弱)。かなり小さな規模の仮設的な店舗です。原則として居住は許されませんでした。

江戸時代の上野山下はこんなところ

 上野山下といえば、両国や浅草と並んで江戸を代表する盛り場です。山下の山とは、東叡山(寛永寺)のことで、東叡山の南東側一帯の区域が、俗に上野山下と呼ばれていました。
 この区域内には、広い火除明地も設けられ、その明地には、曲馬や軽業、浄瑠璃、見世物といった小屋がけの興行施設や、茶屋などの飲食店が数多く建てられました。火除明地とは、火事の際の延焼を食い止めるための明地ですが、設置後、歳月がたつとその本来の機能は軽視されていき、このような仮設の建物が幕府の許可を得て建てられるようになりました。
 この明地に面した町々にも、飲食店が多く集まり、その一部は非合法の売春宿となっています。この町域の娼婦は「山下のけころ」と俗称されました。
 明地を挟んで町々の反対側には大通りがあって、その道端では、東叡山敷地を背にして、床店と呼ばれる露店が百十軒あまりも並んで商売をしていました。 (現在、JR上野駅の不忍口を出てアメ横の方へと道を渡るあたり、いわゆるガード下あたりが上野山下区域のほぼ中心にあたります。)

床店商人はどんな人たちだったのか

 では、この上野山下の床店ではどんな人が商売していたのでしょうか。

 大名や旗本など身分の高い武士や、三井越後屋に代表されるような大商人たちと違って、零細な床店商人についての経営資料や日記などが残っているなどということはまず期待できません。床店商人に限らず、江戸の庶民について研究する場合は、同様に、史料上の困難がつきまといます。
 こうした問題に対して、池上彰彦さんという研究者が妙案を出しました。褒賞記録の分析という方法です。江戸時代、権力者は民衆に対して儒教的道徳の浸透を図っていました。その方策として、主人に忠義を尽くした奉公人や、夫を大切にする妻、親に孝行する息子・娘を表彰し褒美を与えます。その記録は町奉行所の公式文書として大量に残されています。また、道徳教育の手本として刊行もされました。ここで表彰の対象となった人の多くは、決して裕福ではない庶民たちです。「貧乏にも負けず、忠義・貞心・孝行を尽くしたのはエライぞ。褒美をとらせる。」というのがよくあるパターンです。そして、その記録には、表彰を受けた庶民の暮らしぶりが事細かに書き記されていて、おかげで彼ら彼女らの実像が浮かび上がってくるのです。
 
 そんな褒賞記録のなかに、偶然、上野山下の床店商人に関する記録も残されていました。上野山下から徒歩で10分くらいのところに幡随院という大きなお寺があります。その門前地には町屋が建てられていて、そこの借家人に文蔵という若者がいました。彼も、彼の父親も、上野山下の床店で古道具と古鉄物(ふるかなもの)を売っていました。今でいうリサイクルショップみたいなものでしょうか。
 天保13(1842)年12月20日付で、文蔵は孝子として褒賞されます。彼の記録を読んでみましょう。史料は現代語訳してみました。なるべく逐語訳を心がけたこともあって、ちょっとたどたどしい感じかもしれませんが、我慢してください。なお、文蔵の幼名は力蔵で、父文蔵の死後に名前を継いでいます。史料の最初には、父の方の文蔵が登場します。
 実際には、町奉行所に呼び出された文蔵に対して、町奉行か、あるいは配下の役人かが直接申し聞かせたのでしょう。ここから江戸の床店商人の姿が生き生きとよみがえってくると思います。

文蔵の孝子褒賞記録

「その方のことであるが、父の文蔵が古道具古鉄物の商売で上野山下の床店へ毎日通っていたところ、幼い頃から朝に夕に商品を持ち運んできた。父母のいうことには背くことはなかった。ところが、去る子年の正月から父文蔵は癪気がひどく寝込んでしまった。その折には昼夜おこたりなく看病し、母と一緒に薬を飲ませて手当をしてきたが、その年の五月には父親が病で亡くなったため、力蔵から文蔵へと改名し、上野山下の床店へ毎日商いに出るようになり、帰宅したなら深夜まで古釘を直して、少しばかりの賃銭を得てきた。母も洗濯物などの仕事をしてきた。その方は、母の好物を買ってきたり、父親の命日には母を伴い菩提所へ墓参りに行ったりしていた。ところが、去る巳年(丑年?)八月には母が眼病になったので、薬を飲ませ手当をおこなってきた。アワビのわたは眼病の薬だときいて、毎日それを買ってきては母に食べさせたが、同年の十月下旬には盲目同様になり、その上、全身に吹き出物が出て、立ち居もできなくなってしまった。床店へ商いに行く間は、同じ敷地の借家に住む従妹のすへに母のことは万事気をつけさせていたが、今年の春に上野山下の床店が撤去されてしまったため、同所の路上で商売をするようになり、雨のときには(商売ができなくなったため)手紙の使いなどをして賃銭をもらい、その日その日を送っている。母の眼病の全快を毎日神仏に祈り、貧苦をいとわず、一途に孝心をつくしていることは、若者としてとりわけ奇特であるため、褒美として鳥目十貫文をとらせる。」
 (出典・原文は小林信也『江戸の民衆世界と近代化』山川出版社2002、第1章を参照)

 次回はこの史料の分析をおこないます。

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2005/04/01

巡見~江戸を縦貫する11 浅草寺・お寺のアパート

 巡見の一行は、浅草新町をあとにして浅草寺へと向かいます。

猿若町
 まず山谷堀跡を渡り、かつての猿若町を抜ける。猿若町は、天保改革のとき、それまで江戸町方中心部にあった芝居が強制移転させられた先です。明治になると再び芝居は転出していきます。この天保の強制移転と同時に猿若町という地名も生まれました。
 まったくの余談ですが、以前、年代が不明な何枚かの江戸図がいつ作られたのか推定していくという作業をしたことがあります。その際、いくつか設定した指標のひとつが、猿若町の有無でした。猿若町が載ってない地図は(地図屋さんの掲載し忘れじゃなければ)天保改革以前の地図、載っている地図は(この場合確実に)天保改革以降の地図ということになります。他にも、あちこちの埋立地や橋の完成年代なども年代推定の手がかりになります。


浅草寺へ
 そんな話はともかく、かつての芝居町の痕跡すら全然みえない猿若町を過ぎ、しばらく歩くと、浅草寺の裏手にたどりつきます。

 浅草寺の観光案内は巷にあふれています。この巡見では、そんな観光案内には出てこない、ちょっと変わった所で立ち止まってみることにしましょう。

 まずは、お寺のアパート。

お寺のアパート
 浅草寺裏手の一番東端の方、つまり、馬道通りと言問通りとの交差点に立ち、そこから西へ、浅草寺の裏口の方へ行く途中、歩道の左側につづく塀に開けられた木戸口のようなところから中へ入ってみましょう(浅草寺の表側、雷門方面からくると、ここはちょうど浅草神社の裏手にあたります)。

 ちょっと不思議な和洋折衷のデザインの3階建て(だったっけ?)の集合住宅が何棟か並んでいます。それらの建物に挟まれた細い路地を歩きながら、個々のお宅の玄関と勝手口に掛けられた表札をみると、それには「○○院」とか「△△院」とか書いてあります。勝手口の方の札には、丁寧にも「○○院勝手口」とある。そう、ここはお寺のアパートです。ただし、かなりの豪華アパート。脇には高級車も停まっています。(つづく)

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