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2010/10/04

書評:濱口桂一郎『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』

 付記:濱口圭一郎さんのブログからのリンクでいらっしゃった方へ
 
 軽い感じでアップした「書評」でしたが、思いがけず著者の濱口さんのブログで取り上げていただきました。とりあえずは、この頁の元の記事をお読みいただければよいのですが・・・

 このブログ、構成がぐちゃぐちゃで、せっかくいらっしゃた方にはさぞ不愉快な思いをさせてしまっているのではないか、とあわてています。

 濱口さんにも少し触れていただいた、拙ブログの「近世の終焉としての現在」という連載記事の方までもしもご覧になりたい方は、ご面倒ですが、この頁の左端にある「カテゴリー」欄の項目の中の下から五番目、「研究」の項目をクリックしていただいて、飛んだ先のページ末尾にある、カテゴリー記事一覧の記事タイトルからリンクで各記事へ飛んでいってお読みいただくのが楽かもしれません。

 もっとてっとりばやいのは、「近世の終焉」問題について最近書いたごくごく短いこちらの記事「無縁社会が拡大する原因としての“近世”の終焉」をご覧くださいませ。

 ふだん、あまり多くの方にはお読みいただくことを想定していない、資料と研究書とマンガと料理本が混然と積み重なる私の仕事机みたいなブログなので、必要記事をお探しになる場合、さぞご不快なご面倒をおかけすると思いますが、どうかご寛恕を。


 (以下が、元の書評記事です)


 パートのお仕事

 恐縮ながら、まずは私の近況報告から。

 各大学での後期授業がほぼひととおり開始。今年度の後期は、ぜんぶで6つの大学にて、1週間あたり10コマの授業を担当。それ以外にも、東京都公文書館で週2日の準フルタイム勤務。相変わらずぎゅうぎゅう詰めのスケジュールだけど、まあ、こんなふうに仕事があることには感謝せねば。

 大学のようす

 新学期、授業が始まって久しぶりに学生さんたちと会ってみて感じるのは、やはり、昨年来の就職活動の厳しさ。あちこちのキャンパスでリクルートスーツを身にまとった学生の姿が以前よりも目立つように思う。昔は、就職活動など4年生になってするものだったが、今や、3年生から本格的な活動が始まっている。
 大学院への進学を検討している学生さんにもよく出会う。この現象は、もちろん、学生の間で向学心が増しているからではなく、就職活動の成果が芳しくない状況下、ともかく来年以降の身分を確保するための方策として、大学院進学を選ぶ学生さんが発生しているからだ。

 昨年度の大学卒業生の20パーセント近くが、正規雇用の就職や進学をしなかったという。そんな人たちの多くが、非正規雇用の労働者となるのだろう。

 就活のあと

 一方、しばしば接するのは、無事就職した元学生さんたちが職場で悩んでいる話である。まあ、新社会人だから悩むのは当たり前かもしれないが、いろいろ話をきくと、客観的にみても、それぞれの職場での働かされ方に問題があるのではと思えるケースも多い。いわゆる「ブラック企業」というやつだ。「ブラック企業」と呼ばれるもののなかには、得体の知れない怪しげな会社だけでなく、いわゆる有名企業も相当数含まれている。そこでは、「正社員」の肩書きと引き換えに、法規制すれすれの(あるいは明らかに違法な)労働条件下で働くことを強いられている人がたくさんいる。

 小経営の時代のおわりに

 以前、このブログの連載記事「近世の終焉としての現在」で次のような主張を書いた。グローバル化の進む現在の日本社会においては、17世紀以来続いてきた「小経営の時代」が本格的に終焉を迎えていると。「小経営の時代」の終焉に際しては、農家や個人経営の商工業者などの小経営の多くが消失していく。それと歩を同じくして、それら小経営の家とよく似た構造の、日本型雇用のサラリーマン=擬似小経営的サラリーマンの家も解体していく。

 このようにして終焉を迎えた小経営の時代の次に、いよいよ本格的・全面的に成立しつつあるのが、資本と労働者の時代ではないだろうか、という見通しを書いた。

 第二次産業・第三次産業はもとより、将来的には第一次産業の分野でも、例えば大規模農場や“野菜工場”などの場で、雇用労働の比重が高まっていくと思う。

 こうして広汎に成立する労働者の世界は、かつての日本型雇用の正社員を標準型(あるいは理念型)とする世界ではなくて、名ばかり正社員やら、法規制の穴をみつけては様々な亜種に分化する非正規雇用の労働者やらを含む、多種多様な雇用形態からなっていて、さらには、国籍やらエスニシティーやらジェンダーやらによる分化がそれに重なる。いわゆるマルチチュードの世界である。

 だが、生成しつつある新しい労働者の世界に対して遅まきながら向き合おうとし始めた現在のマスメディアやアカデミズム、それから政治や行政を主導する人々の大半は、依然古い労働者の世界に属する人々である。そのせいか、この新しい世界についての議論や政策は、例えば派遣労働禁止法案みたいに、相当現実離れしたものが多い。経営者たちはもちろんのこと、当の派遣労働者のほとんどもこんな法律を望んだりしてはいないだろう。

 濱口さんのご著書の紹介

 このような現状について、「労働問題を冷静に議論する土俵がなかなか構築されず、ややもするとセンセーショナリズムに走る」か、「法解釈学や理論経済学など特定の学問的ディシプリンに過度にとらわれ」て「議論としては美しいが現実には適合しない処方箋を量産するだけに終わりがち」だと指摘し、「労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の観点と歴史的パースペクティブであると考え」た上で、「日本の労働社会全体をうまく機能させるためには、どこをどのように変えていくべきか」、「現実的で漸進的な改革の方向を示そうとした」のが、今回の記事のタイトルにあげた濱口桂一郎さんの『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』という本である。

 まずは、この本のタイトルに出てくる「労働社会」というタームが、すごく魅力的だ。そして、終章にあたる第四章では、この「労働社会」を基盤とした「民主主義の再構築」の必要性が訴えられている。これは重要な主張。
 小経営の時代の終焉は、小経営の存立基盤として形成されていた地域社会の存在意義を低下させた。これにより、地域社会を基本的な枠組みとするこれまでの民主主義のシステムもその有効性を低下させている(もちろん全面的にこれが無効となってしまうわけではない…念のため)。ここで要請されているのが、新「労働社会」に基盤をおく民主主義のシステムの再構築なのだろう。正社員クラブである既存の労働組合のみを中心した旧「労働社会」のシステムじゃなくてね。

 濱口さんのブログの紹介

 「正規労働者であることが要件の、現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した、その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。」という宣伝文句を本書表紙カバーに載せたのは岩波書店の編集者だと想像できるが、その編集者が著者・濱口圭一郎さんに執筆を依頼したきっかけは、濱口さんが書かれているブログの記事だという。
 実は私もそのブログの愛読者であることを白状しておく。抑制の効いた本書の文章とはかなり味わいのことなる、なかなか刺激的な内容の記事もある。その記事をめぐってしばしば巻き起こる論争はいろんな意味で興味深いし、それにより、濱口さんの主張をある程度は相対的にとらえた上で評価することもできる。
 濱口さんのブログ、ぜひ読みにいってください。

 以上、「書評」とは名ばかりで、自分のブログの過去記事を読み返したりしただけの竜頭蛇尾の記事でしたが・・・

 ともあれ、最近読んだ面白くも大事な本の「紹介」でした。

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