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2008/06/23

近世の終焉としての現在 10

  Ⅱ.小経営の時代の終わり
  
  ⑤サラリーマンとその家庭の擬似コミュニティ的結合について

 いわゆる日本型雇用のサラリーマンとその家庭が、その基本的なあり様において、農家や個人商店などの小経営と共通する要素を多くもっていたことを前回の記事で述べた。
 今回は、こうした擬似小経営的サラリーマンとその家庭が形成した、擬似コミュニティ的な結合について書くことにする。

 擬似コミュニティ的な結合は、a.サラリーマンの職場において、および、b.その居住地において、形成された。

 a.職場における擬似コミュニティ的結合
 アメリカなどのサラリーマンの雇用は、一般的には、個別の業務に応じて、その業務をこなす能力をすでに有している人を即戦力として雇うというかたちでおこなわれ、もし、その業務が会社にとって不必要になると、それを担当するサラリーマンは解雇されるのが普通だという。
 これに対して、日本型雇用のサラリーマンは、ある業務に特化したかたちで雇われるのではなく、多くの場合は新卒者が、まずなによりも会社の一員となるかたちで雇用され、その後、社内での教育によって、その具体的な業務能力を高めていく。仮に、あるひとつの業務が会社にとって不必要になったとしても、それに従事していたサラリーマンたちは、同じ会社の内部において別の部署へと配置転換されるなどして、会社員という地位は継続されることが普通だった。
 こうして会社(巨大企業の場合は社内各部署)が、サラリーマンにとって、自分たちの帰属する共同体のごとき存在となっていた。
 若者が共同生活をおこなう宿舎としての独身寮や既婚者のための社宅が設置され、社員旅行・社内運動会などの年中行事が催行されるなどなどの擬似共同体的要素を見出すことは容易である。また、労働組合も、会社別に作られることが多く、“会社共同体”への帰属度が強められていた。
 しかし、あくまで被雇用者のサラリーマンには、会社経営に対する発言権などが認められているわけではなく、農家や個人商店のような小経営が“ヨコ”に結合して形成する農村や商店街などのコミュニティ結合と、会社における擬似コミュニティ的結合とでは、本質的な違いがある。

 b.居住地における擬似コミュニティ的結合
 日本型雇用のサラリーマンの家庭は、その居住地においても、擬似コミュニティ的結合を形成する。これは、しばしば、子どもの生育環境の整備などを目的として形成される結合である。
 例えば、地域の防犯活動などをみても、もっぱら、子どもを犯罪から守ることを主眼に展開される。結合の実態は、学区のPTAだったり、子ども会だったりする。
 親たちの一定の割合は、農村の出身だったり、実家が農村にあってしばしばそこに滞在した経験を有したりしていて、そうした人々を中心に、農村の祭りを模した地域の祭礼が実施されることもある。ただし、祭礼本来の、コミュニティの繁栄や豊作を祈る宗教性などはそこには無く、単にノスタルジックないわば“コミュニティごっこ”の一環として祭礼が実施される。
 また、農村のような個別の小経営が直接依存するコミュニティ結合ではなく、あくまで子どもを介した結合であるため、大人たち本人が肩を腫れ上がらせて神輿を担ぐようなことはなく、子どもに山車を曳かせてみたり、模擬露店を並べ縁日気分を経験させてみたりすることが主たる内容となっている。
 しかし、子どもが成人したり独立して親元を離れたりした家庭や、子どものいない家庭は、こうした結合に加わらないことが多い。そして、しばしば、一定の地域内には同年代のサラリーマン家庭が集中しがちであることから、子どもを媒介とするこのような擬似コミュニティ的な結合は、子どもの成長段階における特定の時期から、急速に解体していくケースが多い。
 子どもを媒介とする結合以外で、最も強固な結合は、資産の保持のための結合であろう(農村や商店街のような、経営の保持のための結合ではない)。こうした結合は、分譲マンションの管理組合が代表的である。あるいは、分譲住宅地における、割り地やアパート開発などを規制する運動にも見出せる。しかし、こうした結合は、限定的な目的の結合であるため、人々の交流内容や交流期間も限定的である場合が多く、そうであるがゆえに、ときに非常に強固な結合にもなりえるが、擬似コミュニティ的結合と呼べるまでは発展しない場合がほとんどであろう。

 以上、擬似小経営的な日本型雇用のサラリーマンとその家庭が形成する、擬似コミュニティ的結合について、おおざっぱに書いてみた。
 
 こうしたサラリーマンが擬似小経営的であるがゆえの、小経営の農家や個人商店と混住した場合の相互融和のしやすさや、その一方でどうしても生じてしまう、コミュニティ活動における“温度差”などについても書いてみたいが、それは省略。

 ともあれ、農村や商店街などのコミュニティと多くの共通点を持つ、擬似コミュニティ的結合にサラリーマンとその家族が包摂されることによって、いわゆる均質的な日本社会が、表層的にはかなり広汎に成立していた(あるいは理念化されていた)ことが重要であろう。

 しかし、擬似小経営的サラリーマンが減少する日本社会において、こうした擬似コミュニティ的結合は、消滅していく農村や商店街と共に、急速な退潮傾向にあるのではないか、という見通しを最後に示しておく。

 この問題については、また後であらためて考えてみたいが、要は、こうした結合は、少子化・非婚化が進み、流動的な非正規雇用の労働者や移民労働者が今後さらに増加することで、社会におけるそのウエイトや存在価値を著しく減じていくのではないだろうか。

 小経営の時代の終わりと共に、擬似小経営の時代も終わろうとしているのだろう。

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