再考・たけくらべ論争~小谷野敦『現代文学論争』を読んで
文学論争は面白い
遅まきながら、昨年秋に出された小谷野敦『現代文学論争』(筑摩書房、2010.10.)を買って読んでみた。文学論争や文学研究について素養のない私にとっては、初めて知ることが多くて本当に面白かった。この本で紹介された論争にふれることで、「文学」の問題の範囲にとどまらず、自分のふだんの生活における“良識”やら“正義”やらがゆらいできて楽しい。それが文学本来の力なのだろうし、論争の意義なんだろう。また、そうした揺さぶりをかけるのが小谷野さんのキャラクターなのかも。
「たけくらべ」論争
それはそうと、当ブログとの関係では、第九章の「たけくらべ」論争の部分が興味深い。まずは、たけくらべ論争について僕の知らないたくさんの人のいろんな説が紹介されていてすごく勉強になった。その結果、このブログの過去記事のうち、特に論争の基本的構図や経緯について書いた部分に若干修正の必要も感じる。例えば、初潮説を学界の定説として誤って紹介したくだりなどだ。しかし、とりあえずそれは「小谷野さんの本を買って読んでください」ということで勘弁してもらおう。
「たけくらべ」論争とは、樋口一葉の有名な小説『たけくらべ』の主人公である美登利という活発な女の子が、物語の終盤、ある日を境に急に元気を無くしてしまったことの原因はなにか、という論争である。
初潮を迎えたからという説や、吉原遊郭の娼妓としてデビューしたからという初店説、あるいは、娼妓に義務付けられた身体検査を初めて受けたからだという検査場説などなど、諸説が唱えられている。
論争が大きくなったのは、小説家の佐多稲子さんが初店説を唱え初潮説を批判したことに対して、初潮説をとっていた文学者の前田愛さんが反論したことがきっかけであった。
なお、佐多さんの主張について留意すべきは、初店といっても正式な娼妓としての初店ではなくて、店の奥で秘密裡におこなわれた違法な“初店”を佐多さんは主張しているという点である。佐多さんの初店説を支持する人のなかには、美登利が公然と娼妓デビューを果たしたものと考えている人も少なくないようだが、それは佐多さんの主張ではない点に留意すべきである。
さて、この小谷野さんの本を読んだ後、自分の思いは少し佐多説に接近した気がする。最初は、佐多説もいちおう成立可能だけどやっぱり初潮説の方がしっくりくるかなぁ、と思っていて、このブログにも昔そう書いた。その後、次第に佐多説に魅かれつつも、どうしてもそうした“読み”はアクロバティック過ぎるように思い続けてきた。小説が書かれた当時の一般的な読者のリテラシーからして、秘密裡の初店という筋はなかなか思いつかないのではないかと感じていたからである。今回、小谷野さんの本を読んで自分が以前よりも佐多説に傾いたのは、この本で紹介された初潮説提唱者の言い分があまりにひどかったからかもしれない。まあそれは半分冗談。たしかに美登利の変貌の原因を初潮として読まなければならないとする積極的な根拠は見当たらないなあ、と思うようになったからだ(もちろん、初潮が原因ではない、という確実な根拠もまだ見つからない。念のため)。
僕としては、この本で紹介された説の中では、佐多さんの批判を受けた後で前田さんが提出した「代案」や、まだ元の文献自体を読んでいないが、蒲生芳郎さんという人の主張に好感をおぼえた。
小谷野さんのコメントについての疑問点
こんなふうにこの本から多くを学んだが、ただし、各論者の説を紹介・批評しながらときどき示される小谷野さん自身の見解のうち、検査場説についてのコメントには疑問を感じる。
以前の記事で書いたように、小説の最後まで美登利が正式な娼妓となっていないことはほぼ確実である。正式な娼妓になっていないと判断できる根拠は以下のとおり。
①娼妓は遊郭内の居住が義務だが美登利の居住地は遊郭の外であることと、②14歳の美登利は娼妓になることが法的に許される年齢の16歳に達していないこと、以上2点である。
この2点について詳しくは、こちらの記事 と こちらの記事 を参照のこと
明らかに美登利は娼妓デビューしていない。美登利が正式に娼妓になったという単純な初店説は不成立なのである。
