2012/08/17

姫様とテレビ収録

8月中旬を過ぎて、大学関係のお仕事も、やっと一段落。
いちおう少しは夏休みらしくなってきた。
とはいえ、フリーターの身ゆえ、その間、休んでいたら干上がってしまう。
バイトに精を出さねば。

昨日は、CSの時代劇専門チャンネルの収録。メインの時代劇放送の合間に、スポットで入る情報系番組。「時代劇おもしろ雑学虎の巻」というタイトル。2年前くらいから時々呼んでいただいてる。

MCは、はしのえみさん。

もうおひとりのレギュラー出演者が、テレビの「鬼平」や「剣客商売」の名プロデューサー、能村庸一さん。

このお二人を相手に、江戸の歴史に関するちょっとした解説をする“先生”が僕の役割。

昨日は、「江戸の火事」と「江戸の火消」の2本収録。

これまで、かれこれ10本以上は出演したと思うけど、相変わらず慣れない仕事。緊張するし、僕のミスで周囲にしばしば迷惑かけてしまう。
でも、はしのさんや能村さん、そして、顔見知りになってきたスタッフの皆さんとのあいさつやおしゃべりが楽しみで、自分としては、厚かましくも、まったく苦に感じない仕事。
まあ、こんな僕でも現場では“先生”扱いはしていただけるし。

それから、実は、10年以上、「王様のブランチ」観てます。
はしのさんが今のようにメインレギュラーになる前からの“はしのさん推し”でした。
恥ずかしくてご本人にはまだ告白していないけど。

そして、中村吉右衛門の「鬼平」も大ファン。
昨日は、休憩中にお隣でお弁当いただきながら、能村さんに「鬼平」の話をしてもらえた。感激。役得。

また次回が楽しみ。

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2010/09/17

餅は餅屋で、今年の夏の贅沢

 先週のソウル出張をのぞけば、毎日家で家事と仕事を繰り返す単調な今年の夏休みだったけど、ひとつ、新鮮でとても「贅沢」な体験だったのは、まるまる一日のテレビロケ。

 「時代劇おもしろ雑学虎の巻」、ぜひみてね!

 CS系の時代劇専門チャンネルで放映している「時代劇おもしろ雑学虎の巻」という10分間の番組に、昨年度からときどき呼んでいただいて仕事をしています。主な出演者は、タレントのはしのえみさんと、鬼平シリーズなどをてがけた大物時代劇プロデューサーの能村庸一さん。昨年は、このお二人を相手に、スタジオでクイズの出題と解説なんかを3回くらいさせてもらったんですが、今回はスタジオを出て屋外ロケの企画。

 僕の出演は2回で、番組のお題は、1回目が現代東京に江戸の名残をさがす「江戸探し」、2回目がその名もずばり「市中引き回し」。

 放送予定

 「江戸探し」は来週放送、「市中引き回し」は再来週の放送です。時代劇専門チャンネルを視聴している方はぜひご覧ください。放送スケジュールは、「江戸探し」はこちら「市中引き回し」はこちら。

 餅は餅屋

 今回は企画段階からお手伝いさせていただきましたが、僕の提案企画は「江戸の事件現場をめぐる」と「江戸探し」の2案。いちおう自信作でした。そして、プロデューサーさんやディレクターさんからのご提案が「市中引き回し」。で、実際にロケハンにも行って、検討した結果、僕の提案した2案はこれらを混成圧縮して「江戸探し」1回分に。もう1回は制作スタッフご提案の「市中引き回し」に。

 当初の本音をもらしちゃうと、「えぇ?市中引き回しの方って面白いのかなぁ??」。この企画は文字通り、罪人に課された市中引き回しのルートを現代の東京の街で実際にたどるというものなんだけど、最初それにあまり魅力が感じられなくて…まあ、今にして思うと、要するに大人気なく自分自身の出した企画にばかりこだわってたわけですが。

 でも、ロケをやってる間に、自分でも楽しくなってきて、今も思い出深いのは「市中引き回し」。もちろん「江戸探し」の方もはしのさんや能村さん、スタッフのご活躍で、負けず劣らず面白い番組が出来たと思いますけど。

 そこで思いました。やっぱり餅は餅屋だと。最初はスタッフの方々の企画の良さが十分理解できなくて、いろいろ生意気なことも言ってしまったと反省。

 なんて贅沢

 ともあれ、テレビロケ、楽しい経験でした。ずいぶん前から土曜お昼の「王様のブランチ」をよくみててファンだった「姫様」はしのさんとおしゃべりもできたわけだしね… 「なんて贅沢なんだ」(伊藤淳史風に)。

