2009/06/24

続々・たけくらべ論争~娼妓取締規則をめぐって

 たまにこのブログのアクセス解析っていうのをやる。相変わらず一番読まれているのは、もう4年も前の記事だが、たけくらべ論争についての記事である。今でもほぼ毎日、いくつかのアクセスがある。もちろん、これは僕のブログに人気があるからではなく、名作『たけくらべ』の人気のせいである。

 そのアクセスの先月分が飛躍的に増えていた。一日数百のアクセスが数日間続いた。どうして増えたんだろうって思って調べると、どうやら、この記事を、ある有名な文学者の方がブログでとりあげたり、ご自身の私塾の授業資料に使用したりしたかららしい。というわけで、今度のはその文学者の方の人気のせいである。

 それはともかく、塾での授業で僕の記事がどのようにとりあげられたのか関心がある。が、まあ、それは知りようもない。ただ、塾の生徒の方で授業ノートをネット上に公開されている人や授業感想をブログに書いている人などがいらっしゃるので、それらを興味深く読ませていただいた。また、それらの記事からのリンクで、山本欣司「売られる娘の物語:「たけくらべ」試論」(『弘前大学教育学部紀要』87、2002)も読んでみた。
 ここで本来は、ちゃんとした討論のかたちをとるべきかもしれないが、当方で勝手に集めた間接的で部分的な情報だけをもとに、ご当人がご意見を公表されていない段階(あるいは公表されていても私が知らないだけ?)で、件の文学者の方のお名前を出して反論するのは良くないかなと。というわけで、以下、自問自答みたいなかたちで考察をすすめてみよう。とはいえ、これはこれで相手の方に失礼なんだろうけど。どうかご勘弁のほどを。関連ブログへのリンクなども当面は控える。もし、状況が整えば、リンクなりトラックバックなりしようかなと。

 さて・・・

 たけくらべ論争の概要についてはこちらこちらの過去記事を。
 要は、物語の終盤、急に元気を無くした主人公の少女美登利について、彼女が元気を無くした原因をめぐる論争である。初潮をむかえたからだという初潮説のほか、吉原の遊女屋で初めて客を取ったからだという初店説、あるいは、娼妓に対して義務付けられていた身体検査を遊郭隣接の検査場で初めて受けたからだという検査場説(初検査説)などがある。

 以前の記事においては、これらの諸説のうち、初店説と検査場説は成り立たない、と主張した(ただし、私が否定するのは一般的な遊女デビュー形式での初店説。佐多稲子が主張するような違法な“秘密の初店”説は成立の可能性がある)。

 私がこれら2説は成り立たないとする論拠は当時の娼妓取締規則にある。そこでは、16歳未満で娼妓になることは禁止され、娼妓の遊郭外居住も禁止されている。まだ14歳で、かつ、遊郭外に暮らし続ける美登利が、正式に娼妓デビューしたり、デビューのための身体検査を受けたりすることはありえない。

 こうした主張に対しては、当時の吉原において、年齢をごまかして16歳未満の者を娼妓にすることは可能だろう、という反論や、作者の一葉が娼妓取締規則を知らなかったこともありえるだろう、という反論も成り立つようだ。

 たしかに一般論として年齢詐称もありえるだろう。たとえば、どこか遠い地方から売られてきた少女ならそれは容易かもしれない。しかし、吉原界隈のちょっとした有名人で、かつ、いまだ地元の小学校に在学中の美登利の場合、年齢の詐称は困難だろう。遊女屋の経営者にとって、これほどあからさまな違法行為はリスクが大きすぎる(仮にライバル業者やら逆恨みした客やらが警察に告発したら、かなり厄介だろう)。
 先に挙げた山本欣司氏の論文では、16歳になって娼妓デビューする前の見習い奉公開始もひとつの可能性として示唆されているが、見習い奉公なら遊女屋に移り住む必要がある。作品中に明記されているとおり、美登利は廓外に暮らし、遊女屋に行くのは、そこで働く姉に「用ある折」だけなので、見習い奉公も始まっていないと考えられる(山本氏がこれとは別に指摘する、美登利と遊女屋との間でなんらかの契約が成立した可能性については、検討の価値があると思う)。
 そもそも、正式に娼妓として就業していないことは、上記の年齢問題を別にしても、こうした美登利の遊郭外居住からも、明らかである。

