巡見~江戸を縦貫する13 浅草寺の闘い・近現代篇
浅草公園の誕生
江戸時代が終わり、明治になると、殿様たちは自分の領地を失いました。同様に、江戸時代、幕府による保護を受けていた浅草寺も、その領地を没収されました。さらには、広大な境内地も没収されます。
こうして没収された浅草寺の境内は、明治6年になると、公園地の指定を受けます。上野寛永寺や芝増上寺の境内も同じ運命をたどっています。
ただし、公園といっても、浅草寺の境内地には、江戸時代以来、たくさんの家や露店が建てられていました。そこからあがる地代は、浅草寺にとって貴重な収入となっていたのです。その境内地が公園地指定をうけて東京府管轄の浅草公園が誕生するわけですが、東京府も、家々や露店を追い出したりせず、公園借地料を取り立てていきます。こうして東京府が手に入れた多額の借地料は、浅草公園のみならず、府下の公園整備に広く活用されたようです。このような公園整備方針のもと、江戸時代以来の盛り場浅草は、さらに繁栄を続けることになります。
浅草寺の闘い
一方、貴重な財源を失った浅草寺の経営は窮乏化していきました。その浅草寺を救うきっかけとなったのが、明治32年の国有土地森林原野下戻法でした。詳細は省きますが、要するに、寺院の境内地などは本来私有地であって、これを明治初年に没収したのは誤りであり、返却すべし、ということになったのです。これをもとに浅草寺は境内地の返還をもとめて行政訴訟を起こし、明治44年、見事勝訴します。
しかし、この勝訴でもってただちに浅草寺のフトコロが潤うことにはなりませんでした。東京市が公園地の指定を解除しなかったからです。東京市が浅草寺から無償で土地を借りて浅草公園を保持するという状態が続くことになりました。浅草寺は、せっかく取り戻した自分の土地なのに、それを自由に活用することができなかったのです。もちろん、浅草寺はこれに反発します。東京市を相手に、公園地指定の解除を要求しつづけます。
その後の部分的な公園地指定解除を経て、この闘いが最終的に決着するのは、戦後、昭和26年秋のことです。東京都は浅草公園を全面的に廃止しました。
次回は
ところで、浅草公園の廃止方針が固まりつつある、ちょうどその頃、浅草寺は、もう一つ、別の動きをみせます。天台宗からの離脱、聖観音宗の設立という、所属宗派をめぐる大きな変化です。次回は、浅草公園最末期の変貌や、浅草寺の天台宗離脱などについて書きます。
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