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2008/10/23

映画『容疑者Xの献身』の感想

※この記事の終りの方に、いわゆるネタバレあり。これからこの映画を見に行く人は読まないでね。
 

 先日、映画『容疑者Xの献身』をみてきました。なぜか親子4人家族そろって。軽いタッチのテレビドラマ版探偵ガリレオをみてファンになった子供らが、どうしても映画もみたいって言い張るもんだから、「テレビとは違って、この映画は、たぶん、小学生のお前たちには面白くないよ。」って予防線を張って映画館に入りました。が、シリアスなテーマにも関わらず、意外にも、子供たちはちゃんと映画の展開に入り込んでいけたみたいです。

 別に親バカのわが子自慢ってわけではなく、思うに、石神の献身=愛ってのは、大人の欲望やら打算やらの濁りとは無縁の、純粋でプリミティブなものだから、その核心部分については、子供でもちゃんと共感できるのではないかなと。というか、子供の方がよりストレートに理解できるのかも。まあ、下の方の子はちょっと怪しかったですけど。上の子は、石神の書いた茶色の封筒の最後の手紙に、いたく感心していました。

 一流大学の准教授のガリレオ湯川とは違って、アカデミズムの世界でのポストを得ることもできず、不遇の人生に絶望した数学者の石神が、その絶望の窮みに至ってはじめて獲得できたのが、そんな純粋でプリミティブな愛だったのでしょう。そうした大人の人生の紆余曲折の意味の方は、お子ちゃまたちにはまだ理解できないでしょうが、その紆余曲折の末に石神が到達した境地は、子供の心も確実に共鳴する、シンプルでストレートな美しさを帯びていたということでしょう。そうした境地に達した石神は、そこで再び、数学の美しさに没入する喜びも取り戻します。
 こういった原作の基本主題がちゃんと観客に伝わることだけをとっても、この映画はかなり良い出来であると言えるのではないでしょうか。

 もうひとつ、感心したのは、あの隅田川沿いの地域の色が、よく表現されていたことです。できれば、錦糸町のスナックのシーンも少しだけでいいから入れて欲しかった。それで靖子の人物像がいっそうふくらむはず。

 「とばっちりで殺された例の被害者の身にもなってみろよ。」という不満は重要だと思います。それは、目的をより見事に達成するためなら手段は選ばない、といった石神の狂気についていろいろと思いを巡らすときのポイントになります。
 もちろん、この問題をほじくりだして、「この映画は人命を軽視している。」と単純に批判しても仕方ないでしょう。石神の愛がそのまま“善”なるものでないことは確かで、そこにこの作品の本当の深さというか、隠れた怖さがあるように思います。その怖さは、原作の活字を追うだけだとついつい薄まりがちですが、今回の映像からは、しっかりとにじみ出ているように思います。
 柴咲コウが演じる内海刑事は、原作に出てこない、映画だけの登場人物ですから、せっかくなら、その彼女が、そうした不満の表明をやってもよかったと思います。湯川相手か、あるいは石神本人相手か。
 映画では、湯川に向けて、「痛みを分けてください。」みたいな甘ったるいことをわざわざ彼女に言わせてますが、このセリフはあまり必要ないように思います(別にこれがなくても営業上の問題だってないだろうに)。
 無関係の人の命を、自分の純愛の表現である例のトリックのなかのひとつの“ピース”として利用し消し去ってしまう。そんな狂気の純愛は、どこか『白夜行』の亮司の純愛に通じるところがあるような気もします。つまり、東野圭吾の追求する純愛ってことです。石神の「献身」のこうした暗い面を衝くには、内海刑事はちょうど良いキャラクターだと思うんですが。

 原作の感想は、こちらの記事です

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2008/08/25

『容疑者Xの献身』の感想

  9月16日付記:『容疑者Xの献身』が面白かったので、そのいきおいで、『白夜行』とその続編の『幻夜』も読んで感想記事を書きました。よろしかったらそちらもどうぞ。

 映画も見ました。映画の感想は、こちらの記事です

(以下、記事本文)
 
  行儀がひどく良くないのは自分でもわかっているんだけど、混んだ電車のなかで隣の人のひろげている本が視界のなかに入ると、ついつい盗み読みしてしまう。で、仕事柄、文章を斜めに読むスピードが多少他人よりは速いらしく、チラって覗くと、だいたい、そのページ分のあらすじが頭に入り込んでしまう。