そして、すでに娼妓となっている者や娼妓デビュー直前の者たちだけに法律上義務付けられていた検査場での身体検査を美登利が受けることもありえない。検査場説も不成立なのである。
これに対して小谷野さんは、娼妓の年齢制限が守られなかった可能性や、「一葉が遊郭について詳細な知識を持って」いなかった可能性を示しながら、検査場説になおも成立の余地をみているようだ。
しかし、娼妓の居住区域制限や年齢制限を一葉が知らなかったとは考えにくい。また、それらを無視した物語設定を一葉がしたとも考えにくい。
一葉が小説の中で正太に歌わせた流行節の「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」という歌詞は娼妓の年齢制限を前提に作られたものだろう。小学校(当時)に在籍する娼妓という設定はちょっと無理じゃなかろうか。
つまり、一葉は年齢制限のことは知っていた可能性が大きいし、また、吉原界隈ではちょっとした有名人の小学生・美登利が、その年齢をごまかして娼妓営業の許可を受けるという設定は、あまりに不自然なものではなかろうか。
また、娼妓は遊郭外に住んではならない、という規定は、江戸時代以来続くもっとも基本的な掟として娼妓たちの自由を縛っていた。吉原遊郭のすぐ隣に暮らした一葉がその掟を知らないはずはないし、小説が書かれた当時の読者の多くも、吉原の娼妓たちがおはぐろ溝に囲まれた廓の中の遊女屋に住まなくてはならない不自由な存在である、という知識は持ち合わせていただろう。実際、美登利の姉はそういう遊女屋に囲われて生きる存在としてちゃんと描かれている。
つまり、義務教育制のもと14歳で地元の小学校に在籍し家族と共に遊郭外に暮らしながらも吉原で正式の娼妓として働く美登利、といった現実では決してありえない設定を、一葉が知識不足ゆえにおこなってしまうことはないし、また、当時の読者の多くが不自然に思うであろうそんなリアリティのひとかけらもない設定を一葉が敢えておこなったとも考えにくい。
もちろん、現代の読者がどのような読みをしようとそれは自由である。例えば、当時の吉原の娼妓が、自宅マンションからタクシーで出勤してくる現代の吉原のおねえさんたちみたいなものだと思うことにすれば(そう思うことだって読み手の自由である)、単純な初店説でも検査場説でもかまわない。そもそも、どうやら美登利の変貌の原因について一葉がどのような想定をしていたのかを最終的に確定するのは困難みたいだ。
しかし、少なくとも、美登利の正式な娼妓デビューを前提にする単純な初店説や検査場説が、執筆当時の一葉の想定や当時の読者の大半の読みからはずいぶんと遠く外れた位置にあることだけは確かである。
そこで、僕個人としては、単純な初店説や検査場説は除外しておいて、それ以外の可能性をあれこれ想像しながら読んでみる、というのが、当面しっくりくる読み方だ。
付:大塚説(on twitter)について
今回、久しぶりに『たけくらべ』について記事を書く際、ネットで検索してたら、ツイッターで大塚ひかりさんという人が
とつぶやいているのを目にした。
ちょっと面白い意見だとは思うけど、問題の文の前の方を読むと、これは、美登利の変貌の原因が何なのか知らない人たちのいわば噂話として、「病気かな」という人もあり、「種なし(台なし)にしたと誹る」人もあり、と並列して書かれていることがわかる。したがって、この無責任な噂話をもってただちに「水揚げ」であると断定することはできないし、初潮を完全否定することも難しい。
ついでに言えば、「初潮が折角の面白い子を種なしにした」という文だって、大塚さんの意見に反して一般的には成り立つわけだから、「した」にこだわって初潮を否定するのはそもそもが不成立だろう(厳密にはそうした擬人的な表現が一葉の作品で普通に用いられているかどうかを検証しなくてはならないが)。
というか、そもそも原文の「した」の語は、初潮にしたとかしないとかで用いられているのではなく、「種なし」に「した」といっているわけなんだから、大塚さんのこだわりはちょっと筋違いな気もする。
