2009/10/26

091024吉原・浅草巡見のご報告

 先の記事でのご案内どおり、先週末、巡見をおこないました。途中から雨が降り始めちゃいましたが、皆さん、しっかり歩きとおしてくださいました。それにしても、今回は参加者の年齢の幅が広かったですね。下は2歳(“お父さん”ご苦労様)から、上は・・・おいくつでしたっけ?

浄閑寺

 まずは“投げ込み寺”の浄閑寺の墓地から。ここを見学すると、やっぱりしんみりとした気分になりますね。吉原のことを研究していろいろ論じる者は、それぞれの主張の内容やら方向性やらはともかく、頭のどこかにこの風景を貼り付けておくほうが良いかも。
 浄閑寺を出て吉原へ。三ノ輪駅の交差点あたりで吉原の送迎車を何台か見かけました。昔はクラウンが多かった。それからちょっと前の流行はアルファード。今年はやたらプリウスが目立ちました。“環境に優しいソープランド”かな。まあ、この時期お買い得だったから一気に増えたんでしょうけど。それにしても、吉原はTOYOTAがお好きみたい。

酉の市

 途中、来月に酉の市が開かれる鷲神社・長国寺の境内に寄りました。すでに熊手を売るお店の骨組みが組まれていました。来月の二の酉、行きたかったなぁ。
 酉の市の開催が鷲神社と長国寺とに分かれているのは、もちろん明治の神仏分離令があったからでしょうが、分離の当初はなにかと大変だったのかなぁ。ついいろいろ想像してしまいますが。現在は、ちょっと外から見るかぎり、仲良く(?)それぞれやっているみたいです。酉の市に関するホームページも、鷲神社のものと長国寺のものとが別々にありますが・・・ホームページの出来については、長国寺に軍配。史料も頑張って収集してあって、なかなかの力作です。私の職場(のひとつ)である東京都公文書館の収蔵史料も掲載してあります。こちらやこちらへ。おすすめです。
 ここでちょっと宣伝。来月の一の酉の直前に、酉の市と吉原界隈の巡見をやります。ただし、有料。朝日カルチャーの新宿校の授業として。興味のある方は、同校のホームページへ。実は巡見に先立つ事前授業の日まではもう間もないんですが・・・当日まで受付可だったと思います。

吉原ソープ街の特権

 吉原のレポートは・・・省略。いろいろ新たな感想も持ったけど・・・。要するにここ(というか、吉原に限らず、いわゆる全国各地のソープ街)にあるのは、基本的に、働く人も客も、日本人(および日本人と区別のつかないくらい日本に同化した人)限定で形成された、そういう意味において特権的な、相対的に安定した準公認の売春システム(間違ってたらご指摘を)。そして、そこから排除された外国人の不安定な売春システムが存在し、従来、そちらの方は、例えばテレビと警察のタイアップ“ドキュメンタリー”番組なんかを通じて、“一般家庭”の“お茶の間”においてもっぱら可視化・社会問題化さてきたというのが、日本の職業的売春をとりまく基本的状況でしょう。ただ、日本における移民社会の発達によって、こうしたダブルスタンダード的な構造の矛盾が、近い将来、露呈されるような気がするけども。さて、どうだろうか。

山谷のあしたはどっちだ

 次に行ったのが山谷。たしかに相変わらず路上に人があふれてはいたけど・・・そうした人々の年齢層からみても、この町は労働者の町という性質をいっそう薄めつつあるように思える。そうした状況を見越すかのように、分譲マンションの建設も進んでいる。
 他方、社会のあちこちに散在するネット喫茶や安アパートの一室で携帯のスポット派遣情報を眺める人々が、ふたたびこうした町を発達させることがあるだろうか。ここでもまた、移民社会の動向がひとつ重要な問題だという気もする。

中国東北料理

 打ち上げは上野。上野駅前の丸井の裏手の方で地下に降りる居酒屋。中国東北地方の料理を出すお店。卓上の炭火であぶり焼いて食べる串焼きの肉が看板。美味しかった!店のなかにはハングル文字があちこちに。料理も、普通僕たちが、韓国・朝鮮の料理だと認識しているものが混じっている。巡見参加者のお一人が、中国の朝鮮族に関係するお店かも、という説を出してくれましたが・・・そうかもしれない。上野に限らず、例えば池袋あたりでも、中国東北料理のお店が増えているみたい。増加の背景が知りたいな。
 それはそうと、このお店の名前を忘れてしまった。誰か、一緒に行った人でこのブログ記事を読んでる人、憶えてたら教えてくださいな。

2009.10.30.付記1
 昨日、財布の中をみたら、この上野の居酒屋さんのサービス券が(笑)・・・しかも3000円分!で、お店の名前は「千里香」でした。この名前をみたら、串焼肉のスパイスの刺激的な香りが脳裏によみがえりました。料理のカテゴリーは「延辺料理」。中国東北地方の朝鮮族自治州が延辺州。Sさんの推察、ドンピシャでした。このお店、かなり美味しかったと思います。例えば、チャプチェ(春雨の炒め物)。韓国料理屋さんの定番メニューですが、ここのお店のはとても味が濃厚。といっても調味料が濃いのではなく、きっと春雨に吸わせたスープの味が深いからだったと思う。
 せっかくサービス券もたんまりとあることだし・・・ぜひ近いうちにまた行きましょう、みなさま。
付記2
 そうそう、巡見当日の第二次打ち上げのご報告を書き落としていました。上野の千里香を出た後は、大江戸線に乗って、当巡見打ち上げの定番スポット、新宿歌舞伎町界隈へ。今回は、参加者のひとりで、私にとっての新宿ゴールデン街の大先達、Nさんのご案内にて、充実した夜の巡見。さすがNさん、ちゃんと花園神社にも連れて行ってくれました。ここでも浅草と同様、酉の市の準備が進んでいました。花園神社の酉の市も行きたいなぁ。露店の食べ物のレベルが高いんですよ、すごく。飲み会は、ゴールデン街の端にある、関西料理の居酒屋。美味しいぞぉ。サービス券は無いけれど・・・ここもまた行きましょう、みなさま。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/10/19

巡見「江戸を縦貫する」の今週末ご案内と日程変更のお詫び

 巡見「江戸を縦貫する」を今週末、24日の土曜午後に実施します。

 コースは、吉原遊郭から山谷、浅草新町を通って浅草寺界隈まで、です。

 三ノ輪にある通称投げ込み寺の浄閑寺の墓地をスタートして、吉原遊郭に行きます。かつての遊郭の外郭部分を歩いてみてその広さを確かめたあと、遊郭跡の内部を歩いて近世吉原の痕跡や現況を訪ねてみましょう。次に山谷へ行きます。オールドタイプの「近代都市下層社会」(僕としては下層社会という呼び方は大嫌いですが・・・)を目に焼き付けておきましょう。現代のニュータイプの「都市下層社会」(下流社会という呼び方も嫌い)について何かを考えようとする人にとっては必須のことかと。そのあとは、浅草新町を縦貫して浅草寺界隈をめぐります。

 もともとこのコースは、酉の市の時期に合わせて来月23日の実施のつもりでしたが、私の仕事の都合でその23日は中止となりました。申し訳ありません。代わりに、今週末に実施します。来月の参加を予定しておられた方もいらっしゃると聞きます。ご迷惑をおかけしたこと、お詫びいたします。

 集合:2009年10月24日(土)13:30 
    地下鉄日比谷線の三ノ輪駅

 所要時間:だいたい3時間半くらい。巡見終了後は、有志で“夜の町あるき”へ。上野か新大久保あたりか。

 基本的には、各大学での私の担当授業の受講生・元受講生に声をかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方も遠慮なくいらっしゃってください。
 集合場所の詳細は各大学での授業の際に連絡します。元受講生や一般の方は私あてのメールにてお問い合わせください。今回が初参加の一般の方はそのメールに住所・氏名をお書き添えください。あて先のアドレスはこのブログのプロフィール頁に。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/08/12

オランダ・イタリア旅行記~予告

 8月2日から11日まで、オランダとイタリアへ旅行しました。

 オランダでは、ユトレヒトで国際経済史協会が3年に1度開催する大会へ参加し、イタリアでは、ローマで学術調査をおこないました。

 仕事の内容と成果はそれぞれの“筋々”でご報告することにして、このブログでは旅の間の雑感やら何やらを簡単に書いてみることにします。

 とりあえず、“目次”(予定)は以下のとおり。
 
 1.成田からアムステルダムまでの機内にて
 2.アムスにて~怒らないオランダ人
 3.アムスにて~飾り窓と教会
 4.アムスにて~すりに遭う
 5.都市と清掃業
 6.ローマにて~コルソの上と下、テヴェレの右と左
 7.ローマにて~市場をさがして
 8.ローマにて~めだつ警察
 9.ローマにて~陣内先生の本を片手に

 (つづく)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009/05/25

5月30日実施予定、巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 今週末の30日土曜午後に、巡見「江戸を縦貫する」を実施する予定です。

 前回は、江戸城とその周辺のコースで、半蔵門→井伊家上屋敷→桜田門→二重橋前→大手門→本丸まで歩いたところで、豪雨にめげて巡見を中断しました。

 今回はその続きです。東京駅→丸の内ビジネス街→常盤橋→日銀・三井タワー→本町通り・大伝馬町→江戸橋広小路→魚河岸→日本橋、といった界隈を歩きながら、江戸町人地の「中心」であった日本橋地区の様子や、その後の変容、現在の町並みなどについて解説したいと思います。

 基本的には、各大学での私の担当授業の受講生・元受講生に声をかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方も遠慮なくいらっしゃってください。

 集合場所の詳細は各大学での授業の際に連絡します。元受講生や一般の方は私あてのメールにてお問い合わせください。今回が初参加の一般の方はそのメールに住所・氏名をお書き添えください。あて先のアドレスはこのブログのプロフィール頁で。

 集合:5月30日(土)14:00 JR東京駅
 所要時間:だいたい3時間。
 雨天決行

 なお、第3回は兜町・東京証券取引所や神田の繊維問屋街あたりを歩きます。各大学がおおむね夏休みに入った7月最終週あるいは8月第1週の平日午後に実施予定です。
 その後のスケジュールはまだ流動的ですが、11月23日(月・祝日)の午後に、吉原・山谷・浅草を歩きます。24日午前零時に始まる浅草酉の市の準備の様子も見学しましょう(希望者はそのまま夜の酉の市まで浅草滞在かな?)。(追記:あらら、そういえば24日は平日で、朝1限から授業だっけ。というわけで、私はおとなしく終電で帰るつもり。最近、オールのあとは2日くらいダメージが残る。歳には勝てないや。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/27

巡見「江戸を縦貫する」の報告と次回の日程

 おととい25日に巡見をやりましたが、強い雨のため、江戸城本丸まで歩いたところで中断。コース後半に予定していた丸の内・日本橋はまた次回。
 というわけで、次回は例年より少し早めの日程で、来月、5月30日土曜の午後を予定しています。今回行けなかった丸の内と日本橋界隈を歩きましょう。最近話題になった中央郵便局も見に行きましょうか。それから、丸の内のビジネス街を少し見て回って、日本銀行・三井タワー・本町通り・江戸橋広小路・日本橋魚河岸・日本橋くらいかな。

 以下、25日の巡見の模様を簡単に。

 去る25日は、豪雨の中、巡見を決行しました。途中から合流した方も含めて、だいたい20人弱で歩きました。実際ひどい雨で、数人のこじんまりとした巡見になりそうだなぁと思ってましたから、予想外にたくさんの人が来てくださってうれしかったです。皆さん、足元はびしょ濡れだったと思います。お疲れ様でした。

 集合は地下鉄半蔵門駅。階段をのぼって地上へ出ると、強い雨脚と寒い風。まずは、半蔵門へ。門の内側の吹上地区のことやら、もともと江戸城の正面は、現・大手門側ではなく、こちらの甲州街道方向だったとする、江戸博の斉藤慎一氏の説などを紹介する。
 それから、堀にそった坂道を桜田方向へ下りながら、国立劇場・最高裁判所などを横目で見て、彦根藩井伊家の上屋敷跡へ。現在、屋敷跡には憲政記念館などが建っているが、戦前はここに参謀本部があった。すぐ脇に三宅坂という坂があるが、戦前「三宅坂」といえば参謀本部を指し、戦後しばらくたつと、今度はここに本部を構えた社会党のことを指したそうだ。また、最高裁のことも「三宅坂」と称するらしい。

 井伊家上屋敷跡を過ぎると警視庁。井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された現場はこのあたりだろうか、などと確かめながら桜田門へ。桜田門の次は、二重橋前。中国人の団体旅行者が多く、皆、めいめいのカメラで記念撮影をしている。めがね橋の外には丸の内警察署の警察官。橋の内側には皇宮警察の警察官。見比べてみたりする。ここから坂下門外を経て、大名小路を通り、大手門へ。

 大手門から入ると、各自一枚ずつの入園証。退園をしようとしていた修学旅行とおぼしき男子中学生一行のひとりがもらった入園証を無くしたらしく難儀している。休憩所で一休み。雨が強い。絵葉書や工芸品などの皇室グッズが販売されている。しばらく休んでいると、ロシア人とおぼしき団体旅行客で一杯に。

 休憩所を出て下乗門跡へ。登城した大名はここで駕籠から出て自分の足で歩き始めたわけだろうが、なんとなく、このあたりの石垣は、特に気合を入れて立派に積まれているように見える。殿様たちは、きっと、頭の中で自分の城の石垣と比べてみたに違いない。

 本丸御殿跡に着き、芝生の上を歩きながら、大広間や白書院、黒書院などの位置を確かめていく。老中の出勤ルートなども。それから中奥を通り、大奥へ。将軍の寝室と正室の寝室との近さに、あらためて感慨。

 天守台にのぼる。ますます雨強し。というわけで、ここで巡見は切り上げ。地下鉄の竹橋駅へ。最後に竹橋事件のことを少し話して解散。

 その後は、常連の方々や懐かしの方と共に新宿へ移動し、3軒ほどはしご。アイリッシュパブ→新潟地酒の居酒屋(美味しかった!)→ヴェネツィア風居酒屋。今年度は、池袋北口のチャイナタウンへも行きたいなぁと構想を練る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/20

巡見「江戸を縦貫する」のご案内・続報

 前の記事でご案内しましたとおり、今年度最初の巡見を、今週末の25日土曜午後に実施します。私が出講する各大学では今週の授業の際に、集合方法などをお知らせします。
 各大学での私の授業の受講生・元受講生を対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをご覧になった一般の方も歓迎します。一般の方の場合は、ご面倒ですが、このブログのプロフィール頁にあるアドレス宛に、氏名・住所を明記したメールを、前日夜までに送ってください。こちらからのご返信にて、集合方法などをご連絡いたします。元受講生の方は、氏名を明記したメールを送ってください。

 日時:4月25日(土) 13:30~
 行程:半蔵門→井伊家屋敷→桜田門→二重橋
     →江戸城本丸(東御苑)→丸の内ビジネス街
     →日本銀行→三井タワー→魚河岸→日本橋

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/04/13

2009年度第1回目・巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 本年度も、巡見「江戸を縦貫する」を始めます。今のところ、4月25日の土曜午後の予定です。

 江戸城本丸をスタートして、丸の内ビジネス街→日本橋金融街→神田浅草橋問屋街→山谷ドヤ街→吉原売春街までを、3回に分けて歩き通すこの巡見コースは、都市・江戸の一方の端からもう一方の端までを縦貫すると同時に、現代都市・東京の端から端までを縦貫するコースです。年度末には、番外編として、都内各所の都市再開発地域(六本木ヒルズだとか品川インターシティとか)を歩く予定です。また、外国人街としての歌舞伎町や新大久保へも、巡見各回の終了後の恒例“オプショナルツアー”としてちょくちょく足を向けるつもりです。
 こうした巡見の趣旨についてはぜひこちらの記事もご覧ください。

 基本的には、私が出講する各大学の受講生・元受講生の皆さんを対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方もどうぞ遠慮なくいらっしゃってください。

 さて、第1回目は、4月25日(土)の午後を予定しています。コースは、皇居二重橋前・江戸城本丸跡(東御苑)・丸の内ビジネス街・日本橋・三井旧本館と三井タワー・日本銀行などをめぐるコースです。
 詳しい案内は、近日中にこのブログに書きます。また、各大学の講義の際に、チラシなどを配布します。皆さん、ふるってお出ましくださいませ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/03/17

鞆の浦に行って架橋・埋立問題について考えてみました

 先週、仕事があって2泊3日で鞆の浦へ行ってきた。といっても、このブログで取り上げた架橋・埋立問題の調査に行ったわけではない。しかし、鞆の町を歩きながら、その問題についてもいろいろと思うことがあった。

 先の記事でも書いた観光地化の問題。架橋・埋立工事に反対する人々のうち、少なからぬ人々は次のように主張している。
 架橋・埋立工事の経済効果は一時的なものであって、長期的には、観光資源である景観の破壊が鞆の地域経済をダメにする。工事を中止して歴史的景観を守り鞆を観光地化することで地域経済は立て直せる。

 しかし、そうした主張に根拠はあるのか?

 久しぶり(十数年ぶり)に行った鞆では、観光客向けの土産物屋や飲食店が増えているのに驚いた。ちょうど、町では雛祭りのイベントをやっていた。旧家の多い鞆の町内のあちこちで自宅の雛飾りを一般公開していた。また、町のあちこちでは、例のちっちゃな可愛い人魚の絵も目にした。鞆の観光シーズンとしては、海水浴シーズンにつぐハイシーズンだろう。

 だが、先の記事でも書いたとおり、観光地化で地域経済を振興する、というのは、かなり困難なことのように思えた。

 団体客を乗せた大型観光バスは市外のバス会社のものであった。一方、私が乗った地元のバス会社が運行する路線バスに観光客の姿はほとんどなかった。
 土産物屋や飲食店も、日中はそれなりに賑わうものの、朝のうちや夕方以降はガラガラであった。鞆観光は日帰り客(というか短時間通過客)が大半なのだから当然のことだ。ハイシーズンでこの状況なのだから、シーズンオフの状態はおおよそ想像がつく。
 仮に、これら何十軒かの土産物屋や飲食店で雇用が発生するとしても、あまりにわずかな人数であろう。しかも、それらは、年間を通じての雇用ではなく、ハイシーズンのみの短期アルバイトになる。たいていのお店では、経営者の家族や親戚の誰かひとりふたりが忙しい時間帯にお店を手伝えばなんとかやっていけそうである。というか、それが経営的には一番だろう。

 一方、鞆の町の中で、20~30歳ぐらいの間の男性が働いている姿には、公務員系をのぞくと、ほとんど出会わなかった。2日間いて、4~5人会ったかどうか。
 そして、鞆の主要な地域産業である鉄工業はかなりの苦境のようだ。鞆の町の北の方にある鉄工団地周辺を歩いて回ることは今回できなかったが、おそらく、昨年後半から深刻化した不況はいくつかの工場に致命的なダメージを与えているだろう。

 先にも紹介したが、ネットなどで目にする工事反対派の主張のなかには、歴史的景観を活かした観光地化こそが鞆の採るべき将来の道だ、といった発言がしばしば出てくる。公共事業に依存しちゃうような旧来の地域経済振興は不健全であり、鞆の場合、観光地化にこそ、明るく正しい未来があるのだそうだ。

 要するに、国や自治体の税金などを当てにしてはダメで、鞆の人々は自力でもって観光業という「自由」な「市場」でお金を獲得しなさい、という趣旨のご指導である。

 これを聞いたら、髪の長い元首相や元大臣の大学教授などはさぞかしわが意を得たりと感激するだろう。もし本当にそのとおりでうまくいくのなら、つい最近、懺悔の本を書いちゃった経済の先生などは、喜んで再転向して逆懺悔の本なんて出しちゃうかもね。

 まあ、別に、新自由主義がぜったい悪であると言っているわけじゃない。ただ、ふだんは新自由主義やら市場原理主義やらに対して、弱者や田舎の切り捨てだとか批判している人たちが、もう片方で、上に書いたような、公共事業批判と鞆の浦の観光地化の主張をしているのだとしたら、それにはちょっと首をかしげてしまう。
 ましてや、ご自身、公共事業やなんとか助成金といった、国や自治体の税金の恩恵を被っているような人々までもが、“田舎”経済の公共事業依存を批判しているのだとしたら、そりゃもうめちゃくちゃな話だと私なんかは思ってしまうのだが。それは間違っているだろうか。

 念のため付け加えておくが、だからなにがなんでも架橋・埋立工事を実施せよ、と主張するつもりはない。だが、鞆やその周辺の地域経済に対しては、早急で大規模な経済対策がぜひ必要だと思う。それが鞆の地域経済の病気を完治させる薬ではないとしても、まずは今の痛みを緩和し延命を図る薬の処方がすぐさま行なわれるべきだと思う。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009/02/05

2月14日実施予定の巡見『江戸を縦貫する』~ヒルズめぐり編のご案内

 前の記事でお知らせしましたとおり、2月14日に下記の要領で巡見を実施します。
    
 ・日時:2月14日 13:00から夕方まで
 ・集合:JR浜松町駅の北口改札外に13:00集合
     (新橋・東京駅寄りの改札を出て右手にある
      キップ売り場の奥の辺り)
 ・コース:浜松町汐留ビルと高層マンションゾーン
       →汐留日テレ周辺
       →(都バスで)六本木ヒルズ
       →(バスかタクシーで)アークヒルズ
       →(徒歩?)新橋→(JRで)品川インター
         シティとグランドコモンズ

 
※13日付記:空模様が少し心配でしたが、どうやら午後には晴れるみたいですね。ありがたい。
※集合場所のJR浜松町駅北口は、山手線・京浜東北線のホームにおりて、一番北の端(新橋・東京寄り)まで歩いて、突き当たりの下り階段を降りたところにあります。ホーム途中の階段やエスカレーターで上の階に昇らないように。そちらから北口にまわるのはちょっと厄介ですよ。

 東京の都市再開発地区を自分の足で歩いてみて、現代都市社会における“ユートピア”を体感しようという企画です。本当にそこは理想の都市空間なのか?

 ちょっと欲張りすぎのコース設定かなぁ。まあ、当日のみんなの疲れ具合をみて変更するかも。歩きやすい靴で来て下さいな。

 基本的には、各大学で私が担当する講義やゼミに出席したことのある人向けの巡見企画ですが、一般の方も歓迎します。一般の方は、事前に私宛にメールでご一報ください(アドレスはこのブログのプロフィールのページをごらんください)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/12/03

酉の市めぐり、途中でゴールデン街

 今年は酉の市に合わせた巡見が設定できなかった。痛恨。ただし、個人的には酉の市を歩くことができたのでご報告。

新宿にて
 まずは、新宿花園神社の酉の市。つい最近、期せずしてうれしい再会をはたすことができた友達が、新宿ゴールデン街を案内してくれるという。以前からゴールデン街には興味があったので、大喜びで出かける。スタートの遅いゴールデン街へ行く前に、ちょうど酉の市が始まったところだったので、友達と一緒に露店をひやかして歩く。見世物小屋も出ていた。
 東京のあちこちからお客が集まる浅草酉の市と比べると、こちらは若干こじんまりとして、お客も近隣からやってくる人が比較的多い感じ。開店前のホストたちが連れ立って熊手をかついで道行く姿がいかにも新宿ローカル。友達いわく、ここらの露店の食べ物はなかなかレベルが高いと。たしかに、うまそう。ついつい手を出したくなったが、その後のゴールデン街ツアーに備えてがまんした。
 ゴールデン街では5軒くらいハシゴ。“顔役”の友達のおかげで貴重な経験。やはり、ゴールデン街は本当に良い世界だった。お店で働く人々、そこに集まるお客さんたち、みんなが、この街のディテールとして生きている。そんなディテールをもった社会のあり方が街の景観にも如実に反映している。ゴーストタウン化したなんとかヒルズも、いつかこんな街になれば良いのになぁ。
浅草にて
 翌日は、目白にある大学で開かれた、とあるシンポジウムにコメンテーターとして参加。私のコメントの稚拙さにも関わらず活発な議論が続く盛会。閉会後、目白駅の近所で懇親会。そのまま楽しく二次会へも出席。
 その頃、浅草酉の市は、終盤を迎えていたはず。去年の巡見で知り合った熊手のお店で今年はバイトしている学生さんたちから携帯へ「仕事が終わるから飲みに来い。」とのお誘い。というわけで、真夜中の零時過ぎに浅草酉の市にて合流。取り片づけにあわただしく動き回るお店の人々を眺めながめてから、すぐ近所の吉原へ。
 まずは、旧遊郭ゾーンの角にある韓国居酒屋ぽらむ。ここ、すごく良いお店ですよ。マスメディアやネットにはほとんど情報流れてないけど。
 で、そのあとは、例によって、浅草のカラオケボックスで始発待ち。ひとりの学生さんが気を利かせて、YUIのRolling Star を歌ってくれる。やっぱ良いねぇ、YUIは。
 調子に乗って、自分で、同じくYUIの新曲 I’ll be を歌おうかとも思ったが、なんとか自制。好きなんだけどなぁ、この曲。だけど代わりに柴咲コウの影をついつい歌ってしまい、かなりひかれてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/11/26

今週末予定の巡見「江戸を縦貫する」の延期について

 久しぶりの更新ですが、ちょっと残念なお知らせです。
 今週末の29日土曜に、吉原・上野・浅草界隈の巡見「江戸を縦貫する」の実施を以前から予定していましたが、私の仕事の都合で、どうしても今回は中止せざるをえなくなりました。
 出講先の各大学では、すでに中止の旨をお伝えしましたが、こちらのブログでのご案内をお待ちだった方もいらっしゃるかと思いますので、以上、遅くなってしまい恐縮ですが、お詫びとともにご連絡いたします。

 巡見は中止ですが、29日は浅草酉の市の真っ最中。巡見仲間の何人かは、昨年、知り合いになった熊手売りのお店で販売などのお手伝いにいくようです。ご都合のつく方は、どうぞ、お出かけになってみてください。

 次回の巡見は、12月なかば、あるいは、年が明けて各大学の後期試験が終了したくらいに実施予定です。また決まり次第、こちらのブログでもご連絡します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/10/22

外国人の幕末日本見聞記の“あれれ?”

 前回の記事で、上野・浅草界隈の巡見のことを書いた。この巡見のポイントのひとつが上野山下で、そこでは、『江戸名所図会』の「山下」図を片手にあちこち歩いてみた。

 今回は、そんな上野山下と『江戸名所図会』にまつわる、ちょっとしたお話を書いてみよう。

『江戸名所図会』の上野山下
 
 近世期の上野山下の状況をなるべく精密に復元することが、大学院修士時代の研究課題だった。その際、『江戸名所図会』の「山下」図の緻密な描写は、もっとも頼るべき史料であった。その当時、大学からの帰り道、上野駅を利用していた。というわけで、ほとんど毎日かつての上野山下の跡を歩きながら、頭の中で、現代の上野駅前の風景に「山下」図の情景(こちらこちらを参照)を重ねてあれこれ想像をめぐらしたものである。

『アンベール幕末日本図絵』

 そんなある日、上野山下のことを詳細に記した、ある文献に出会って衝撃を受けた。それは、『アンベール幕末日本図絵』(高橋邦太郎訳、雄松堂、1969-1970年)である。現在、この本は、講談社学術文庫で『続・絵で見る幕末日本』として文庫版化されている。
 スイスと日本との修好通商条約締結のために、文久2(1863)年から翌年にかけての十数か月間、日本に滞在したスイス人で、スイスの時計業組合の組合長でもある、エメェ・アンベールが記した日本滞在記『日本図絵』が原本である。

アンベールの上野山下

 一部引用してみよう。「山下の大きな広場に近づくにしたがって、群衆の数はふえてゆく。歩道には、竹と葦簾でつくった仮小屋が所狭しと並んでいる。その他、あちらこちらに散らばって、特殊な商人が店を出すが、彼らは群衆にぐるりと取り巻かれて、人垣の中で商売をしている。(中略)山下の広場にだけで、二十から三十も見世物小屋がある。そこには、軽業師、曲芸師、手品師をはじめ、伝説の語り手、庶民の笑劇、あるいは歴史に因んだ仮装行列の役者がいる。この他にも、一、二の曲馬団の興行がある。(中略)めぼしい小屋はかなり遠くからもそれと分かるように、高い櫓でそれと知れる。櫓といったところで、実際には油紙で覆いをかけた、竹の籠のようなものにすぎない。ここで上演される演目は大劇場のそれと比べると、文学的な価値はずっと劣っている。しかしながら、私はこんなことを考えている。もし、その脚本の中からよいものを選び、丹念に翻訳してみれば、日本の国民の真髄を理解するのに貴重な資料を、われわれに提供してくれるだろうと。」

悔しい!

