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2009/03/26

近世の終焉としての現在 22 まとめ~その4

 これまで述べたように、400年続いた小経営の時代は、今、我々の目の前で終わろうとしている。では、小経営の衰退は、日本の社会全体にどのような影響を及ぼしているのだろうか。

 小経営が消えることにともなって我々の社会から消えているものは何か考えてみよう。

①消えていく子供と結婚

 小経営が消えることによって必要がなくなるもの。それは、まず子供である。小経営の農家や個人商店にとって、後継ぎとなる子供は絶対必要だった。子供がいなければ、せっかく丹精こめて耕してきた田畑はよその家の物になってしまう。だから、もし実子に恵まれなければ、どこかで子供を貰ってきてでも、後継者たる子供を確保する必要があった。しかし、小経営が消えることで、家の相続の重要性は消え、子供は不必要なものとなった。

 こうして子供が不必要になると、次に不必要となるのは、結婚である。さらには、家族労働を中核とする小経営の解体によって、小経営の維持に必要だった夫婦の協働も不要となり、結婚の必要性はますます失われることになった。

 日本型雇用の正社員=擬似小経営的サラリーマンにとっても夫婦の協働が必要だったことは前回書いた通りだ。家庭を守ってくれる嫁が男性サラリーマンには必要だったし、自分を経済的に養ってくれる旦那が主婦には必要だった。しかし、このような擬似小経営的サラリーマンが消えていくことで、やはりここでも結婚の必要性は消えつつある。また、非正規雇用の労働者同士が結婚した場合、子供を持つことの経済的負担とリスクはあまりに大きすぎる。そもそも、彼ら彼女らにとって子供とは何が何でも必要なものではない。

 小経営の時代においては、小経営の維持と相続のため、という社会的動機が、結婚と子作りを人々に強制していたのである。結婚してはじめて一人前の大人だ、とか、結婚したからには子供を作るのが当たり前だ、とかいった強制である。
 そして、現在、小経営の時代の終焉により、そうした社会的動機を喪失した日本人社会において、結婚と子供の数は激減しつつある。

 出生率の急激な低下はわざわざここで紹介するまでもないだろう。結婚の激減についてみると、たとえば、30~34歳の男女を例にとれば、1970年代頃は、およそ10人の男性のうち1人だけが独身といった割合であった。それが2005年では、2人に1人が独身である。女性の場合も、1970年代頃は10人に1人だけが独身であったが、2005年には、3人に1人が独身である。

②消えていく地域コミュニティ

 小経営の時代において、地域コミュニティは小経営の維持のために存在した。農家にとっての村や、個人商店にとっての商店街がそれにあたる。
 コミュニティは、イベントを楽しむための仲良しサークルではない。用水路を浚渫しアーケードを補修し、そして、小経営の後継者である子供たちを通わせる学校の運営に協力しながら、小経営が存続するための経済的・文化的な地域基盤を維持していたのが地域コミュニティであった。
 しかし、小経営の衰退はそうした地域コミュニティを解体していく。集落自体が消失していく数も増加しつつある。

 小経営の時代の最後に登場した擬似小経営的サラリーマンも、擬似的な地域コミュニティを形成した。ただし、彼らの生業自体は地域コミュニティの存在を必要としないため、主として子供の育成環境の整備が擬似的コミュニティの存在意義であった。そこでは、農村に実家をもつサラリーマンたちが子供の頃に経験した農村祭礼などのノスタルジックな模倣も催されたりした。
 しかし、そうした擬似的祭礼や、子供を中心とした生活消費なども、上に書いた通り、子供の育成を目的になされていたため、同一世代で構成されたその擬似的なコミュニティから一斉に子供たちが巣立ってしまうと、たちまちコミュニティ的な様相は失われていくことになる。小学校が閉鎖され、地域の商店が次々に閉店していく、なんとか団地やなんとかニュータウンがそれである。
 あるいは、農家や個人商店などの小経営と擬似小経営的サラリーマンとの間の類似性をもとに、両者が混在するかたちの地域コミュニティ(半擬似的コミュニティ)も成立したが、言うまでもなく、小経営と擬似小経営的サラリーマンの減少によって、こうした地域コミュニティも崩壊しつつある。

 ③消えてゆく名君政治

 小経営の時代において、国民を幸福にするための政治の主たる目標は、小経営の保護・育成=牧民であった。少し前だと、外国からの安価な農産物の流入を食い止め、米価を高値に保ち、農家の保護のための補助金を注ぎ込み、あるいは、大規模小売店の進出を制限し、酒や薬その他の独占的販売体制を守ってきた。こうして小経営を保護してきたのである。
 また、上記小経営の保護政策との間でバランスを保ちながら、国内企業を育てることで、それら企業の下で働く擬似小経営的サラリーマンからの支持をも取りつけてきた。
 他方、擬似小経営的サラリーマンたちの諸要求は、労働組合を通じて、野党勢力がそれを国政の場で展開していたが、保守与党は、それらの要求を部分的に受け容れつつ、同時に先に書いたような企業育成を通じて、擬似小経営的サラリーマンに対しても一定の満足感を与える政治を遂行していた。

