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2009/04/27

巡見「江戸を縦貫する」の報告と次回の日程

 おととい25日に巡見をやりましたが、強い雨のため、江戸城本丸まで歩いたところで中断。コース後半に予定していた丸の内・日本橋はまた次回。
 というわけで、次回は例年より少し早めの日程で、来月、5月30日土曜の午後を予定しています。今回行けなかった丸の内と日本橋界隈を歩きましょう。最近話題になった中央郵便局も見に行きましょうか。それから、丸の内のビジネス街を少し見て回って、日本銀行・三井タワー・本町通り・江戸橋広小路・日本橋魚河岸・日本橋くらいかな。

 以下、25日の巡見の模様を簡単に。

 去る25日は、豪雨の中、巡見を決行しました。途中から合流した方も含めて、だいたい20人弱で歩きました。実際ひどい雨で、数人のこじんまりとした巡見になりそうだなぁと思ってましたから、予想外にたくさんの人が来てくださってうれしかったです。皆さん、足元はびしょ濡れだったと思います。お疲れ様でした。

 集合は地下鉄半蔵門駅。階段をのぼって地上へ出ると、強い雨脚と寒い風。まずは、半蔵門へ。門の内側の吹上地区のことやら、もともと江戸城の正面は、現・大手門側ではなく、こちらの甲州街道方向だったとする、江戸博の斉藤慎一氏の説などを紹介する。
 それから、堀にそった坂道を桜田方向へ下りながら、国立劇場・最高裁判所などを横目で見て、彦根藩井伊家の上屋敷跡へ。現在、屋敷跡には憲政記念館などが建っているが、戦前はここに参謀本部があった。すぐ脇に三宅坂という坂があるが、戦前「三宅坂」といえば参謀本部を指し、戦後しばらくたつと、今度はここに本部を構えた社会党のことを指したそうだ。また、最高裁のことも「三宅坂」と称するらしい。

 井伊家上屋敷跡を過ぎると警視庁。井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された現場はこのあたりだろうか、などと確かめながら桜田門へ。桜田門の次は、二重橋前。中国人の団体旅行者が多く、皆、めいめいのカメラで記念撮影をしている。めがね橋の外には丸の内警察署の警察官。橋の内側には皇宮警察の警察官。見比べてみたりする。ここから坂下門外を経て、大名小路を通り、大手門へ。

 大手門から入ると、各自一枚ずつの入園証。退園をしようとしていた修学旅行とおぼしき男子中学生一行のひとりがもらった入園証を無くしたらしく難儀している。休憩所で一休み。雨が強い。絵葉書や工芸品などの皇室グッズが販売されている。しばらく休んでいると、ロシア人とおぼしき団体旅行客で一杯に。

 休憩所を出て下乗門跡へ。登城した大名はここで駕籠から出て自分の足で歩き始めたわけだろうが、なんとなく、このあたりの石垣は、特に気合を入れて立派に積まれているように見える。殿様たちは、きっと、頭の中で自分の城の石垣と比べてみたに違いない。

 本丸御殿跡に着き、芝生の上を歩きながら、大広間や白書院、黒書院などの位置を確かめていく。老中の出勤ルートなども。それから中奥を通り、大奥へ。将軍の寝室と正室の寝室との近さに、あらためて感慨。

 天守台にのぼる。ますます雨強し。というわけで、ここで巡見は切り上げ。地下鉄の竹橋駅へ。最後に竹橋事件のことを少し話して解散。

 その後は、常連の方々や懐かしの方と共に新宿へ移動し、3軒ほどはしご。アイリッシュパブ→新潟地酒の居酒屋(美味しかった!)→ヴェネツィア風居酒屋。今年度は、池袋北口のチャイナタウンへも行きたいなぁと構想を練る。

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2009/04/20

巡見「江戸を縦貫する」のご案内・続報

 前の記事でご案内しましたとおり、今年度最初の巡見を、今週末の25日土曜午後に実施します。私が出講する各大学では今週の授業の際に、集合方法などをお知らせします。
 各大学での私の授業の受講生・元受講生を対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをご覧になった一般の方も歓迎します。一般の方の場合は、ご面倒ですが、このブログのプロフィール頁にあるアドレス宛に、氏名・住所を明記したメールを、前日夜までに送ってください。こちらからのご返信にて、集合方法などをご連絡いたします。元受講生の方は、氏名を明記したメールを送ってください。