 これを初めて読んだときには、本当にショックを受けた。それは、悔しさに似た思いだった。ここに記述されているのは、まさに、あの『江戸名所図会』の「山下」図そのものの情景である。自分が、「山下」図をもとに、江戸町奉行文書などのなかにわずかに残る断片的な史料を分析して、なんとか復元しようとしていた上野山下の状況が、ものの見事に、というか、あっけなく記録されてしまっている。それを読んでまず抱いた感情は、新たな史料を見つけた喜びではなく、まさに、悔しさであった。「そりゃ、まあ、実際に見た者には敵わないよな。」と。

あれれ、変だなぁ

 ところが、数日後、あることにふと気づいた。上野山下で葭簀張が出ていたのは、広場の中の火除明地とされた区域だが、そこに葭簀張を設えての営業は、天保改革の際、傍らでの床店営業と一緒に禁止された。そうして床店・葭簀張は撤去された。その後、当該地域の区画変更などを経て、安政年間に床店の営業は復活するが、かつてのような葭簀張を数多く設置しての大々的な興行などは復活していないはずである。つまり、アンベールが滞在していた頃の上野山下には、例えば、アンベールが言及しているような、「高い櫓」やら曲馬興行などは存在しないはずである。ちょっと変だな。
 そんな疑問を抱いて、もう一度、アンベールの記述を読むと、その内容が、『江戸名所図会』の「山下」図に酷似していることに気づいた。初読のおりには、あまりに見事に『江戸名所図会』の世界と同様の情景が記述されていて、それゆえ、その細密で正確な情景描写は本物であると信じ込んだわけだが、あらためて読むと、アンベールの記述は、『江戸名所図会』と似すぎていた。
 『江戸名所図会』の刊行は天保5年と7年である。つまり、天保改革によって山下の床店・葭簀張が撤去されるより前である。だから、当然、その挿絵のなかには、広場における床店・葭簀張の営業の様子が描かれているのである。

アンベールの捏造

 なるほど。要するにアンベールは、自分の眼で見た上野山下の状況を記録したのではなく、おそらくは、帰国後、『江戸名所図会』を傍らに置き、いかにも自分が実際の上野山下を訪ねたように見せかけて、本当は、『江戸名所図会』に頼って、想像による上野山下の風景描写を書き上げたのであろう。

 例えば、私が実際に行ったイタリアの町の滞在記を書く場合、「この町のドゥオモは何世紀に誰それの設計によって建てられたもので云々」といった記述を正確にするため、旅行ガイドブックなどを参照しながら書くことがある。アンベールが『江戸名所図会』を日本土産として持ち帰っていたことは、彼の本の挿絵のいくつかが、『江戸名所図会』の挿絵を下敷きにして描かれたものであることからも明らかである。アンベールは、そうして持ち帰った『江戸名所図会』などを参照しながら、江戸滞在記をまとめたのであろう。そのとき彼は、自分が見てもいない場所、上野山下の訪問記までをも、あの見事な『江戸名所図会』を眺めながら、ついつい捏造してしまったのだろう。

気をつけなきゃね

 文庫版の裏表紙には、「該博な知識、卓越した識見、犀利な慧眼。(中略) 江戸の町とその生活を見たありのままに描写する。」という“宣伝文句”が載せられている。当時の欧米人の日本旅行記に対しては、ついつい、それなりの客観的な観察結果としての正確さを期待してしまう傾向が、現在、一般的に存在するように思う。ところが、どっこい。もし、それらを史料として利用するなら、当たり前のことだが、やはり、十分な史料批判が欠かせないように思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/26

朝日カルチャーの江戸歴史散歩

 昨日も歴史散歩の案内人をつとめた。朝日カルチャーの講座。朝日カルチャーでの町あるき企画は、私にとって初めてだったので、それなりに緊張。

 『江戸名所図会』の「山下」図を手にもって、上野のお山の山王台(現・西郷像前の広場)・五条天神社(現・アメ横入り口)・山下の床店葭簀張営業地(現・上野駅敷地の南端あたり)を歩き回る。
 近世の上野山下の広場について、詳しくは、拙著『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社)の第1章をお読みくださいませ。『江戸名所図会』の「山下」図については、目黒の彦十さんの「鬼平犯科帳と江戸名所図会」というHPのこのページこのページが見やすいです。実を言うと、私も大の池波ファンですが、こちらのHP、池波ファンにとってとても面白いです。
 
 さて、次に、山下の広場を稼ぎの場としていた人々の居町へと向かう。床店で古道具・古鉄物を商っていた文蔵少年が暮らした下谷幡随院門前。それと、山下を勧進の場とすることも多かっただろう願人坊主たちの集住地で、落語「黄金餅」の舞台ともなった山崎町。途中、現存する同潤会アパートとして希少な上野下アパートにも立ち寄る。
 その後は、源空寺の墓地(伊能忠敬や谷文晁・幡随院長兵衛らのお墓がある)へ。この源空寺の門前町では高村光雲が生まれ育っている。光雲の父は露店商だが、たぶん、上野山下を稼ぎの場とすることもあったのではないか。

 そこから浅草寺へ。本堂裏手まで進む。奥山のお話はまたの機会に、ということで、今回は、浅草寺と寛永寺の関係についてお話して、解散。

 先週の新宿教室での予告の際は、ちょっと無理めを承知で、全行程1時間半と。案の定、それでは収まらずに、結局、2時間かかりました。受講生の皆様、お疲れ様でした。本当は2時間半くらいかけたかったところですが。

 11月には、ふたたび朝日カルチャーで、同様の企画。今度は日本橋界隈へ行きます。興味をもたれた方はぜひお出でください。詳しくはこちらのページへ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/07/28

8月8日に巡見やります

 江戸城本丸を出発して、三ノ輪の浄閑寺(亡くなった吉原遊女の投げ込み寺)までを歩きとおす巡見「江戸を縦貫する」は、例年、その全行程を、1.江戸城から日本橋まで、2.日本橋から浅草まで、3.浅草から吉原まで、の3区間に分けて歩いています。今年は、すでに第1区間と第3区間を歩きました。というわけで、今回は残りの第2区間を歩きます。

 第2区間では、東京証券取引所や神田・浅草の問屋街などを巡ります。そのため、通常のような土曜開催だと休業中の施設や商店も多く、歩いていても面白くないので、夏休み期間中の平日開催となります。

 この第2区間は、他区間と比べると、一見、地味なコースなんですが、個人的には、最も興味深く歩けるコースです。特に神田の繊維問屋街が面白い。この問屋街にみられる毎年毎年の少しずつの変化に注目しています。それが、新しい社会を生み出していけるようなたくましい芽なのか否か。問屋街の生命力、市場の生命力の問題。
 例えば、築地の魚市場。取扱量が低落しつつも、最近、漫画化・映画化されたり、外国人旅行客にとって都内でもっとも人気の観光スポットになったりで注目を集めています。それはおそらく築地の魚市場の底力とでも呼ぶべき魅力ゆえだと思いますが、市場としての神田のポテンシャルは築地を上回る可能性だってあるようにも思います。

 ここまで読んで、いったい何のことかいな?と思った人、神田の問屋街を見たことのない人は、ぜひ一緒に歩いてみてください。かなり面白いと思うんだけど。

 なお、この巡見全体の趣旨や目的については、こちらの記事を読んでください。

 おおまかな行程は、日本橋~兜町~人形町~神田問屋街~浅草橋問屋街~浅草寺。そのあともし時間と体力に余裕があれば合羽橋道具街から稲荷町まで。当日の暑さ次第でしょう。

日時:8月8日(金) 13:00から(所要時間はだいたい4時間弱かな)
集合:JR神田駅に13:00集合

 集合場所の詳細は講義中にご案内したとおり。ご案内できていない方は、お手数ですが、私、小林宛にメールをください。アドレスは、このブログのプロフィール頁にあります。


 次回以降ですが、11月29日(土)に酉の市・吉原・佐竹ヶ原・柳原土手跡などを歩く予定です。その他には、各“ヒルズ”や品川あたりの都市再開発地域めぐりも実施予定です。こちらは10月末、あるいは来年2月中旬になると思います。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2008/06/23

巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 今週末の28日(土)午後に、巡見をおこないます。雨天決行です。みなさん、照る照る坊主を作ってください。

 コースは、吉原の遊女たちが葬られた三ノ輪の浄閑寺を出発して、吉原遊郭跡(現在はソープランド街)を訪ね、それから、日雇い労働者のドヤ街である山谷へ進み、浅草新町を通り、浅草寺まで。

 初回の江戸城から日本橋までの区間に続いて、本来なら今回は、日本橋から神田、浅草橋、浅草寺までの第二区間の順番なのですが、証券取引所や問屋街をめぐるこの区間は平日に行かないとつまらないので、それを夏休み(たぶん8月8日の金曜あたり)にまわします。で、今回は、第三区間である浅草・山谷・吉原界隈を先に歩きます。

 集合は、地下鉄東京メトロの日比谷線の三ノ輪駅に、28日(土)の14:00です。

 詳細は、各大学での講義の際に連絡いたします。このブログをお読みの一般の方や、昨年以前の受講生の方の参加も歓迎しますので、その場合は、私あてにメールを頂ければ、返信にて詳細をご連絡いたします。メールアドレスはこのブログのプロフィールのページをご参照ください。なお、一般の方で初参加の場合は、メールに住所・氏名をお書き添えください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/06/05

今月、巡見にいくつもりです

 巡見「江戸を縦貫する」の今年度の2回目ですが、吉原・山谷・浅草に行こうと思っています。日程は今月28日の土曜午後。近日中に詳細をお知らせします。
 この巡見の概要や趣旨はこちらの記事をみてください

 もちろん、11月の酉の市のときにも、吉原界隈へは行きます。今年は11月29日の土曜が三の酉なので、その日に実施予定。吉原から酉の市、そして上野山下・下谷の「新開町」佐竹ヶ原・神田柳原土手跡をめぐってみようかなと思います。昨年までとは違う、新しいコースです。

 他には、おそらく8月にはいってすぐくらいに、日本橋から兜町、神田の問屋街、浅草橋の問屋街(できれば稲荷町の仏具店街、合羽橋の道具街まで)を歩く予定。

 そして、ヒルズ巡見、あるいは都市再開発地域巡見を、10月か、来年の2月あたりに予定しています。

 参加を予定していらっしゃるみなさん、よろしくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/04/21

今年度第1回めの巡見のご案内

 今年も、巡見「江戸を縦貫する」を開始します。

 年間の全コースは、江戸城本丸跡に始まり、丸ノ内・日本橋・兜町を通って、神田の繊維問屋街・浅草橋の問屋街から浅草寺・浅草新町・山谷ドヤ街・吉原ソープランド街と進んで、三ノ輪の浄閑寺までの区間です。
 (以上が基本コースですが、番外として、ヒルズなどの都市再開発地域や、新大久保・歌舞伎町のコリアンタウンにも行くと思います。)

 第1回めの今回は、江戸城本丸から日本橋界隈までを歩きます。

 巨大都市江戸に一本串を突き刺してみて、その端から端まで歩き通してみるというのが巡見の趣旨です。むろん、江戸を串刺しにする場合、この巡見コース以外にも、いろんな方向に串を打つことが可能です。しかし、江戸の重層性・多様性を実感しつつ、同時に、現代都市東京の重層性・多様性にも幅広く触れるためにもっともふさわしいコースが、江戸城の天守台に始まって、吉原遊郭の裏手で終わる、この巡見コースだと思っています。

 ともすればノッペラボウに見えやすい都市社会が、本当は、それぞれが色もかたちも異なる、多様な部分部分からできた、モザイク画のようなものだという感覚を保つことが大事だと思っています。
 
 そのような感覚こそが、過去・現在の社会の諸局面を対象とする研究のモチベーションにつながるし、また、そうした諸局面に視線を向けている自分自身の立ち位置(モザイクの一片)を相対化し、わが眼のレンズの色やら偏差やらを知らしめてくれるからです。

 また、今後、皆さんが、いろんな場面で、「私たちの社会は・・・」とか、「日本社会とは・・・」とか口にした瞬間、その脳裏に反射的に浮かぶのが、「一般市民」とか「普通の人々」とかのボンヤリした幻像ではなくて、この巡見で出会ったさまざまな街並みと、そこで生きる多様な人々の、クリアでリアルな映像群であってくれればいいなと思います。


 そんなわけで、下記の要領をご検討の上、皆さんふるってお出ましくださいませ。この巡見のお誘いは、基本的には私が今年度担当している各大学での講義・演習の受講生を対象にしていますが、それ以外、過去の受講生の方や一般の方も遠慮なくどうぞ。ただし、一般の方は、ご面倒ですが、私宛に住所・氏名を明記したメールをお出しください。集合場所などを折り返しご連絡します(アドレスはこのブログのプロフィール欄をみてください)。

   記
日時:4月26日(土) 14:00~(たぶん17:30くらいまで。その後、例年のごとく、希望者で飲み会)
集合:JR東京駅に14:00 (詳細は、今週の授業の際にご案内します。あるいは、メールで問い合わせてください。)
コース:東京駅→丸の内オフィス街→江戸城本丸(東御苑)→竹橋・地下鉄東西線で日本橋へ移動→江戸橋広小路→大伝馬町→本町通り→日本銀行→三井→日本橋


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/05

新宿のイル・バーカロにて

 昨夜、新宿で買い物をしたついでに、新宿三丁目にあるヴェネツィア風居酒屋のイル・バーカロにて、ひとりで夕食。昔から気に入っているこのお店の紹介はまたあらためて。(付記:紹介記事はこちらをクリック

Rimg0017_3
 食事が終わった頃、建築史の陣内秀信先生が、学生さんたちを連れてご来店。まあ、ヴェネツィアと関わりの深いこのお店に、あの陣内先生がいらっしゃること自体はなんの不思議もないわけだけど、僕にとっては、陣内先生とお会いするタイミングは、なぜかいつも絶妙というか、微妙というか。

 以前、このブログで、盛り場論批判の記事を書いた。批判の対象のひとつが陣内先生のご著書。すると、その直後、先生が所長をされている法政大のエコ地域デザイン研究所から報告の依頼。(そのときの報告内容の要旨についてはこちらの記事を読んでみて下さい。


 今回も、このブログで、鞆の浦の架橋・埋立工事をめぐって、工事反対の運動のやり方への疑問を書いたばかり。そんなタイミングで、反対運動の中心にいらっしゃる陣内先生と、またしても偶然お会いすることに。もちろん、こんなブログの記事なんて、先生はご存じないままだが。

 というわけで、お店の立ち飲みカウンターバーのコーナーで、ワインをご馳走になりながら、これさいわいと、鞆の浦の問題について色々ぶしつけな質問をさせていただいた。それでも、イヤな顔をされることもなく、どの質問にもきっちりと答えてくだる。
 
 先の記事の末尾でもふれた、観光地化した町の過疎化・空洞化の問題についても質問した。すると、すでにその問題は先生も視野に入れていらっしゃって、その上での将来構想も話してくださった。農村部におけるアグリトゥーリズモの漁村版、ペスカトゥーリズモの動きなどは初めて知った。

 故郷のことであるにも関わらず、わからないことだらけで、この問題については判断保留状態のままの自分が少々恥ずかしくなる。

 鞆の話の後は、僕の大好きなイタリアの田舎町スポレートにあるモンテ・ルーコという山の保全活動に陣内先生が関わっておられたことを初めてうかがう。それから、ローマの夜といえばもっぱらナヴォーナ広場周辺が一番だと僕は思っていたけど、そうじゃなくて、最近はカンポ・ディ・フィオーリが熱いんだとかいった話も。
 他にもたくさんの話題で時間があっという間。同席の学生さんたち、先生を独り占めしちゃってすみませんでした。

 おしまいには、調子にのって、先生のご本では「イタリア都市再生の論理」が一番好きです、などと口走ってしまった。まあ、実際、僕はこの本が大好き。おそらく、一般に公開された先生のお仕事の中では、最も初期のものだろう。かなり過激な内容の本。この本を読めば、たとえば、歴史的建造物のファサードだけを残してこと足れりとするような保存の問題点がはっきりとわかる。そんな本。
 近年もたくさんの研究成果を世に送り続けていらっしゃる先生に対して、受け取りようによっては失礼なことを口走ったわけだけど、それに対しても、今のご自身からみたその本に対する思いなどをストレートにきかせてくださった。

 文字通り、願ってもない、まことに貴重な夜だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/27

鞆の浦の問題

 先日、鞆の浦の架橋・埋立問題について少し触れた記事を書いたら、ネット検索でそれを読みに来られる人がけっこうたくさんいらっしゃる。というわけで、今回は少し補足の記事を。

思い出のなかの鞆 

 鞆港の風景は美しい。近世以来の港湾施設もたくさん残っている。船が通ると静かな波のうねりが雁木をタプタプとたたき、繋留された小型漁船の間には、小さな雑魚の群れが時々サッと身を翻しながら泳いでいるのがみえる。
 生まれて初めて酔っ払った経験は、たぶん小学生低学年頃に、鞆の名産、保命酒粕を食べ過ぎた時だった。結婚当初、金も無く、新婚旅行は日帰りの路線バス旅行で鞆へ行った。僕にとって、鞆はなにかと懐かしい町である。

 そんな鞆の港に橋を架ける計画が進んでいる。計画では埋立地も造成する予定である。それらによって、鞆港の景観は大きく改変される。新婚旅行のとき、港の先の小さな砂浜で写真を撮ったりした記憶があるが、きっとその辺りが埋め立てられるのだろう。

住民の工事賛成

 計画に反対する人々は、この架橋・埋立工事は「暴挙」だという。歴史的景観の価値など省みられることがなかったひと昔前ならいざしらず、今はそうした景観を守ることの大切さが広く認知され始めている。そんな中、鞆港の歴史的景観を破壊する工事なんて、まったく時代錯誤の「暴挙」なのだと。

 一方、鞆の成人住民の9割を超える人々が、かつて、架橋・埋立に賛成の署名をした。こうした住民の支持を受けて、広島県や福山市は工事を進めようとしている。それに対して反対派の人々は、この賛成署名は鞆の町内有力者たちが地域社会のしがらみを利用して集めたものであり、問題があると主張する。それもまあある程度は事実だろう。

 反対派の心情・動機は、冒頭に紹介したような鞆の思い出を持つ者として、また、歴史研究者として、それなりに理解できる。

反対のやり方

 ただ、反対のやり方がまずいって気がしてならない。反対派の主張内容がもし上記の通りだとすると、彼らは賛成派の住民に対して、「あなたがたは無知で時代遅れで自立した意見など持てない非民主的な人たちです」って言い放っているようなものだ。これじゃあ、喧嘩にしかならないだろう。歴史的景観を後生大事に守ることを唱えながら、片方で、鞆の歴史的地域社会をズタズタに破壊していることになる。目に見えない分、後者の傷の方が深刻な状況へ進みやすいようにも思う。

 県や市の主張を崩して工事をストップしようとするなら、賛成派の住民の大勢を説得して味方に引き入れ、鞆の住民の少なくとも過半数以上でもって工事反対を訴えるべきだ。県や市は、これまで、この工事計画は住民の多数の支持を受けているから実施するんだと主張してきたわけだから、これが一番有効かつ唯一の反撃方法ではないだろうか。

 反対派が自分たちの思いをぶつけていくべきは、県や市に対してではなく、まずは、賛成派の住民に対してである。そうやって、鞆の住民の過半数の反対署名とかを獲得できれば、この工事を中止に追い込むことができるだろう。
(付記:このことについては、hatsudaさんからコメント拝受。私としては、やはり、反対運動が住民多数の支持を得ていない状態のままだと、たぶん運動は成功しないだろうし、もし仮に工事を中止できたとしても、鞆の将来に深刻な問題を残すのではないかと思います。)

なぜ工事に賛成するのか

 反対運動を行うためには、まず、工事に賛成している住民の心情をちゃんと理解する必要がある。理解の前提は、まず鞆の町のとめどもない衰退・過疎化状況を知ることだろう。賛成派住民たちのうちの少なからぬ人々は、おそらく、橋がかかったからといって、鞆の町の抱える問題が解決するわけではないことぐらい、よく分かっているだろう。それでも、どうして人々は工事に賛成しているのだろうか。もし有効な反対運動を展開したいのなら、そこのところを、十分なシンパシーをもって理解していかなくてはならないだろう。おそらくそれは、県や市のかかげる建前としての工事目的(渋滞緩和やら観光開発やら)なんかとは相当違うところにあると思う。

 それが理解できないまま、やみくもに、歴史的景観の保護は絶対だ、とか主張するのは、間違っていると思う。


観光化の問題

 一方、工事反対派が描く、観光地・鞆の将来像に対しては違和感が強い。港の景観を守りながら、それを“売り”にして観光業を盛り立てていくべきだとかいった将来像である。世界遺産にしようとかいった運動もあるんだとか。
 うーむ、観光で鞆の地域経済が潤うっていう目論見のずさんさが気になる。以前の記事にも書いたが、そのためには鞆に来る観光客が、短時間通過型ではなくて、宿泊滞在型になる必要があるだろうが、それは可能なのか?
 滞在時間が数時間以内で通過していくタイプの観光客相手に十分儲けられるのは、せいぜい土産物店か軽い飲食店か、はたまた駐車場くらいだろう。まあ、鞆の町なかの条件の良い場所に土地や家屋を確保しているごく一部の人にとってはそれで良いのかもしれないが。そうじゃない人にとって、あまりに恩恵は薄い。

 歴史的景観を“売り”にした観光地化に鞆の将来を託そうと主張する人々が決まってお手本に持ち出すのが、イタリアの古い町々である。そんな人たちは、例えば、ヴェネツィアの超深刻な過疎化問題なんかを知っているのだろうか(ちなみに温暖化による水位上昇がこの町の過疎化の原因だというのは誤解だろう。問題の原因はもっと本質的なところにある)。あるいは、トスカーナのサンジミニャーノやピエンツァみたいな歴史テーマパーク化して空洞化する小さな町々の姿を。
 鞆がそんな歴史テーマパークを目指すなら、それはそれで重大な覚悟が要ることだ。それは、架橋・埋立工事と同じくらい、従来の鞆の町を変えてしまうことだから。(付記:その後、架橋反対を熱心に主張されている法政大の陣内先生と偶然お会いして少しだけお話をうかがう機会に恵まれました。それについてはこちらの記事をご覧下さい。

2009.3.27.付記 先々週、鞆の浦へ行きました。架橋・埋立問題とは無関係の仕事があったからですが、実際に鞆の町を歩いてあらためて思ったことを書きましたので、よろしければ、こちらの記事へ。
 それから、ネット検索してて、この問題について私としては共感できる部分が多いブログ記事にやっと出会えたので、勝手に紹介します。付けられたコメントも説得的な内容です。 『あそコロ♪優パパ日記』から「続・鞆の浦架橋問題」

| | コメント (21) | トラックバック (0)

2008/02/01

福山・鞆の浦

 福山への帰省
 
 先日、事情があって、実家のある広島県福山市に帰省した。もうかれこれ7、8年くらい帰省してなかったから、今回久しぶりに福山の街を歩いてみて、なかなか感慨深かった。といっても、滞在時間が5時間程度のとんぼ返りだったから、あまりあちこちを訪ねることもできなかったのだが。まあ、久しぶりに帰るからこそ気づく街の変化もあるとは思った。

 なによりも印象深かったのは、中心市街地の衰退ぶりだった。商店街は壊滅的だ。再開発計画もあるようだが、それがかえって致命傷にならなきゃよいが。
 
 一方、郊外に立地する出身高校の周囲には、ロードサイド店舗が激増していた。高校生の頃はまだ田んぼもあったのに。その頃、幹線道路沿いにポツポツと増えつつあったそうした店舗が、今は裏道の方にも広がっている。かつては点々と散在していたそれらの店舗が、次第に連続的な街区を形作りつつある。ロードサイド店舗群における市場性の芽?

 鞆の浦の問題
 
 今、なにかと「業界」内で話題になっている鞆の浦には行く時間もなかった。鞆の浦は福山市内にある。せっかく自分の故郷の問題なんだから、少しまじめに考えてみてもよいかなとも思うのだが、なかなかなぁ。
 
 おそらく、福山の人たちの少なからぬ部分は、歴史的景観の保全なんかよりも、道路橋や埋立地の早期建設を歓迎している。実際、建設推進派は鞆の浦の住民の9割以上の署名を集めている。この署名については、狭い地域社会内のしがらみを利用して集められたものだと批判する声が「業界」内にもあるみたいだが、思うに、その「業界」団体などが協力して集めた反対署名の方にも何かと問題があるんじゃなかろうか。それが、鞆へ行ったことがないとか、鞆が広島県のどのあたりにあるのか知らないとかいった人にまで、「業界」内のツテで頼んで集めた署名だとしたら、どっちもどっちという気がする。

  「鞆の明るい将来は歴史的景観を活かした観光地化にある。」といった類の無責任な外野の発言にもかなり違和感を感じる。バブル期のリゾート開発業者じゃあるまいにね。観光地として鞆の地域経済が潤うには、鞆が短時間通過型でなくて宿泊滞在型の観光地になる必要があるが、そんなことは本当に可能なのか?かなり難しいと思う。たとえば、鞆が日本各地にある三セク系がらがらテーマパークみたいな町になるのは、福山市民にとって最悪の事態だろう。

 うーん、やっぱりたまには帰省してみないといけないな。

付記:
 えっ、鞆の浦の問題って何?って人も多いでしょうから、簡単に説明を。 福山市の南端、海岸部にある鞆という町の真ん中を県道がはしっているのですが、これがめちゃくちゃ狭くて車もすれ違えない。そのため、海の方に橋を架けたり埋め立て地を造ったりしてバイパス道路を通そうという計画が立てられた。しかし、海上に橋をかけると、稀少な歴史的景観である鞆の港湾風景が損なわれてしまう。そのため、計画推進派と計画反対派とが対立した状態が発生。この問題について、ネットで検索しても、反対派側の情報がほとんどで、問題の具体的な構図がなかなかつかみにくいのですが、とりあえず、こちらの記事や、こちらの記事などを参照のこと。

付記2:補足記事をかきましたのでそちらもご覧下さい。「鞆の浦の問題」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/01/18

2月17日「巡見~江戸を縦貫する・番外編」のご案内

来月2月17日に巡見をおこないます。今回はヒルズめぐりをしましょう。今年度の「巡見~江戸を縦貫する」もこれで最終回です。

これまで、江戸城本丸から日本橋へ、日本橋から浅草へ、浅草から山谷吉原へ、と歩いてきました。江戸の都市社会の重層性をたどりつつ、現代東京の都市社会の重層性をも同時にたどってみようという意図で設定したコースです。

ただし、現代東京についていえば、このコースではやや物足りない感じです。行きたいところを挙げればきりはありませんが、新大久保のコリアンタウンと、都内各所の都市再開発地域はぜひ行きたいポイントです。

コリアンタウンと歌舞伎町は、まあ、巡見後の“飲み”で何度も行くから、とりあえずそれでいいかなと。というわけで、こんどの番外編では、都市再開発地域=ヒルズを歩くことにします。

  日時:2月17日(日)13:00~
  集合:JR新橋駅に13:00
  内容:アークヒルズ・六本木ヒルズには行きます。
      他は未定。表参道か、ミッドタウンか、汐留か

いちおう、各大学での私の講義に出てくださっている学生さんに声をかけての企画ですが、それ以外の方の参加も歓迎です。集合場所などは、講義のときにお知らせします。講義に出ていらっしゃらない方は、メールでお問い合わせください。アドレスはこのブログのプロフィール頁にあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/29

ヒルズの原点

(前回の記事のつづき)
 港区生涯学習センターでの講義の前々日に、六本木ヒルズとアークヒルズに出かけて、資料用写真を撮った。今回紹介するのはアークヒルズの写真。
 アークヒルズは、森ビルが手がけた街区開発型ヒルズの第一号。森ビルいわく、「成熟を重ねる森ビル都市再開発の原点」が、このアークヒルズだ。
 
次の写真は、そのアークヒルズの中心の広場。名前はカラヤン広場。アークヒルズには、有名なクラシック用コンサートホールがあるが、その設計にアドバイスをした往年の名指揮者の名前を冠しての命名だ。

Rimg0002_2

 撮影日時は、2007年11月14日水曜の19:30頃。観光客とおぼしき人と、それから広場に面した飲食店の従業員さんが写っている。これは、なにも人が少なくなったタイミングを選んで撮影したわけではない。撮影時の前後、誰も広場にいない時間帯もあった。

 次の写真は、広場に面した飲食店のテーブル。右手奥に少し人がかたまっているが、それはアークヒルズにあるホテルの出入り口。

Rimg0004

 次の写真は、タワービルの中の商店・飲食店フロア。右手のシャッターが降りている店は書店。この時間(夜の7時半すぎ)でもう店じまいしている。この写真も、特に人通りが少ないタイミングを選んだわけではない。お店の前で撮った写真もあるが、それをここに載せるのは遠慮。
 サムネイルで載せたけど、拡大がうまくできない。すみません。

Rimg0005_2

 アークヒルズの夜間のゴーストタウンぶりは、昨年のクリスマスの“イブイブ”の土曜に出会ったのとまったく同じだった。そのときは、平日の夜ならもう少し人がいるのかな、と思った。で、今回、平日を選んで出かけてみたのだが。

 どうやら、森ビルが誇る「ヒルズの原点」には、失敗のDNAが存在するように思える。そして、そのDNAは、六本木ヒルズにも受け継がれているように思うのだが。
(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/26

いま「六本木の都市化」について考えなきゃ!

