2008/10/23

映画『容疑者Xの献身』の感想

※この記事の終りの方に、いわゆるネタバレあり。これからこの映画を見に行く人は読まないでね。
 

 先日、映画『容疑者Xの献身』をみてきました。なぜか親子4人家族そろって。軽いタッチのテレビドラマ版探偵ガリレオをみてファンになった子供らが、どうしても映画もみたいって言い張るもんだから、「テレビとは違って、この映画は、たぶん、小学生のお前たちには面白くないよ。」って予防線を張って映画館に入りました。が、シリアスなテーマにも関わらず、意外にも、子供たちはちゃんと映画の展開に入り込んでいけたみたいです。

 別に親バカのわが子自慢ってわけではなく、思うに、石神の献身=愛ってのは、大人の欲望やら打算やらの濁りとは無縁の、純粋でプリミティブなものだから、その核心部分については、子供でもちゃんと共感できるのではないかなと。というか、子供の方がよりストレートに理解できるのかも。まあ、下の方の子はちょっと怪しかったですけど。上の子は、石神の書いた茶色の封筒の最後の手紙に、いたく感心していました。

 一流大学の准教授のガリレオ湯川とは違って、アカデミズムの世界でのポストを得ることもできず、不遇の人生に絶望した数学者の石神が、その絶望の窮みに至ってはじめて獲得できたのが、そんな純粋でプリミティブな愛だったのでしょう。そうした大人の人生の紆余曲折の意味の方は、お子ちゃまたちにはまだ理解できないでしょうが、その紆余曲折の末に石神が到達した境地は、子供の心も確実に共鳴する、シンプルでストレートな美しさを帯びていたということでしょう。そうした境地に達した石神は、そこで再び、数学の美しさに没入する喜びも取り戻します。
 こういった原作の基本主題がちゃんと観客に伝わることだけをとっても、この映画はかなり良い出来であると言えるのではないでしょうか。

 もうひとつ、感心したのは、あの隅田川沿いの地域の色が、よく表現されていたことです。できれば、錦糸町のスナックのシーンも少しだけでいいから入れて欲しかった。それで靖子の人物像がいっそうふくらむはず。

 「とばっちりで殺された例の被害者の身にもなってみろよ。」という不満は重要だと思います。それは、目的をより見事に達成するためなら手段は選ばない、といった石神の狂気についていろいろと思いを巡らすときのポイントになります。
 もちろん、この問題をほじくりだして、「この映画は人命を軽視している。」と単純に批判しても仕方ないでしょう。石神の愛がそのまま“善”なるものでないことは確かで、そこにこの作品の本当の深さというか、隠れた怖さがあるように思います。その怖さは、原作の活字を追うだけだとついつい薄まりがちですが、今回の映像からは、しっかりとにじみ出ているように思います。
 柴咲コウが演じる内海刑事は、原作に出てこない、映画だけの登場人物ですから、せっかくなら、その彼女が、そうした不満の表明をやってもよかったと思います。湯川相手か、あるいは石神本人相手か。
 映画では、湯川に向けて、「痛みを分けてください。」みたいな甘ったるいことをわざわざ彼女に言わせてますが、このセリフはあまり必要ないように思います(別にこれがなくても営業上の問題だってないだろうに)。
 無関係の人の命を、自分の純愛の表現である例のトリックのなかのひとつの“ピース”として利用し消し去ってしまう。そんな狂気の純愛は、どこか『白夜行』の亮司の純愛に通じるところがあるような気もします。つまり、東野圭吾の追求する純愛ってことです。石神の「献身」のこうした暗い面を衝くには、内海刑事はちょうど良いキャラクターだと思うんですが。

 原作の感想は、こちらの記事です

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2008/08/25

『容疑者Xの献身』の感想

  9月16日付記:『容疑者Xの献身』が面白かったので、そのいきおいで、『白夜行』とその続編の『幻夜』も読んで感想記事を書きました。よろしかったらそちらもどうぞ。

 映画も見ました。映画の感想は、こちらの記事です

(以下、記事本文)
 
  行儀がひどく良くないのは自分でもわかっているんだけど、混んだ電車のなかで隣の人のひろげている本が視界のなかに入ると、ついつい盗み読みしてしまう。で、仕事柄、文章を斜めに読むスピードが多少他人よりは速いらしく、チラって覗くと、だいたい、そのページ分のあらすじが頭に入り込んでしまう。

 先日、京浜東北線の車内、中年サラリーマン風の乗客が読んでいた本が、殺人事件のまさに殺害のシーン。母娘二人が、母につきまとう男をコタツのコードで絞殺するところ。と、ここまで書けば、分かる人には分かっちゃいますね、この本の正体。だけど、そのときの僕には、作品名も作者も分からなかったんですけど。ただ、なんとなく、文体が好みだなぁと。水商売の女性と、彼女にタカる元夫という人物設定からして、よくある量産型“ハードボイルド”かいな、と思いつつも、ムダの無い、それでいてなんとなくデリケートなタッチの文体の印象と一緒に、犯人母娘の「靖子」・「美里」という名前が頭に残りました。
 翌日、混み合う電車での通勤の途中、昨日と同じく、すぐ顔の脇で本が広げられました。ぱっと見て、あらら、昨日と同じ本。同じシーン。今度の読者は、若い男性。

 こうして昨日今日と立て続けに同じ本に出くわしたからには、これは、かなり面白いんだろうってことで、早速、パソコンで検索。キーワードは「靖子」・「美里」・「殺人」・「小説」。ハイ、すぐにヒットしました。東野圭吾『容疑者Xの献身』。あの探偵ガリレオ・シリーズのなかの最高傑作といわれる作品。直木賞受賞。単行本は2005年だけど、ちょうど文春文庫にて文庫化されたばかり。

 このブログで、たびたび、しつこく、むなしく告白し続けているが、私は、柴咲コウのファン。で、その柴咲コウと福山ナントカって人の主演で大ヒットしたテレビドラマ『ガリレオ』の劇場版として、この秋に公開される映画の原作がこれ。そんなわけで、早速、駅の本屋さんで購入。一気に読み終えました。

 面白かった。ちょっと大人の本ですね。面白くない人には面白くない。「石神」の「献身」に理解が及ばない、シンパシーが持てないって人にとっては、最終的につまんないだろうな。ネットの書評記事をパラパラみても、記事を書いた人が意識しているかいないかはともかく、そこんとこで評価の良し悪しがかなり決まっているように読める。

 この作品をめぐって作者の東野圭吾自身がざっくりと語った、「やっぱり多くの男って、あ、この恋は伝わらないなと思ったときに、それでも相手の女性に好きな男がいるなり、幸せになる道が自分に関係ないところにあるとしたら、自分が犠牲になってでも叶えてやりたいという、お人好しなところがあるんですよね。」という心情が理解できるか否かにかかっているように思える。途中で登場してきた「工藤」って脇役も、まさにそんな「多くの男」のひとりだろうし。
 2008.9.29.付記:同じ作者の『白夜行』の「亮司」も『幻夜』の「雅也」も、そんな「多くの男」の代表みたいなもの。きっと、東野圭吾が一番惹かれる恋愛=「純愛」のかたちがこれなんだろう。

 個人的には、作品のストーリーとは違って、「石神」の企みが初期段階からうまくいって、その後の年月を通じ、彼の純愛がどんどん陳腐化したり傷だらけになるところが見たい気もするけど。それはひねくれすぎかなぁ。

