« 巡見~江戸を縦貫する14 消えた公園風景 | トップページ | 巡見~江戸を縦貫する15 今年も行きました »

2005/05/23

「私の研究は面白いですか」その10

盛り場論叢生の土壌

 まずは前回のおさらいから始めます。江戸(および明治初年の東京)の庶民の暮らしは、人々が居住している町内において完結していた、という町内完結社会論。この主張自体、町の外へ展開する「出稼」労働という、人々の生活における最も基本的な要素を見落としている点で、重大な欠陥を持っていますが、さらには、この町内完結社会論と、網野善彦氏の提唱する無縁論とが結びつくことで、誤った主張が生まれていきます。
 町の内部空間こそが人々の日常生活の営まれる世界である、という町内完結社会論の立場からみると、町の外部空間は、そんな日常的世界の外部、つまり、非日常的世界が展開する場所として把握されやすい対象だといえます。そして、そこには網野さんの無縁論との接点が容易に見いだされます。
 こうして、「橋のたもとの広小路などでは、遍歴漂泊の「自由」民たちが商売やら芸能興行やらをおこなっている。そんな盛り場へ一歩、足を踏み入れれば、普段は「有縁」の社会=町内に閉じこもって暮らす庶民であっても、日常のしがらみから解き放たれて、「無縁」の「自由」を享受できる。」といったような言説が次々と発生しました。
 さらには、「光」と「闇」だとか、「秩序」と「反秩序」だとか、「周縁」やら「アンダーグランド」やら、「聖」やら「死」やら、そんな言葉を一緒に混ぜ込んで、上記の言説はどんどん膨らんでいきました。そんな事情から叢生した諸言説を、私は一括して、盛り場論と呼んでいます。


盛り場論

 今回は、そんな盛り場論の例をいくつか紹介してみましょう。

 陣内秀信氏
 陣内秀信さんは建築史の研究者です。以下の引用元の文献『東京の空間人類学』は、学界の評価も高く、また広く人々の関心を集めてベストセラーとなった本です。江戸・東京の空間構造に関する論考でこの本を引用しないものはないくらいの基礎文献となっています。

 「ここで、都市の読解をさらに展開する上で注目したいのは網野善彦氏の研究である。氏によれば、中世までの日本にあっては、遍歴漂泊する職人、芸能民の集まる寺院の門前、市場、河原、橋などには、世俗の関係に縛られない「無縁」の原理の働く「聖」なる場が成立し、一定の「自由」と「保護」が与えられた「アジール」(保護区または解放区)となっていた。(中略)このような学説を一つの下敷きとして近世の江戸の成り立ちを考えてみると、実は、遊郭や劇場街にかぎらず、その都市全体の構造がきわめて明快に解けてくるように思われるのである。(中略)網野氏の指摘する、水と結びついた河原や橋が本来もっていた「無縁」の場の性格は、江戸の橋のたもと(橋詰め)の広小路にもそのまま受け継がれていたように見える。(中略)こうして江戸の市民たちは時には、木戸で仕切られ管理の下に置かれた町内の日常的なコミュニティを脱出し、自由人としてたちふるまえるアナーキーな場に身を置くことができた。それが可能であったのも、こうした悪所やアジール的な盛り場が都市の周縁部に成立し、空間的にも日常生活の場とは巧みに隔てられていたからである。このように、健全で日常的な「制度化された空間」に対し、その周縁や背後に欲望を満す非日常的で祝祭的な「自由な空間」をあわせもつという、独特の都市構造は今日に至るまで日本の都市の大きな特徴のように思える。」
 (『東京の空間人類学』筑摩書房1985年、128・130・143・144頁)

 吉見俊哉氏
 博覧会研究でも有名な吉見俊哉さんは社会学の研究者です。引用元の『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』は、都市社会学の業界だと『都市ドラ』なる略称で通じるほどらしい名著です。

 「近世都市・江戸において盛り場は、まず何よりも<異界>への窓としてあったのである。(中略)寺社地や盛り場といった宗教空間ないし遊興空間は、「市民の日常の生活の場からは離れ、他界と結びつくイメージをもった場所を慎重に選びながら、市街地から奥まった丘陵の緑や水辺に寄りそって登場(この箇所、吉見は前掲陣内書から引用)」していたのだ。(中略)大道の床店や葦簾張に対する(明治初年の東京府による)こうした一連の規制が、両国や浅草、筋違広小路、上野山下等の江戸以来の盛り場に与えた影響はきわめて大きい。たとえば、前述の筋違広小路界隈の場合、古着屋や下等の飲食店が軒を連ね、乞食が徘徊し、夜ともなれば私娼の出没する怪しげな場所であった柳原の土手は、明治六年二月に取払れ(後略)」
 (吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』弘文堂1989年、156・157・162頁)

 石塚裕道氏
 次の石塚裕道さんは、東京を対象とする近代都市史研究の権威といってよい方です。引用元の『東京都の百年』は、一般読者向けに書かれた近現代東京の通史です。

