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2009/03/09

近世の終焉としての現在 19  まとめ~その1

 昨年の春以来、「近世の終焉としての現在」というタイトルの記事を計18回連載していきた。そろそろ“おわりに”を書いて仕舞いたいが、その前に、10か月の間、とびとびで連載した記事の内容を、これから3回くらいで簡単にまとめておいてから、“おわりに”を書くことにしたい。

その1.日本史の時代区分をめぐって

 私たちが生きる現代日本社会の直接のルーツは、歴史上のどこにあるのか。この問いに対しては、明治維新期以後の近代化(欧米化・資本主義化など)の過程にルーツを求めるべきだ、と答えるのがたぶん一般的なんだろう。いわば、近世・近代(近現代)断絶論である。
 
 だけど、尾藤正英・朝尾直弘という近世史研究における二大権威の意見をもとにすれば、現代社会のルーツは近世社会の成立過程にある、という別の答えが出てくる。つまり、近世・近代(近現代)連続論である。

 とりあえず、尾藤の主張を引用しておく。「そうしますと、明治維新ではっきりと前と後に区切られるように見えながら、実際には近世と近代も連続しているのではないかという考え方が生まれてきます。少なくとも私はそう考えています。(中略)つまり古代、中世は連続していて、中世と近世の間、南北朝から戦国の時期、そこにこそはっきりした区画線があって、そのあとまた近世、近代は連続している」。(尾藤『江戸時代とはなにか』岩波書店1992)。

 明治維新と近代化の意義を相対的に軽く扱うことにもなるこうした考え方に対しては、きっと異論も多いだろう。
しかし、そもそも、このような問題に対して、唯一絶対の答えがあろうはずもない。要するに、モノの見方の問題なんだから、見る人が違えば、あるいは、見る人の立ち位置が違えば、モノの大きさやかたちはガラッと変わる。どれかひとつの見方が絶対的に優れているということはあり得ない。
 したがって、どのような時代区分を選択しようか、と考える場合、どのような時代区分がより正しいか、ではなく、現在の自分の立ち位置においては、どのような時代区分がより役に立つのか、という基準で選択することになる。

 で、今、私が立っているのは、現在の日本社会における変化の意味を考えよう、とする立場である。その場合、有効なのが、近世・近代(近現代)連続論だと思う。

 上で紹介したとおり、尾藤や朝尾は、近世と近代(近現代)は連続しているという。近世社会の成立過程に現代社会のルーツを求めることになる。

 さて、私がこれに付け加えたいのは、そのように近世から近代(近現代)へと連続してきた時代が、まさに今、私たちの目の前で終わろうとしている、ということである。

 現在の日本社会において生じている諸変化は、ざっと400年間続いてきたひとつの時代の終末現象として位置づけることでこそ、それらの変化がもつ意味がより深く理解できる。私たちは、日本社会の歴史的な大転換に立ち会っているのである。

 私たちの眼前で終焉をむかえようとしている時代。おおよそ17世紀に始まり、20世紀末から21世紀初頭に終わろうとしている時代。とりあえずこれを、小経営の時代、と呼ぶことにしたい。


※今回のまとめ記事の内容について、詳しくは以下の過去記事を参照のこと。
 近世の終焉としての現在 1
 近世の終焉としての現在 2
 近世の終焉としての現在 3

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