 本格的な推理小説ファンの一部からは、トリックが途中でわかっちゃってつまらないって声も出たみたい(ちなみに、私は最後まで分かんなかった)。でも、まあ、それは気にならない。この本が、ミステリー系の賞をとったときにイチャモンをつけたミステリー作家がいた。その批評を少し読んでみたが、「石神」の心情分析という点では、まるでお子ちゃまやね、その作家は。

 ついでにいえば、なんとなく、白石一文の『一瞬の光』の主人公の“献身”を連想した。この本も、『容疑者X』同様に、なかなか“荒唐無稽”気味な部分もあるが、それでも肝心のテーマそのものには相当なリアルがあって、面白く読めた。

 まあ、それはともあれ、映画公開が待ち遠しい。先日、テレビニュースの芸能コーナーで、映画の主題歌のPVが少しだけ紹介されていた。もちろん、KOH+。福山ナントカ君は、柴咲コウがカラオケでバラードを歌うのを聴いて、その印象をもとにしてこの新曲を書いたそうだ。なかなか良い曲。テレビシリーズの主題歌「Kissして」も良かったけど、今度の曲も良い。
 そういえば、私の妹がこの福山君のファンで、歳甲斐も無くキャーキャー言ってたが、以前は、どこが良いんだか??って冷ややかに見ていた。が、ここにきて、ちょっと、印象が変わったよ。インタビューとか観ると人柄も良さげだし。うーん、才能もルックスも性格もめぐまれまくった男だなぁ、福山雅治。
 
 というわけで、柴咲ファンとしては、妻夫木ナントカも福山ナントカも許せる。が、許しがたいのは、阿部ナントカだろ!

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2008/06/11

フリーター漂流

 もう3年以上も前のことになるが、このブログでNHKの「フリーター漂流」というドキュメンタリー番組の感想を書いた。前編、それから中編まで書いて、後編を書こうと思いつつ、書けずにいる。
 この件は、自分のなかでもずっと宿題でありつづけている。今もそうである。最近書いている「近世の終焉としての現在」という連載記事も、実は、その宿題の一環に位置するものだと、自分では思っている。
 
 今朝アクセス解析をやってみたら、ここ数日、その昔書いた番組感想の記事を読みに来られる人が大変多い。これは、例の秋葉原の無差別殺人事件のせいだろう。
 
 番組では、北海道の運送会社で働いた後、フリーターとなり、あちこち漂流したあげくに、愛知の自動車工場での請負労働へと送り込まれていく男性が登場した。彼は一人前の工員としての人生を始めたいと願いながら、漂流の過程で、その夢を打ち砕かれていく。
 これは、青森の運送会社を辞めて静岡の自動車工場での派遣労働に従事していた今回の事件の犯人とどうしてもだぶってしまう。
 おまけに、犯人を雇っていた派遣会社こそ、あの番組のフリーターを雇っていた請負会社である。番組でこの請負会社の社長が、自分の会社が雇ったフリーターのことを、必要に応じて「前線」へ送り込む「弾」と呼んでいたのも印象に残る。刻々と変化する戦況に応じて、弾薬の不足する「前線」へすぐさま「弾」を送り込むことで、自分の会社は社会に貢献していると胸を張っていた。(今は、偽装請負が問題となって、「請負」会社から「派遣」会社へと変化しているが、実態はほとんど変わっていないようだ。)
 
 今回の事件を通じて、はからずも、あらためてこうした漂流するフリーターの姿に接することになった。なんでも、犯人の働いていた自動車工場では、200人のフリーターのうち、150人をいきなり解雇する計画だったとか。相変わらずやね。自動車工場の幹部社員が、記者会見で、この解雇について、うっかり、「切る」って口を滑らせてしまい、あわてて「契約解除」と言い直すシーンも、先の番組の「弾」発言を思い出させてくれた。

 今回の事件の犯人について、こうした境遇を考慮して少しは免責してやるべきだとは、まったく思わない。しかし、テレビ報道をみていて、もうひとつ、印象に残ったシーンがあった。
 彼がもともと切れやすい性格だったということを裏付ける証言として、かつてアルバイト(正社員という報道もある)していた青森の運送会社の同僚が語っていた。時々、仕事上のトラブルで興奮した彼の頭をコンと小突いて、まあ落ち着けとたしなめていたという。彼もそれにおとなしく従っていたという。この同僚は彼のことを不器用な男だと評していた。

 どうして彼がこの運送会社を辞めたのかはわからないが、もしそのままこの会社で働き続けていたらどうなっていたのだろうか。何度も頭を小突かれているうちに、やがて彼は自分の感情をコントロールする術を身につけた一人前の大人になっただろうか。あるいは、小突かれつづけるうちについに暴発してしまっただろうか。
 一方、自動車工場では、彼の頭を小突いて落ち着かせることのできるような職場での人間関係は成立しえたのだろうか。

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2008/06/04

最近のお気に入り

 ここんところ、ちょっと映画はご無沙汰してたが、つい先日、やっと念願の「少林少女」を観にいけた。このブログでもときどき告白しているが、私、柴咲コウのファンです。本来、自分の好みのタイプは、丸顔のなごみ系だと思っていたけど、自分の体型が、昔と違って丸みを帯びてくるにつれて、好みも変わったのか。ここ2~3年の間でファンになりました。

 そういえば、最近のお気に入りの女性シンガーは、YUI 。この人は結構丸顔系かもしれないけど、凛々しさが柴咲コウと通じる気がする。たまに学生さんたちとカラオケに行くと、頼んでYUI を歌ってもらう、というセクハラ・アカハラまがいの振る舞いをしてますが、この前は、ついに自分でKOH+を入れてしまうという暴挙に及んでしまった。もう、どうしようもないオッサンやね。学生さんたち、愛想尽かさないでね。
 
 で、映画「少林少女」、良かったです、はい。ネット上で脚本・演出についてのさんざんな評判を読んでから観たせいか、映画の出来の悪さはすでに織り込み済み。そうしたら、結構、抵抗なく映画に入っていけた(まあ、それにしてもひどかったけど)。
 基本的に、主役は、柴咲コウひとり。舞妓はぁぁんや、どろろと違って、余計な相方(笑)はいません(特に前者の相方は許しがたい!後者は、まあ、仕方ないか)。彼女のファンなら、映画の最初から最後までどっぷりと楽しめます。

 先日、浦和のイタリア料理店で友人と飲んだ。その友人も柴咲コウのファン。さらには、そのお店のカメリエーレ(ホールサービス)さんもファン。三人でちょっと盛り上がってしまいました。友人いわく、「彼女の“まったく自分の思い通りにならない感”がいいんですよ。」というのはなかなかの至言かも。

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2008/04/02

映画「ノーカントリー」の感想~本当の悪はどこに

 評判どおり、なかなか良い映画でした。そして、評判どおり、相当に怖いけど。アカデミー賞で作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞だっけ。ちょっと難解な映画かも。


 以下、これから観に行く予定の人は読まないでください。映画館から帰ったら、ぜひまたここに来てくださいな。

 原題は、No country for old men。老人がいられる国はもはや無い、とでも訳すのでしょうか。

 あらすじ。テキサス州西部。モスという貧乏白人男性が、狩りの途中で大金を手にする。麻薬の取引がこじれた銃撃戦のあと、死体が散乱するその現場に出くわして、200万ドル(だっけ)が入ったカバンを自宅にもちかえる。それがきっかけで、モスは、シガーという最悪の殺し屋に追っかけられることになる。そうした事態を察知した老保安官ベルが、モスとシガーの跡を追い始める。さらには、アメリカとメキシコの麻薬取引の組織もモスとシガーを追ってくる。

