熊井理左衛門~江戸のスーパーマン
今、近世江戸で活躍した熊井理左衛門という人物の仕事を分析して、論文を書いている。
熊井家は、江戸深川の名主の家で、代々、理左衛門を名乗っている。私が注目しているのは、文化から安政年間にかけての代の理左衛門である。
天保改革の際に功があり苗字使用を許された名主として、その名前だけは一部の研究者に知られているが、肝心のその仕事内容については、まったくといってよいほど研究されてこなかった。
そこで熊井理左衛門が関与したさまざまな仕事の史料を集めたところ、天保改革期から安政年間にかけての江戸の都市行政において、彼が果たした役割の重要さは、驚くべきものであることがわかった。
どうしてこんな凄い仕事が今まで見過ごされてきたんだろう。
彼の仕事については、すでに1本論文を書いており、拙著『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社、2002)の第7章に収録したが、その1本でカバーしきれず、今、続編というべき論文を書いている。
彼の仕事は、僕の論文ごときの出来不出来にかかわらず、いずれ、もっと広く知られるようになると思う。将来、たとえば国史大辞典などの歴史辞典類では、同じく江戸の天保改革に関わった町奉行鳥居甲斐守忠耀や、御金改役後藤三右衛門などと同等か、それ以上のボリュームで取り上げられるべき人物。
今の論文を書き終えたら、このブログでも、一度ゆっくり彼について紹介しよう。本当に面白い人だから。というか、異常なほど優秀な人。そのちょっと怖いぐらい桁外れの能力は、百数十年をへた史料からもヒシヒシと伝わってくる。
僕じゃなくてもし理左衛門だったら、今の論文だって、僕の何倍ものスピードでさっさと書き上げちゃうんだろうな。なんとなく理左衛門に対して申し訳ない気分(もちろん、迷惑をかけている編集の方に対しても)。
にしても、はぁー、疲れたぁ。このブログもなかなか更新できず、すみません。
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コメント
ご苦労様です。私のような一般市民は成果があがるのを心待ちにするより仕方がありません。楽しみにしております。ブログの更新も後世のみなさんから読まれることを考えれば慎重になるのもやむを得まい、ということにしておきましょう、お互い(笑)。
投稿: bun | 2005/06/19 23:19
こんにちは、bunさん。
このブログ、後世どころか、翌朝、自分で読み返しても、頭が痛くなったり、顔が真っ赤になるような記事ばかりです。
今の論文の方は、いい加減に書くと、熊井理左衛門に対して申し訳ないなぁと思い、精一杯がんばっています。
投稿: 小林信也 | 2005/06/21 23:54
私は、麹町名主矢部家の末裔です。母方なので名字は違います。私は先祖のホームページを作成しています。母方祖父が矢部家、母方祖母が梶野家です。矢部家は、明治以降も6大区時代高祖父が第2大区長、曾祖父が第3大区長を勤め、その後、初代麹町区長になりました。梶野家は、旗本の家筋、天保末期、梶野良材が勘定奉行を勤め、印旛沼堀割普請では、鳥居耀蔵、後藤三右衛門とせめぎ合いを演ずるのです。そこに熊井理左衛門も登場するのでした。
投稿: 黒岩博之 | 2012/09/25 09:32
私は調布市古文書学習会に属しています。来月の教材に、たまたま熊井理左衛門が出てくるのでした。参考までにその一節を
嘉永七亥寅年
異国船渡来の儀に付き熊井理左衛門その他の者より、注進の儀申し立て候はば、拙者共へ達しに及ばす、直ちに御用部屋へ御差し出しならるべく候、尤も深更等に至り、差し出し候事も計りがたく、その節は速やかに泊用人中へ御差し出しこれ有るべく候、この段念のため申し送り候事、但し御頭(町奉行)御登城御留守にても速やかに御用部屋へ差し出しならるべく候
正月十一日 年番、市中取締掛、非常取締掛
御当番中
投稿: 黒岩博之 | 2012/09/25 10:20
史料のご教示、ありがとうございます。
内容から察するに、旧幕引継書のなかの町奉行所年番方が作成した文書でしょうか。
当時の緊張した空気が伝わる文書ですね。
投稿: 小林信也 | 2012/09/27 08:31
お尋ねの件、お答えいたします。ご指摘のように「旧幕引継文書諸事留帳」です。また、私が調べた中でも、「江戸町触集成」等で熊井理左衛門がよく登場します。毀誉褒貶波乱に富んだ人ですね。一方、私に関わりある矢部家はどちらかと言えば目立たない存在、「東京市史稿」でも殆ど登場しません。「印旛沼堀割普請」で
