近世の終焉としての現在 2
Ⅰ.日本史の転換点をめぐって
①われわれの社会のルーツはどこか
現在の日本社会のルーツはどこにあるのだろうか。
もちろん、祖先をさかのぼっていけばキリがないわけだが、そうではなくて、直接のルーツについて考えようということである。例えば、現代ヨーロッパ人のルーツをとことんさかのぼると、それは生命の起源とかにまでいっちゃうかもしれないけど、直接のルーツとして、クロマニヨン人が考えられるという具合である。
では、現代日本社会のルーツはどこか。われわれと似たような生活習慣をもち、似たような経済や政治のシステムをもつ人々が構成した社会は、どこまでさかのぼれるのだろうか。これについても、いろんな答えがあり得るだろうけど、もっとも一般的なのは、明治初期から中期あたりにルーツがある、という答えではないだろうか。
この頃、人々は洋服を着用し始め、靴を履き、資本主義が成立し、立憲国家が誕生した。どうやら、われわれの社会の直接のルーツは、この辺りにあるのではないか。
こういった考え方は、おそらく世間一般において広く受け容れられている。また、大学の先生たちの間でもかなり許容されていると思う。しばしば、大学の日本通史のカリキュラムや教員構成が、前近代と近代(近現代)とに区分されることからも、それは確かめられるだろう。
つまり、明治の前半、19世紀の後半くらいに、日本史上の大きな変革期があって、現代社会のルーツはその変革を経て形成された、という考え方はひとつの常識となっている。
しかし、これとは異なる考え方が存在する。いわゆる近世・近代連続論である。応仁の乱から(あるいは南北朝の内乱から)信長・秀吉・家康の天下統一の前後までの時期が、明治維新期などを上回る、日本史上の一大変革期であって、そのあとの近世と近代(近現代)との間には大きな断絶はなく、むしろ両者は連続している、という考え方である。
こうした考え方にたつと、上記の変革期の後、だいたい17世紀前半に成立した近世社会こそが、われわれの現代社会のルーツだということになる。
僕としては、まあ、近世・近代断絶論も、近世・近代連続論も、どちらも有効な考え方だと思う。要するに、ものの見方なんだから、見る人の立ち位置や見る目的によって、いろんな見方があって構わないわけだ。
では、今の大学生の皆さんの立ち位置からすると、どっちの見方が有効なのだろうか。もちろん、人によっていろんな立ち位置があるだろうから、どっちの見方が絶対だ、とか決めつけられないけど、けっこうたくさんの人にとって、近世・近代連続論が有効なんではなかろうか、と思ってる。
その理由は以下のとおり。前回の記事に書いたように、20世紀末から21世紀初め、すなわち現在は、日本史上、他に類をみないくらい大きな転換期である。そんな大変動に立ち会っている皆さんが、その変動を感知するアンテナを立てるためには、近世・近代連続論こそが有効であるからだ。(つづく)
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