 もうひとつ。一葉が娼妓取締規則を知らずに、16歳未満で遊郭外居住の美登利を娼妓にしてしまったのではないか、という反論。その可能性については、私も前の記事でふれた。でも、やはりそれは無理センだと思う。まず、16歳未満の娼妓就業禁止の方について。おそらくこれは、現在のなんとか条例の18歳未満云々程度には、世間の常識(?)だったと思う。一葉が正太に歌わせている流行節に「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」とあるとおりだ。そして、娼妓の遊郭外居住の禁止の方は、江戸時代から続く、遊郭の営業独占を守るための最重要かつ最も有名な“おきて”である。吉原のすぐ近くに居を構えていたことのある一葉がそれを知らなかったことなどありえないだろう。

 というわけで、やっぱり、初店説(秘密の初店説はのぞく)と検査場説(初検査説)は成り立たないと考えられる。

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2009/06/17

江戸柳原の古着市場

 ブログ読者の皆様一般に対しては申し訳ありませんが、ちょっとした業務上の都合で、場違いながら、以下、江戸の柳原というところにあった古着市場に関するメモを掲載します。興味のある人はご笑覧を。

柳原土手通りの古着市場

 神田川の南岸に沿って築かれた総延長1.5km弱の土手に沿った通りに、土手を背にして床店が並んでいた。軒数は不明。明治初年に同所での床店営業の許可が検討されるが、その許可軒数は約550軒。そこから判断して、500軒程度というのがひとつの目安か。
 成立年代は不明。床店場所全体は八つの区画に分かれていて、それぞれの区画ごとに幕府からの営業認可が与えられていた。それらの認可はおおむね18世紀前半に順次出されたが、それ以前から無認可の営業が存在した可能性も大きい。
 この床店場所において、古着市場が開かれていた。古着市場の成立年代も不明だが、諸文献における同所の古着商売への言及は、1730年代以降に現れてくる。床店場所が幕府から認可された18世紀前半頃に、柳原土手通りの古着市場も形成されたのではないだろうか。古着を扱う床店の軒数も不明だが、100~200軒程度だったのではないか。

柳原土手通りの古着市場についての要点

 この古着市場については、これまで史料もみつからず、実証作業を欠いたまま、同所は詐欺的な商売が横行する怪しげな場所であったという見解が出されていた。しかし、近年、貴重な史料を発見できた。明治7年1月付で、古着商の住吉屋幸左衛門という人物が東京府知事宛に提出した書類のなかに、近世段階の柳原土手通りの古着市場について説明した記述が見つかった。その記述内容から導き出せる要点は次のとおり。

①江戸の主要な古着市場として、富沢町の市場と柳原土手通りの市場とが両立していたが、富沢町市場の取扱商品が高級化するにつれて、古着市場としての「人気」が柳原土手通りへと移ってきた。
②市場の場所は「床店最寄」である。おそらくは、床店前の路上において、古着の市場取引(糶売買)が行われていた。そうした取引に対しては、床店は商品の保管場所としての機能を果たしていたと考えられる。
③市場での売り手は、床店の古着商人たちである。買い手は、「府下市中見世」、すなわち江戸市中の小売の古着屋と、「諸国」から古着を仕入れにやってきた「旅人」である。また、売り手である床店の古着商人が市場で古着を買うという「互ニ売買」という取引もおこなわれていた。
④市場では、どんな古着でも「値次第」で「悉売捌」けるので、「薄元手」の零細な商人たちが「尚以糶合出市」し「日々営業」していた。

 柳原土手通りの古着市場を、小売市場とする誤った見解もあるが、③で明らかなように、この市場の主な機能は、小売店や旅商人を相手にした、いわゆる卸売であった(それと平行して、個々の床店における素人相手の小売も行われていたことはほぼ間違いない)。
 このように、売り手・買い手ともにプロフェッショナルな商人である以上、これまで喧伝されたような詐欺的な商売の横行といった状況はありえない(そんな商売が一部にはあったとしても)。
 こうした柳原土手通りの古着市場は、少なくとも幕末段階では、由緒ある富沢町市場と肩を並べさらにはそれを凌駕する卸売市場として発達を遂げていた(明治前半にはこの柳原土手通りの市場をもとに岩本町古着市場がつくられ、ここが東京の古着流通における最大の拠点となる)。
 市場での売り手として商品を豊かに供給しときには買い手ともなる古着商人たちが、恒常的に多数集合すること、これが市場を発達させた基本条件であろう。零細な経営規模の商人たちが、個々単独では決して作りえない巨大な集客力や活発な市場取引は、彼らが多数の共同によって柳原土手通りに生み出し育んだものである。

