« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »

2005/05/30

巡見~江戸を縦貫する17 浅草寺vs寛永寺 

寛永寺の台頭

 家康・秀忠・家光の将軍家三代にわたり、その相談役として権勢ふるったといわれる、「黒衣の宰相」こと天海は、上野の山に壮大な寺院を建立します。
 秀忠の代に用地の準備などの建立事業が始まり、家光の代になってその寺は完成しました。これが、東の比叡山こと、東叡山寛永寺です。
 まずは天海が山主となりますが、のちには皇子を山主として上野に迎えるようになります。輪王寺宮を称することになったこの宮様山主は、併せて比叡山・日光山の山主を兼帯しました。こうして東叡山寛永寺は、天台宗の最高権威をトップに頂く寺となりました。
 当初、寛永寺は徳川家の菩提寺ではなく、祈願寺でしたが、家光は、その死後、葬儀を寛永寺で行うように遺言して亡くなります。つまり、寛永寺は将軍家の菩提寺としての扱いを受けることになります。
 これに反発したのは、それまで菩提寺として遇されてきた増上寺です。江戸入府以前から浄土宗の檀家であった徳川家は、江戸での菩提寺として、やはり浄土宗の増上寺を選んでいたのです。
 結局、家光の葬儀は遺言どおり寛永寺で行われます。それ以降の将軍の葬儀は、寛永寺と増上寺とが分け合うようになりました。


寛永寺vs浅草寺

 寛永寺の台頭によってその地位をおびやかされたのは、上記の増上寺だけではありません。むしろ、寛永寺と同じ天台宗に属する浅草寺にとって、問題はより深刻だったかもしれません。浅草寺の場合、宗派内での序列からすると、天台宗を統べる輪王寺宮をいただいた寛永寺に従属するかたちにならざるをえないからです。
 中世以来の伝統勢力である浅草寺と、かたや、新興とはいえ将軍家の後ろ盾もあって絶大な権力をもっている寛永寺との勝負は、五代将軍綱吉のときに決着します。
 貞享2(1685)年8月6日、浅草寺別当の忠運は、突然、浅草寺を追放され、下総国で隠居することになりました。以後、浅草寺の別当は、他でもない、寛永寺の輪王寺宮が選任することになります。さらに、後になると、輪王寺宮自身が、浅草寺の別当をも兼帯するようになります。むろん、輪王寺宮自身は寛永寺に居ますから、輪王寺宮が派遣した別当の代理が浅草寺の本坊に入り、同寺中を統轄することになりました。
 こうして、とうとう、浅草寺は寛永寺の支配下に置かれたのです。別当忠運追放の原因としては、浅草寺中において犬が殺され、それが折からの生類憐れみ令に触れたからという話と、忠運が輪王寺宮に対して、浅草寺と寛永寺の序列をめぐる本末訴論をしたからという話が伝えられています。事件後の推移をみると、浅草寺と寛永寺との抗争が主な理由であったと考えるのが自然かもしれません。


伝法院の起立

 寛永寺支配下の浅草寺において、いわば寛永寺の出張所となってしまった本坊は、それまでの知楽院から、伝法院へと改称されます。
 私のような素人からみると、伝法院ってのは、なかなかすごいというか、横柄なネーミングのように感じてしまいます。征服者が被征服者に対し、正しい「法」を伝えてやるって感じです。実際のところ、そんな意味はないのかな?
 ともあれ、以後、明治維新にいたるまで、浅草寺は長く寛永寺に服属した状態が続きます。そして維新をむかえ、やっと寛永寺の軛から逃れた浅草寺を待っていたのは、先に書いた、境内地の没収という新たな苦難でした。
 戦後、そんな苦境から脱して観光客・参拝客で賑わう浅草寺において、周囲から隔絶されそこだけ静寂を保つ伝法院の姿。

 本堂から伝法院へと進んできた我々巡見一行は、伝法院の角を右へ曲がり、盛り場浅草の中心へと向かいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/28

巡見~江戸を縦貫する 番外・浅草

 今夜のTBSドラマ「タイガー&ドラゴン」は、面白かった。話の下敷きになる落語「猫の皿」が、すごくうまくはまっている。感心。

 伊東美咲のキスシーンもなかなか良い。実を言うと、それほど好みの女優さんではないが、シーンの設定が心憎い。あれなら誰がみても、可愛いって思うだろう。クドカンはさすがやね。

