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2006/08/31

映画「深海blue cha-cha」の感想

映画「深海blue cha-cha」を観て

 先日、ふとしたことで時間が空いた。久しぶりに映画をみようと思った。台湾映画「深海blue cha-cha」に行くか、カミさんもご推奨の、イッセー尾形が昭和天皇を演じる「太陽」に行くか、迷ったあげく、前者にした。こっちの方がなんとなく夏向きかなと。まあ、ちょうど後者も日本のとある暑い夏に始まる物語なんだろうけどもね。

(映画のあらすじ)~これから観に行く人は読まないでね。
 刑務所を出たばかりの若い女の子アユーが、所内で知り合った年上の女性アンを訪ねる。アユーは、アンのアパートで寝起きしながら、アンの経営するバーで働くことになる。
 美人のアユーには、たちまち男が言い寄ってくる。そんなアユーは実は「心の病」を抱えている。アンはアユーに、男を好きになるな、と言い諭すが、アユーは、あっという間に男にのめり込んで、心のバランスを失ってしまう。 バーの客に捨てられボロボロになったアユーは、アンの紹介で電子部品の工場で働き始めるが、その職場にいた若い誠実な男が彼女に恋をする。男の「何も心配しないで僕を信じて。」という言葉を頼りに、アユーはアンと喧嘩別れをして、男と同棲を始める。その男との恋が自分の全て、という状態が続くアユーを、やがて男は持て余し始める。絶望したアユーは薬で自殺を図るが命をとりとめ、再びアンに引き取られる。
 一度だけ男がアユーとよりを戻そうと訪ねてくるが、以前アユーが刑務所に入ったのは夫を殺したからだ、とアンから告げられて男は立ち去る。
 アンとの生活で再びアユーが笑顔を取り戻し始めるところで映画は終わる。

 難解なところはほとんどない映画。ただひとつ、わからないシーンがあった。最後にアユーが笑顔を取り戻すきっかけが、人形劇の旅芸人とのささやかなめぐり合いなんだけど、その意味がわかんなかった。人形遣いの若い男は自閉症(?)で人形の操りはピカイチ。その男の人形芸を見てアユーが笑顔を取り戻す。人物設定やら人形芸の中身などがちょっと思わせぶりだけど、意図はうまく理解できなかった。

 それはともかくとして―

アユーの恋愛依存 
 自己評価が低く極度の恋愛依存症のアユーは、いわゆるアダルトチルドレンの典型なんだろう。この映画が好きか、嫌いかは、こうしたアユーのような女の子にシンパシーが持てるか否かにかかっていると思う。
 ただし、映画では、アユーは「心の病」、という設定になっているが、アユーのような恋愛依存の傾向は、病気なんかじゃなくて、多かれ少なかれ誰にでもあると思う。また、生きていくのに不器用で傷つきやすく、寂しげで、恋愛依存症っていう異性を、しっかり受けとめて自分が幸せにしてやる行為は、ある意味、男冥利・女冥利につきることかもしれない。アユーと同棲した男も、最初はその充実感に酔ったんだろう。だけど、そんな恋愛関係は遅かれ早かれ破綻していく。
 こうした恋愛関係のもろさ、はかなさ、満たされることのない飢餓感なんかをこの映画はしっかり描いているが、まあ、もしそれだけの内容ならあまりに月並み。

