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2007/03/22

第10回ワン・コイン古文書講座 自習題解答その4

 遅くなりましたが、自習題の解説です。

 自習題の文書は、江戸の町奉行遠山左衛門尉が老中阿部伊勢守に提出した伺書です。このときの遠山は南町奉行で、北町奉行は鍋島内匠頭です。伺書はこの二人の奉行の連名で作成されていますが、冒頭の「ヒレ」にあるように、遠山が作成した伺書を鍋島が読んで異存(「存寄」)は無い旨を書き添えています(文書の現物では、そうした書き添えは伺書の本体の右端に付箋として張り付けた紙片に記入されます。これがちょうど魚のヒレに似ていることから、この書き添えを「ヒレ」と呼びます)。というわけで、この文書が扱う案件は遠山の主管であり、文書の内容は遠山の意見であると考えられます(もちろん、配下の役人の意見を遠山がそのまま採用した可能性もあります)。

 文書の案件は次のようなものです。二葉町の堀端(今のJR新橋駅北のガード下辺り)で営業していた露店(床店=「床見世」)は天保改革の際に撤去されましたが、このたびそれを復活させてはどうかということが検討課題となっています。

 天保改革では、江戸の露店も摘発の対象となります。改革の推進者である老中水野越前守は江戸中の露店の一斉撤去を目論んだようですが、それは実現せず、一部の露店だけが撤去されました。上野山下や浅草蔵前などの露店の大規模集合地もいくつか潰されました。また、外堀の堀端にあった露店や小屋などは全面的に撤去されてしまいました。

 天保改革の諸政策をみていると、現代のどこかの学校で行われている校則違反の取締みたいなところがあります。校則の本来の目的はなにがなんだかわからなくなっているものの、ともかく違反を許さず取締まること自体が目的化しているようなケースです。違反を許すことは、管理者の権威低下につながる、だから、どんなささいな違反でも見逃してはならないんだっていう、管理者に特有の強迫観念がみえます。天保改革については、そうした強迫観念を強く感じます。そもそも、そうした強迫観念こそが、天保改革が行われることになった一番の動機だったのかもしれません。

 それはさておき、水野が失脚し天保改革が終わった後、改革で破壊されたものを立て直そうという、「古復」・「再興」の動きが各方面で活発化します。二葉町堀端の床店についても、二葉町の町人たちが幕府に古復を願い出ます。それが実現するには、老中の裁可が必要です。さて、“名奉行”の遠山の金さんはこの一件をどう裁いているのでしょうか。

 文書を通読すると、どうやら遠山は町人たちに同情的です。できれば床店の古復を許してやりたいと考えているようです。
 ところが、それには障害もあるようです。同じ堀端の露店がすでにいくつか古復を果たしていますが、その際、堀への転落事故などといった往来人の難儀の解消が、古復の大義名分として利用されています。露店があれば、それが壁となって転落事故は起きないという理屈です。町奉行所はそのような往来人の難儀の実態を調査し、問題箇所をピックアップして露店の古復を許可したのですが、そのとき、二葉町の堀端は対象外となってしまったようです。今回、もし、二葉町からの願いを容れて床店の古復を許可すると、同じような出願が外堀沿いのあちこちから出されるに違いなく、それらをすべて受け入れてしまうと、天保改革の時の取締政策を完全に撤回したことになります。これでは、幕府が自らの政策の誤りを全面的に認めたことになります。それはまずい、というのが二葉町堀端の床店を復活させるにあたっての障害になっているようです。
 そこで遠山は、まず、二葉町の町人たちにちゃんと言い含めて、まずこの度の出願を取り下げさせようとしています。その上で、幕府が自らの判断で下す決定というかたちをとって、あらためて二葉町堀端の床店の古復を命じるならば、他の地域からの出願が相次ぐこともないだろう、というのです。

 文書の概要はだいたい以上です。床店設置の理由としての堀への転落事故防止というのは、いかにも取って付けた理由みたいに感じられます。二葉町の町人たちにいったん出願を取り下げさせることが、本当に他地域からの出願続出を防ぐ手段として有効かどうかについても、ちょっと疑問が残ります。その辺の事情は、遠山自身もよく承知しているのかもしれません。それでもともかく、二葉町の床店の復活に関して、老中の同意を取り付けることが肝心だと遠山は考えているのかもしれません。そのためには、どんなかたちであれ、老中がウンと首をたてに振りやすい理屈や環境を提供することが必要であって、遠山がこの文書を作成した真の意図はそうしたことにあったとも考えられます。

