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2006/01/30

お江戸日本橋の魅力とは? その8

 六本木ヒルズの主要なデザイナーのひとりが、日本橋の高層ビルもデザインしている。コレド日本橋。日本橋付近の景観に決定的な影響を与えるこのビルのデザインに、地域に存在する人々はどこまでコミットしえたのか。それが問題である。

フロム・ニューヨークの帆船の逆走
 
 船の帆に似たコレド日本橋の外観をデザインした人は、ニューヨークの設計事務所のメンバーだそうだ。この人がふだんどこに住んでいるのかはよく知らないが、日本橋の近所で暮らしたりはしてないらしい。国籍についても知らないが、ミネソタの生まれみたいだから、たぶんアメリカ人なんだろう。

 この人のデザインしたコレド日本橋が、何を間違えたのか、南北を逆にして建っていることについては、以前にもこのブログで書いた。
 ビルのオーナーである不動産会社は、「川を中心にした日本橋の街づくり」を提唱し、「ゆるやかに流れる川を中心とした昔ながらの風景」の再生を主張している(「まち日本橋」というタイトルのこの会社のホームページより。それにしても、「昔ながらの風景」を壊しているのはいったい誰よ?)。
 そんな会社の主張にまるで反して、どうしたことか、このビルは、日本橋や日本橋川へ完全に背を向けて建てられてしまったのである。このビルは南側から眺めるためにデザインされている。そして、日本橋や日本橋川はビルのすぐ北側。

 オーナーの不動産会社は、れっきとした日本橋商人の末裔である(厳密にいうと、その昔、本店は京都にあったらしいが)。だが、アメリカ人のデザイナーに白羽の矢を立てて、色々注文つけたのは、間違いなく、日本橋界隈の地理に暗い社員だったのだろう。
 そんなわけだから、実際にビルを作ってみたら、南北が逆になって、日本橋に背を向けてしまった。

 なんでも、この種のビルのデザインをおしゃれなポストモダン焼きっていうらしいが、少なくとも日本橋のそばから見上げるこのビルの裏側は、僕なんかが幼い頃から慣れ親しんできた、コテコテのモダン焼き。馬鹿でかい、真ったいらな四角の壁に、規則正しく窓が並ぶ焼き上がり。

 そのモダン焼きの巨大で無表情な壁が日本橋の南の空を広く覆ってしまっている。

 建てる前から、その高さ・巨大さによって地域の景観を大きく変えてしまうことが確実だったこのビルのデザインについて、日本橋地域で働き暮らす人々はどこまでコミットできたのだろうか。ぜひ確かめてみたいものだ。

付記
 いちおう、このビルのポストモダン焼きの側を写した画像にリンクを張っておく。皆さんは、実際に日本橋に行ってみて、橋のたもとからモダン焼きの側も眺めてみるといい。まさに、お芝居のセットを裏側から見ている気分がするから。
 日本橋の景観がどうのこうのって言う人は、マスメディアやネットでばらまかれる、日本橋と首都高をアップで撮ったツーショット写真だけを眺めるのではなく、ぜひ、首都高とドッコイドッコイのこの巨大な壁の圧迫感を体感してから、日本橋の景観問題を議論すべきだ。

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ワン・コイン古文書講座特別企画~「江戸東京の歴史散歩」へのお誘い

ワン・コイン古文書講座 特別企画
「江戸東京の歴史散歩 第1回 交差する江戸のメインストリート」

日時:2006年3月11日(土)14:00から
集合:JR神田駅南口改札を出たところに14:00集合
所要時間:だいたい2時間くらい
解散場所:日本橋北詰
費用:500円(資料代など込み)
※小雨決行

お申し込み方法2月25日(土)の第3回ワン・コイン古文書講座(詳細はこちらをごらんください)にて、ご案内を差し上げた上で、希望者を募ります。また、同講座に出席されない方も歓迎します。本日から2月末日までの間に、私あてのメールで、氏名・ご住所を明記の上、お申し込みください。メールアドレスは、このブログの左上の方にある「プロフィール」のところをクリックして、プロフィールページに掲載したメールアドレスをご覧ください。


江戸のメインストリートはどこ?

 ジャン!! 「さて、ここで問題です。江戸で一番の目抜き通りはどこ?」

 日本橋を中心にして、そこから南北両方に延びているのが日本橋通り(現在の中央通り)ですが、この日本橋通りこそが江戸一番の目抜き通りである、という答えも、当然、可です。
 しかし、江戸にはもっと由緒正しきメインストリートがありました。その名もずばり、本町(ほんちょう)通り。常盤橋(現在の日本銀行のすぐそば)から浅草橋へ向かうのが、江戸の本町通りです。江戸時代の初め、江戸で随一の通りはこの本町通りでした。ところが、江戸時代も中期以降になると、経済的繁栄の中心は日本橋周辺へと移り、江戸一番の目抜き通りの座は日本橋通りに奪われていきます。

 今回の歴史散歩では、この新旧2本のメインストリートの現在を歩いてみます。

格式高き本町通り

 先日の第2回古文書講座で沽券絵図や浮世絵を通じて触れた大伝馬町一丁目は、本町通り沿いにあります。現代の東京で、大伝馬町や本町通りがどのような姿に変わっているのか、実際に見て確かめましょう。きっとたくさんの発見があります。広重の浮世絵にかかれた繁栄の町並みの現在はいかに。