 「盛り場は信仰→消費→娯楽の空間として発展した場所で祭礼の一部が日常化した区域であり、金銭・食事・性をめぐり、むき出しの欲望が露呈する。そこには興行物・飲食店・遊郭など常設または仮の店も設けられて、飲む・打つ・買うの極道も黙認される背徳の世界がひろがる。明治・東京の盛り場を準備した江戸でのそれらの発生には、いくつかの型があった。基本的にはまず多数の人びとが集まる広場が必要であり、そのため、火災時の避難場所としての火除地(広小路)や橋詰などが利用された。(中略)盛り場は民衆が権力支配の世界から解放され“自由”を享受すると同時に、娯楽・遊芸をたのしむ「聖域」であり、都市集合の「解放区」であった。」
 (石塚裕道・成田龍一『東京都の百年』山川出版社1986年、98頁~石塚執筆部分)


これらの盛り場論は有効か?

 これらの言説は、共通して、江戸のオープン・スペース、つまり町の外部空間である広小路や火除明地などといった場所が活発に利用される様子に注目し、これらを盛り場と呼び、「悪所」・「アジール」・「非日常」・「祝祭」・「怪しげ」・「背徳」・「解放区」といった言葉で飾り立てます。
 それに対して、私は強い違和感をもちました。今回のシリーズ記事の最初の方で紹介した、上野山下の床店で古道具・古鉄物を売る文蔵とその家族。彼らは江戸に生きる都市民衆の典型です。そんな彼らの営業の場を「非日常」だとか「背徳」だとか「悪所」だとかいった言葉で語り切るのは、どう考えても無理がある。
 検討すべきは、文蔵たちのような人々とその営業形態が、江戸の広場・広小路において例外的な存在に過ぎないのか、それとも、逆に文蔵たちこそが当たり前の存在なのか、このどっちがより正しいのか、ということです。前者に軍配があがれば、今回紹介した盛り場論の主張は的確であるということになります。後者であれば、盛り場論は、江戸の広場・広小路を分析する理論として、あまりふさわしくないということになります。

 ところで、これら盛り場論は、いずれも、自分たちが江戸の盛り場と呼ぶ事例について、具体的・実証的な分析作業をほとんどといっていいほどおこなっていません。そうした作業を省略しているにもかかわらず、なぜそこまで大胆なことが主張できるのか、ちょっと理解に苦しむところではあるのですが・・・・。

 次回は、この問題に関して、とりあえず決着をつけて、話を先に進めましょう。

|

« 巡見~江戸を縦貫する14 消えた公園風景 | トップページ | 巡見~江戸を縦貫する15 今年も行きました »

コメント

新しい言葉や概念を世間に呈示する人は、きちんとことの重大さに震えて欲しいし震えた結果それでもと勇気を振り絞った挙げ句に呈示するということであって欲しいと思います。ぶっちゃけた話、私もたとえば今の生活を300年後私の知らない言葉や概念でそんな風に描かれるのは真っ平ごめんです。「周縁」とか「祝祭」が作業の足場として使われて使用後きちんと撤去と掃除をされたのならともかく、あたかも実在したかのように真顔でその存在が信仰されているらしい現状には憂慮せざるを得ません。たとえばそうした態度はそれらニューアカ用語の出自(何を斬るために生まれたか)に無頓着に過ぎると思います。

投稿: bun | 2005/05/24 01:04

 こんにちは、bunさん。いつもコメントありがとうございます。
 江戸の広場・広小路については、当初、私も盛り場論的な見方しかできませんでした。
 ところが、いったん史料を一点一点読み始めると、その内容が盛り場論的な見方を強く否定してきました。
 歴史学の楽しみは、まさにそんな時に味わえます。
 自分の頭で練り上げた構図の“絵”が、史料によってビリビリと無残に破られる。その被虐的?快感が歴史学をやる楽しみです。私の場合は。
 私と違って、頭の良い人は、最初に気の利いた、面白い“絵”が描けちゃって、あとはそれを修正することなく走っちゃう。ただ、そいういう人は、研究者には向いてないかもしれませんね。

投稿: 小林信也 | 2005/05/24 10:37

こんにちは、soです。
「盛り場論」批判のエントリーを拝見しました。
盛り場の構造分析欠如の批判は正当だと思います。「非日常」とされる空間も「日常」がなければ成立しないですから、そこを明らかにしないままに、「非日常」という把握が一人歩きするのはたしかに問題だと思います。
 小林さんの整理を拝見して思ったのですが、ご批判の対象の、いわゆる「盛り場論」は、徹底してユーザーサイドの「盛り場論」なのだと思います。こうした把握の背景には、70年代の管理社会論と消費社会論があるのでしょう。
 それに対して小林さんは、営業者サイドから盛り場にアプローチするわけで、そこに独自の意義がある。バブルで小営業者が潰されていくのを目の当たりにした、ポストバブル世代の「盛り場論」なのでしょうね。

