第10回ワン・コイン古文書講座 自習題解答その4
遅くなりましたが、自習題の解説です。
自習題の文書は、江戸の町奉行遠山左衛門尉が老中阿部伊勢守に提出した伺書です。このときの遠山は南町奉行で、北町奉行は鍋島内匠頭です。伺書はこの二人の奉行の連名で作成されていますが、冒頭の「ヒレ」にあるように、遠山が作成した伺書を鍋島が読んで異存(「存寄」)は無い旨を書き添えています(文書の現物では、そうした書き添えは伺書の本体の右端に付箋として張り付けた紙片に記入されます。これがちょうど魚のヒレに似ていることから、この書き添えを「ヒレ」と呼びます)。というわけで、この文書が扱う案件は遠山の主管であり、文書の内容は遠山の意見であると考えられます(もちろん、配下の役人の意見を遠山がそのまま採用した可能性もあります)。
文書の案件は次のようなものです。二葉町の堀端(今のJR新橋駅北のガード下辺り)で営業していた露店(床店=「床見世」)は天保改革の際に撤去されましたが、このたびそれを復活させてはどうかということが検討課題となっています。
天保改革では、江戸の露店も摘発の対象となります。改革の推進者である老中水野越前守は江戸中の露店の一斉撤去を目論んだようですが、それは実現せず、一部の露店だけが撤去されました。上野山下や浅草蔵前などの露店の大規模集合地もいくつか潰されました。また、外堀の堀端にあった露店や小屋などは全面的に撤去されてしまいました。
天保改革の諸政策をみていると、現代のどこかの学校で行われている校則違反の取締みたいなところがあります。校則の本来の目的はなにがなんだかわからなくなっているものの、ともかく違反を許さず取締まること自体が目的化しているようなケースです。違反を許すことは、管理者の権威低下につながる、だから、どんなささいな違反でも見逃してはならないんだっていう、管理者に特有の強迫観念がみえます。天保改革については、そうした強迫観念を強く感じます。そもそも、そうした強迫観念こそが、天保改革が行われることになった一番の動機だったのかもしれません。
それはさておき、水野が失脚し天保改革が終わった後、改革で破壊されたものを立て直そうという、「古復」・「再興」の動きが各方面で活発化します。二葉町堀端の床店についても、二葉町の町人たちが幕府に古復を願い出ます。それが実現するには、老中の裁可が必要です。さて、“名奉行”の遠山の金さんはこの一件をどう裁いているのでしょうか。
文書を通読すると、どうやら遠山は町人たちに同情的です。できれば床店の古復を許してやりたいと考えているようです。
ところが、それには障害もあるようです。同じ堀端の露店がすでにいくつか古復を果たしていますが、その際、堀への転落事故などといった往来人の難儀の解消が、古復の大義名分として利用されています。露店があれば、それが壁となって転落事故は起きないという理屈です。町奉行所はそのような往来人の難儀の実態を調査し、問題箇所をピックアップして露店の古復を許可したのですが、そのとき、二葉町の堀端は対象外となってしまったようです。今回、もし、二葉町からの願いを容れて床店の古復を許可すると、同じような出願が外堀沿いのあちこちから出されるに違いなく、それらをすべて受け入れてしまうと、天保改革の時の取締政策を完全に撤回したことになります。これでは、幕府が自らの政策の誤りを全面的に認めたことになります。それはまずい、というのが二葉町堀端の床店を復活させるにあたっての障害になっているようです。
そこで遠山は、まず、二葉町の町人たちにちゃんと言い含めて、まずこの度の出願を取り下げさせようとしています。その上で、幕府が自らの判断で下す決定というかたちをとって、あらためて二葉町堀端の床店の古復を命じるならば、他の地域からの出願が相次ぐこともないだろう、というのです。
文書の概要はだいたい以上です。床店設置の理由としての堀への転落事故防止というのは、いかにも取って付けた理由みたいに感じられます。二葉町の町人たちにいったん出願を取り下げさせることが、本当に他地域からの出願続出を防ぐ手段として有効かどうかについても、ちょっと疑問が残ります。その辺の事情は、遠山自身もよく承知しているのかもしれません。それでもともかく、二葉町の床店の復活に関して、老中の同意を取り付けることが肝心だと遠山は考えているのかもしれません。そのためには、どんなかたちであれ、老中がウンと首をたてに振りやすい理屈や環境を提供することが必要であって、遠山がこの文書を作成した真の意図はそうしたことにあったとも考えられます。
遠山の金さん、江戸町人の味方で、やっぱりなかなかの名奉行だったのかも。
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