「私の研究は面白いですか?」12
法政大学エコ地域デザイン研究所での研究報告
もう一ヶ月以上も前の話になってしまいましたが、七月七日の七夕の夜、法政大学のエコ地域デザイン研究所のお招きにより、同大の市ヶ谷キャンパスにて研究報告しました。
報告のタイトルは「江戸の広場と民衆世界」。このブログの「私の研究は面白いですか?」シリーズの第1回から第11回で書いたことを整理しつつ、図像史料なども加えて、歴史研究者(いわゆる文献史学研究者)ではない人向けを意識してしゃべりました。
先にも書きましたが、ちょうど、上記「面白いですか?」シリーズで、従来の江戸の盛り場論に対してちょこちょこ批判を加えていたところ、その盛り場論の中心的な提唱者でいらっしゃる陣内秀信さんが所長の研究所から、問題のテーマでの報告依頼が来るという、あまりのタイミングに少し驚きました。
もちろん、陣内さんもご出席くださるとのこと。
当日は、時間も限られていて十分な議論はできませんでしたが、そこでの議論や、そのあと考えたことなどを、これから何回かの記事にわけて書いてみましょう。
今回は、エコ地域デザイン研究所のホームページに掲載した報告の予告文と、報告後に私が作成した報告要旨とを載せます。
報告予告
・発表者 小林信也(川村学園女子大学・都留文科大学・日本大学 非常勤講師)
「江戸の広場と民衆世界」
近世江戸の各所にあった橋詰広小路などの広場をとりあげる。その際、都市民衆世界に視点をおいて、それら広場のもつ意義について考察する。また、そうした視点から考察することの有効性について、他の視点からの考察とも比較しながら検討したい。さらには、明治初期、近世都市江戸が近代都市東京へと移行していくなかで、各所の広場やその利用者たちがどのような変容をみせたのか、という問題も扱うことにしたい。
報告要旨
本報告の骨子は、江戸の広場を対象とする盛り場論を批判的に再検討することである。
江戸における町人の所有地の基本単位は、町屋敷と呼ばれる土地区画である。町屋敷の形や大きさは一定ではないが、間口5間・奥行20間程度の細長い長方形で100坪ほどの広さが標準的である。そして、一般的にはこうした町屋敷が20個から30個ぐらい集まって、ひとつの町(チョウ)が成り立っている。俗に「大江戸八百八町」というが、実際にはその約2倍の1600個前後の町が江戸の町人地には存在した(なお、江戸には町人地の他に武家地と寺社地があり、それらと町人地とを併せて江戸という都市の全体が構成されていた)。
周知のごとく、これらの町々は、そのひとつひとつが個別の共同体としての性格をもっていて、江戸の町人たちが帰属する最も基本的な社会集団の単位となっていた。そうした町の共同体的結合の強さに着目して、町人の生活の大部分は各自が住む町の内部で完結していた、とする町内完結社会論が唱えられた。そして、町内という閉じた社会=空間こそが日常世界の展開する場であるというこの論を応用することで、江戸の各所の広場など、町の外部の社会=空間は、反対に、非日常的な場であるという主張も成立した。これは、“私的所有”が支配する社会=空間の外部に“自由”や“解放性”の活況を見いだそうとする網野善彦の無縁論を、先の町内完結社会論と結合させて江戸に適用しようという考え方である。このような主張を盛り場論と名づけることにする。
さて、ここで再び、町を構成する基本単位である町屋敷に目を向けてみる。多くの場合、町屋敷の内部は、通りに直接面した表店と呼ばれる部分と、その裏手にある裏店と呼ばれる部分とに二分できる。表店は常設の店舗(あるいは店舗兼作業所)が建つ場所であり、そこには一定の資産をもつ表店商人や親方クラスの職人などが職住一致の形態で居住していた。一方、裏店に住む人の多くは其日稼ぎの者と呼ばれる階層に属しており、零細な商人や雇われの職人、日雇いの人足や多様な賃仕事の従事者などからなっていた。
江戸の町方人口約50万人のうち、過半数を超える30万人近くがこうした其日稼ぎの者であり、その多くが、町屋敷の裏店部分に建てられたいわゆる裏長屋などに住んでいたと考えられる。これら江戸の町人の最多数をしめる人々の生業は、内職仕事などの補助的労働を除くと、その大部分は居住する町の外部で営まれていた点に特徴をもつ。各所の普請現場や作業所、あるいは行商のテリトリー、そして本報告が対象とする露店営業地などが、そうした生業の場である。このような生業の形態は史料上、「出稼」と呼ばれる。