 先日、港区の生涯学習センターの歴史講座に呼ばれて講義をしてきた。センターから私に与えられたお題は「六本木の都市化」。

 講義の準備をしながら、これはなかなか重要なテーマだと思うようになった。センター職員の方に感謝。

 では、なぜ「六本木の都市化」は重要か。

 六本木には「ヒルズ」の本山がある。

 現在、例えばマッカーサー道路がらみの再開発など(ここや、ここを参照)もあって、港区においてとどまることなく増殖している「ヒルズ」は、次第に都内各地へも転移していく勢いである。

 また、六本木ヒルズで開かれているアカデミーヒルズが拠点となって、ここで“都市再開発の奥義”を学んだディベロッパーや都市計画系コンサル、地方自治体の公務員などが宣教師となり、「ヒルズ」の思想を日本全国の都市再開発の現場へ、せっせせっせと伝道していく。

 他方、アジア経済の中心上海のそのまたど真ん中に複写された「ヒルズ」がお手本となり、それはいずれ中国各地あるいはアジア諸地域の都市へとコピーされていく(まあそんな戦略も、そのうちどっかでコケるかもしれないけどね)。

 つまり、六本木の都市化や再開発の問題は、日本全国およびアジア諸地域の都市化や再開発の問題と直接につながる。

 だから、「六本木の都市化」は、今考えなきゃいけない大事なテーマとなるわけだ。

 港区の歴史講座では、そんな問題意識をにじませつつ、幕末から現代までの「六本木の都市化」の歴史についてしゃべった。

 このブログで講義内容の紹介はしないが、次回の記事には、その代わりに写真を少しのせてみよう。講義の準備のため、六本木ヒルズやアークヒルズに出かけて撮った写真だ。その中からアークヒルズの写真をいくつかのせてみるつもり(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/12/19

メキシコの民衆的市場~ティアンギス

 面白い論文を読んだ。増山久美さんという人が書いた「「ティアンギス」と地域社会-メキシコ市大衆地区の青空市と地域住民とのかかわりについての一考察-」(『人文・自然・人間科学研究』18号、拓殖大学人文科学研究所、2007.10.)。

 ティアンギスというのは、論文の副題にあるように、メキシコの「青空市」のこと。ティアンギスという語でネット検索すれば、たくさんのメキシコ旅日記系のブログなどにたどり着き写真を見られるが、その中で個人的に気に入った写真・記事は、こことかここあたりかな。

 自分は、大学院入学以来、江戸や東京の露店(床店葭簀張)営業地の実態解明を研究テーマとしている。こうした露店営業地の存在を、「非日常」やら「祝祭」やら「アンダーワールド」などなどの言葉で飾り立てていたずらにキワモノ扱いする従来の研究については、それらを盛り場論と名づけて、実証的に否定してきた(つもりである)。
 
 でもって、そうした露店営業地を民衆的市場と呼ぶことにして、都市民衆世界の基本的な構成要素としての存在意義を明らかにしてきた(つもりである)。そんな私の主張をかいつまんで紹介したものは、こちらの記事へのコメントや、こちらの記事

 で、今回読んだ増山さんの論文にとても共感。同論文では、ティアンギスの「地域社会」における存在意義が具体的に明らかにされる。その一方で、「ティアンギスの存在は貧困層救済のための必要悪」だとかいった見方が間違いであることもはっきりと示されている。

 また、ティアンギスのような社会=空間が、今後の日本の都市においても有意義なものになりうるのではないか、といった示唆もある。(近い将来、不毛の“都市再開発空間”がいよいよゴーストタウン化したあとを再生するときにも、これは重要かな。)

 いつか、こうした民衆的市場社会の国際的な比較研究をやってみたいもんだ。増山さんにも、いつかどこかでお会いできるとよいなぁ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/10/17

11月10日「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

早いもので、今年もそろそろ酉の市の季節がやってきました。というわけで、浅草酉の市の日程に合わせて、恒例の浅草・山谷・吉原界隈の巡見をやります。

今年の「壱の酉」は11月11日(日)です。酉の市は日付が11日にかわった深夜0時に始まりますが、美しく飾られた市の熊手を見るのには、市が始まる前、10日(土)の午後がおすすめ。

巡見のコースは、三ノ輪にある吉原遊女の“投げ込み寺”浄閑寺からスタートして、酉の市を見学し、吉原遊郭跡、山谷ドヤ街、浅草新町をめぐり、浅草寺周辺がゴールの予定。巡見全体の趣旨やらねらいやらについては、こちらの記事をみてください。

今年の春に、江戸城本丸から丸の内オフィス街を通って日銀やら三井タワーのある日本橋界隈を歩き、夏には、日本橋・兜町界隈から神田繊維問屋街を通って、両国・浅草橋・蔵前まで巡りました。今回はその続きで、「江戸を縦貫する」コースの最終区間にあたります。

いつものとおり、基本的には各大学で私の講義を聴いてくださっている学生さんたちをお誘いしての巡見ですが、かつて私の講義に出られていた方々や一般の方々も、どうぞ遠慮なく一緒に歩いてくださいませ。

集合:10日土曜の午後に地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に集合します。
    集合についての詳細は各講義で配布の案内状を参照のこと。
    案内状を受け取れない方はメールでお問い合わせください。
    メールアドレスは、このブログのプロフィール頁にあります。
    9日現在で複数の方からメールをいただいております。
    そんなわけで、今年の学生さん以外の方も遠慮なく。
   ※10日午前6時までにメールいただければ大丈夫です。
    ただし返信は9日深夜か10日午前6時までお待ち下さい。
    巡見自体は、だいたい18時前には終了・解散の予定です。

付:個人的には、今年こそ、巡見終了後、そのまま浅草で飲んで開催直後の酉の市に行きたいなと思っています。山谷で門限無しの宿を探して泊まろうかとも考えているんですが、じゃなくて、飲んで、酉の市に行って、で、カラオケかネットカフェで始発待ちしようかなとも。本当は、山谷に泊まって、カフェバッハで極上のモーニングコーヒーってのがかねてからの念願なんですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/22

猛暑巡見のかんたんな報告~中編

江戸のメインストリート
 人形町から大門通りを神田方面へ進む。前方に、通行量の多い大通りとの交差点が見えてくる。この大通りの現在の名は、江戸通り。江戸時代の呼び方だと、本石町通り。大門通りから見ると、本石町通り沿いは、周囲と比べて微高地であることがわかる。

本町通りと本石町通り
 さて、その本石町通りに出る少し手前で、我々は右折する。この通りが本町通り。由緒正しき江戸のメインストリート。常盤橋際から浅草橋際まで延びる。江戸の建設期、江戸町方の中心である日本橋北地区一帯の町割り造成工事がこの本町通りを中心軸にして行われたと、かつては考えられていたこともあるが、最近の研究だと、実際の中心軸は、本町通りの隣を平行して走る本石町通りだったという説が有力だ。
 ただし、造成工事の中心軸が本石町通りだったとしても、江戸城下の町方の社会的編成上の中心軸が本町通りであることは疑うべくも無い。
 こうした中心軸の二重化はどうして生じたのか?その理由を勝手に想像してみよう。徳川氏の城下町として江戸が建設される以前から、中世の江戸湊や浅草辺りには、ある程度の町場の発達があったとされる。江戸湊の内奥の低地にあって、微高地上を走る本石町通り沿いには、すでに、ぱらぱらと町場ができていた(のかもしれない)。日本橋北地区の造成に際しては、まずこの本石町通りを直線的に整備し直し、それを基準線として、一帯の町割を進めた(同前)。しかし、江戸のメインストリートには、本石町通りではなく、その隣の道筋が選ばれた。新たに造られたその道路沿いの土地は、先住者のいない新規造成地であり、徳川氏に随伴する有力町人たちを入植させるには、本石町通りよりも好都合だった(同前)。こうして、新たなメインストリートには、本町・大伝馬町といった、江戸で最も格式の高い町々が作られていった。
 と、まあ、想像してみたけど、実際のところはどうだったんだろう。単に、日本橋北地域に向けた江戸城の玄関ともいえる常盤橋門に対して、本石町通りの入り口よりも本町通りの入り口の方が近かったから、というのが理由かも知れない。

 さて、そんなことを思いつつ、本石町通りの手前で大門通りを右折し、本町通りに入る。これを浅草橋の方向に少し進むと、龍閑川埋立地に着く。戦後、廃墟の瓦礫でもって埋め立てられた場所だ。この埋立地の歴史にはかなりの思い入れがあるが、今回はそれに触れることもパス。
 この先が、繊維問屋街の中心だ。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/09

猛暑巡見のかんたんな報告~前編

 おととい、巡見にいった。江戸城本丸から、日本橋・神田・浅草をとおって、三ノ輪にある通称投げ込み寺の浄閑寺までを歩く「江戸を縦貫する」コースの第二区間。日本橋兜町から浅草稲荷町まで。
 
 地下鉄茅場町駅の集合場所では、思ったよりもたくさんの学生さんが集まってくれていた。暑い中、夏休みにもかかわらず。感心、感心。

 最初は、第一国立銀行跡を通って、東京証券取引所へ。見学。周辺には証券会社が集まっていて、その中心がこの取引場。いうまでもなく、ここは株の市場。めまぐるしい取引が今まさにここでおこなわれているのだろうが、取引所の中も、兜町界隈も、拍子抜けするほど静か。取引所の資料展示室の写真などを眺めて、株屋さんたちがひしめき合う、かつての市場の様子に思いをはせる。そういえば、もうすぐ株券も無くなって電子化されちゃうんだっけ。

 取引所を出て、日本橋川を渡り、人形町へ。途中、穀物商品取引所の前を通り、人形町。天保改革前までの芝居の町。改革後は、名主熊井理左衛門の支配町々。
 甘酒横丁に入り、大門通りへ。この辺り、いわゆる元吉原。江戸の初期、吉原遊郭があった場所。

 大門通りを神田方面へ進み、本町通りにたどり着く。
(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/05

8月7日「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

次回巡見の直前ご案内です。日程は、8月7日の火曜午後。
各大学とも夏休みに入ってる上に、この暑さ、いったい何人の人が一緒に歩いてくれるのか、少々不安ですが、まあ、もし少人数であれば、それなりに濃密?な巡見(+アフター巡見)を楽しみましょう。

コース:東京証券取引所と兜町界隈→本町通り→神田繊維問屋街→両国橋広小路跡・柳橋界隈→浅草橋問屋街→蔵前(余裕があれば浅草寺雷門まで)

集合:地下鉄茅場町駅B1Fの定期券売場の前あたり(8番出口の近く)で13:00集合です。

各自、暑さ対策をそれなりに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/06/27

「巡見~江戸を縦貫する」のスケジュール

「巡見~江戸を縦貫する」の今後のスケジュールをお知らせします。

スケジュール
・次回の巡見は8月7日(火)に実施する予定。
・6月末に予定していたヒルズ巡見は10月初旬へ延期。
・浅草山谷吉原の巡見は11月10日(土)に実施予定。

この巡見の趣旨や概要については、こちらこちらの記事を参照してください。
同行をお誘いする対象は、まず各大学で私の講義を受けてくださっている学生の皆さんですが、過去に私の講義を受けてくださっていた方々や、この記事をご覧になって興味を持たれた一般の方々の参加も可能です。その場合、このブログのプロフィールの頁にあるメールアドレス宛にご連絡ください。集合場所などの詳細を折り返しご連絡いたします。“一般の方々”は、恐れ入りますが、メールに住所と氏名を記入してください。

次回の巡見について
次回の巡見は、前回の「江戸城から日本橋」のつづきで、「日本橋から浅草」を歩きます。東京証券取引所と兜町周辺、神田繊維問屋街、両国界隈、浅草橋問屋街などをめぐる予定です。このコースには、東証や問屋街など、休日は閉まっている場所も多いため、開催日は大学が夏休みに入ってからの平日にしました。いわゆる猛暑巡見となりますが、がんばって歩きましょう。江戸城や吉原などの「人気スポット」をもつ他コースと比べて一見地味なせいか、例年、参加者が少なめになってしまうコースですが、個人的にはおすすめのコースです。例えば、問屋街=市場の町並みは、都市景観としても、見るべきものが多いと思います。こうした問屋・市場の存在を、前代の遺物みたいに考えるのは、いうまでもなく、それこそ、前代の遺物的な思考じゃないでしょうか。問屋街=市場の景観は、そうしたことを見る人に気づかせてくれるかもしれません。
集合などについての詳細は、来月の第二週あたりに各大学において発表します。たぶん、地下鉄茅場町駅のどこかに午後1時くらいに集合かなと。

11月10日の巡見について
例年、浅草酉の市の前日に、吉原界隈を歩いています。今年の酉の市は11月11日(日)と23日(金)だそうです。市の前日、まだ見物人がまばらなうちに、すでに飾りつけられた名物の熊手をみてあるきます。酉の市は、11日の午前零時に始まります。今年こそは、巡見終了後、山谷に宿をとって、開始直後の酉の市を見物しようかな。というわけで、吉原・山谷・浅草の巡見は、11月10日開催がすでに決定です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/06/06

続・たけくらべ論争~検査場説の再検証

 以前、いわゆる「たけくらべ論争」についての記事を書きました。いまだにアクセス数の多い記事です。先日、そちらの記事にコメントがありました。
 「たけくらべ論争」とは、樋口一葉の小説『たけくらべ』のヒロインである少女、美登利が、物語の終局、酉の市の日を境に、それまでの活発さを失って、まるで別人のようにおとなしくなってしまったことの原因をめぐる論争です。美登利は吉原で娼妓となる宿命の少女ですが、論争は、主に、美登利変貌の原因を初潮とする説と、初店(=初めての売春)とする説との間で繰り広げられてきました。そもそもは、通説である初潮説をとる著名な文学者の前田愛に対して、これまた有名な作家である佐多稲子が初店説をぶつけたことで論争が始まりました。
 私がこの論争に興味をもったきっかけやら、初潮説・初店説についての私見はこちらの記事をご覧ください。
 で、今回、いただいたコメントとは、実は初潮説・初店説の双方を否定する説=初検査説というものがある、というご教示でした。そのコメントで紹介された文献を今日やっと読むことができましたので、お礼かたがた、感想を書いてみます。
 とはいえ、私の結論としては、初検査説はちょっと難点が大きすぎるということになってしまいましたが・・・。

 以下が、その感想です。


初検査説(検査場説)とは

 上杉省和「美登利の変貌」(『文学』56、1988.7.)と、近藤典彦「「たけくらべ」検査場説の検証」(『国文学解釈と鑑賞』70-9、2005.9.)を読みました。まず上杉論文が美登利の変貌原因=初検査説を提唱し、近藤論文が再主張するという内容でした。近藤論文は題目で「検証」をうたっていますが、実際のところ、客観的検証作業をしたものではなく、初検査説の再主張といった体裁でした。
 
 初検査説のおおまかな内容は次のとおり。当時、吉原遊郭の娼妓、あるいは新規に娼妓となる者には、遊郭に隣接した検査場での性病その他の検査が義務づけられていた。娼妓デビュー直前の美登利は検査場で初検査を受けたが、そのショックで、それまでの活発さを喪失した。以上が初検査説です。

 この初検査説の主張の根拠は、おおよそ次のとおり。①初潮説・初店説ともに問題がある。したがって、初潮・初店以外の変貌原因が存在する。②変貌した美登利が目撃された場所は検査場の近くである(検査場の方向からやってきた美登利に友達が会ったところ、その様子が変だった)。③美登利に思いを寄せているその友達正太が、美登利に会う少し前、彼女を探しに出るときに口ずさんだ流行ぶしは、ある一部分がとばされている。その部分とは、ちょうど、検査を受ける娼妓のつらさを歌った部分である。これは、一葉が美登利の身上に起きていることを暗示するために仕掛けたものである。以上が、初検査説の主な論拠です。

初検査説の難点

 この初検査説はなかなか面白い説だとは思いますが、やはり難点があると思います。まず、初潮説・初店説を否定する際の論拠がやや薄弱です。たとえば、近藤氏を含む初潮説否定論者がしばしば「なによりの証拠」として注目するのは、当日夕方の美登利の母親の「風呂場に加減見る」行為です。当時、初潮だったら風呂には入らないはずだと。
 しかし、この「風呂」の準備が美登利ひとりのためだと断定する根拠は見当たりません。美登利一家が留守居をしている大黒屋(遊女屋)の寮(別宅)の「風呂」に入る、美登利以外の人物の候補として、美登利の母親・父親・大黒屋の主人・療養中の大黒屋の娼妓などなどが、可能性の大小は別にして、比較的容易に想定できると思います。したがって、風呂の件は、初潮説否定の決定的証拠とはなりえません。他の証拠も、これと同じように、解釈の仕方次第で無効となりうるように思います。
 一方、初店説を否定する論拠として、初店(美登利の初売春)がおこなわれる時間が無いという点を上杉氏は指摘しています。変貌した美登利は「昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひ」で恥ずかしがっているわけだから、初店は変貌の当日におこなわれたことになる。だが、美登利の朝からの行動を追うとそのような時間的余裕は無いと。
 しかし、佐多稲子氏が主張するとおり、初店が昨夜遅くのことであれば、問題はなくなるのではないでしょうか。「昨日の美登利」とは、昨日の日中までの美登利だと解釈しても、そんなに問題はないと思います。

 それはさておき、そもそも、初検査説が抱える最大の難点は、上杉氏・近藤氏の主張に反して、美登利が物語の最後まで正式な娼妓デビューをしないことです。

 明治22年の貸座敷引手茶屋娼妓取締規則では、16歳未満の者が娼妓になることは禁止されています。また、娼妓は「貸座敷内」つまり遊廓の遊女屋内以外の場所に住むことを禁止されています。遊郭内居住の義務は、こうした規則ができる以前、江戸時代から、遊廓の営業独占を維持する手段として重要視された、吉原内部の決まりごとでもありました。
 美登利の年齢は、作品中に明記されているとおり、14歳です。小学校の最終学年としてまだ学校に通っている美登利(2007/6/10付記:「最終学年」は間違いで、美登利は最上級生信如のひとつ下の学年でした)を正式に娼妓デビューさせることは、ふつう無理です。

 また、変貌の日以降、少なくとも物語のラストまで、一貫して美登利は遊廓吉原の外で暮らしています。これも、美登利がまだ娼妓となっていないことを示しています。検査期間に注目すると、娼妓は1週間に1回の検査が義務です。つまり、美登利が初検査を受けたのなら、それから1週間以内に廓内に移り娼妓デビューしないと、検査を受けた意味がなくなるのではないでしょうか。ふつうに考えると、検査後、1週間をまたず、早々にデビューするのが自然なように思えます。ここで変貌の日から物語のラストの水仙の朝まで、どのくらいの日数がたっているのかを確定するのは難しそうですが、さびしがっている友達からの遊びの誘いに対して、美登利が「今に今に」という「空約束」を「はてしなく」繰り返しつつ、その変貌ぶりが町の人々の噂にまでのぼり、例の水仙の朝のラストにいたる、といった展開からは、この間、決して少なくない日数が経過しているかのような印象を個人的には受けます。もし、変貌の日に、娼妓デビューのための検査を受けたとすると、その後、物語のラストにいたってもなお続く美登利の廓外居住は不可解です。

 まだ14歳であるにもかかわらず、美登利が娼妓デビューのための直前検査を受けたと主張する上杉氏や近藤氏は、その論拠として、『吉原大全』(上杉氏)、『北里見聞録』・『広辞苑』(近藤氏)の記述を引用しています。これらの文献では、娼妓デビューを「新造出し」「突出し」などと表現しています。そして、そうしたデビューが、13、14歳、あるいは14、15歳でおこなわれたとこれらの文献には書かれている。したがって、14歳の美登利が娼妓デビューすることになったと考えてもよいだろうというのです。

 しかし、わざわざ指摘するまでもなく、『吉原大全』は明和年間、『北里見聞録』は文化年間の文献です。残る『広辞苑』の記述がはたして論拠になりうるのかどうか疑問ですが、おそらくは、『吉原大全』や『北里見聞録』などの江戸時代の文献にもとづく記述でしょう。つまり、上杉氏や近藤氏が依拠するこれらの記述は、明治中期の吉原遊郭と娼妓についてはあまり有効ではありません。

 結局、上杉氏や近藤氏が主張する、14歳の美登利の娼妓デビューは、もしそれが実現したとするなら、佐多稲子氏が言うような、秘密の(違法な)初店であると考える必要があるでしょう(しかし、上杉・近藤両氏とも、自分の主張する美登利の娼妓デビューが、そうした特殊なケースだという自覚はないようです)。

 まあ、確かに、美登利のデビューがそんな秘密のデビューになってしまう可能性は否定できません。その点、佐多氏の初店説はなお有効でしょう。
 しかし、初検査説にとってそれは致命的な難点となります。秘密裡のデビューであるならば、美登利がわざわざ検査場へ行って正規の検査を受けてつらい思いをする必要はないからです。

 ここまで、初検査説に対する反証を挙げてみました。まとめると、①美登利は法的に娼妓デビューが可能な年齢に達していない。②美登利は廓外にずっと居住しているから正式な娼妓デビューにはいたっていないことが明らかである。③仮に正式なデビューではなく秘密裡の違法なデビューだとしたら、そもそも検査を受ける必要はない。  以上、①から③により、美登利が検査を受けたとは考えられません。

初検査説の可能性

 それでは、初検査説が成り立つ可能性についても検討してみましょう。上記の反証で依拠しているのは、明治22年の娼妓取締規則です。仮に物語の年代設定が明治27年ぐらいだとしたら、それまでに規則が変更され、14歳の娼妓デビューが公認されている可能性もあります(ちょっとだけ私も規則変更に関わるような史料を探しましたが、見つかりませんでした)。逆に、物語の年代設定が明治22年以前であれば、なんとかなるかもしれません。ただし、今度は検査場の建設が明治22年であることがネックですね。
 あるいは、『たけくらべ』はしょせん樋口一葉の創作の世界だから、14歳の正式デビューだって、初検査だって、何でもありえる、という読み方をしてみる。もしくは、一葉の吉原に対する知識が正確さを欠いていると考える。
 うーむ、それはちょっと難しいかも。娼妓の就業可能年齢や廓内居住義務について一葉が知らなかったとは思えません。創作だから・・・というのなら、まあ、何でもありといえばありですが。

2009.6.24.付記:最近、この記事のような主張に対しては、美登利の年齢が詐称される可能性や、上にも書いたように、一葉の知識に問題がある可能性にもとづく反論があることを知りました。検討の結果、やはりそうした可能性は低いだろうと考えています。興味のある方は、こちらの記事を。
 なんでも、森鴎外だって年齢を詐称していたのだから、美登利が年齢をごまかしてもおかしくはないんだとか。江戸時代に石見国で出生した森鴎外と、明治中期、義務教育制度が確立した後の地元の小学校に在籍する美登利とを同列に考えるなんて、そんなのアリなの?

 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/05/30

今年も巡見始めました。

先週末の土曜、巡見「江戸を縦貫する」の2007年度シリーズ第1回をおこないました。歩いたのは東京駅~丸の内~江戸城~江戸橋広小路跡~大伝馬町~本町~日本橋の区間です。歩いてみての感想はまた近日中にアップします。

今回初めての参加者の方に加えて、去年から引き続きの参加者もいらっしゃって、案内人としてはうれしかったです。

巡見後の打ち上げは、恒例の新大久保コリアンタウン。いつもの韓国料理屋さんに行きました。カイコのサナギはうまかったかいな。その後、2次会・3次会とつづき、解散は翌朝、始発が動き始めた新宿駅。歌舞伎町のカラオケルーム7階から眺めた、あけぼのの靖国通りの景色が妙に記憶に残っています。

次回は、おそらく、6月末に、番外編のヒルズ(+ミッドタウン?)巡見。各大学が夏休みに入ってすぐ、8月最初の週くらいの平日に、日本橋から浅草橋までの第2区間を歩く予定です。暑いだろうなぁ。ビールがうまそう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/04/18

第1回「巡見~江戸を縦貫する」の日程

先の記事でご案内のとおり、今年も「巡見~江戸を縦貫する」を始めます。
第1回は、江戸城本丸から日本橋までの区間です。

日時:5月26日(土) 14:00~
集合:未定(たぶんJR東京駅に14:00)
コース:東京駅→丸の内オフィス街→江戸城本丸(東御苑)→竹橋・地下鉄東西線で日本橋へ移動→江戸橋広小路→大伝馬町→本町通り→日本銀行→三井→日本橋

集合場所などの詳細は各大学の講義の際にお知らせします。講義に出ていない方は、このブログのプロフィールの頁にある宛先まで、氏名を明記したメールを送ってください。折り返し小林からご案内の返信を差し上げます。

次回以降の予定
できれば6月下旬の土曜に番外編としてのヒルズ歩き比べをやりたいです。
本編の第2回は、各大学が夏休みに入ってすぐの平日に、日本橋から浅草蔵前までを歩くつもりです。兜町や神田の問屋街、浅草橋周辺の問屋街の活況を見て歩きましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/11

今年も「巡見~江戸を縦貫する」を始めます

 毎年、各大学の授業の受講生さんたちやかつて受講生だった人たちをお誘いして、東京の町あるきをやっています。もうこの企画も始めてから10年くらいかな。

 例年は、吉原遊郭の裏手にある“投げ込み寺”の浄閑寺からスタートして、吉原→山谷→浅草新町→浅草寺→蔵前→浅草橋→神田問屋街→日本橋→丸の内まで進み、最後は江戸城本丸がゴールです。このコース設定は、江戸という巨大都市に一本の串を刺してみて、その端から端まで歩いてみるためのものです。番外編として上記コース以外に六本木ヒルズや新宿歌舞伎町・新大久保などにも行きました。
 この巡見全体のねらいについては、こちらの過去記事を参照してください。

 今年はちょっと趣向を変えて、スタート地点とゴール地点を逆にしてみようかなと思っています。第1回目(5月中)で江戸城本丸から丸の内・日本橋まで。第2回目(夏休みに入ってすぐくらいの平日)で日本橋から浅草まで。10月上旬くらいにはいちど番外編かな。それで、第3回目(11月の酉の市にあわせて)は浅草・山谷・吉原。それからまた番外編を2月あたりに。
 今年の番外編では渋谷界隈に行こうかなぁ。あるいは、下谷の佐竹ヶ原(かつての新開町)や秋葉原にしようかなぁ。都心再開発地域の歩き比べってのも面白いかなぁ。

 で、第1回目は、来月の19日(土)午後か、26日(土)午後を予定しています。まだどっちか決めていませんが、どっちがいいでしょうか。(2007.4.18.付記 26日(土)に決定しました。)
 もしも「行ってみたいけど、できればこっちの日程の方が好都合。」っていう人がいたら、教室で直接か、あるいはメールにて私におっしゃってください。判断材料とさせていただきます。もしくは、番外編ではここに行ってみたいという希望があればそれも遠慮なくどうぞ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007/04/10

初授業やら、すりだねやら

桜もかなり散って、新学期の始まり。今日から授業開始。

今年の前期の授業は、五つの大学で合わせて週8コマ。それ以外にも、東京都公文書館で朝から夕方までの勤務がだいたい週2日。ちょっと働き過ぎのような気もするが、まあ諸般の事情から仕方ない。

さて、今日は山梨の都留文科大学の初授業。遠方にて、朝が早い。

文大の学生さんたちに会うのもすごく楽しみだが、もうひとつの楽しみは食事。かの地には、吉田うどんという、隠れた(?)名物があって、それを食べるのが楽しみ。だいたい通勤途中のJR大月駅の食堂で食べる。あるいは大学の近所のうどん屋さん。

吉田うどんの特徴は麺の固さ。日本で一番固いうどんだという説もあるが、確かにそうかもしれない。ちょっと太めのその麺を濃めのかけ汁で食べる。具は、茹でてざく切りしたキャベツやニンジンなどの野菜に油揚げといったところ。素朴なこと、この上ない。

で、さらなる特徴は、この地方独特の辛い調味料を好みでふりかけるという食べ方。唐辛子やら山椒やらをすり鉢ですって作るらしいが、これがまた美味しい。元々、各家庭で作っていたらしく、今でもあまり市販されていない。吉田うどんの方は、ブームを狙って以前からお土産として売られていたが、一部のうどん専門店のお持ち帰りをのぞくと、この調味料は付いていない場合が多かった。

そこで、大月駅のキオスクで何度かリクエストしてみたところ、それが功を奏したのかどうかは定かではないが、昨年くらいから、この調味料の販売が始まり、うちではなかなか重宝している。豚汁などに振りかけても美味しい。この調味料の名称は「すりだね」というが、その語感に支障でもあるのだろうか、商品名は別の名前になっている。売れ行きが不調でまた販売中止になると困るから、大月駅に寄られた方は、ぜひ買ってみて一度お試しを。

さて、朝ご飯食べて、都留に出発!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/02/28

明暦江戸大絵図と失われた江戸

去年の秋頃はたくさん江戸図をみた。昔、仙台の千葉正樹さんという研究者と一緒に、東北大の図書館が所蔵する大量の江戸図をみたことがあるが、それ以来の経験。 2度目の経験で、鈍感な私にも、やっと江戸図の面白さがわかってきたような気もする。
 今回、江戸図をみたのは、明暦江戸大絵図が刊行されるのに際して、その本に解説を書く仕事を引き受けたからだ。
 執筆の準備段階で、初期江戸についての高名な研究者の村井益男さんと一緒に絵図を調べる機会にもめぐまれた。学ぶことが多かった。

 現在、ちょっと大きめの本屋さんに行けば、江戸図の複製はすぐに手に入る。しかし、その大半は幕末期のもの。明暦江戸大絵図は、その名の通り、幕末からは200年もさかのぼる初期江戸の絵図である。おそらくは明暦大火前に作成された原図に大火直後の情報が記載されて成立した絵図だ。
 江戸は、明暦大火を契機にその姿を大きく変えたとされるが、その時期の江戸の空間構造について考える場合、これは必見の絵図だ。というのも、これまで多く利用されてきたこの時期の他の絵図とは桁違いに良い絵図だからだ。この絵図を見ながらの研究と、この絵図を見ないままでまとめた研究とでは、その中身にかなりの違いが生じるだろう。例えば・・・とここで書いちゃうのはやめておこう。

 最近、広島大の金行信輔さんなどのお仕事などによって、初期の江戸図の研究レベルは格段に上がりつつある。いうまでもなく、この時期の江戸に関する文字史料は非常に乏しい。江戸図研究の刷新の動きは、初期江戸の都市社会に関する研究の飛躍へ直結するだろう。
 