 遠山の金さん、江戸町人の味方で、やっぱりなかなかの名奉行だったのかも。

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2007/03/02

第10回ワン・コイン古文書講座 自習題解答その3

4頁下段分です。解説は後ほど。
(つづき)
およひ候段者同様之筋ニ有之候左候迚右町」内ニ限駒寄等補理候様ニも難申付候間前々」之通日覆床為差出候ハゝ町内之もの共渡世之」弁利者勿論往来人怪我等致し候憂も無之」御仁恵之筋ニ有之候尤右床見世之儀者元より」手薄之建物ニ付御堀端六尺通相除候迚却而」往還を狭メ候而已ニ而敢而非常之為メニ者相成」間敷候間全以前之通ニ古復可被仰付候哉勿論」此上外御堀端町々より同様無余儀筋申立古」復之儀願出候類有之間敷とも難申候間」願ニよらす被仰付候者相当仕間敷哉ニ付今」般之願書者下ケ遣候上無余儀候筋を以別段ニ」古復申付候様可仕哉ニ奉存候依之組廻り之もの」差出候風聞書并絵図面相添此段奉伺候」(以下但し書き)本文日覆床見世先前冥加上納金等」不仕尤町内往還異変有之候節者右入用半金持主より差出来且」御成御道筋之節者取払 御見通等之節ハ」其侭ニ差置候仕来ニ御座候」一去未十二月中取調相伺候市谷八幡町」地先下水上葭簀張古復之儀も本文」同様之趣意ニ而去月十五日伺之通被仰渡候」(以上但し書き終わり)以上」申五月」遠山左衛門尉鍋嶋内匠頭」

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第10回ワン・コイン古文書講座 自習題解答その2

自習題の解答のつづきです。今回は4頁の上段分です。下段と解説はまた後ほど。
(つづき)
もの共有之其時々町内ニ而引揚介抱致し」遣候得共中ニ者溺死およひ検使願出候分も」度々有之歎敷儀ニ付先前之通床見世」補理候ハゝ怪我人等も有之間敷候間此度ハ」御堀端を六尺通相除キ以前之通床見世」取建度段願出無余儀次第ニ相聞候得共」右者新古之無差別一般ニ取払被仰付候」場所之儀ニも御座候間事実之処組廻り之もの江」申付探索仕得与取調候処右申上候通去ル」寅年以来商人共難渋之次第者無相違」相聞一躰前書御堀端往還者折曲り候」道筋ニ而闇夜等通行之もの落入やすき」場所ニ有之殊ニ往来人も繁く候間此上」ニも時々怪我人可有之哉其節ニ至何程」人名ニ拘り候次第ニ候共難取上与者申渡」兼候儀ニ有之候且去ル巳年十二月中水道」橋外其外葭簀張水茶屋者古復之儀」御沙汰御座候節最前取払ニ相成候分一般ニ古」復致し候而者自然御取締相弛候様心得違候」ものも出来可致哉ニ付事実往来之もの難」儀可致場所而已得与取調可申上旨御書取を以」被仰渡差支有無探索仕申上之上水道橋」外其外三ヶ所同年中古復被仰付候儀も」有之候右ニ見合候得者事実往来人難儀」

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2007/03/01

第10回ワン・コイン古文書講座 自習題解答その1

去る2月24日に立正大学11号館で行いましたワン・コイン古文書講座の自習題の解答です。ただし、今回は途中まで。配布プリントの2頁の終わり辺りまでです。続きと解説はまたあらためて発表します。なお、原文中には一部差別的表現も含まれますが、歴史史料としてそのまま載せました。この記事を複写などして利用される場合は十分なご配慮をお願いします。

解答

(ヒレ)拙者儀無之(ママ)存寄無之候」四月廿六日 内匠頭」

申五月朔日」伊勢守殿江御直上」
幸橋御門外御堀端日覆床見世之儀ニ付奉伺候書付」遠山左衛門尉」町奉行」

幸橋御門外御堀端床見世之儀者寶永六」丑年中より右御堀際三尺通相除西北江」折廻し間口長延三拾壱間奥行壱間より」九尺迄之取置床ニ補理二葉町裏家」住居之もの共魚類商ひ致し来候処去ル」寅年御堀端建物取払被仰付候砌右床」見世も取払相成候処右之もの共者いつれも」身薄之ものニ而裏家ニ而者商ひ相成兼」候得共年来同所ニ而渡世致し来候儀故」他町江引移候而者出入武家方等之商向」不都合之儀も有之候間其節より町内往還」又者表店之軒下を借受立商ひ致し取続」罷在候然ル所右床見世取払候後夜中」御堀端通行之盲人其外御堀内江落入候」(つづく)

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