ここで、町の外部へ「出稼」する人々の存在を念頭におけば、先に紹介した町内完結社会論が大きな欠陥をもつことは明らかである。「出稼」する人々の生活は、いうまでもなく、町内では完結しえない。さらに、町内完結社会論の欠陥をふまえると、同論を前提として成り立っている盛り場論についても見直す必要が当然生じる。つまり、江戸の広場に展開する露店営業地を、非日常的な社会=空間としてではなく、そこへ「出稼」する人々にとっての日常的な社会=空間として理解し直す必要がある。
一方、「出稼」する人々が売る“商品”については、古着や古道具、小間物、生鮮魚などといった日常的商品と、芸能や見世物などの興行物=“非日常的商品”とに区別することが、(商品全般の売買行為が本来的にもつ演劇的要素や祝祭的性格に関する議論などを捨象した上で)とりあえずは可能だろう。このうち、“非日常的商品”に酔う消費者(観客)の心情・行動様式にのみ分析視点を狭く限定するならば、従来の盛り場論も成立しうる。しかし、今必要なのは、そうした盛り場論の限定的視野を超えた、営業者の視点をも組み込んだ議論であり、また、江戸の広場一般において芸能・見世物の興行よりもはるかに広汎にみられる日常的商品の売買に注目した議論だろう。そこでは、市場論、あるいは民衆的市場論と呼びうる議論が有効ではないだろうか(こうした広場をめぐる報告者の主張について、詳しくは、小林信也『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社2002)第一部、および最新稿の同「江戸の民衆と床店葭簀張営業地」(吉田伸之・長島弘明・伊藤毅編『江戸の広場』東京大学出版会2005)を参照のこと)。
民衆的市場としての江戸の広場は、近代東京における都市空間の転換過程においてそのほとんどが消滅していった。しかし、広場=民衆的市場を作り上げていた都市民衆のエネルギーは、明治期東京に新たな都市空間を生み出していく。そのひとつが、旧武家屋敷跡地などにおける新開町の誕生である。あるいは、各地で活況を呈する夜店なども注目すべきであろう。都市空間の近代化過程を総体的に描き出そうとする場合、欧米をモデルとした文明開化の町づくりにのみ目を向けるのではなく、こうした都市民衆世界の動向とその意義を視野に入れる必要がある。その結果、解決・解消すべき都市問題的存在としてこれら民衆世界の動向とその産物を扱ってしまう従来の都市下層社会論や都市スラム論に対しても、批判的検討が可能となるだろう。
と、まあ、こんな感じの発表でした。当日の議論や、一次会でのおしゃべりなどを振り返りながら、私なりに考えたことを、また次回、ご報告します。
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コメント
ご無沙汰です。お元気ですか。
お礼を失念しておりましたが、
御共著『江戸の広場』をお送りいただきありがとうございました。まだ全部目を通していないのですが(別の仕事でいっぱいいっぱいです)、是非参考にさせていただきます。
というのも、小林さんの新開町論に刺激され、次の仕事で「その後の新開町(地)」のようなことを考えていたところだったからです。松山さんの論文は、小林さんの先駆的論文と並んで貴重な先行研究となります。
今の仕事が終わったら、また与太話につき合ってください。それでは。
投稿: so | 2005/08/25 13:07
しばらく旅行で不在にしてました。レスが遅くなってすみません。『江戸の広場』の松山論文は、本当にいいですね。見習わなくては。自分の最近の仕事を振り返るに、大した能力もないのに、歳をとるにつれて、わずかばかりの謙虚さも失い、手抜きが目立つように思います。丁寧に史料を読み込むところから、予想もしなかった発見を得ることが歴史研究の醍醐味だと思うんですが・・・。最初に結論ありき、みたいな論文を書いててはダメだなぁとしみじみ。
投稿: 小林 | 2005/08/31 06:04
恐れ多くも「都留」にトラバック(させてください)。検索ワードからこんな刺激的なブログに行きついてしまった。ついでながら「君ゆえに・・・」謹白
投稿: 南方 | 2005/10/31 13:46