 さて、今回刊行の『明暦江戸大絵図』。出版社は之潮。コレジオと読む。歴史書や地図の出版で有名な柏書房の社長さんが独立して作られた出版社。一冊一冊手作業で製本された、限定157部の『明暦江戸大絵図』はなかなか高価な本だけど、印刷・装丁も素晴しく、また、拙い解説文はともあれ、地図上の文字情報をほとんど網羅する索引も付されていて、美しくも機能的な本となっている。之潮のホームページにいけば、オリジナルや本と比べると、発色がイマイチですが、この素晴しい絵図の中心部分のサンプル写真と、それに付された村井益男さんの解説文があります。いちどおでかけください。
 付記:之潮のホームページに行かれる方は、ぜひ、会社案内や短信の頁もご覧ください。面白いです。おすすめ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/01/22

「巡見~江戸を縦貫する」本年度最終回のご案内

 本年度の「巡見~江戸を縦貫する」では、三ノ輪にある遊女の投げ込み寺・浄閑寺からスタートして、吉原ソープ街→山谷ドヤ街→浅草新町→浅草寺→浅草橋問屋街→神田問屋街と歩いてきました。今回がいよいよ本年度の最終回で、日本橋から丸の内を経て江戸城本丸までの区間を歩き、巡見の全行程を完結させます。

 巨大都市江戸に一本串を突き刺してみて、その端から端まで歩き通してみるというのが巡見の趣旨です。むろん、江戸を串刺しにする場合、この巡見コース以外にも、いろんな方向に串を打つことが可能です。しかし、江戸の重層性・多様性を実感しつつ、同時に、現代都市東京の重層性・多様性にも幅広く触れるためにもっともふさわしいコースが、吉原遊郭の裏手に始まって江戸城の天守台に終わるこの巡見コースだと思っています。

 問屋街を歩いた先日の巡見は、季節はずれの豪雨にぶつかりました。寒いなか足を濡らしながらの強行軍にて、参加者のみなさん、ご苦労様でした。また、番外の巡見として近代都市史研究者の大岡聡さんたちと一緒に行った新大久保のコリアンタウンの活況は印象的でした。それから、赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの三ヒルズ歩き比べは、現在、東京のあちらこちらで増殖している「都市再開発」空間の過去と未来を考えるための手がかりを豊富に与えてくれました。

 ともすればノッペラボウに見えやすい都市社会が、本当はそれぞれがかなり異なった多様な部分からできた、モザイクのようなものだという感覚を保つことが大事だと思っています。
 
 そのような感覚こそが、過去・現在の社会の諸局面を対象とする研究のモチベーションにつながるし、また、そうした諸局面に視線を向けている自分自身の立ち位置を相対化し、わが眼のレンズの色やら偏差やらを知らしめてくれるからです。

 そんなわけで、下記の要領をご検討の上、皆さんふるってお出ましくださいませ。例によって、この巡見のお誘いは、基本的には私が今年度担当している各大学での講義の受講生を対象にしていますが、それ以外、過去の受講生の方や一般の方も遠慮なくどうぞ。ただし、一般の方は、ご面倒ですが、私宛に住所・氏名を明記したメールをお出しください。集合場所などを折り返しご連絡します(アドレスはプロフィール欄をみてください)。

    記
 日時:2007年2月17日(土)の午後。所要時間3時間半強。
 集合:当日正午12:00。
 集合場所:講義の際のご案内のとおりです。
     集合場所がご不明の場合はメールでお尋ねください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/28

ヒルズ巡見を終えて その5 景観からの疎外

景観からの疎外、街からの疎外
 景観からの疎外の問題。以前、日本橋再生に関する記事のなかでも書いたが、今回のヒルズ巡見を通じて、やはりこの問題が気になった。
 今回はとりあえず、各ヒルズの商業施設部分に限定して考えてみる。ここでいう景観とは、ミクロなレベルでの景観である。壁や通路、天井のデザインや素材、色、それから個々のお店の看板、ショーウィンドウやら内装、あるいは、商品・テーブルの配置やお店で働く人々の服装なんかを含めてもいい。訪れた人々の目に入ってくるそれら様々な要素から成立する景観というものを考える。
 それでは、ヒルズの景観はだれが作っているだろうか。たとえば、六本木ヒルズの場合、壁や通路などの基本デザインを決めたのは、外国の著名な設計事務所である。各ショップの内装・外装などを決めるのは誰なんだろう。まあ、店によって事情は違うだろうが、ふだんお店にはいない人が決定する場合が多いだろう。いずれにせよ、ヒルズの景観の大部分は、ヒルズから遠隔のところにいる人々が決めているんだろう(この辺の記述、ちゃんと調べもせずにいい加減に書いちゃってすみません。違ってたらご指摘を)。
 景観の最もミクロな部分、商品のディズプレイや店員の服装については、実際にお店で働く人々が決める部分もあるだろう。しかし、その一方で、そうした景観の最小単位まで、どっか遠くの“本部”によってコントロールされる場合も少なくない。
 ヒルズを歩くと、ここは景観から疎外された人々が集ってる空間なんだと思う。アートが売り物の六本木ヒルズの場合、さしずめ、そこは、客とアルバイトの場内整備係とがいる美術館のなかみたいなものだ。展示品自体はもちろん、その配置についても、照明の具合についても、そこにいる誰も手出しできない。

ヒルズを好きになる“いつか”
 僕がヒルズを好きになる“いつか”が来るとしたら、そうした景観の決定権を、そこにいる人々が手にするようになったときだ(もちろん、そのためには現在の労働形態そのものも変わる必要がある。そして、街=社会における人間の存在様式が考え直される必要がある。たとえば、今、六本木ヒルズの商業施設で働く人々に占めるパート労働者率はどのくらいだろうか)。
 表参道ヒルズを比較的高く評価したのも、そんな“いつか”が来たとき、人々がその空間で何かを表現したり、空間をアレンジしたりしやすい造りになっていると思ったからだ。ひとつひとつの店舗区画が小さめであることや、シンプルなデザインが、そうした“いつか”に好都合だと思ったからだ(先に表参道ヒルズの市場の魅力がどうしたこうしたと書いたが、今はまだなんとなくアンテナショップめいたお店も多くて、市場は市場でも、どこか見本市っぽい雰囲気は好きになれずにいる)。
 

六本木城
 一方、六本木ヒルズはどうだろう。多くの店舗区画が大きすぎることや、先にも書いた商業スペースの散在性なんかが、そうした“いつか”が来たときの障害になるように思える。
 安手の近未来SFみたいで恐縮だが、何十年かして、六本木ヒルズ全体が、かつての香港の九龍城砦みたいになった姿を夢想する。六本木ヒルズにとっての“いつか”は、そんな姿になったときかもしれないなぁと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/27

ヒルズ巡見を終えて その4

表参道ヒルズ編~後編
 表参道ヒルズの一番良いところは、先の記事でも書いたとおり、訪れた人々が、その場の繁華の全体を一挙に視野に入れて実感できることにあるのだと思う。こういったあたりが、断裁されて散在する六本木ヒルズの商業スペースなんかとの大きな相違点であろう。
 
 先の記事では、明治期に流行した勧工場との類似性をあげてみたりもした。一方、勧工場との違いは、表参道ヒルズでは客が個々の店に触れつつも同時に全体の繁華も感じることができるという点にあるかもしれない。

 要するに、ここは“市場”の魅力を最大限に活かす空間づくりに成功しているんだと思う。大きな吹き抜け空間を中央に設けて、その周りに通路とテナントを配するという手法は、例えば、最近好調が伝えられるイオンなんかのショッピングセンターでも部分的に用いられてたりする。それと比較すると、表参道ヒルズの場合は、通路が傾斜し、らせん状になっているあたりが特徴だろう。なんでも、表参道の坂道の傾斜角をそのまま採用したんだそうだ。個々のお店で“市場”の細部に接しつつ、同時に“市場”全体の繁華も感じやすい構造だと思う。

 自分の身体が“市場”の繁華に包まれる感覚。これが“市場”の魅力だろうし、消費行為がもたらす快楽を高めるための舞台的要素だろう。ネットショッピングがいくら便利になっても“市場”が滅びない原因は、こうした感覚を人々があいかわらず求めていることにあると思う。
 社会学者の吉見俊哉が、北田暁大の議論を参照しつつ、六本木ヒルズのあのわかりづらい内部構成を、WEBサイト上の諸情報の配置になぞらえている。六本木ヒルズの、商業空間としてのつまらなさ、あるいは、都市空間としてのつまらなさの理由は、結局、そうした“市場”の魅力の欠如にあるのではなかろうか。渋谷やディズニーリゾートをめぐっての吉見と北田の主張の違いが思い起こされたりもする。吉見・北田の議論に参画するには、ここでいう“市場”の魅力の中身をもっと厳密に分析していく必要があるが、まあ、それはまたいつか機会があれば。
 参考文献:吉見俊哉・若林幹夫編『東京スタディーズ』(紀伊国屋書店、2005年)
 
 以上、表参道ヒルズについては、かなり高い評価をしてみた。ただし、これは、様々な制約のなかで作り上げられた、“箱”としての表参道ヒルズに対する評価である。
 なるほど、安藤忠雄って建築家は優秀なんだと思った。ここで安藤が実現しているのは、“市場”や商店街としての魅力を発揮するための前提条件の整備である。
 こうしたごく当たり前の前提条件を六本木ヒルズや赤坂アークヒルズは欠いてしまっている。その点において、表参道ヒルズの建築は高く評価できるという話である。

 しかし、与えられた比較的良好な条件を、表参道ヒルズの店々が現在うまく活かせているか否か、あるいは将来的に活かせていけるか否かは、また別の話である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/23

「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

今年の「巡見~江戸を縦貫する」の第二部です。
前回歩いた三ノ輪~吉原~浅草のつづきで、浅草界隈~神田~日本橋までを歩きます。テーマは“問屋街の現在”といったところでしょうか。
両国橋広小路・柳原土手通り・岩本町古着市場などの跡もめぐります。本当は佐竹ヶ原にも行きたいところですが、それはまた別の機会に。
今回、参加呼びかけの対象は、各大学で私の講義を受けている学生さんや、かつてうけていた学生さんたちですが、それ以外の方も歓迎します。
日時:12月26日(火)の13:00から。所要時間は約3時間半ていど。
集合時間:13:00
集合場所:講義中にお伝えしたとおりです。講義に出ていない方は私宛にメールでお問い合わせ下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/18

ヒルズ巡見を終えて その3

表参道ヒルズ~前編

 人影まばらな赤坂アークヒルズを出て、地下鉄銀座線の溜池山王駅へ。そこから表参道へ出て、この日最後のヒルズ、表参道ヒルズに向かう。
 表参道ヒルズにはたしか三つぐらい入り口があったと思うけど、建物の面白さを味わうには、青山通りの方から表参道の坂をおりていって、一番最初にある入り口から入るのが良いと思う。
 小さなエスカレーターをおりると、コンクリートうちっぱなしの壁。その壁の間の細い入り口を進むと、急に、目の前に地下3階地上3階をつらぬいた大きな吹き抜け空間が現れる。
 この入り口からだと、狭い入り口を潜り抜けたあとの吹き抜け空間との出会いが劇的である。おおまかにいうとこの大きな吹き抜け空間は細長い三角柱のかたちをしているが、その一番尖った方から入っていくことになる。

 さて、その吹き抜け空間の側面にはらせん状の通路がつけられ、その通路に面して商店が並んでいる。入り口にたって空間と向き合うと、らせん通路のあちこちを、上へ下へと歩く大勢の人々の動きが同時に視界に入ってくる。
 ここで久石譲の音楽でもかければ、『千と千尋の神隠し』に出てくる巨大湯屋のシーンに少し似てくるだろう。
 吹き抜けにしたおかげでもちろんテナント用のスペースは減るわけだが、その代わりに得られたのは、どこからでも一望で確かめられる浮き立つような繁華の体感だろう。
 ついでにいえば、六本木ヒルズとは対蹠的に、誰もが自分の目的地を視認して迷わずそこへ行くことができるという明快さもある。

 通路に面して並ぶ商店。要するにここは、基本的な商店街のラインがパタパタと折りまげられて収容された空間だ。

 あるいは、明治期に流行したという勧工場を連想する。勧工場研究の第一人者である初田亨は、商品を陳列展示する近代的店舗形式のはしりが勧工場だというが、それは不正確だろう。商品の陳列展示は、江戸の露店マーケットですでに満面開花していた。それらは明治になって広場から追われた。勧工場の多くは、そうした露店マーケットを室内に収容して作られたものではないかと私は思っている。

 それはともかく、表参道ヒルズは、そんな大衆消費の華としての勧工場の魅力を持つと同時に、勧工場になかった内部空間の開放と賑わいの可視を備えて成立している。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/13

ヒルズ巡見を終えて その2

赤坂アークヒルズ編
 
赤坂アークヒルズは、森ビルが手がける都市街区再開発の第一弾。ヒルズシリーズの祖。1986年開業で、今年20周年を迎えたところ。森ビルのホームページの言葉を引用すれば、「成熟を重ねる森ビル都市再開発の原点」だそうだ。

 オフィスタワーの低層部分には飲食店を中心とするショップが入居し、住宅棟・ホテル・コンサートホールがセットになっている。オープン当初は、東京で一番洗練された“街”としてもてはやされ、物見遊山の人も集まった。たしか、高視聴率を維持していた頃のニュース・ステーション(テレビ朝日)もここから全国に中継されていたと記憶する。

 タクシーを降りてエスカレーターで上層に移動し、ヒルズ中央のカラヤン広場に移動する。ギリシャ・ローマ風?の列柱回廊の外に広がるカラヤン広場は、大きなアーチ式の屋根を備えている。小雨のふる巡見当日であったが、おかげでここは快適である。イルミネーションの輝く大きなクリスマスツリーも登場していた。

閑散 
 ただ、その広場には人がいない! 誰もいない。いや、ただひとり、散歩でもしているのかな、といったリラックスした普段着姿の中年男性がひとり、広場の端に作られたステージ周辺を歩いていたが、それ以外には誰もいない。しばらくしていると、住居棟の下層にある店に向かうグループが通った(その後、ヒルズ内を歩いていると、サントリーホールでコンサートでもあるらしく、ホールの入り口に20~30人の人だかりができていた)。
 
 開業当時、大学のオーケストラに所属していた私は、このサントリーホールの演奏会に出たことがある。たしかオープン記念でその年だけはホール使用料が半額だったため、都内のあちこちの大学オケがここで演奏会をやった。その頃の広場は、コンサートに来た客だけでなく、大勢の人で賑わっていた。

 今回巡見でアークヒルズを訪ねたのが休日・土曜の午後5時頃。多くのオフィスが開いている平日であれば、もっと人影は濃かったのかもしれない。とはいっても、その日はボーナス直後の土曜の夜。あまりに寂しすぎじゃなかろうか。少なくとも開業当初はこんなんじゃなかったぞ。
 
 森ビルのトップが、どっかの週刊誌の対談で、新宿の高層ビル街は、面としての開発が出来ていないためビルとビルとが孤立しているなどと馬鹿にしまくっていたが、そっちの街路の方が、同じ曜日、同じ時間なら、アークヒルズよりずっと賑やかなのは確実だ。

 森ビルいわく、アークヒルズの開発理念は、単なるビジネス街ではなく、「多彩な都市機能」を「ひとつの街の中に融合させた」、「文化発信」の空間を作ることにあるそうだ。
 そうした「多彩な都市」として「成熟」を重ねてきたという森ビルの自画自賛と、無人の広場でツリーが寂しく無意味にピカピカしている姿との間には、かなりの隔たりがある。

 広場を見終わってから、レストランなどが入ったフロアをめぐる。誰もお客のいない店。客が入っている店でも、せいぜい数人の客。
 今年の初めにここを巡見したとき、フロアの入り口近くの壁に、「この奥、営業しています」といった手書きの張り紙がしてあったのを目にして絶句した。さすがにその張り紙はもう見当たらなかったが、グループで歩くわれわれに向けて店のスタッフが注ぐ期待の視線が痛い。
 土日は休みにしている店もいくつかあって、そこはシャッターがおりちゃってる。どっかの駅前商店街に来たような気分だ。

地域活性化モデルの卵
 ちょうど良い機会だから、この際、ここアークヒルズにおいて、森ビルは、沈滞した地域の再活性化の手法を鍛え上げてみてはどうだろうか?それがもし成功すれば、なかなか商品価値は高いんじゃないかなと思う。いずれ、それが六本木ヒルズでも役立つかもしれないしさ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/12/11

ヒルズ巡見を終えて その1

六本木ヒルズ編 

 先週末の土曜、ヒルズの歩き比べで、六本木ヒルズ・赤坂アークヒルズ・表参道ヒルズを巡ってみました。時折冷たい雨が降る中、学生さんたち、ご苦労さまでした。

グルメマップ
 六本木ヒルズではちょっとしたゲームをやってみました。都立中央図書館で、今から3年前の六本木ヒルズ開業当時のグルメマップをコピー。それを手に、学生さんたちと手分けして、ヒルズ開業当時に入居していたレストランのうち、これまで撤退したものをピックアップしてみました。

 で、作業後の学生さんたちの感想で、もっとも多かったのは、そもそも店の位置が分かりにくい、というものでした。店名のリストと地図とを手に探しても、なお店の場所が分かりにくい、というのはやはりなかなかのことです。それから、フロア毎で人の賑わいに差があるという感想も。

 作業の結果ですが、71軒のうちの13軒が撤退していました。3年でこの数字、多いとみるか、少ないと見るか。
さらに注目すべきは、撤退した後、新しい店が入っていない区画が3~4軒あるということ。なかには7月くらいからずっと空き店舗の場所もあります。

 一方、オフィスタワーの方では、ライブドアをはじめとするいくつかの企業のオフィス撤退が話題になっていますが、それについての森ビルのトップのコメントは、空きが出来てもすぐに次の入居者が決まるから問題ないというもの。本当に大丈夫か?

アークヒルズへ
 六本木ヒルズに店を構えているということが、ある種のステータスだったり、宣伝効果をもたらしているうちは、各レストランともに、少々数字が悪くても、頑張って商売を続けるかもしれないけど、この後、10年・20年たったらどうなるだろう?
 そのひとつの答えが、次に行く赤坂アークヒルズの現況ではないか。

すべてをアート化せよ
 ところで、前回の巡見の感想でも書いたが、六本木ヒルズにおける、すべてをアート化せよ、という強迫観念は凄まじい。壁から天井から床から、照明のひとつひとつまで。
 折からやっていた六本木ヒルズ全体のクリスマスイベントのテーマは、その名もずばり、アーテリジェント(Artelligent)・クリスマス2006というもの。
 ここで問題なのは、そうした“街”のアート化の担い手がいったい誰なのか、ということだけど、それはまたいつか検討しましょう。

 われわれ一行は、六本木交差点の近くまで行ってタクシーに分乗し、次の目的地、赤坂アークヒルズへと出発。

2006.12.13.付記
 本文中、無くなっていたレストランについて、「撤退」という言葉を使ってしまいました。しかし、実際のところ、経営者は以前と変わらず、ただ、速いテンポで移り変わるお客の「ニーズ」に対応するため、お店の「コンセプト」を変えただけ、そのコンセプト変更によって、看板も架け替えただけって店だってあると思います。単純に「撤退」と片付けてはいけないかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/08

ヒルズ巡見のご案内

明日9日土曜午後のヒルズ巡見のご案内です。
 六本木ヒルズ・赤坂アークヒルズ・表参道ヒルズを歩き比べます。
  集合: 14:30にJR恵比寿駅の西口改札を出たところ
  所要時間: だいたい3時間強かな。
 学生の皆さんは、学生証を持参して下さい。
 六本木ヒルズの有料展望台へ行くかも知れません。ここは学割があります。
基本的に、私の講義を受けている(受けたことがある)学生の皆さんを対象とするご案内ですが、もし一般の方で参加を希望される場合は、今晩中に住所・氏名を明記したメールを私にください。アドレスはこのブログのプロフィールページにあります。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/22

江戸絵図復刻本の解説を書く

 ここのところ、ちょっと手こずっていた仕事=原稿が、月曜にやっと一段落。しばし解放感に浸ってます。本当は、他の仕事も山積みで、そんな余裕は無いはずだけど。

 執筆の途中、大体いつ頃に仕上がるか見当をつけて随時それを出版社に伝えてきましたが、結局、実際の仕上がりはそれからずいぶんと遅れました。文字通り、ナントカの出前状態。

 出版社の方は、諸事情があってそんなに待ってはいられなかったはずで、本当に申し訳ないかぎり。
で、原稿を読んでくださった編集の方から感想メールの中に次のひとこと。
「待った甲斐がありました。」
うーん、うれしい。
かけた迷惑を考えるととても言えたセリフじゃないため、このブログ上での独り言にて、
「そうおっしゃってくださると、書いた甲斐があります。」

 今回の原稿は、そんな長大なものではなく、400字詰めで20枚いかないくらい。それでも、結構、難儀してしまいました。
 おそらくは年内に刊行されるであろう、明暦期の江戸絵図の復刻に付した解説です。部数も限定で、あまり一般書店に並ぶ本ではないので、皆さんのお目にかかることは少ないかもしれませんが、もしどこかでご覧になられたら、解説文の方もチラッと見てやってください。

 解説文はともかくとしても、絵図本体はなかなかすごいです。謎につつまれた成立期江戸の実態に迫るには、誰もが絶対見なくてはならない絵図です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/20

上海ヒルズ

うかつにも知らなかったんだけど、森ビルは上海にも進出していたんだね。
で、上海に、今度、500メートルくらいある超高層ビルをおったてて、それを中心に街区を開発。
上海ヒルズって命名するんだって。ちょっと笑ってしまった。

森ビルはブランド路線にいっちゃうのね(^^)。
ついでにここらでかっこいいマスコットキャラクターでも作って売りだしても良いかな。
六本木ヒルズのオープニングのころの宣伝用ホンワカキャラクターではダメだと思うけどね。

「ヒルズ」の世界制覇?
「ヒルズ」は、絶対、世界標準の都市ユートピアにはなりえないと思うけど、上海あたりだと歓迎されるのかな。
ともあれ、来月のヒルズ巡見は、ちょっと頑張って下調べしようかな(学生さん、誰か手伝ってくれない?だめか)。
でもって、いつかはヒルズの歩き比べも、上海に行こうかな。

2006.11.25.付記
今朝の朝日新聞みたら、上海ヒルズって命名に、上海では反対する声が出まくってるみたい。まあ、当たり前か。「○○ケ丘」やら「△△台」のカタカナ版というか、どこぞの国の西海岸の高級住宅地の真似というか、いずれにせよ、あまりセンスのないネーミングだし、そもそも、外国企業の“商品名”を街の名前にされたんじゃかなわないもんね。早くも、森ビル世界制覇の夢は挫折か。
ただ、命名はともかく、重要なのは街づくりの中身の問題だけど。その点は、来月のヒルズ歩き比べでいろいろ見てきましょ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/17

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズくらべ

 今年も、巡見「江戸を縦貫する」を実施中です。
現在、三ノ輪・吉原から浅草寺までの第1区を、春と今月と、2回歩きました。次は、本来、浅草から日本橋までの第2区ですが、ここで番外編をひとつ。
 昨年歩いて、思った以上に面白かった、ヒルズの歩き比べをやります。赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの3ヒルズをめぐります。

 日程は、12月9日土曜の午後を予定。今日の東京女子大での講義の終わりに、「12月2日の予定」と発表しましたが、諸般の事情で、1週間ずれて、12月9日の予定です(ごめんなさい)。

 六本木ヒルズにオフィスを構え、六本木ヒルズの住人になることが、成功の証しだった時期がありました(いちおう、今もそうかな)。いわば、現代都市のユートピアです。
 その六本木ヒルズのプロトタイプである赤坂アークヒルズも、かつては、そうした都市のユートピアとして、東京の観光名所だった時期があります。
 この二つのユートピアの現在を歩き比べてみましょう。

 いちおう、今年度、各大学で私の講義を聴いて下さっている学生さんたちをお誘いしての巡見ですが、一般の方も、ご興味がありましたら、小林まで、氏名・住所を明記したメールをください(アドレスはこのブログのプロフィールのページにあります)。
 詳しいご案内は、またあらためて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/04

次回巡見のご案内

 2006年11月実施予定の巡見「江戸を縦貫する」のご案内です。

 今年も早いもので、もう10月。来月11月には、浅草で酉の市が開かれ、それが過ぎるといよいよ年末です。

 さて、その酉の市開催にあわせて、下記の要領で、恒例の吉原・山谷・浅草の巡見をおこなう予定です。

 今年の酉の市は三の酉までありますが、巡見は一の酉の前日、11月3日に設定しました。3日の午後には、酉の市の名物である熊手売りの店ごしらえもかなり出来上がっていて、市が人でごった返す前に、見事な熊手の飾りつけをゆっくり眺めることができます。
 また昔から、酉の市の開催日は、遊客以外の人々にも吉原遊郭を通り抜けることが許される日でした。それにならって、今回の巡見でも、かつての遊郭跡(現在のソープランド街)を突っ切ってみましょう。
 酉の市・吉原以外にも、浄閑寺(遊女の投げ込み寺)や山谷ドヤ街などへ立ち寄る予定です。

 川村学園女子大学・日本大学・都留文科大学・東京女子大学で私の講義を受けている学生さんには、講義の際に案内を配布します。学園祭にぶつかる大学もありますが、あしからず。
 それ以外の方(このブログの一般読者の方や過去に私の講義を受けていた方など)で参加を希望される場合は、このブログの「プロフィール」のページにあるメールアドレス(小林)宛に、氏名・住所を明記の上、参加ご希望の旨をご連絡ください。折り返し、集合方法その他の詳細をお知らせします。

    記
 日時:2006年11月3日(土)(金・文化の日)12:30~16:00 雨天決行
 コース:三ノ輪浄閑寺~鷲神社・長国寺(酉の市)~吉原~山谷~
     浅草
   (その後、オプションツアーあり?)


※次回以降の巡見「江戸を縦貫する」の予定
・11月下旬には、昨年度実施してとても面白かったヒルズめぐり(赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの歩き比べ)。
・12月下旬(冬休みに入ってすぐ)の平日午後には、浅草から日本橋にかけての問屋街。
・年が明けてから、日本橋から江戸城本丸跡まで。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/09/26

お江戸日本橋と都市景観 補遺

小泉総理の任期切れで、例の日本橋再生事業の話はうやむやになるのか、はたまた、「美しい国」づくりとやらの一環にうまくはまり込んで実現に向かうのか。まあ、どうでもいいような話といえばそれまでだが。

 とりあえず、総理の任期切れスレスレのタイミングで、「日本橋川に空を取り戻す会」と名乗る「有識」者会議からの「総理への提言」がまとまったようである。こうして具体化してきた再生事業プランをみて、あらためて思ったことを少し書こう。(本来、以下のような批判的内容の記事から無断リンク張るのはマナー違反かもしれないが、この「提言」自体、公的な性格をもっている訳で、それに対して納税者の一人としての意見を書いた記事からリンクするくらいは、まあ、許されるだろう。「提言」の内容はこちらをクリックして読んでくださいな。)

 この「提言」では、日本橋再生事業がいかに儲かる事業であるかということが、念入りに説明されている。なんでも、2兆、3兆円といった経済効果=儲け話が予測されるから、事業はぜひとも実施すべきなんだそうだ。

 そして、この日本橋再生事業では、パブリック・プライベート・パートナーシップという、新しい事業手法をとることが望ましいと「提言」されている。

 再生事業が実施されると、不動産とかでボロ儲けする人が出てくる。将来的にそうしたボロ儲けの一部を還元させて事業費用にあて、国の支出を軽減する。これがパブリック・プライベート・パートナーシップという新しい手法だそうだ。
 残念ながら、私にはどこが新しいのか、さっぱりわからない。もしも、ボロ儲けする人や儲けの額なんかが予想より少なかったらどうするんだろう。結局、税金で穴埋めするしかないのでは?今の「景気回復」とやらはあと十年二十年と持続するの?ありもしない通行量増大や地域経済の発展をあてにして高速道路やら長大橋やらを建設する従来の手法と、その基本はあまり変わらないようにも思えるのだが。

 また、悪意をもって解釈すれば、つまるところ、借金まみれの国に税金つかわせておいて、自分たちばかりがそんなにボロ儲けしちゃったら気がとがめるだろうから、儲けた人たちにも、せめていくぶんかは事業費用を負担してもらおうってことじゃないだろうか。そんな負担(見込みだと二千億円に近い)を引き受けてでも、今回の再生事業は、日本橋で不動産やってる人たちにとってメチャクチャおいしそうな話なんだということが、ホント、よーくわかる。

 そして、この手法のもっとも重大な問題は、事業自体がそうした金儲け目的へととめどなく傾いてしまうことにある。金儲けを阻害する要素は、支出増大の原因として、事業内容からは極力取り除かれていくだろう。
 
 例えば、「提言」では、川沿い部分には公園や低層の建物で開放的な空間を確保して、その余剰分の容積率を「隣接区域」に移すというが、でもどうやら、川岸から数十メートルも離れちまえば、そこはもう「隣接区域」になってしまうらしい。そして、この「隣接区域」=川沿い区域では、かつてなかった高層の巨大なビル建設を可能とする規制緩和が実施され、お決まりの都心再開発がハメを外して進められるだろう。隣接区域における高層ビル建設の禁止・抑制という、本来、景観問題からすると必須とも思える措置は、今回の日本橋再生事業の構想のなかにはどう間違ってもつけ加えられることはないだろう。

 景観再生のための事業の結果、高層ビルが増加する。そんな誰が聞いても矛盾した話が、大まじめで語られている(結構リアルで力作の完成予想図において、なぜかそれら高層ビルの姿だけが淡い灰色でぼかして描かれている。しかも、周囲のビル群が一番視界から外れるアングルが多用される。)

 前にも書いたとおり、同じ景観阻害要因であっても、日本橋地域の金儲けに寄与しない首都高の高架は何が何でも退治するが、日本橋地域に金儲けをもたらしてくれる高層ビル建設は大歓迎する、というのが、今度の再生事業の主な中身だろう。
 そして、経済効率を犠牲にしてでも景観や文化・歴史を優先する、とかいった、文化人好みの当初の高邁な理念は、今回の「提言」からは、跡形もなく消えさっている

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/02/16

お江戸日本橋の魅力とは? その11

「地域社会」への過大な期待

 「都市計画」やら「まちづくり」やらの「専門家」と称する人々がしばしば過大な楽観的期待を寄せる対象となっているのが、「地域住民」やら「市民」やらの存在である。ここでは、こうした存在をおおざっぱにまとめて、「地域社会」とでも呼ぶことにしよう。

排除する「地域社会」

 ところが、私たちがこうした「地域社会」の一員になるのはなかなか難しい。一言でいって、持たざる者はそこから排除される。
 
 何を持ってないと排除されるのか?それは、土地・家屋・商店の営業権・子供などである。

 だから、仮に結婚していたとしても、安アパートに暮らす子供のいないフリーターなどは、「地域社会」の一員になかなかなれない(そして、フリーター自身も、多くの場合、「地域社会」の一員などにはなりたがっていない)。

 土地・家屋や店を持っていなくても、子供がいて地域の小学校などに通っている間は、「学区」を単位とする「地域社会」にコミットする道が開かれるが、それは子供が成長するまでのほんの一時期である。

 さらに、これを持っていないと「地域社会」からはほぼ確実に排除されるであろうモノとして、日本国籍または有効なビザ、住民基本台帳法上の「住所」などを挙げることができる。
 ただし、これらのものは、それをもっていなければほぼ確実に排除の対象となるが、持っていたからといって「地域社会」の一員として認められるわけではない。先に挙げた、土地・家屋・店の権利・子供などを持つことが必要である。

賞味期限切れの「地域社会」幻想

 弱体化した「地域社会」の再生を図るには、「地域社会」に入る資格を持っているのに「地域社会」の一員として行動することには消極的な人々を口説いて、積極的な参加をうながせばよい、という牧歌的な時代が、かつてはあったのかもしれない。
 
 実際、今なおそうした幻想を抱いて「地域社会」の再生を主張し、その一方で、土日に働いて疲れたフリーターや外国人労働者が、やっと休めた平日の午後に小学校の通学路や公園へ迷い込んだりしたところを白い目でもって監視しろと、ポスターを貼りまくって呼びかける人たちもいる。あるいは、そんなフリーター風情が入居してくるような賃貸のワンルームアパートの建設には、「地域」一丸、体を張って反対するぞぉっていう人たちもいる。
 そんな賞味期限切れの「地域社会」に何かを期待しての「都市計画」や「まちづくり」は、そろそろ見直さなきゃいけないんじゃなかろうか。

多様性とディテールの景観

 取り組むべきは、新しいスタイルの「地域社会」を創ることだろう。日本橋「地域」や六本木ヒルズ「地域」においても根付く(あるいは首都圏の後背で「荒廃」する北関東各地などでも根付く)、新たな「地域社会」を。そんな「地域社会」に生きる多様な人々が各々コミットして産み出した都市景観には、本物の多様性とディテールの美しさが宿るんじゃないかと夢想する。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/02/15

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズヒルズヒルズ 感想その1

すべてをデザインせよ! 