 しかし、今、小経営の時代が終わることによって、政治はその目標を失い、ダッチロールに陥っている。
 激減してしまった農家や個人商店などをあてにしていては選挙には勝てなくなった。小経営の没落とともに長期低落傾向にあった自民党をぶっ壊し、小経営を切り捨ててグローバリゼーションに積極的に応じようとする政治が一世を風靡した。
 例えば、これまで地域の小経営を取りまとめて自民党を支えてきた地方名士たる特定郵便局長の地位を危うくすることなど、かつての自民党にとっては絶対受け容れることのできない政策だったが、逆に、そうした政策が喝采を浴びた。その際行われた選挙では、都内の某選挙区でも、地元商店街を支持基盤としてきた自民党の有力議員がその政策に反旗を翻したが、結局、当該区域の地域社会とはなんの縁もない、落下傘で降ってきた刺客に対して、まったく太刀打ちできなかった。
 農家は選別にかけられ、大規模な耕地を確保しての企業的経営に乗り出すことで、国際競争力を高めるように求められている。
 また、雇用多様化のお題目のもと、擬似小経営的サラリーマンは解体されようとしている。そんななか、“正社員クラブ”の労働組合はますますその存在意義を低下させている。また、正社員が手にしていた終身雇用の証文は反古になりつつある。

 こうして、地域コミュニティや労働組合を通しての国民の把握が無効化していくことにより、保守与党の政治家たちは、「無党派」だとか「消費者」だとかいった、抽象的でとらえようのない姿をした国民を相手にした不慣れなパフォーマンスに追われている。
  「抵抗勢力」やら「官僚」やら、「民営化」に巣食う悪党やら、はたまた某国の独裁者やら世界恐慌やらとの格闘を、次々と脈絡なく、前後の自己矛盾も気にせずに上演しつづけることで、移り気なコロッセオの喝采を繋ぎとめようとするしかない状態だ。
 あるいは、山間部の田んぼの脇に積んだビールケースの上から、ぶっ壊される以前の自民党の牧民策(例えば、小規模農家を差別しない補助金政策だとか)を復唱することで、国民のノスタルジーをゆさぶることに成功した野党のリーダー。しかし、最近、彼は自分の領国における師匠直伝の“名君”ぶりがあだとなり、コロッセオでの人気を急落させてしまった。


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2009/03/25

明太子スパゲッティは、バターやクリームは抜きで

 今回は、明太子スパゲッティ。

 オリジナル料理、あるいは、少しでも独自の工夫を加えたレシピだけを紹介していく、というこのブログでの方針からすると、ちょっと掟破りかもしれないけど。

 私の明太子スパゲッティの特徴は、シンプルにオリーブオイルと明太子だけで作ること。で、これがよくあるレシピかと思うと、意外とそうでもない。バターかクリームを加えるレシピがなぜか大半だ。

 以前、イタリアからブオナッシージというパスタの神様みたいな研究家を日本に呼んで、有名なイタリア料理店のパスタを評論させる、という雑誌企画があった。そのとき、番外編という感じで、いわゆる和風パスタを何種類も試食させて、感想を聞くコーナーがあった。

 で、彼が結構たくさんの和風パスタを食べた中で、ただひとつ、これは美味しい、と認めたのが、たらこスパゲッティだった。ただし、そのスパゲッティにバターが加えられていたことに対して、彼も否定的だった。

 まず、たらこスパゲッティについてのブオナッシージ氏の高評価に、私も共感する。パスタに必要なのは、具よりもソースである。
 これは、ステーキ丼よりも牛丼の方が概して美味しいのと同様で、パスタ全体にうまく絡まないゴテゴテした具は無意味である。たとえば、手長エビのロングパスタも、エビの出汁が効いたソースが重要で、載せられたエビ自体は、付け足しみたいなもんだろう(食べている途中でエビの殻むきに熱中して麺をのばしてしまうくらいなら、エビは脇に置いてまずソースが絡んだパスタを食べ、その後で、残したエビの方を、セコンドピアットとしてじっくり楽しむのが正解かも)。
 話が脱線したが、要は、たらこスパゲッティというのは、麺全体にしっかりとたらこが絡むという点で、理にかなった料理である。

 バターやらクリームやらを加える意味はない、という氏の指摘にも賛成だ。商売で作るのなら、たらこの量を減らしてバターやクリームでうま味を補うのも、コスト面からすると有効かもしれない。が、たらこをたっぷり使えば、バターやクリームはいらない。魚卵の味を殺しちゃう。