 それはともかく、このドラマにでてくる浅草の街の雰囲気がなかなかリアル。思うに、最近の浅草ってのは、テーマパーク的な印象が強い。近代東京レトロっていうか、なんていうか。そのテーマパークっぽさが、このドラマの浅草風景として、よく表れていると思う。浅草が最近、人気を取り戻しつつあるのも、そんなテーマパークっぽさが受けているからではないかと思う。

 20年余り前、予備校の寮が千葉にあり、そこからオールナイトの映画などを観に、浅草へちょくちょく通った。その頃の浅草は、本当に寂れた街だった。通りの脇にあった植え込みの枯れ枝が、風に吹かれて丸い塊になり、道をコロコロ、カサカサ、転がったりしていた。その時分は、街の古くささが現在のレトロ的、テーマパーク的面白さを生むには、まだ時期が早すぎて、そこは単なる時代遅れの盛り場だった。あちらこちらで、バブル景気が「下町」の風景をむしばんでいた。
 「タイガー&ドラゴン」が現在の浅草風景をうまく取り込んだドラマなら、当時の浅草をよく表しているのが、山田太一原作で大林宣彦が監督した映画「異人たちとの夏」だ。現代版牡丹灯籠みたいな怪談のこの映画は、殺伐とした都会の人間関係に疲れた男が、浅草で幼い頃に亡くした父母(幽霊)と再会し、その父母が暮らす幻の古アパート(本当はすでに取り壊された跡地)へ通いつめるというお話。
 もし、浅草ファンで、まだこれらドラマ・映画を観てない人は、ぜひご覧下さいな。「異人たちとの夏」のすき焼き今半のシーンはいつ観ても泣いてしまう。

 ついでに、「タイガー&ドラゴン」の噺家世界に興味を持った人は、こちらの映画もどうぞ。森田芳光監督の「のようなもの」。忘れられない映画です。なんとなく、研究者世界にも通じるかな。そうそう。「異人たちとの夏」も「のようなもの」も、秋吉久美子だね。これまた、私はそれほど好みではないが、映画の中では素晴らしく良い。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/05/27

教育の資格

 今、論文を書いている。3本くらい同時進行だ。論文を書くのは好きだから、こうやって執筆仕事があるのは、嬉しい限りである。ただ、我ながら、困ったクセがある。締切をにらんで余裕ある執筆進行というものができない。編集の方々、ごめんなさい。そんなわけで、1本は校正、もう1本は註や図表作成、もう1本は本文を書き進める、といった作業を平行して行うハメにおちいっている。間違っても器用とはいえない私にとっては、なかなか難儀である。そうそう、明日の講義2コマの準備もしなくては。

 そんな状況をさらにややこしくしているのは、さっき学校から帰った娘である。「宿題をしろよ。」というと、「土・日があるから大丈夫。」と言い返してくる。もちろん、私の娘だから、結局、日曜の深夜になって、やっと、べそを書きながら、漢字ドリルをやったりするのが、いつものパターン。こっちは、それが分かっているから、少し厳しく「今のうちにやっておかないとダメだ。」と言うと、今、不承不承、宿題をやり始めた。

 そうやって娘を叱りながら、「他人のことは言えねぇよな、まったく。」と、自己嫌悪しながら、執筆作業続行。どうせ、宿題が終わったら、筆箱やらノートを出しっぱなしにしてしまう娘に対して、また、「ちゃんと片づけないと、学校行く直前に、あれが無い、これが無いって騒ぐことになるよ。」と説教するんだろうな。そんな私の机の上、さらにはイスの周りの床は、史料やら参考文献でグチャグチャ。註で参考文献のデータを載せようとしても、行方不明の本を探すのに一苦労だ。

 こんな私に、娘に説教する資格はあるのか?

 昔、学生時代、オーケストラにいた。金管楽器をやっていたが、その方面の才能は著しく欠如していた。それでも学生オケの常として、上級生になると下級生を指導しなくてはならない。もちろん、自分よりちゃんと楽器が吹ける下級生ばかりだ。それでも自分に指導する資格はあるのか?
 そのオーケストラのある先輩が言った。「それでも胸張って指導すればいいんだぞ。」と。「じゃないと、下手な先輩をもった後輩は上達できないってことになるから」。
 自分が思うように楽器が吹けないとしても、「こんなふうに吹けたらいいのにな。」という理想像はある。それをもとにして、下級生を指導すればよい。自分ができないからといって萎縮せず、その下級生ができそうなことならどんどん要求していけばよいと。いや、むしろ、そうやって指導するのが義務だと言われた。

 まぁ、そんなことを思い出しつつ、宿題が終わった娘には、やっぱり、ちゃんと片づけをさせよう。その後で、そんな娘を見習うことで、私もちょっと悪習を変えなきゃね。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/26