 東証から日本橋、アークヒルズ、六本木ヒルズ、最後に表参道ヒルズ。ヒルズの歩き比べは、思った通り、というより、思った以上に面白かった。

 全体の感想はまた近日中に書きたいが、今回は六本木ヒルズを歩いて印象的だったことを少し。
 六本木ヒルズの空間を支配しているのは、ここもあそこも全部アートデザインしつくさなければだめ、という意識ではないだろうか。

 ビルの外観はもちろん、天井に床に、柱の一本一本、それから、小さな照明一つ一つにいたるまで、すべて丁寧にデザインしていこうという意図。結果、建物内部のちょっとしたコーナーにまで変な置物がおかれている。べつにそんなもの置かなくてもいいじゃないか、と思う場所にも、なにがしかのオブジェがあったりする。
 デザインの洪水。アートデザイン化の強迫。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/02/13

お江戸日本橋の魅力とは? その10

ご紹介
 本連載「お江戸日本橋の魅力とは?」のその8では、何かの手違い(?)からだと思うんですが、ビルオーナーの日ごろの主義主張を真っ向から否定し、日本橋に背を向ける方向で建てられてしまった高層ビルについて批評してみました。
 その後、ネットを検索していて、「都市徘徊blog」のasabataさんの書かれた、「まさにそのとおり!」と共感できる記事とお写真に出会えたので、無断ですが、紹介します。こちらをクリックしてみてくださいませ。
 ニューヨークからやってきた、逆走する帆船の姿です。
 他にも、「都市徘徊blog」さんの方では、都市景観について興味深い記事がたくさんあります。これまた無断ですが、おすすめします。たとえば、こちらとか、こちらとか。
 個人的には、こういう写真や、こういう写真に見入ってしまいました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006/02/10

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズヒルズヒルズ

本年度、各大学で、奇特にも私の講義を受講してくださった方への業務連絡です。

巡見「江戸を縦貫する」の番外を、来週2月14日の火曜午後に実施します。
集合の場所と時間は、JR東京駅丸の内中央改札を出たところに13:00です。
そこから兜町の東証を見学したあと、地下鉄などで移動して、六本木ヒルズ、赤坂アークヒルズ、もし時間があれば、表参道ヒルズにも行きましょう。打ち上げは、いつものごとく歌舞伎町かな?
ヒルズの発達史や、ホリエモンの夢の跡などをたどりましょう。

大学の受講生以外の方でも、もし興味があればご一緒に。その場合、このブログのプロフィールページでアドレスをご覧の上、事前にメールしてくださるとさいわいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/02/03

お江戸日本橋の魅力とは? その9

景観からの疎外

 前回、前々回の記事で、景観からの疎外という問題について、二、三の素材をあげ、ごく簡単な検討を試みた。

 地域社会に生きる人々が景観から疎外される、という問題的状況は、現在、ますます深刻化しているように思う。

 都市広域のグランドデザインをお役人や「専門家」が策定し、その中の街区開発は大手のデベロッパーが専横する。そして、そこに建つ新しいビルの外観は、デベロッパーが選んだ、遠隔の地に暮らす建築デザイナーたちが考え、その内部のテナントの外装・内装は、例えばそのテナントがもしコンビニであれば、コンビニチェーンの「本部」が細部まで決定する(これがコンビニやファストフード店ではなく、それぞれ「個性的」なたたずまいのブランドショップなどであっても、大筋で同じことだろう)。

 こうして、マクロなレベルからミクロなレベルにいたるまで、地域に生きる人々をほぼ疎外しつくして作り出された景観が、東京の「最先端」とされる都市空間においては共通して見いだせる。

模造される多様性やディテール

 実際に地域に生きる人々を疎外して遠隔の人々がコントロールする景観に、多様性やディテールは生まれない。出来の良いテーマパークみたいに、もしそこに多様性やディテールのように見えるものがしつらえられていたとしても、それは多様性やディテールの模造に過ぎない。

 次に考えなくてはならないのは、地域に生きる人々とは誰のことをいうのか、という問題である。「地域に生きる人々」と認定されるためのハードルの問題である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/01/30

お江戸日本橋の魅力とは? その8

 六本木ヒルズの主要なデザイナーのひとりが、日本橋の高層ビルもデザインしている。コレド日本橋。日本橋付近の景観に決定的な影響を与えるこのビルのデザインに、地域に存在する人々はどこまでコミットしえたのか。それが問題である。

フロム・ニューヨークの帆船の逆走
 
 船の帆に似たコレド日本橋の外観をデザインした人は、ニューヨークの設計事務所のメンバーだそうだ。この人がふだんどこに住んでいるのかはよく知らないが、日本橋の近所で暮らしたりはしてないらしい。国籍についても知らないが、ミネソタの生まれみたいだから、たぶんアメリカ人なんだろう。

 この人のデザインしたコレド日本橋が、何を間違えたのか、南北を逆にして建っていることについては、以前にもこのブログで書いた。
 ビルのオーナーである不動産会社は、「川を中心にした日本橋の街づくり」を提唱し、「ゆるやかに流れる川を中心とした昔ながらの風景」の再生を主張している(「まち日本橋」というタイトルのこの会社のホームページより。それにしても、「昔ながらの風景」を壊しているのはいったい誰よ?)。
 そんな会社の主張にまるで反して、どうしたことか、このビルは、日本橋や日本橋川へ完全に背を向けて建てられてしまったのである。このビルは南側から眺めるためにデザインされている。そして、日本橋や日本橋川はビルのすぐ北側。

 オーナーの不動産会社は、れっきとした日本橋商人の末裔である(厳密にいうと、その昔、本店は京都にあったらしいが)。だが、アメリカ人のデザイナーに白羽の矢を立てて、色々注文つけたのは、間違いなく、日本橋界隈の地理に暗い社員だったのだろう。
 そんなわけだから、実際にビルを作ってみたら、南北が逆になって、日本橋に背を向けてしまった。

 なんでも、この種のビルのデザインをおしゃれなポストモダン焼きっていうらしいが、少なくとも日本橋のそばから見上げるこのビルの裏側は、僕なんかが幼い頃から慣れ親しんできた、コテコテのモダン焼き。馬鹿でかい、真ったいらな四角の壁に、規則正しく窓が並ぶ焼き上がり。

 そのモダン焼きの巨大で無表情な壁が日本橋の南の空を広く覆ってしまっている。

 建てる前から、その高さ・巨大さによって地域の景観を大きく変えてしまうことが確実だったこのビルのデザインについて、日本橋地域で働き暮らす人々はどこまでコミットできたのだろうか。ぜひ確かめてみたいものだ。

付記
 いちおう、このビルのポストモダン焼きの側を写した画像にリンクを張っておく。皆さんは、実際に日本橋に行ってみて、橋のたもとからモダン焼きの側も眺めてみるといい。まさに、お芝居のセットを裏側から見ている気分がするから。
 日本橋の景観がどうのこうのって言う人は、マスメディアやネットでばらまかれる、日本橋と首都高をアップで撮ったツーショット写真だけを眺めるのではなく、ぜひ、首都高とドッコイドッコイのこの巨大な壁の圧迫感を体感してから、日本橋の景観問題を議論すべきだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ワン・コイン古文書講座特別企画~「江戸東京の歴史散歩」へのお誘い

ワン・コイン古文書講座 特別企画
「江戸東京の歴史散歩 第1回 交差する江戸のメインストリート」

日時:2006年3月11日(土)14:00から
集合:JR神田駅南口改札を出たところに14:00集合
所要時間:だいたい2時間くらい
解散場所:日本橋北詰
費用:500円(資料代など込み)
※小雨決行

お申し込み方法2月25日(土)の第3回ワン・コイン古文書講座(詳細はこちらをごらんください)にて、ご案内を差し上げた上で、希望者を募ります。また、同講座に出席されない方も歓迎します。本日から2月末日までの間に、私あてのメールで、氏名・ご住所を明記の上、お申し込みください。メールアドレスは、このブログの左上の方にある「プロフィール」のところをクリックして、プロフィールページに掲載したメールアドレスをご覧ください。


江戸のメインストリートはどこ?

 ジャン!! 「さて、ここで問題です。江戸で一番の目抜き通りはどこ?」

 日本橋を中心にして、そこから南北両方に延びているのが日本橋通り(現在の中央通り)ですが、この日本橋通りこそが江戸一番の目抜き通りである、という答えも、当然、可です。
 しかし、江戸にはもっと由緒正しきメインストリートがありました。その名もずばり、本町(ほんちょう)通り。常盤橋(現在の日本銀行のすぐそば)から浅草橋へ向かうのが、江戸の本町通りです。江戸時代の初め、江戸で随一の通りはこの本町通りでした。ところが、江戸時代も中期以降になると、経済的繁栄の中心は日本橋周辺へと移り、江戸一番の目抜き通りの座は日本橋通りに奪われていきます。

 今回の歴史散歩では、この新旧2本のメインストリートの現在を歩いてみます。

格式高き本町通り

 先日の第2回古文書講座で沽券絵図や浮世絵を通じて触れた大伝馬町一丁目は、本町通り沿いにあります。現代の東京で、大伝馬町や本町通りがどのような姿に変わっているのか、実際に見て確かめましょう。きっとたくさんの発見があります。広重の浮世絵にかかれた繁栄の町並みの現在はいかに。

日本橋絵巻「熙代勝覧」

 また、日本橋通りについては、この通りのうちの日本橋から北に延びる部分を描いた絵巻物「熙代勝覧」が、今ちょうどベルリンから日本橋へ里帰りしていて、三井記念美術館で展示されています(2月12日まで)。
この「熙代勝覧」の絵解きをした本が講談社から出ています。浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』。私も共同執筆者の端っこに加えてもらって、絵巻に出てくる人物の職業などを特定する作業を受け持ちました。今回の歴史散歩では、この「熙代勝覧」の図像を片手に、絵巻に描かれた部分の端から端まで、つまり、神田今川橋交差点付近から日本橋南詰まで、実際に歩いてみましょう。できれば、講談社の本を持参していただけると嬉しいなぁ。3150円也。自分で言うのもなんですが、絵巻の写真も綺麗(実物よりも?)で、解説などもなかなか面白い本ですよ。
 今川橋のたもとの瀬戸物屋、十軒店の雛人形市場、三井越後屋の巨大な店舗、それから人々で溢れかえる日本橋の活況などなど。そんな絵巻のポイントポイントの現在を確かめてみましょう。

 みなさんのお出でをお待ちしております。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/01/23

お江戸日本橋の魅力とは? その7

景観から疎外された人々

 前回の記事では、私の好きな景観の条件として次のようなことを掲げた。

 多様な人々の存在を認める地域社会があり、そうした多様な人々がそれぞれ主体的に地域の景観形成にコミットできているならば、その地域の景観には多様性とディテールが生まれる。そんな多様性とディテールとを備えた景観が好きだ、と書いた。

 では、景観形成へのコミット、という問題について、もう少し具体的に検討する。

 まずはコンビニについて考えてみよう。コンビニの屋外看板が景観の構成要素であることについては、簡単に納得してもらえるだろう。さらに、店の内外における照明の色や強さ、ガラスの壁ごしにみえる商品陳列棚のデザインや配置なども、景観の構成要素としてみよう。他にも、店の外からも見える店員のユニフォームなども、思い切って、広義の景観的要素としていいかもしれない。

 コンビニ以外でも、チェーン展開のコーヒーショップ(例えば、日本橋北詰の角地、つまり日本橋の超一等地にもこれがある)やファストフード、ファミレスなどの飲食店も似たような事例とすることができるだろう。

上に挙げたコンビニその他のお店における景観的要素、すなわち、看板・照明・商品陳列棚・ユニフォーム(?)の、色や大きさ、デザインなんかを決めているのは誰なのかってことが重要な問題となる。

 これらのお店で働く店員さんや店長さんが、こうした景観的要素を決定する過程にどの程度関与できるのだろうかってことが問題なのだ。

 このようなコンビニやチェーン展開の飲食店は、おそらく極端な事例かもしれないが、その他、多くのアパレルショップやドラッグストア、その他、個人経営ではないお店について、同じような問いを発してみよう。

 こうしたお店の店内、あるいは、お店が商売している地域社会の範囲内に、これら景観的要素の決定に深く関わった人が存在するか否か。多くの場合、答えは、否ということになるのではないか。

 ここには、自分たちが働き暮らす地域社会において、その景観づくりから疎外されたままの、たくさんの人々を見出すことができる。

 次回は、こうしたお店がテナントとして入居する商業ビルの設計・デザインなどを考えるのが、どこの誰なのか、って問題について考えてみたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/01/16

お江戸日本橋の魅力とは? その6

多様性とディテール

 前回の記事で、私の好きな都市景観の条件とは、多様性とディテールである、と書いた。そして、多様性とディテールが景観に備わるためには、地域社会の側に多様性とディテールが備わっていなくてはならない、と書いた。
 地域社会における多様性とディテールについては、さらに説明が必要だと思う。多様でディテールをもった社会とは、どのような社会なのか。

 それは、①「多様な人間が共存する地域社会」であり、かつ、②「多様な人間のひとりひとりが社会のディテールとしての存在意義を持ちうる地域社会」である。

多様な人間が共存する地域社会

 ①については、そんなに説明はいらないだろう。お年寄りの暮らせない地域や子供の遊べない地域はこれに該当しない。あるいは、体などに障害をもつ人や「外国人」などのマイノリティを排除する地域もこれに該当しない。
 例えば、役人ばっかりがたくさんいる官庁街や、大企業のビジネスマンばかりがいるオフィス街などは、その存在を否定する気はないが、私の場合、ことさら好きになる対象でもない。

人間がディテールとして存在する地域社会、試金石としての景観

 よく考えなくてはならないのは②の方である。①でいうような多様な人間が存在する地域であったとしても、ただ存在するだけではだめである。
 では、どのようなかたちで存在する地域社会が良い地域社会なのか?それを判断するための試金石として有効なのが、実は景観の問題なんだと思う。私が景観にこだわる理由は、ただもうこの一点のみにあるといっていいかもしれない。
 多様な人間のひとりひとりが景観にコミットできているか否か。コミットできている地域社会を良い地域社会だと私は考える。
 仮に、多様な人間がそこ存在していたとしても、地域の景観に対して主体的にコミットできていないのならば、その人間は社会のディテールとしては認められていない状態にあると考える。
 なお、ここでいう「存在する」とは、居住することだけではない。その町で働いていることも、その町に「存在する」ことである。

六本木ヒルズにディテールはあるか

 例えば、六本木ヒルズを考えてみよう。たしかに、そこには多様な人々が暮らしたり、あるいは働いたりしている。
 しかし、それら多様な人々が皆、あの“町”のディテールとして存在しえているかどうか。つまり、ヒルズの景観にコミットできているか否かが問題となる。
 次回は、こうした問題を検討する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第2回ワン・コイン古文書講座が開かれました。

第2回ワン・コイン古文書講座のご報告

おおぜいお集まりいただきありがとうございました 
 前の記事でご案内いたしましたとおり、先週末の土曜午後4時から、品川の立正大学で、第2回ワン・コイン古文書講座が開かれ、私が講師をつとめました。
 あいにく当日は季節外れの豪雨でしたが、悪天候のなかご出席いただいた方々には心から感謝いたしております。出席名簿を拝見いたしますと、第1回から引き続きのご出席の方々と今回初めてご出席の方々とがほぼ半々いらっしゃいました。合計では、第1回と同人数の33名もの方々にお集まりいただき、本当にありがとうございました。

例題・練習題もがんばってみてください
 今回は、江戸の町屋敷の沽券を読みました。例題と練習題の解読文や解説は、来週末の28日午前(予定)に当ブログ(と高尾さんのブログ?)にて発表しますので、ご出席の皆さんは“答え合わせ”をお願いします。
 活字におこされた沽券も2点添えましたが、ぜひ、それらを何度か繰り返しお読みになって、できれば、いくつかの決まり文句を空で唱えられるぐらいの状態になられてから、例題と練習題に取り組んでみてください。
 練習題の方は、沽券ではなく、土地の売買を名主に届け出た際の証文です。文章は沽券と共通する部分がほとんどですから、例題が読めるようになられた方は、ぜひ、チャレンジしてみてください。

くずし字への近道は活字
 当日、古文書読解上達のひとつの近道として、活字史料を利用して、なるべくたくさんの史料を読むようにする、という方法を申し上げました。
 それについては、講座終了後、「どのようにして活字史料を探せばよいか。」というご質問を頂戴しました。また、ご出席いただいた方のブログでも、同様のご指摘がありました。

 近世文書を活字におこした史料集は、それなりにたくさんあります。図書館などでそれらの本を利用されると良いと思いますが、もっとも便利なのは、活字の史料集と、もとのくずし字状態を複写した影印本と呼ばれるものと、両方が刊行されているような文書だと思います。少しお時間をちょうだいして、そうした本のリストを作成しようと思います。リストは、次回、2月25日の第3回講座にて配布させていただくつもりです。
 そうした本の一例としまして、近世文学の影印本などはどうでしょうか。たとえば、近松の曽根崎心中など浄瑠璃本の影印本と活字におこされた文庫本とを合わせてみると、仮名を読む練習には最適です。音読してみても楽しいです。大きめの本屋の日本文学コーナーなどで実際にお手にとってご検討ください。

町あるきもぜひご一緒に
 また、新企画としてご提案させていただいた、江戸歴史散歩(講座で読んだ史料に出てくる町々の現在の姿を歩いてたしかめる巡見=東京をあるく)についても、興味を示してくださる方々がたくさんいらっしゃって、とても嬉しかったです。
 こちらも早急に準備させていただいて、来週末、例題・練習題の答えと一緒に、開催の日時・場所などを発表します。できれば、3月上旬の週末に開催する予定です。よろしくお願いします。

 それでは、次回、2月25日にまたお会いしましょう。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006/01/13

明日、古文書講座でお会いしましょう

明日はいよいよワン・コイン古文書講座です

 明日14日の土曜日、午後4時から、品川区大崎の立正大学のキャンパスで開かれるワン・コイン古文書講座で講師をつとめます。
 江戸の町とはどのようなところだったのかお話しながら、基本的な古文書を読んでみようと思います。
 みなさまのお越しをお待ちしております。

 事前のご予約などはいりません。明日、会場にお越しいただければ、お1人さまワン・コイン500円で受講できます。

 これまで古文書は読んだことがない、という人も大丈夫です。

 今回は第2回目ですが、前回出席されなかった方も歓迎します。基本的に内容は1回完結のかたちですすめていきますから、前回出席されなかったからといって、まったく問題ありません。

 もちろん、とりあえずは今回だけ出席してみよう、という方もOKです。もし面白かったら、次回以降もよろしくお願いします。

 古文書読解にはあまり興味はないけれど、江戸の町について知りたい、という方もぜひお出でください。最先端の研究成果をもとに、特に予備知識のない方にもわかりやすく、絵図や絵画資料などを使いながら、江戸の町のありさまについて解説したいと思います。

 興味を持たれた方は、こちらのページで日時・場所の詳細をご確認の上、ご出席ください。みなさまにお会いできるのを楽しみにしております。

第2回ワン・コイン古文書講座
○日時:1月14日(土曜日) 午後4時15分(4時から開場)~6時15分
○場所:立正大学大崎キャンパス(住所〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16)11号館1171教室(最寄り駅は山の手線の五反田・大崎駅、駅から徒歩7分です)
 案内図はこちらこちら
○料金500円(これ以外に会場費や資料代など一切いただきません)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

お江戸日本橋の魅力とは? その5

良い景観とは?

 良好な都市景観とはどのようなものか。これについては、食べ物や異性に対する好みと同じくらい、個人個人で考えが違うはずだ。それなのに、美しい景観・悪い景観を選出してそれを公表する団体もあるようだ。まあ、それ自体、議論を喚起するため、ということもあるのだろうが、どうも違和感をおぼえる。
 四角い白い箱のような建物が整然と並びたつ姿が理想だと思う人もいるだろう。あるいは、数え切れないほどたくさんの大小さまざまな色かたちをした屋外看板やネオンが通りにあふれる繁華街こそが落ち着くという人もいて当然である。

 そんな個人差の存在を承知した上で、あえて私なりに考える良好な都市景観の条件について書いてみたい。

多様性とディテール

 私の場合、好感のもてる都市景観とは、多様性とディテールとを備えた景観、ということにつきる。逆に、多様性とディテールが無い景観は好きになれない。

多様性とディテールはどうやって生まれるか

 では一体、多様性とディテールとを備えた都市景観はどのようにして形成されるのか。答えは単純で、景観の作り手たちの側、つまりその地域社会の側に多様性とディテールが備わっていないとダメなんだと思う。
 このような「都市景観の作り手たち=社会における多様性とディテール」の問題については、次回、また検討したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/09

お江戸日本橋の魅力とは? その4

雑踏

 田島任天が回想するように、お江戸日本橋を初めて訪れた「地方人」が必ず日本橋の名前を記憶に刻みつけていくのは、その地の雑踏のすごさゆえのことだった。
 そして、その雑踏を生み出していたのは、生鮮魚・野菜・塩魚の市場の活発な取引であり、多数の露店の密集であり、荷役の人足たちが疲れをいやす縄のれんの飲食店のにぎわいであった。

大店

 このような雑踏の周囲には、江戸でも屈指の豪商たちの大店が軒を連ねていた。南へほんの少し歩けば、白木屋呉服店があった(その場所には今、コレド日本橋が建っている)。北へ少し行けば、三井越後屋の呉服店や両替店があった(今それらの場所には、三井本館や三越百貨店が建っている)。

日本一分厚い日本橋の都市社会

 つまり、江戸の日本橋には町人社会の幅広い階層がすべてそろって重層していた。おそらく、当時の日本では他に類をみない分厚さの都市社会がそこに構築されていたのである。

薄っぺらな日本橋へ

 しかし、近代以降、日本橋の分厚い社会は、次第に薄っぺらなものになっていく。

 まず明治初年、地租改正による近代的土地私有制の確立の陰で、路上に発達していた露店の大集合地はその存在を否定され解体されていく。江戸橋広小路を中心に展開していた多数の露店は撤去され、その跡地は払い下げられたり、公共の建物が作られたりしていった。日本橋の雑踏を生む基本的要素のひとつは消滅したのである。
 日本橋市場群の中核であった魚市場に関しても、明治期から移転が検討されていた。道路を占有しての市場取引に対しては、不衛生であるだとか、交通の妨害であるだとかいった批判が加えられ続けた。結局、関東大震災の際の焼失を契機に、築地への移転が実施された。日本橋界隈から、かつての雑踏が消えていった。
 このようにして、日本橋から都市の庶民的な要素は消え去り、分厚かった社会は薄っぺらになっていった。

消える雑踏

 お江戸日本橋の魅力、それは、そこに成立していた社会の分厚さである。その分厚さが、かつて見たことのない雑踏となって日本橋の空間に反映し、「地方人」を驚かせた。
 そして、日本橋が魅力を失っていく過程とは、日本橋の社会がその厚みを無くし、雑踏が消え去っていく歴史に他ならない。
 『江戸名所図会』『煕代勝覧』が描く日本橋から、人の姿が消えたところを想像してみるといい。前にも書いたとおり、当時の江戸町方中心部では別に珍しくもない、ありふれた景観がそこには残る。

日本橋の何を再生するの?

 現在の日本橋再生運動は、日本橋の何を再生しようとしているのだろう。
 日本橋の上から首都高の高架を取り去り、川沿いには、どっかでコピーしてきた親水公園をはりつけ、その周囲には高層ビルを林立させてオフィス集積率を向上させる。あるいは、一泊が最低でも6万円台のホテルを開業し、いわゆる富裕層ビジネスを展開していく。
 反対に、再生事業の進展にともなって高騰する家賃や地価により、わずかに残る中小の商店や飲食店は駆逐されていく。

 つまり、今の日本橋再生運動の帰結は、近代以降、薄っぺらくなり続ける日本橋の社会を、さらにいっそう薄っぺらくすることになるのではないか。私にはそう思えてならない。

 しつこいかもしれないが、くりかえし言っておきたい。日本橋の上から高架を取り去ったところで、「伝統的な景観」は復活しないんだよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/07

お江戸日本橋の魅力とは? その3

 ネットを検索していてみつけたが、講談社版『熙代勝覧』が、「高坂洋の世界」というホームページに転載してある。著作権保護の観点からみて、どうかなぁ?と疑問にも思う転載だが、まあ、私個人としては、同書の宣伝だと解釈しておこう(他の執筆者の方々や講談社からは怒られるかな)。

 というわけで、その転載を利用させていただくことにして、日本橋北詰の情景のページにリンクする。


日本橋北詰は生鮮市場

 リンク先の写真でははっきりとは見えないだろうが、橋の北詰にひしめく人々のうちの、ざっと3分の1くらいの人は上半身が裸である。前回の記事に書いたように、この辺り一帯が魚市場となっていて、もろ肌脱いでいる人々は魚を運搬する人足たちである。その他にも魚を売買する人々で、橋の北詰はあふれかえっている。

 この魚市場の雑踏のすぐ外では、路上にザルやタライ、台などを置いて、その上に並べた野菜を売る商人たちが描かれている。日本橋の橋の上でも、こうしたスタイルの野菜売りたちが商売している。魚を仕入れにきた人々のなかには、帰りに野菜も仕入れていく人がいるのではないだろうか。

 おそらく、ここに描かれた情景は、市場が開かれる午前中の風景だと考えられる。人々のざわめきや魚のにおいが沸き立つような、賑わいの情景である。


江戸庶民の姿

 市場商人や市場で働く肉体労働者たち、それから、市場の客のうちのかなりの割合を占めたであろう、魚や野菜の行商人たち。
 こういった江戸の庶民たちが、『熙代勝覧』に描かれた日本橋北詰の情景の主役である。

 前回の記事とあわせた“まとめ”は、また次回に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/06

お江戸日本橋の魅力とは? その2

幕末の日本橋
 明治42年絶筆の田島任天『五十年前の東京』(『明治大正文学史集成』付録1、日本図書センター、1982年)という随筆がある。
 それに記された、「五十年前」の、つまり幕末の日本橋界隈の情景とは以下のようなものである。

日本橋南詰の情景~多数の露店・塩魚商
 「通り一丁目の左側は昼夜となく露店の羅列する所にして雑踏を極め、更に日本橋より四日市に入る所は塩魚商を以て充たされ、之に続いて露店的小舗は左右に列を作し往来稍く一間許りを余すのみといふに至つては、その熱閙の状推してしるべく、地方人の始めて此処に来るものは此の盛況に惘々然とし、日本橋の名を記憶する亦偶然にあらざりしを知る」。
 この部分で描写されているのは、日本橋の南詰の辺りである。露店や塩魚商が密集し、その雑踏の凄さでもって、「地方人」は日本橋の名前を記憶するのだという。

日本橋南詰の情景~縄のれんの飲食店
 「萬町角の飲食店立場は即ち実際の立場茶屋にして労働者の飲食する縄暖簾店なりし」。
 荷物を運ぶ人足たちが多く飲食する縄暖簾の店もあったようである。

日本橋北詰は?
 「橋北の東は即ち魚河岸にして本船町、安針町、本小田原町、長浜町の魚区依然として当年の状況を存し、敢へて変遷を語るに足るもの無し」。
 つまり、日本橋の北詰部分は魚市場であって、幕末の状況がそのまま変わることなく、明治末年に至っているというのである(日本橋の魚市場の範囲が、実質的には本船町河岸=魚河岸の区域をはみだし、日本橋北詰一帯にも広がっていたことは、最近の研究で明らかにされている)。

日本橋南詰とアメ横
 日本橋南詰を東へ行くとすぐに江戸橋広小路という広場があった。そこには100軒あまりの露店(「床店」)が営業していたが、そのうちの70軒あまりは小間物屋だったという。
 当時、江戸を出立する旅人の多くは男性だったと思うが、彼らが自分の国に残した妻や娘、恋人への土産として、化粧品やアクセサリーを物色して歩いたのがこれらの小間物屋群だったのであろう。それから、塩魚商の店々。
 まるで、現在の上野アメ横みたいだ。「地方人」を驚かせたその賑わい。これも年末の買い物客でごった返すアメ横の様子にそっくりだったのではないだろうか。それから、たくましい人足たちが集まる庶民的な飲食店。

日本橋北詰をみるなら日本橋絵巻『熙代勝覧』
 日本橋北詰は明治末年に至っても幕末と同じだ、と言って、残念ながら田島任天は詳しく描くのを省略している。
 その日本橋北詰の様子を生き生きと描いた絵巻がある。『熙代勝覧』(きだいしょうらん)。文化年間の神田今川橋から日本橋までの町並みを描いた長大な絵巻だが、日本橋北詰の描写はこの絵巻のひとつの白眉である。
これを見たい人は、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熙代勝覧」の世界』(講談社、2003年)を買ってください。私も分担執筆しているので、増刷になるとお小遣いが入る。
 私が主に分担したのは、この絵巻に登場する人物の職業などを特定して脚注をつけていくという作業だが、実を言うと、その脚注部分の冒頭で、すっごく恥ずかしい間違いをしでかしている。どうか、本屋さんでお手に取って36ページを開き、「小林ってほんとバカだなぁ。」と笑ってください。その後は、できればそのまま本を持ってレジへ。

 現在、ベルリン東洋美術館が所蔵する『熙代勝覧』だが、2003年の江戸東京博物館の大江戸八百八町展で来日したのに続き再び来日。たしか今週末あたりから日本橋の三井記念美術館(例の三井タワーから入場)にて展示されるはず。
 この『熙代勝覧』に描かれた日本橋北詰の情景の説明と、今回の記事の分も併せての“まとめ”は、また次回に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/05

お江戸日本橋の魅力とは? その1

日本橋の何を再生するの?

