猛暑巡見のかんたんな報告~中編
江戸のメインストリート
人形町から大門通りを神田方面へ進む。前方に、通行量の多い大通りとの交差点が見えてくる。この大通りの現在の名は、江戸通り。江戸時代の呼び方だと、本石町通り。大門通りから見ると、本石町通り沿いは、周囲と比べて微高地であることがわかる。
本町通りと本石町通り
さて、その本石町通りに出る少し手前で、我々は右折する。この通りが本町通り。由緒正しき江戸のメインストリート。常盤橋際から浅草橋際まで延びる。江戸の建設期、江戸町方の中心である日本橋北地区一帯の町割り造成工事がこの本町通りを中心軸にして行われたと、かつては考えられていたこともあるが、最近の研究だと、実際の中心軸は、本町通りの隣を平行して走る本石町通りだったという説が有力だ。
ただし、造成工事の中心軸が本石町通りだったとしても、江戸城下の町方の社会的編成上の中心軸が本町通りであることは疑うべくも無い。
こうした中心軸の二重化はどうして生じたのか?その理由を勝手に想像してみよう。徳川氏の城下町として江戸が建設される以前から、中世の江戸湊や浅草辺りには、ある程度の町場の発達があったとされる。江戸湊の内奥の低地にあって、微高地上を走る本石町通り沿いには、すでに、ぱらぱらと町場ができていた(のかもしれない)。日本橋北地区の造成に際しては、まずこの本石町通りを直線的に整備し直し、それを基準線として、一帯の町割を進めた(同前)。しかし、江戸のメインストリートには、本石町通りではなく、その隣の道筋が選ばれた。新たに造られたその道路沿いの土地は、先住者のいない新規造成地であり、徳川氏に随伴する有力町人たちを入植させるには、本石町通りよりも好都合だった(同前)。こうして、新たなメインストリートには、本町・大伝馬町といった、江戸で最も格式の高い町々が作られていった。
と、まあ、想像してみたけど、実際のところはどうだったんだろう。単に、日本橋北地域に向けた江戸城の玄関ともいえる常盤橋門に対して、本石町通りの入り口よりも本町通りの入り口の方が近かったから、というのが理由かも知れない。
さて、そんなことを思いつつ、本石町通りの手前で大門通りを右折し、本町通りに入る。これを浅草橋の方向に少し進むと、龍閑川埋立地に着く。戦後、廃墟の瓦礫でもって埋め立てられた場所だ。この埋立地の歴史にはかなりの思い入れがあるが、今回はそれに触れることもパス。
この先が、繊維問屋街の中心だ。(つづく)
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