 さて、今回は、たらこじゃなくて、明太子で作る。オリーブオイルを混ぜると、明太子の辛さはほとんど隠れる。で、明太子の熟成した風味が生きる。

 1.ボールかフライパンのなかに、明太子と万能ネギの小口切りを入れ、オリーブオイルを加えて混ぜる。オイルはまず少なめに入れて、全体を混ぜながら、ちょうど良いペースト状態になるまで徐々に加えていく。

 2.1で作った明太子ペーストの中に茹あがってよく湯きりしたスパゲッティを投入して混ぜる。出来上がり。

2009.7.8.付記 バターやクリーム抜きの明太子・たらこスパゲッティのレシピ・リンク
  シチリアではウニで作るようですが、そのウニの代わりに明太子を使ったレシピ。基本的には私が作るものと一緒で、オリーブオイルだけでペーストに。シチリアのウニ・スパゲッティにならって仕上げにレモンを絞るとのこと。シンプルで理にかなった料理。この沈唱瑛さんのレシピはこちら。
  有名シェフの落合務さんのレシピ(のアレンジ?)を紹介したページがこちら。オイルにはニンニク、それから麺つゆで味を足すみたいだけど・・・それらは必要なのかな?
 

 写真は、ちょっと古いもので、昨年の夏に撮ったもの。ホッピーのロックがよく合う。焼酎を割るのではなく、ホッピーだけをロックで。これはとある編集者の方に教わった飲み方.

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2009/03/22

近世の終焉としての現在 21  まとめ~その3

  17世紀前半に始まった小経営の時代。日本社会の基本は、農家や家業的経営の商工業者などの小経営から成っていた。特に、近世期、農家人口は総人口の8割を占めていて、農家と農家が構成する村とが、日本社会の基礎構造一般を構成していた。
 その農家が、日本社会におけるウエイトを急速に低下させたのは、戦後の高度成長期であった。
 それより少し遅れて、20世紀末には、家業的経営の商工業者も急速な減少傾向をみせるようになった。
 
 こうして、20世紀後半、終幕に近づきつつあった小経営の時代だが、その終幕を若干遅くさせたのは、日本型雇用のサラリーマンであった。
 こうしたサラリーマンを、私の拙い造語だが、擬似小経営的サラリーマンと呼びたい。

 サラリーマン=労働者というのは、本来、個々人で労働を行うものだが、日本型雇用のサラリーマンは、サラリーマン個人では労働の継続が難しかった(家庭をもつことを放棄すれば別の話だが)。
 こうしたサラリーマンのほとんどは男性であった。深夜残業でも、単身赴任でも、なんでもこなしながら、会社のために献身的に働いた。
 そんな労働を支えたのは、専業主婦たる妻だった。炊事・洗濯から育児、年老いた親(たいていは夫側の親)の介護、そして、子供会やらPTAやらスポーツ少年団などの世話といった“地域”活動を、もっぱら妻が引き受けた。そんな妻が賃金を得るために働くとしてもそれは内職かパート労働にほぼ限られていた。 
 このような妻による、家庭・地域における“労働”に依存して、サラリーマンたる夫の会社に対する滅私奉公が実現していた。
 つまり、日本型雇用のサラリーマン稼業は、実質、夫と妻の二人三脚による、「夫婦かけむかい」の家業として成立していたのである。

 このような献身的サラリーマンのお父さんを、企業が簡単に解雇することは許されなかった。解雇してしまっては、たちまち一家が路頭に迷うことになるわけで、それは社会的にも許されることではなかったのである。
 サラリーマン側の献身と企業側の終身雇用の約束とによって、サラリーマンの家業的経営は、長期持続的なものとなった。
 こうして、日本型雇用のサラリーマンの家業的経営は、ちょうど、農家の小経営とよく似た性質のものとなった。

 農家とサラリーマン家庭とで一番大きく異なっていたのは、相続の問題だろう。農家の場合、何が何でも後継ぎの子供を確保して、その子に田畑を引き渡すことが相続の根本である。しかるに、サラリーマンの場合、父親の会社でのポストをそのまま息子が継承することはほとんどない。
 しかし、サラリーマン家庭の場合でも、男子の子供については、父親と同等かそれ以上の学歴を積み、父親と同等かそれ以上の年収のサラリーマンになることが一般には理想とされた。女子の場合は、母親と同様、サラリーマンと結婚して専業主婦となることが理想とされた。そうして、家産や生活レベルの継承が求められたのである。

 このように、農家によく似た性格を持つ、疑似小経営的なサラリーマン。これが日本型雇用のサラリーマンであった。
 もちろん、すべての労働者がこのようなサラリーマンだったわけではない。しかし、もっぱらこうしたサラリーマンが、労働者の標準型・理念型とされてきたことが重要であろう。