 先日、京浜東北線の車内、中年サラリーマン風の乗客が読んでいた本が、殺人事件のまさに殺害のシーン。母娘二人が、母につきまとう男をコタツのコードで絞殺するところ。と、ここまで書けば、分かる人には分かっちゃいますね、この本の正体。だけど、そのときの僕には、作品名も作者も分からなかったんですけど。ただ、なんとなく、文体が好みだなぁと。水商売の女性と、彼女にタカる元夫という人物設定からして、よくある量産型“ハードボイルド”かいな、と思いつつも、ムダの無い、それでいてなんとなくデリケートなタッチの文体の印象と一緒に、犯人母娘の「靖子」・「美里」という名前が頭に残りました。
 翌日、混み合う電車での通勤の途中、昨日と同じく、すぐ顔の脇で本が広げられました。ぱっと見て、あらら、昨日と同じ本。同じシーン。今度の読者は、若い男性。

 こうして昨日今日と立て続けに同じ本に出くわしたからには、これは、かなり面白いんだろうってことで、早速、パソコンで検索。キーワードは「靖子」・「美里」・「殺人」・「小説」。ハイ、すぐにヒットしました。東野圭吾『容疑者Xの献身』。あの探偵ガリレオ・シリーズのなかの最高傑作といわれる作品。直木賞受賞。単行本は2005年だけど、ちょうど文春文庫にて文庫化されたばかり。

 このブログで、たびたび、しつこく、むなしく告白し続けているが、私は、柴咲コウのファン。で、その柴咲コウと福山ナントカって人の主演で大ヒットしたテレビドラマ『ガリレオ』の劇場版として、この秋に公開される映画の原作がこれ。そんなわけで、早速、駅の本屋さんで購入。一気に読み終えました。

 面白かった。ちょっと大人の本ですね。面白くない人には面白くない。「石神」の「献身」に理解が及ばない、シンパシーが持てないって人にとっては、最終的につまんないだろうな。ネットの書評記事をパラパラみても、記事を書いた人が意識しているかいないかはともかく、そこんとこで評価の良し悪しがかなり決まっているように読める。

 この作品をめぐって作者の東野圭吾自身がざっくりと語った、「やっぱり多くの男って、あ、この恋は伝わらないなと思ったときに、それでも相手の女性に好きな男がいるなり、幸せになる道が自分に関係ないところにあるとしたら、自分が犠牲になってでも叶えてやりたいという、お人好しなところがあるんですよね。」という心情が理解できるか否かにかかっているように思える。途中で登場してきた「工藤」って脇役も、まさにそんな「多くの男」のひとりだろうし。
 2008.9.29.付記:同じ作者の『白夜行』の「亮司」も『幻夜』の「雅也」も、そんな「多くの男」の代表みたいなもの。きっと、東野圭吾が一番惹かれる恋愛=「純愛」のかたちがこれなんだろう。

 個人的には、作品のストーリーとは違って、「石神」の企みが初期段階からうまくいって、その後の年月を通じ、彼の純愛がどんどん陳腐化したり傷だらけになるところが見たい気もするけど。それはひねくれすぎかなぁ。

 本格的な推理小説ファンの一部からは、トリックが途中でわかっちゃってつまらないって声も出たみたい(ちなみに、私は最後まで分かんなかった)。でも、まあ、それは気にならない。この本が、ミステリー系の賞をとったときにイチャモンをつけたミステリー作家がいた。その批評を少し読んでみたが、「石神」の心情分析という点では、まるでお子ちゃまやね、その作家は。

 ついでにいえば、なんとなく、白石一文の『一瞬の光』の主人公の“献身”を連想した。この本も、『容疑者X』同様に、なかなか“荒唐無稽”気味な部分もあるが、それでも肝心のテーマそのものには相当なリアルがあって、面白く読めた。

 まあ、それはともあれ、映画公開が待ち遠しい。先日、テレビニュースの芸能コーナーで、映画の主題歌のPVが少しだけ紹介されていた。もちろん、KOH+。福山ナントカ君は、柴咲コウがカラオケでバラードを歌うのを聴いて、その印象をもとにしてこの新曲を書いたそうだ。なかなか良い曲。テレビシリーズの主題歌「Kissして」も良かったけど、今度の曲も良い。
 そういえば、私の妹がこの福山君のファンで、歳甲斐も無くキャーキャー言ってたが、以前は、どこが良いんだか??って冷ややかに見ていた。が、ここにきて、ちょっと、印象が変わったよ。インタビューとか観ると人柄も良さげだし。うーん、才能もルックスも性格もめぐまれまくった男だなぁ、福山雅治。
 
 というわけで、柴咲ファンとしては、妻夫木ナントカも福山ナントカも許せる。が、許しがたいのは、阿部ナントカだろ!