アンとアユーの未来
 この映画の味わい深さは、アユーを見守る年上の女性アンの優しさから生まれる。経営難のバーのやりくりに疲れ、宝くじにむなしい夢を託す、擦れたイメージの中年女性アン。そんなアンが傷ついたアユーをさりげない優しさで受けとめる。そこに示されるのは、アユーが懲りずにすがりついては傷つくはかない恋愛関係とは別の、深い愛情にもとづいた人間関係の可能性なんだと思う。
 映画では、アユーがアンのもとで笑顔を取り戻してハッピーエンドである。しかし、実際には、そのあと、アユーは再び決して満たされることのない恋愛にはまり込んでは深く傷つくという経験を繰り返しちゃうに違いないと思う。それを想像すると、このハッピーエンドも苦く、むなしくなるが、もう少し想像の先を伸ばしてみると、傷つく度にアユーはアンのところへ回帰しつつ、やがては、次第にアユー自身がアンの優しさを身につけて行くのではないかと思える。事実、映画の中でも、アンが過去の恋愛で深く傷ついた女性であって、それゆえ、アユーを受けとめられる存在になり得ていることが示される。今は若いアユーがアンの優しさを理解して、いつかその優しさを身につけた大人の女性に成長する未来の暗示。その暗示によってこの映画は本当のハッピーエンドとなっているのだろう。アンの踊るcha-chaのリズムとメロディーが切なく暖かく、映画全編に流れている。

 観終わって、恋愛に傷つく二人の女性の関係ってつながりから、ふと「NANA」のことを思い出す。「NANA」も、バリバリの恋愛依存症のハチが傷つきながら、ナナの痛みや優しさを理解し、自分のものとしていく成長物語として読める。だから、時々挿入される回想風のハチのセリフの、優しく醒めたトーンが印象深いんだろう。
(それにしても、映画の続編も、ハチ=宮崎あおいの配役で撮ってほしかったなぁ。確かに、続編に入るとストーリーの展開上だんだんナナが中心になってしまうけど、ハチの成長物語としてもこれからってところ。)

 それともうひとつ。映画「深海blue cha-cha」の舞台となっている台湾の高雄の風景が印象深かった。子供の頃に目にした、高度成長期の日本の都市風景によく似ていてとても懐かしかった。台湾、行きたかったなぁ。

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2006/08/11

集中講義にて学ぶ

 先日、初めて集中講義なるものを担当した。講義を聴いてくれたのは、埼玉県の川越の近くにある東京国際大学の商学部の学生さんたち。ざっと100人くらい。
 試験を含めて13コマの講義を4日間で済ませる。聴いてくれる学生さんにとっては、なかなかハードな4日間だったと思うが、こちらも初めての経験ゆえ、結構、疲れた。
 
 しかし振り返ってみると、集中講義というスタイルは大変有意義で、これは予想外の収穫。

 講義の内容はいわゆる日本史概説。今回は古代から近世までの通史をしゃべった(9月にまた4日間出講して、そのときに近世近代を扱う)。同じような概説は他の大学でも担当させてもらっているが、それらは週1回1年間の通常講義である。そうしたペースに余裕のある通常講義と今回の集中講義とを比較して思ったが、通史のようなものは、ある程度、期間を圧縮して一気にやる方がもしかすると良いかもしれない。

 学生さんの立場にたつと、通年の場合、何ヶ月も前の講義内容については記憶が薄れてしまうが、集中講義であれば、古代の国家体制と中世の国家体制とを比較対照する場合でも、つい昨日聴いたばかりの講義の内容と今日の講義の内容との照らし合わせだったりするから、歴史のダイナミズムが感得されやすいように思う。

 それともうひとつ。講義の内容自体について。週1回の講義だと、1回1回の講義ごとに話の“山場”をひとつずつ作っていけば、それである程度、しゃべってる方もちゃんと自己満足できるんだけど、集中講義だと、そうやって作ってきた1コマ1コマの“山場”が、1日に3個も並び立っちゃうことになる。そうなると、どうしても、それぞれの“山場”同士の関係についてもきちんとしゃべることになるし、あるいは、そうした1コマ1コマの“山場”を土台にして、もっと高くて大きな新規の“山場”を、その日のまとめとして作らなきゃいけなくなる。

 こうしてみると、今までやってきた通年の日本史概説の講義内容については、それが毎週毎週の単なるトピックの羅列のように感じられる面も出てきた。これは貴重な反省材料だと思う。

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