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2008/07/28

8月8日に巡見やります

 江戸城本丸を出発して、三ノ輪の浄閑寺(亡くなった吉原遊女の投げ込み寺)までを歩きとおす巡見「江戸を縦貫する」は、例年、その全行程を、1.江戸城から日本橋まで、2.日本橋から浅草まで、3.浅草から吉原まで、の3区間に分けて歩いています。今年は、すでに第1区間と第3区間を歩きました。というわけで、今回は残りの第2区間を歩きます。

 第2区間では、東京証券取引所や神田・浅草の問屋街などを巡ります。そのため、通常のような土曜開催だと休業中の施設や商店も多く、歩いていても面白くないので、夏休み期間中の平日開催となります。

 この第2区間は、他区間と比べると、一見、地味なコースなんですが、個人的には、最も興味深く歩けるコースです。特に神田の繊維問屋街が面白い。この問屋街にみられる毎年毎年の少しずつの変化に注目しています。それが、新しい社会を生み出していけるようなたくましい芽なのか否か。問屋街の生命力、市場の生命力の問題。
 例えば、築地の魚市場。取扱量が低落しつつも、最近、漫画化・映画化されたり、外国人旅行客にとって都内でもっとも人気の観光スポットになったりで注目を集めています。それはおそらく築地の魚市場の底力とでも呼ぶべき魅力ゆえだと思いますが、市場としての神田のポテンシャルは築地を上回る可能性だってあるようにも思います。

 ここまで読んで、いったい何のことかいな?と思った人、神田の問屋街を見たことのない人は、ぜひ一緒に歩いてみてください。かなり面白いと思うんだけど。

 なお、この巡見全体の趣旨や目的については、こちらの記事を読んでください。

 おおまかな行程は、日本橋~兜町~人形町~神田問屋街~浅草橋問屋街~浅草寺。そのあともし時間と体力に余裕があれば合羽橋道具街から稲荷町まで。当日の暑さ次第でしょう。

日時:8月8日(金) 13:00から(所要時間はだいたい4時間弱かな)
集合:JR神田駅に13:00集合

 集合場所の詳細は講義中にご案内したとおり。ご案内できていない方は、お手数ですが、私、小林宛にメールをください。アドレスは、このブログのプロフィール頁にあります。


 次回以降ですが、11月29日(土)に酉の市・吉原・佐竹ヶ原・柳原土手跡などを歩く予定です。その他には、各“ヒルズ”や品川あたりの都市再開発地域めぐりも実施予定です。こちらは10月末、あるいは来年2月中旬になると思います。

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2008/07/16

近世の終焉としての現在 15

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ②賞味期限切れの地域コミュニティ

 前回・前々回の記事では、小経営と擬似小経営の衰退(すなわち、農家や個人商店などの小経営、および擬似小経営としての日本型雇用のサラリーマン家庭の衰退)によって要らなくなるものとして、結婚や子供を取り上げた。

 小経営の時代においては、小経営の維持に適合的なかたちで、結婚や子づくりを強制する社会的動機が形成されていた。しかし、現在、その小経営の時代が終わることで、結婚や子づくりの動機は消えつつある。非婚化・少子化はそのために起きている現象ではないか、という思いつきを示してみた(まあ、思いつきには過ぎないんだけど、たぶん当たっているだろう)。

 さて、結婚や子供と同様、小経営の時代が終わることで無用となったものが、従来型の地域コミュニティである。

 今、我々の社会からは、農村や商店街といった地域コミュニティが、急速に消えつつある。その具体的状況については、前章でだいたいのところを確認した。

 農家や個人商店といった小経営が無くなれば、そうした経営を持続させるために形成されていた集団、つまり、農村や商店街といったコミュニティが無くなるのは当然のことである。

 他方、擬似小経営的なサラリーマン家庭が形成していた擬似的コミュニティも、今、崩壊しつつある。

 この擬似的コミュニティは、以前にも書いたとおり、子供を育てるための環境整備を第一の目的として作られる場合が多かった。目的が子育てのための環境整備であるため、場所によっては、同じ環境整備を必要とする農家や個人商店などともリンクするかたちで、この擬似的コミュニティは形成されていた。PTAや子ども会、地域の少年スポーツ団体などがその実体をなしていた。担い手は主として母親たちであった。

 しかし、こうした擬似的コミュニティの多くは短命であった。それが農家や個人商店などとリンクして形成されていた場合、農家・個人商店の消失と共に弱体化し消えつつある。
 他方、擬似的サラリーマン家庭を中心に形成されていたコミュニティの方は、多くの場合、同世代のサラリーマン家庭が集住したため、子供の独立もほぼ同時期であった。そのため、低家賃・好立地の一部の公務員住宅や大企業の社宅などで世代交代が順調な場所をのぞくと、子育ての環境整備という目的を一挙に失って、ある時期からコミュニティ機能が急速に衰えていく。学校が廃校となり隣接する商店街も消えていった各地のなんとか団地やなんとか台ニュータウンがそれである。
 一方、擬似小経営的サラリーマン家庭が日本型雇用の崩壊によって減少するなか、こうした擬似的コミュニティの新たな形成は抑制されている。共働きの夫婦やアパート暮らしのフリーターには、こうしたコミュニティを作り支える余力は無い。