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2008/06/11

フリーター漂流

 もう3年以上も前のことになるが、このブログでNHKの「フリーター漂流」というドキュメンタリー番組の感想を書いた。前編、それから中編まで書いて、後編を書こうと思いつつ、書けずにいる。
 この件は、自分のなかでもずっと宿題でありつづけている。今もそうである。最近書いている「近世の終焉としての現在」という連載記事も、実は、その宿題の一環に位置するものだと、自分では思っている。
 
 今朝アクセス解析をやってみたら、ここ数日、その昔書いた番組感想の記事を読みに来られる人が大変多い。これは、例の秋葉原の無差別殺人事件のせいだろう。
 
 番組では、北海道の運送会社で働いた後、フリーターとなり、あちこち漂流したあげくに、愛知の自動車工場での請負労働へと送り込まれていく男性が登場した。彼は一人前の工員としての人生を始めたいと願いながら、漂流の過程で、その夢を打ち砕かれていく。
 これは、青森の運送会社を辞めて静岡の自動車工場での派遣労働に従事していた今回の事件の犯人とどうしてもだぶってしまう。
 おまけに、犯人を雇っていた派遣会社こそ、あの番組のフリーターを雇っていた請負会社である。番組でこの請負会社の社長が、自分の会社が雇ったフリーターのことを、必要に応じて「前線」へ送り込む「弾」と呼んでいたのも印象に残る。刻々と変化する戦況に応じて、弾薬の不足する「前線」へすぐさま「弾」を送り込むことで、自分の会社は社会に貢献していると胸を張っていた。(今は、偽装請負が問題となって、「請負」会社から「派遣」会社へと変化しているが、実態はほとんど変わっていないようだ。)
 
 今回の事件を通じて、はからずも、あらためてこうした漂流するフリーターの姿に接することになった。なんでも、犯人の働いていた自動車工場では、200人のフリーターのうち、150人をいきなり解雇する計画だったとか。相変わらずやね。自動車工場の幹部社員が、記者会見で、この解雇について、うっかり、「切る」って口を滑らせてしまい、あわてて「契約解除」と言い直すシーンも、先の番組の「弾」発言を思い出させてくれた。

 今回の事件の犯人について、こうした境遇を考慮して少しは免責してやるべきだとは、まったく思わない。しかし、テレビ報道をみていて、もうひとつ、印象に残ったシーンがあった。
 彼がもともと切れやすい性格だったということを裏付ける証言として、かつてアルバイト(正社員という報道もある)していた青森の運送会社の同僚が語っていた。時々、仕事上のトラブルで興奮した彼の頭をコンと小突いて、まあ落ち着けとたしなめていたという。彼もそれにおとなしく従っていたという。この同僚は彼のことを不器用な男だと評していた。

 どうして彼がこの運送会社を辞めたのかはわからないが、もしそのままこの会社で働き続けていたらどうなっていたのだろうか。何度も頭を小突かれているうちに、やがて彼は自分の感情をコントロールする術を身につけた一人前の大人になっただろうか。あるいは、小突かれつづけるうちについに暴発してしまっただろうか。
 一方、自動車工場では、彼の頭を小突いて落ち着かせることのできるような職場での人間関係は成立しえたのだろうか。

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2008/06/04

最近のお気に入り

 ここんところ、ちょっと映画はご無沙汰してたが、つい先日、やっと念願の「少林少女」を観にいけた。このブログでもときどき告白しているが、私、柴咲コウのファンです。本来、自分の好みのタイプは、丸顔のなごみ系だと思っていたけど、自分の体型が、昔と違って丸みを帯びてくるにつれて、好みも変わったのか。ここ2~3年の間でファンになりました。

 そういえば、最近のお気に入りの女性シンガーは、YUI 。この人は結構丸顔系かもしれないけど、凛々しさが柴咲コウと通じる気がする。たまに学生さんたちとカラオケに行くと、頼んでYUI を歌ってもらう、というセクハラ・アカハラまがいの振る舞いをしてますが、この前は、ついに自分でKOH+を入れてしまうという暴挙に及んでしまった。もう、どうしようもないオッサンやね。学生さんたち、愛想尽かさないでね。
 
 で、映画「少林少女」、良かったです、はい。ネット上で脚本・演出についてのさんざんな評判を読んでから観たせいか、映画の出来の悪さはすでに織り込み済み。そうしたら、結構、抵抗なく映画に入っていけた(まあ、それにしてもひどかったけど)。
 基本的に、主役は、柴咲コウひとり。舞妓はぁぁんや、どろろと違って、余計な相方(笑)はいません(特に前者の相方は許しがたい!後者は、まあ、仕方ないか)。彼女のファンなら、映画の最初から最後までどっぷりと楽しめます。

 先日、浦和のイタリア料理店で友人と飲んだ。その友人も柴咲コウのファン。さらには、そのお店のカメリエーレ(ホールサービス)さんもファン。三人でちょっと盛り上がってしまいました。友人いわく、「彼女の“まったく自分の思い通りにならない感”がいいんですよ。」というのはなかなかの至言かも。

