そろそろ新学年の授業が始まる。新しい学生さんたちと顔を合わせるのは本当に楽しみなんだけど、初回の授業をどんな話から始めるか、毎年悩む。
でもって、だいたい僕が話すのは、なぜ歴史を学ぶほうがよいか、という話。あるいは、歴史研究なんかやってて何が面白いのか、という話。
話題は変わるが、歴史学界の現状について、「研究の深化によって、研究内容が細分化してしまい、全体像が論じられなくなった。」と憂う声がよく聞かれる。
こういう意見に対しては、まあ、それもそうかな、と一時は思ったりもしたが、最近は、それは違うんじゃないかな、と考えるようになった。
いわゆる古典とされるような、普遍的価値が広く認められている研究論文を読み返してみても、多くの場合、その内容自体は、とてもローカルで細かな事象を分析したものである。その点、最近の研究と大差は無い気がする。
神は細部に宿る、という。だから、とことん細部にこだわって、そこに神を見出さなくてはならない。普遍的価値とは、きっと、そんな神がもつ偉さのことだろうなと思う。
その神を自分ではまだ見出せていないうちに、おまえがいるのは蛸壺だ、という野次に動揺して外海に泳ぎだしてみても、今度は波間に漂い、その時の潮や風に流されるクラゲになるだけだろう。
さらに話題は変わるが、最近の大学生の学力は低下した、と嘆く声をしばしば耳にする。しかし、私の場合、学生時代の自分が劣等生だったせいもあって、最近の学生の学力が低下したと思うことはほとんどない。
“古い人たち”が自分のモノサシを後生大事に持っていて、それを今の学生さんたちに押し当ててみては、あっちが足らない、こっちが短い、と言っているだけのような気もする。
というわけで、私は学生さんたちのことをかなり信頼している。そんな学生さんたちを確かな評者として、自分が歴史の細部=蛸壺の底で出会った(つもりでいる)神のことを話してみる。
そうやって話してみて、学生さんたちにその神の偉さが伝わらなければ、その神は賞味期限切れの古い神なんだと思うようにしよう。あるいは、私の細部へのこだわりが中途半端で、その神の普遍性をまだ自分のものにできていないんだと反省しよう。
ちゃんとラテン語を学んでない奴らに神のことを話しても無駄だ、とか愚痴っててはだめなんだじゃないかと思うんだ。
だから、私の場合、歴史研究を続け、神を探し続けていくためには、授業という試金石が欠かせないと思ってる。
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