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2005/05/30

巡見~江戸を縦貫する17 浅草寺vs寛永寺 

寛永寺の台頭

 家康・秀忠・家光の将軍家三代にわたり、その相談役として権勢ふるったといわれる、「黒衣の宰相」こと天海は、上野の山に壮大な寺院を建立します。
 秀忠の代に用地の準備などの建立事業が始まり、家光の代になってその寺は完成しました。これが、東の比叡山こと、東叡山寛永寺です。
 まずは天海が山主となりますが、のちには皇子を山主として上野に迎えるようになります。輪王寺宮を称することになったこの宮様山主は、併せて比叡山・日光山の山主を兼帯しました。こうして東叡山寛永寺は、天台宗の最高権威をトップに頂く寺となりました。
 当初、寛永寺は徳川家の菩提寺ではなく、祈願寺でしたが、家光は、その死後、葬儀を寛永寺で行うように遺言して亡くなります。つまり、寛永寺は将軍家の菩提寺としての扱いを受けることになります。
 これに反発したのは、それまで菩提寺として遇されてきた増上寺です。江戸入府以前から浄土宗の檀家であった徳川家は、江戸での菩提寺として、やはり浄土宗の増上寺を選んでいたのです。
 結局、家光の葬儀は遺言どおり寛永寺で行われます。それ以降の将軍の葬儀は、寛永寺と増上寺とが分け合うようになりました。


寛永寺vs浅草寺

 寛永寺の台頭によってその地位をおびやかされたのは、上記の増上寺だけではありません。むしろ、寛永寺と同じ天台宗に属する浅草寺にとって、問題はより深刻だったかもしれません。浅草寺の場合、宗派内での序列からすると、天台宗を統べる輪王寺宮をいただいた寛永寺に従属するかたちにならざるをえないからです。
 中世以来の伝統勢力である浅草寺と、かたや、新興とはいえ将軍家の後ろ盾もあって絶大な権力をもっている寛永寺との勝負は、五代将軍綱吉のときに決着します。
 貞享2(1685)年8月6日、浅草寺別当の忠運は、突然、浅草寺を追放され、下総国で隠居することになりました。以後、浅草寺の別当は、他でもない、寛永寺の輪王寺宮が選任することになります。さらに、後になると、輪王寺宮自身が、浅草寺の別当をも兼帯するようになります。むろん、輪王寺宮自身は寛永寺に居ますから、輪王寺宮が派遣した別当の代理が浅草寺の本坊に入り、同寺中を統轄することになりました。
 こうして、とうとう、浅草寺は寛永寺の支配下に置かれたのです。別当忠運追放の原因としては、浅草寺中において犬が殺され、それが折からの生類憐れみ令に触れたからという話と、忠運が輪王寺宮に対して、浅草寺と寛永寺の序列をめぐる本末訴論をしたからという話が伝えられています。事件後の推移をみると、浅草寺と寛永寺との抗争が主な理由であったと考えるのが自然かもしれません。


伝法院の起立

 寛永寺支配下の浅草寺において、いわば寛永寺の出張所となってしまった本坊は、それまでの知楽院から、伝法院へと改称されます。
 私のような素人からみると、伝法院ってのは、なかなかすごいというか、横柄なネーミングのように感じてしまいます。征服者が被征服者に対し、正しい「法」を伝えてやるって感じです。実際のところ、そんな意味はないのかな?
 ともあれ、以後、明治維新にいたるまで、浅草寺は長く寛永寺に服属した状態が続きます。そして維新をむかえ、やっと寛永寺の軛から逃れた浅草寺を待っていたのは、先に書いた、境内地の没収という新たな苦難でした。
 戦後、そんな苦境から脱して観光客・参拝客で賑わう浅草寺において、周囲から隔絶されそこだけ静寂を保つ伝法院の姿。

 本堂から伝法院へと進んできた我々巡見一行は、伝法院の角を右へ曲がり、盛り場浅草の中心へと向かいます。

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