 日時:4月25日(土) 13:30~
 行程:半蔵門→井伊家屋敷→桜田門→二重橋
     →江戸城本丸(東御苑)→丸の内ビジネス街
     →日本銀行→三井タワー→魚河岸→日本橋

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2009/04/13

2009年度第1回目・巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 本年度も、巡見「江戸を縦貫する」を始めます。今のところ、4月25日の土曜午後の予定です。

 江戸城本丸をスタートして、丸の内ビジネス街→日本橋金融街→神田浅草橋問屋街→山谷ドヤ街→吉原売春街までを、3回に分けて歩き通すこの巡見コースは、都市・江戸の一方の端からもう一方の端までを縦貫すると同時に、現代都市・東京の端から端までを縦貫するコースです。年度末には、番外編として、都内各所の都市再開発地域(六本木ヒルズだとか品川インターシティとか)を歩く予定です。また、外国人街としての歌舞伎町や新大久保へも、巡見各回の終了後の恒例“オプショナルツアー”としてちょくちょく足を向けるつもりです。
 こうした巡見の趣旨についてはぜひこちらの記事もご覧ください。

 基本的には、私が出講する各大学の受講生・元受講生の皆さんを対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方もどうぞ遠慮なくいらっしゃってください。

 さて、第1回目は、4月25日(土)の午後を予定しています。コースは、皇居二重橋前・江戸城本丸跡(東御苑)・丸の内ビジネス街・日本橋・三井旧本館と三井タワー・日本銀行などをめぐるコースです。
 詳しい案内は、近日中にこのブログに書きます。また、各大学の講義の際に、チラシなどを配布します。皆さん、ふるってお出ましくださいませ。

 

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2009/04/07

川上村の中国人「研修生」と農業経営はどうなっていくの?

 昨日の自分の記事を読みながら、ちょっと反省というか、再考。

 多数の中国人「研修生」を受け入れて、レタスや白菜を生産する長野県の川上村の事例をちょっとあげた。しかし、「小経営の時代の終焉」という連載のテーマからすると、これは矛盾してるなぁと。
 要するに、現状としての川上村は、外国人の「労働力」に依存することで小経営の維持に成功している事例ということになる。

 川上村の場合は、村内約600戸の農家のうちの3分の1強の農家が組合を作り、その組合が「研修生」の受け入れ事業をおこなっているそうだ。いわゆる集落営農的な傾向を強めつつある地域だと思う。「平均年収2500万円の農村」が村長のキャッチフレーズみたいだ。
 一方、そんな川上村で農作業に従事する中国人「研修生」の「時給」は、長野県の最低賃金669円を大きく下回る530円程度。まあ、農家の人たちも、たくさん儲かっている分、「研修生」にはもっと多くのお金を渡したいだろうが(?)、それができないのは、彼ら彼女らがあくまで「研修生」であって「労働者」ではないという制度の壁のせいもあるのかな。また、こうした「研修生」のなかには、このまま日本にとどまって働き続けることを希望する人も少なくないようだ。

 ともあれ、この先の川上村が、「農家」という小経営の単位を維持しつつ集落営農の方向へ進んでいくのか、あるいは、その途中で、法人経営の大農場へと移行していくのか、今後、興味深く追っかけていくことにしたい。
 あるいは、川上村以外の日本各地の農業における外国人「研修生」、あるいは外国人労働者の雇用(「研修」)形態はどのようなものなのだろう。最近は自動車関連工場から追い出された日系ブラジル人の人々を雇い入れた農業法人のニュースなども目にする。

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2009/04/06

近世の終焉としての現在 23 連載のおしまいに

 400年も続いた小経営の時代が終わることで、次はいったいどのような時代がやってくるのだろうか。もちろん、そんなことは誰にも分からない。まあ、誰にも分からないのをいいことにして、勝手な想像を書くことにしよう。

 現在、日本列島において「日本人」の数は減少傾向にある。遠い昔のことは知らないが、少なくとも17世紀以降でみれば初めての事態だろう。
 今回の連載記事では、農家や個人経営の商工業者といった小経営や擬似小経営的サラリーマンの衰退によって、結婚や子づくりが不必要化したことが人口減の最大の原因ではないかと書いた。ちゃんとした根拠は無いが、たぶんこれは当たっているだろう。