 日本型雇用のサラリーマンの原型を、近世の武士に求めたり、あるいは、商家奉公人に求める考え方もある。しかし、単身で家庭を持たないのが普通だった商家奉公人と、日本型雇用のサラリーマンとはかなり性格が異なる。武士との間では類似点が多いが、実態としての連続性が乏しいのではないか。
 その大半が農家の出身であった日本のサラリーマンにおいて、「仕事」や「家庭」のあり方についてのメンタリティは、おそらく、農家のそれが継承されていたのだろう、と推測している。

 日本型雇用の制度的な成立時期をめぐっては、第一次大戦後の労働争議が活発化した時期、あるいは戦時体制期、もしくは高度成長期などにそれぞれ画期を見出そうとする諸説がある。
 おそらくは、それらの時期における労使関係や労働政策の諸動向のなかで日本型雇用は段階的に成立したのであろうが、ここでまったくの当て推量を述べさせてもらえるなら、先にも書いた通り、日本型雇用のもとで形成される擬似小経営的な労働者家庭のあり方と、小経営の農家のそれとが類似していることが、日本型雇用の社会的許容の要因となったのではないだろうか。

 まあ、日本型雇用の成立要因をめぐる問題はさておいても、結果として、日本型雇用の擬似小経営的サラリーマンの家庭と小経営の農家との間で類似性が強い、という事実が重要である。
 これにより、小経営の農家や商工業者と、擬似小経営的サラリーマンとを横断して、家族観・労働観・経済観・幸福観・倫理観などが共有されることになった。
 そうした共有をもとにして、均質的な日本社会だとか、一億総中流社会だとかいったイリュージョンが生まれたのだろう。

 本来の小経営である農家や個人経営の商工業者が退潮した分を、擬似小経営的サラリーマンが補うかたちで、小経営の時代の終幕はしばらく先延ばしされ、最後の輝きを見せたわけである。

 そして、現在。この擬似小経営的サラリーマンも減少傾向に入った。いよいよ小経営の時代の終幕である。

 


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2009/03/17

鞆の浦に行って架橋・埋立問題について考えてみました

 先週、仕事があって2泊3日で鞆の浦へ行ってきた。といっても、このブログで取り上げた架橋・埋立問題の調査に行ったわけではない。しかし、鞆の町を歩きながら、その問題についてもいろいろと思うことがあった。

 先の記事でも書いた観光地化の問題。架橋・埋立工事に反対する人々のうち、少なからぬ人々は次のように主張している。
 架橋・埋立工事の経済効果は一時的なものであって、長期的には、観光資源である景観の破壊が鞆の地域経済をダメにする。工事を中止して歴史的景観を守り鞆を観光地化することで地域経済は立て直せる。

 しかし、そうした主張に根拠はあるのか?

 久しぶり(十数年ぶり)に行った鞆では、観光客向けの土産物屋や飲食店が増えているのに驚いた。ちょうど、町では雛祭りのイベントをやっていた。旧家の多い鞆の町内のあちこちで自宅の雛飾りを一般公開していた。また、町のあちこちでは、例のちっちゃな可愛い人魚の絵も目にした。鞆の観光シーズンとしては、海水浴シーズンにつぐハイシーズンだろう。

 だが、先の記事でも書いたとおり、観光地化で地域経済を振興する、というのは、かなり困難なことのように思えた。

 団体客を乗せた大型観光バスは市外のバス会社のものであった。一方、私が乗った地元のバス会社が運行する路線バスに観光客の姿はほとんどなかった。
 土産物屋や飲食店も、日中はそれなりに賑わうものの、朝のうちや夕方以降はガラガラであった。鞆観光は日帰り客(というか短時間通過客)が大半なのだから当然のことだ。ハイシーズンでこの状況なのだから、シーズンオフの状態はおおよそ想像がつく。
 仮に、これら何十軒かの土産物屋や飲食店で雇用が発生するとしても、あまりにわずかな人数であろう。しかも、それらは、年間を通じての雇用ではなく、ハイシーズンのみの短期アルバイトになる。たいていのお店では、経営者の家族や親戚の誰かひとりふたりが忙しい時間帯にお店を手伝えばなんとかやっていけそうである。というか、それが経営的には一番だろう。

 一方、鞆の町の中で、20~30歳ぐらいの間の男性が働いている姿には、公務員系をのぞくと、ほとんど出会わなかった。2日間いて、4~5人会ったかどうか。
 そして、鞆の主要な地域産業である鉄工業はかなりの苦境のようだ。鞆の町の北の方にある鉄工団地周辺を歩いて回ることは今回できなかったが、おそらく、昨年後半から深刻化した不況はいくつかの工場に致命的なダメージを与えているだろう。

 先にも紹介したが、ネットなどで目にする工事反対派の主張のなかには、歴史的景観を活かした観光地化こそが鞆の採るべき将来の道だ、といった発言がしばしば出てくる。公共事業に依存しちゃうような旧来の地域経済振興は不健全であり、鞆の場合、観光地化にこそ、明るく正しい未来があるのだそうだ。

