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2005/04/23

「私の研究は面白いですか?」その7

 前々回、前回で、江戸の町人の最多数は其日稼ぎの人々であったことを確認しました。また、そんな其日稼ぎの人々の多くが暮らしていた裏店(裏長屋)は、町内のどのような場所に建てられていたのかということをお話しました。裏店といっても、これは店舗ではありません。道路から離れた、町屋敷の裏手部分に建てられ、主に住居として貸し出される建物です。上野山下の床店商人だった文蔵も、そうした裏店に寝起きする其日稼ぎの典型です。

其日稼ぎの人々の生計
 ここで、其日稼ぎの人々の生計をみることにしましょう。江戸時代の中ごろ、江戸の日雇い人足の賃金はだいたい200~300文くらいです。江戸時代後期、江戸の救済機関である町会所が、生活に困窮した其日稼ぎの人々に支給する救済金も、だいたい250文、300文という日額ですから、200~300文が、其日稼ぎの人々の平均収入(1日あたり)と考えてよさそうです。
 それに対して生活費は、たとえば家族4人暮らしの場合、物価にもよりますが、だいたい日額250文程度が必要とされています。夫の収入のほかに、妻子の得る賃収入も幾分かはあったと思いますが、その日の収入の大部分をその日のうちに使い果たしてしまう人たちが多かったと考えられます。だからこそ、彼ら彼女らは、其日稼ぎとか、其日暮らしとか呼ばれているわけです。

表店との格差
 そんな暮らしから抜け出て、たとえば、道路に面した表店に、立派な常設店舗を構えるためにはどのくらいお金が必要だったのでしょうか。
 以前、私がみた史料によると、餡子や白玉粉の製造販売をする店の権利金が20両ぐらいでした。他業種の店とくらべて、この額は決して高いものではないと思われます。其日稼ぎの人の収入を1日あたり250文前後とすれば、この権利金はざっと年収の1倍半強といったところでしょうか。
 ただし、それで手に入るのは、単に店の権利のみ。仕入れ金や人件費などを含めた開店経費全部で一体いくらかかるのか不明ですが、先に見たように、貯蓄もままならず、ときには質屋通いなどをしながらかつかつの生活を送る其日稼ぎの人々にとって、表店に店を構えるには、なかなか越えられない高いハードルがあったといえます。
 脱サラして退職金を元手にラーメン屋開業、といった具合にはいかないのです。年金も払えないフリーターが繁華街に自分の店を持とうとするのと同じくらい難しかったのではないでしょうか。
 おそらくは、幼少の頃からどこかの商店で住み込みの奉公人として働きながら、その真面目さと商才を主人からかわれたごく一握りの者が、主人の援助も受けながらいつの日か独立して自分の店を持つ、といったようなコースが、其日稼ぎからの脱出方法としてもっとも一般的だったのではないでしょうか。
 他にも、商才と好運に恵まれた人が行商や露店商売で大成功を収め、表店の商店の主人に出世するという例もありますが、それは大半の其日稼ぎの人々にとって、めったにかなうことのないサクセスストーリーだったと思います。


 今回は、裏店に暮らす其日稼ぎの人々の階層と、表店に常設店舗を構えているような人々の階層との間に、大きな格差があったことについてお話ししました。

予告
 ところで、江戸の町々は、それぞれ、閉鎖的で完結した地域コミュニティ=町内完結社会を形成していた、などという話をよく耳にします。こうした見方はさらに展開して、そんな濃密なコミュニティがあったからこそ、町々の治安は良かっただとか、人々のマナーが洗練されていたとかいった主張も生まれたりしてます。
 次回は、ここまでみてきた裏店に暮らす人々の立場に視点を置いて、そんなコミュニティ論にイチャモンをつけてみましょう。

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コメント

私は高校の課程をひとしきり勉強しただけなのですが、農民の二極分化とか地主の蓄積の話はよく読みましたが都市の商人の資本蓄積の話ってあまり読んだ記憶がないですね。ストーリーとしての一貫性を保つ上ではマルクス経済学に利点は多いですがその話の一貫性のために切り捨てて来られたものも随分多い気がします。一連のご指摘はそうして切り捨てられた部分も丁寧に描いてらして面白いです。

投稿: bun | 2005/04/23 20:29

こんにちは、bunさん。
おっしゃるとおりで、かつてのマルクス主義史学においては、革命をおこして封建領主を打破したり、王様をギロチン台に送ったりできなかった日本の都市住民は、どこかしら歴史的な欠陥を抱えている存在として扱われました。「そんなダメなやつらは、市民とは呼んであげないよ。」って。おかげで、日本近世都市の歴史研究は低調な時代が続いたようです。

投稿: 小林信也 | 2005/04/24 08:00

我々は話の一貫性を保とうとして生活しているわけではありませんものね。どうしても生じる一貫性はあるかもしれません。しかしその一貫性という名の直線を拡大して見ていくとほとんどランダムな点の集まりであったりする。そんなやりすぎなくらいの遠方からでなくては見えない直線かもしれない。人の歴史の数百年を概観する権利が私にあるかどうかも定かでない、そうした倫理を常に座右において研究をしていらっしゃる方ならではの切れ味を感じました。

投稿: bun | 2005/04/29 08:08

体系的な理論というものは、両刃の剣みたいなもので、それなくしては見えないもの(見えにくいもの)を見えるようにしてくれる反面、すぐそこに見えているものを見えなくしてしまう場合があるように思います。
道具というものは、それをうまく使いこなすことができればいいのですが、気がついたらいつの間にやら、こっちが道具に使われていることもある。

投稿: 小林信也 | 2005/04/29 22:47

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