巡見~江戸を縦貫する16 栄光の浅草寺

浅草寺境内の賑わい

 「浅草寺の闘い・近現代編」の回では、明治初年の境内地没収から戦後の公園地指定解除にいたるまでの、浅草寺の“失地回復の闘い”を簡単にまとめてみました。今回は、時代を遡り、江戸時代の浅草寺について少し書きます。
 現在の浅草寺境内へ、その北東の隅から入った我々巡見の一行は、先に書いた“お寺のアパート”ゾーンを抜けて、三社さまこと浅草神社の裏を通り、本堂の方へと向かいます。先週末に実施した今年の巡見の日は、ちょうど三社祭にあたったため、境内には所狭しと露店が出ていました。
 そんな露店群を眺めつつ、私としては、例えば、それら露店の地代は最終的に浅草寺のフトコロへ入るのでしょうが、それまでにどのような人々の手を介してまとめられていくのだろうか、といったようなことが知りたくてしょうがない。そんな私の思いとは別に、買い食いしたくてウズウズしている学生さん。醤油やソースの焼ける香ばしい匂い、あるいはバニラエッセンスの甘ったるい香りが押し寄せてきます。まあ、仕方ないですよね。「はぐれて迷子にならないようにササッと買ってくるならいいよ。」と言ったのが運の尽き。あっさりと迷子発生。携帯のおかげで再会できましたが、すごい人ごみで少々難儀しました。
 迷子さんたちとの再会の場には、本堂の先、仁王門の下を指定。ただし、門の下も人でいっぱい。それでもなんとか合流して仲見世・雷門の方へと進みます。少し行くと、左には有名な揚げ饅頭屋さんなどが並ぶ仲見世が大にぎわい。


静寂の伝法院

 ところが、その向かいには、界隈から隔絶した静寂な空間があります。そこに江戸時代そのままのたたずまいをみせている建物は、伝法院です。一部の建物は戦災で焼失しましたが、それでもなお江戸時代の建物が院内には多く残っています。
 このように、現在も周囲から隔絶の観の伝法院ですが、江戸時代の浅草寺中にあっても、伝法院は別格といってよい存在でした。伝法院はなぜ別格なのか?


栄光の浅草寺

 浅草寺創建の年代については諸説がありますが、奈良時代にまで遡ることができるという説も有力です。いずれにせよ、徳川家康が江戸に城下町を建設する以前から、浅草寺は東国の観音信仰の中心としてこの地で多くの参拝者を集めていました。門前町も繁栄していたと考えられます。
 江戸時代の初期、浅草寺を統轄する別当=本坊の住職は、観音院・知楽院を号します。江戸期第一世の別当である忠豪、二世の忠尊、三世の忠運は、いずれも、後北条氏配下の武将の遠山氏・伊丹氏の血を引いています。つまり、関東における戦国期以来の名門につながる高僧たちが、代々、浅草寺別当の地位を継いでいたのです。
 そんな伝統的勢力である浅草寺に対して、「新参」の他所者、徳川幕府は、当初、十分な敬意を払っていたようです。家康は、浅草寺を徳川家の祈願寺とします。ちなみに、菩提寺として選んだのは、芝の増上寺でした。二代将軍秀忠も、家康同様、浅草寺を厚遇していたようです。
 
 こうした浅草寺の隆盛に陰りがさし始めるきっかけは、三代将軍家光の時代に生まれました。そして、そのことが、伝法院の成立に深く関わってきます。
 続きはまた次回に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/24

巡見~江戸を縦貫する15 今年も行きました

 この「江戸を縦貫する」シリーズは、昨年晩秋に実施した巡見の記録というかたちで書き進めています。本シリーズはまだ途なかばの状態ですが、先週末、私の今年の講義を聴いてくれている学生さんに呼びかけて、また同じ巡見に行きました。コースも昨年と同じです。三ノ輪の投げ込み寺からスタートし、吉原のソープ街、山谷のドヤ街、浅草新町、浅草寺、合羽橋道具街などを歩きました。ちょうど三社祭にあたって、賑やかな浅草界隈でした。

 近いうちに2回目をおこなって、後半のコース、浅草橋玩具問屋街、神田繊維問屋街、本町通り、三井本館、日本銀行、東京駅、丸ノ内オフィス街、江戸城本丸跡(東御苑)などを訪ねる予定です。