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2008/04/02

映画「ノーカントリー」の感想~本当の悪はどこに

 評判どおり、なかなか良い映画でした。そして、評判どおり、相当に怖いけど。アカデミー賞で作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞だっけ。ちょっと難解な映画かも。


 以下、これから観に行く予定の人は読まないでください。映画館から帰ったら、ぜひまたここに来てくださいな。

 原題は、No country for old men。老人がいられる国はもはや無い、とでも訳すのでしょうか。

 あらすじ。テキサス州西部。モスという貧乏白人男性が、狩りの途中で大金を手にする。麻薬の取引がこじれた銃撃戦のあと、死体が散乱するその現場に出くわして、200万ドル(だっけ)が入ったカバンを自宅にもちかえる。それがきっかけで、モスは、シガーという最悪の殺し屋に追っかけられることになる。そうした事態を察知した老保安官ベルが、モスとシガーの跡を追い始める。さらには、アメリカとメキシコの麻薬取引の組織もモスとシガーを追ってくる。

 とまあ、重層する追跡劇なんですが、ともかく、モスを追うシガーという殺し屋がすさまじい。殺人マシーンといってもいい。要するに、エイリアンみたいな奴だけど、それが宇宙生物じゃなくて、人間だということで断然凄みが増す。傷ついて血を流し折れた骨が皮膚を突き破って苦しみながらも稼働するこの殺人者の姿は、ターミネーターよりももっと怖い。いわゆる絶対的な悪としてシガーは登場し、冷静な態度で人を殺しまくる。

 それに対して、モスは、人間味があるキャラクターだ。映画の大半は、このモスを主人公として構成されている。とりあえず観客は主役のモスに感情移入し、迫り来るシガーにおびえながら映画を観ていくことになる。

 しかし、不思議なのは、映画の後半になると、だんだん観ている僕のスタンスがあやふやになっていったことだ。そして、前半は、エイリアン(ただし、エイリアン第一作におけるエイリアン)みたいに絶対的だったはずのシガーの悪が、相対的なものとして感じられるようになってくる。
 その感覚の変化は、これまで主役だったはずのモスが、殺害シーンも無いまま、いきなり死体となって画面に現れ、お話からあっけなく退場してしまったことで強まり、さらには、ラスト近くで、重傷をおったシガーに逃走用の衣服を与えて金を受け取る少年達の会話によっていよいよ決定的なものとなった。

 絶対悪だったはずのシガーの周囲で、次々と色んな別の悪が発泡し始めたのだ。

 主役のモス自身、ベトナム戦争で殺人をしまくりながら様々な玄人のテクニックを身につけた人物であるし、彼は自分を愛してくれる妻をも死の危険にさらして、大金を手に入れようとする。
 麻薬組織は、一般企業の顔も持っていて、業務の一環として麻薬を取り扱い、やはり業務の一環として、費用や効率を計算しつつ、モスやシガーの抹殺を事務的に企画検討していく。
 決定的なシーンは、先にも書いたとおり、殺し屋シガーがモスの妻を殺害した後で交通事故に遭い、かなりの重傷を負うシーン。たまたま事故に出くわした二人の白人少年がシガーの怪我を心配する。それに対して、シガーは、血まみれの服を隠して逃走するために少年のシャツを金で買い取る。最初、少年たちは金の受け取りをためらう。人助けだし、お金はいいよと。しかし、結局、金を受け取る。そして、よろめきながら逃げていくシガーの背後で、二人はその金の分配をめぐって言い争いを始めるのだ。さっきまでごく普通のうぶで良心的な少年に見えた彼らのそのあけすけな姿。

 さらには、「血と暴力」の現代アメリカ社会に対して絶望し引退していく老保安官が代表する「古き良きアメリカ」が孕んでいた悪についても、その片鱗が描かれる。例えば、先住民族に対する侵略・抑圧や、メキシコに対する経済的搾取や民族差別に関わるちょっとしたエピソードが随所に挿入されている。そもそも、この悲劇の発端となった麻薬問題の根っこも、その辺りにある。
 (この老保安官が代表する旧世界を、単純に「正義」の社会として認めてしまい、それにあこがれたり懐かしんだりする見方は、あまりに牧歌的すぎる。)

 映画の前半は、一般社会のなかに現れたエイリアンとして絶対悪であるかのように見えた殺し屋シガー。しかし、次第にその周囲においてブツブツと発泡し、いつのまにか、シガーの絶対悪を包み込んでそれすら相対化してしまう「一般社会」の悪の姿。
 これがこの映画の真の主題だとみたんだけど。 どうでしょうか?