 要するに、国や自治体の税金などを当てにしてはダメで、鞆の人々は自力でもって観光業という「自由」な「市場」でお金を獲得しなさい、という趣旨のご指導である。

 これを聞いたら、髪の長い元首相や元大臣の大学教授などはさぞかしわが意を得たりと感激するだろう。もし本当にそのとおりでうまくいくのなら、つい最近、懺悔の本を書いちゃった経済の先生などは、喜んで再転向して逆懺悔の本なんて出しちゃうかもね。

 まあ、別に、新自由主義がぜったい悪であると言っているわけじゃない。ただ、ふだんは新自由主義やら市場原理主義やらに対して、弱者や田舎の切り捨てだとか批判している人たちが、もう片方で、上に書いたような、公共事業批判と鞆の浦の観光地化の主張をしているのだとしたら、それにはちょっと首をかしげてしまう。
 ましてや、ご自身、公共事業やなんとか助成金といった、国や自治体の税金の恩恵を被っているような人々までもが、“田舎”経済の公共事業依存を批判しているのだとしたら、そりゃもうめちゃくちゃな話だと私なんかは思ってしまうのだが。それは間違っているだろうか。

 念のため付け加えておくが、だからなにがなんでも架橋・埋立工事を実施せよ、と主張するつもりはない。だが、鞆やその周辺の地域経済に対しては、早急で大規模な経済対策がぜひ必要だと思う。それが鞆の地域経済の病気を完治させる薬ではないとしても、まずは今の痛みを緩和し延命を図る薬の処方がすぐさま行なわれるべきだと思う。

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2009/03/12

近世の終焉としての現在 20  まとめ~その2

その2.小経営の時代の終わり
 
 今、私たちの目の前で終わろうとしている時代。それは小経営の時代とでも呼ぶべき時代である。

日本社会において、小経営の時代が本格的に始まったのは、17世紀前半のことだろう。それからおよそ400年を経た今、20世紀末から21世紀初頭において、小経営の時代は終焉を迎えようとしている。

 ここでいう小経営とは、農家や個人商店などの、家族労働を中心として維持されている、家業的な経営のことである。

 近世の日本社会においては、農家人口が総人口の80%を占めていたとされている。第二次大戦の前後では、これが40~50%にまで低下するが、それは総人口自体が増加しているからであり、実際のところ、おおむね3000万人といわれる農家人口の絶対数において、近世以来ほとんど減少はない。
 しかし、その後の高度成長期において、人口比と絶対数の両方の減少が始まり、その減少速度は近年ますます加速している。2006年においては、農家人口は約790万人で、総人口に占める割合は、わずか6.2%となった。 また、農業の就業人口の60%は65歳以上の高齢者が占めていて、今後、農家の減少速度はいっそう速まることが確実視されており、2025年の農家人口の総人口比は、2.7%となることが予測されている。
 統計を確認していないが、農業で生計を立てている(あるいは生計の足しにしている)いわゆる販売農家の割合も激減しているだろう。高齢の「農民」が、大部分の耕地を手放したり(放棄したり)あるいは宅地その他に転用しながら、わずかに残した耕地でもって、自家用の農作物、あるいは都市に出た息子・娘に送るための農作物を細々と栽培している、という、名ばかり「農家」がかなりの割合に達しているのではないか。
 こうして、私たちの日本社会から、伝統的な農家の姿はその大部分が消えようとしている。

 一方、家業的経営の商工業者も急速に減少している。その中のいわゆる個人商店(小売)の数についてみると、1958年には、全国小売店舗総数、約140万店舗のうち、実に90%を個人商店が占めていた。数にすると約126万店舗となる。まさに、小経営中心の小売業であった。その24年後の1982年では、店舗総数が約172万店舗に増加し、その中で個人商店が占める割合は約73%に低下するものの、店舗の数は約125万店舗で、個人商店の数自体は維持されている。しかし、2002年になると、店舗総数は約130万店舗に減少し、その中の個人商店は約55%で、数にすると約72万店舗である。なんと、この20年間で約53万店舗、42%以上も減少している。凄まじい減少である。そして、その後も減少の速度は増大する一方である(2004年から2007年のわずか3年間で13.4%も減少)。
 こうした個人商店の激減ぶりは、身の回りの商店街の様子をちょっと思い浮かべれば容易に実感できるだろう。

 近世の日本社会における「被支配階級の構成する基本的社会集団」は「村と町」であると朝尾直弘はいう。その村を構成していたのが小経営の農家で、これが日本の人口の大部分を占めていた。町を構成していたのが小経営の商工業者であった。
 これらの小経営が基本的社会集団を構成するという社会構造は、明治維新を経てもなお、一定の変化を見せつつも、存続していった。例えば、寄生地主にしたところで、こうした小経営の農家とそれらが構成する集落の存在を前提にしてはじめて成立するものであったことは言うまでもない。
 そして、今、20世紀末から21世紀初頭にかけて、これらの小経営のほとんどが姿を消そうとしている。