それはともかく、本来注目すべきは「誹る」という言葉の方だろう。誹られている対象が、美登利を種なしにした人・行為だとすれば、ふつう初潮はそれに当たらないわけで、大塚さんの言うとおり、この噂話の主は、変貌の要因として初潮は念頭に置いていないことになるかもしれない。
しかし、あくまでそれは変貌の原因を知らない人の噂話だから、やっぱり、これだけで初潮を完全否定するのは難しい。
ただ以下のような読み方だって可能かもしれない。“原因を知らないで「病気かな」という人もあり、それとは別に、原因をちゃんと知っていて「種なしにした」と誹る人もあり”という読み方である(とはいえ、原文を読む限り、そんなふうに途中で切り替えをする読み方はかなり不自然だと僕は思うけど)。
ただしそういう読み方をあえて行った場合でも、噂話の主が水揚げを念頭に「誹」っているのかどうかは前後の文章を読んでも皆目わからない。つまり、大塚さんのように水揚げだと断定することはできないのである。
結局、この「誹る」云々の噂話に注目することによっても、初潮の完全否定は難しいし、水揚げだと断定することもできない。
ところで、ここでは、吉原界隈の少なからぬ人たちが美登利の身の上に起きたことが全然わからない状態でいる、といったことを一葉自身がはっきり書いているんだから、やっぱり、公然の娼妓デビュー=単純な初店説やそれを前提とした初検査=検査場説が成立しにくい、ということは言えるけどね。
2012.6.1.付記
先日、巡見で吉原界隈へ行くことがあった。その準備で、久しぶりに、たけくらべ論争の動向をネットでチェック。すると小谷野敦さんのブログ記事で、美登利の変貌要因は水揚げだ、という人の文章が紹介されていた。
(以下小谷野さんのブログ記事から引用:小林)
『たけくらべ』の最後が水揚げである、と主張したのは佐多稲子で、それより前に太田一夫という正体不明の人が書いていたということを『現代文学論争』(筑摩叢書)に書いたのだが、ウィキペディアを見たら、太田よりはあとだが、こちらは正体明瞭、佐多の前の夫の窪川鶴次郎が書いているとあったので確認した。
窪川の『東京の散歩道』(現代教養文庫、1964)で、「読売新聞」に1961年4月から64年3月末まで週一回連載されたものだという。
「作品のおわりのところで美登利は、姉がおいらんで出ている大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる。きのうまでとはまるで人が変わってしまった自身を、自分では理解できない。そういった衝撃の微妙なありようが、自身に対しても勝ち気なままに、実に的確にとらえられている。それはこういった世界にみられる水揚げといった言葉で行われる慣習を想像させずにはおかぬ。」
(引用終わり:小林)
小谷野さんが紹介している窪川説、ちょっと面白いけど、やっぱり粗雑すぎる。
窪川説の重要な前提になっている「大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる」という美登利の行動だけど、これはあくまで窪川さんの“想像”に過ぎない。
テキストには、美登利の大黒屋宿泊は明記されていないし、それをうかがわせるような記述もない。逆に、美登利が大黒屋に泊っていないことを確かめる材料もないんだけど。
ただ、小谷野さんが引用している窪川さんの文章だと、美登利が大黒屋に泊まったのは明白であるかのように読めてしまう。
窪川さんの意図的な騙しなのか、あるいは、単に勘違いなのか。そもそも、『たけくらべ』をちゃんと読んだことがないのか。
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コメント
こんばんはです。
先日は、突然お邪魔して大変失礼致しました。
『たけくらべ』論争・・・難しいですね。
文学研究と歴史研究は、通じるところがあると思っています。
文学研究は(作品に)書かれている部分のどこがフィクションか。
歴史研究は(史料に)書かれている部分のどこがロジックか。
それぞれ、重要な点は、そこにあるのだと感じています。