日本橋絵巻「熙代勝覧」

 また、日本橋通りについては、この通りのうちの日本橋から北に延びる部分を描いた絵巻物「熙代勝覧」が、今ちょうどベルリンから日本橋へ里帰りしていて、三井記念美術館で展示されています(2月12日まで)。
この「熙代勝覧」の絵解きをした本が講談社から出ています。浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』。私も共同執筆者の端っこに加えてもらって、絵巻に出てくる人物の職業などを特定する作業を受け持ちました。今回の歴史散歩では、この「熙代勝覧」の図像を片手に、絵巻に描かれた部分の端から端まで、つまり、神田今川橋交差点付近から日本橋南詰まで、実際に歩いてみましょう。できれば、講談社の本を持参していただけると嬉しいなぁ。3150円也。自分で言うのもなんですが、絵巻の写真も綺麗(実物よりも?)で、解説などもなかなか面白い本ですよ。
 今川橋のたもとの瀬戸物屋、十軒店の雛人形市場、三井越後屋の巨大な店舗、それから人々で溢れかえる日本橋の活況などなど。そんな絵巻のポイントポイントの現在を確かめてみましょう。

 みなさんのお出でをお待ちしております。

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2006/01/28

第2回ワン・コイン古文書講座 解答

 1月14日に開催の第2回ワン・コイン古文書講座で配布しましたプリントの中の練習題1~4の解答です。

 また、ワン・コイン古文書講座 特別企画「江戸東京の歴史散歩」~新旧2本の江戸のメインストリートをあるく(仮)~ の日時と集合場所だけ発表しておきます。行程はだいたい2時間くらいの予定です。
 ・3月11日(土) 14:00 JR神田駅南口改札外
(詳細は1月31日に当ブログにて発表します。)

練習題の解答

練習1
一札之事
一南傳馬町壱丁目西側北角より四軒目表京間四間半口裏幅同断」裏行町並弐拾間有之私所持之家屋敷壱ケ所此度諸親類相談」之上神田佐久間町四丁目代地家持吉兵衛方江代金七百五拾両ニ」売渡申処実正也然ル上者右家屋敷之義ニ付諸親類者」不及申外より違乱申者無御座候万一異儀申もの有之候ハヽ」私共罷出急度申披各方江少茂御苦労掛ケ申間鋪■為後証親類加判一札仍如件」
文政六未年十月十四日」木挽町三丁目利左衛門店」家屋敷」売主」三河屋 七兵衛」深川六間堀町家主」右七兵衛幼年ニ付後見 甚兵衛」右七兵衛方ニ同居」同人祖母 こや (爪印)」本所松井町弐丁目八郎兵衛店 右七兵衛伯父 惣兵衛」武州荏原郡古市場村」百姓」親類 弥吉」名主 小宮善右衛門殿」同 高野新右衛門殿」五人組中」

練習2
一札之事
一南傳馬町壱丁目西側北角より四軒目表京間四間半口裏幅」同断裏行町並弐拾間有之木挽町三丁目利左衛門店七兵衛所持之」家屋敷此度代金七百五拾両ニ拙者買求候ニ付沽券状之通間数」相改無相違請取申候且又當所塗家ニ被 仰付候場所之義」慥ニ承届申候右急度違背致間敷候勿論家作其外町方」不相応之義致間敷候御傳馬入用町入用共急度差出可申候事」一御法度之義大切ニ相守御觸事地借店借召仕等迄申聞諸事」急度取置其外町法大切ニ相守可申候尤町役之儀者不及申」町内一統之義相滞申間鋪候事」
右家屋敷家守相附候共前書之通申聞為相守可申候家守若滞」候義有之候ハヽ早速拙者罷出滞義無之様可致候尤家守退候歟又者病死抔致候ハヽ跡家守相附可申候若家守不埒之義有■■貴殿より御改有之候ハヽ早速家守附替可申候仍手形如件」文政六未年十月十四日」神田佐久間町」四丁目代地」家持」吉兵衛 」小宮善右衛門殿」高野新右衛門殿」

練習3
一札之事
一南傳馬町壱丁目西側北角より四軒目表京間四間半口裏幅同断裏行弐拾間有之私所持之家屋敷此度親類相談之上桜田太左衛門町家持松屋善太郎方江家質ニ書入金五百五拾両拝借」申候処相違無御座候右ニ付諸親類者不及申外より違乱申者」無御座候万一異儀申者有之候ハヽ急度申披各方江少茂」御苦労掛ケ申間鋪候為後証親類加判一札仍如件」
文政六未年十月十四日」神田佐久間町四丁目代地」家持地主」借主 吉兵衛」神田松枝町安兵衛店」従弟 市兵衛」名主」小宮善右衛門殿」同」高野新右衛門殿」五人組中」

練習4
一札之事
一南傳馬町壱丁目西側北角より四軒目表京間四間半口裏幅」同断裏行町並弐拾間有之七兵衛所持之家屋敷右七兵衛」幼年ニ付惣兵衛後見仕罷在候処此度勝手ニ付後見相改」跡後見之儀者諸親類相談之上甚兵衛相勤申候処相違」無御座候依而今日後見弘メ致候右後見代り之儀ニ付親類者不」及申外より違乱申者無御座候為其一札差出申候仍如件」
文政六未年十月十四日」木挽町壱丁目利左衛門店」七兵衛」同人祖母」こや(爪印)」本所松井町弐丁目八郎兵衛店」右七兵衛伯父」惣兵衛」深川六間堀町家主」右七兵衛幼年」ニ付後見」甚兵衛」武州(刕)荏原郡古市場村」親類」弥吉」名主」小宮善右衛門殿」同」高野新右衛門殿」五人組中」

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2006/01/23

お江戸日本橋の魅力とは? その7

景観から疎外された人々

 前回の記事では、私の好きな景観の条件として次のようなことを掲げた。

 多様な人々の存在を認める地域社会があり、そうした多様な人々がそれぞれ主体的に地域の景観形成にコミットできているならば、その地域の景観には多様性とディテールが生まれる。そんな多様性とディテールとを備えた景観が好きだ、と書いた。