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2009/05/25

5月30日実施予定、巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 今週末の30日土曜午後に、巡見「江戸を縦貫する」を実施する予定です。

 前回は、江戸城とその周辺のコースで、半蔵門→井伊家上屋敷→桜田門→二重橋前→大手門→本丸まで歩いたところで、豪雨にめげて巡見を中断しました。

 今回はその続きです。東京駅→丸の内ビジネス街→常盤橋→日銀・三井タワー→本町通り・大伝馬町→江戸橋広小路→魚河岸→日本橋、といった界隈を歩きながら、江戸町人地の「中心」であった日本橋地区の様子や、その後の変容、現在の町並みなどについて解説したいと思います。

 基本的には、各大学での私の担当授業の受講生・元受講生に声をかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方も遠慮なくいらっしゃってください。

 集合場所の詳細は各大学での授業の際に連絡します。元受講生や一般の方は私あてのメールにてお問い合わせください。今回が初参加の一般の方はそのメールに住所・氏名をお書き添えください。あて先のアドレスはこのブログのプロフィール頁で。

 集合:5月30日(土)14:00 JR東京駅
 所要時間:だいたい3時間。
 雨天決行

 なお、第3回は兜町・東京証券取引所や神田の繊維問屋街あたりを歩きます。各大学がおおむね夏休みに入った7月最終週あるいは8月第1週の平日午後に実施予定です。
 その後のスケジュールはまだ流動的ですが、11月23日(月・祝日)の午後に、吉原・山谷・浅草を歩きます。24日午前零時に始まる浅草酉の市の準備の様子も見学しましょう(希望者はそのまま夜の酉の市まで浅草滞在かな?)。(追記:あらら、そういえば24日は平日で、朝1限から授業だっけ。というわけで、私はおとなしく終電で帰るつもり。最近、オールのあとは2日くらいダメージが残る。歳には勝てないや。)

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2009/04/27

巡見「江戸を縦貫する」の報告と次回の日程

 おととい25日に巡見をやりましたが、強い雨のため、江戸城本丸まで歩いたところで中断。コース後半に予定していた丸の内・日本橋はまた次回。
 というわけで、次回は例年より少し早めの日程で、来月、5月30日土曜の午後を予定しています。今回行けなかった丸の内と日本橋界隈を歩きましょう。最近話題になった中央郵便局も見に行きましょうか。それから、丸の内のビジネス街を少し見て回って、日本銀行・三井タワー・本町通り・江戸橋広小路・日本橋魚河岸・日本橋くらいかな。

 以下、25日の巡見の模様を簡単に。

 去る25日は、豪雨の中、巡見を決行しました。途中から合流した方も含めて、だいたい20人弱で歩きました。実際ひどい雨で、数人のこじんまりとした巡見になりそうだなぁと思ってましたから、予想外にたくさんの人が来てくださってうれしかったです。皆さん、足元はびしょ濡れだったと思います。お疲れ様でした。

 集合は地下鉄半蔵門駅。階段をのぼって地上へ出ると、強い雨脚と寒い風。まずは、半蔵門へ。門の内側の吹上地区のことやら、もともと江戸城の正面は、現・大手門側ではなく、こちらの甲州街道方向だったとする、江戸博の斉藤慎一氏の説などを紹介する。
 それから、堀にそった坂道を桜田方向へ下りながら、国立劇場・最高裁判所などを横目で見て、彦根藩井伊家の上屋敷跡へ。現在、屋敷跡には憲政記念館などが建っているが、戦前はここに参謀本部があった。すぐ脇に三宅坂という坂があるが、戦前「三宅坂」といえば参謀本部を指し、戦後しばらくたつと、今度はここに本部を構えた社会党のことを指したそうだ。また、最高裁のことも「三宅坂」と称するらしい。

 井伊家上屋敷跡を過ぎると警視庁。井伊直弼が水戸藩浪士に暗殺された現場はこのあたりだろうか、などと確かめながら桜田門へ。桜田門の次は、二重橋前。中国人の団体旅行者が多く、皆、めいめいのカメラで記念撮影をしている。めがね橋の外には丸の内警察署の警察官。橋の内側には皇宮警察の警察官。見比べてみたりする。ここから坂下門外を経て、大名小路を通り、大手門へ。

