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2007/05/30

今年も巡見始めました。

先週末の土曜、巡見「江戸を縦貫する」の2007年度シリーズ第1回をおこないました。歩いたのは東京駅~丸の内~江戸城~江戸橋広小路跡~大伝馬町~本町~日本橋の区間です。歩いてみての感想はまた近日中にアップします。

今回初めての参加者の方に加えて、去年から引き続きの参加者もいらっしゃって、案内人としてはうれしかったです。

巡見後の打ち上げは、恒例の新大久保コリアンタウン。いつもの韓国料理屋さんに行きました。カイコのサナギはうまかったかいな。その後、2次会・3次会とつづき、解散は翌朝、始発が動き始めた新宿駅。歌舞伎町のカラオケルーム7階から眺めた、あけぼのの靖国通りの景色が妙に記憶に残っています。

次回は、おそらく、6月末に、番外編のヒルズ(+ミッドタウン?)巡見。各大学が夏休みに入ってすぐ、8月最初の週くらいの平日に、日本橋から浅草橋までの第2区間を歩く予定です。暑いだろうなぁ。ビールがうまそう。

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2007/05/16

書評:ドロイス・ハイデン『場所の力』 その1

 本書は2部からなっている。その第1部においては、都市景観の意味を理解する(理解しなおす)ための方法論が展開されている。第2部では、ロスアンジェルスにおける都市景観の保存・デザインの実践が紹介されている。
 第1部のタイトルは「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」で、第2部は「ロスアンジェルス-ダウンタウンの都市景観に見る公共の過去」である。

第1部「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」より
第1章「主張が交錯する場所」

 ハイデンの方法論が示される第1部には三つの章があるが、そのうちの第1章「主張が交錯する場所」の導入部では、ニューヨークの歴史的建造物の保存をめぐるある論争が取り上げられている。
 その論争は、1975年に、都市社会学者のハーバート・J・ギャンズと、建築評論家のアダ・ルイーズ・ハクスタブルとの間でおこなわれた。

 ギャンズは、ニューヨーク・ランドマーク保存委員会による保存対象の指定を批判して次のように述べた。「陽のあたっている著名な建築の一部を保存しているに過ぎず、一般の建物の存在をないがしろにしている」。
 保存委員会を支持するハクスタブルはこれに反論して、「偉大な記念碑的建築に対して、それが富裕層のものであることを理由に汚名を着せたり、それらをエリート主義の文化的な道楽とみなすことは誤りであり、歴史のわい曲であり、(中略)これらの建物はかけがえのない文明の重要な一部である」と述べた。

 また、保存委員会が指定した建物の保存活動への税金の支出について、ギャンズは、「保存という行為は公共の財源に依存する限り、公共的な行為であって、それはすべての人々の過去に呼応するものでなければならない」と述べて、「著名な建築の一部」に偏った保存活用への支出は問題であるとした。それに対してハクスタブルは、「美学的に見て質の高い建築の修復や再利用はきわめて難しい作業であり、大きなコストを必要と」するため「可能な限りの支援のすべてを受けて当然である」と弁護した。

 さて、著者のドロイス・ハイデンの主張については、邦訳本の出版社によって、「本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」であると紹介されている(直前号の記事参照)。この出版社による紹介を読んだだけだと、ハイデンは、ハクスタブルとは敵対し、ギャンズとは意見を同じくしているようにもとれる。「著名な建築の一部」だけでなく「一般の建物」の保存を主張するギャンズのいう「一般の建物」とは、多くの倉庫、店舗、下宿屋などといった「都市のバナキュラーな建物群」のことであり、これはハイデンの「生活景」と重なるようにも思える。

 しかし、日本の出版社が、ハイデンの主張の新しさをこのようなかたちで説明するしかなかったのは、おそらく、いまだ、日本の都市景観をめぐる議論の多くが、30年前のギャンズ・ハクスタブル論争の次元か、あるいはそれ以前の段階にあるためだろう。
 実際に本書を読むと、ハイデンはギャンズに対しても「保存に関しては全くの門外漢」だとしてその不十分さを指摘し、「結局のところ、2人とも、彼(ギャンズ)の都市保存の考えと彼女(ハクスタブル)の建築保存の考えを同時に実現し得る機会を探し出す努力を払わなかった」と述べている。

 したがって、ハイデンの主張の新しさについて理解するためには、その主張が、ギャンズ・ハクスタブル論争の次元をどのように超えているのか、とりわけ、ギャンズの主張をいかに乗り越えているのかという問題関心をもちながらこの第1章を読むことが、私を含め、日本の読者の多くには求められるように思える。

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2007/05/09

都市景観・まちづくり~ドロイス・ハイデン

 都市景観、そして、まちづくり。この二つのテーマについては、このブログでもちょくちょく言及してきた。今年は、もう少しじっくりとこれらのテーマについて考えてみたいと思う。
 
 で、学ぶべき先行研究をいろいろと物色した結果、興味を持ったのは、アメリカのドロイス・ハイデンという人と、日本の蓑原敬という人。二人とも建築系の人だが、それぞれの都市の見方に共感して選んだ。
 二人を選んだ後で、それぞれの経歴を調べたら、これが面白かった。ハイデンは、最初、歴史学を研究し、それから建築学へと転身した人。蓑原も、最初、東大の教養学部でアメリカの地域研究をやった後、日大理工学部の建築に入り、そこを卒業してから、建設省や茨城県で都市計画などを担当した人。つまり、人文科学を経てから建築を学んだという点で二人は共通している。
 結局、歴史研究者の僕が選ぶと、こんな風になるんだな。

 それはさておき、まず、ドロイス・ハイデンの本について簡単に紹介しておこう。
ドロイス・ハイデン『場所の力-パブリック・ヒストリーとしての都市景観』(後藤春彦・篠田裕見・佐藤俊郎訳、学芸出版社、2002年)
 出版社による本書の紹介をみると、「バナキュラーな街並み、市井の人々の仕事や営みさえも、地域の人々にとって価値あるものであることが、日本でもようやく気付かれるようになってきた。(中略)本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」だという。
 では、「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」、すなわち、都市景観としてのパブリック・ヒストリーとは、いったいどのようなものか。
 訳者の紹介によると、「彼女(ハイデン)が言う社会的な記憶とは労働者の歴史であり、民族や女性の歴史を意味する。特に、地域社会における悲痛な体験や敗北した闘争の歴史を含むものである。これらは、書物に記されたり、公園や広場の銅像となって表象される、強者や勝者、すなわちメジャーの歴史とは明らかに異なるもので、人々の口伝や街角の何気ない景観などのよってのみ伝えられる市井の人々のアイデンティティとも言えるものだろう」とのことである。
 ハイデンは、「私達アメリカ人は、自分達の言い分を社会に伝えてくれる代弁者を持たない圧倒的多数の人々、すなわち一般の労働者、すべての民族の女性、男性、子ども達の個々人の心に共振する歴史が刻み込まれた都市の歴史的かつ公共的な場所を手にすることができる」という希望を掲げている。

 少し前までは、某大学で、都市論という講義を担当していた。今も続けていたら、格好の素材として講義で取り上げられたのになぁ。まあ、今回も、ちょっとした講義ノートを作成するつもりで、書評に取り組んでみたい。
 そのなかで、本書の長所と弱点をクリアにしていきたいと思う。

 もう一人注目の蓑原敬については、また記事をあらためて紹介しよう。

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