 とまあ、重層する追跡劇なんですが、ともかく、モスを追うシガーという殺し屋がすさまじい。殺人マシーンといってもいい。要するに、エイリアンみたいな奴だけど、それが宇宙生物じゃなくて、人間だということで断然凄みが増す。傷ついて血を流し折れた骨が皮膚を突き破って苦しみながらも稼働するこの殺人者の姿は、ターミネーターよりももっと怖い。いわゆる絶対的な悪としてシガーは登場し、冷静な態度で人を殺しまくる。

 それに対して、モスは、人間味があるキャラクターだ。映画の大半は、このモスを主人公として構成されている。とりあえず観客は主役のモスに感情移入し、迫り来るシガーにおびえながら映画を観ていくことになる。

 しかし、不思議なのは、映画の後半になると、だんだん観ている僕のスタンスがあやふやになっていったことだ。そして、前半は、エイリアン(ただし、エイリアン第一作におけるエイリアン)みたいに絶対的だったはずのシガーの悪が、相対的なものとして感じられるようになってくる。
 その感覚の変化は、これまで主役だったはずのモスが、殺害シーンも無いまま、いきなり死体となって画面に現れ、お話からあっけなく退場してしまったことで強まり、さらには、ラスト近くで、重傷をおったシガーに逃走用の衣服を与えて金を受け取る少年達の会話によっていよいよ決定的なものとなった。

 絶対悪だったはずのシガーの周囲で、次々と色んな別の悪が発泡し始めたのだ。

 主役のモス自身、ベトナム戦争で殺人をしまくりながら様々な玄人のテクニックを身につけた人物であるし、彼は自分を愛してくれる妻をも死の危険にさらして、大金を手に入れようとする。
 麻薬組織は、一般企業の顔も持っていて、業務の一環として麻薬を取り扱い、やはり業務の一環として、費用や効率を計算しつつ、モスやシガーの抹殺を事務的に企画検討していく。
 決定的なシーンは、先にも書いたとおり、殺し屋シガーがモスの妻を殺害した後で交通事故に遭い、かなりの重傷を負うシーン。たまたま事故に出くわした二人の白人少年がシガーの怪我を心配する。それに対して、シガーは、血まみれの服を隠して逃走するために少年のシャツを金で買い取る。最初、少年たちは金の受け取りをためらう。人助けだし、お金はいいよと。しかし、結局、金を受け取る。そして、よろめきながら逃げていくシガーの背後で、二人はその金の分配をめぐって言い争いを始めるのだ。さっきまでごく普通のうぶで良心的な少年に見えた彼らのそのあけすけな姿。

 さらには、「血と暴力」の現代アメリカ社会に対して絶望し引退していく老保安官が代表する「古き良きアメリカ」が孕んでいた悪についても、その片鱗が描かれる。例えば、先住民族に対する侵略・抑圧や、メキシコに対する経済的搾取や民族差別に関わるちょっとしたエピソードが随所に挿入されている。そもそも、この悲劇の発端となった麻薬問題の根っこも、その辺りにある。
 (この老保安官が代表する旧世界を、単純に「正義」の社会として認めてしまい、それにあこがれたり懐かしんだりする見方は、あまりに牧歌的すぎる。)

 映画の前半は、一般社会のなかに現れたエイリアンとして絶対悪であるかのように見えた殺し屋シガー。しかし、次第にその周囲においてブツブツと発泡し、いつのまにか、シガーの絶対悪を包み込んでそれすら相対化してしまう「一般社会」の悪の姿。
 これがこの映画の真の主題だとみたんだけど。 どうでしょうか?


2008.4.4.付記
 
 個人的な体験だが、この映画の一番の怖さ・不気味さは、映画館を後にしてから数時間後、僕を襲ってきた。

 絶対悪であったはずのシガーの悪を相対化してしまうような「一般社会」の悪。シガーの周辺で発泡するそうした諸々の悪が、にじみ、拡がっていく先を追うのに、僕は数時間もかかってしまったわけだ。

 例えば、イラク戦争。まるでテレビゲームみたいに、誘導ミサイルが飛んで行き、目標地点で爆発する映像。その爆発の下では、幼い子供・非戦闘員をふくむ数多くの人が、実にあっけない死を迎えている(映画の中、たまたまシガーに出くわしてしまったことが原因の、おそらく殺される自覚もないままだったのであろうドライバーやホテルのフロント係の死とよく似た死が、紛れもない現実として、そのミサイルの着弾地点には無数にあった)。そうした「理不尽」な死のありさまを映し出すテレビ画面を自宅のリビングダイニングで眺めながら、むしゃむしゃとご飯を平らげ、缶ビールをうまそうに飲み干す私たち。アメリカが始めたこの「テロとの戦い」に賛同し手を貸した国に私たちは住んでいる。
 あるいは、人が殺されまくり、死体がごろごろ転がるこんな映画を、ポップコーン片手に「娯楽」として消費していく私たち。
 人の死に接して全然動じない、シガーと同じ冷静さを、ときに私たちも共有している。
(2008.4.14.付記 映画の登場人物でいえば、麻薬組織の経理担当者くらいの立ち位置が、だいたい自分に当てはまる気がする。この組織は、一般企業の顔も持っていて、彼が扱う日常的な経理の一部に、シガーやモスの処理問題も含まれている。おそらく、彼にとってそれは、会社全体のふだんの人件費やクレーム対策費なんかと同列に認識されるに過ぎない問題だったのだろう。彼自身、自分が悪である自覚はまったく無い。しかし、人の死に対する彼の感覚麻痺・無神経さは、シガーをはるかに超えているわけだ。シガーに出くわしてしまったこの経理担当者の生死がはっきり描かれていないのは、彼と同じスタンスにいるであろう私たち観客の多数に対する問いかけのように思えた。)
(2008.4.21.付記 たとえば、ラストでシガーをも打ちのめした自動車の問題。日本だけでも、毎年、何千もの命を自動車が奪っている。もし、社会から自動車を追放すれば、たちまち、おびただしい命が救われる。公共交通車両や緊急車両だけを残して、自家用車を全廃してもいい。それだけでも効果絶大だろう。だけど、雨降りの外出の快適さやら、今日出せば明日届く宅配便の利便やら、自動車産業の経済効果やら(はたまた高速移動の快感やらステイタスの誇示やら)を手放すことのできない私たちは、そうやって毎日毎日、たくさんの人を殺していくことを選択している。この際、その選択の是非は問わないが、私たちは、快適さ・利便性・経済効果と、何千もの命とを天秤にかけた場合、躊躇なく、前者を選択する生き物なのだということぐらいは忘れない方が良い。人命が地球より重いなんて、本当は誰も思っていない。映画のラストで、シガーという悪に衝突し、文字通り相対化した悪を、私たちは自分のものとしている。)


 結局、シガーの周りで発泡する悪が拡がる先を追っていくと、それはいつの間にか、僕の足元にも達していた。ちょうど、モスの妻を殺害した直後のシガーのように、足元に目をやると、僕らのズボンの裾や靴底には、そうやって拡がった悪の染みが容易に見つかるだろう。
 僕が一番恐怖を感じたのは、映画が終わってしばらくたって、そんなことを考えた時だった。