 日本橋再生のあり方を考える場合、重要なのは、いったい日本橋の何を再生するのか、という問題だろう。
 再生すべき日本橋の魅力とは何か。つまり、かつての日本橋がもっていた魅力とは何か。ここでは、江戸時代の日本橋の魅力について考えてみたい。

日本橋は江戸名所の筆頭

 江戸時代後期に出版された江戸のヴィジュアルガイドブックの決定版、『江戸名所図会』が紹介する江戸名所のトップバッターが、他ならぬ日本橋である。この本で、史跡やら神社仏閣を抑えて、日本橋が江戸名所のトップにすえられたことの画期性については、千葉正樹さんが鋭い分析を加えている(千葉正樹『江戸名所図会の世界』吉川弘文館2000年)。
 『江戸名所図会』の「日本橋」図を眺めてみる。そこに描かれている日本橋の姿は本当に魅力的だと私も思う。もし、一回限り使用できるタイムマシンがあって、それを使って江戸のどこに行きたいか、と尋ねられたら、迷うことなく、日本橋、と答えるだろう。

『江戸名所図会』にみる魅力
 
 では、この「日本橋」図に表現された日本橋の魅力とは何か?

 建築物としての日本橋は、たしかにそこそこ立派ではあるが、まあ、当時の江戸ではありふれたデザインの橋だ。
 川沿いに蔵が建ち並ぶ景色もしばしば賞賛されるが、これまた、当時の江戸だとさほど珍しい光景ではない。つまり、日本橋が江戸名所のトップに選ばれた理由は、こうした建築物のみが作り出す景観にあるのではない。

 「日本橋」図が私たちに伝えてくれる日本橋固有の魅力とはいったい何か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/01/04

お江戸日本橋と都市景観 まとめ

 自分でも予想外の長い連載となってしまった。その理由は、もちろん、最近のニュースにあるとおり、日本橋の上から首都高の高架を撤去する話が夢物語の域を超えそうな勢いを急に見せ始めたことにある。
 この連載を始めた昨秋ごろは、そんな荒唐無稽な事業が実現する可能性なんてゼロに近いと思っていた。ところが、昨年末あたりで、小泉総理がこの荒唐無稽を自分の引退の花道にしようなどと考え始めたことにより、状況が少し変わってきたようだ。
 そんな状況の変化に刺激されて、つい余計なこともたくさん書いてしまい、長い連載となった。そろそろこの辺で私の主張をまとめておいた方が良いだろう。

連載のまとめ

 私の主張は単純である。
日本橋再生事業に東京都や国のお金を使うべきではない。
 これだけ。

 実を言うと、再生事業そのものに対して、あまり強硬に反対する気はない。想定される事業内容にはずいぶん問題が多いなぁと思うが、まあ、是非やりたいという人たちがいて、その人たちが自力で資金を準備し、かつ、地元や関係者の了解を得たのなら、自分たちで勝手にやればいい。ただし、それに税金を使うのは間違いだ。

 税金を使うのが間違いだと思う理由は、以下の3点。

①日本橋再生事業は日本橋の「伝統的な景観」を取り戻すための事業だと、表向きはいう。しかし、事業推進派の人々が、日本橋川の隣接区域における新規の高層ビル建設を積極的に支持していることからも明らかなように、本心では「伝統的な景観」の復元作業などぜんぜんやる気はない、という欺瞞がそこにあるから。

②日本橋再生事業の主な目的は、日本橋地区という限られた地域の経済活性化であり、また、それによって隣接する地域の経済や社会は逆に空洞化するから。

③日本橋再生=日本橋再開発事業は、結果的に日本橋地区の地価や家賃を高騰させ、同地区に残る中小の商店・飲食店を駆逐することになるから。つまり、日本橋地区に大規模な不動産を所有する者に偏って恩恵を与える事業だから。

 たしかに、日本橋再生プランの完成予想図などをみると、日本橋川沿いに、散歩すると気持ちよさそうな親水公園がしつらえられている。もしそれが出来たら、私も喜んで散歩すると思う。だけど、そんな公園を一カ所造成するためだけに、数千億から一兆円もの税金を投入するのは、まったく正気の沙汰ではない。
 また、日本橋地区という限られた地域の経済的繁栄のために、都や国のお金を使うのも正しくない。もちろん、いくら国の事業だからといっても、それがある特定の地域のエゴとまったく無縁でありうるなどと思っているわけではない。たとえば、国鉄の時代、田んぼの真ん中に、まったく意味不明の新幹線の駅が、駅前の銅像とセットでできちゃったり、線路がひん曲がったりしたことはいくらもある。しかし、そういった例と比べても、今回の日本橋再生事業はあまりに地域限定がすぎる。しかも、周辺地域へ悪影響を及ぼすことなども考え併せると、都や国のお金を使うのは間違いだと言わざるをえない。

 景観再生事業の名の下に隣接区域に高層ビルを新たに建てまくるっていうのは、どう考えてもおかしいよ。日本橋地域の景観は、日本橋だけでできているわけじゃない。

 結局、日本橋再生事業は、景観の保全や復元ということをもっと真面目に考え、都市再開発による安直な金儲けや地域エゴをもう少し抑制し、そして、かつて存在した日本橋の魅力とはいったい何だったのか、それがどうして衰弱してしまったのか検討してから、もう一度、出直した方が良いと思うよ。じゃないと、首都高の高架建設を上回る失敗として、将来、歴史に汚名が残っちゃうよ。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006/01/02

お江戸日本橋と都市景観その11

日本橋「経済再生」の問題点

 今回は、景観問題はともかく、日本橋の経済再生がもし実現したらどうなるのか、少し考えてみたい。
 もし日本橋が、誰かさんの言うとおり、清渓川同様の「世界的名所」となって、たくさんの人が訪れるようになり、また、周辺では高層ビルの建設が進んだとする。
 こうなると、以前にみた、「日本橋 みちと景観を考える会」が掲げる「日本橋地域の現状と課題」で指摘されているような、「高いオフィス空室率」やら「オフィス賃料の低下」、「周辺地区と比べ低い路線価」といった問題は解決の方向に向かうのかも知れない。

 しかし、こうした動向によって引き起こされる問題的状況として、以下の3点くらいは誰でも容易に想定できる。

1.日本橋地区の周囲におけるオフィス空室率の上昇や空洞化。
2.過度な東京一極集中
3.日本橋地区における地価上昇による中小商店・飲食店の撤退や廃業。

1.日本橋地区の周囲におけるオフィス空室率の上昇や空洞化
 オフィスの需要は伸びない。一般には2010年問題と呼ばれているが、近い将来、急激なオフィス需要の低下が確実視されている。日本橋地区の周辺にある中小のオフィスビルは、例の2003年問題の痛手から依然立ち直っていない。2003年問題が供給過多によるものであったのに対して、2010年問題は需要の低下によるもので、より深刻な問題だとされている。日本橋地区のみの経済再生は、他地域の地盤沈下を引き起こす恐れが大きい。

2.過度な東京一極集中
 現在、景気は回復傾向にあるとされるが、いわゆる“地方”経済は低迷したままである。失業率も、首都圏などでは改善されつつあるが、多くの“地方”においては製造業の海外流出なども止まらず、依然深刻な状況にある。このように、首都圏と“地方”との経済格差が重大な問題となっている現状で、経済の東京一極集中をさらに進行させるべきではない。

3.日本橋地区における地価上昇による中小商店・飲食店の撤退や廃業
 日本橋地区には、現在、かろうじて中小の商店や飲食店が生き残っていて、それが伝統的な町の雰囲気を細々と伝えている。しかし、日本橋地区の経済再生によって、家賃がつり上がり、また地価の上昇で相続税が高騰すると、それら中小の商店・飲食店の経営が致命的な打撃を受けることは確実である。


なぜ税金を使うの?

 上に書いた1と2の問題を考えると、数千億円から一兆円!かかるという首都高の高架撤去の事業費を東京都や国で負担するべきではない。
 首都高の高架撤去と同時に、日本橋地区においては高層ビルも全部壊して景観の改善・復元につとめる、というのなら、まだ検討の余地はあるかもしれないが、そうではなく、高架の撤去を契機に日本橋地域には高層ビルを建てまくって経済再生を図る、という話であるなら、それに超巨額の税金を使うのはおかしい。それこそ、国民投票が必要なくらいの額である。

バブルの爪痕から学ぶべきでは?

 また、3で指摘したように、そんな巨額の費用を投じた挙げ句、今の日本橋の地域社会を破壊してしまったらもう取り返しがつかない。あのバブル経済下で次々と地域社会が崩壊していった悲惨な状況を、人々はもう忘れてしまったのだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

お江戸日本橋と都市景観その10

 本来、この連載記事は、日本橋の景観再生問題について検討しようと思って始めた。しかし、検討を進めていくにつれて、どうしても、景観の問題はひとまず脇に置いて、日本橋地区の経済再生の問題についても書かざるをえなくなってきた。
 それは、今、展開されている日本橋の「景観再生」運動の目的が、実際には都市景観の再生などではないことがわかったからだ。
 結局、日本橋の「景観再生」は、日本橋地区の経済再生に益する一事業として主張されているに過ぎない。従来の経済優先主義から“景観=文化”優先主義への転換、といった、外野の“文化人”諸氏が期待しているような、町づくりの転換と呼ぶに値する新たな動きは、そこにはまったくみられない。

景観よりも経済

 日本橋地区の経済再生に役立つ範囲内なら景観再生も主張してみるが、いざ日本橋地区の経済再生のためには邪魔だということになれば、景観なんかは破壊しても構わない、というのが、今の日本橋再生運動の本音だろう。
 その証拠に、周辺地区での高層ビル建設の規制を強化するといった動きが、今の日本橋「景観再生」運動から生まれてくる様子はみあたらない。それどころか、日本橋川沿いに造成する親水公園の上空の空いた容積を移して沿川の地区の容積率を引き上げ、高層ビル建設を促進しようというプラン(容積バンク)が歓迎されたりする始末である。

 前にも書いたとおり、首都高の高架が撤去された後は、今や世界中で増殖している没個性の親水公園がコピーされ、その背後に高層ビルが林立するという、これまた極端に没個性の都市景観が生まれるだけのことだ(「伝統的景観を取り戻すため」に高架を撤去することへの協力要請を受けた小泉総理が前向きの姿勢を示したそうだが、嘘はダメだと思うよ、嘘は)。

 それでも、もしそうした都市再開発が完成したなら、完成直後は、おそらく、お台場や六本木、汐留、あるいは丸の内みたいに物見遊山の見物客が集まり、また、沿川に建つ最新の高層ビルを武器にすれば、オフィスの集積率も上昇が見込めるだろう。今の日本橋「景観再生」運動はそんな経済的効果を狙った事業である。

「日本経済の顔」日本橋の再生

 しつこいかもしれないが、日本橋の上から首都高の高架を撤去しようという地元の運動が、日本橋地区の経済を再生するための運動であることを、もう少し念入りに確認しておこう。

 現在、日本橋の再生に向けたもっとも大きな動きは、日本橋地区都市再生事業と称する官民一体の事業であるらしい。官=国土交通省と地元・学者などがこの事業を進めているようだ。この事業の中核にあったのが日本橋都市再検討委員会という組織だ(今もこの委員会があるのかどうかは、ネットを検索しただけでは分からなかったが、ここの委員の多くが今も日本橋再生運動に関わっているようだ)。
 前出都市再生事業のホームページでこの委員会は次のように紹介されている。
 「かつて日本橋は日本経済の中心としてにぎわいを見せていました。日本橋都市再生検討委員会(委員長:東京大学 森地茂教授)は、日本橋周辺地区を再度、「日本経済の顔」としてにぎわいを取り戻すために、官民一体となって、道路空間の活用を中心に活動している委員会です。たとえば、三井本館の再開発や三越新・新館の建て替え事業など、また首都高速道路の移設構想など、今、日本橋周辺地区は、都市再生の気運が高まっています」。

 もうひとつ。前にも取り上げた「日本橋 みちと景観を考える懇談会」について。この会がどのような目的で活動しているのか、今ひとつちゃんとした説明は見つからないのだが、日本橋再生に熱心な三井不動産が作成したページでこの懇談会のことが紹介されていて、この懇談会がどのような期待を受けて活動しているのかがわかる。
 「もともと橋の周辺は五街道の起点として栄え、水陸の交通が立体交差して活気のある風景が広がっていた場所。その活気を取り戻そうと、今、国土交通省東京国道事務所や地元・学識経験者などを中心に、首都高速道路のあり方、そして日本橋地区再生のあり方が検討されています。その一環として2004年には「日本橋 みちと景観を考える懇談会」の主催で「日本橋まちづくりアイデアコンペ」が実施され、全国から324作品が応募されました。このことからもこの問題に関する全国的な関心の強さがうかがわれます」。

 また、同じページには次のように記されている。
 「現在の日本橋という地名になった名橋「日本橋」。日本人の精神的な原点ともいえる、この橋のたもとには、江戸時代以来人々が行き交う活気ある風景が広がってきました。今はすっかり首都高速道路の高架の陰に隠れてしまった日本橋ですが、この橋の景観を何とか取り戻そうという動きが起こっており、首都高速道路の移設の可能性、そしてこれを契機として街づくりなどさまざまなアイデアが検討されています」。

 つまり、日本橋地区は、東京あるいは日本の中心であって、「日本経済の顔」となるべき地区である。首都高の高架撤去事業をそんな日本橋の経済再生の「契機」にしたい。これが日本橋「景観再生」運動の目的である。だからこそ、経済再生の役に立つなら、実際には景観破壊となるような行為であっても、そこでは簡単に容認されるのだ(というか、歓迎されるのだ)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/29

お江戸日本橋と都市景観その9

 前にも書いたとおり、私は、どちらかというと、都市景観の問題には無頓着な方だ。東京都心のスカイラインなんてガタガタで構わないし、狭い歩道をふさいじゃうような場合を除けば、町中に電柱がたくさん立っていてもぜんぜん平気である。
 それにもかかわらず、ここまでの連載記事で都市景観に関する評論めいたことを書いたのは、日本橋再生運動がしばしばかかげる「歴史と伝統の都市景観を取り戻そう」などといった謳い文句のシラジラしさを十分に確認しておきたかったからである。

日本橋の何を再生したいの?
 要するに、今の日本橋再生運動の主眼は、景観の再生などではない。日本橋地区の経済的な繁栄を再生することである。
 かつて江戸町方の中心であった日本橋は、現代の東京ではその地位を失ってしまっている。銀座や新宿、渋谷、あるいは都市再開発事業が進む六本木や汐留・新橋、そして、従来のオフィス機能に商業機能をプラスして脚光をあびる丸の内。それら都心の他地域に対して遅れをとってしまった日本橋。
 以前の記事で、「日本橋の何を再生したいの?」と問いかけた。その答えは、結局、日本橋の経済的繁栄や過去の栄光ってことになるんだろう。

 だから、現在の日本橋再生運動において、景観の再生が、経済的繁栄の再生よりも優先されることなどありえないように思える。
 日本橋周辺地域における高層ビルの林立に対して、これに歯止めをかけよう、あるいは、高すぎるビルを高架と共に撤去しよう、といった、景観優先の立場からするとしごく真っ当な意見が、今の日本橋再生運動の中で主流になることは、まず期待できないように思える。

「日本橋に首都高の高架は要らない」 
 結局、日本橋地域の経済的繁栄に対する貢献度が低い首都高速の高架に、景観破壊の汚名を一身に背負わせておいて、そのスキに、同じく景観の阻害要因であるはずの高層ビルには、地域経済活性化の核として大活躍してもらおう、というのが日本橋再生運動の大勢であるようだ。
 こうした運動の姿勢を正直に表しているのが、日本橋みちと景観を考える懇談会がホームページで公表している「日本橋地域の現状と課題」の奇妙な中身なのだと思う。
 
 次回は、景観の問題からはいったん離れ、日本橋地域の経済的再生が巻き起こすであろう深刻な問題について考えてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お江戸日本橋と都市景観その8

高さ200メートルの墓石
 では、日本橋の上から高架が無くなった姿をひとしきり想像した後で、視線を再び目の前の三井タワーに戻してみよう。
 高さが約200メートルにも達するこの高層ビルだが、まず、足元の低層部分に注目する。低層部分の高さは、すぐ隣の三井本館同じ約31メートルの高さに揃えてある。ギリシャ風の列柱をあしらった外観も本館のそれに合わせたものだ。その低層部分から少しセットバックしたところに高層部分が聳え立つ。都心の高層ビルに対して、墓石みたいだという悪口を聞くが、低層部分で階段状にセットバックをしたこのビルの姿は、本当に墓石そっくりだよ。

スカイラインとの調和?
 だけど、設計者もビルオーナーの不動産会社も、このセットバックや低層部分の装飾によって、街並みの景観は守られたと自画自賛している。
 不動産会社のホームページをみると、「デザイン面においても、低層部は三井本館の特徴である列柱のリズムを受け継ぐとともに、低層部の上でセットバックすることで三井本館、日本橋三越本店など中央通り沿いの建物が形成するスカイラインとの調和をはかるなど、古きよき街並みの表情を保つためにさまざまな手段が講じられています。」とある。「保存と開発」が「両立」しているとも。

 いくらなんでも、それは言い過ぎじゃないかい?街並みを重視するってのが本心なら、やはり中央通りに面して同じ会社が建てたコレド日本橋はどうしてあんな珍奇な格好でピカピカしながら周囲から浮きまくっているのか、と突っ込んでみたいが、まあ、その辺りは商売人のご愛敬か。あるいは、コレドのことを深く反省した上での今度のデザインってことなのか。

 それはともかくとしても、高さ31メートルのスカイラインの街並みに、200メートルの高層ビルをぶち建てておいて、「スカイラインとの調和」や「古きよき街並み」の保存なんてことを自慢げに言い立てる感性はどうしても理解できない。「私のところのビルは中央通りのスカイラインをめちゃくちゃに破壊しています。せめてもの罪の償いとして、低層部分のデザインだけは工夫してみました。こんなことで許されるとは思いませんが、これが精一杯なんです。」といった言い訳をするならまだわかるが。

スカイラインが完全に無くなる日まで辛抱
 こんな小手先の工夫で、周辺との調和が実現し景観が保たれたと言うなら、同じことを、例えばローマのコルソ通りでやってみれば良い。あるいは、フィレンツェのポンテヴェッキオやヴェネツィアのリアルト橋のたもとで。東京駅の向こう側や京都駅あたりでは通用するのかもしれないけどね。
 この先、同じような高層ビルが日本橋周辺には何本か建つのだろう。そうしたら、もう誰も中央通りのスカイラインがどうのこうのって言わなくなる。その日まで頑張ろうってことかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/12/26

お江戸日本橋と都市景観その7

日本橋再訪
 先日、学生さんたちと一緒に日本橋・丸の内・皇居周辺を歩いた。で、あらためて日本橋をみたが、やはり、景観復元を掲げての日本橋再生事業をとりまく現状は、おかしなところだらけだ。
 日本橋川の両岸を公園として整備し、その上空の容積率を周囲に売ることで得られる儲けでもって、再生事業のための土地収用その他の費用を捻出するなどという目論見もあって、なかなか有力みたいだ。もしそれが現実化したなら、日本橋川の周辺にはたくさんの高層ビルが建ち並ぶことになるのだろう。両岸の親水公園と、その背後に林立する高層ビル。それが景観復元?おかしくない?

もし首都高が撤去されたら
 学生さんたちとわいわいしゃべりながら、日本橋から神田方向へ、中央通りの東側歩道を北上した。三井タワーの威容が迫ってくる。
 三越の向かい辺りで立ち止まり、日本橋を振り返ってみた。そこで日本橋の上から高架が無くなった風景を想像してみる。
 日本橋川のすぐ向こう岸に建つ野村證券のビルが最初に視界をふさぐ(この建物はいわゆる“近代建築”としてそれなりに趣があるかも)。その奥には、野村證券ビルよりも背の高いビルの壁が、全面ベタっと赤っぽく塗られており、かなり目を刺激する(ここは以前からこんな色だっけ?なかなか大胆で激しい色使いだ)。

逆走する帆船
 さらに日本橋の景観にとどめを刺しているのは、それらのビルの背後で屏風のように広く空を覆う真新しい高層ビル。コレド日本橋。以前の記事にも書いたとおり、容積率緩和が生んだお化けビルだ。
 ビルの壁面の大きなカーブは風をはらんだ帆をイメージしてつくったという、なんたらデザイン賞受賞のこのビルだが、そんな姿が鑑賞できるのはビルの南面だけ。
 日本橋の側から見える北面はただの裏側。デザイン性など微塵もない無表情で巨大な四角い壁。なんたらデザイン賞の審査員は、写真や模型を眺めるだけでなく、実際にこのビルの周囲を歩いてみたのだろうか?
 北風に帆をふくらませながら“水辺空間”にその寒々しい背中を向けて遁走しようとするこの帆船。水辺に向き合うまちづくりなんて、ちゃんちゃらおかしく、付き合いきれないってことなんだろう。いや、そもそも、そこに川が存在することなんて、このビルのデザイナー(六本木ヒルズのデザインもこの人、かなり遠方にお住まい?)は知らなかったからだと私は信じたい。じゃなきゃ、あまりに性質が悪い冗談だ。

被害担当艦としての首都高
 日本橋界隈にあふれるこれら数々の襤褸に人々の目が向かないよう、景観破壊の汚れ役をひとりで引き受けてくれてるのが首都高の高架だと思った。本当にけなげだなぁ。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005/12/14

ワン・コイン古文書講座、始まりました。

 先週の土曜、ワン・コイン古文書講座の第一回が開かれました。
 私も会場でお手伝いさせていただきましたが、予想を上回る多くの方にお出でいただき、講師をつとめられた高尾善希さんともども、大変喜びました。

 さて、次回は2006年1月14日の土曜日午後の予定で、私が講師を担当させていただきます。正式なご案内は近く高尾善希さんのブログに掲載されると思いますので、そちらをご覧ください。
 たくさんの方のお出でを心からお待ちいたしております。もちろん、第一回に出席されなかった方も大歓迎です。
 以下、当日の講座内容に関する私からの予告です。

タイトル:江戸を読み解く
 巨大都市江戸の町はどのようなところだったのか。古文書の読解とあわせて、町の絵図などに書き込まれたくずし字を読みながらの絵解きもしたいと思います。
 当日は、皆さんの前に、江戸の町並みが鮮やかに甦る、そんな講座となるよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005/12/13

お江戸日本橋と都市景観その6

日本橋 みちと景観を考える懇談会
 日本橋の再生事業に関係する組織はいくつかあって、それら組織のどこを検討の対象とすべきか迷うが、とりあえず今回は「日本橋 みちと景観を考える懇談会」を選んでみた。「学識経験者、地元有識者、国土交通省、東京都、中央区及び首都高速道路公団による懇談会」、だそうで、昨年には、日本橋再生プランのコンペなども主催した団体だ。

日本橋地域の現状と課題
 この懇談会のホームページ「日本橋地域のまちづくり」をのぞいてみると、「日本橋地域の現状と課題」なるページがある。当然、そこには、日本橋地域の景観をめぐる問題認識や課題がまとめられている、と思いきや、それは大間違い。この「現状と課題」のページに列挙された項目は次のとおり。
 「オフィス集積度、金融集積度、用途地域等、土地利用の現況、建物構造等、借地権割合、都心主要オフィスエリアにおける空室率の推移、オフィス募集賃料の推移、オフィスビルの立地ニーズと現状の課題、路線価図の比較、日本橋周辺の主な開発状況、地下鉄駅降客数、日本橋地域在住者数」。

 あれれっ?ここには景観の“け”の字も出てこない。会の名称である「みちと景観を考える」とは、おそらく、主に首都高の移設問題と日本橋地域の都市景観について考えるってことなんだろうな、と思ったのに。変だなぁ。

 「都心主要オフィスエリアにおける空室率の推移」の項目をみると、「日本橋地域のオフィス空室率は、1999年9月時以降は改善傾向にあり、2001年9月時点では、約半分程度となっている。しかしながら、丸の内地域や西新宿地域等と比較すると、依然として、かなり高いオフィス空室率であることがわかる。→高いオフィス空室率」と記されている。
 次に「オフィス募集賃料の推移」という項目を見ると、オフィス賃料のデータが示された上で、「オフィスの募集賃料は、全体的に低下傾向にあり、日本橋地域の賃料は、西新宿と同程度となっている。また、東京駅を跨いで反対側に位置する丸の内周辺と比較すると、約半分の賃料であることがわかる。→オフィス賃料の低下」という説明が付されている。
 「路線価図の比較」の項目では、「また容積率等が異なることから、路線価を他地域と一概に比較することはできないが、丸の内、銀座、青山といった地域と比較した場合、丸の内、銀座よりも、路線価はかなり低くなっている。→周辺地域と比べ低い路線価」と書かれている。

 以上、「日本橋地域の現状と課題」というページに表れているのは、オフィスビルなどの不動産的価値をなんとかして高めていきたいという人々の金銭的欲望やら、丸の内・銀座・西新宿などの都心他地域に向けられた嫉妬心やらである。(つづく)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/12/05

お江戸日本橋と都市景観その5

日本橋再生運動の不思議

 前の記事に書いたとおり、日本橋の再生運動を積極的に推進している人々の多くには、一方で、首都高の高架を撤去して日本橋の景観を復活させようと主張しつつ、もう一方では、日本橋の街並みの伝統的景観を大きく破壊する高層ビルの出現には反対しない、という不思議な矛盾がみられる。むしろ、それら高層ビルの誕生を喜び、今後、同様のビルが増えることを待ち望んでいる人も多いようである。
 さらには、日本橋の景観を復活させるといいながら、日本中の、いや世界中のあちこちで増殖している、ありきたりの親水公園を、日本橋川筋にも複写しようというプランが歓迎されたりしている。言うまでもなく、歴史上、そのような公園が日本橋川に作られたことはない。この地にかつてなかった、没個性的景観の創出が計画されているわけだ。

 これらの状況をひととおり考え合わせると、現在展開されている日本橋の再生運動の大筋は、日本橋周辺の歴史的景観を再生しようとするものではないことが分かる。

日本橋の何を再生したいの?