 さて、素人考えだと、「日本人」の減少によって、日本社会は移民社会へと変化していくことになると思う。ごくごく大雑把にいって、日本経済が人口減に合わせてどんどんダウンサイズしないかぎり、「日本人」の減少は移民の増加を必然化する。
 いやいや、産業の合理化やら、はてはロボット技術の進化(?)やらで、「日本人」労働力の減少はただちに移民増加には結びつかない、ということを主張する人もいる。政治的・文化的な障害もあるだろう。
 しかし、事実として、外国人労働者は増加し続けている。工場労働者や都市部のサービス産業の労働者以外にも、農業や老人介護の分野でも外国人労働者は欠かせない存在となりつつある。

 もし、現在の国策どおり、小経営の農家に代わって大規模経営の「農家」・「農園」が農業の担い手として増えるならば、農業における雇用労働力の需要も増加する。しかも、低賃金で季節的な期間限定の非正規雇用の労働力がもっぱら必要となるわけだ。
 日本一のレタス生産を誇る信州南佐久の川上村では、農家戸数約600戸に対して約600人の中国人「研修生」を受け入れていることが昨年の朝日新聞に掲載されていた。彼ら彼女らは、時給530円程度で年間7ヶ月ほど、レタスづくりと白菜づくりのかなりハードな「研修」をしていくそうだ。私たちが食べる“安心安全”の国産朝どりレタスやら北関東の朝づみイチゴやらには、中国などからやってくる彼ら彼女らの労働が不可欠らしい(※脚注参照)。こうした事例がどこまで日本農業全体に一般化できるのかは知らないが、もしかりに私が、無農薬・有機栽培が売り物の「小林農園」の経営者になったら、いかにして安い季節労働者を確保するかが、経営上の最大の懸案となるだろう。国内外のライバルに負けないために。
 また、小経営の崩壊は老人介護の構造を変えた。かつて、相続される小経営や擬似小経営の内部においては跡継ぎ夫婦が年老いた親たちを介護した。これが小経営の時代の老人介護であった。しかし、小経営・擬似小経営が無くなれば、老人の介護を担う「家」も無くなる。これにより、老人介護の分野でも雇用労働者は不可欠の存在となった。この分野も、今後、外国人労働者への依存が急速に強まることはほぼ確実であろう。

 2000年から2050年までの間で、日本の生産年齢人口(15~64歳)を現状で維持する場合には、延べで3千万人以上の移民が必要であるという国連の推計がある。たぶんかなりざっくりとした推計だろうし、実際に3千万人もの移民を日本社会が受け入れられるとは思えないが・・・さあ、どうだろう。
 かつて、自民党の一部の人が、人口の10%にあたる1000万人の移民受け入れ計画を発表した際、たちまち世間から大きな非難がよせられた。
 しかるに、2006年の数字だと、外国人労働者の数は合法的就労者が75万人で、これに不法就労者を加えて、およそ92万人とされている。おそらく今頃は100万人前後に達しているだろう。
 この先、少なくとも数十年間、「日本人」の生産年齢人口の超・激減はもはや確定した事態だし、もし日本経済が今より回復すれば、外国人労働者はたちまち数百万人規模へ増加するように思える。
 こうした事態は、日本社会の歴史において、まったく新しい時代がやってきたことを意味しているだろう。

 さて、小経営の時代が終わって、次に来る時代とは何か。それは、たぶん、資本と労働者の時代ではないだろうか。
 資本と労働者、それは、商工業・サービス業のみならず、第一次産業のうちのかなりの割合までをも包摂していく。ただし、そこにいる労働者の内実は、かつてイメージされていた均質的な近代労働者集団ではない。そのエスニシティーにおいて、そのジェンダーにおいて、働き方において、まったく相異なる多種多様な人々から成っている。そんな人々をくくる唯一の共通項が、労働者であること、だろう。あるいは、マルチチュード、という呼び名もすでに出されている。

 小経営の時代のあとは、資本と労働者の時代。こんなことを書いたりすると、年配の人たちからも、また、若い人たちからも、何を今さら、と鼻で笑われるような気もするが・・・。だけど、これから、本格的な資本と労働者の時代が始まるんだと思ってる。

 
 ※本文を読み返してみると、この川上村の事例は、ちょっと矛盾してますね。外国人「研修生」の「労働」に頼りながら、当面は小経営の維持が図られている事例であって、連載のテーマ「小経営の時代の終焉」とは逆の事態かも。ちょっと補足記事を書いてみました。こちらをご覧くださいな。

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