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2008/02/29

最近のお気に入り

 なんとなく、最近の“お気に入り”をリストアップしておこう。

 音楽は、安室奈美恵の「ROCK STEADY」と、BENNIE Kの「モノクローム」。
 最近の安室はホントかっこいいねぇ。かつてのトップ歌姫の重荷はエイベックスの後輩たちにお任せしちゃってから後のノビノビと好きなタイプの音楽をやっているって感じがとても良い。歌のうまさは相変わらずだし。昔、フジテレビのウゴウゴルーガって子供番組で鈴木蘭々と一緒に歌っていた頃の伸びやかさを思い出す。もちろん歌う曲は全然違うけど。
 BENNIE K はそもそも大ファンなんで、どの曲も好きだが、今回の「モノクローム」も良い。ドラマ主題歌って縛りもあるんだろうけど、歌詞もよい。よくあるタイプの、若いフリーター・ネエチャンなんかの愚痴と元気づけの歌(個人的には結構それが好き)かもしれないけど、さすがにBENNIE K は質が高いって思う(ひいき目が過ぎる?)。

 あとは、最近見た映画など。「スウィーニー・トッド」、「ラスト・コーション」、「チームバチスタの栄光」といったあたりを見ました。
 「スウィーニー・トッド」は、ともかく映像が雰囲気良くて面白い。冒頭の帆船がひしめくロンドンの港のシーンから引き込まれちゃいました。お話の内容はそんなに気合いを入れてみるようなもんじゃないけど、楽しめる映画でした。場面場面のグロテスクさは、どこか「チャーリーとチョコレート工場」に似ている気がした。
 「ラスト・コーション」は、とってもぜいたくな映画。ラスト近くでの、ヒロインの衝動的な決断のシーン、そのほんの一瞬をちゃんと描くためだけに、豪勢なセットもそれまでの長いストーリーも、そしてなにかと話題の過激なシーンも、存在しているんだろうって気がした。ぜいたく。いろんな意味で大人の映画かなぁ。
 「チームバチスタの栄光」も楽しめた。全体のお話づくりは失敗していると思うけど。まあ、場面場面で楽しむことができた。主演女優の竹内結子。かねがね、この人が、色気のない、ちょっとのんびりした役をやっているときは、芸能社会史が専門のO女子大のK先生(というかKちゃん)に雰囲気がそっくりだと思ってきたが(別にK先生に色気があるとかないとか言っているわけじゃないですよ、念のため)、今回、映画をみながら、本当にそっくりだなぁと思った(最後は内輪話になってすみません)。
 

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2007/11/07

最近面白かったもの~乾くるみ『イニシエーション・ラブ』、映画『パンズ・ラビリンス』

相変わらずちょこまかと忙しく、記事が書けません。書きたいネタはいくつもたまってきてるんですが。

そんなわけで、近況報告を兼ねて、最近、読んだ本やら見た映画で特に良かったものをご紹介。

ここのところ本はあまり読んでないんですが、抜群に面白かったのは、乾くるみさんの『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)。ふだんから作品のディテールを斜め読みしてしまう、かなり先急ぎの読み方をする私は、読み終わってしばらくしても、問題作って呼ばれるこの本のどこがすごいのか、まったく分かりませんでした。ただ、あれれ、ちょっと変だな。作者のミス?って部分が気にはなりましたが。ところがどっこい、ミスじゃなかったんですね。おもしろーい。おすすめです。そんな見事なトリックは別にしても、1960年代生まれの人間にとっては、その世代の恋愛の特徴がすごーく上手に表現されていて感心。描かれているのがあまりに平凡な恋愛だって批判もあるみたいだけど、もちろん、それは作者が意図したところだし、それから、そういう文句言ってるおめーらの恋愛もだいたいこんなもんだろ?って感じかな。
作者の乾くるみって名前は、女性っぽいけど、どうして、こんなに男の心がつかめているのかと不思議に思っていたら、どうやら、男性作家みたいですね。納得。でも、トリックに気がついた後は、なかなか女性の描き方も鋭いなぁと。ただ、まあ、やっぱり、そこに描かれているのは、作者渾身?の「演技シーン」の描写が象徴するように、あくまで紋切り的な、男からみた“女性のすごさ”なのかも。

映画もいくつか観ましたが、とりわけ印象に残ったのは、『パンズ・ラビリンス』。万人にすすめられる映画じゃないと思いますが、もし宣伝とかをみてアンテナが反応してしまい「どうしようかなぁ、行こうかなぁ」って思った人は、なんとか都合をつけて行くべきです(まだやってるかな)。
内戦期のスペインの田舎が舞台の、多感な少女を主人公とするダーク・ファンタジーです。映画評をいくつかみると、「不思議の国のアリス」のダーク版という見方も提示されていますが、私の場合、映画を観てる最中から、「マルチェッリーノ パーネ・エ・ヴィーノ」の物語を連想してました。「マルチェッリーノ」を観て、まずは感動しつつも、こんな悲惨な話を感動の物語に仕立て上げる美化作用というか幻覚作用を持ったキリスト教の怖さや残酷さについて私と共感してくれる人であるなら、なおさら、『パンズ・ラビリンス』は、その辺がストレートに表現されいて、うん納得、の絶対おすすめ映画です。
2007.11.09付記 この記事の末尾のあたり、ちょっと言葉たらずでしたね。この映画で「ストレートに表現されて」いるのは、「キリスト教の怖さや残酷さ」の方ではなくて、物語の「悲惨」さの方です。とってもドライなファンタジーという、一見矛盾した二つの言葉がしっくりとあてはまる映画でした。

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2007/01/29

映画『どろろ』の感想と、ミスチル主題歌「フェイク」についてほんの少しの感想

 映画『どろろ』を観た。ご存知、手塚治虫が原作のコミックの映画化。『週刊文春』に載っていた、おすぎの映画評でも高評だったので、期待しつつ、それでも期待しすぎないようにつとめながら映画館へ。 なかなか良い映画でした。
 映画のあらすじ~時は戦乱の世。ある武将が、化け物と契約を結ぶ。天下をわがものとすることと引き替えに、生まれてくる我が子の体の48箇所の部分を化け物たちに与えるという約束。こうして体のほとんどを失った赤ん坊は川に流される。その男の子が人造の体を与えられ、成長して化け物たちと戦う旅に出る。化け物を倒すたびに彼、百鬼丸はひとつずつ自分の体の部位を取り戻していく。そんな彼と偶然出会って共に旅することになったのが、泥棒のどろろ。どろろは、とある武将に親を殺され復讐を願っている。百鬼丸の使う最強の武器は左腕に仕込まれた刀だが、百鬼丸が左腕を回復した機会にその刀をわがものにして復讐に使おうというのがどろろのねらい。このどろろは、男として育てられたが、実は女。そんな旅の途中、どろろの敵である武将が百鬼丸の父であることが明らかとなる。でもって――、というのがあらすじです。
 
 個人的にはどろろ役の主演女優、柴咲コウに見とれてしまいました。年末、柴咲コウが出演したTVドラマ『GOOD LUCK』の再放送を見てあらためて感心しましたが、今回もこの女優さんの魅力を再確認しました。

柴咲コウのいわゆるツンデレ
 
 『GOOD LUCK』の航空整備士役は、木村拓哉演じるパイロットを相手にした、いわゆるツンデレのお手本みたいなキャラクター。そうそう、同じくTVドラマの『オレンジデイズ』の難聴に悩むバオリニスト・ピアニスト役も、やっぱりツンデレ・キャラクターでした。相手は今回の映画と同じ、妻夫木聡。
 
 今回のどろろ役も、煎じ詰めれば、ツンデレの亜種みたいなもんですよね。手塚治虫的亜種といってもいいかな。表面的には「デレ」の部分が極端なまでに抑制されているがために、よけいに引き立つツンデレというか。どろろの他には、たとえばリボンの騎士のサファイアとかね。男装の女の子という設定が共通。
 
