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2005/05/26

巡見~江戸を縦貫する16 栄光の浅草寺

浅草寺境内の賑わい

 「浅草寺の闘い・近現代編」の回では、明治初年の境内地没収から戦後の公園地指定解除にいたるまでの、浅草寺の“失地回復の闘い”を簡単にまとめてみました。今回は、時代を遡り、江戸時代の浅草寺について少し書きます。
 現在の浅草寺境内へ、その北東の隅から入った我々巡見の一行は、先に書いた“お寺のアパート”ゾーンを抜けて、三社さまこと浅草神社の裏を通り、本堂の方へと向かいます。先週末に実施した今年の巡見の日は、ちょうど三社祭にあたったため、境内には所狭しと露店が出ていました。
 そんな露店群を眺めつつ、私としては、例えば、それら露店の地代は最終的に浅草寺のフトコロへ入るのでしょうが、それまでにどのような人々の手を介してまとめられていくのだろうか、といったようなことが知りたくてしょうがない。そんな私の思いとは別に、買い食いしたくてウズウズしている学生さん。醤油やソースの焼ける香ばしい匂い、あるいはバニラエッセンスの甘ったるい香りが押し寄せてきます。まあ、仕方ないですよね。「はぐれて迷子にならないようにササッと買ってくるならいいよ。」と言ったのが運の尽き。あっさりと迷子発生。携帯のおかげで再会できましたが、すごい人ごみで少々難儀しました。
 迷子さんたちとの再会の場には、本堂の先、仁王門の下を指定。ただし、門の下も人でいっぱい。それでもなんとか合流して仲見世・雷門の方へと進みます。少し行くと、左には有名な揚げ饅頭屋さんなどが並ぶ仲見世が大にぎわい。


静寂の伝法院

 ところが、その向かいには、界隈から隔絶した静寂な空間があります。そこに江戸時代そのままのたたずまいをみせている建物は、伝法院です。一部の建物は戦災で焼失しましたが、それでもなお江戸時代の建物が院内には多く残っています。
 このように、現在も周囲から隔絶の観の伝法院ですが、江戸時代の浅草寺中にあっても、伝法院は別格といってよい存在でした。伝法院はなぜ別格なのか?


栄光の浅草寺

 浅草寺創建の年代については諸説がありますが、奈良時代にまで遡ることができるという説も有力です。いずれにせよ、徳川家康が江戸に城下町を建設する以前から、浅草寺は東国の観音信仰の中心としてこの地で多くの参拝者を集めていました。門前町も繁栄していたと考えられます。
 江戸時代の初期、浅草寺を統轄する別当=本坊の住職は、観音院・知楽院を号します。江戸期第一世の別当である忠豪、二世の忠尊、三世の忠運は、いずれも、後北条氏配下の武将の遠山氏・伊丹氏の血を引いています。つまり、関東における戦国期以来の名門につながる高僧たちが、代々、浅草寺別当の地位を継いでいたのです。
 そんな伝統的勢力である浅草寺に対して、「新参」の他所者、徳川幕府は、当初、十分な敬意を払っていたようです。家康は、浅草寺を徳川家の祈願寺とします。ちなみに、菩提寺として選んだのは、芝の増上寺でした。二代将軍秀忠も、家康同様、浅草寺を厚遇していたようです。
 
 こうした浅草寺の隆盛に陰りがさし始めるきっかけは、三代将軍家光の時代に生まれました。そして、そのことが、伝法院の成立に深く関わってきます。
 続きはまた次回に。

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