 このようにして、現在の日本社会から、従来型の地域コミュニティは消えつつある。

 昨今、地域コミュニティの再生を訴える声をよく耳にする。そこでモデルとされるのは、依然として、かつての農村や商店街といった地域コミュニティである。しかし、たいていの場合、こうした再生運動はうまくいかない。それはそうである。もともとこれらのコミュニティは、小経営の存立のために必要不可欠な集団として形成されたものであって、イベントサークルみたいな仲良しクラブではない。皆が生きていくためには、否応なく帰属しなくてはならない集団であった。
 用水の管理やアーケードの維持管理などなど、多種多様な、それなりにヘヴィな共同作業が核にあり、その延長上に、共同での祭礼や葬祭などのイベントもあった。
 現在、コミュニティの再生をうたって行われるお祭りなどのイベントは、ただのコミュニティごっこである。もちろん、こうしたコミュニティごっこだって、やらないよりはやった方が良いだろう。しかし、用済みとなった地域コミュニティが、これで再生するとは到底思えない。

 ノスタルジックなコミュニティ再生運動は、このようにほとんど無効だと思うが、さらにいうと、無効であるにとどまらず、有害となる可能性が大きい。
 地域コミュニティ再生運動の有害性については、以前記事を書いた。こちらをクリックして読んでみてくださいな。

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2008/07/07

近世の終焉としての現在 14

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ①少子化・非婚化(その後半) 
 
 相続されるべき小経営が消えることによって、子供をもうけることの必要性も無くなりつつある。

 では、子供が不必要になると、次に何が要らなくなるかといえば、それは結婚である。

 さらには、夫婦の労働を核とする小経営が消えたことによって、あるいは、夫婦の労働分担を必要とする擬似小経営のサラリーマン家庭が解体しつつあることによって、“経営上”においても、結婚の必要性は無くなった。

 ここで年齢別の非婚率の推移をみよう。1970年では、25~29歳男子の非婚率は46.5%で、30~34歳男子が11.7%である。これに対して、2005年には、25~29歳が71.4%、30~34歳が47.1%となっている。1920年だと、25~29歳が25.7%で、30~34歳が8.2%である。
 
 女性の方だと、1970年では、25~29歳が18.1%で、30~34歳が7.2%である。これに対して2005年では、25~29歳が59.0%で、30~34歳が32.0%となっている。1920年だと、25~29歳が9.2%で、30~34歳が4.1%である(クリスマスケーキなんて言葉が昔はあったよね。それも完全に死語になったわけだ。)

 このように非婚率は激増中である。おおざっぱにいうと、30~34歳の男性の場合、1970年以前では、10人中に1人くらいは独身がいるって感じだったのが、今は、10人中で5人近くが独身ということになる。
 30~34歳の女性だと、1970年以前では、10人中で独身者が1人いるかいないかという感じだったのが、今は3人に1人は独身である。

 このように、事実として、小経営が急激に減少したのとほぼ時期を同じくして、この日本においては、夫婦というものも、急激に数を減らしたのである。

 また、非婚化の進行と同時に、晩婚化の方も急激に進行している。特に女性の晩婚化が著しい。それは、結婚という行為が子供をもうけることを主たる目的としないものに変わりつつあることをも示しているのではないか。

 
 小経営の崩壊により、小経営の相続のために必要だった子供は不必要となり、小経営を成り立たせていた夫婦の協働も不必要となった。これらにより、結婚は要らなくなったのである。

 非婚率の急上昇と同じ理屈で、離婚率の急上昇についても、小経営の消滅という事態と関連づけることができるだろうが、それは省略。

 以上、小経営の時代の終わりにおいて、日本社会から子供や夫婦が急速に減っていく様子をみてきた。

 
付け足し
 もちろん、小経営の相続者としてではなく、愛情を注ぐ対象としての子供や、自分たちのDNAを受け継いでもらうための子供を、本能的に欲するということはあるだろう。つまり、より動物的というかプリミティブな、本能的動機による子づくりである。
 同じく、本能にもとづく恋愛の、そのひとつの形式的帰結として結婚も成立するだろう(ただし、ここでいう「本能」は純粋に先天的なものばかりではなく、当然、後天的な“教育”によって助長された「本能」も含めたい)。

 ところが人間というやつは、いうまでもなく、こうした本能的な動機だけでは動かない。本能的動機に社会的な動機が加わることで動く。

 日本社会においては、これまで、小経営の時代に適応したかたちで、結婚や子づくりの社会的動機が形成されていたわけである。
 この社会的動機は相当強力で、たとえ本能的動機が希薄でも、結婚や子づくりは成立した。恋愛無しの結婚もDNA的には非連続な養子取りも、小経営の持続を目的として、ごく当たり前に広く行われていたのである。