 そんなツンデレ評論の観点からすると、今回の映画『どろろ』では、ラストシーンがなかなか面白かったです。まあ、これもよくあるパターンといえばパターンなのかもしれないけど、上記のTVドラマと比べても、なかなか爽快?でした。百鬼丸がいつ「アレ」を化け物から取り戻していたのか、という至極まっとうな疑問をもつ人は当然多いらしく、ネットなどでも論点化していますが、まあ、そうしたことも織り込み済みの、よくできた脚本でした。
 
無いものねだりを少し

 柴咲コウの魅力はともかく、映画の構成については少し注文が。映画のなかほどで繰り返される化け物との格闘シーンの連続はちょっとつまんなかった。まあ、アクション班への配慮もあっての編集だったかもしれない。個人的には前後の文脈あってのアクションシーンだとは思うんだけど。香港のカンフー映画とかで、主人公が一番の敵役と遭遇するクライマックスの前に、連戦シーンとか訓練シーンの断片がしばらく続く部分があったりしますよね。それを連想。で調べたら、今回の映画のアクション監督が香港映画の人だと知って少し納得。意識的な演出なら、それも面白いか。
 もうひとつの注文は、百鬼丸の父が化け物と非情の契約を結ぶにいたるまでの、人間に絶望していく過程がもう少し描かれていると良かったと思う。冒頭のシーンの極端なまでの凄惨さがその過程の象徴なんだろうけども、もっとストーリーとして展開してほしかった。彼の絶望がそもそもこの物語の出発点なわけだろうし、彼の最期も、そうした絶望との闘いとしてより深く印象づける方が良かったような気もする。まあ、いわゆるエンターテイメント作品にそんな無いものねだりをしなくても、“無いもの”はお客が自分の頭で補って観てあげれば十分だけどね。すべてが描きこまれてる必要はないもんね。

 ともあれ、『どろろ』、楽しめました。

ミスチル「フェイク」
 
 ついでながら、ミスチルの主題歌「フェイク」も面白い。映画にふさわしいかどうかはちょっと微妙だけど、歌詞が面白い。少し前の記事で、ミスチルの「しるし」について、ここしばらくのミスチル・ラブソングにつきものだった苦味・自嘲・皮肉といった“スパイス”が使われていない、ピュアなラブソングだという感想を書きましたが、そこでは使われなかった苦味・自嘲・皮肉が、そのまままとめて詰め込まれちゃっているのが「フェイク」かなと。

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2006/11/13

私の好物、カキのスパゲッティに「のだめカンタービレ」

久しぶりにスパゲッティのレシピなど。このブログに載せるレシピは、オリジナルか、あるいは、ほんの少しでも自分で工夫を加えたものに限定してきましたが、今回は掟やぶり。

だって、この季節、僕の一番の好物スパゲッティだから。レシピは、有名な落合務シェフによるものです。カキが好きな人は絶対作ってね。ホント、美味しいから。

玉ねぎ四分の一個から二分の一個をみじん切りにして、フライパンに入れ、オリーブオイルを加えて弱火で加熱(落合シェフは玉ねぎじゃなくてエシャロット)。いわゆるソフリットです。同時にスパゲッティを茹でるお湯を沸かし始める。玉ねぎが透き通って、さらに軽く色づいてきた頃を見計らって、細めのスパゲッティを茹で始める。その茹で上がりまで残り4分くらいのタイミングで、玉ねぎの入ったフライパンの火を強め、むき身のカキを入れてフライパンをゆする。カキの色が白っぽくなったら、白ワインを入れてしばらく加熱し、次にバター。煮詰まり過ぎたら水を少し入れてのばす。塩と胡椒で味を調える。コショウはあらびき。黒胡椒でアクセントをつけるのが良いかも。最後に万能ネギの小口切りを入れてフライパンは弱火に。そこへ茹で上がった麺をよく湯を切って投入してあえる。

 今日も作ろうかな。レシピ書いてたらムショーに食べたくなった。カキのスパゲッティ食べて、ちょっと濃い口の白ワイン飲んで、楽しみにしている月曜ドラマ「のだめカンタービレ」観て、風呂にでも入れれば極楽なんだけどな。
 だけど、仕事が、仕事が、仕事が。。。。。。orz

 それはともあれ、のだめカンタービレの主演、上野樹里の演技はすごい。本当にすごい。のだめそのまま。ナナ=中島美嘉を超えるかな。竹中直人の怪演も。ドラマ観始めてから後、原作のコミック読み返していると、それまでフツーに読んでいたシュトレーゼマン(ドラマでは竹中直人が演じる超大物ドイツ人マエストロ)のセリフが、全部、頭の中で竹中直人の口調に変換されちゃう。強烈だぁ。

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2006/08/31

映画「深海blue cha-cha」の感想

映画「深海blue cha-cha」を観て

 先日、ふとしたことで時間が空いた。久しぶりに映画をみようと思った。台湾映画「深海blue cha-cha」に行くか、カミさんもご推奨の、イッセー尾形が昭和天皇を演じる「太陽」に行くか、迷ったあげく、前者にした。こっちの方がなんとなく夏向きかなと。まあ、ちょうど後者も日本のとある暑い夏に始まる物語なんだろうけどもね。

(映画のあらすじ)~これから観に行く人は読まないでね。
 刑務所を出たばかりの若い女の子アユーが、所内で知り合った年上の女性アンを訪ねる。アユーは、アンのアパートで寝起きしながら、アンの経営するバーで働くことになる。
 美人のアユーには、たちまち男が言い寄ってくる。そんなアユーは実は「心の病」を抱えている。アンはアユーに、男を好きになるな、と言い諭すが、アユーは、あっという間に男にのめり込んで、心のバランスを失ってしまう。 バーの客に捨てられボロボロになったアユーは、アンの紹介で電子部品の工場で働き始めるが、その職場にいた若い誠実な男が彼女に恋をする。男の「何も心配しないで僕を信じて。」という言葉を頼りに、アユーはアンと喧嘩別れをして、男と同棲を始める。その男との恋が自分の全て、という状態が続くアユーを、やがて男は持て余し始める。絶望したアユーは薬で自殺を図るが命をとりとめ、再びアンに引き取られる。
 一度だけ男がアユーとよりを戻そうと訪ねてくるが、以前アユーが刑務所に入ったのは夫を殺したからだ、とアンから告げられて男は立ち去る。
 アンとの生活で再びアユーが笑顔を取り戻し始めるところで映画は終わる。

 難解なところはほとんどない映画。ただひとつ、わからないシーンがあった。最後にアユーが笑顔を取り戻すきっかけが、人形劇の旅芸人とのささやかなめぐり合いなんだけど、その意味がわかんなかった。人形遣いの若い男は自閉症(?)で人形の操りはピカイチ。その男の人形芸を見てアユーが笑顔を取り戻す。人物設定やら人形芸の中身などがちょっと思わせぶりだけど、意図はうまく理解できなかった。

 それはともかくとして―

アユーの恋愛依存 
 自己評価が低く極度の恋愛依存症のアユーは、いわゆるアダルトチルドレンの典型なんだろう。この映画が好きか、嫌いかは、こうしたアユーのような女の子にシンパシーが持てるか否かにかかっていると思う。
 ただし、映画では、アユーは「心の病」、という設定になっているが、アユーのような恋愛依存の傾向は、病気なんかじゃなくて、多かれ少なかれ誰にでもあると思う。また、生きていくのに不器用で傷つきやすく、寂しげで、恋愛依存症っていう異性を、しっかり受けとめて自分が幸せにしてやる行為は、ある意味、男冥利・女冥利につきることかもしれない。アユーと同棲した男も、最初はその充実感に酔ったんだろう。だけど、そんな恋愛関係は遅かれ早かれ破綻していく。
 こうした恋愛関係のもろさ、はかなさ、満たされることのない飢餓感なんかをこの映画はしっかり描いているが、まあ、もしそれだけの内容ならあまりに月並み。

