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2006/01/06

お江戸日本橋の魅力とは? その2

幕末の日本橋
 明治42年絶筆の田島任天『五十年前の東京』(『明治大正文学史集成』付録1、日本図書センター、1982年)という随筆がある。
 それに記された、「五十年前」の、つまり幕末の日本橋界隈の情景とは以下のようなものである。

日本橋南詰の情景~多数の露店・塩魚商
 「通り一丁目の左側は昼夜となく露店の羅列する所にして雑踏を極め、更に日本橋より四日市に入る所は塩魚商を以て充たされ、之に続いて露店的小舗は左右に列を作し往来稍く一間許りを余すのみといふに至つては、その熱閙の状推してしるべく、地方人の始めて此処に来るものは此の盛況に惘々然とし、日本橋の名を記憶する亦偶然にあらざりしを知る」。
 この部分で描写されているのは、日本橋の南詰の辺りである。露店や塩魚商が密集し、その雑踏の凄さでもって、「地方人」は日本橋の名前を記憶するのだという。

日本橋南詰の情景~縄のれんの飲食店
 「萬町角の飲食店立場は即ち実際の立場茶屋にして労働者の飲食する縄暖簾店なりし」。
 荷物を運ぶ人足たちが多く飲食する縄暖簾の店もあったようである。

日本橋北詰は?
 「橋北の東は即ち魚河岸にして本船町、安針町、本小田原町、長浜町の魚区依然として当年の状況を存し、敢へて変遷を語るに足るもの無し」。
 つまり、日本橋の北詰部分は魚市場であって、幕末の状況がそのまま変わることなく、明治末年に至っているというのである(日本橋の魚市場の範囲が、実質的には本船町河岸=魚河岸の区域をはみだし、日本橋北詰一帯にも広がっていたことは、最近の研究で明らかにされている)。

日本橋南詰とアメ横
 日本橋南詰を東へ行くとすぐに江戸橋広小路という広場があった。そこには100軒あまりの露店(「床店」)が営業していたが、そのうちの70軒あまりは小間物屋だったという。
 当時、江戸を出立する旅人の多くは男性だったと思うが、彼らが自分の国に残した妻や娘、恋人への土産として、化粧品やアクセサリーを物色して歩いたのがこれらの小間物屋群だったのであろう。それから、塩魚商の店々。
 まるで、現在の上野アメ横みたいだ。「地方人」を驚かせたその賑わい。これも年末の買い物客でごった返すアメ横の様子にそっくりだったのではないだろうか。それから、たくましい人足たちが集まる庶民的な飲食店。

日本橋北詰をみるなら日本橋絵巻『熙代勝覧』
 日本橋北詰は明治末年に至っても幕末と同じだ、と言って、残念ながら田島任天は詳しく描くのを省略している。
 その日本橋北詰の様子を生き生きと描いた絵巻がある。『熙代勝覧』(きだいしょうらん)。文化年間の神田今川橋から日本橋までの町並みを描いた長大な絵巻だが、日本橋北詰の描写はこの絵巻のひとつの白眉である。
これを見たい人は、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』(講談社、2003年)を買ってください。私も分担執筆しているので、増刷になるとお小遣いが入る。
 私が主に分担したのは、この絵巻に登場する人物の職業などを特定して脚注をつけていくという作業だが、実を言うと、その脚注部分の冒頭で、すっごく恥ずかしい間違いをしでかしている。どうか、本屋さんでお手に取って36ページを開き、「小林ってほんとバカだなぁ。」と笑ってください。その後は、できればそのまま本を持ってレジへ。

 現在、ベルリン東洋美術館が所蔵する『熙代勝覧』だが、2003年の江戸東京博物館の大江戸八百八町展で来日したのに続き再び来日。たしか今週末あたりから日本橋の三井記念美術館(例の三井タワーから入場)にて展示されるはず。
 この『熙代勝覧』に描かれた日本橋北詰の情景の説明と、今回の記事の分も併せての“まとめ”は、また次回に。

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