« セレモニーホールと日本社会 その1 | トップページ | 江戸切絵図と江戸名所図会のあいだを読む »

2006/11/01

書評:五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』

 以前、このブログでも紹介したが、日本橋再生事業のいかがわしさを先駆的に指摘したのは、建築家の五十嵐太郎だ。
 その五十嵐の新著は、書名自体が「美しい景観100景・悪い景観100景」の選定に対する批判的パロディとなっていることはいうまでもない。選定にあたっている「美しい景観を創る会」では、当初、「悪い景観」という表現を「醜い景観」とする予定だったらしい。
 
 都市景観の場合、「美しい景観」として選ばれるための要件をすべて満たそうとすると、それは北朝鮮の平壌みたいな都市景観に近づいていくのではないか、という五十嵐の指摘はなかなか強烈である。
 日本橋再生事業に対する批判についても共感する。このブログでの私の主張も引用されていて、ちょっと嬉しかったりもする(この本が売られている間は、細々とでも更新して、このブログも続けなきゃね)。

 そんな五十嵐の好著に対して私が抱いた不満はふたつ。

 ひとつめは、この本で展開される五十嵐の主張は、ほとんど共感できることばかり、我が意を得たりって話ばかりで、私にとっては、ちょっと刺激不足だったこと。

 まあ、それはほとんど冗談だが、ふたつめはまじめな感想。私が残念だったのは、「美しい景観を創る会」的な思想や手法に対置されるべき、五十嵐の思想・手法が明示されていないことである。「美しい景観を創る会」的思想や手法がもつ幼稚さや危険性の指摘は容易である。もちろん、そうした幼稚な単純さが、単純であるがゆえに、大きな政治力をもちやすい点は要注意であり、それに対抗するためにも、平壌の例などを持ち出しての単純で平明な批判は必要である。

 問題はその先だろう。五十嵐が考える、あるべき都市像なり、あるべき都市整備の手法なりが示されるべきである。このブログでも、さんざん日本橋再生事業のでたらめさを指摘したあとで、対置すべき私の主張を組み立てようと試みた。途中でストップしているが、「お江戸日本橋の魅力とは?」と題する連載記事のなかでの取り組みである。そうした試みをなんとか続けるにあたっても、知恵の足らない私は、ここらでふたたび五十嵐からの刺激が欲しかった。

 五十嵐に限らず、優秀で良識を持ち合わせた建築や景観、都市計画の専門家たちのほとんどに共通して言えることだが、景観整備やまちづくりに、「市民」やら「住民」やらの声を取り入れたり、あるいは、そうした「人々」を事業の主役にすえることで、諸々の問題がクリアできると考えているふしがある。「人々」が選択する景観整備やまちづくりこそが、なされるべき事業であると。そこで議論が止まってしまう。

 そのような「市民」やら「住民」の集合のことを、私は「地域社会」と言い換え、先の連載記事でもちょっとだけ論じかけたことがあるが、こうした「地域社会」への無邪気な依存は危険である。
 だって、場合により「地域社会」なんてもう存在していないかもしれないんだから。ここを見誤ると致命的である。ありもしない軍勢を頼りに戦ったりしてると、結局、馬鹿にしてた相手にも簡単に打ち負かされちゃうんじゃないかな。

 五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』(中央公論新社、2006)

 2006.11.5.付記 今日、もういちど五十嵐さんの本を読み返してみた。結果、下線を施した部分で述べた批判は、少なくとも今回の五十嵐さんの本に対してはあまり当たっていないことに気づきました。この部分を抹消しようかとも思ったけど、まあ、どうせなら間違いの形跡も残しておこうと考えました。

 

|

« セレモニーホールと日本社会 その1 | トップページ | 江戸切絵図と江戸名所図会のあいだを読む »

コメント

五十嵐太郎さんのCADからたどりつきました。
「地域社会」への無邪気な依存は危険だとのことですが、そういってしまうと、さまざまな施策の「国民への無邪気な依存は危険だ」というような官僚主導の論理に通じないでしょうか。
ただ、現実の問題としては、現状の地域社会への無邪気な依存は危険ということに同感です。高層マンションの建設に地域社会の代表が賛成することもあるわけですから。「地域社会」を開かれたものにすることが必要で、その仕組み作りが課題ではないかと思います。

投稿: 手島幹雄 | 2006/11/14 23:23

コメント、ありがとうございます。

手島さまのおっしゃるとおりだと思います。開かれた「地域社会」の構築、つまり、新しいタイプの「地域社会」創出が重要課題だと思います。

町会やら自治会あるいはJCなどの組織のことを、無邪気に「地域社会」と言い換えたり、それら組織の意向を「地域社会」の声と言い換えたりすることが、昨今の官僚の得意技のひとつではないかと思っています。時々やらせのタウンミーティングなんかも差し挟んだりしながら。

投稿: 小林信也 | 2006/11/15 02:34

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/72525/12513890

この記事へのトラックバック一覧です: 書評:五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』:

» 五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市』 [日毎に敵と懶惰に戦う]
http://www.utsukushii-keikan.net/ これは『美しい景観を守る会』のサイト。 http://www.warui-keikan.net/ これは『悪い景観を守る会』のサイト。 伊藤滋一派の『美しい景観を守る会』は、毒々しい看板に溢れ、高速道路の高架が縦横に走る景観を悪い景観と言う。『悪い景... [続きを読む]

受信: 2006/11/16 07:38

« セレモニーホールと日本社会 その1 | トップページ | 江戸切絵図と江戸名所図会のあいだを読む »