2008.4.4.付記
 
 個人的な体験だが、この映画の一番の怖さ・不気味さは、映画館を後にしてから数時間後、僕を襲ってきた。

 絶対悪であったはずのシガーの悪を相対化してしまうような「一般社会」の悪。シガーの周辺で発泡するそうした諸々の悪が、にじみ、拡がっていく先を追うのに、僕は数時間もかかってしまったわけだ。

 例えば、イラク戦争。まるでテレビゲームみたいに、誘導ミサイルが飛んで行き、目標地点で爆発する映像。その爆発の下では、幼い子供・非戦闘員をふくむ数多くの人が、実にあっけない死を迎えている(映画の中、たまたまシガーに出くわしてしまったことが原因の、おそらく殺される自覚もないままだったのであろうドライバーやホテルのフロント係の死とよく似た死が、紛れもない現実として、そのミサイルの着弾地点には無数にあった)。そうした「理不尽」な死のありさまを映し出すテレビ画面を自宅のリビングダイニングで眺めながら、むしゃむしゃとご飯を平らげ、缶ビールをうまそうに飲み干す私たち。アメリカが始めたこの「テロとの戦い」に賛同し手を貸した国に私たちは住んでいる。
 あるいは、人が殺されまくり、死体がごろごろ転がるこんな映画を、ポップコーン片手に「娯楽」として消費していく私たち。
 人の死に接して全然動じない、シガーと同じ冷静さを、ときに私たちも共有している。
(2008.4.14.付記 映画の登場人物でいえば、麻薬組織の経理担当者くらいの立ち位置が、だいたい自分に当てはまる気がする。この組織は、一般企業の顔も持っていて、彼が扱う日常的な経理の一部に、シガーやモスの処理問題も含まれている。おそらく、彼にとってそれは、会社全体のふだんの人件費やクレーム対策費なんかと同列に認識されるに過ぎない問題だったのだろう。彼自身、自分が悪である自覚はまったく無い。しかし、人の死に対する彼の感覚麻痺・無神経さは、シガーをはるかに超えているわけだ。シガーに出くわしてしまったこの経理担当者の生死がはっきり描かれていないのは、彼と同じスタンスにいるであろう私たち観客の多数に対する問いかけのように思えた。)
(2008.4.21.付記 たとえば、ラストでシガーをも打ちのめした自動車の問題。日本だけでも、毎年、何千もの命を自動車が奪っている。もし、社会から自動車を追放すれば、たちまち、おびただしい命が救われる。公共交通車両や緊急車両だけを残して、自家用車を全廃してもいい。それだけでも効果絶大だろう。だけど、雨降りの外出の快適さやら、今日出せば明日届く宅配便の利便やら、自動車産業の経済効果やら(はたまた高速移動の快感やらステイタスの誇示やら)を手放すことのできない私たちは、そうやって毎日毎日、たくさんの人を殺していくことを選択している。この際、その選択の是非は問わないが、私たちは、快適さ・利便性・経済効果と、何千もの命とを天秤にかけた場合、躊躇なく、前者を選択する生き物なのだということぐらいは忘れない方が良い。人命が地球より重いなんて、本当は誰も思っていない。映画のラストで、シガーという悪に衝突し、文字通り相対化した悪を、私たちは自分のものとしている。)


 結局、シガーの周りで発泡する悪が拡がる先を追っていくと、それはいつの間にか、僕の足元にも達していた。ちょうど、モスの妻を殺害した直後のシガーのように、足元に目をやると、僕らのズボンの裾や靴底には、そうやって拡がった悪の染みが容易に見つかるだろう。
 僕が一番恐怖を感じたのは、映画が終わってしばらくたって、そんなことを考えた時だった。

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2008/02/29

最近のお気に入り

 なんとなく、最近の“お気に入り”をリストアップしておこう。

 音楽は、安室奈美恵の「ROCK STEADY」と、BENNIE Kの「モノクローム」。
 最近の安室はホントかっこいいねぇ。かつてのトップ歌姫の重荷はエイベックスの後輩たちにお任せしちゃってから後のノビノビと好きなタイプの音楽をやっているって感じがとても良い。歌のうまさは相変わらずだし。昔、フジテレビのウゴウゴルーガって子供番組で鈴木蘭々と一緒に歌っていた頃の伸びやかさを思い出す。もちろん歌う曲は全然違うけど。
 BENNIE K はそもそも大ファンなんで、どの曲も好きだが、今回の「モノクローム」も良い。ドラマ主題歌って縛りもあるんだろうけど、歌詞もよい。よくあるタイプの、若いフリーター・ネエチャンなんかの愚痴と元気づけの歌(個人的には結構それが好き)かもしれないけど、さすがにBENNIE K は質が高いって思う(ひいき目が過ぎる?)。