アンとアユーの未来
 この映画の味わい深さは、アユーを見守る年上の女性アンの優しさから生まれる。経営難のバーのやりくりに疲れ、宝くじにむなしい夢を託す、擦れたイメージの中年女性アン。そんなアンが傷ついたアユーをさりげない優しさで受けとめる。そこに示されるのは、アユーが懲りずにすがりついては傷つくはかない恋愛関係とは別の、深い愛情にもとづいた人間関係の可能性なんだと思う。
 映画では、アユーがアンのもとで笑顔を取り戻してハッピーエンドである。しかし、実際には、そのあと、アユーは再び決して満たされることのない恋愛にはまり込んでは深く傷つくという経験を繰り返しちゃうに違いないと思う。それを想像すると、このハッピーエンドも苦く、むなしくなるが、もう少し想像の先を伸ばしてみると、傷つく度にアユーはアンのところへ回帰しつつ、やがては、次第にアユー自身がアンの優しさを身につけて行くのではないかと思える。事実、映画の中でも、アンが過去の恋愛で深く傷ついた女性であって、それゆえ、アユーを受けとめられる存在になり得ていることが示される。今は若いアユーがアンの優しさを理解して、いつかその優しさを身につけた大人の女性に成長する未来の暗示。その暗示によってこの映画は本当のハッピーエンドとなっているのだろう。アンの踊るcha-chaのリズムとメロディーが切なく暖かく、映画全編に流れている。

 観終わって、恋愛に傷つく二人の女性の関係ってつながりから、ふと「NANA」のことを思い出す。「NANA」も、バリバリの恋愛依存症のハチが傷つきながら、ナナの痛みや優しさを理解し、自分のものとしていく成長物語として読める。だから、時々挿入される回想風のハチのセリフの、優しく醒めたトーンが印象深いんだろう。
(それにしても、映画の続編も、ハチ=宮崎あおいの配役で撮ってほしかったなぁ。確かに、続編に入るとストーリーの展開上だんだんナナが中心になってしまうけど、ハチの成長物語としてもこれからってところ。)

 それともうひとつ。映画「深海blue cha-cha」の舞台となっている台湾の高雄の風景が印象深かった。子供の頃に目にした、高度成長期の日本の都市風景によく似ていてとても懐かしかった。台湾、行きたかったなぁ。

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2005/06/11

Mr.Children、Mステ出演

昨日、テレビ朝日のミュージックステーションにミスチル出演。録画して仕事の合間に何度か聴いています。
「未来」。ポカリのCMソングになってる曲。CM以外で聴くのは初めて。

ミスチルでポカリだから、前曲の「イノセントワールド」みたいな曲かと勝手に想像してました。CMで流れるフレーズ部分だけ聴くと、やっぱり、さわやか系みたいだし。なんといっても、映像の綾瀬はるかちゃんのイメージが強烈だし。

でも、違った。実際はけっこう大人のテースト。自分の人生や恋愛の「未来」が、虚無によって蝕まれていくことへの抵抗の歌でした。ミスチル嫌いの人にしてみれば、こういう曲はともすると説教くさく感じられるのかもしれないけど、そのあたりは個人差があるのかもね。

早く全曲通して聴きたいな。

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2005/05/28

巡見~江戸を縦貫する 番外・浅草

 今夜のTBSドラマ「タイガー&ドラゴン」は、面白かった。話の下敷きになる落語「猫の皿」が、すごくうまくはまっている。感心。

 伊東美咲のキスシーンもなかなか良い。実を言うと、それほど好みの女優さんではないが、シーンの設定が心憎い。あれなら誰がみても、可愛いって思うだろう。クドカンはさすがやね。

 それはともかく、このドラマにでてくる浅草の街の雰囲気がなかなかリアル。思うに、最近の浅草ってのは、テーマパーク的な印象が強い。近代東京レトロっていうか、なんていうか。そのテーマパークっぽさが、このドラマの浅草風景として、よく表れていると思う。浅草が最近、人気を取り戻しつつあるのも、そんなテーマパークっぽさが受けているからではないかと思う。

 20年余り前、予備校の寮が千葉にあり、そこからオールナイトの映画などを観に、浅草へちょくちょく通った。その頃の浅草は、本当に寂れた街だった。通りの脇にあった植え込みの枯れ枝が、風に吹かれて丸い塊になり、道をコロコロ、カサカサ、転がったりしていた。その時分は、街の古くささが現在のレトロ的、テーマパーク的面白さを生むには、まだ時期が早すぎて、そこは単なる時代遅れの盛り場だった。あちらこちらで、バブル景気が「下町」の風景をむしばんでいた。
 「タイガー&ドラゴン」が現在の浅草風景をうまく取り込んだドラマなら、当時の浅草をよく表しているのが、山田太一原作で大林宣彦が監督した映画「異人たちとの夏」だ。現代版牡丹灯籠みたいな怪談のこの映画は、殺伐とした都会の人間関係に疲れた男が、浅草で幼い頃に亡くした父母(幽霊)と再会し、その父母が暮らす幻の古アパート(本当はすでに取り壊された跡地)へ通いつめるというお話。
 もし、浅草ファンで、まだこれらドラマ・映画を観てない人は、ぜひご覧下さいな。「異人たちとの夏」のすき焼き今半のシーンはいつ観ても泣いてしまう。

 ついでに、「タイガー&ドラゴン」の噺家世界に興味を持った人は、こちらの映画もどうぞ。森田芳光監督の「のようなもの」。忘れられない映画です。なんとなく、研究者世界にも通じるかな。そうそう。「異人たちとの夏」も「のようなもの」も、秋吉久美子だね。これまた、私はそれほど好みではないが、映画の中では素晴らしく良い。

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2005/04/23

日清カップヌードルのCM

カップヌードルのCMの最新版には、銃をもってパトロールする少年兵が登場。
広がる青い海の美しさと、その彼方をみる少年の姿に心を打たれた。
もちろん、そこに流れるミスチルの歌もすごく良い。

だが、どうやら、このCMにはクレームがついたようだ。
放送は中止だとか。日清のHPからも関連ページが落ちている。

アニメで子供らが武器を扱うシーンはOKだが、実写だとダメってことなんだろう。おそらく。
報道番組で十分な説明を付けて実際の少年兵を取り上げるのはOKだが、CMにいきなり少年兵を登場させるのはダメってことなんだろう。おそらく。

でも、説明なんてなくったって、あの少年の姿が投げつけてくるインパクトだけで十分な気もする。
視聴者が子供であっても、そのインパクトを受け止めてCMの意図の本質を直感的に理解できると思うんだけど。無理かなぁ。
家庭において、親子で遠い国の少年兵の問題を話しながら、戦争について考える良いきっかけにもなると思うんだけど。だめかなぁ。

残念でした。制作者の方々、これにめげず、シリーズの続作、頑張って下さい。

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2005/03/30

その時歴史が・・・樋口一葉

今夜はテレビづけになりそう。
もちろんバーレーン戦は見たい。

それから、もう一つ。NHKの「その時歴史が動いた」で樋口一葉がとりあげられる。
このブログでも書いたが、遊郭吉原周辺の町あるきをきっかけに、樋口一葉の『たけくらべ』を読んで以来、すっかり一葉ファンである。