熊井理左衛門が、何故堀割普請に呼ばれたのか始めは分からなかったのですが、やっとその理由が分かりました。
投稿: 黒岩博之 | 2012/09/27 13:37
熊井理左衛門、ふとしたことから気になって調べると、不思議なことばかり、草分名主の家柄ではないようですし、「江戸町鑑」(享保14年)には名主として記載されていなく、嘉永2年版に2番組堺町熊井理左衛門、それから後、嘉永7年には、深川熊井町名主、それから後に
日本橋堀江町と支配地を変えるのです。名主襲名には、家主、五人組推挙連印がいるというのにどうしたことでしょう。最後が良くなかったですね。
投稿: 黒岩博之 | 2012/09/27 20:19
レスが遅くて申し訳ありません。
印旛沼工事にも理左衛門が関与しているんですね。知りませんでした。興味深いです。
ご教示、ありがとうございます。
投稿: 小林信也 | 2012/10/02 05:19
鏑木行廣著「天保改革と印旛沼普請」86頁に「(天保14年8月2日)町奉行(鳥居甲斐守)から頼まれて、土方巧者を連れて普請所に来ていた江戸堀江町名主の熊井理左衛門らも江戸に帰った」とあります。他にも記述があったのですが、俄に探し出せません。確か、利根川から船を乗り入れるのは危険との進言に基づいて鹿嶋当たりに港を造りそこから印旛沼に乗り入れようと調査をしたようです。このような堀割普請には一方の知識を兼ね備えていたのです。
投稿: 黒岩博之 | 2012/10/15 13:50
貴重な情報のご教示、ありがとうございます。今後の研究に活かせそうです。
理左衛門は、ちょうどその頃、江戸市中の運河の大規模浚渫事業(天保14年5月~)を鳥居の下で統括し推進する立場でした(拙著『江戸の民衆世界と近代化』第6・7章)。印旛沼工事との間で施工業者の異同なども気になります。
ともあれ、本当にありがとうございました。
投稿: 小林信也 | 2012/10/15 14:11
私のホームページに「葦簀張り」に関して掲載しています。高祖父矢部常倫が明治2年に取り上げたものです。矢部常倫「去る名主・残る名主」に掲載した物を添付します。
『この直後、常倫が世話掛を勤める18番組の高輪南町における明治2年7・8月の記録が残されている。これは、高輪海岸掛茶屋に関するもので、江戸期に3月から10月の間、海岸に葭簀張りの腰掛け茶屋が、設けられていたが、このまま通年設置を認めてもらえないか、地代上納は1ヶ年25両が相当と思われる、との願い書と共に、申し渡し書(案)まで添えて、地元地主総代から提出されている。
それを受けて18番組中年寄・添年寄が状況調査をした結果、「夏は特に人の往来が多く、食物などを葭簀小屋に持ち出し、商いをしていたが、次第に小屋内に常住するようになり、建物も手を加えて」いる状況だった。これらの報告から、世話掛矢部與助常倫は、「吟味したところ、不都合もないようなので、定住・焚き火などをしないこととし、巾3間、長さ450間について、25両を上納する」ことを東京府に願い出ている。
これに対し「相糺すところ、差し障りの筋も相聞かざる間、願いの通り差し許す。」として許可になったのだった。』
以上ご参考になれば幸いです。
投稿: 黒岩博之 | 2012/10/17 15:08
情報、ありがとうございました。
高輪の露店も面白そうです。
投稿: 小林信也 | 2012/10/22 10:36
熊井理左衛門は、頭のいい人でしたが、自らのことを第一にし、江戸町奉行鳥居耀蔵にすり寄り、
それまでの江戸行政をひっくり返そうとしたのです。最後は追放されてしまったのです。
平成27年、東京市史稿第56が東京都公文書館から刊行された。第56は天保14年正月から、弘化2年8月までを収録してあり、矢部家が麹町名主として江戸の町行政を預かっていた時期と重なる。私は図書出版に際し、先祖を記述しするに当たり、今ではなじみの薄い「名主」の由緒や役割から説明することにした。それも矢部家が幕府創設当時からの格式ある「草分名主(草創名主)」であったことからである。江戸期には草分名主はそれなりに重い意味のあることだったのだ。その中で特に中心となったのが、江戸町奉行鳥居甲斐守忠耀であり、町行政を直接担う名主熊井理左衛門であり、更には御金改役後藤三右衛門でもあった。
熊井理左衛門は、その後も職に座り続けたが、安政4年暮れに名主の地位を追われ、翌年2月に71歳で投獄されいる。このように天保改革は、裏切られたり裏切ったり、嵐のように過ぎ去っていった。そのなか矢部家は決められた役割を真摯に勤め続ける。
投稿: 黒岩博之 | 2020/06/10 10:12