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2005/04/06

「私の研究は面白いですか?」その3

 江戸の広場や市場はどんな場所で、どんな人たちがそこで活動していたのでしょうか。実例を紹介しましょう。
 今回は上野山下という地域で商売していた床店をとりあげます。

床店とは

 床店というのは露店の一種です。とこみせ、と読みます。色んな形の床店がありますが、一般には、板でできた簡単な屋根・壁・床を備えています。間口は1間から1間半くらいが多かったようです(1間は背の高い男性の身長くらい。1間半はそれプラス1メートル弱)。店の奥行きは3尺程度(1メートル弱)。かなり小さな規模の仮設的な店舗です。原則として居住は許されませんでした。

江戸時代の上野山下はこんなところ

 上野山下といえば、両国や浅草と並んで江戸を代表する盛り場です。山下の山とは、東叡山(寛永寺)のことで、東叡山の南東側一帯の区域が、俗に上野山下と呼ばれていました。
 この区域内には、広い火除明地も設けられ、その明地には、曲馬や軽業、浄瑠璃、見世物といった小屋がけの興行施設や、茶屋などの飲食店が数多く建てられました。火除明地とは、火事の際の延焼を食い止めるための明地ですが、設置後、歳月がたつとその本来の機能は軽視されていき、このような仮設の建物が幕府の許可を得て建てられるようになりました。
 この明地に面した町々にも、飲食店が多く集まり、その一部は非合法の売春宿となっています。この町域の娼婦は「山下のけころ」と俗称されました。
 明地を挟んで町々の反対側には大通りがあって、その道端では、東叡山敷地を背にして、床店と呼ばれる露店が百十軒あまりも並んで商売をしていました。 (現在、JR上野駅の不忍口を出てアメ横の方へと道を渡るあたり、いわゆるガード下あたりが上野山下区域のほぼ中心にあたります。)

床店商人はどんな人たちだったのか

 では、この上野山下の床店ではどんな人が商売していたのでしょうか。

 大名や旗本など身分の高い武士や、三井越後屋に代表されるような大商人たちと違って、零細な床店商人についての経営資料や日記などが残っているなどということはまず期待できません。床店商人に限らず、江戸の庶民について研究する場合は、同様に、史料上の困難がつきまといます。
 こうした問題に対して、池上彰彦さんという研究者が妙案を出しました。褒賞記録の分析という方法です。江戸時代、権力者は民衆に対して儒教的道徳の浸透を図っていました。その方策として、主人に忠義を尽くした奉公人や、夫を大切にする妻、親に孝行する息子・娘を表彰し褒美を与えます。その記録は町奉行所の公式文書として大量に残されています。また、道徳教育の手本として刊行もされました。ここで表彰の対象となった人の多くは、決して裕福ではない庶民たちです。「貧乏にも負けず、忠義・貞心・孝行を尽くしたのはエライぞ。褒美をとらせる。」というのがよくあるパターンです。そして、その記録には、表彰を受けた庶民の暮らしぶりが事細かに書き記されていて、おかげで彼ら彼女らの実像が浮かび上がってくるのです。
 
 そんな褒賞記録のなかに、偶然、上野山下の床店商人に関する記録も残されていました。上野山下から徒歩で10分くらいのところに幡随院という大きなお寺があります。その門前地には町屋が建てられていて、そこの借家人に文蔵という若者がいました。彼も、彼の父親も、上野山下の床店で古道具と古鉄物(ふるかなもの)を売っていました。今でいうリサイクルショップみたいなものでしょうか。
 天保13(1842)年12月20日付で、文蔵は孝子として褒賞されます。彼の記録を読んでみましょう。史料は現代語訳してみました。なるべく逐語訳を心がけたこともあって、ちょっとたどたどしい感じかもしれませんが、我慢してください。なお、文蔵の幼名は力蔵で、父文蔵の死後に名前を継いでいます。史料の最初には、父の方の文蔵が登場します。
 実際には、町奉行所に呼び出された文蔵に対して、町奉行か、あるいは配下の役人かが直接申し聞かせたのでしょう。ここから江戸の床店商人の姿が生き生きとよみがえってくると思います。