今夜の番組には、あの瀬戸内寂聴さんが出て一葉を語るんだとか。一葉の援助交際に関する自説も展開されるんだろうか?ちょっと興味あり。「寝てもくれない女に、そんな大金くれてやる男なんていませんよ。」ってな具合で。

番組予告をみると、『たけくらべ』ではなくて、『にごりえ』を書いた時が、「歴史が動いた」時だそうです。
まあ、それは当然。

『にごりえ』は本当に凄い作品だと思う。主役の売れっ子娼婦は、お力って名前でしたっけ?よく書けてるなぁ。
賢くて、可愛くて、弱くて、明るくて。今、風俗嬢やっても絶対人気が出るに違いない。で、やっぱり切ない運命をたどるんだろうけど。

一葉は、何人もの娼婦と付き合っていたらしいが、そうした交流のなかで、売れっ子とそうでない子の違いってのを事細かにつかんでいったんだと思う。それにしても鋭い観察眼だけど。
で、その観察眼は、『にごりえ』っていう傑作だけでなく、あのインチキ?占い師から大金を貢がせるための手練手管にも結実したように思う。

ここで問題なのは、今朝、保育園に行く次女とした約束。朝ご飯をパクパク食べたら、夜は、しまじろうのビデオと彼女がお気に入りのドラマ「王様のレストラン」のDVDをたっぷり見せてやると約束しちまった。
「王様のレストラン」! 三谷幸喜が脚本を書いた奇跡の最高傑作ドラマ。次女が物まねする「しずか」(山口智子演じる橋幸夫ファンの女性シェフ)は、この上なく可愛い(ただの親バカ・モードですみません)。それにしても、あの頃の山口智子は輝いているなぁ。

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2005/02/17

NHK「フリーター漂流」をみて 中編

 ※「前編」の記事はこちら
 ※追加記事2008.6.11.はこちら
 なお「後編」は未執筆です。

 この番組には、ある中年男性(35歳)のフリーターも登場する。請負会社から送り込まれた工場での仕事に耐えられず、実家に戻った彼に対して、その父親が説教をする。そのシーンも印象深かった。

中年フリーターの希望

 彼はもともと実家が経営する小さな運送会社で両親と共に働いていた。しかし、その運送会社の仕事は月間売上がわずか7万円というところまで激減した。風前のともしびのこの小経営から彼は離脱せざるをえず、請負会社の面接を受け、時給900円(たしかそのくらいだったと記憶している)で北関東にある携帯電話の部品工場へと送り込まれて働き始めるのである。

 工場での仕事は携帯内部の基盤かなんかを組み立てるごくごく単純な作業だが、一定時間内に決められた量をこなすのはそれなりに厳しそうだ。何日かたってやっと作業の要領をつかみ始め、彼の表情にもわずかな明るさが戻り出したある朝、突然何の予告もなく、仲間ともどもそれまでの作業を打ち切られる。チームは解体され彼ともう一人のフリーターは別の工場に回される。次に彼らが従事するのは、作業の都合上、真っ暗にされた小さな部屋で、数人の作業員が朝から晩まで手元の照明を頼りに部品の加工を行うというものである。使用するシンナーが漂っているその小部屋には、どう見てもうちの台所よりチャチな換気扇がとりつけられているだけだ。この工場でも、ある日、それまで山積されていた未加工の材料が激減した。どうやらまた急な生産調整がはじまったようだ。そのうち、彼はまたある朝突然、別の作業場へと回されていったのか。

 工場で技能を獲得し“一人前”の工員になりたいと願う彼の夢はこうして脆くも砕かれる。彼は仕事を辞め札幌の実家に戻った。その彼に運送会社を営む父親が説教するのである。

父親の説教

 どうして辞めたんだ、辛抱が足りないと。仕事がつらくても、誠実に働いてさえいれば、そんなおまえを「見そめてくれる」上司だとかがきっと現れる。その人がおまえを引っ張り上げてくれる。仕事とはそういうものだ、働くとはそういうものだ、といった説教を父親は息子に言い聞かせる。

 彼は父親に反論することもなく、つらそうな表情を浮かべてじっと耐える。おそらく、彼がたらい回しされた工場の責任者たちには、彼の名前すら憶える気もなければ、その機会もないだろう。請負会社の幹部社員が、自分たちの取扱う「弾」のひとつである彼を「見そめ」て、請負会社の正社員に引っ張り上げることもありえない。だが、そういった反論をぶつけることもなく、彼はじっと父親の説教を受ける。

 たぶんこの父親は、これまで、説教の言葉どおり、自分自身がつらい仕事もじっと耐えて誠実に働くことで、こうして小さいながらも運送会社を立ち上げられたのではないか。そういう父親を「見そめ」てくれたお客たちからは時には無理な注文も持ち込まれるが、それを文句も言わずこなす。そうすることで会社を守ってきたはずだ。ところが今では、そんな客も次々と去ってゆき、会社はつぶれようとしている(一ヶ月の売り上げが7万円だよ)。
 
 父親に対してフリーターの息子が反論しないのは、反論したところで理解してもらえるわけがないからという他に、今、絶望的な苦境にいる父親を支えているのは、一生懸命働いていれば必ずいつかは認めてもらえるはずだ、という信念のみだということを分かっているからではないか。それを否定することは、息子としてできなかったのではないだろうか。

私の説教

 私にとってこのシーンが印象深かったのは、この父親の説教とほぼ同じような文句を、かつて私が口にしたことがあるからだ。

 ある友人が、パートの勤務先での人間関係などに悩んだあげく、その仕事を辞めたいと言う。その友人に対する私の言葉は、おおよそ、この父親の説教と同じようなものだった。その友人の勤務先には、いちおう制度としては、パートから準社員へ、そして正社員へ、という昇進コースが設けられている。友人も働き始めはこのコースに期待をしていた。だが、最近の友人の話では、パートのなかには自分より何年も先輩で優秀な人もいるが、誰も昇進していないとのこと。そのうち辞めていくと。

 正月休みもなく、くたくたに疲れ終電で帰宅することも多いその友人は、私の「説教」をどういう思いで聞いたのだろうか。番組に登場した中年フリーターと同じく、この友人も私に反論することはなかった。「頑張っていればいつかは引っ張り上げてもらえる。」と信じる私のことを慮ってのことだったのだろうか。

再び漂流へ

 番組の続き。父親に諭された彼は、ふたたび同じ請負会社の面接を受ける。そこで提示されたのは東海地方の自動車関連工場の仕事だった。彼よりも相当年下の請負会社の男が言う。かなりきつい仕事ですよと。自分に続けられるだろうかと不安げに尋ねる彼に、請負会社の男は冷たく告げる。もうあなたの歳だと仕事を選んではいられないんですよ。

 この番組を見逃した方は、こちらの番組要約をぜひご覧ください。ネットで検索してみつけたんですが、かなり風変わりな(←ほめ言葉です)左翼「紙屋」さんのホームページにすばらしい要約がありました。

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2005/02/10

NHK「フリーター漂流」をみて 前編

 ※この記事のつづきはこちら
 ※2008.6.11.秋葉原通り魔事件によせての追加記事はこちら

先日、NHKのドキュメンタリー「フリーター漂流」をみた。感想を書く。
北海道出身のフリーター3人の話が中心。彼らは、全国展開する請負会社の手によって、北関東で携帯電話の部品を製造する工場へ送り込まれる。