 このようにして、17世紀に始まった小経営の時代は、400年後の今、終焉の時を迎えているのである。

 次回は、日本型雇用の労働者とその家庭の“小経営性”と、その衰退について。

※今回のまとめ記事の内容について、詳しくは以下の過去記事を参照のこと。
農家と農村の消滅について
  近世の終焉としての現在 4
  近世の終焉としての現在 5
個人商店や商店街の消滅について
 近世の終焉としての現在 6
小経営の時代の終わりについてのまとめ記事
 近世の終焉としての現在 7

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2009/03/09

近世の終焉としての現在 19  まとめ~その1

 昨年の春以来、「近世の終焉としての現在」というタイトルの記事を計18回連載していきた。そろそろ“おわりに”を書いて仕舞いたいが、その前に、10か月の間、とびとびで連載した記事の内容を、これから3回くらいで簡単にまとめておいてから、“おわりに”を書くことにしたい。

その1.日本史の時代区分をめぐって

 私たちが生きる現代日本社会の直接のルーツは、歴史上のどこにあるのか。この問いに対しては、明治維新期以後の近代化(欧米化・資本主義化など)の過程にルーツを求めるべきだ、と答えるのがたぶん一般的なんだろう。いわば、近世・近代(近現代)断絶論である。
 
 だけど、尾藤正英・朝尾直弘という近世史研究における二大権威の意見をもとにすれば、現代社会のルーツは近世社会の成立過程にある、という別の答えが出てくる。つまり、近世・近代(近現代)連続論である。

 とりあえず、尾藤の主張を引用しておく。「そうしますと、明治維新ではっきりと前と後に区切られるように見えながら、実際には近世と近代も連続しているのではないかという考え方が生まれてきます。少なくとも私はそう考えています。(中略)つまり古代、中世は連続していて、中世と近世の間、南北朝から戦国の時期、そこにこそはっきりした区画線があって、そのあとまた近世、近代は連続している」。(尾藤『江戸時代とはなにか』岩波書店1992)。

 明治維新と近代化の意義を相対的に軽く扱うことにもなるこうした考え方に対しては、きっと異論も多いだろう。
しかし、そもそも、このような問題に対して、唯一絶対の答えがあろうはずもない。要するに、モノの見方の問題なんだから、見る人が違えば、あるいは、見る人の立ち位置が違えば、モノの大きさやかたちはガラッと変わる。どれかひとつの見方が絶対的に優れているということはあり得ない。
 したがって、どのような時代区分を選択しようか、と考える場合、どのような時代区分がより正しいか、ではなく、現在の自分の立ち位置においては、どのような時代区分がより役に立つのか、という基準で選択することになる。

 で、今、私が立っているのは、現在の日本社会における変化の意味を考えよう、とする立場である。その場合、有効なのが、近世・近代(近現代)連続論だと思う。

 上で紹介したとおり、尾藤や朝尾は、近世と近代(近現代)は連続しているという。近世社会の成立過程に現代社会のルーツを求めることになる。

 さて、私がこれに付け加えたいのは、そのように近世から近代(近現代)へと連続してきた時代が、まさに今、私たちの目の前で終わろうとしている、ということである。

 現在の日本社会において生じている諸変化は、ざっと400年間続いてきたひとつの時代の終末現象として位置づけることでこそ、それらの変化がもつ意味がより深く理解できる。私たちは、日本社会の歴史的な大転換に立ち会っているのである。

 私たちの眼前で終焉をむかえようとしている時代。おおよそ17世紀に始まり、20世紀末から21世紀初頭に終わろうとしている時代。とりあえずこれを、小経営の時代、と呼ぶことにしたい。


※今回のまとめ記事の内容について、詳しくは以下の過去記事を参照のこと。
 近世の終焉としての現在 1
 近世の終焉としての現在 2
 近世の終焉としての現在 3

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2009/03/06

ココログの「日替わりブログ紹介」のリンクでお越しの皆様へ

 うっかり忘れていましたが、そういえば、本日6日は、ココログの「日替わりブログ紹介」で、当ブログが紹介される日でした。で、その記事をみると、江戸・東京の歴史散歩情報などが掲載されたブログとして紹介されていますね。すみません。最近、あまり歴史散歩情報の記事が無いですね。

 で、歴史散歩関係の記事をお読みになりたい方は、ページ左端の「カテゴリー」欄のなかの下から6番め、「町あるき」の項目をクリックして、「町あるき」関係記事のページへ移動し、スクロールしてみてください。一番下までスクロールした2004年から2005年前半あたりにそうした記事が比較的かたまっています。