文蔵の孝子褒賞記録

「その方のことであるが、父の文蔵が古道具古鉄物の商売で上野山下の床店へ毎日通っていたところ、幼い頃から朝に夕に商品を持ち運んできた。父母のいうことには背くことはなかった。ところが、去る子年の正月から父文蔵は癪気がひどく寝込んでしまった。その折には昼夜おこたりなく看病し、母と一緒に薬を飲ませて手当をしてきたが、その年の五月には父親が病で亡くなったため、力蔵から文蔵へと改名し、上野山下の床店へ毎日商いに出るようになり、帰宅したなら深夜まで古釘を直して、少しばかりの賃銭を得てきた。母も洗濯物などの仕事をしてきた。その方は、母の好物を買ってきたり、父親の命日には母を伴い菩提所へ墓参りに行ったりしていた。ところが、去る巳年(丑年?)八月には母が眼病になったので、薬を飲ませ手当をおこなってきた。アワビのわたは眼病の薬だときいて、毎日それを買ってきては母に食べさせたが、同年の十月下旬には盲目同様になり、その上、全身に吹き出物が出て、立ち居もできなくなってしまった。床店へ商いに行く間は、同じ敷地の借家に住む従妹のすへに母のことは万事気をつけさせていたが、今年の春に上野山下の床店が撤去されてしまったため、同所の路上で商売をするようになり、雨のときには(商売ができなくなったため)手紙の使いなどをして賃銭をもらい、その日その日を送っている。母の眼病の全快を毎日神仏に祈り、貧苦をいとわず、一途に孝心をつくしていることは、若者としてとりわけ奇特であるため、褒美として鳥目十貫文をとらせる。」
 (出典・原文は小林信也『江戸の民衆世界と近代化』山川出版社2002、第1章を参照)

 次回はこの史料の分析をおこないます。

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コメント

こんにちは。昨晩は遅くまでグチと与太話におつきあいいただきありがとうございました。酔っぱらいのたわごとですので早々に忘れてください(^_^;)。
早速覗いてみました。いやぁ、とても充実したブログですね。ここから何冊か本になりそうな予感(巡見ものと料理もの、吉原の話も発展しそうですね)。期待しています。
僕も元気が出てきたらブログを復活させたいなぁと思いました。小林さんほどのネット用文体が確立していないのが難点なのですが。
また美味いものを喰いに行きましょう。それから町歩きも。
ではでは。

投稿: so | 2005/04/08 15:01

soさん、昨日はお疲れ様でした。
こちらこそ、昨晩はお会いする前から、「今日はグチ聞いて貰うぞ!」って意気込んでおりました。
それから、このブログへ早速お越しいただき、ありがとうございます。

「小林さんほどのネット用文体が確立していないのが難点なのですが。」
イヤイヤ、何をおっしゃいますことやら。私はまだ顔文字の壁を越えていませんぜ。
美味いものと町歩き、そしてこの戯言垂れ流し的ブログでもって、なんとか研究者としてのつらい“更年期障害”を克服(緩和?)できればいいなぁと思っています。
またのお出ましをお待ちしております。

投稿: 小林信也 | 2005/04/08 16:00

はじめまして。
庶民の暮らしぶりが覗けるのはとても楽しいですね!
其の日稼ぎの者からアプローチして、
ひとつ大きなテーマに仕上げられたらと考えています。
これは読むべき先行研究である、といったものはありますか?
また、そうした当時の人々の暮らしを紹介するのみに終わらない論文に仕上げるには、どういった視点を盛り込めばよいのでしょうか。
弱音を吐いていてはいけないと思い、前進せねばと思って意気込んでおります!
しかし、やはり精神的な病気を持っていることもあり、日々の生活もいっぱいいっぱいなのです…。
お力添えいただけると大変うれしく思います。
突然長々と失礼しました。

投稿: くま太 | 2014/01/07 20:30

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