請負会社?人材派遣会社じゃないの?と思うかも知れないけど、この請負会社ってのが凄い。人材派遣会社の場合、そこから派遣された「人材」は、諸々の法的(?)規制でもって、派遣先においてもある程度は「人材」としての扱いを受ける権利があるらしい。でも、請負会社ってのは違う。会社は、お客である工場などから、その工場内での一定量の作業を請け負う。でもって、自分のところで雇ったフリーターたちをチームに編成して工場へ出向き、請け負った仕事(もちろん熟練の不要な単純作業)を短期でこなす、という仕組み。したがって工場側は、そのフリーターたちの身分やら待遇やらに関して何の責任も負わないですむ。工場側とフリーターたちとの間は何の契約関係もないんだから。

で、フリーターたちは工場へ行って一日中黙々と単純作業を行う。ところが次の朝、また工場へ行くと、何の予告もなく、その場で突然チームが解体され、別々の工場へ行って新しい仕事につくよう言い渡される。工場側の説明によると、急に部品の受注が減ったため、昨日までの作業は不要になったからとのこと。フリーターたちは、せっかく仕事の要領も覚えたことだし、できることなら自分たちを同じ工場になるべく固定して欲しい、と請負会社に訴えるが、まったく無視される。請負会社はお客である工場側からの要求を最大限優先して受け入れることにしているからだ。そうしないと工場側からの請負仕事の発注が無くなるのだろう。このような場面で何の文句も言わないのが請負会社のウリだそうだ。市場の状況に即応するかたちで、こうした急な配置転換が無造作に繰り返されていく。

昨日までに覚えた仕事は新しい工場では何の役にも立たない。あちこちの工場・作業場をたらいまわしされるフリーターたちが仕事を通じて個人の能力を高めることなどは望むべくもない。かわりに忍耐力と健康とをすり減らした彼ら彼女らの少なからぬ部分は、数ヶ月間の短期雇用期間をまっとうすることなく脱落する。その穴は全国からかき集められてきたフリーターによってすぐに埋められていく。

請負会社の人は、自分たちの会社は「社会のために貢献している。」と胸を張っていた。現在の工場はコストダウンのため市場の動向に機敏に対応する必要がある。だから、突然たくさんの人員が必要になったり、逆に不必要になったりすると。そうした工場のために請負会社は頑張っているんだそうだ。前線で「弾」が必要になっているところへすぐさま「弾」を送り込んでいくのが自分たちの務めだと。この「弾」って言葉は月並みな言葉だが生々しかった。請負会社の顧客である工場が勝利をおさめるための弾薬の補給。請負会社にとってフリーターたちはまったくの消耗品なのだろう。こうやって請負会社は「社会」に貢献しているという。

フリーターたちの給与は時給。体調を崩して仕事を休んだりすると、そのまま収入は消える。賃貸アパートを借り上げた「社宅」住まいの彼らの手取りは、給与から家賃や光熱費を差し引いた額である。アテにしていた残業が工場の都合でなくなり、その上、体調を崩して何日か仕事を休んだフリーターの、その月の手取りがわずか数万円となってしまい呆然としている姿が印象に残った。

こうした請負会社のやり方に対して、「この業態にも立法・行政の規制が必要なように感じました。」という佐藤晶さんの意見に深く共感する。

朝から晩まで、文字通り機械のように携帯電話の部品取り付けを繰り返す。さらに夜間までの残業を希望し、やっと十数万円の月収を手にする。

今の若い人はきつい仕事嫌うからフリーターが増えるんだ、なんて誰が言うのか。
こういった「弾」を使い捨てることで利益をあげていくのを誰が経営手腕と呼ぶのか。
全国各地の製造現場を漂流するフリーターは現在100万人にのぼるという。

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2005/01/09

改・大河ドラマと歴史考証

前の記事で大河ドラマの歴史考証について感想を書きました。やっぱ読み返すと意味不明ですね。恥ずかしい。こうやって自分で書いたものを、少し時間をあけて読みなおして、やっと自分の言いたいことがわかる。
(思うに、締め切り直前に論文を書き上げる悪癖も直さなきゃね。頭脳明晰・理路整然ってのとは程遠い私のような人間は、一度書いたものを読み返してからもう一度書き直すくらいでやっと人並み。)

前の記事では厳密な歴史考証の不可能性について、という当たり前のことも書いたけど、まあ、それは話の本筋ではなかったみたい。

本当は次のように書くべきだった。もし仮に完璧な歴史考証というものが可能であったとしても、それに縛られたドラマづくりをする必要はまったくない、と。

さて、今日から新しい大河ドラマが始まるけど、わけ知り顔した「歴史家」のどんなコメントが出てくるのか、そっちも楽しみにしたいな。

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2005/01/02

大河ドラマ新選組と歴史考証

酒を飲みつつ、年末に録画したNHKのアンコール放送をみた。新選組の「友の死」の回。堺雅人演じる新選組総長の山南敬助が切腹する話。いつ見ても泣けるなぁ。鼻の奥だか喉の奥だかわかんないけど、ツーンと痛くて大変。鈴木砂羽の明里も名演だぁ。

それはともあれ、大河ドラマに対してはいつも歴史の「専門家」とやらから文句が寄せられる。こんどの義経に対しても、予告編が流れただけですぐにイチャモンが出始めている。

わけのわかんない「歴史家」やら「評論家」やらが、主にオジサン向けの雑誌なんかで、“近藤勇と桂小五郎が昔からの顔なじみであるわけない”だとかあげつらって、これは荒唐無稽なドラマですね、なんてケチつけているのは、まあ聞くに値しないだろう。編集側が欲しがってるとおりのコメントだして謝礼もらうのが彼らの商売なんだろうから。

歴史ドラマにおける歴史考証の役割ってのは、そのドラマにリアリティなどの効果を与えるため、脚本家や演出家などの要請を受けて過不足のない歴史的知識を提供することにつきると思う。決してそれ以上ではないだろう。

歴史に忠実なドラマなんてありえない。

セリフひとつとっても、当時の人々の言葉使いや発音をすべて再現することは不可能だし無意味である。セリフの背後にある人々の道徳観念やら人生観だって忠実な再現は不可能だ。建物の復元だって至難のワザ。

ただ、歴史を無視することで著しくドラマの効果が薄れる(とドラマの作り手が判断した)場合は別である。例えば、鳥羽伏見の戦いで新選組が大活躍して幕府軍は大勝利、近藤勇はどっかの大名にとりたてられる、なんて逸脱はドラマがシラけるだろうから、あまりよろしくないだろう。

そうした場合をのぞけば、歴史に忠実であれ、とドラマに要求するのはナンセンスである。

ところが、先ほど挙げた“売文家”的「歴史家」ではなくて、専門の研究者などがドラマのあら探しをすることがままある。しかもそうしたあら探しの成果が学術雑誌に載ったりもする。その多くが啓蒙臭い論調。

もし真剣にドラマ批判を展開する必要があるとすれば、そのドラマを支配するなんらかの思想なり価値観があって、それが社会に有害であると批判者が考えた場合のみであろう。その場合は、その思想・価値観がどのようなものであるのか明らかにし、かつ、それが広汎な視聴者に対して実際に大きな影響を及ぼしている(あるいは及ぼす可能性が高い)ことを立証すべきであろう。さらにはそれに対置する批判者自身の思想・価値観を明確にして、そのドラマの思想・価値観の問題点を指摘すべきであろう(もちろん、こうした“なされるべきドラマ批判”が研究者の手によっておこなわれた例だっていくつもある)。

さて、今年の大河は面白いかな?
それより、三谷幸喜さんが朝の連ドラを書いてくれないかな。毎朝楽しいだろうな。

(以上、最初にアップした記事に若干加筆しています。元が酔っぱらって書いてたもんで、論旨がとりにくい部分があるように思えたからです。ご寛恕ください。2005.1.8.記)

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