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マルチチュード、フリーター、近世の終焉としての現在

 最近、ネグリ、ハートの本を読んでいる。何を今さら、遅れてるぅ、って笑われるかもしれないが。
 うかつにも、今までは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートという名前と、彼らが<帝国>論というものを唱えているといったぐらいのことしか知らず、その論の簡単な中身を確かめることすらしてなかった。うーむ、お恥ずかしい。

 なぜ恥ずかしいかというと、かなりのブームだった彼らの本の内容をよく知らなかったということもあるが、もっと恥ずかしかったのは、このブログでしばらく連載してきた「近世の終焉としての現在」という記事の内容と、ネグリ、ハートの主張とが、かなり重複しているからだ。きっと、このブログ記事を読んだ多くの人は、なぁんだ、これ、ネグリのパクリじゃん、と思っていたに違いない(誰か教えてくれてもよかったのになぁ)。

 たとえば、「地域」やら、「労働組合」やらが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する拠点にはなりえないだろう、という趣旨の私の主張は、実は、そのまま、ネグリ、ハートの指摘であった。

 そして、労働の問題。
 そもそもこの「近世の終焉としての現在」という記事の連載を思い立ったきっかけは、4年前にNHKで放映された「フリーター漂流」という番組をみたことにある。
 前にも話したが、番組をみた直後にとりあえずの感想を「前編」「中編」としてアップしたものの、まとめとなる「後編」が書けなくなった。もちろん私が怠慢なせいもあるが、これは軽い感想を書いて終わりにするのではなく、歴史研究者としてちゃんと正対して書くべきテーマだと感じたからでもあった。で、その「宿題」を果たすべく、やっと去年の5月から書き始めたのが、「近世の終焉としての現在」という連載記事だ。 ネグリ、ハートが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する主体として示した「マルチチュード」(排他性・限定性をもつ近代「労働者階級」じゃなく多数多様性の労働者を指す概念としての「マルチチュード」)の問題と、「フリーター漂流」をみて感じた私の問題意識とは、言うまでもなく、そのまま結びつくわけだ。

 だからといってもろ手をあげてネグリ、ハート万歳じゃないが、これまで、ちょっとばかり日本史の研究をやりながら同時に現代の東京をあちこち見て歩くことによって自分の中で勝手に狭く積み上げてきた素朴な問題の構図と、彼らの提起する問題の構図とがかなり一致しているということがとても面白かった。
 極度に不勉強なせいで、幸か不幸か、<帝国>もマルチチュードも知らないまま、主に日本社会だけを素材に私が導き出した論点が、結果として彼らの提示する論点とかなり重複していたということは、図らずも、これらの論点の大切さの検証となるように思う(ということで、ひとつ、私の怠慢と結果としてのパクリとを許してやってください)。

 で、遅まきながら、ネグリ、ハートを読んでみようかなと。私にとっては取っ付きにくい『<帝国>』を後回しにして、まずは『マルチチュード』から読むことにしよう。
 読後の感想はまた後日。

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2009/03/03

おすすめ、YUI、西原理恵子

 最近、一番よく聴いている音楽は、YUIという若い女性シンガーソングライターの歌だ。「Good-bye days」・「CHE.R.RY」といったあたりが、まあ、有名曲かな。特に中高生から20代前半くらいの世代に人気がある。というわけで、中年のオヤジの僕なんぞがYUIのファンだと言うと、言われた相手はたいていリアクションに困ってしまうらしい。でも、ほんと、なかなかYUIは良いですよ。

 さて、いきなりだけど、YUIって、漫画家の西原理恵子に似てると思う。こんなことを書くと、YUIのファンからも、西原理恵子のファンからも、双方からブーイングが来そうだが。もちろん見た目が似ているわけじゃないけど。で、僕、西原理恵子も好きです。

 西原理恵子のファンだったら僕の同世代にもたくさんいるだろう。さてさて、どっかにいないかなぁ、YUIと西原理恵子の両方が好きだっていうお仲間は。もし、このブログ読んでる数少ない読者の方で、自分も仲間だっていう人がいたら、ぜひコメントくださいな。

 西原理恵子の最新エッセイ、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社、2008.12.)が面白い。「あそこの家のお姉ちゃんはこのあいだ万引きでつかまったとか、昼間からシンナーを吸ってフラフラしていた向かいのお兄ちゃんは、案の定シンナーの吸い過ぎでこのあいだ死んだとか、そんな話は身のまわりに、売るほど転がっていた。」という思春期を経て、とある「非行」で高校を退学させられた西原理恵子は、「貧しさが何もかもをのみこんでいくような、ブラックホールみたいな世界にのみこまれないために、わたしは、絵にすがりついた。…自分は絶対に絵を描く人になって東京で食べていく。そう心に決め」て、たくましく売れっ子漫画家になっていく。