 あとは、最近見た映画など。「スウィーニー・トッド」、「ラスト・コーション」、「チームバチスタの栄光」といったあたりを見ました。
 「スウィーニー・トッド」は、ともかく映像が雰囲気良くて面白い。冒頭の帆船がひしめくロンドンの港のシーンから引き込まれちゃいました。お話の内容はそんなに気合いを入れてみるようなもんじゃないけど、楽しめる映画でした。場面場面のグロテスクさは、どこか「チャーリーとチョコレート工場」に似ている気がした。
 「ラスト・コーション」は、とってもぜいたくな映画。ラスト近くでの、ヒロインの衝動的な決断のシーン、そのほんの一瞬をちゃんと描くためだけに、豪勢なセットもそれまでの長いストーリーも、そしてなにかと話題の過激なシーンも、存在しているんだろうって気がした。ぜいたく。いろんな意味で大人の映画かなぁ。
 「チームバチスタの栄光」も楽しめた。全体のお話づくりは失敗していると思うけど。まあ、場面場面で楽しむことができた。主演女優の竹内結子。かねがね、この人が、色気のない、ちょっとのんびりした役をやっているときは、芸能社会史が専門のO女子大のK先生(というかKちゃん)に雰囲気がそっくりだと思ってきたが(別にK先生に色気があるとかないとか言っているわけじゃないですよ、念のため)、今回、映画をみながら、本当にそっくりだなぁと思った(最後は内輪話になってすみません)。
 

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2007/11/07

最近面白かったもの~乾くるみ『イニシエーション・ラブ』、映画『パンズ・ラビリンス』

相変わらずちょこまかと忙しく、記事が書けません。書きたいネタはいくつもたまってきてるんですが。

そんなわけで、近況報告を兼ねて、最近、読んだ本やら見た映画で特に良かったものをご紹介。

ここのところ本はあまり読んでないんですが、抜群に面白かったのは、乾くるみさんの『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)。ふだんから作品のディテールを斜め読みしてしまう、かなり先急ぎの読み方をする私は、読み終わってしばらくしても、問題作って呼ばれるこの本のどこがすごいのか、まったく分かりませんでした。ただ、あれれ、ちょっと変だな。作者のミス?って部分が気にはなりましたが。ところがどっこい、ミスじゃなかったんですね。おもしろーい。おすすめです。そんな見事なトリックは別にしても、1960年代生まれの人間にとっては、その世代の恋愛の特徴がすごーく上手に表現されていて感心。描かれているのがあまりに平凡な恋愛だって批判もあるみたいだけど、もちろん、それは作者が意図したところだし、それから、そういう文句言ってるおめーらの恋愛もだいたいこんなもんだろ?って感じかな。
作者の乾くるみって名前は、女性っぽいけど、どうして、こんなに男の心がつかめているのかと不思議に思っていたら、どうやら、男性作家みたいですね。納得。でも、トリックに気がついた後は、なかなか女性の描き方も鋭いなぁと。ただ、まあ、やっぱり、そこに描かれているのは、作者渾身?の「演技シーン」の描写が象徴するように、あくまで紋切り的な、男からみた“女性のすごさ”なのかも。

映画もいくつか観ましたが、とりわけ印象に残ったのは、『パンズ・ラビリンス』。万人にすすめられる映画じゃないと思いますが、もし宣伝とかをみてアンテナが反応してしまい「どうしようかなぁ、行こうかなぁ」って思った人は、なんとか都合をつけて行くべきです(まだやってるかな)。
内戦期のスペインの田舎が舞台の、多感な少女を主人公とするダーク・ファンタジーです。映画評をいくつかみると、「不思議の国のアリス」のダーク版という見方も提示されていますが、私の場合、映画を観てる最中から、「マルチェッリーノ パーネ・エ・ヴィーノ」の物語を連想してました。「マルチェッリーノ」を観て、まずは感動しつつも、こんな悲惨な話を感動の物語に仕立て上げる美化作用というか幻覚作用を持ったキリスト教の怖さや残酷さについて私と共感してくれる人であるなら、なおさら、『パンズ・ラビリンス』は、その辺がストレートに表現されいて、うん納得、の絶対おすすめ映画です。
2007.11.09付記 この記事の末尾のあたり、ちょっと言葉たらずでしたね。この映画で「ストレートに表現されて」いるのは、「キリスト教の怖さや残酷さ」の方ではなくて、物語の「悲惨」さの方です。とってもドライなファンタジーという、一見矛盾した二つの言葉がしっくりとあてはまる映画でした。

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2007/01/29

映画『どろろ』の感想と、ミスチル主題歌「フェイク」についてほんの少しの感想

 映画『どろろ』を観た。ご存知、手塚治虫が原作のコミックの映画化。『週刊文春』に載っていた、おすぎの映画評でも高評だったので、期待しつつ、それでも期待しすぎないようにつとめながら映画館へ。 なかなか良い映画でした。
 映画のあらすじ~時は戦乱の世。ある武将が、化け物と契約を結ぶ。天下をわがものとすることと引き替えに、生まれてくる我が子の体の48箇所の部分を化け物たちに与えるという約束。こうして体のほとんどを失った赤ん坊は川に流される。その男の子が人造の体を与えられ、成長して化け物たちと戦う旅に出る。化け物を倒すたびに彼、百鬼丸はひとつずつ自分の体の部位を取り戻していく。そんな彼と偶然出会って共に旅することになったのが、泥棒のどろろ。どろろは、とある武将に親を殺され復讐を願っている。百鬼丸の使う最強の武器は左腕に仕込まれた刀だが、百鬼丸が左腕を回復した機会にその刀をわがものにして復讐に使おうというのがどろろのねらい。このどろろは、男として育てられたが、実は女。そんな旅の途中、どろろの敵である武将が百鬼丸の父であることが明らかとなる。でもって――、というのがあらすじです。
 
 個人的にはどろろ役の主演女優、柴咲コウに見とれてしまいました。年末、柴咲コウが出演したTVドラマ『GOOD LUCK』の再放送を見てあらためて感心しましたが、今回もこの女優さんの魅力を再確認しました。

柴咲コウのいわゆるツンデレ
 
 『GOOD LUCK』の航空整備士役は、木村拓哉演じるパイロットを相手にした、いわゆるツンデレのお手本みたいなキャラクター。そうそう、同じくTVドラマの『オレンジデイズ』の難聴に悩むバオリニスト・ピアニスト役も、やっぱりツンデレ・キャラクターでした。相手は今回の映画と同じ、妻夫木聡。
 
 今回のどろろ役も、煎じ詰めれば、ツンデレの亜種みたいなもんですよね。手塚治虫的亜種といってもいいかな。表面的には「デレ」の部分が極端なまでに抑制されているがために、よけいに引き立つツンデレというか。どろろの他には、たとえばリボンの騎士のサファイアとかね。男装の女の子という設定が共通。
 
 そんなツンデレ評論の観点からすると、今回の映画『どろろ』では、ラストシーンがなかなか面白かったです。まあ、これもよくあるパターンといえばパターンなのかもしれないけど、上記のTVドラマと比べても、なかなか爽快?でした。百鬼丸がいつ「アレ」を化け物から取り戻していたのか、という至極まっとうな疑問をもつ人は当然多いらしく、ネットなどでも論点化していますが、まあ、そうしたことも織り込み済みの、よくできた脚本でした。
 
無いものねだりを少し

 柴咲コウの魅力はともかく、映画の構成については少し注文が。映画のなかほどで繰り返される化け物との格闘シーンの連続はちょっとつまんなかった。まあ、アクション班への配慮もあっての編集だったかもしれない。個人的には前後の文脈あってのアクションシーンだとは思うんだけど。香港のカンフー映画とかで、主人公が一番の敵役と遭遇するクライマックスの前に、連戦シーンとか訓練シーンの断片がしばらく続く部分があったりしますよね。それを連想。で調べたら、今回の映画のアクション監督が香港映画の人だと知って少し納得。意識的な演出なら、それも面白いか。
 もうひとつの注文は、百鬼丸の父が化け物と非情の契約を結ぶにいたるまでの、人間に絶望していく過程がもう少し描かれていると良かったと思う。冒頭のシーンの極端なまでの凄惨さがその過程の象徴なんだろうけども、もっとストーリーとして展開してほしかった。彼の絶望がそもそもこの物語の出発点なわけだろうし、彼の最期も、そうした絶望との闘いとしてより深く印象づける方が良かったような気もする。まあ、いわゆるエンターテイメント作品にそんな無いものねだりをしなくても、“無いもの”はお客が自分の頭で補って観てあげれば十分だけどね。すべてが描きこまれてる必要はないもんね。

 ともあれ、『どろろ』、楽しめました。

ミスチル「フェイク」
 
 ついでながら、ミスチルの主題歌「フェイク」も面白い。映画にふさわしいかどうかはちょっと微妙だけど、歌詞が面白い。少し前の記事で、ミスチルの「しるし」について、ここしばらくのミスチル・ラブソングにつきものだった苦味・自嘲・皮肉といった“スパイス”が使われていない、ピュアなラブソングだという感想を書きましたが、そこでは使われなかった苦味・自嘲・皮肉が、そのまままとめて詰め込まれちゃっているのが「フェイク」かなと。

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