 この巡見の目的は、それぞれ個性的な都市の部分社会の存在を、見て確かめることにあります。ソープランドの玄関からちょっと店内をのぞき見たり、そびえたつ三井本館の石壁をペタペタ叩いただけで、その中身が理解できるわけではないのですが、ただ、東京の都市社会が相異なる個性的な部分社会のモザイクで出来上がっていることだけは納得できると思うのです。実際に自分の目で見る、という経験は本当に強烈です。
 その結果、私たちの社会が、ニュース番組の街頭インタビューに頻出するような、新橋駅前のサラリーマンと有楽町で買い物する主婦だけから出来ているわけでないということを実感するはずです。さらには、自分が属している集団(ゼミのメンバー、サークル仲間、家族、バイト先のスタッフなど)を相対化して把握する必要性を感じるはずです。

 一緒に歩いてくれた学生さんたちが、どんな感想をもったのか、楽しみ半分、不安半分ですが、今後、彼ら彼女らが、それぞれ色んな場面で、「私たちの社会は・・・」とか、「日本社会とは・・・」とか口にした瞬間、その脳裏に浮かぶのが、「一般市民」とか「普通の人々」とかのボンヤリした幻像ではなくて、今回の巡見で出会ったさまざまな街並みと、そこで生きる多様な人々の、クリアで具体的な映像であってくれればいいなと思います。

 夏までに「江戸を縦貫する」のコースが完了すれば、その後は、また別の場所へ行ってみたいと思います。六本木ヒルズと赤坂アークヒルズを見比べてみるとか、新大久保のコリアンタウンとか、渋谷の松濤と円山町とを歩くとか。学生さんたち、よろしくおつきあいくださいませ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/23

「私の研究は面白いですか」その10

盛り場論叢生の土壌

 まずは前回のおさらいから始めます。江戸(および明治初年の東京)の庶民の暮らしは、人々が居住している町内において完結していた、という町内完結社会論。この主張自体、町の外へ展開する「出稼」労働という、人々の生活における最も基本的な要素を見落としている点で、重大な欠陥を持っていますが、さらには、この町内完結社会論と、網野善彦氏の提唱する無縁論とが結びつくことで、誤った主張が生まれていきます。
 町の内部空間こそが人々の日常生活の営まれる世界である、という町内完結社会論の立場からみると、町の外部空間は、そんな日常的世界の外部、つまり、非日常的世界が展開する場所として把握されやすい対象だといえます。そして、そこには網野さんの無縁論との接点が容易に見いだされます。
 こうして、「橋のたもとの広小路などでは、遍歴漂泊の「自由」民たちが商売やら芸能興行やらをおこなっている。そんな盛り場へ一歩、足を踏み入れれば、普段は「有縁」の社会=町内に閉じこもって暮らす庶民であっても、日常のしがらみから解き放たれて、「無縁」の「自由」を享受できる。」といったような言説が次々と発生しました。
 さらには、「光」と「闇」だとか、「秩序」と「反秩序」だとか、「周縁」やら「アンダーグランド」やら、「聖」やら「死」やら、そんな言葉を一緒に混ぜ込んで、上記の言説はどんどん膨らんでいきました。そんな事情から叢生した諸言説を、私は一括して、盛り場論と呼んでいます。


盛り場論

 今回は、そんな盛り場論の例をいくつか紹介してみましょう。

 陣内秀信氏
 陣内秀信さんは建築史の研究者です。以下の引用元の文献『東京の空間人類学』は、学界の評価も高く、また広く人々の関心を集めてベストセラーとなった本です。江戸・東京の空間構造に関する論考でこの本を引用しないものはないくらいの基礎文献となっています。

 「ここで、都市の読解をさらに展開する上で注目したいのは網野善彦氏の研究である。氏によれば、中世までの日本にあっては、遍歴漂泊する職人、芸能民の集まる寺院の門前、市場、河原、橋などには、世俗の関係に縛られない「無縁」の原理の働く「聖」なる場が成立し、一定の「自由」と「保護」が与えられた「アジール」(保護区または解放区)となっていた。(中略)このような学説を一つの下敷きとして近世の江戸の成り立ちを考えてみると、実は、遊郭や劇場街にかぎらず、その都市全体の構造がきわめて明快に解けてくるように思われるのである。(中略)網野氏の指摘する、水と結びついた河原や橋が本来もっていた「無縁」の場の性格は、江戸の橋のたもと(橋詰め)の広小路にもそのまま受け継がれていたように見える。(中略)こうして江戸の市民たちは時には、木戸で仕切られ管理の下に置かれた町内の日常的なコミュニティを脱出し、自由人としてたちふるまえるアナーキーな場に身を置くことができた。それが可能であったのも、こうした悪所やアジール的な盛り場が都市の周縁部に成立し、空間的にも日常生活の場とは巧みに隔てられていたからである。このように、健全で日常的な「制度化された空間」に対し、その周縁や背後に欲望を満す非日常的で祝祭的な「自由な空間」をあわせもつという、独特の都市構造は今日に至るまで日本の都市の大きな特徴のように思える。」
 (『東京の空間人類学』筑摩書房1985年、128・130・143・144頁)

