近世の終焉としての現在 22 まとめ~その4
これまで述べたように、400年続いた小経営の時代は、今、我々の目の前で終わろうとしている。では、小経営の衰退は、日本の社会全体にどのような影響を及ぼしているのだろうか。
小経営が消えることにともなって我々の社会から消えているものは何か考えてみよう。
①消えていく子供と結婚
小経営が消えることによって必要がなくなるもの。それは、まず子供である。小経営の農家や個人商店にとって、後継ぎとなる子供は絶対必要だった。子供がいなければ、せっかく丹精こめて耕してきた田畑はよその家の物になってしまう。だから、もし実子に恵まれなければ、どこかで子供を貰ってきてでも、後継者たる子供を確保する必要があった。しかし、小経営が消えることで、家の相続の重要性は消え、子供は不必要なものとなった。
こうして子供が不必要になると、次に不必要となるのは、結婚である。さらには、家族労働を中核とする小経営の解体によって、小経営の維持に必要だった夫婦の協働も不要となり、結婚の必要性はますます失われることになった。
日本型雇用の正社員=擬似小経営的サラリーマンにとっても夫婦の協働が必要だったことは前回書いた通りだ。家庭を守ってくれる嫁が男性サラリーマンには必要だったし、自分を経済的に養ってくれる旦那が主婦には必要だった。しかし、このような擬似小経営的サラリーマンが消えていくことで、やはりここでも結婚の必要性は消えつつある。また、非正規雇用の労働者同士が結婚した場合、子供を持つことの経済的負担とリスクはあまりに大きすぎる。そもそも、彼ら彼女らにとって子供とは何が何でも必要なものではない。
小経営の時代においては、小経営の維持と相続のため、という社会的動機が、結婚と子作りを人々に強制していたのである。結婚してはじめて一人前の大人だ、とか、結婚したからには子供を作るのが当たり前だ、とかいった強制である。
そして、現在、小経営の時代の終焉により、そうした社会的動機を喪失した日本人社会において、結婚と子供の数は激減しつつある。
出生率の急激な低下はわざわざここで紹介するまでもないだろう。結婚の激減についてみると、たとえば、30~34歳の男女を例にとれば、1970年代頃は、およそ10人の男性のうち1人だけが独身といった割合であった。それが2005年では、2人に1人が独身である。女性の場合も、1970年代頃は10人に1人だけが独身であったが、2005年には、3人に1人が独身である。
②消えていく地域コミュニティ
小経営の時代において、地域コミュニティは小経営の維持のために存在した。農家にとっての村や、個人商店にとっての商店街がそれにあたる。
コミュニティは、イベントを楽しむための仲良しサークルではない。用水路を浚渫しアーケードを補修し、そして、小経営の後継者である子供たちを通わせる学校の運営に協力しながら、小経営が存続するための経済的・文化的な地域基盤を維持していたのが地域コミュニティであった。
しかし、小経営の衰退はそうした地域コミュニティを解体していく。集落自体が消失していく数も増加しつつある。
小経営の時代の最後に登場した擬似小経営的サラリーマンも、擬似的な地域コミュニティを形成した。ただし、彼らの生業自体は地域コミュニティの存在を必要としないため、主として子供の育成環境の整備が擬似的コミュニティの存在意義であった。そこでは、農村に実家をもつサラリーマンたちが子供の頃に経験した農村祭礼などのノスタルジックな模倣も催されたりした。
しかし、そうした擬似的祭礼や、子供を中心とした生活消費なども、上に書いた通り、子供の育成を目的になされていたため、同一世代で構成されたその擬似的なコミュニティから一斉に子供たちが巣立ってしまうと、たちまちコミュニティ的な様相は失われていくことになる。小学校が閉鎖され、地域の商店が次々に閉店していく、なんとか団地やなんとかニュータウンがそれである。
あるいは、農家や個人商店などの小経営と擬似小経営的サラリーマンとの間の類似性をもとに、両者が混在するかたちの地域コミュニティ(半擬似的コミュニティ)も成立したが、言うまでもなく、小経営と擬似小経営的サラリーマンの減少によって、こうした地域コミュニティも崩壊しつつある。
③消えてゆく名君政治
小経営の時代において、国民を幸福にするための政治の主たる目標は、小経営の保護・育成=牧民であった。少し前だと、外国からの安価な農産物の流入を食い止め、米価を高値に保ち、農家の保護のための補助金を注ぎ込み、あるいは、大規模小売店の進出を制限し、酒や薬その他の独占的販売体制を守ってきた。こうして小経営を保護してきたのである。
また、上記小経営の保護政策との間でバランスを保ちながら、国内企業を育てることで、それら企業の下で働く擬似小経営的サラリーマンからの支持をも取りつけてきた。
他方、擬似小経営的サラリーマンたちの諸要求は、労働組合を通じて、野党勢力がそれを国政の場で展開していたが、保守与党は、それらの要求を部分的に受け容れつつ、同時に先に書いたような企業育成を通じて、擬似小経営的サラリーマンに対しても一定の満足感を与える政治を遂行していた。
しかし、今、小経営の時代が終わることによって、政治はその目標を失い、ダッチロールに陥っている。
激減してしまった農家や個人商店などをあてにしていては選挙には勝てなくなった。小経営の没落とともに長期低落傾向にあった自民党をぶっ壊し、小経営を切り捨ててグローバリゼーションに積極的に応じようとする政治が一世を風靡した。
例えば、これまで地域の小経営を取りまとめて自民党を支えてきた地方名士たる特定郵便局長の地位を危うくすることなど、かつての自民党にとっては絶対受け容れることのできない政策だったが、逆に、そうした政策が喝采を浴びた。その際行われた選挙では、都内の某選挙区でも、地元商店街を支持基盤としてきた自民党の有力議員がその政策に反旗を翻したが、結局、当該区域の地域社会とはなんの縁もない、落下傘で降ってきた刺客に対して、まったく太刀打ちできなかった。
農家は選別にかけられ、大規模な耕地を確保しての企業的経営に乗り出すことで、国際競争力を高めるように求められている。
また、雇用多様化のお題目のもと、擬似小経営的サラリーマンは解体されようとしている。そんななか、“正社員クラブ”の労働組合はますますその存在意義を低下させている。また、正社員が手にしていた終身雇用の証文は反古になりつつある。
こうして、地域コミュニティや労働組合を通しての国民の把握が無効化していくことにより、保守与党の政治家たちは、「無党派」だとか「消費者」だとかいった、抽象的でとらえようのない姿をした国民を相手にした不慣れなパフォーマンスに追われている。
「抵抗勢力」やら「官僚」やら、「民営化」に巣食う悪党やら、はたまた某国の独裁者やら世界恐慌やらとの格闘を、次々と脈絡なく、前後の自己矛盾も気にせずに上演しつづけることで、移り気なコロッセオの喝采を繋ぎとめようとするしかない状態だ。
あるいは、山間部の田んぼの脇に積んだビールケースの上から、ぶっ壊される以前の自民党の牧民策(例えば、小規模農家を差別しない補助金政策だとか)を復唱することで、国民のノスタルジーをゆさぶることに成功した野党のリーダー。しかし、最近、彼は自分の領国における師匠直伝の“名君”ぶりがあだとなり、コロッセオでの人気を急落させてしまった。
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