 では、景観形成へのコミット、という問題について、もう少し具体的に検討する。

 まずはコンビニについて考えてみよう。コンビニの屋外看板が景観の構成要素であることについては、簡単に納得してもらえるだろう。さらに、店の内外における照明の色や強さ、ガラスの壁ごしにみえる商品陳列棚のデザインや配置なども、景観の構成要素としてみよう。他にも、店の外からも見える店員のユニフォームなども、思い切って、広義の景観的要素としていいかもしれない。

 コンビニ以外でも、チェーン展開のコーヒーショップ(例えば、日本橋北詰の角地、つまり日本橋の超一等地にもこれがある)やファストフード、ファミレスなどの飲食店も似たような事例とすることができるだろう。

上に挙げたコンビニその他のお店における景観的要素、すなわち、看板・照明・商品陳列棚・ユニフォーム(?)の、色や大きさ、デザインなんかを決めているのは誰なのかってことが重要な問題となる。

 これらのお店で働く店員さんや店長さんが、こうした景観的要素を決定する過程にどの程度関与できるのだろうかってことが問題なのだ。

 このようなコンビニやチェーン展開の飲食店は、おそらく極端な事例かもしれないが、その他、多くのアパレルショップやドラッグストア、その他、個人経営ではないお店について、同じような問いを発してみよう。

 こうしたお店の店内、あるいは、お店が商売している地域社会の範囲内に、これら景観的要素の決定に深く関わった人が存在するか否か。多くの場合、答えは、否ということになるのではないか。

 ここには、自分たちが働き暮らす地域社会において、その景観づくりから疎外されたままの、たくさんの人々を見出すことができる。

 次回は、こうしたお店がテナントとして入居する商業ビルの設計・デザインなどを考えるのが、どこの誰なのか、って問題について考えてみたい。

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2006/01/16

お江戸日本橋の魅力とは? その6

多様性とディテール

 前回の記事で、私の好きな都市景観の条件とは、多様性とディテールである、と書いた。そして、多様性とディテールが景観に備わるためには、地域社会の側に多様性とディテールが備わっていなくてはならない、と書いた。
 地域社会における多様性とディテールについては、さらに説明が必要だと思う。多様でディテールをもった社会とは、どのような社会なのか。

 それは、①「多様な人間が共存する地域社会」であり、かつ、②「多様な人間のひとりひとりが社会のディテールとしての存在意義を持ちうる地域社会」である。

多様な人間が共存する地域社会

 ①については、そんなに説明はいらないだろう。お年寄りの暮らせない地域や子供の遊べない地域はこれに該当しない。あるいは、体などに障害をもつ人や「外国人」などのマイノリティを排除する地域もこれに該当しない。
 例えば、役人ばっかりがたくさんいる官庁街や、大企業のビジネスマンばかりがいるオフィス街などは、その存在を否定する気はないが、私の場合、ことさら好きになる対象でもない。

人間がディテールとして存在する地域社会、試金石としての景観

 よく考えなくてはならないのは②の方である。①でいうような多様な人間が存在する地域であったとしても、ただ存在するだけではだめである。
 では、どのようなかたちで存在する地域社会が良い地域社会なのか?それを判断するための試金石として有効なのが、実は景観の問題なんだと思う。私が景観にこだわる理由は、ただもうこの一点のみにあるといっていいかもしれない。
 多様な人間のひとりひとりが景観にコミットできているか否か。コミットできている地域社会を良い地域社会だと私は考える。
 仮に、多様な人間がそこ存在していたとしても、地域の景観に対して主体的にコミットできていないのならば、その人間は社会のディテールとしては認められていない状態にあると考える。
 なお、ここでいう「存在する」とは、居住することだけではない。その町で働いていることも、その町に「存在する」ことである。

六本木ヒルズにディテールはあるか

 例えば、六本木ヒルズを考えてみよう。たしかに、そこには多様な人々が暮らしたり、あるいは働いたりしている。
 しかし、それら多様な人々が皆、あの“町”のディテールとして存在しえているかどうか。つまり、ヒルズの景観にコミットできているか否かが問題となる。
 次回は、こうした問題を検討する。

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第2回ワン・コイン古文書講座が開かれました。

第2回ワン・コイン古文書講座のご報告

おおぜいお集まりいただきありがとうございました 
 前の記事でご案内いたしましたとおり、先週末の土曜午後4時から、品川の立正大学で、第2回ワン・コイン古文書講座が開かれ、私が講師をつとめました。
 あいにく当日は季節外れの豪雨でしたが、悪天候のなかご出席いただいた方々には心から感謝いたしております。出席名簿を拝見いたしますと、第1回から引き続きのご出席の方々と今回初めてご出席の方々とがほぼ半々いらっしゃいました。合計では、第1回と同人数の33名もの方々にお集まりいただき、本当にありがとうございました。

例題・練習題もがんばってみてください
 今回は、江戸の町屋敷の沽券を読みました。例題と練習題の解読文や解説は、来週末の28日午前(予定)に当ブログ(と高尾さんのブログ?)にて発表しますので、ご出席の皆さんは“答え合わせ”をお願いします。
 活字におこされた沽券も2点添えましたが、ぜひ、それらを何度か繰り返しお読みになって、できれば、いくつかの決まり文句を空で唱えられるぐらいの状態になられてから、例題と練習題に取り組んでみてください。
 練習題の方は、沽券ではなく、土地の売買を名主に届け出た際の証文です。文章は沽券と共通する部分がほとんどですから、例題が読めるようになられた方は、ぜひ、チャレンジしてみてください。