 吉見俊哉氏
 博覧会研究でも有名な吉見俊哉さんは社会学の研究者です。引用元の『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』は、都市社会学の業界だと『都市ドラ』なる略称で通じるほどらしい名著です。

 「近世都市・江戸において盛り場は、まず何よりも<異界>への窓としてあったのである。(中略)寺社地や盛り場といった宗教空間ないし遊興空間は、「市民の日常の生活の場からは離れ、他界と結びつくイメージをもった場所を慎重に選びながら、市街地から奥まった丘陵の緑や水辺に寄りそって登場(この箇所、吉見は前掲陣内書から引用)」していたのだ。(中略)大道の床店や葦簾張に対する(明治初年の東京府による)こうした一連の規制が、両国や浅草、筋違広小路、上野山下等の江戸以来の盛り場に与えた影響はきわめて大きい。たとえば、前述の筋違広小路界隈の場合、古着屋や下等の飲食店が軒を連ね、乞食が徘徊し、夜ともなれば私娼の出没する怪しげな場所であった柳原の土手は、明治六年二月に取払れ(後略)」
 (吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』弘文堂1989年、156・157・162頁)

 石塚裕道氏
 次の石塚裕道さんは、東京を対象とする近代都市史研究の権威といってよい方です。引用元の『東京都の百年』は、一般読者向けに書かれた近現代東京の通史です。

 「盛り場は信仰→消費→娯楽の空間として発展した場所で祭礼の一部が日常化した区域であり、金銭・食事・性をめぐり、むき出しの欲望が露呈する。そこには興行物・飲食店・遊郭など常設または仮の店も設けられて、飲む・打つ・買うの極道も黙認される背徳の世界がひろがる。明治・東京の盛り場を準備した江戸でのそれらの発生には、いくつかの型があった。基本的にはまず多数の人びとが集まる広場が必要であり、そのため、火災時の避難場所としての火除地(広小路)や橋詰などが利用された。(中略)盛り場は民衆が権力支配の世界から解放され“自由”を享受すると同時に、娯楽・遊芸をたのしむ「聖域」であり、都市集合の「解放区」であった。」
 (石塚裕道・成田龍一『東京都の百年』山川出版社1986年、98頁~石塚執筆部分)


これらの盛り場論は有効か?

 これらの言説は、共通して、江戸のオープン・スペース、つまり町の外部空間である広小路や火除明地などといった場所が活発に利用される様子に注目し、これらを盛り場と呼び、「悪所」・「アジール」・「非日常」・「祝祭」・「怪しげ」・「背徳」・「解放区」といった言葉で飾り立てます。
 それに対して、私は強い違和感をもちました。今回のシリーズ記事の最初の方で紹介した、上野山下の床店で古道具・古鉄物を売る文蔵とその家族。彼らは江戸に生きる都市民衆の典型です。そんな彼らの営業の場を「非日常」だとか「背徳」だとか「悪所」だとかいった言葉で語り切るのは、どう考えても無理がある。
 検討すべきは、文蔵たちのような人々とその営業形態が、江戸の広場・広小路において例外的な存在に過ぎないのか、それとも、逆に文蔵たちこそが当たり前の存在なのか、このどっちがより正しいのか、ということです。前者に軍配があがれば、今回紹介した盛り場論の主張は的確であるということになります。後者であれば、盛り場論は、江戸の広場・広小路を分析する理論として、あまりふさわしくないということになります。

 ところで、これら盛り場論は、いずれも、自分たちが江戸の盛り場と呼ぶ事例について、具体的・実証的な分析作業をほとんどといっていいほどおこなっていません。そうした作業を省略しているにもかかわらず、なぜそこまで大胆なことが主張できるのか、ちょっと理解に苦しむところではあるのですが・・・・。

 次回は、この問題に関して、とりあえず決着をつけて、話を先に進めましょう。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/05/20

巡見~江戸を縦貫する14 消えた公園風景

 現在、建っている浅草寺の本堂(観音堂)は、昭和33年落成の鉄筋コンクリート造りです。江戸時代初期に建てられた前の本堂は、残念ながら戦災で焼失してしまいました。炎に包まれ焼け落ちる本堂をみて、浅草寺の関係者はどれほど辛い思いをしたことでしょう。