 「なぜわたしが、自分が育ってきた貧しい環境から抜け出せたのかを考えると、それは「神さま」がいたからじゃないかって思うことがある。といっても、わたしは何かの宗教を信じているわけじゃない。でも何かしら漠然とした「神さま」が、わたしの中にいる。もしかしたら「働くこと」がわたしにとっての「宗教」なのかもしれない。だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」ってことになるのかな?わたしは自分の中にある「それ」にすがって、ここまで歩いてきた。…どんなに煮詰まってつらいときでも、大好きな人に裏切られて落ち込んでるときでも、働いていれば、そのうちどうにか、出口って見えるものなんだよ。働くことが希望になる―。人は、みな、そうあってほしい。これはわたしの切なる願いでもある。覚えておいて。どんなときでも、働くこと、働きつづけることが「希望」になる、っていうことを。…人が人であることをやめないために、人は働くんだよ。働くことが、生きることなんだよ。どうか、それを忘れないで。」

 バングラデシュの貧困層の女性に対して無担保・無利子の少額融資をおこない働く機会を与えていくムハマド・ユヌスのグラミン銀行のことを紹介したりしながら、上に引用した文章で結ばれるこの西原理恵子のエッセイは美しい。

 で、そんな西原理恵子とYUIがよく似てるんだな、これが。

 西原にとっての絵が、YUIにとっては音楽だったんだろう。高校一年生だか二年生だかのころ、バイトで学費をかせいでいて過労で倒れて入院し、それをきっかけに高校を退学して音楽の道に進むことを決心したそうだ。ストリートで演奏しながら歌手をめざす。彼女が育った家庭環境などに興味のある人は、まあどっかで調べてみて。その辺の事情もちょっと西原理恵子と通じる気がする。結局、オーディションを経て、事務所はスターダスト、レコード会社はソニー(の内部レーベル)という強力なプロモーション体制でもって、映画・ドラマ・CMなどのタイアップでどんどんヒットを出していく。そうやって周囲から期待された「役」を十二分にこなしつつも、その中で自分の音楽を作り上げていこうとする姿は、たくましく、そして凛々しい。周囲の「大人」たちがこれからもっとYUIを売ってたんまり稼いでやるぞって盛り上がっているタイミングで、すぱっと一年間の活動休止を決めたのは、たぶん、彼女自身の意志によるのだろう。なかなかの快挙。そして、活動休止といっても、この間、スタジオにミュージシャンを集めては曲作りをやってるらしく、活動再開が楽しみ。

 というわけで、西原のエッセイ、YUIのアルバムから、元気もらってがんばろうっていう最近の日々です。

2009.3.26.付記 YUI活動再開みたい。4月からのアニメ「鋼の錬金術師」の主題歌で、CD発売は6月3日からとのこと。楽しみ。

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2009/03/01

おすすめ菜の花スパゲッティ

 前回に引き続いてパスタレシピです。

 この季節定番の菜の花スパゲッティを作りました。単純にアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノに菜の花を加えるだけで美味しいのですが、というか、菜の花の風味を味わうのにはそれが一番ですが、なにか加えるとしたら、なにが良いでしょうか。

 昔の記事では、有名なアルポルトの片岡シェフの本に書かれていた意見を紹介しました。菜の花には、なにかタンパク質を合わせるのが良いと。で、生ハムや鯛、あさり、からすみなどが挙げられていました。からすみ以外はひととおり試してみました。たしかに美味しかったです。あと、前回の記事のホタルイカとキャベツのスパゲッティのキャベツを菜の花に代えても美味しい。

 で、今回、試してみたのは、乾燥トマトです。色の取り合わせといい、味の取り合わせといい、美味しそうでしょ。我ながらグッドアイディア。といっても、どうせすでに誰かが作ってるに違いないけど。

 ①菜の花を洗って、固い軸の方と、柔らかい先っぽの方を分けておく。

 ②フライパンににんにく(みじん切りorたたいて軽くつぶしたもの)と唐辛子とオリーブオイルを入れてゆっくり加熱する。

 ③鍋でお湯を沸騰させ、塩を入れ、菜の花の軸の固い部分を入れる。再沸騰したら麺を入れる。

 ④フライパンに、お湯で戻した乾燥トマトの細切りを入れて、さらに鍋の茹で汁適量を入れて混ぜる。味をみて、不足なら塩を足す。

 ⑤麺が茹であがる前に、菜の花の柔らかい部分を鍋に入れる。タイミングはお好みで。個人的には、しっかり茹でてクタってする方が好きです。

 ⑥鍋の中で茹であがった麺と菜の花をザルにあけてよく湯切りし、フライパンに移して混ぜて仕上げる。

 乾燥トマトと菜の花、なかなか良い組み合わせでした。ついつい、スーパーで売ってた鯛の刺身を一緒に入れたくなるけど、まあ、あんまりゴタゴタしない方が良いかも。Photo

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