その意味で、とあるアニメ作品にあった「文学は現実を模倣する」という台詞は、文学の特徴をよく示しているのだと思いました。
文学(マンガや映画、ドラマを含む)の王道は、日常の非日常を描くか、非日常の日常を描くことだと思っています。
この点、小林さんが広小路問題で検討している、歴史における日常・非日常との関係と通じるものがあるような気がします。
戯れ言を失礼致しました。
投稿: TK373(旧案内人) | 2011/04/17 22:28
コメントありがとう。
うーむ、抽象的な難しいこと書かれてしまって、おじさんにはよくわかんないよ(笑)
そーいえば、ミスチルの桜井さんが、「真実からは嘘を、嘘からは真実を、夢中で探してきたけど・・・」とか疲れて愚痴って歌ってたっけ。
で、疲れ果てたあげく、色恋に逃げて、なんだかんだ言っても結局それこそがリアルぅって歌ってた桜井さんが好きだなぁ。
真実とかリアルとかどうでもいいから、やっぱリア充がいいじゃん。
しつこいって?(笑)
投稿: 小林信也 | 2011/04/18 10:37
ふたたび、こんばんはです。
早速のコメントありがとうございます。
でも・・・
>真実とかリアルとかどうでもいいから、
>やっぱリア充がいいじゃん。
突っ込むとこ、そこですか?
一本とられました。
いやぁ、言いたかったことは美登利が元気をなくした理由を、
一葉は何に求めたのだろうか、ということなんです。
『たけくらべ』の世界観といいましょうか、
それがどの程度当時の社会を反映しているのだろうかと・・・。
一葉は、何を現実として、何をフィクションとして描いたのか?
そして、読者にどのような共感(もしくは反感)を期待したのだろうか?
乱暴に言えば、文学の世界の現実は一種の演出でしょうから・・・
つまり、大河ドラマの時代考証のようなものだと思います。
一葉にとって、『たけくらべ』の何が日常で、
何が非日常であったのかを知りたかったのです。
『たけくらべ』は、かつて読んだはずですが・・・すでに記憶の彼方です。
本の山のどこかには埋まっているはずなのですが。
発掘して再読したら、またコメントできるかも知れません。
たびたびの戯れ言、失礼致しました。
投稿: TK373 | 2011/04/18 23:14
いただいたコメントの内容が難しくて、やっぱりよくわかんないんだけど…すみません(笑)
「いやぁ、言いたかったことは美登利が元気をなくした理由を、一葉は何に求めたのだろうか、ということなんです。」
とのことですが…
うーん、そもそも、それが謎だから発生した論争なのでは?
テキストから一葉の想定した「理由」が読み取れるのか、読み取れないのか。
もし読み取れるとしたら、それが何なのか。どこから読み取れるのか。逆に、もし読み取れないとするなら、読み取れないと判断する根拠は何か。
あるいは、少なくとも一葉は「理由」としてそれは想定していない、といえるものがあるとしたら、それは何なのか。
…etc
これらの問題群をテキストにもとづいて検討してみようというのが、まあ基本的な研究・論争のスタンスなのでは?
拙い記事だけど、このブログの記事だって、そういうつもりで書いています。
文学研究なんて、全然未知の領域だけど、そうした問題の立て方や考察の方法自体は、基本的に、歴史研究において史料を分析するときと同じだと思うけどね。
ついでに言うと、絶対的な正解には辿りつけないのも同じかもね。できるのは、仮説としての優劣を競うことかな。
投稿: 小林 | 2011/04/19 12:27
追伸
いただいたコメントを再度読み返したらその中に、
「『たけくらべ』の世界観といいましょうか、それがどの程度当時の社会を反映しているのだろうかと・・・。」
とありました。
これはもしかすると、『たけくらべ』の物語の世界と実際の社会との間でのズレを問題にしてらっしゃるのでしょうか?
でもって、実際の社会のあり方(例えば実際の娼妓の年齢制限やら居住地制限やら)にもとづいて物語の世界を解釈しようとしてもうまく当てはまらない場合もあるから「難しい」ってことを主張されているのでしょうか?