 大手門から入ると、各自一枚ずつの入園証。退園をしようとしていた修学旅行とおぼしき男子中学生一行のひとりがもらった入園証を無くしたらしく難儀している。休憩所で一休み。雨が強い。絵葉書や工芸品などの皇室グッズが販売されている。しばらく休んでいると、ロシア人とおぼしき団体旅行客で一杯に。

 休憩所を出て下乗門跡へ。登城した大名はここで駕籠から出て自分の足で歩き始めたわけだろうが、なんとなく、このあたりの石垣は、特に気合を入れて立派に積まれているように見える。殿様たちは、きっと、頭の中で自分の城の石垣と比べてみたに違いない。

 本丸御殿跡に着き、芝生の上を歩きながら、大広間や白書院、黒書院などの位置を確かめていく。老中の出勤ルートなども。それから中奥を通り、大奥へ。将軍の寝室と正室の寝室との近さに、あらためて感慨。

 天守台にのぼる。ますます雨強し。というわけで、ここで巡見は切り上げ。地下鉄の竹橋駅へ。最後に竹橋事件のことを少し話して解散。

 その後は、常連の方々や懐かしの方と共に新宿へ移動し、3軒ほどはしご。アイリッシュパブ→新潟地酒の居酒屋(美味しかった!)→ヴェネツィア風居酒屋。今年度は、池袋北口のチャイナタウンへも行きたいなぁと構想を練る。

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2009/04/20

巡見「江戸を縦貫する」のご案内・続報

 前の記事でご案内しましたとおり、今年度最初の巡見を、今週末の25日土曜午後に実施します。私が出講する各大学では今週の授業の際に、集合方法などをお知らせします。
 各大学での私の授業の受講生・元受講生を対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをご覧になった一般の方も歓迎します。一般の方の場合は、ご面倒ですが、このブログのプロフィール頁にあるアドレス宛に、氏名・住所を明記したメールを、前日夜までに送ってください。こちらからのご返信にて、集合方法などをご連絡いたします。元受講生の方は、氏名を明記したメールを送ってください。

 日時:4月25日(土) 13:30~
 行程:半蔵門→井伊家屋敷→桜田門→二重橋
     →江戸城本丸(東御苑)→丸の内ビジネス街
     →日本銀行→三井タワー→魚河岸→日本橋

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2009/04/13

2009年度第1回目・巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 本年度も、巡見「江戸を縦貫する」を始めます。今のところ、4月25日の土曜午後の予定です。

 江戸城本丸をスタートして、丸の内ビジネス街→日本橋金融街→神田浅草橋問屋街→山谷ドヤ街→吉原売春街までを、3回に分けて歩き通すこの巡見コースは、都市・江戸の一方の端からもう一方の端までを縦貫すると同時に、現代都市・東京の端から端までを縦貫するコースです。年度末には、番外編として、都内各所の都市再開発地域(六本木ヒルズだとか品川インターシティとか)を歩く予定です。また、外国人街としての歌舞伎町や新大久保へも、巡見各回の終了後の恒例“オプショナルツアー”としてちょくちょく足を向けるつもりです。
 こうした巡見の趣旨についてはぜひこちらの記事もご覧ください。

 基本的には、私が出講する各大学の受講生・元受講生の皆さんを対象に参加を呼びかけての企画ですが、このブログをお読みになって興味を持たれた一般の方もどうぞ遠慮なくいらっしゃってください。

 さて、第1回目は、4月25日(土)の午後を予定しています。コースは、皇居二重橋前・江戸城本丸跡(東御苑)・丸の内ビジネス街・日本橋・三井旧本館と三井タワー・日本銀行などをめぐるコースです。
 詳しい案内は、近日中にこのブログに書きます。また、各大学の講義の際に、チラシなどを配布します。皆さん、ふるってお出ましくださいませ。

 

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2009/04/07

川上村の中国人「研修生」と農業経営はどうなっていくの?

