もう昨年末のことだが、久しぶりに出身大学に出かけた。私の師匠にあたる先生が本年度でその大学を定年退職するにあたっての記念(?)シンポジウムが丸一日かけて開催され、それに私も出席したのである。
シンポに出席されたかつての弟子仲間の皆さんは立派な研究者になっていて、なんの成長もない私はまるで浦島太郎の気分。それでも、たくさんの懐かしい顔に会えたのは楽しかった。
なんとなく可笑しかったのは、何年ぶりかの校舎で、階段や廊下の入り組んだ経路の細部を自分の体がいまだによく覚えていて、学生時代同様、シンポの休憩時間には周りの人と横を向いてしゃべりながらでも、角を曲がり階段を上り下りしてなんの躊躇なく食堂やトイレへと足が運べた。なんだかんだで人一倍長く通った大学だもんな。
さて、シンポのテーマは、恩師の研究業績を学びなおし、21世紀の歴史研究の課題を展望するというもの。で、21世紀の課題については、もっぱら新自由主義に対して抵抗していこうという立場から設定した課題が示された(のかな?)。もちろん、できそこないの弟子の私にとって、報告者のお話やフロアの方々からのコメントには学ぶことばかりだったが、若干の不満も残った。
まず、新自由主義を批判する際、具体的に新自由主義のどこがダメだと考えているのかがよくわからなかった。「新自由主義のどこがいけないかなんて、わざわざ説明しなくても常識でしょ?」ということなんだろうか。
例えば、教育学や労働経済学、家族社会学などの研究者が、それぞれの専門研究をもとに独自に新自由主義に対する鋭利な分析を展開し、かつ広く一般市民がその成果に学んでいる状況と比べたとき、歴史学の立場からのオリジナルな分析があまりに乏しいように思う。
「世界史」研究における欧米の研究論文の“翻訳”・“盛り合わせ”的な新自由主義分析はしばしば目にするが、特に日本史研究者によるオリジナルな分析に触れることがほとんどない。新自由主義に対する抵抗の拠点として、諸々の地域結合を位置づけようとする主張もあるが、ずいぶん昔にこのブログで書いたように、地域結合の称揚と新自由主義とは正面衝突もせずに容易に並存・共栄していくような気がする。
師匠の研究の“本貫”は都市民衆世界についての精緻な分析とそれにもとづく意欲的な理論構築だと思っている。そこから何を学ぶのか、どこを乗り越えようとするのか。それを示すことが弟子からの恩返しには欠かせないように思うが、そうした議論は今回のシンポでほとんど無かった。新自由主義やらTPPやらに対して声高に批判するにしてもこそこそ評価するにしても、都市民衆世界に視座を据えておこなうことが欠かせないだろうに。というか、都市民衆世界に視座を据えることこそが、唯一とはもちろん言わないが、現在の日本社会の実態を省みるにつけて重要課題じゃなかろうか。
いったい誰に文句を言ってるのかって?ええ、もちろん、自分に言ってるんですがね。
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