そうだとしたら、それは、小谷野さんのコメント(の一部)に近いですね。ただし、小谷野さんは、一葉が吉原について知識不足だったから、実際の社会と『たけくらべ』の物語の世界との間にズレが発生してしまった可能性がある、と主張しているわけですが。
そうではなくて、十分知識を持ちながらも、物語の「演出」として、一葉が意図的にズラした可能性があるという趣旨のご指摘でしょうか?
いちおう、記事本文の方では、そうした一葉の知識不足も「演出」も両方無いだろうという意見を示したつもりです。
一葉がわざわざ正太に歌わせた流行節の歌詞内容や、姉の花魁は遊女屋に囲われて居住する存在としてちゃんと描かれていることその他から、そんなふうに私は考える、というのが記事本文の内容です。
投稿: 小林信也 | 2011/04/20 11:52
亀レスでもうしわけないです。
ようやく第一の修羅場がおわりました。
>これはもしかすると、『たけくらべ』の物語の世界と
>実際の社会との間でのズレを問題にしてらっしゃるのでしょうか?
>そうではなくて、十分知識を持ちながらも、物語の「演出」として、
>一葉が意図的にズラした可能性があるという趣旨のご指摘でしょうか?
近いですね。
私は、一葉が無知であったとは思っていません。
ただ小説である以上、確信的な虚構もあったのではないかと考えただけです。
もう少しいえば、『たけくらべ』の世界は、現実世界のどこかである(もしくはあった)話なのか?
それとも、全くのフィクションなのか? といった所でしょうか。
とりあえず、私が無知な上、理解力に乏しいものですから、何度もお手を煩わせました。
これから、第二の修羅場に入ります。たびたびの戯れ言失礼しました。
投稿: TK373 | 2011/04/22 18:15
すみませんねぇ…相変わらず、頂いたコメントの内容が難しすぎて、意図がよく理解できなくて
「小説である以上、確信的な虚構もあったのではないか」・「『たけくらべ』の世界は、現実世界のどこかである(もしくはあった)話なのか?それとも、全くのフィクションなのか?」
とのことですが…
私、素人としては、たけくらべは小説なんだから、それがフィクションであったり、虚構を含んでいたりするのは、論ずるまでもなく、自明のことだと思います。
そのフィクションの世界には、現実と一致しているところもあり、一致していないところもある。これも自明のことかと。
たけくらべの世界だって、現実の吉原界隈の世界と一致しているところもあれば、一致していないところもある。もちろんのことかと。
そうした一般論を前提にした上で、ここでは、美登利の娼妓デビューという設定の問題に限定し、そんな設定を一葉がしたのか、していないのか、あるいは、したともしていないとも分からないようにあいまいに書いたのかどうなのか、考察してみようというのが記事の趣旨です。
そんなわけで、以下の記事内容の再説明は、まったくの蛇足ですけど…
今回の記事の論点の一番目は次のとおり。廓の外で家族と同居している小学生の少女が正式な娼妓デビューをしたという物語設定をした場合、その設定は現実の吉原の娼妓のあり方と一致しているか。
私の答えは、No。
それに対して、現実の吉原での年齢のごまかしなどの可能性を指摘して、yes だと考える人もいますが、それは明らかに不成立だという主張をしました。
で、そんな設定は非現実的であるというこを前提にすると、二番目に生まれてくる論点は次のとおり。
そんな非現実的な設定を一葉はしたのか。
私の答えは、これも、No。
それに対して、一葉が吉原の現実を知らないがために、そんな非現実的な設定だって結果的におこなわれたかもしれない、という人もいますが、その主張は誤りだと思います。吉原の娼妓の年齢制限や居住制限に対する一葉の知識が正確なものであったことは、たけくらべのテキストからも確認できるからです。