 しかし、小経営の時代が終わる現在、その時代に適応して成立していた社会的動機の方も、著しく弱体化している。結婚当日までお互いの顔もよくしらなかったなどという婚姻は姿を消した。養子をとることもごく稀になった(もし子供を得るのなら、それは自分(たち)のDNAを受け継ぐ存在であるべきで、そのために不妊治療などは発達しつつある)。

 昨今、少子化対策として、育児休暇制度の改善や保育施設の充実が進められようとしている。私も、子を持つ親として、もちろん、そういったことはどんどん進めていって欲しいと思う。
 
 しかし、これらの対策で少子化問題が解決することは、まずありえない。ピントはずれもいいところだ。

 いくら子づくりや子育ての“条件”を良くしたところで、基本的にはダメである。今、少子化問題を解決したいのなら、子づくり・子育ての“条件”だけではなく、小経営と共に壊してしまった子づくり・子育ての社会的動機の再建か、あるいはそれに代わる新しい社会的動機の創出が何より必要であろう。
 もし少子化問題を解決したいのなら、という話だが。

 結婚という形式の方はどうしよう? まあ、こっちも、もし復活させたいと思うなら、そのための社会的動機を考案しなきゃね。それとも、こっちはもう要らないって人も、たくさんいるのかいな。

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2008/07/02

近世の終焉としての現在 13 

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ①少子化・非婚化(その前半)

 前章では、2000年前後の日本社会において、つまり、ちょうど私たちの目の前において、近世以来の小経営の時代が幕を下ろそうとしている状況を確認した。
 これは、日本社会の大転換を意味することだと思うが、そう言われてもピンとこない人がいるかもしれない。そこで、小経営の時代の終わりに起きている社会現象をいくつか挙げてみることにする。

 まずは、小経営つまり家業的経営が無くなると、それにともなって何が無くなるのか、という問題から。

 小経営が無くなることで、その必要性を失い、世の中から減っていくのは、結婚と子供だろう。それから伝統的な地域コミュニティなどである。

 今回は、減っていく結婚・子供について。

 小経営が順調な場合、例えばそれが農家であれば、田んぼや畑を相続する跡継ぎが必ず求められた。そのためには、必ず結婚しなくてはならなかったし、また、夫婦は必ず子供を作らなくてはならなかった。
 これらがうまくいけば、丹誠込めて耕した田んぼが他の家の者に奪われてしまう心配などはしなくてすんだ。また、老後は、跡継ぎが面倒をみてくれた(したがって、小経営が順調な段階では、大規模な老人介護制度などは必要なかった)。事情があって夫婦に子供が出来ない場合、養子を貰ってきて、これを子供とした。

 擬似小経営のサラリーマンの場合、農家や個人商店などと比べると、何が何でも結婚して跡継ぎを作らなきゃ、というプレッシャーは本来無いはずである。しかし、そんなサラリーマンやその妻たちも、その多くは、先代・先々代が農家であり、小経営的な家族観や人生観を継承していたのではないだろうか。
 子供を作り、それが男子であれば、教育にお金をかけて、自分と同じかそれ以上の学歴を与え、自分と同じがそれ以上の年収の会社へ就職させる。老後は跡継ぎ息子とその妻に面倒をみてもらい、家産を相続させる。子供が女子であれば、母親と同じサラリーマンの妻としての安定した生活を送らせる。これが、擬似的小経営のサラリーマンとその家庭の、人生の目的であり、幸福のかたちであった。

 しかし、小経営および擬似小経営が消えていく現在、例えば、フリーター同士が結婚した場合など、子供は不必要である。受け継がせるべき経営も家産も無い。したがって子供は不必要なのである。むしろ、自分たちが使える時間やお金を奪ってしまう子供は、いない方がよりマシな生活ができる。というか、フリーター夫婦の場合は、子供を育てるための時間もお金も不足している。

 正社員同士が結婚した場合でも、そのまま共働きを続けるケースが増えている。それは、女性の職業意識が変化したということもあるが、より切実なのは、夫ひとりの収入に頼っての生活設計はリスクが高く、それを回避するため、いわゆるダブル・インカムを続けた方が安心であるという理由だ。住宅ローンを抱えたまま夫がリストラされてしまい、それから専業主婦だった妻があわてて仕事を探しても、十分な収入が得られるような仕事にはつけない。
 こうした夫婦共働きの状態では、子供を育てることには様々な困難が発生するし、また、かつての擬似小経営的サラリーマン家庭をしばっていた小経営的な家族観や人生観・幸福観はその影響力を弱めている。
 そこでしばしば、特に必要でもない子供なんだから、作らなくてもいいだろう、という選択がなされることになる。(つづく)

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