 では、日本橋の再生運動とは、いったい、日本橋の何を再生しようという運動なのだろうか。

 むろん、日本橋の再生運動に携わる多くの人々をひとくくりにして扱うことはできないであろう。各自、日本橋の何を再生しようとしているのか、意見の相違があるだろう。
 ところで、この再生運動の推進主体のひとつに、地元住民や企業、関連するお役所などが官民一体となって作った組織があるようだ。そこで、こうした組織の広報などに示された見解やスタンスを素材に、この運動は日本橋の何を再生しようとしているのか、検討してみよう。(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/11/25

お江戸日本橋と都市景観その4

経済優先から景観優先へ?
 日本橋の上空をふさぐ首都高の高架を撤去すべきだと主張する人は、おおむね、この事業は、これまでの経済優先の町づくりから、景観という文化的価値を優先した町づくりへの転換を象徴する、画期的な事業だという。だから、巨額の費用も惜しくないと。

日本橋通りのスカイライン
 そういう景観重視の人は、日本橋の北詰に立って、神田方向に目を向けるといい。左斜め上空を、新築の超巨大な高層ビルがふさいでいる。次に、橋の南詰に移動して、銀座方面を見るといい。やはり左斜め前方に、ガラスで覆われた壁面がやたらピカピカして目に障る高層ビルが立ちはだかっている。
 かつては、建築物の高さが31メートルに制限され、統一的なスカイラインをつくっていた日本橋通りにあって、南の方のピカピカビルは高さ約120メートル。北の方の巨大タワービルは、なんと、高さ約200メートル。めちゃくちゃでしょ?

容積率緩和と都心再開発
 このような法外な高層ビルの出現を許したのは、例の容積率緩和政策である。この政策の主たる目的は、都心部再開発の促進による経済の活性化。
 経済優先の町づくりから、景観重視の町づくりへ転換することを主張する人は、もちろん、経済優先主義の権化であるこれら高層ビルを見逃すはずはなく、首都高の高架撤去と同時に、これらビルの撤去をも主張してるに違いない、と思ったが、そうした主張は全然聞こえてこない。
 あれれ、変だなぁ。見落としているのかな。
 二つの高層ビルを建てた大手不動産会社が、その一方で、景観再生を掲げて日本橋の上の高架撤去運動を熱心に後押ししているという自己矛盾については、まあ、商売人のご都合主義だと思えば、かろうじて愛嬌も感じられる。
 私が理解できないのは、かつて、容積率緩和政策の問題点を舌鋒鋭く指摘していた都市計画や建築の専門家たちが、この日本橋再生事業に対しては、表立った批判をこれまで展開していない点である。むしろ、一部はこの事業に協力しているようにも見える。まあ、これも愛嬌かな。

やっぱり醜い?
 ちなみに、私は、景観優先主義者ではない。街並みのスカイラインなんて、がたがたで構わないし、交通の安全さえおびやかさなければ、電柱がたくさん立っていても平っちゃらである。
 そして、われわれの生活を支えてくれる公共的建造物が日本橋の上を覆っている光景をみて、それが許せないほど醜い景観だとも思わない。
 一泊何万円もする超高級ホテルやら、外資系の巨大金融機関のおしゃれなオフィスやらがみんなの空をふさぐ景色よりは、いくぶん“美しい”気もするんだけどな。(もう少しつづく)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/11/21

お江戸日本橋と都市景観その3

親水公園の複写
 日本橋の景観再生プランなるものをいくつか眺めてみると、多くの場合、日本橋川筋に河川敷の遊歩道を設けている。ところが、歴史上、日本橋川筋に河川敷の遊歩道などが存在したことは一度も無い(はずだ)。
 つまり、これらの再生プランは、歴史的な景観を復元するものではなく、日本橋周辺に新規の親水公園を造成しようとしているわけだ。
 しかも、それらプランに添えられたマンション広告風の「完成予想図」をみると、今、日本中で増殖している、地域の歴史やら特性やらを無視した、水と緑の親水公園なるもののコピーが、そこにはしばしば描かれている。
 あるいは、ソウルの清渓川や大阪の道頓堀川のコピーというべきか。
 どこに行ってもそっくり同じコンビニの店構えみたいだね。

都市再開発事業の複写
 さらには、その公園整備にともなって川沿いのビル再開発がなされたとして、そこに生まれるのが、六本木ヒルズやら汐留みたいな空間だとしたら、それはもうまるで悪い冗談だろう。
 粗悪な大名庭園やら停車場の模造品が言い訳みたいに添えられて、あとは似たり寄ったりの商業ビジネス空間が広がるそれら都市再開発区域の、日本橋は何番煎じになるのだろうか。

ハコモノ行政?土建行政?
 別に私は、日本橋周辺に、かつては存在しなかった親水公園の典型風景が創出されたり、没個性の再開発事業が行われたりすること自体に、強く反対するつもりはない。
 ただ、それなら、これらプランは、単に、新しい景観づくりとか環境整備事業とか名乗ればいい。歴史や伝統の復元だとか再生だとか名乗るのは、少々恥ずかしくはないのだろうか。
 また、数千億円(そのうちの半分くらいは都民の税金?あとは首都高の料金収入?まさか、国のお金は使わないよね?)ものお金を使って、首都高の高架撤去という、再開発前の整地作業をしてくれてやることは、あまりに無駄だし、不当だとも思うのである。
 そして、首都高の高架撤去は、そのまま、地下か別の場所かでの首都高建設事業である。関連業界としては、よだれの出るような事業なんだろう。かたちを変えたハコモノ行政だという、五十嵐太郎の指摘は正しいように思える。いやいや、ウケが悪くなった「経済効率」の代わりに、「歴史」とか「伝統」とかを謳い文句に掲げた土建行政なのかもしれない。(つづく)

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/11/19

お江戸日本橋と都市景観その2

 日本橋周辺の首都高の高架を撤去して、歴史と伝統の都市景観を再生しようという運動に対して、疑問を投げかける数少ない論者が建築家の五十嵐太郎だ。
 首都高の高架がある都市景観を、無条件にみにくい景観としてしまってよいのか?場所によっては(あるいは今から何百年後には)首都高の高架(あるいはその廃墟)が生む景観美もあるのではないか?これが五十嵐の疑問だ。大筋で私も同感。
 で、五十嵐は、こうした疑問をもとに、高架撤去事業について、これはかたちをかえたハコモノ行政であり、それにあえて超巨額の費用を投じる必要性がない、と主張する。また、誇るべき「歴史と伝統」の再生を訴える人々の声の中に、ナショナリズムとの共鳴をききとっている。(つづく)
  参照文献:五十嵐太郎「日本橋と首都高」 
  (吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』紀伊国屋書店、2005年)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/11/11

お江戸日本橋と都市景観

日本橋の景観を取り戻せ!?

 今、東京都心は、あっちもこっちも都市再開発事業の花盛りみたいだ。
 たとえば、東京駅の西では、三菱地所が、自分の庭である丸の内のリニューアルにいそしんでいる。一方、駅の東、日本橋を中心とする地域では、三井不動産がとても元気。日本橋三越の隣にある三井本館のそのまた隣には、高層の三井タワーが出現した。
 この日本橋地区において、地域再活性化の目玉になる可能性ががぜん高まってきたのが、日本橋周辺の景観再生である。

みにくい景観?

 現在の日本橋は、橋の上を覆うように、首都高速の高架が走っている。この風景(ここここをご覧下さい)は、しばしば、現代日本の、みにくい都市景観の代表例として扱われてきた。歴史と伝統のお江戸日本橋を、経済効率優先の象徴ともいえる首都高が押しつぶさんとしている、という図式だと説明されると、なるほど、誰にでも分かりやすい。
 そこで検討されているのが、日本橋川筋区域の首都高の高架を撤去しようという計画である。高架を撤去された首都高はどうなるか、というと、地下に潜らせるとか、あるいは、川沿いに連築したビルの内部を貫通させるとかいった代替策が出されているらしい。

無駄なんじゃなかろうか?

 なんで今更そんな大工事が必要なのか、私にはまるで理解できない。高架を取り去ったからといって、「歴史と伝統」の日本橋の景観が復活するわけでもなかろうに。
 疑う人は、日本橋三越前あたりに立ってみて、目の前に掌をかざし、首都高の高架部分だけを視界から隠してみればいい(実際、この前、私はやってみた)。そこにあるのは別に珍しくもない、川岸いっぱいまでビルが建てこみ、道には車があふれているといった、どこにでもある日本の都市の風景だ。
 あるいは、日本橋の上まで行って頭上を見上げる。そこで一瞬目を閉じて、そこに高架が無い状態を想像してみるといい(これも実際やってみた)。両岸のビルの間に、狭い空が見えるだけのことだ。仮に、その空に見とれることができたからといって、あまり長い間、頭上ばかりを見つづけない方がいい。うっかりよろよろと歩道をはみ出して、橋の上をビュンビュンと通過する自動車にはねられてしまっては馬鹿らしいから。

 そんな「景観再生」とやらに何千億以上の金を浪費するのは、やっぱり止した方がいいよ。

 半分皮肉で提案するけど、どうせ金を使うなら、今の日本橋を壊して、江戸時代みたいな木でできた日本橋を復元してみたら?首都高の高架からは照明をあてて夜間はライトアップしたら、さぞかしきれいだろう。どこぞの博物館のレプリカよりは見ごたえがあると思う。もちろん、車は進入禁止。で、この橋周辺を、江戸時代っぽく、テーマパーク風の整備をする。日光なんとか村よりはかなりいいセンいくんじゃないかな。観光の目玉としては、そこそこ使えるんじゃなかろうか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/06/21

巡見~江戸を縦貫する18 来月もやります

来月、7月9日の土曜午後に、本年度の巡見「江戸を縦貫する」後編を実施します。
この巡見の趣旨は、ここここをご覧下さい。

7月9日は、浅草橋周辺の玩具その他の問屋街、神田の繊維問屋街、江戸のメインストリート本町通りの現況、三井本館、日本銀行あたりを歩く予定です。江戸橋広小路のあとを通って、東京証券取引所へ行くかも知れません。江戸城本丸は次回(秋ぐち?)へまわそうかなと思っています。

その次回は、江戸城本丸の天守台から眼下の大奥御殿跡地を見下ろしたあと、地下鉄でふたたび三ノ輪に戻り、遊女の投げ込み寺、浄閑寺や吉原へ行ってみるのもいいかなと。あるいは、赤坂アークヒルズと六本木ヒルズの歩き比べとかに回ろうかな。

以下、業務連絡ですが・・・
川村学園女子大・都留文科大学・日本大学の学生さんで、今年は、僕の講義をとっていないけど、巡見には行きたい、という人がいましたら、このブログのプロフィールのページへいけばアドレスがありますから、そこへ自分の所属や名前を書いたメールを送ってください。巡見の詳細が決まり次第、ご案内を送付いたします。昨年の巡見出席者で今年もまた行きたい、という人も歓迎しますよ。
私が受け持っている(受け持っていた)学生さん以外の、学生さんや一般の方で、この巡見に興味があり、ぜひ一緒に歩いてみたいという方は7月2日までにメールください。相談しましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/30

巡見~江戸を縦貫する17 浅草寺vs寛永寺 

寛永寺の台頭

 家康・秀忠・家光の将軍家三代にわたり、その相談役として権勢ふるったといわれる、「黒衣の宰相」こと天海は、上野の山に壮大な寺院を建立します。
 秀忠の代に用地の準備などの建立事業が始まり、家光の代になってその寺は完成しました。これが、東の比叡山こと、東叡山寛永寺です。
 まずは天海が山主となりますが、のちには皇子を山主として上野に迎えるようになります。輪王寺宮を称することになったこの宮様山主は、併せて比叡山・日光山の山主を兼帯しました。こうして東叡山寛永寺は、天台宗の最高権威をトップに頂く寺となりました。
 当初、寛永寺は徳川家の菩提寺ではなく、祈願寺でしたが、家光は、その死後、葬儀を寛永寺で行うように遺言して亡くなります。つまり、寛永寺は将軍家の菩提寺としての扱いを受けることになります。
 これに反発したのは、それまで菩提寺として遇されてきた増上寺です。江戸入府以前から浄土宗の檀家であった徳川家は、江戸での菩提寺として、やはり浄土宗の増上寺を選んでいたのです。
 結局、家光の葬儀は遺言どおり寛永寺で行われます。それ以降の将軍の葬儀は、寛永寺と増上寺とが分け合うようになりました。


寛永寺vs浅草寺

 寛永寺の台頭によってその地位をおびやかされたのは、上記の増上寺だけではありません。むしろ、寛永寺と同じ天台宗に属する浅草寺にとって、問題はより深刻だったかもしれません。浅草寺の場合、宗派内での序列からすると、天台宗を統べる輪王寺宮をいただいた寛永寺に従属するかたちにならざるをえないからです。
 中世以来の伝統勢力である浅草寺と、かたや、新興とはいえ将軍家の後ろ盾もあって絶大な権力をもっている寛永寺との勝負は、五代将軍綱吉のときに決着します。
 貞享2(1685)年8月6日、浅草寺別当の忠運は、突然、浅草寺を追放され、下総国で隠居することになりました。以後、浅草寺の別当は、他でもない、寛永寺の輪王寺宮が選任することになります。さらに、後になると、輪王寺宮自身が、浅草寺の別当をも兼帯するようになります。むろん、輪王寺宮自身は寛永寺に居ますから、輪王寺宮が派遣した別当の代理が浅草寺の本坊に入り、同寺中を統轄することになりました。
 こうして、とうとう、浅草寺は寛永寺の支配下に置かれたのです。別当忠運追放の原因としては、浅草寺中において犬が殺され、それが折からの生類憐れみ令に触れたからという話と、忠運が輪王寺宮に対して、浅草寺と寛永寺の序列をめぐる本末訴論をしたからという話が伝えられています。事件後の推移をみると、浅草寺と寛永寺との抗争が主な理由であったと考えるのが自然かもしれません。


伝法院の起立

 寛永寺支配下の浅草寺において、いわば寛永寺の出張所となってしまった本坊は、それまでの知楽院から、伝法院へと改称されます。
 私のような素人からみると、伝法院ってのは、なかなかすごいというか、横柄なネーミングのように感じてしまいます。征服者が被征服者に対し、正しい「法」を伝えてやるって感じです。実際のところ、そんな意味はないのかな?
 ともあれ、以後、明治維新にいたるまで、浅草寺は長く寛永寺に服属した状態が続きます。そして維新をむかえ、やっと寛永寺の軛から逃れた浅草寺を待っていたのは、先に書いた、境内地の没収という新たな苦難でした。
 戦後、そんな苦境から脱して観光客・参拝客で賑わう浅草寺において、周囲から隔絶されそこだけ静寂を保つ伝法院の姿。

 本堂から伝法院へと進んできた我々巡見一行は、伝法院の角を右へ曲がり、盛り場浅草の中心へと向かいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/28

巡見~江戸を縦貫する 番外・浅草

 今夜のTBSドラマ「タイガー&ドラゴン」は、面白かった。話の下敷きになる落語「猫の皿」が、すごくうまくはまっている。感心。

 伊東美咲のキスシーンもなかなか良い。実を言うと、それほど好みの女優さんではないが、シーンの設定が心憎い。あれなら誰がみても、可愛いって思うだろう。クドカンはさすがやね。

 それはともかく、このドラマにでてくる浅草の街の雰囲気がなかなかリアル。思うに、最近の浅草ってのは、テーマパーク的な印象が強い。近代東京レトロっていうか、なんていうか。そのテーマパークっぽさが、このドラマの浅草風景として、よく表れていると思う。浅草が最近、人気を取り戻しつつあるのも、そんなテーマパークっぽさが受けているからではないかと思う。

 20年余り前、予備校の寮が千葉にあり、そこからオールナイトの映画などを観に、浅草へちょくちょく通った。その頃の浅草は、本当に寂れた街だった。通りの脇にあった植え込みの枯れ枝が、風に吹かれて丸い塊になり、道をコロコロ、カサカサ、転がったりしていた。その時分は、街の古くささが現在のレトロ的、テーマパーク的面白さを生むには、まだ時期が早すぎて、そこは単なる時代遅れの盛り場だった。あちらこちらで、バブル景気が「下町」の風景をむしばんでいた。
 「タイガー&ドラゴン」が現在の浅草風景をうまく取り込んだドラマなら、当時の浅草をよく表しているのが、山田太一原作で大林宣彦が監督した映画「異人たちとの夏」だ。現代版牡丹灯籠みたいな怪談のこの映画は、殺伐とした都会の人間関係に疲れた男が、浅草で幼い頃に亡くした父母(幽霊)と再会し、その父母が暮らす幻の古アパート(本当はすでに取り壊された跡地)へ通いつめるというお話。
 もし、浅草ファンで、まだこれらドラマ・映画を観てない人は、ぜひご覧下さいな。「異人たちとの夏」のすき焼き今半のシーンはいつ観ても泣いてしまう。

 ついでに、「タイガー&ドラゴン」の噺家世界に興味を持った人は、こちらの映画もどうぞ。森田芳光監督の「のようなもの」。忘れられない映画です。なんとなく、研究者世界にも通じるかな。そうそう。「異人たちとの夏」も「のようなもの」も、秋吉久美子だね。これまた、私はそれほど好みではないが、映画の中では素晴らしく良い。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/05/26

巡見~江戸を縦貫する16 栄光の浅草寺

浅草寺境内の賑わい

 「浅草寺の闘い・近現代編」の回では、明治初年の境内地没収から戦後の公園地指定解除にいたるまでの、浅草寺の“失地回復の闘い”を簡単にまとめてみました。今回は、時代を遡り、江戸時代の浅草寺について少し書きます。
 現在の浅草寺境内へ、その北東の隅から入った我々巡見の一行は、先に書いた“お寺のアパート”ゾーンを抜けて、三社さまこと浅草神社の裏を通り、本堂の方へと向かいます。先週末に実施した今年の巡見の日は、ちょうど三社祭にあたったため、境内には所狭しと露店が出ていました。
 そんな露店群を眺めつつ、私としては、例えば、それら露店の地代は最終的に浅草寺のフトコロへ入るのでしょうが、それまでにどのような人々の手を介してまとめられていくのだろうか、といったようなことが知りたくてしょうがない。そんな私の思いとは別に、買い食いしたくてウズウズしている学生さん。醤油やソースの焼ける香ばしい匂い、あるいはバニラエッセンスの甘ったるい香りが押し寄せてきます。まあ、仕方ないですよね。「はぐれて迷子にならないようにササッと買ってくるならいいよ。」と言ったのが運の尽き。あっさりと迷子発生。携帯のおかげで再会できましたが、すごい人ごみで少々難儀しました。
 迷子さんたちとの再会の場には、本堂の先、仁王門の下を指定。ただし、門の下も人でいっぱい。それでもなんとか合流して仲見世・雷門の方へと進みます。少し行くと、左には有名な揚げ饅頭屋さんなどが並ぶ仲見世が大にぎわい。


静寂の伝法院

 ところが、その向かいには、界隈から隔絶した静寂な空間があります。そこに江戸時代そのままのたたずまいをみせている建物は、伝法院です。一部の建物は戦災で焼失しましたが、それでもなお江戸時代の建物が院内には多く残っています。
 このように、現在も周囲から隔絶の観の伝法院ですが、江戸時代の浅草寺中にあっても、伝法院は別格といってよい存在でした。伝法院はなぜ別格なのか?


栄光の浅草寺

 浅草寺創建の年代については諸説がありますが、奈良時代にまで遡ることができるという説も有力です。いずれにせよ、徳川家康が江戸に城下町を建設する以前から、浅草寺は東国の観音信仰の中心としてこの地で多くの参拝者を集めていました。門前町も繁栄していたと考えられます。
 江戸時代の初期、浅草寺を統轄する別当=本坊の住職は、観音院・知楽院を号します。江戸期第一世の別当である忠豪、二世の忠尊、三世の忠運は、いずれも、後北条氏配下の武将の遠山氏・伊丹氏の血を引いています。つまり、関東における戦国期以来の名門につながる高僧たちが、代々、浅草寺別当の地位を継いでいたのです。
 そんな伝統的勢力である浅草寺に対して、「新参」の他所者、徳川幕府は、当初、十分な敬意を払っていたようです。家康は、浅草寺を徳川家の祈願寺とします。ちなみに、菩提寺として選んだのは、芝の増上寺でした。二代将軍秀忠も、家康同様、浅草寺を厚遇していたようです。
 
 こうした浅草寺の隆盛に陰りがさし始めるきっかけは、三代将軍家光の時代に生まれました。そして、そのことが、伝法院の成立に深く関わってきます。
 続きはまた次回に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/24

巡見~江戸を縦貫する15 今年も行きました

 この「江戸を縦貫する」シリーズは、昨年晩秋に実施した巡見の記録というかたちで書き進めています。本シリーズはまだ途なかばの状態ですが、先週末、私の今年の講義を聴いてくれている学生さんに呼びかけて、また同じ巡見に行きました。コースも昨年と同じです。三ノ輪の投げ込み寺からスタートし、吉原のソープ街、山谷のドヤ街、浅草新町、浅草寺、合羽橋道具街などを歩きました。ちょうど三社祭にあたって、賑やかな浅草界隈でした。

 近いうちに2回目をおこなって、後半のコース、浅草橋玩具問屋街、神田繊維問屋街、本町通り、三井本館、日本銀行、東京駅、丸ノ内オフィス街、江戸城本丸跡(東御苑)などを訪ねる予定です。

 この巡見の目的は、それぞれ個性的な都市の部分社会の存在を、見て確かめることにあります。ソープランドの玄関からちょっと店内をのぞき見たり、そびえたつ三井本館の石壁をペタペタ叩いただけで、その中身が理解できるわけではないのですが、ただ、東京の都市社会が相異なる個性的な部分社会のモザイクで出来上がっていることだけは納得できると思うのです。実際に自分の目で見る、という経験は本当に強烈です。
 その結果、私たちの社会が、ニュース番組の街頭インタビューに頻出するような、新橋駅前のサラリーマンと有楽町で買い物する主婦だけから出来ているわけでないということを実感するはずです。さらには、自分が属している集団(ゼミのメンバー、サークル仲間、家族、バイト先のスタッフなど)を相対化して把握する必要性を感じるはずです。

 一緒に歩いてくれた学生さんたちが、どんな感想をもったのか、楽しみ半分、不安半分ですが、今後、彼ら彼女らが、それぞれ色んな場面で、「私たちの社会は・・・」とか、「日本社会とは・・・」とか口にした瞬間、その脳裏に浮かぶのが、「一般市民」とか「普通の人々」とかのボンヤリした幻像ではなくて、今回の巡見で出会ったさまざまな街並みと、そこで生きる多様な人々の、クリアで具体的な映像であってくれればいいなと思います。

 夏までに「江戸を縦貫する」のコースが完了すれば、その後は、また別の場所へ行ってみたいと思います。六本木ヒルズと赤坂アークヒルズを見比べてみるとか、新大久保のコリアンタウンとか、渋谷の松濤と円山町とを歩くとか。学生さんたち、よろしくおつきあいくださいませ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/20

巡見~江戸を縦貫する14 消えた公園風景

 現在、建っている浅草寺の本堂(観音堂)は、昭和33年落成の鉄筋コンクリート造りです。江戸時代初期に建てられた前の本堂は、残念ながら戦災で焼失してしまいました。炎に包まれ焼け落ちる本堂をみて、浅草寺の関係者はどれほど辛い思いをしたことでしょう。


消えた公園風景
 
 ところで、現在の本堂が誕生する裏で、消え去っていった浅草の風景がありました。浅草の古い写真などをみると・・・たとえば、有名な浅草十二階(凌雲閣)の写真には、しばしば建物の手前に大きな池が写っています。明治期に造成された大池・瓢箪池です。

 昭和26年10月、公園地の全面的な解除を勝ち取った浅草寺が、元公園地内で最初にてがけた大きな事業が、この大池・瓢箪池の売却でした。この事業の背景については、浅草寺が本堂落成の年、昭和33年に刊行した『昭和本堂再建誌』に、次のように記されています。
 「(公園地)解除返還のあかつきには純粋に境内地として必要な部分を除いて、すでに東京都が貸付けていた土地および境内地として重要でない部分を処分して、一大娯楽地に提供し、その代償によって本堂再建の自己資金に充てようという案で、通称六区のひょうたん池、実は四区大池も埋立てる予定であり、これは当時の住職大森亮順大僧上の英断によるものであった」。
 つまり、池なんぞ、浅草寺にとって必要ないから、それを売っ払い、そうして得た金で立派な本堂を建てよう、というのが大池・瓢箪池売却事業のねらいのようです。こうして池のある区画は東宝その他が買収し、池は埋立てられ、跡地には映画館や娯楽施設が建てられます。これら施設にもその後、変遷があり、今の場外馬券売り場WINDSの場所が、かつての大池の北半分にあたります。
浅草寺はこうして手にした資金でもって本堂再建を推進。昭和27年4月には上棟式がおこなわれ、33年10月の完成にいたります。


「大池無残」

 ところで、この大池・瓢箪池の売却に対して、浅草を愛する人の中には複雑な思いを抱いた人も少なからずいたようです。昭和41年発行の『台東区史 社会文化編』も、「大池無残記」という見出しを付し、浅草寺に対する批判的なニュアンスを色濃くにじませた記述で、この売却事業を紹介しています。

 私、個人的には、まあ、浅草寺の気持ちも理解できるかな、って感じです。宗教者ってのは、たいてい、大きな建物が好きみたいだしね。お参りに行く人だって、建物がでっかい方が、なんとなく、ありがたみを感じるし。
 自分の土地を勝手に公園地にされて、さらには池まで掘られちゃった浅草寺の人々にしてみれば、その池に対する愛着など持ちようもなかったんでしょう。

 さて、浅草公園が廃止され、自由に処分できるかたちの巨大な資産を浅草寺が我がものとしたのは、上に書いたとおり、昭和26年のことです。ただし、その前年の昭和25年には、公園廃止方針はほぼ固まっていたようです。
 そんな時期、浅草寺はもうひとつ、大きな動きをみせます。25年8月、浅草寺はそれまで所属していた天台宗を離脱して、独自の宗派、聖観音宗を設立しました。なぜ、このタイミングで浅草寺が天台宗を離脱したのか。それがよくわかりません。浅草寺側のコメントでは「宗制上の複雑な事情」とか「全く止むなき種々の因縁」によるんだそうですが・・・。
 いったい、どんな「複雑な事情」があったんだろうか?本当は、すごく単純な話だったりしないのかな。当時の新聞や雑誌の記事をさがせば、色んな「裏話」もみつかるのかもしれません。まあ、いつか機会があったら調べてみよう。

 次回は「浅草寺の闘い・近世編」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/16

巡見~江戸を縦貫する13 浅草寺の闘い・近現代篇

浅草公園の誕生

 江戸時代が終わり、明治になると、殿様たちは自分の領地を失いました。同様に、江戸時代、幕府による保護を受けていた浅草寺も、その領地を没収されました。さらには、広大な境内地も没収されます。
 こうして没収された浅草寺の境内は、明治6年になると、公園地の指定を受けます。上野寛永寺や芝増上寺の境内も同じ運命をたどっています。
 ただし、公園といっても、浅草寺の境内地には、江戸時代以来、たくさんの家や露店が建てられていました。そこからあがる地代は、浅草寺にとって貴重な収入となっていたのです。その境内地が公園地指定をうけて東京府管轄の浅草公園が誕生するわけですが、東京府も、家々や露店を追い出したりせず、公園借地料を取り立てていきます。こうして東京府が手に入れた多額の借地料は、浅草公園のみならず、府下の公園整備に広く活用されたようです。このような公園整備方針のもと、江戸時代以来の盛り場浅草は、さらに繁栄を続けることになります。


浅草寺の闘い

 一方、貴重な財源を失った浅草寺の経営は窮乏化していきました。その浅草寺を救うきっかけとなったのが、明治32年の国有土地森林原野下戻法でした。詳細は省きますが、要するに、寺院の境内地などは本来私有地であって、これを明治初年に没収したのは誤りであり、返却すべし、ということになったのです。これをもとに浅草寺は境内地の返還をもとめて行政訴訟を起こし、明治44年、見事勝訴します。
 しかし、この勝訴でもってただちに浅草寺のフトコロが潤うことにはなりませんでした。東京市が公園地の指定を解除しなかったからです。東京市が浅草寺から無償で土地を借りて浅草公園を保持するという状態が続くことになりました。浅草寺は、せっかく取り戻した自分の土地なのに、それを自由に活用することができなかったのです。もちろん、浅草寺はこれに反発します。東京市を相手に、公園地指定の解除を要求しつづけます。
 その後の部分的な公園地指定解除を経て、この闘いが最終的に決着するのは、戦後、昭和26年秋のことです。東京都は浅草公園を全面的に廃止しました。

次回は
 ところで、浅草公園の廃止方針が固まりつつある、ちょうどその頃、浅草寺は、もう一つ、別の動きをみせます。天台宗からの離脱、聖観音宗の設立という、所属宗派をめぐる大きな変化です。次回は、浅草公園最末期の変貌や、浅草寺の天台宗離脱などについて書きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/18

巡見~江戸を縦貫する12 浅草寺の宗派はどこ?

分離独立
 
 さて、ここで問題です。現在、浅草寺はどの宗派に属しているでしょうか?