また、一葉が意図的に現実とは異なる設定をしたという可能性だって、テキストを読まないままなら、想定することもできます。しかし、テキストを読めば、そういう設定を一葉がおこなっていないことも確認できる、というのが私の主張(例えば次のような点に注目。もし美登利が正式な娼妓デビューをしたという設定なら、吉原界隈の人々はそのことを知る存在として描かれるべきですが、実際には、美登利の変貌の理由がわかならい状態にいる人々として描かれています)。
投稿: 小林信也 | 2011/04/23 11:26
ごく最近、一葉を読み始め、小林信也先生の再考・たけくらべ論争、とても興味深く読ませて頂きました。特に、
>一葉は、吉原の近くで暮らしながら、「女の身を商いにする店の奥では、どんなことも行われ得ると私は聞いたことがある。」という佐多稲子氏と同じような見聞をもったのかもしれません。あるいは、本郷福山町の酌婦から聞いた思い出話として。一葉はその見聞=秘密の初店の実話を念頭に、それに「秘密」のベールをかけたまま作品に繰り込んだのではないかと。
とのこと、
一葉の糊口(お金目的)以外の文を書く目的の一つが一葉の見た明治の社会の底辺に生きる立場の弱い女性(あるいは男性も)の記述と救済にあったという仮定の上で、一葉は、当時(さらにはその後の世まで)の世間(特に男性諸氏)の最も興味をかき立てるであろう問題としての「美登利の処女性」に秘密のベールをかけることで、さまざまな解釈を可能にさせ、作品の深みを増したのではないかという感想を持ちました。隠されれば隠されるほど人は中身が気になるものですから。その意味で、作品発表当時の文壇からの一方的な激賞は(意図的に埋め込んだ)解釈を一般化(あるいは通俗化)する可能性があるとして、一葉の冷笑を浴び、その後に続く種々の説と反論は一葉の意図した通りとなり、今は、五千円札の表から静に世間を見ていらっしゃるような気もします。
私的には大黒屋の主がかなり怪しいと見ておりますが、むろん一葉のこと、私ごとき一読者に簡単に解けるような書き方はしておりません。私も時が経ち立場が違えば別の見方をいたしましょうし、「十四才の少女の処女性」という仕掛けられた「餌」(あるいは世間への生贄)に再度食いついて、物語の中で浮き彫りになる社会の弱者への目を繰り返し開くこととなりましょう。社会の弱者は、いつの時代であっても世間の仕組みが作り出すものと、一葉の作品を読んで感じました。日本の文芸は伝統的にその弱者に目をあてることが多く、それゆえ哀しくも美しいものと思います。「もののあわれ」というものでしょうか。
明治39年発表の「草枕」の中の漱石の言葉を借りると、
「怖いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる。」
ということで、作品世界の中に描き出された美登利は、いかなる詮索をされようと美しいと思います。
「我れは人の世に痛苦と失望とをなくさんために生まれ来つる詩のかみの子なり」と、一葉が反故に書き記したと聞いて、女史の意図が弱者救済にあったのではないかと推測した次第です。
(申し訳ありません、私の前のコメント、改行が入ってしまいましたため、削除して下さい)
投稿: 沙無(サム) | 2012/01/08 23:38
物のついでに、大黒屋犯行説の一シナリオを駄文にてお届けします。正太の祖母が大黒屋の主を訪ねるところから話が始まります。
「大黒屋、いつまであの子をぷらぷらさせておくつもりかえ。おまえさんのような好色者ともあろうものが」
「何をおっしゃる兎さん、ではなかった、田中さん。美登利はまだ子供ですよ。今、私がお手つきをしては、さぞかし町の者の目もうるさかろう」
「なんの案ずることがあるかえ。おなごは化ける物。髪を大嶋田に化粧をさせれば、町の者も子供のなりとは見まい。おまえさんを誹る者もあるまいよ。年端など関係があるものか」(現に、うちの可愛い正太をたぶらかしおって、あのガキめが・・・怒)
「ホホホ。ご小心なこと。大黒屋、よもや婆の話が聞けぬとも言うまいの。金の縁は切れぬもの。それとも何かえ、おまえさんまで、美登利にたぶらかされたのかい。まさか、その年で惚れた腫れたではあるまいね。ホホホホホ」