消えた公園風景
 
 ところで、現在の本堂が誕生する裏で、消え去っていった浅草の風景がありました。浅草の古い写真などをみると・・・たとえば、有名な浅草十二階(凌雲閣)の写真には、しばしば建物の手前に大きな池が写っています。明治期に造成された大池・瓢箪池です。

 昭和26年10月、公園地の全面的な解除を勝ち取った浅草寺が、元公園地内で最初にてがけた大きな事業が、この大池・瓢箪池の売却でした。この事業の背景については、浅草寺が本堂落成の年、昭和33年に刊行した『昭和本堂再建誌』に、次のように記されています。
 「(公園地)解除返還のあかつきには純粋に境内地として必要な部分を除いて、すでに東京都が貸付けていた土地および境内地として重要でない部分を処分して、一大娯楽地に提供し、その代償によって本堂再建の自己資金に充てようという案で、通称六区のひょうたん池、実は四区大池も埋立てる予定であり、これは当時の住職大森亮順大僧上の英断によるものであった」。
 つまり、池なんぞ、浅草寺にとって必要ないから、それを売っ払い、そうして得た金で立派な本堂を建てよう、というのが大池・瓢箪池売却事業のねらいのようです。こうして池のある区画は東宝その他が買収し、池は埋立てられ、跡地には映画館や娯楽施設が建てられます。これら施設にもその後、変遷があり、今の場外馬券売り場WINDSの場所が、かつての大池の北半分にあたります。
浅草寺はこうして手にした資金でもって本堂再建を推進。昭和27年4月には上棟式がおこなわれ、33年10月の完成にいたります。


「大池無残」

 ところで、この大池・瓢箪池の売却に対して、浅草を愛する人の中には複雑な思いを抱いた人も少なからずいたようです。昭和41年発行の『台東区史 社会文化編』も、「大池無残記」という見出しを付し、浅草寺に対する批判的なニュアンスを色濃くにじませた記述で、この売却事業を紹介しています。

 私、個人的には、まあ、浅草寺の気持ちも理解できるかな、って感じです。宗教者ってのは、たいてい、大きな建物が好きみたいだしね。お参りに行く人だって、建物がでっかい方が、なんとなく、ありがたみを感じるし。
 自分の土地を勝手に公園地にされて、さらには池まで掘られちゃった浅草寺の人々にしてみれば、その池に対する愛着など持ちようもなかったんでしょう。

 さて、浅草公園が廃止され、自由に処分できるかたちの巨大な資産を浅草寺が我がものとしたのは、上に書いたとおり、昭和26年のことです。ただし、その前年の昭和25年には、公園廃止方針はほぼ固まっていたようです。
 そんな時期、浅草寺はもうひとつ、大きな動きをみせます。25年8月、浅草寺はそれまで所属していた天台宗を離脱して、独自の宗派、聖観音宗を設立しました。なぜ、このタイミングで浅草寺が天台宗を離脱したのか。それがよくわかりません。浅草寺側のコメントでは「宗制上の複雑な事情」とか「全く止むなき種々の因縁」によるんだそうですが・・・。
 いったい、どんな「複雑な事情」があったんだろうか?本当は、すごく単純な話だったりしないのかな。当時の新聞や雑誌の記事をさがせば、色んな「裏話」もみつかるのかもしれません。まあ、いつか機会があったら調べてみよう。

 次回は「浅草寺の闘い・近世編」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/16

巡見~江戸を縦貫する13 浅草寺の闘い・近現代篇

浅草公園の誕生

 江戸時代が終わり、明治になると、殿様たちは自分の領地を失いました。同様に、江戸時代、幕府による保護を受けていた浅草寺も、その領地を没収されました。さらには、広大な境内地も没収されます。
 こうして没収された浅草寺の境内は、明治6年になると、公園地の指定を受けます。上野寛永寺や芝増上寺の境内も同じ運命をたどっています。
 ただし、公園といっても、浅草寺の境内地には、江戸時代以来、たくさんの家や露店が建てられていました。そこからあがる地代は、浅草寺にとって貴重な収入となっていたのです。その境内地が公園地指定をうけて東京府管轄の浅草公園が誕生するわけですが、東京府も、家々や露店を追い出したりせず、公園借地料を取り立てていきます。こうして東京府が手に入れた多額の借地料は、浅草公園のみならず、府下の公園整備に広く活用されたようです。このような公園整備方針のもと、江戸時代以来の盛り場浅草は、さらに繁栄を続けることになります。