くずし字への近道は活字
 当日、古文書読解上達のひとつの近道として、活字史料を利用して、なるべくたくさんの史料を読むようにする、という方法を申し上げました。
 それについては、講座終了後、「どのようにして活字史料を探せばよいか。」というご質問を頂戴しました。また、ご出席いただいた方のブログでも、同様のご指摘がありました。

 近世文書を活字におこした史料集は、それなりにたくさんあります。図書館などでそれらの本を利用されると良いと思いますが、もっとも便利なのは、活字の史料集と、もとのくずし字状態を複写した影印本と呼ばれるものと、両方が刊行されているような文書だと思います。少しお時間をちょうだいして、そうした本のリストを作成しようと思います。リストは、次回、2月25日の第3回講座にて配布させていただくつもりです。
 そうした本の一例としまして、近世文学の影印本などはどうでしょうか。たとえば、近松の曽根崎心中など浄瑠璃本の影印本と活字におこされた文庫本とを合わせてみると、仮名を読む練習には最適です。音読してみても楽しいです。大きめの本屋の日本文学コーナーなどで実際にお手にとってご検討ください。

町あるきもぜひご一緒に
 また、新企画としてご提案させていただいた、江戸歴史散歩(講座で読んだ史料に出てくる町々の現在の姿を歩いてたしかめる巡見=東京をあるく)についても、興味を示してくださる方々がたくさんいらっしゃって、とても嬉しかったです。
 こちらも早急に準備させていただいて、来週末、例題・練習題の答えと一緒に、開催の日時・場所などを発表します。できれば、3月上旬の週末に開催する予定です。よろしくお願いします。

 それでは、次回、2月25日にまたお会いしましょう。

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2006/01/13

明日、古文書講座でお会いしましょう

明日はいよいよワン・コイン古文書講座です

 明日14日の土曜日、午後4時から、品川区大崎の立正大学のキャンパスで開かれるワン・コイン古文書講座で講師をつとめます。
 江戸の町とはどのようなところだったのかお話しながら、基本的な古文書を読んでみようと思います。
 みなさまのお越しをお待ちしております。

 事前のご予約などはいりません。明日、会場にお越しいただければ、お1人さまワン・コイン500円で受講できます。

 これまで古文書は読んだことがない、という人も大丈夫です。

 今回は第2回目ですが、前回出席されなかった方も歓迎します。基本的に内容は1回完結のかたちですすめていきますから、前回出席されなかったからといって、まったく問題ありません。

 もちろん、とりあえずは今回だけ出席してみよう、という方もOKです。もし面白かったら、次回以降もよろしくお願いします。

 古文書読解にはあまり興味はないけれど、江戸の町について知りたい、という方もぜひお出でください。最先端の研究成果をもとに、特に予備知識のない方にもわかりやすく、絵図や絵画資料などを使いながら、江戸の町のありさまについて解説したいと思います。

 興味を持たれた方は、こちらのページで日時・場所の詳細をご確認の上、ご出席ください。みなさまにお会いできるのを楽しみにしております。

第2回ワン・コイン古文書講座
○日時:1月14日(土曜日) 午後4時15分(4時から開場)~6時15分
○場所:立正大学大崎キャンパス(住所〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16)11号館1171教室(最寄り駅は山の手線の五反田・大崎駅、駅から徒歩7分です)
 案内図はこちらこちら
○料金500円(これ以外に会場費や資料代など一切いただきません)

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お江戸日本橋の魅力とは? その5

良い景観とは?

 良好な都市景観とはどのようなものか。これについては、食べ物や異性に対する好みと同じくらい、個人個人で考えが違うはずだ。それなのに、美しい景観・悪い景観を選出してそれを公表する団体もあるようだ。まあ、それ自体、議論を喚起するため、ということもあるのだろうが、どうも違和感をおぼえる。
 四角い白い箱のような建物が整然と並びたつ姿が理想だと思う人もいるだろう。あるいは、数え切れないほどたくさんの大小さまざまな色かたちをした屋外看板やネオンが通りにあふれる繁華街こそが落ち着くという人もいて当然である。

 そんな個人差の存在を承知した上で、あえて私なりに考える良好な都市景観の条件について書いてみたい。

多様性とディテール

 私の場合、好感のもてる都市景観とは、多様性とディテールとを備えた景観、ということにつきる。逆に、多様性とディテールが無い景観は好きになれない。

多様性とディテールはどうやって生まれるか

 では一体、多様性とディテールとを備えた都市景観はどのようにして形成されるのか。答えは単純で、景観の作り手たちの側、つまりその地域社会の側に多様性とディテールが備わっていないとダメなんだと思う。
 このような「都市景観の作り手たち=社会における多様性とディテール」の問題については、次回、また検討したい。

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2006/01/09

お江戸日本橋の魅力とは? その4

雑踏

 田島任天が回想するように、お江戸日本橋を初めて訪れた「地方人」が必ず日本橋の名前を記憶に刻みつけていくのは、その地の雑踏のすごさゆえのことだった。
 そして、その雑踏を生み出していたのは、生鮮魚・野菜・塩魚の市場の活発な取引であり、多数の露店の密集であり、荷役の人足たちが疲れをいやす縄のれんの飲食店のにぎわいであった。

大店

 このような雑踏の周囲には、江戸でも屈指の豪商たちの大店が軒を連ねていた。南へほんの少し歩けば、白木屋呉服店があった(その場所には今、コレド日本橋が建っている)。北へ少し行けば、三井越後屋の呉服店や両替店があった(今それらの場所には、三井本館や三越百貨店が建っている)。