歯をかねに染め白粉を塗りたくった老婆の不気味な笑みに竦み上がり、確かに女は化け物と思う大黒屋の主。幼髪の頃に紀州で見初めて美登利を連れ帰って早幾年、情も積もらぬと言えば嘘になる。もう三年ほどは蝶よ花よと手の内で愛でたいと思っていたところだが。と、大黒屋は頭を掻きながら照れ隠しに笑うのであろうが、生来のいやらしさは包み難しと見える。
(それにしても、なにゆえ信如の得度が早まったのかね。不可解なこと。信如あるうちは、美登利も奴にのぼせ、正太を相手にすまいと安心していたものを)と、正太の祖母が怪しむその数日前のこと。
雨の中、泥だらけで使いから寺に戻った信如。そのただならぬ様子に、大和尚が理由を問いただしたところ、信如は、なんとしても理由は言えないと強情を張っては終始ふさぎこむばかり。
「お母様はいざ知らず、お父様のような俗を好むお方には、私の悩みなどわかりますまい」
と、信如はますます怪しからぬことを言う。恋ならば、どこの娘が相手やらと、親心ながら興味津々、密かに人づてで探り合わせたところ、よりにもよって、あの大黒屋の美登利とは。知らぬは親ばかりなりとはこのことか。さすがの大和尚も、間違いが起こってからでは遅いと案じ、急遽、信如を遠ざけることを決心したのであろう。
大鳥神社の賑わいすさまじかろう晴れわたる三の酉の朝、母に言われるまま、朝風呂の後、郭の内に姉の部屋を訪ねた美登利。「どうして大嶋田に?」と、常ならぬ雰囲気に戸惑いながら姉に問うに、
「美登利ちゃんを女にするためよ」
と、姉は言う。
「女にするって、どういうことさ? 私こう見えても根っから女だよ」
姉は、可愛い妹の頬を優しくやさしく撫でながら、艶やかに哀しく笑った。
「大黒屋の大旦那が、今宵、美登利ちゃんを女にして下さるの。夜のお情けを頂戴するのよ。あなたももう大人の仲間入りね」
「初々しき大嶋田結ひ綿のやうに絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、總つきの花かんざしひらめかし、何時よりは極彩色のたゞ京人形を見るやうに思はれて」とは、今宵の憂き世を思う美登利の姿であったのであろうか。憐れなることこの上なしと見る人はいかばかりか。ああ、時間が止められるものならば、巻き戻せるものならば、如何に人は幸せにあろうことか。
投稿: 沙無(サム) | 2012/01/09 13:16
興味深いコメントをお寄せいただき、まことにありがとうございます。
しかしながら、このブログは、オープンな掲示板ではなく、あくまで、私個人の日記やら随想やらを主に綴っていく場所でございます。
コメントの欄においては、私が書いた記事をお読みになった上で、それに対するご意見やご感想、ご質問などをお書き込みいただけるとさいわいです。
このたび、二つめのコメントとしてお寄せいただいたような、沙無さまのオリジナリティ豊かな文章につきまして、今後は、このブログ内ではなく、ご自身のブログやホームページなどの方へご掲載くださいますよう、どうかよろしくお願いします。
その上で、ご掲載になった記事と当ブログの記事との間で何か関連する点などがありましたら、その旨をコメントとしてお寄せいただき、あとは、沙無さまと私の双方において支障が無ければ、リンクやトラックバックの機能を利用する、というやり方などが良いかと思います。
投稿: 小林信也 | 2012/01/11 19:11
沙無さまの一件目のコメント(1月8日付)へのリプライとして。
おっしゃるとおり、変貌の原因が読み取りにくいように一葉はわざと書いているような気がしています。
「私も時が経ち立場が違えば別の見方をいたしましょうし、「十四才の少女の処女性」という仕掛けられた「餌」(あるいは世間への生贄)に再度食いついて、物語の中で浮き彫りになる社会の弱者への目を繰り返し開くこととなりましょう。」
共感いたします。
投稿: 小林信也 | 2012/01/11 19:19
【美登利】
遊女に売られた姉が売れっ子の太夫になったが為、姉よりも綺麗な彼女も、より売れっ子の太夫になるであろうと、両親共々遊郭で暮らすようになった.
子供の彼女は太夫という姉の職業を全く理解していなかったので、有名人、著名人の客を沢山持ち稼ぎの多い姉のことを自慢に思っていた.そして、彼女は、将来、大金を生む太夫になることを前提に、甘やかされ、我が儘に育ったのだった.
年頃になった彼女は、大人の男女の関係がどの様なことか、次第に理解されて来た.....そう遠くない将来に、姉と同じように太夫として客を取ることになる、そう言う年頃になって、彼女にも大人の男女の関係がどの様なことなのか理解され、同時に、太夫にならなければならないという、自分の境遇も理解されたのだった.
彼女に与えられた遊女という職業は、異性に対して誰でもが自然に抱く、好きという感情が許されないしきたりの世界だった.
彼女は姉の職業を自慢に思ってきたが、子供だから知らなかっただけで、分っていたら自慢なんかしなかったはず.あるいは逃げ出していたかも知れないけれど.....けれども、今はもう、自分の力で自分の将来を選ぶことは、出来ないことだった.....
【信如】
僧侶の父親はうなぎの蒲焼きが好物の生臭坊主で、他方母も、その生臭坊主と二十ほども年が離れていながら一緒になった女だった.
男女の関係を素直に受け取ることが出来ない家庭環境に育った彼は、美登利と仲良くしていることをからかわれ、年頃の男女が誰でも抱く、互いに好き合う感情を、汚らわしい感情と考えたのであろうか.....すぐに美登利を避けるようになり、そして自ら僧侶の学校へ、男女の恋愛感情を否定する、僧侶の修行の道を選んだのだった.
【金貸しの正太】
彼は片思いに過ぎなくても、純真な気持ちで美登利を好きだった.
太夫になれば、男女の恋愛の道が絶たれる美登利に対して、
『自分は片思いだからいいけれど、でも、信如は.....』、彼はこう言ったはず.
【貧乏な三五郎】
『将来、金を溜めて、太夫になった美登利を買うんだ』
映画『夜の女たち』で、溝口健二は街娼をしている女たちに、「子供を生む喜びを、女としての喜びを失わないで欲しい」と訴えました.
フランス、パリの売春婦を描いた映画『女と男の居る舗道』で、ゴダールは、「人を好きになる心を思い出しなさい.人を好きになる心で、今の自分の境遇が、満足の行く生き方かどうか、考えて欲しい」と、訴えました.
さて、たけくらべに戻って.
美登利は自分の人生を、自分の力で変えることは出来ませんでした.細やかな救いに過ぎないかもしれないが、彼女が自分自身を救う道は、人を好きになる心を彼女自身が失わない事だけ.
と、こう書けば、彼女が好きになった相手の信如の心が、それからの美登利の人生に、何れほどの影響を与えたであろうかと思えてくる.
『詫びる心』『礼を言う心』
信如の仲間の長吉が、暴力を振るって美登利達のお祭りの催しをめちゃくちゃにしてしまった.
彼の知らなかったこととは言え、信如は美登利にきちんと詫びなければならなかったはずだ.
雨降りに下駄の鼻緒が切れた.美登利は『これを使いなさい』と、布切れを投げてくれたのだから、素直に受け取ってお礼を言っていれば、そうすれば再び二人の間に、年頃の男女の自然な感情がよみがえってきたであろうに.....
遊女に売られた女の子たち、彼女たちを救えるのは男の子の優しい心である.
大黒屋の寮の前で、信如が詫びて、お礼を言っていたならば、美登利はどんなに救われたことか.....
どの様なことがあっても、美登里は人を好きになる心を失わず生きて行かなければならない.信如の心は彼女にとって大きな支えになったはずなのだ.
投稿: bakeneko | 2018/12/18 10:10