浅草寺の闘い

 一方、貴重な財源を失った浅草寺の経営は窮乏化していきました。その浅草寺を救うきっかけとなったのが、明治32年の国有土地森林原野下戻法でした。詳細は省きますが、要するに、寺院の境内地などは本来私有地であって、これを明治初年に没収したのは誤りであり、返却すべし、ということになったのです。これをもとに浅草寺は境内地の返還をもとめて行政訴訟を起こし、明治44年、見事勝訴します。
 しかし、この勝訴でもってただちに浅草寺のフトコロが潤うことにはなりませんでした。東京市が公園地の指定を解除しなかったからです。東京市が浅草寺から無償で土地を借りて浅草公園を保持するという状態が続くことになりました。浅草寺は、せっかく取り戻した自分の土地なのに、それを自由に活用することができなかったのです。もちろん、浅草寺はこれに反発します。東京市を相手に、公園地指定の解除を要求しつづけます。
 その後の部分的な公園地指定解除を経て、この闘いが最終的に決着するのは、戦後、昭和26年秋のことです。東京都は浅草公園を全面的に廃止しました。

次回は
 ところで、浅草公園の廃止方針が固まりつつある、ちょうどその頃、浅草寺は、もう一つ、別の動きをみせます。天台宗からの離脱、聖観音宗の設立という、所属宗派をめぐる大きな変化です。次回は、浅草公園最末期の変貌や、浅草寺の天台宗離脱などについて書きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/13

「私の研究は面白いですか?」その9

前回のおさらい

 江戸の町人社会を構成する多数の町のひとつひとつが、閉鎖的で完結したコミュニティを形成していて、人々はそんな小宇宙のなかで毎日暮らしていた、という町内完結社会論。この町内完結社会論がもつ欠陥については前回、説明しました。
 簡単におさらいすると、江戸の町人の大半を占める其日稼ぎの人々の多くは、町内の裏店に寝起きしていて、仕事をするときは自分が住む町の外へと出かけていく、いわゆる出稼ぎの人々です。つまり、彼ら彼女らの生活の特徴は、自分たちの住む町内で完結しえない点にこそあります。 したがって、町内完結社会論はこうした人々の生活実態を総合的に反映したものとはいえません(その一方で、道路に面した区画=表店に、常設店舗や作業場を構える商人や職人などといった、相当の資産を有する階層についていえば、その生活は職住一致が基本ですから、町内完結社会論はある程度有効かもしれません)。


町内完結社会論の誤った応用について

 このように町内完結社会論は、町の内部を把握する学説としては、大きな問題を抱えているわけですが、さらには、町の外部について考える場合においても、誤って応用されてしまう傾向があります。
 町の外部に対する誤った応用のされ方とはどんなものか、簡単に説明しましょう。
 町内完結社会論の立場からいうと、江戸の町人の多くは、それぞれが暮らしている町内において閉鎖的で完結した社会を形成していたわけですから、人々にとっての日常社会とは、各自が住んでいる町内社会を中心としたものになります。
 一方、町の外部はどうなるか、というと、いきおい、人々にとっての非・日常社会という扱いを受けやすくなります。江戸の町々の住人がよく出入りする町の外部空間とは、具体的にいうと、広小路や明地、あるいは寺社境内などといった広場=オープンスペースが該当します。町内完結社会論を応用すれば、それら非・町内の空間においては、非・日常社会が展開していた、という説がたてやすくなります。


網野善彦さんの無縁論との合体

 さて、実際にこうしたかたちで町内完結社会論が応用されるには、別の学説の大きな影響がありました。その学説が、網野善彦さんの無縁論です。
 私有地である町屋敷を基礎単位に成立している町。その町内に定住する人々が形成する濃密なコミュニティ。そんな町内社会がまさに有縁の社会であるのに対して、町の外部空間である広場=オープンスペースには、網野さんの注目した無縁の原理が生きている、という流れで論理が展開します。
 このような町内完結社会論と無縁論との応用から生まれた江戸研究には様々なものがありますが、私はそれをとりあえず一括して、盛り場論と呼んでいます。

 次回は、そんな盛り場論の代表例を紹介し、批判的に検討することにします。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/08

たらのめとみょうがのスパゲッティ(強くおすすめ)

連休中、お客があって料理を作った。久しぶりにコースで。

前菜は、ニンジンをグリルしてオイルマリネしたものと、軽く塩茹でした生っぽいグリーンピースの上に、おいしいパルミジャーノタイプのチーズをおろしてふりかけたもの。これを一皿に盛り合わせる。色の取り合わせもなかなか。