日本一分厚い日本橋の都市社会

 つまり、江戸の日本橋には町人社会の幅広い階層がすべてそろって重層していた。おそらく、当時の日本では他に類をみない分厚さの都市社会がそこに構築されていたのである。

薄っぺらな日本橋へ

 しかし、近代以降、日本橋の分厚い社会は、次第に薄っぺらなものになっていく。

 まず明治初年、地租改正による近代的土地私有制の確立の陰で、路上に発達していた露店の大集合地はその存在を否定され解体されていく。江戸橋広小路を中心に展開していた多数の露店は撤去され、その跡地は払い下げられたり、公共の建物が作られたりしていった。日本橋の雑踏を生む基本的要素のひとつは消滅したのである。
 日本橋市場群の中核であった魚市場に関しても、明治期から移転が検討されていた。道路を占有しての市場取引に対しては、不衛生であるだとか、交通の妨害であるだとかいった批判が加えられ続けた。結局、関東大震災の際の焼失を契機に、築地への移転が実施された。日本橋界隈から、かつての雑踏が消えていった。
 このようにして、日本橋から都市の庶民的な要素は消え去り、分厚かった社会は薄っぺらになっていった。

消える雑踏

 お江戸日本橋の魅力、それは、そこに成立していた社会の分厚さである。その分厚さが、かつて見たことのない雑踏となって日本橋の空間に反映し、「地方人」を驚かせた。
 そして、日本橋が魅力を失っていく過程とは、日本橋の社会がその厚みを無くし、雑踏が消え去っていく歴史に他ならない。
 『江戸名所図会』『煕代勝覧』が描く日本橋から、人の姿が消えたところを想像してみるといい。前にも書いたとおり、当時の江戸町方中心部では別に珍しくもない、ありふれた景観がそこには残る。

日本橋の何を再生するの?

 現在の日本橋再生運動は、日本橋の何を再生しようとしているのだろう。
 日本橋の上から首都高の高架を取り去り、川沿いには、どっかでコピーしてきた親水公園をはりつけ、その周囲には高層ビルを林立させてオフィス集積率を向上させる。あるいは、一泊が最低でも6万円台のホテルを開業し、いわゆる富裕層ビジネスを展開していく。
 反対に、再生事業の進展にともなって高騰する家賃や地価により、わずかに残る中小の商店や飲食店は駆逐されていく。

 つまり、今の日本橋再生運動の帰結は、近代以降、薄っぺらくなり続ける日本橋の社会を、さらにいっそう薄っぺらくすることになるのではないか。私にはそう思えてならない。

 しつこいかもしれないが、くりかえし言っておきたい。日本橋の上から高架を取り去ったところで、「伝統的な景観」は復活しないんだよ。

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2006/01/07

お江戸日本橋の魅力とは? その3

 ネットを検索していてみつけたが、講談社版『熙代勝覧』が、「高坂洋の世界」というホームページに転載してある。著作権保護の観点からみて、どうかなぁ?と疑問にも思う転載だが、まあ、私個人としては、同書の宣伝だと解釈しておこう(他の執筆者の方々や講談社からは怒られるかな)。

 というわけで、その転載を利用させていただくことにして、日本橋北詰の情景のページにリンクする。


日本橋北詰は生鮮市場

 リンク先の写真でははっきりとは見えないだろうが、橋の北詰にひしめく人々のうちの、ざっと3分の1くらいの人は上半身が裸である。前回の記事に書いたように、この辺り一帯が魚市場となっていて、もろ肌脱いでいる人々は魚を運搬する人足たちである。その他にも魚を売買する人々で、橋の北詰はあふれかえっている。

 この魚市場の雑踏のすぐ外では、路上にザルやタライ、台などを置いて、その上に並べた野菜を売る商人たちが描かれている。日本橋の橋の上でも、こうしたスタイルの野菜売りたちが商売している。魚を仕入れにきた人々のなかには、帰りに野菜も仕入れていく人がいるのではないだろうか。

 おそらく、ここに描かれた情景は、市場が開かれる午前中の風景だと考えられる。人々のざわめきや魚のにおいが沸き立つような、賑わいの情景である。


江戸庶民の姿

 市場商人や市場で働く肉体労働者たち、それから、市場の客のうちのかなりの割合を占めたであろう、魚や野菜の行商人たち。
 こういった江戸の庶民たちが、『熙代勝覧』に描かれた日本橋北詰の情景の主役である。

 前回の記事とあわせた“まとめ”は、また次回に。

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2006/01/06

お江戸日本橋の魅力とは? その2

幕末の日本橋
 明治42年絶筆の田島任天『五十年前の東京』(『明治大正文学史集成』付録1、日本図書センター、1982年)という随筆がある。
 それに記された、「五十年前」の、つまり幕末の日本橋界隈の情景とは以下のようなものである。

日本橋南詰の情景~多数の露店・塩魚商
 「通り一丁目の左側は昼夜となく露店の羅列する所にして雑踏を極め、更に日本橋より四日市に入る所は塩魚商を以て充たされ、之に続いて露店的小舗は左右に列を作し往来稍く一間許りを余すのみといふに至つては、その熱閙の状推してしるべく、地方人の始めて此処に来るものは此の盛況に惘々然とし、日本橋の名を記憶する亦偶然にあらざりしを知る」。
 この部分で描写されているのは、日本橋の南詰の辺りである。露店や塩魚商が密集し、その雑踏の凄さでもって、「地方人」は日本橋の名前を記憶するのだという。

日本橋南詰の情景~縄のれんの飲食店
 「萬町角の飲食店立場は即ち実際の立場茶屋にして労働者の飲食する縄暖簾店なりし」。
 荷物を運ぶ人足たちが多く飲食する縄暖簾の店もあったようである。

日本橋北詰は?
 「橋北の東は即ち魚河岸にして本船町、安針町、本小田原町、長浜町の魚区依然として当年の状況を存し、敢へて変遷を語るに足るもの無し」。
 つまり、日本橋の北詰部分は魚市場であって、幕末の状況がそのまま変わることなく、明治末年に至っているというのである(日本橋の魚市場の範囲が、実質的には本船町河岸=魚河岸の区域をはみだし、日本橋北詰一帯にも広がっていたことは、最近の研究で明らかにされている)。

日本橋南詰とアメ横
 日本橋南詰を東へ行くとすぐに江戸橋広小路という広場があった。そこには100軒あまりの露店(「床店」)が営業していたが、そのうちの70軒あまりは小間物屋だったという。
 当時、江戸を出立する旅人の多くは男性だったと思うが、彼らが自分の国に残した妻や娘、恋人への土産として、化粧品やアクセサリーを物色して歩いたのがこれらの小間物屋群だったのであろう。それから、塩魚商の店々。
 まるで、現在の上野アメ横みたいだ。「地方人」を驚かせたその賑わい。これも年末の買い物客でごった返すアメ横の様子にそっくりだったのではないだろうか。それから、たくましい人足たちが集まる庶民的な飲食店。

日本橋北詰をみるなら日本橋絵巻『熙代勝覧』
 日本橋北詰は明治末年に至っても幕末と同じだ、と言って、残念ながら田島任天は詳しく描くのを省略している。
 その日本橋北詰の様子を生き生きと描いた絵巻がある。『熙代勝覧』(きだいしょうらん)。文化年間の神田今川橋から日本橋までの町並みを描いた長大な絵巻だが、日本橋北詰の描写はこの絵巻のひとつの白眉である。
これを見たい人は、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』(講談社、2003年)を買ってください。私も分担執筆しているので、増刷になるとお小遣いが入る。
 私が主に分担したのは、この絵巻に登場する人物の職業などを特定して脚注をつけていくという作業だが、実を言うと、その脚注部分の冒頭で、すっごく恥ずかしい間違いをしでかしている。どうか、本屋さんでお手に取って36ページを開き、「小林ってほんとバカだなぁ。」と笑ってください。その後は、できればそのまま本を持ってレジへ。

 現在、ベルリン東洋美術館が所蔵する『熙代勝覧』だが、2003年の江戸東京博物館の大江戸八百八町展で来日したのに続き再び来日。たしか今週末あたりから日本橋の三井記念美術館(例の三井タワーから入場)にて展示されるはず。
 この『熙代勝覧』に描かれた日本橋北詰の情景の説明と、今回の記事の分も併せての“まとめ”は、また次回に。

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2006/01/05

お江戸日本橋の魅力とは? その1

日本橋の何を再生するの?

 日本橋再生のあり方を考える場合、重要なのは、いったい日本橋の何を再生するのか、という問題だろう。
 再生すべき日本橋の魅力とは何か。つまり、かつての日本橋がもっていた魅力とは何か。ここでは、江戸時代の日本橋の魅力について考えてみたい。

日本橋は江戸名所の筆頭

 江戸時代後期に出版された江戸のヴィジュアルガイドブックの決定版、『江戸名所図会』が紹介する江戸名所のトップバッターが、他ならぬ日本橋である。この本で、史跡やら神社仏閣を抑えて、日本橋が江戸名所のトップにすえられたことの画期性については、千葉正樹さんが鋭い分析を加えている(千葉正樹『江戸名所図会の世界』吉川弘文館2000年)。
 『江戸名所図会』の「日本橋」図を眺めてみる。そこに描かれている日本橋の姿は本当に魅力的だと私も思う。もし、一回限り使用できるタイムマシンがあって、それを使って江戸のどこに行きたいか、と尋ねられたら、迷うことなく、日本橋、と答えるだろう。

『江戸名所図会』にみる魅力
 
 では、この「日本橋」図に表現された日本橋の魅力とは何か?

 建築物としての日本橋は、たしかにそこそこ立派ではあるが、まあ、当時の江戸ではありふれたデザインの橋だ。
 川沿いに蔵が建ち並ぶ景色もしばしば賞賛されるが、これまた、当時の江戸だとさほど珍しい光景ではない。つまり、日本橋が江戸名所のトップに選ばれた理由は、こうした建築物のみが作り出す景観にあるのではない。

 「日本橋」図が私たちに伝えてくれる日本橋固有の魅力とはいったい何か。

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2006/01/04

お江戸日本橋と都市景観 まとめ

 自分でも予想外の長い連載となってしまった。その理由は、もちろん、最近のニュースにあるとおり、日本橋の上から首都高の高架を撤去する話が夢物語の域を超えそうな勢いを急に見せ始めたことにある。
 この連載を始めた昨秋ごろは、そんな荒唐無稽な事業が実現する可能性なんてゼロに近いと思っていた。ところが、昨年末あたりで、小泉総理がこの荒唐無稽を自分の引退の花道にしようなどと考え始めたことにより、状況が少し変わってきたようだ。
 そんな状況の変化に刺激されて、つい余計なこともたくさん書いてしまい、長い連載となった。そろそろこの辺で私の主張をまとめておいた方が良いだろう。

連載のまとめ

 私の主張は単純である。
日本橋再生事業に東京都や国のお金を使うべきではない。
 これだけ。

 実を言うと、再生事業そのものに対して、あまり強硬に反対する気はない。想定される事業内容にはずいぶん問題が多いなぁと思うが、まあ、是非やりたいという人たちがいて、その人たちが自力で資金を準備し、かつ、地元や関係者の了解を得たのなら、自分たちで勝手にやればいい。ただし、それに税金を使うのは間違いだ。

 税金を使うのが間違いだと思う理由は、以下の3点。

①日本橋再生事業は日本橋の「伝統的な景観」を取り戻すための事業だと、表向きはいう。しかし、事業推進派の人々が、日本橋川の隣接区域における新規の高層ビル建設を積極的に支持していることからも明らかなように、本心では「伝統的な景観」の復元作業などぜんぜんやる気はない、という欺瞞がそこにあるから。

②日本橋再生事業の主な目的は、日本橋地区という限られた地域の経済活性化であり、また、それによって隣接する地域の経済や社会は逆に空洞化するから。

③日本橋再生=日本橋再開発事業は、結果的に日本橋地区の地価や家賃を高騰させ、同地区に残る中小の商店・飲食店を駆逐することになるから。つまり、日本橋地区に大規模な不動産を所有する者に偏って恩恵を与える事業だから。

 たしかに、日本橋再生プランの完成予想図などをみると、日本橋川沿いに、散歩すると気持ちよさそうな親水公園がしつらえられている。もしそれが出来たら、私も喜んで散歩すると思う。だけど、そんな公園を一カ所造成するためだけに、数千億から一兆円もの税金を投入するのは、まったく正気の沙汰ではない。
 また、日本橋地区という限られた地域の経済的繁栄のために、都や国のお金を使うのも正しくない。もちろん、いくら国の事業だからといっても、それがある特定の地域のエゴとまったく無縁でありうるなどと思っているわけではない。たとえば、国鉄の時代、田んぼの真ん中に、まったく意味不明の新幹線の駅が、駅前の銅像とセットでできちゃったり、線路がひん曲がったりしたことはいくらもある。しかし、そういった例と比べても、今回の日本橋再生事業はあまりに地域限定がすぎる。しかも、周辺地域へ悪影響を及ぼすことなども考え併せると、都や国のお金を使うのは間違いだと言わざるをえない。

 景観再生事業の名の下に隣接区域に高層ビルを新たに建てまくるっていうのは、どう考えてもおかしいよ。日本橋地域の景観は、日本橋だけでできているわけじゃない。

 結局、日本橋再生事業は、景観の保全や復元ということをもっと真面目に考え、都市再開発による安直な金儲けや地域エゴをもう少し抑制し、そして、かつて存在した日本橋の魅力とはいったい何だったのか、それがどうして衰弱してしまったのか検討してから、もう一度、出直した方が良いと思うよ。じゃないと、首都高の高架建設を上回る失敗として、将来、歴史に汚名が残っちゃうよ。

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2006/01/02

お江戸日本橋と都市景観その11

日本橋「経済再生」の問題点

 今回は、景観問題はともかく、日本橋の経済再生がもし実現したらどうなるのか、少し考えてみたい。
 もし日本橋が、誰かさんの言うとおり、清渓川同様の「世界的名所」となって、たくさんの人が訪れるようになり、また、周辺では高層ビルの建設が進んだとする。
 こうなると、以前にみた、「日本橋 みちと景観を考える会」が掲げる「日本橋地域の現状と課題」で指摘されているような、「高いオフィス空室率」やら「オフィス賃料の低下」、「周辺地区と比べ低い路線価」といった問題は解決の方向に向かうのかも知れない。

 しかし、こうした動向によって引き起こされる問題的状況として、以下の3点くらいは誰でも容易に想定できる。

1.日本橋地区の周囲におけるオフィス空室率の上昇や空洞化。
2.過度な東京一極集中
3.日本橋地区における地価上昇による中小商店・飲食店の撤退や廃業。

1.日本橋地区の周囲におけるオフィス空室率の上昇や空洞化
 オフィスの需要は伸びない。一般には2010年問題と呼ばれているが、近い将来、急激なオフィス需要の低下が確実視されている。日本橋地区の周辺にある中小のオフィスビルは、例の2003年問題の痛手から依然立ち直っていない。2003年問題が供給過多によるものであったのに対して、2010年問題は需要の低下によるもので、より深刻な問題だとされている。日本橋地区のみの経済再生は、他地域の地盤沈下を引き起こす恐れが大きい。

2.過度な東京一極集中
 現在、景気は回復傾向にあるとされるが、いわゆる“地方”経済は低迷したままである。失業率も、首都圏などでは改善されつつあるが、多くの“地方”においては製造業の海外流出なども止まらず、依然深刻な状況にある。このように、首都圏と“地方”との経済格差が重大な問題となっている現状で、経済の東京一極集中をさらに進行させるべきではない。

3.日本橋地区における地価上昇による中小商店・飲食店の撤退や廃業
 日本橋地区には、現在、かろうじて中小の商店や飲食店が生き残っていて、それが伝統的な町の雰囲気を細々と伝えている。しかし、日本橋地区の経済再生によって、家賃がつり上がり、また地価の上昇で相続税が高騰すると、それら中小の商店・飲食店の経営が致命的な打撃を受けることは確実である。


なぜ税金を使うの?

 上に書いた1と2の問題を考えると、数千億円から一兆円!かかるという首都高の高架撤去の事業費を東京都や国で負担するべきではない。
 首都高の高架撤去と同時に、日本橋地区においては高層ビルも全部壊して景観の改善・復元につとめる、というのなら、まだ検討の余地はあるかもしれないが、そうではなく、高架の撤去を契機に日本橋地域には高層ビルを建てまくって経済再生を図る、という話であるなら、それに超巨額の税金を使うのはおかしい。それこそ、国民投票が必要なくらいの額である。

バブルの爪痕から学ぶべきでは?

