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2006/01/09

お江戸日本橋の魅力とは? その4

雑踏

 田島任天が回想するように、お江戸日本橋を初めて訪れた「地方人」が必ず日本橋の名前を記憶に刻みつけていくのは、その地の雑踏のすごさゆえのことだった。
 そして、その雑踏を生み出していたのは、生鮮魚・野菜・塩魚の市場の活発な取引であり、多数の露店の密集であり、荷役の人足たちが疲れをいやす縄のれんの飲食店のにぎわいであった。

大店

 このような雑踏の周囲には、江戸でも屈指の豪商たちの大店が軒を連ねていた。南へほんの少し歩けば、白木屋呉服店があった(その場所には今、コレド日本橋が建っている)。北へ少し行けば、三井越後屋の呉服店や両替店があった(今それらの場所には、三井本館や三越百貨店が建っている)。

日本一分厚い日本橋の都市社会

 つまり、江戸の日本橋には町人社会の幅広い階層がすべてそろって重層していた。おそらく、当時の日本では他に類をみない分厚さの都市社会がそこに構築されていたのである。

薄っぺらな日本橋へ

 しかし、近代以降、日本橋の分厚い社会は、次第に薄っぺらなものになっていく。

 まず明治初年、地租改正による近代的土地私有制の確立の陰で、路上に発達していた露店の大集合地はその存在を否定され解体されていく。江戸橋広小路を中心に展開していた多数の露店は撤去され、その跡地は払い下げられたり、公共の建物が作られたりしていった。日本橋の雑踏を生む基本的要素のひとつは消滅したのである。
 日本橋市場群の中核であった魚市場に関しても、明治期から移転が検討されていた。道路を占有しての市場取引に対しては、不衛生であるだとか、交通の妨害であるだとかいった批判が加えられ続けた。結局、関東大震災の際の焼失を契機に、築地への移転が実施された。日本橋界隈から、かつての雑踏が消えていった。
 このようにして、日本橋から都市の庶民的な要素は消え去り、分厚かった社会は薄っぺらになっていった。

消える雑踏

 お江戸日本橋の魅力、それは、そこに成立していた社会の分厚さである。その分厚さが、かつて見たことのない雑踏となって日本橋の空間に反映し、「地方人」を驚かせた。
 そして、日本橋が魅力を失っていく過程とは、日本橋の社会がその厚みを無くし、雑踏が消え去っていく歴史に他ならない。
 『江戸名所図会』『煕代勝覧』が描く日本橋から、人の姿が消えたところを想像してみるといい。前にも書いたとおり、当時の江戸町方中心部では別に珍しくもない、ありふれた景観がそこには残る。

日本橋の何を再生するの?

 現在の日本橋再生運動は、日本橋の何を再生しようとしているのだろう。
 日本橋の上から首都高の高架を取り去り、川沿いには、どっかでコピーしてきた親水公園をはりつけ、その周囲には高層ビルを林立させてオフィス集積率を向上させる。あるいは、一泊が最低でも6万円台のホテルを開業し、いわゆる富裕層ビジネスを展開していく。
 反対に、再生事業の進展にともなって高騰する家賃や地価により、わずかに残る中小の商店や飲食店は駆逐されていく。

 つまり、今の日本橋再生運動の帰結は、近代以降、薄っぺらくなり続ける日本橋の社会を、さらにいっそう薄っぺらくすることになるのではないか。私にはそう思えてならない。

 しつこいかもしれないが、くりかえし言っておきたい。日本橋の上から高架を取り去ったところで、「伝統的な景観」は復活しないんだよ。

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