メインは、以前にも紹介した、豚のもも肉を使う「ミラノ風カツレツ」風カツレツ。お客さんと子供とでワイワイ騒ぎながら作ってもらう。

メインの前のパスタは、前に作って美味しかったミョウガのスパゲッティとたらのめのスパゲッティを合体。
たらのめとみょうがのスパゲッティ。これは本当に美味しかった。この季節のわが家の定番料理になりそうです。

1、たらのめは、やや硬いガクみたいなのが付いていたらそれをとりのぞき、根元の方をみじん切り。先の方の芽みたいな部分(2~3センチくらい?)はそのまま。みょうがも、硬めの部分を少しだけ除いて、みじん切り。分量は、1人前あたり、乾麺で100g弱とすれば、たらのめも、みょうがも4本ずつくらいかな。多めがいい。

2、フライパンにオリーブオイルをおおめに入れる。そこへ、たたきつぶしたニンニク1かけと、たかのつめ1個くらいを入れて弱火。オイルに香りが移ったらニンニク・たかのつめははやめに捨てる。ニンニク・たかのつめを効かせ過ぎないのが大事。

3、細めのスパゲッティを茹でる。途中で茹で汁をフライパンのオイルに足してよく混ぜる。フライパンの火は弱火。
オイルドレッシングみたいに、オイルと茹で汁とをよくなじませる。

4、麺が茹であがる1分弱まえに、みょうがとたらのめをフライパンに入れて、かるく熱する。塩を入れて味を調整する。風味が大事なので、こしょうは入れない方がいいと思う。これでソースのできあがり。

5、茹であがった麺をしっかり湯切りして、フライパンにいれてソースとよく混ぜる。

みじん切りしたみょうがとたらのめが、スパゲッティによくからんで、とても美味しい。自信作です。絶対おすすめ。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/05/02

JR西日本の尼崎脱線事故

人の命はどのくらい重いの?
 尼崎の脱線事故の背景には、利便や利潤を重視するJR西日本の体質問題が存在したという見方が強まっている。
 人の命は地球より重い、なんていうけど、それは嘘。
 実際には、利便・利潤とてんびんにかけられたとき、人命なんて本当に軽いものなんだな、としみじみ思う。

誰がJR西日本に石を投げられるのか?
 ただし、JR西日本のことを悪く言う資格が我々全員にあるわけではない。だって、いま享受している利便・利潤が守られるのなら、たくさんの人が死んでも構わない、という姿勢は我々の大多数が共有しているからだ。傍観する立場の我々はJR西日本の同志である。
 たとえば、ここ10年をみても、国内の道路交通事故で毎年8千人から1万人の人が死んでいる。こんな記事を書いている間にも、どこかで誰かが死んでいる。
 もし本気で、人命は地球より重いっていうのなら、この世から自動車・バイクを根絶すればいい。たちまち、その大半の命は救われる。
 しかし、自動車産業がもたらす経済効果や、今日宅配に荷物を出せば明日には届くという便利さ、雨の日にも濡れずに移動できるという快適さなどの代償に、毎年毎年8千人もの命が失われ続けていく。

遅い自動車は好きですか?
 自動車・バイクの即刻全廃が極論だというのなら、全車にスピードのリミッターをつければよい。ちょうどJR西日本に対して列車の自動制御装置の厳格な運用を求めるように。
 すべての自動車・バイクは時速15km以上出せないようにする。消防車など緊急車両は除外。高速道路上だけは、そのリミッターの設定を変えて80kmくらいまで出せるようにしてもいい。
 これならすぐに実現可能ではないだろうか。これで、おそらく毎年何千人かの命が救われる。
 だけど、そんな主張は世の中に受け入れられそうもない。高性能の車に乗る優越感や高速の移動がもたらす陶酔感、目的地に数分早くつけるありがたさの方が、たぶん人命よりも大事なのだろう。
 あるいは、「悪いのは自動車やバイクではない。無謀な運転をするドライバーが問題なのだから、そちらを減らす努力をすればいい。」といった、銃規制反対論者そっくりの意見もあるだろう。
 私自身、自家用車は持っていない(持てない)。しかし、毎日、なんらかのかたちで自動車の恩恵を受けて生活している。だからエラそうなことを口にする資格はない。事故死を減らすべく頑張る技術者や警察その他の人々の地道な努力を無駄なことだと決めつけるつもりもない。
 
 ただ言えるのは、利便・利潤のため今も人を“殺し”つづける集団に、我々は属していることを忘れない方がよいということだ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »