江戸歴史塾を開設します
久しぶりの更新(^^;
今度、江戸歴史塾と名づけて、都市江戸の歴史専門のミニ・カルチャースクールを開設します。
講演、歴史散歩、古文書講座、研究会など、盛りだくさんでやっていきたいと思ってます。
詳細が決まったら、こちらの新ブログ「江戸歴史塾」の方でご案内します。
乞う、ご期待!
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ついついブログの更新を怠ってしまう(^^;
とりあえず、日記のようなスタイルで再開して更新のペース作ろう。
今日の仕事は、東京都公文書館に出勤。『東京市史稿』産業篇の編さんに従事。
その後、夕方からは明治大学の和泉キャンパスで日本近代史のゼミを1コマ。
あ、そうそう。
次の巡見は、10月29日土曜の午後です。詳細はまた近日中に。
ヒルズめぐりをやりまーす。趣旨はこちら。
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鳥羽伏見の戦いの直後、軍艦で大坂をこっそり脱出し、江戸にもどった徳川慶喜。
その慶喜に関する『藤岡屋日記』の記事を読んでみようというシリーズ。今回が最終回です。
急きょ江戸城へ入った慶喜の寝具をどうするか、家来たちが困ってしまっている、という風聞を伝える『藤岡屋日記』の記事の現代語訳から。
11日の夜は、上様はフランケ(=ブランット)2枚でお寝になられ、12日に御夜具の評議があり、御納戸へ掛け合ったところ、(西ノ丸御殿の)御表には御夜具が一切無いというので、大奥へ掛け合いに及んだところ、お節倹が命じられたため諸々のことに差し支えているので、(上様の)御用に立つ寝具などはひとつもないとのよし、大奥からお断りがあって、大困りしたという噂である。
このエピソードを紹介したネット情報を見ると、しばしば「江戸城へ戻った慶喜にはたった毛布2枚しか用意されず…」などと書かれているが、それは間違いであろう。
慶喜が毛布(ブランケット)2枚で眠ったのは、11日の夜、すなわち、江戸湾に停泊している開陽丸の船内でのことで、江戸城に入城したのは12日の朝である。
記事によると、慶喜を迎える江戸城内では、寝具をどうやって用意するかで大騒ぎのようだが、おそらく、慶喜本人は、別にどんな安っぽい寝具であっても気にもしなかったのではないか。「この寒い時期、毛布2枚で寝たことを思えば、これで上等、上等」とでも言って笑ったのではないだろうか。
1月12日に江戸城西ノ丸に入った慶喜は、ウナギとマグロを食べて評議に臨む。
もちろん自分の寝具の調達ではなく、新政府軍との軍事衝突の回避を目指して、素早い動きを見せる。
フランスの力を頼みにする主戦派の中核であった陸軍奉行並・勘定奉行の小栗忠順を15日には罷免し、それに代えて、非戦派の勝海舟を17日には海軍奉行並、23日には陸軍総裁の要職に就ける。勝海舟はフランスに対して支援を断る。こうして新政府軍との軍事衝突を避けるための体制固めに向けて、慶喜は強いリーダーシップを発揮していくのである。
大坂を脱出し江戸城での強力な人事改革の断行。内戦の回避を目標に定め、大胆かつ的確な措置を次々に講じる慶喜。
慶喜の旺盛な食欲からは、そんな精力的な辣腕政治家の姿が描けるのだが…いかが?
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大坂を軍艦で脱出し、江戸に戻った慶喜が、江戸城に入ると、マグロを食べたという話。
ウナギの話と並んで『藤岡屋日記』の記事に書かれている。
まずはその記事の現代語訳。
同朝(正月12日朝)(「□ふの」…読みとれず)マグロが、御納屋(日本橋の御肴役所の納屋のことか)から江戸城西丸御膳所へ納められたことについて、かつてマグロが御城へ上納されたことはなく、どうしたことかと尋ねたところ、昨夕、上様(慶喜)が仰せつけられたので上納したということで、すぐさま、正身を刺身と味噌漬にして、アラはねぎまにして召し上がり、残りを一同へお下げになったという。なんだかわからないが闊達な主君で感心との噂。
この記事の話者によると、江戸城にはこれまでマグロが納められたことはなかったという。現代とは異なり、当時、庶民が食べる魚だったマグロは、将軍の食事に用いられることはなかったのであろう。
将軍の食事の献立をみると、魚は白身魚が多く、やはりタイがよく出てくる。刺身もタイの刺身が多い。
慶喜は京都で征夷大将軍に就任するのだが、それ以前、江戸で暮らしていた頃は、おそらく食事も比較的自由で、ウナギの蒲焼やマグロ料理にも親しんでいたのであろう。豚肉が好物だったことはよく知られている。
そんな慶喜が、マグロを食べさせろ、と江戸城西丸御膳所へ命令したのは、江戸上陸の前夜、品川沖に停泊した軍艦開陽丸にまだ乗っていた時点である。
江戸城に納入されたマグロは、すぐに刺身にされ、江戸城に着いたばかりの慶喜の食膳にのぼったのであろう。余った身は味噌漬にされた。また、アラはねぎま(鍋?)にして食べたと記されている。もちろん、慶喜一人で食べきれるはずもなく、残りは将軍の身の回りにいる一同に与えられた。
先にも書いたとおり、慶喜が徳川宗家を相続したのも、その後に将軍となったのも、京都に居たときのことである。それ以降も慶喜は京都に居続け、政争に明け暮れた。そして今回、久しぶりに江戸へ戻って来たわけである。したがって、城主として江戸城へ入るのはこれが初めてである。
慶喜のマグロの特注という振る舞いは、城に詰める家臣たちからのウケも良かったたようで、闊達な主君として好評を得たのである。
先のウナギの話にしても、このマグロの話にしても、それらからは、慶喜の精神的な余裕のようなものを感じることができる。
大坂脱出、江戸帰還、そしてその後の新政府に対する恭順の貫徹。これらは、慶喜が最善の策として選び取り、それを主体的に実行したものではなかろうか。
その際の気力の充実。それがこの旺盛な食欲につながっているように思えるのだが…いかがでしょう?
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戊辰戦争の初っ端、慶喜が大坂から脱出し江戸へ戻るやいなや、ウナギを食べたというエピソード。
それが記されている『藤岡屋日記』の記事を現代語訳してみよう。
正月12日朝、上様(慶喜)が江戸城への戻り(「還御」)がけに、お手元から金2分をお渡しになり、「久しく京都暮らししていた身体は油がぬけ骨離れしてしまっているので、鰻の蒲焼を取り寄せるように」とのことで、霊岸島大黒屋へ買いに行くようにという(慶喜の)ご指定でもって、奥詰の榊原健吉に対して仰せつけになられたので、(榊原は)自腹で金2分をそれに足して、金1両分の鰻を取り寄せたとのこと、同人(榊原)の話である。
記事の真偽は、ここでは問わないことにしよう。
で、この記事に依拠すれば…
大坂から乗ってきた開陽丸が停泊したのは品川沖あたりだろうか。とすると、上陸地点は品川か。あるいは浜御殿あたりか。
それはともあれ、江戸の地に帰った慶喜は、「まずは蒲焼を食おう」と思い立ったわけである。季節的にはウナギの冬眠期で多少は値が張ったかもしれないが、金2分払えば、それなりの人数分は買うことができる。
慶喜は、供の者たちにも振る舞うつもりだったのだろうか。それとも、ともかく多人数分買うのが貴人の慣習だったのか。
ここで注目されるのは、鰻を買ってくるように命じられた家臣がとった行動である。わざわざ自腹で金を足しているのである。それはなぜか。最初に慶喜が出した金2分が鰻を買うのに不足だったというわけではない。これは「ここはひとつ、皆で鰻を食って元気を出そうじゃないか」という慶喜の意気に感じるものがあり、一層豪勢に鰻を食べられるよう、自分の金も足した、ということではないだろうか。
家来は、このことを人に聞いてもらいたくて話したのだろう。
大坂脱出は、そのときの最善の策として慶喜が考えたものであろう。そして、無事に江戸に着いた。
「さあ、何食べよっかなぁ… うん、やっぱ鰻だろう、ここは。 なあ、皆の者」。
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慶応4(1868)年1月3日に開戦した鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍は敗退する。
すると慶喜は、将兵を残したまま、大坂湾に停泊していた軍艦開陽丸にこっそりと乗り込み、江戸へ向かう。
大坂出航が1月8日で、江戸に着いたのが11日である。