 江戸時代、浅草寺が上野寛永寺と深い関係にあったことを知っている人は、天台宗って答えるかもしれませんね。でも正解は、天台宗ではありません。

 浅草寺は、独自の宗派「聖観音宗」を自分で立ち上げています。ただし、「聖観音宗」ができたのは昭和25年のことで、それ以前、浅草寺は天台宗に属していました。その天台宗から分離独立して「聖観音宗」を作ったというわけです。

 千数百年の歴史を持つという浅草寺も、現在の宗派の歴史という面からみれば、新興宗教と言えるのかもしれません。

 現在、「浅草寺」を中心に、たしか24ヶ院くらいの子院がまとまって、“グループ浅草寺”=「聖観音宗」を構成しているようです。そのうち、2、3ヶ院をのぞいた子院20ヶ院余りがまとまって“入居”している僧坊が、前回の記事で紹介したお寺のアパートです。

浅草寺の「受難」史

 ところで、江戸時代、将軍綱吉がかの生類憐み令を出した頃から、この「聖観音宗」ができる昭和20年代なかばまで、浅草寺は250年以上の長きにわたって「受難」の歴史を歩んだとされています。

 次回は、その浅草寺「受難」史のうち、明治維新期から戦後昭和20年代なかばまでの流れをおおまかに紹介します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/01

巡見~江戸を縦貫する11 浅草寺・お寺のアパート

 巡見の一行は、浅草新町をあとにして浅草寺へと向かいます。

猿若町
 まず山谷堀跡を渡り、かつての猿若町を抜ける。猿若町は、天保改革のとき、それまで江戸町方中心部にあった芝居が強制移転させられた先です。明治になると再び芝居は転出していきます。この天保の強制移転と同時に猿若町という地名も生まれました。
 まったくの余談ですが、以前、年代が不明な何枚かの江戸図がいつ作られたのか推定していくという作業をしたことがあります。その際、いくつか設定した指標のひとつが、猿若町の有無でした。猿若町が載ってない地図は(地図屋さんの掲載し忘れじゃなければ)天保改革以前の地図、載っている地図は(この場合確実に)天保改革以降の地図ということになります。他にも、あちこちの埋立地や橋の完成年代なども年代推定の手がかりになります。


浅草寺へ
 そんな話はともかく、かつての芝居町の痕跡すら全然みえない猿若町を過ぎ、しばらく歩くと、浅草寺の裏手にたどりつきます。

 浅草寺の観光案内は巷にあふれています。この巡見では、そんな観光案内には出てこない、ちょっと変わった所で立ち止まってみることにしましょう。

 まずは、お寺のアパート。

お寺のアパート
 浅草寺裏手の一番東端の方、つまり、馬道通りと言問通りとの交差点に立ち、そこから西へ、浅草寺の裏口の方へ行く途中、歩道の左側につづく塀に開けられた木戸口のようなところから中へ入ってみましょう(浅草寺の表側、雷門方面からくると、ここはちょうど浅草神社の裏手にあたります)。

 ちょっと不思議な和洋折衷のデザインの3階建て(だったっけ?)の集合住宅が何棟か並んでいます。それらの建物に挟まれた細い路地を歩きながら、個々のお宅の玄関と勝手口に掛けられた表札をみると、それには「○○院」とか「△△院」とか書いてあります。勝手口の方の札には、丁寧にも「○○院勝手口」とある。そう、ここはお寺のアパートです。ただし、かなりの豪華アパート。脇には高級車も停まっています。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/12

巡見~江戸を縦貫する10 地図から消えた浅草新町

江戸の古地図

 古地図を片手に江戸の名残を訪ね歩く人が増えている。そうした需要に応えてのことなのかもしれないが、近世期に発行された江戸図の複製や、それを盛り込んだガイドブックなどが数多く出版されている。以前は、印刷技術もそれほど進んでいなかったせいか、そうした複製をみたあとで、鮮やかに彩色された実物の地図にお目にかかると、作成されてから100年以上たっているにもかかわらず、複製をはるかに上回る実物の美しさに見とれたりもしたものである。ところが最近は、実物と比べて遜色のない複製本も売られるようになった。さらには、色の修正などが施されているせいか、実物よりも美しい(というか、刷り上がった直後の実物はきっとこんな感じだったのだろうというくらい鮮やかな)複製本も売られている。
 これらの地図に描かれた通りの一本一本、町名のひとつひとつを目で追っていると、江戸の町々が生き生きと蘇ってくる思いがする。
 しかし、そうやって蘇生することのない町がある。それは浅草新町である。

浅草新町の消去

 現在、「えた村 俗ニ新町ト云」などといった浅草新町の位置を示す原図の記載は、複製にあたって消去されることが一般的である。“部落問題”への配慮からである。同様の理由で複製にあたって地図上から抹消された文字は他にもいくつかある。
 そして多くの場合、そうした消去作業を施したという説明が複製図にはっきりと書き添えられることはない。それらの複製図の見事さに見とれていると、もともと、浅草新町などという町は、そこに存在しなかったかのようにも思える。というか、実際、浅草新町に関する歴史的知識がなければ、これらの地図を手にした人にとって、浅草新町という町は存在しなかったことになる。

寝た子は起こすな

 “部落問題”の解消のためには、寝た子を起こすな、という主張がある。差別の歴史や部落の位置などを、あいまいにしたり、隠したりし続けていれば、いずれ子や孫の世代では差別のことを知らない人が大多数となる。そうすれば差別は無くせる、というやり方である。逆に、地図などで部落の位置が知れ渡ると、差別が再燃する恐れがあるというわけである。
 今日、東京の町なかにはかつて被差別部落は存在しなかった、という俗説を信じる人が決して少なくないことを考えると、この寝た子を起こすなというやり方が、かなりの効果をもたらしたことは確かだろう。就職や結婚などをめぐる差別が減少しているのも確かであろう。一方、最近目立つのは、いわゆる“便所の落書き”的な嫌がらせの頻発だろうか。

常識

 相手の心を傷つける目的で行われるこのような確信犯的嫌がらせ自体を根絶することは、そもそも困難である。この場合必要なのは、社会一般が、そうした嫌がらせを愚かな“落書き”だと判断できるような“常識”を共有することだろう。
 また、こうした“常識”は、しばしば感情的で短絡的なものになりやすい“同和利権”をめぐる議論を、冷静かつ客観的に受けとめるためにも必須だと思う。
そんな“常識”を形成するためには、被差別部落に関するボカシのない歴史研究と教育を進める必要があるように思えるのだが。どうだろう。
 さらに一般論をつけくわえるなら、我々の社会が過去陥った愚行の数々については、その具体的な様相を知っておく方がよい。自虐的と呼ばれようがなんだろうが、それは絶対必要である。
 差別の問題だって、我々の社会は、差別の対象をときに交替させつつ、似たような愚行を、今日も将来も確実に繰り返す。
 そんなときに「ああ、俺たち、また似たようなバカやってるなぁ。」といちはやく覚醒するための“常識”は、ぜひ皆で共有しておきたい。差別に苦しむ誰かのためにも。そして、時や場所が変われば差別の対象となりうる自分のためにも。

 古地図の問題に戻れば、少なくとも部落解放同盟の中央本部は、かつての隠蔽方針から転換しつつあるみたいだ。江戸の古地図に浅草新町が復活する日はくるのだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/01

巡見~江戸を縦貫する9 山谷から浅草新町へ

山谷に泊まってみようかな 
 山谷の旅館街を歩いていると、観光旅行中とおぼしき外国人たちと何度かすれ違った。予約も不要で一泊2000円台の宿は、安くあげたい個人旅行者なんかにとっては魅力的だろう。出張のビジネスマンや受験生などの利用もあるという。そのうち自分も、浅草で飲んでて終電逃したら泊まってみようと思う。山谷にはバッハという名前の有名な喫茶店があって、コーヒーはめっぽう美味い。ここでモーニング・コーヒー飲んで帰るのも悪くない。
 初めて山谷に行ったのはもう20年くらいも前だ。それ以後、この町の雰囲気は確実に変わってきている。タコ部屋タイプの宿泊所は減ったような気もする。そして明らかに人影は薄くなってきた。ひとことで言えば、だんだんと枯れてきている感じ。
 こうして山谷が「枯れ」ていく一方で、現在の東京においては、新しい形態の“見えにくい”下層社会が、拡散しながら着実に拡大しているのだろう。

浅草新町 
 さて、巡見一行は、山谷をあとにして旧・浅草新町方面へと向かう。江戸の浅草新町は、関東の「えた頭」、弾左衛門の屋敷がおかれ、江戸において「えた」身分とされた人々が弾左衛門の支配の下で集住した場所である。南北に細長い浅草新町の中央をたてにメインストリートが貫通する。その北端が裏門で南端が表門。弾左衛門の屋敷はその表門寄りにあった。
 まず裏門があったと考えられる場所にたどりつく。そこから、かつてのメインストリートを表門があった方へと下っていく。現在、道の両側の景色は、この周辺他地域の“下町”風景と変わるところはない。皮革関連の町工場や商店がやや目立つ。

メインストリートを歩きながら考える浅草新町についての研究課題
 江戸の浅草新町に関する研究は、最近停滞気味に思える。特に関西、京都・大坂あたりのそれと江戸とを比べた場合、そう思える。新しく発表される研究論文の数も減っているように感じる。たしかに史料的には困難な条件も存在するだろう。利用しうるわずかな史料、それもすでに先行研究の手垢のついた史料をもとに新しい議論を組み立てるのは大変である。
 しかし、未検討の重要な論点も数多く残されているように思える。周知のごとく、浅草新町では皮革加工や燈心製造などの産業を基盤に活発な経済活動がみられる。こうした活発な経済活動の結果、本来の弾左衛門支配組織における上下関係とは異なったかたちの社会階層の分化が予想される。そうして近世段階で成立した階層分化は、近代の「解放」令以後の被差別部落のあり方にも当然大きな影響をもたらしたと考えられるが、実態は不明である。
以前、浅草新町の土地の売買証文(沽券)をいくつか読んだ。これら土地売買の背景には上に述べた経済活動と階層分化があったかもしれない。ところで、土地の売買は新町の居住者同士に限定されていたのだろうか?
 さらには、そうした証文を読むと、土地の売買にともなう役負担の移動が部分的だが確認される。浅草新町における「えた」の諸役とは、完全に人に付いた役だと勝手に思い込んでいたら、どうやら違うらしい。町人の役と同様、土地(屋敷)に付いた役かどうかという点についても議論が必要だと思う。これは身分論的には非常に重要な論点だと思うけど。すでに検討がなされていて、不勉強な私が知らないだけだろうか。詳しい方はご教示をくださいな。

 現在は閑散としたかつての新町のメインストリートを歩きながら、近世、この通りに人があふれ、その中を原材料や商品を積んだ大八車が行き交う光景を想像してみた。

※なお、この記事中にはいわゆる身分差別的呼称が含まれていますが、いうまでもなく、差別的意図や差別を助長する意図をもって用いたものではありません。歴史研究と身分差別の問題については、次号の記事(江戸を縦貫する10)で少し考えてみる予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/02

巡見~江戸を縦貫する8 隠蔽された山谷

西澤晃彦さん

ドヤ街山谷(さんや)について書かれた本はそれこそ山のようにあるが、私のおすすめは社会学者の西澤晃彦さんの『隠蔽された外部-都市下層のエスノグラフィー』(彩流社1995)である。
都市内の部分社会に注目し、「ズボンの尻を汚す」ことで、つまり対象に密着した実地調査をおこなうことで、部分社会ごとの実態を緻密に描き出していくシカゴ学派。現代都市社会が画一的・均質的なものであるという妄想・知的怠慢・想像力欠如を排し、シカゴ学派の仕事の価値を再び評価し実践する西澤さんの都市社会学には強い共感をおぼえる(そのうちファンレターを書こうと思っています)。
一方、現代社会について考える上で、吉原やら山谷やらの特殊社会に注目して何の意味があるの?なんて寝ぼけたことをおっしゃる“普通”やら“一般”やらを自認する方々に対しては、どうしようもないくらい対話の困難さを感じる。


山谷の戦後史

この西澤さんの本の第1章「都市下層の隠蔽―上野公園から寄せ場・山谷へ」からドヤ街山谷の形成史の要点を以下にまとめる。
山谷は戦前から木賃宿が集まる地域であった。戦後、昭和20年代はじめの上野「浮浪者」の狩り込みがおこなわれる。その際、東京都は、山谷および深川のかつての木賃宿経営者に、浮浪者収容用のテント・ベッドの貸し出しを実施する。それを契機に山谷は簡易宿泊所の集中する地域となり、様々な人を飲み込む街となった。この時点では、多様な都市下層の結節点としての寄せ場・山谷が成立する。しかし、その後、①山谷の人々の生活空間の限定-隔離の強化(山谷周辺地域における「立ちんぼ」寄せ場=青空労働市場の排除、山谷への限定)、②再分離・再隔離として売春婦(とそのヒモ)の山谷からの追放、③世帯宿泊者の分散移転(子どもたちを“救う”ため、家族で山谷に暮らす者たちを各地の都営住宅特別枠などへ分散収容する)。以上①~③によって、多様な都市下層の結節点・山谷はその姿を変え、男性の単身日雇い労働者の街へと純化させられたのである。こうして外部化され、治療され、無効化された山谷は、都市社会において隠蔽された存在となる。


再び吉原を振り返ると

そういえば、西澤さんは言及していないが、土手通りを挟んで山谷とは線対称の位置にある吉原も、現代において「純化」・「隠蔽」された地域社会だといえるだろう。この地にかつてあったエンターテイメントやグルメといった多様な要素は取り去られ、売春の街として純化していった。今日ソープランドの客と女性“コンパニオン”との間では、たいがい、事前・事後のちょっとした世間話などをのぞくと、基本的には性の売買がおこなわれるのみであろう。こうして吉原は、山谷と同様に(そして、何かと注目される新宿歌舞伎町と対蹠的に)、都市社会において隠蔽された存在となっていったのではないか。といったことを今ここで書きつつも、我ながら眉にツバしている。やっぱ、吉原の現代史研究は必要だ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/01/30

巡見~江戸を縦貫する7 山谷って聞いたことある?

受け持っているいくつかの講義で大学生諸君に尋ねてみた。「山谷って知ってる?聞いたことある?」 誰も知らなかった。もちろん、知ってたけど黙ってた、という人がいるかもしれないけど。


山谷の風景

さて、巡見一行は遊郭吉原をあとにして山谷へ向かう。
最初はアーケードがしつらえられた商店街。その商店街を抜けると、立ち飲みの居酒屋さん。まだ営業時間ではないらしいが、その前の路上に車座になって座り込み、酒をあおっているおじさんたち。「こんにちは。」と声をかける。向こうも愛想良く返事を返してくれる。車座を通り過ぎたあたりで「福祉の人たちだね。」ってしゃべり声が背後から聞こえる。我々は、山谷の困っている人を援助する学生ボランティアの一行に見えたらしい。

泪橋交差点の近くまで行ってから、折り返すようなかたちで玉姫神社の方へ進む。周囲は簡易宿泊所や安い「ビジネス」旅館が密集している。山谷というところは、日雇い労働者たちの宿・やど=ドヤの集まる地域、ドヤ街だ。

学生のひとりが、「ここは日本じゃないみたいですね。どっかアジアの別の国みたいです。」と率直な感想をはいている。このせりふにみえる日本観・アジア観の問題はさておき、周囲の町なみや道端で座り込んでいるおじさんたちを眺めながら、これもひとつの典型的な日本の風景だと感じる自分と、その学生とを比較して、隔世の感ってのはこういうことなのかな、とも思う。

山谷について勉強したい人には、西澤晃彦さんという社会学者の方が書いた『隠蔽された外部-都市下層のエスノグラフィー』(彩流社1995)という本がおすすめできる。もともと多様な都市下層の結節点であった山谷が、その姿を変え、男性の単身日雇い労働者の街へと純化させられた過程を明らかにしている。

次回はこの西澤さんの本から、山谷の純化の過程について紹介する。


「都市へのまなざし―淫らな好奇心」  (西澤書2000より)

ところで、我々巡見一行が車座で酒を飲むおじさんたちの前を歩いていると、向こうから40人くらいの学生の一行が整然と列を組んで歩いてきた。引率している教員らしい複数の男が、ボディーガードみたいにして列の一番前と一番後ろ、あるいは列の横に配置されている。車座のおじさんたちはこの一行にも声をかけた。列を組んでいる学生のうちのひとりが「こんちわっす。」とおどけた感じであいさつを返していた。が、教員らしい男たちは口もきかずにずんずん進んでいく。

「サファリパークでもあるまいに。」と思う。いくらなんでも無作法だと思う。今回、吉原・山谷あたりの巡見については参加者をなるべく少人数にしたくて、日程を11月と12月の2回設定し人数を振り分けた。やっぱり大人数で行列作って練り歩くのは避けたかった。サファリツアー化しないよう、それなりに配慮したつもりである。
しかし、その大学生ご一行に出くわして感じた嫌悪感には、鏡にうつる自分をみてしまったことによる自己嫌悪がかなり混じっていたんだろう。

西澤書2000:町村敬志・西澤晃彦『都市の社会学 社会がかたちをあらわすとき』(有斐閣2000)33頁


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/23

巡見~江戸を縦貫する6 吉原からの帰り道

五十間道のS字カーブ

 遊郭吉原の正面玄関は吉原大門。その大門から土手通りと呼ばれる表通りまでは100メートル弱離れている。こうして外界からしっかり隔離された吉原と表通りとをつなぐ一本の道の名が五十間道。この道は直線ではなくて、S字につくられている。なんでも、土手通りに将軍の御成があった時に吉原の内が見えないようにするためのカーブだという説がある。ホントかなぁ。

 まあ、道の設計者の意図はともかく、このカーブは実際いろいろ便利だと思う。お客にしてみると、例えば吉原の帰り、もしこの道が直線であったなら、大門を出て土手通りまでの間をニヤニヤしながら歩く自分の姿が、表通りを行き来する人に始終ずっと晒され続けちゃう。このカーブがちょうどよい緩衝。
 もうひとつの利点。大事なお客がお帰りの場合、遊女はこの大門まで一緒に行って見送ったという。もしその先の道が直線なら、お客が表の土手通りに辿り着きそこで曲がって姿が見えなくなるまでのかなり長い時間、見送る遊女は大門のところに頑張って立っていなくちゃならない。去りゆく客がいつ振り返って手を振るかわかんないもんね。そんときにアクビとかしてちゃまずいしね。土手通りに出たところの大きな柳の木は、その名も見返り柳。実際は、カーブがあるおかげで、大門を出てちょっと行けば客も遊女も互いの姿が見えなくなる。お見送りにはこれくらいがちょうどいい加減でしょう。

 現在、五十間道のS字カーブはそのまま残る。土手通りに出たところ、右手のガソリンスタンドの前、かつて見返り柳があったところには柳の若木が植えられている。

 巡見の一行は土手通りを横断してから通りを少し北西に進み、右の商店街に入る。これから山谷地区へ向かう。次回の記事は山谷地区の戦後について概説の予定。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/20

巡見~江戸を縦貫する5 吉原の通り抜け後編

酉の市の準備で賑やかな鷲(おおとり)神社を後にして吉原へ向かう。

吉原弁財天
 まず吉原のすぐ裏手にある吉原弁財天へ。歩いて三分足らず。ここには関東大震災で亡くなった遊女の供養塔がある。この供養塔は不思議なかたちをしている。弁財天の像が据えられた塔はおおよそ厳かなたたずまいといったものではなく、まるで大きな岩が溶けかかって崩れたようなかたちをしており、むしろ不気味さを感じる。たしか小さな池もあったような気がする。そのせいか、この場所はいつも蚊が多い。今回は11月下旬だというのに、やっぱりたくさん蚊がたかってきた。ここにいるといつも落ち着かない気分になる。
 すぐ目の前はNTTの敷地だが、そのなかにかつて吉原公園内の池があったようである。関東大震災の時、火に追われた遊女たちがこの池の水に救いを求めて殺到し、490人が池を埋めつくすようにして亡くなった。その凄惨な状況を撮った写真も残されている。
 この供養塔の前で地図や資料を広げて学生さんたちに吉原の歴史を簡単に説明し、NTTの敷地の裏手へと進む。江戸時代であれば、この付近は吉原の裏手だが、現在は国際通りから吉原へ入っていく道筋にあたっていて、吉原へと向かう車の通行が多い。出勤してくる女性たちを乗せたタクシーが何台もこの弁財天の前を行き過ぎていく。

遊郭吉原
 遊郭吉原の全体は長方形をしている。長方形の長い辺が400メートル弱で、短い辺がおよそ300メートルである。この長方形の中央を貫通するかたちの全長300メートルのメインストリートが仲の町通りである。このメインストリートを進むと左右にそれぞれ奥行き200メートルの横丁が何本かある。
 私たち巡見の一行は、遊郭の外側からそうした横丁の1本に入って、吉原の中心へと向かう。この横丁はかつて揚屋町通りと呼ばれた道だ。そう、酉の市の日、『たけくらべ』の美登利が髪を初めて島田に結って廓内へと入っていった道。
 道の両側にはソープランドが並ぶ。まだ陽も高く、客の姿はほとんどない。店の前には呼び込みの従業員がすでに立っているところもあるが、多くはまだ準備中といった風情で玄関のドアも開け放してある。ドアの奥には受付のカウンターがあり、壁には在籍女性の写真が並ぶパネル。我々が歩く道路には、ピカピカに磨かれた白や黒の大型高級国産車がたくさん駐車してある。これらの車は、三ノ輪や浅草あるいは鶯谷といった最寄り駅との間で客を送迎するためのものだ。高級店ならではのサービスだと聞く。
 メインストリートに到達する。ここで左に折れてメインストリートを進み、かつて吉原遊郭の正面玄関であった大門の跡地まで行く。このメインストリートの両側も多くはソープランドだ。大門跡の脇にある派出所前で一休み。この派出所は、以前はもっと吉原の中心に位置していたように記憶しているが、あまり自信のない記憶である。
近くの寮から集団で徒歩通勤している女性たちを横目でみながら、学生さんたちに再び解説をする。

ソープランドの間口
 今回歩いてみて気づいたのは、メインストリートに面した店の多くは間口が狭いのに対して、横丁の店の方は間口が広いということである。こうした違いがあるのはなぜか?
 かつてメインストリートには、引手茶屋と呼ばれ、客と遊女屋との仲介をする店がずらりと並んでいた。一方、遊女屋はメインストリートではなく、横丁に面して営業していた。江戸時代の吉原の地図や近代以降の写真などをみると、引手茶屋の間口は狭い。この引手茶屋の間口割が、現在メインストリート沿いにあるソープランドの間口の狭さにつながっているように思える。できることならこの仮説をちゃんと検証してみたいものだ。

吉原の歴史研究について思うこと
 今から100年後、吉原の歴史について調べようとしたとき、20世紀後半から現在にかけての吉原については、ほとんど何も分からなくなっているのではないだろうか。江戸時代から戦前にかけての吉原の方が史料も豊富でよく分かるという状況が生じるのはほぼ確実だろう。江戸時代や戦前の吉原について興味を持って学術研究する人のほとんどは、なぜか現在の吉原についてまるで関心を欠いているようにみえる。これは私にとってとても不可解なことだ。そのような無関心はさておき、現在の吉原についてきちんとした資料を残すことはやはり重要である。社会学の分野などでは調査活動が行われているのだろうか?自分でやらなきゃいけないかなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/01/10

「たけくらべ」論争について

先日書いた記事、江戸を縦貫する2~たけくらべの道に関連して、今回は「たけくらべ」の最終場面における美登利の変貌の原因について少し思うところを書いてみたい。この変貌原因をめぐっては論争がある。

それまで、お転婆で愛らしく活発な少女だった美登利が、突然その元気を失う理由について、従来、学界で定説とされていたのは、美登利が初潮をむかえたから、という説明だった。それに対して、初潮程度であの美登利が変貌するわけはないだろう、変貌の理由は、美登利が初めて客をとって処女でなくなったからだ、という説が出された。変貌した美登利の描写の一部に、「たけくらべ」においてしばしばあらわれる源氏物語の見立てがやはり組み込まれていて、それは若紫が光源氏によって処女を奪われた直後の描写に照応しているという指摘も、美登利の処女喪失=初店説の有力な根拠となっている。

しかし、「たけくらべ」を読む限りにおいて、初店説に対して私は違和感を感じる。その一番の理由は、漠然としているのだが、美登利が初めて客をとったのだとすれば、そういう事実を読者が感じられるような叙述がもっとなされてもよいと思える。むろん、これだと、単なる個人的印象の域を出ない。でも、それが一番の理由である。

それ以外にも理由がある。変貌の日以降の毎日を、美登利は吉原の郭内ではなく、廓外の親元(母親の住み込みの職場でもある)で生活している。初店説を採るとすると、美登利は初めての客をとったその日から遊女としての生活を開始したはずである(一日限り遊女の真似事をさせられて、そのあと放っておかれている、というのは不自然な話だと思う)。遊女生活を始めた美登利は廓内へ移らなくてはいけない。それとも、当時、廓外からの通いの遊女って形態がありえたのだろうか?(たぶん無いのでは?) 「たけくらべ」を読むと、その頃、美登利が遊女屋である大黒屋に行くのは、そこで遊女をしている姉に「用ある折」だけだ。つまり美登利が遊女として働きはじめた痕跡がまったくみあたらない。というか、遊女としての生活がまだスタートしていないのはほぼ明らかではないだろうか。

しかし、初潮を迎えた美登利は、自分が遊女となる日のくるのを現実のものとして感じ始めたのだろう。あるいは、すでに指摘があるようだが、初潮があったことをきっかけに、この日、美登利の遊女デビューについて大黒屋との間で契約が成立し、その日程も具体的にかたまったのかもしれない。さらに想像をたくましくすれば、大黒屋の得意客のなかの裕福で遊び慣れたオジサンたち(「銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小さま」たち?)の誰が美登利を“水揚げ”するのか決まっているのかもしれない。

初店説の論拠のひとつとして紹介した源氏の見立ての問題も、すでに客をとった後の美登利にではなく、遊女となって客と寝る自分の姿が、目の前にせまった現実として思い描けるようになってしまった美登利に対して用いられた、と解釈することは可能だろう。

にわかに迫った遊女デビューの日(そして、その日からは程遠くないであろう金銭づくの処女喪失の日)までの残された日数を数えながら、美登利は「何時までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手にして飯事ばかりしてゐたらばさぞかし嬉しき事ならんを、ゑゑ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このように年をば取る、もう七月十月、一年も以前へ帰りたいに」と嘆いているのだろう。
美登利がもしすでに客をとっているのなら、ここはこうした“駄々”ではなくて、もう少し開き直った、諦念めいた思いを吐くのではないだろうか。

それはそうと、歴史研究者としての自分にもどると、吉原の遊女に関する歴史研究はほとんど手つかずのように思える。主に遊客の視点に立った風俗研究は多い。また最近になって遊女屋を主な分析対象とした研究がいくつか出されるようになった。しかし、吉原の遊女を対象とした研究、遊女の視点に立った研究はあまりなされていないように感じられる。史料的な困難があるのは当然のことだろうが、遊女の存在形態などについての研究成果が蓄積されれば、歴史学の分野から「たけくらべ」論争に対しても何らかの有益な見解を示すことができるように思える。

(なおこの記事は、ピッピさんのブログ「お江戸日和。」を読ませていただいたことをきっかけに、「たけくらべ」のことをもっとちゃんと読み込まなきゃ、と感じて書いたものです。)

2007.8.28.付記:最近、美登利の変貌は初検査を受けたことによるという説をご紹介いただき、それについて、検証してみました。結果、初検査説は成り立たない、という見解にいたりましたが。興味のある方は、こちらの記事を
2009.6.24.付記:さらにその続編記事を書きました。興味のある方はこちらの記事へも

| | コメント (19) | トラックバック (2)

2005/01/06

巡見~江戸を縦貫する4 吉原の通り抜け前編

現在の吉原とその“システム”について

酉の市(の準備)で賑わう長国寺・鷲神社を後にして吉原へ向かう。

吉原。江戸時代、江戸市中における幕府公認の遊郭であったことは有名である。その後、公認された売春街としての歴史は戦後まで続く。で、いわゆる歴史事典類を引くと、昭和32年の売春防止法施行により“吉原の灯は消えた”という解説が書かれていたりする。

しかし、現在もなお吉原が事実上の公認の売春街であるということは、知っている人は知っている。新宿歌舞伎町などでは店舗型風俗業を根絶やしにすべく徹底的な弾圧を加えている東京都も、吉原の郭内で行われている売春については、当分これを咎める気は無いらしい。新宿の店舗型風俗の大多数が“最後まで”はやらない、いわゆる非・本番の風俗であるのに対して、吉原は本番を最大のウリにしているにもかかわらず、である。

現在、吉原で“遊ぶ”手順について知りたければ、ネットで検索し、吉原のどこかのお店のホームページにいけばよい。しばしば“システム”と題されるページをみれば、入浴料××円と書かれている。この入浴料とはお店(ソープランド)に支払うお金である。吉原のお店は特殊浴場として営業許可をとっているのである。浴場だから入浴料。で、別のところをみると総額△△円と書かれている場合もある。この入浴料と総額との違いが重要である。

実は、客はお店に入浴料を払った上で、さらに、相手をしてもらう女性にも別途、サービス料を支払うことになる。入浴料と女性に支払うサービス料とを合計したのが「総額」なのである。私もちゃんと関係各位に確認をとったわけではないが、おそらく、売春行為はあくまで客と女性との間の相対の(1対1の)合意でなされていることで、お店は関知していないという建前なのであろう。お店は客から入浴料をとって、接待をしてくれる女性のいる浴室へ客をあげているだけであって、そこから先のことは知らないよっていうことかな。つまり、こうやってお店側は管理売春という違法行為を回避しているのではないか。

ただまあ、客が女性に渡す金額はお店ごとに一定額だから、以上は単なる茶番。でも、その茶番でもって「吉原の灯」はいまだアカアカとともり続けているのかな。

だいたい吉原で営業しているソープランドは150軒弱とされている。在籍している女性の数はどのくらいだろう?出入りが激しいし、幽霊在籍嬢も多いだろうから確定しにくいだろうけど、仮に1軒20人としたら3000人、30人としたら4500人。だいたいその間くらいの人数じゃないかな(歴史屋さんなのにテキトーですみません)。
 参考文献:岩永文夫『フーゾク儲けのからくり』(kkベストセラーズ 2003)

システムの話が長くなったので(^^)、吉原通り抜けのお話は後編につづく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)