 また、3で指摘したように、そんな巨額の費用を投じた挙げ句、今の日本橋の地域社会を破壊してしまったらもう取り返しがつかない。あのバブル経済下で次々と地域社会が崩壊していった悲惨な状況を、人々はもう忘れてしまったのだろうか。

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お江戸日本橋と都市景観その10

 本来、この連載記事は、日本橋の景観再生問題について検討しようと思って始めた。しかし、検討を進めていくにつれて、どうしても、景観の問題はひとまず脇に置いて、日本橋地区の経済再生の問題についても書かざるをえなくなってきた。
 それは、今、展開されている日本橋の「景観再生」運動の目的が、実際には都市景観の再生などではないことがわかったからだ。
 結局、日本橋の「景観再生」は、日本橋地区の経済再生に益する一事業として主張されているに過ぎない。従来の経済優先主義から“景観=文化”優先主義への転換、といった、外野の“文化人”諸氏が期待しているような、町づくりの転換と呼ぶに値する新たな動きは、そこにはまったくみられない。

景観よりも経済

 日本橋地区の経済再生に役立つ範囲内なら景観再生も主張してみるが、いざ日本橋地区の経済再生のためには邪魔だということになれば、景観なんかは破壊しても構わない、というのが、今の日本橋再生運動の本音だろう。
 その証拠に、周辺地区での高層ビル建設の規制を強化するといった動きが、今の日本橋「景観再生」運動から生まれてくる様子はみあたらない。それどころか、日本橋川沿いに造成する親水公園の上空の空いた容積を移して沿川の地区の容積率を引き上げ、高層ビル建設を促進しようというプラン(容積バンク)が歓迎されたりする始末である。

 前にも書いたとおり、首都高の高架が撤去された後は、今や世界中で増殖している没個性の親水公園がコピーされ、その背後に高層ビルが林立するという、これまた極端に没個性の都市景観が生まれるだけのことだ(「伝統的景観を取り戻すため」に高架を撤去することへの協力要請を受けた小泉総理が前向きの姿勢を示したそうだが、嘘はダメだと思うよ、嘘は)。

 それでも、もしそうした都市再開発が完成したなら、完成直後は、おそらく、お台場や六本木、汐留、あるいは丸の内みたいに物見遊山の見物客が集まり、また、沿川に建つ最新の高層ビルを武器にすれば、オフィスの集積率も上昇が見込めるだろう。今の日本橋「景観再生」運動はそんな経済的効果を狙った事業である。

「日本経済の顔」日本橋の再生

 しつこいかもしれないが、日本橋の上から首都高の高架を撤去しようという地元の運動が、日本橋地区の経済を再生するための運動であることを、もう少し念入りに確認しておこう。

 現在、日本橋の再生に向けたもっとも大きな動きは、日本橋地区都市再生事業と称する官民一体の事業であるらしい。官=国土交通省と地元・学者などがこの事業を進めているようだ。この事業の中核にあったのが日本橋都市再検討委員会という組織だ(今もこの委員会があるのかどうかは、ネットを検索しただけでは分からなかったが、ここの委員の多くが今も日本橋再生運動に関わっているようだ)。
 前出都市再生事業のホームページでこの委員会は次のように紹介されている。
 「かつて日本橋は日本経済の中心としてにぎわいを見せていました。日本橋都市再生検討委員会(委員長:東京大学 森地茂教授)は、日本橋周辺地区を再度、「日本経済の顔」としてにぎわいを取り戻すために、官民一体となって、道路空間の活用を中心に活動している委員会です。たとえば、三井本館の再開発や三越新・新館の建て替え事業など、また首都高速道路の移設構想など、今、日本橋周辺地区は、都市再生の気運が高まっています」。

 もうひとつ。前にも取り上げた「日本橋 みちと景観を考える懇談会」について。この会がどのような目的で活動しているのか、今ひとつちゃんとした説明は見つからないのだが、日本橋再生に熱心な三井不動産が作成したページでこの懇談会のことが紹介されていて、この懇談会がどのような期待を受けて活動しているのかがわかる。
 「もともと橋の周辺は五街道の起点として栄え、水陸の交通が立体交差して活気のある風景が広がっていた場所。その活気を取り戻そうと、今、国土交通省東京国道事務所や地元・学識経験者などを中心に、首都高速道路のあり方、そして日本橋地区再生のあり方が検討されています。その一環として2004年には「日本橋 みちと景観を考える懇談会」の主催で「日本橋まちづくりアイデアコンペ」が実施され、全国から324作品が応募されました。このことからもこの問題に関する全国的な関心の強さがうかがわれます」。

 また、同じページには次のように記されている。
 「現在の日本橋という地名になった名橋「日本橋」。日本人の精神的な原点ともいえる、この橋のたもとには、江戸時代以来人々が行き交う活気ある風景が広がってきました。今はすっかり首都高速道路の高架の陰に隠れてしまった日本橋ですが、この橋の景観を何とか取り戻そうという動きが起こっており、首都高速道路の移設の可能性、そしてこれを契機として街づくりなどさまざまなアイデアが検討されています」。

 つまり、日本橋地区は、東京あるいは日本の中心であって、「日本経済の顔」となるべき地区である。首都高の高架撤去事業をそんな日本橋の経済再生の「契機」にしたい。これが日本橋「景観再生」運動の目的である。だからこそ、経済再生の役に立つなら、実際には景観破壊となるような行為であっても、そこでは簡単に容認されるのだ(というか、歓迎されるのだ)。

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