この行動については、将としての勇気や責任感を欠く「敵前逃亡」だとして、批判が集まるのだが…。
個人的には、好感のもてる行動である。戦争はしないに限る。
ところで、江戸に着いた慶喜に関するエピソードが『藤岡屋日記』に掲載されている。
こういうのを読むと、ますます慶喜について親近感がわく。
江戸に戻って早々に、ウナギやマグロを食べたがった話である。
次回、下掲の『藤岡屋日記』の記事を読んでみよう。
ネット上で、このエピソードはしばしば取り上げられているが、どうも、解釈の誤りが多い。
せっかくの面白い話なので、ちゃんと読んでみよう。
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次回の巡見は、10月、ヒルズ巡りです。
ヒルズ。
言うまでもなく、森ビルというディヴェロッパーの看板「商品」。
今年度の日本大学法学部の授業でも、現地見学を交えつつ、
ヒルズの”光と影”について考えてみました。
オリンピックに向けて、港区を中心に森ビルによる都市再開発は活発です。
ヒルズの原点とされるアーク・ヒルズ、旗艦である六本木ヒルズ、そして新たなヒルズの虎ノ門ヒルズ。
これを歩き比べながら、都市再開発のあり方について考えてみましょう。
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巡見「江戸を縦貫する」の本年度最終回を開催します。
今回は、東京のエスニックタウンのなかから、池袋北口のチャイナタウンと、新大久保のコリアンタウンを歩きます。
日時:2月23日土曜 15:00~
集合:JR池袋駅の「北改札」の改札を出たあたりに15:00前。
「北口」地上出口周辺ではないのでお間違えないように。
最終回ということで打ち上げの飲み会をやります(とかいって毎回飲んでますが)。都合のつくかたは是非。
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先々週に発売された、『江戸の都市プランナー』の宣伝です。
みなさん、買ってくださいね(笑)。お願いします。
出版社は、柏書房さん。税込で2310円です。
本書は、江戸時代末期の江戸の町人、熊井理左衛門という人物の伝記です。
熊井理左衛門は、もともと、江戸深川の町で、名主を務めていました。
名主というのは、当時江戸に1600個くらいあった町の代表であり、各町内の支配にあたる役職です。本来はひとつの町にひとりの名主が原則ですが、この頃の名主は、ひとりで数町から十数町の支配を担当していました。
人口50万の江戸の町方に、だいたい250人くらいの名主がいて、熊井理左衛門もその中のひとりでした。
ところが、この熊井理左衛門という人は、とてつもなく優秀な人で、次第次第と幕府から重用されていくことになり、全名主のトップリーダーとなって、江戸町方の行政の中心で辣腕をふるうことになります。
天保改革期以降では、理左衛門なくして江戸町方の行政は成り立たないといっても過言でないほどの、大きな存在となります。
しかし、安政4年、とうとう、そんな理左衛門が邪魔になった町奉行所の役人の陰謀によって理左衛門は・・・・というお話です。
理左衛門が活躍した世界、すなわち、個別の町を超えた広域的な江戸町方社会を対象とする政治・行政の世界は、制度上、武士身分の人々が中心となって動かす世界でした。そのため、歴史研究者の注目も、ほとんど、そうした武士身分の人々に集まります。たとえば、天保改革期であれば、老中水野忠邦や町奉行の鳥居耀蔵、遠山景元といった人々です。
そんなわけで、果たしていた役割のすごさにもかかわらず、町人である理左衛門のことを知る人は、ほとんどいません。
別の見方をすれば、そんな武士中心の制度のなかで、町人であるにもかかわらず、多くの仕事を次々に成し遂げていく理左衛門の力量は、けたはずれに大きかったといえます。
そういう熊井理左衛門のことを、たくさんの人に知ってもらいたくて、今回の本を書きました。また、多岐にわたる理左衛門の仕事をおいかけることで、江戸の社会の諸方面にふれることができるようにとも思って書きました。
熊井理左衛門という、“未発見”の歴史的重要人物のことを知り、同時に、江戸の社会状況も知る、というねらいの本です。
本書のなかに出てくるさまざまな事件や江戸の町の状況は、史料や歴史研究にもとづく、いわゆるノンフィクションです。
他方、理左衛門の心理描写が、それなりの量でもって挿入してあります。その部分は、歴史小説、フィクションです。
ノンフィクションとフィクションが混在して紛らわしいのではないか、と思われるかもしれませんが、読み進めていく上で、だいたいその区別はできるように書いたつもりです。
そんな余計なフィクションは要らない、という方は・・・・とりあえず本書を購入していただき(笑)、巻末にあげた参考文献のなかにある、私の書いた学術論文や研究書を読んでくださいませ。よろしくお願いします。
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巡見「江戸を縦貫する」の本年度最終回と打ち上げは、2月23日に実施する予定です。
詳細はまた後日発表します。みなさま、よろしくお願いします。
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