 私が研究したテキヤの親分などは、露店商の「日常性」を世間にアピールしようとした人でした。世間からはマージナルな存在としてまなざしをおくられるテキヤも、真面目に商売をしている立派な「国民」なのだというわけです。
 ただ彼も自らのマージナル性を完全に捨て去ったとはいえないように思いました。それなくしては、露店商が現実におかれている状況を世間に訴える根拠が失われてしまうからです。そこに彼のジレンマがあったように思われます。

 それはさておき、小林さんの整理に触れて思うのは、「盛り場論」の次の段階はユーザーサイドの盛り場論と営業者サイドの盛り場論をどのように統合して、都市生活者の日常性の構造の中に位置づけていくのか、というところにあるように思われます。いかがでしょうか。妄言多謝。

投稿: so | 2005/05/24 13:27

 こんにちは、soさん。盛り場の見方については、ユーザーサイドと営業者サイドの両面があるというお話、よく分かります。
 たとえば、吉原のソープランドで遊ぶ男性客にとって、そこは「非日常」的であっても、そのお客の相手をする「コンパニオン」や店の従業員、経営者たちにしてみれば、「日常」的な業務が営まれている場だということですよね。
 そして、私が現代の吉原をもし研究するなら、客ではなく、そうやって働く人々の視点にたった研究をしたいと思います。そっちの方が面白そうですから。歌舞伎町しかり、渋谷しかり。ユーザーサイドにたつ吉見さんなどとは異なる視点です。
 以上は、soさんのご指摘どおりです。しかし、江戸の広場・広小路の議論は、それと異なっているように思います。
 もし、上野山下の文蔵の店で古道具・古鉄物を買う客が、上野のお山の花見客だったり、周辺町域の売春宿の遊客であれば、客=ユーザーは「非日常」、営業者は「日常」という両面が成立します。しかし、そうではなくて、江戸に野菜を運んできた近郊のお百姓さんが、その帰り道に、家で使う中古の釘とカナヅチ、鋸なんかを買おうとして文蔵の店に寄るのであれば、ユーザーも「日常」、営業者も「日常」ということになります。
 実を言うと、上野山下についてはこれ以上、検証を深める材料を欠くのですが、上野山下以外の、江戸の広場・広小路の露店営業地についてみた場合、ユーザーも「日常」、営業者も「日常」という場所が多かったと考えています。もちろん、露店営業地において「非日常」的な要素が皆無だと考えているわけではありません。ただ、少なくとも、盛り場論に共通してみられるような、非日常性が横溢する場、という主張が妥当する地域は、ごく一部に限られるのではないかと。
 したがって、盛り場論を主張する人が、そのごく一部の限定された地域を対象に自分は主張しているんだ、と自覚して議論を展開してくれてれば、問題は小さくなります(ただし、それでも営業者の視点の欠如という問題は抱え込んだままですが)。しかし、実際のところ、そうしたかたちで対象が限定されているんだという自覚は無いようです。
 もし、盛り場という語の定義が、非日常的な消費活動を行う場、というものであれば、江戸の露店営業地の多くは、盛り場と呼ばれるべきではないと思います。盛り場=繁華な場、くらいの定義であれば、それらを盛り場と呼ぶのも良いとは思います。
 以前、北京にいったとき、露店の市場がありました。その中の肉屋に、通訳を介して質問しました。客はどんな人々かと。すると、朝のうちはレストランその他の仕入れが多く、昼前以降は周辺の家々から来る客が相手だと。
 ちょうどこんな感じの客・営業者を基本に、私は江戸の露店営業地を考えています。

投稿: 小林信也 | 2005/05/24 17:12

こんにちは、soです。
なるほど。
「広場」→「非日常」=「盛り場」とするような、近代主義的な(あるいは近代日本的?)感性自体を、小林さんは相対化しているようにおもわれます。江戸の民衆にとっての、コモンズ(共有地)としての「広場の思想」の展開?

投稿: so | 2005/05/25 15:03

こんにちは、soさん。
まったくおっしゃるとおり。江戸の民衆世界に視点を置いたときの、広場の意義がテーマです。
お書きになっている、近代主義的なのか近代日本的なのか、という論点も重要ですね。

『現代思想』の5月号が、ニューヨークなどを主な素材に、都市の公共空間・公共圏と、それを圧迫するジュリアーニ市長なんかのジェントリフィケーション政策との対立を取り上げていて、そこそこ面白いです。
その誌中にもあちこちで登場しますが、わが大東京のリトル・ジュリアーニさんのことが色々と連想されます。
マスメディアが伝える「歌舞伎町」像をどうやって相対化するか、ということも考えなくてはならないような気がします。単純なアングラ擁護的スタンスから、かのジェントリフィケーションを批判するのではなく。

投稿: 小林信也 | 2005/05/25 16:35

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「私の研究は面白いですか」その10:

« 巡見~江戸を縦貫する14 消えた公園風景 | トップページ | 巡見~江戸を縦貫する15 今年も行きました »