 昨日の自分の記事を読みながら、ちょっと反省というか、再考。

 多数の中国人「研修生」を受け入れて、レタスや白菜を生産する長野県の川上村の事例をちょっとあげた。しかし、「小経営の時代の終焉」という連載のテーマからすると、これは矛盾してるなぁと。
 要するに、現状としての川上村は、外国人の「労働力」に依存することで小経営の維持に成功している事例ということになる。

 川上村の場合は、村内約600戸の農家のうちの3分の1強の農家が組合を作り、その組合が「研修生」の受け入れ事業をおこなっているそうだ。いわゆる集落営農的な傾向を強めつつある地域だと思う。「平均年収2550万円の農村」が村長のキャッチフレーズみたいだ。
 一方、そんな川上村で農作業に従事する中国人「研修生」の「時給」は、長野県の最低賃金669円を大きく下回る530円程度。まあ、農家の人たちも、たくさん儲かっている分、「研修生」にはもっと多くのお金を渡したいだろうが(?)、それができないのは、彼ら彼女らがあくまで「研修生」であって「労働者」ではないという制度の壁のせいもあるのかな。また、こうした「研修生」のなかには、このまま日本にとどまって働き続けることを希望する人も少なくないようだ。

 ともあれ、この先の川上村が、「農家」という小経営の単位を維持しつつ集落営農の方向へ進んでいくのか、あるいは、その途中で、法人経営の大農場へと移行していくのか、今後、興味深く追っかけていくことにしたい。
 あるいは、川上村以外の日本各地の農業における外国人「研修生」、あるいは外国人労働者の雇用(「研修」)形態はどのようなものなのだろう。最近は自動車関連工場から追い出された日系ブラジル人の人々を雇い入れた農業法人のニュースなども目にする。

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2009/04/06

近世の終焉としての現在 23 連載のおしまいに

 400年も続いた小経営の時代が終わることで、次はいったいどのような時代がやってくるのだろうか。もちろん、そんなことは誰にも分からない。まあ、誰にも分からないのをいいことにして、勝手な想像を書くことにしよう。

 現在、日本列島において「日本人」の数は減少傾向にある。遠い昔のことは知らないが、少なくとも17世紀以降でみれば初めての事態だろう。
 今回の連載記事では、農家や個人経営の商工業者といった小経営や擬似小経営的サラリーマンの衰退によって、結婚や子づくりが不必要化したことが人口減の最大の原因ではないかと書いた。ちゃんとした根拠は無いが、たぶんこれは当たっているだろう。

 さて、素人考えだと、「日本人」の減少によって、日本社会は移民社会へと変化していくことになると思う。ごくごく大雑把にいって、日本経済が人口減に合わせてどんどんダウンサイズしないかぎり、「日本人」の減少は移民の増加を必然化する。
 いやいや、産業の合理化やら、はてはロボット技術の進化(?)やらで、「日本人」労働力の減少はただちに移民増加には結びつかない、ということを主張する人もいる。政治的・文化的な障害もあるだろう。
 しかし、事実として、外国人労働者は増加し続けている。工場労働者や都市部のサービス産業の労働者以外にも、農業や老人介護の分野でも外国人労働者は欠かせない存在となりつつある。

 もし、現在の国策どおり、小経営の農家に代わって大規模経営の「農家」・「農園」が農業の担い手として増えるならば、農業における雇用労働力の需要も増加する。しかも、低賃金で季節的な期間限定の非正規雇用の労働力がもっぱら必要となるわけだ。
 日本一のレタス生産を誇る信州南佐久の川上村では、農家戸数約600戸に対して約600人の中国人「研修生」を受け入れていることが昨年の朝日新聞に掲載されていた。彼ら彼女らは、時給530円程度で年間7ヶ月ほど、レタスづくりと白菜づくりのかなりハードな「研修」をしていくそうだ。私たちが食べる“安心安全”の国産朝どりレタスやら北関東の朝づみイチゴやらには、中国などからやってくる彼ら彼女らの労働が不可欠らしい(※脚注参照)。こうした事例がどこまで日本農業全体に一般化できるのかは知らないが、もしかりに私が、無農薬・有機栽培が売り物の「小林農園」の経営者になったら、いかにして安い季節労働者を確保するかが、経営上の最大の懸案となるだろう。国内外のライバルに負けないために。
 また、小経営の崩壊は老人介護の構造を変えた。かつて、相続される小経営や擬似小経営の内部においては跡継ぎ夫婦が年老いた親たちを介護した。これが小経営の時代の老人介護であった。しかし、小経営・擬似小経営が無くなれば、老人の介護を担う「家」も無くなる。これにより、老人介護の分野でも雇用労働者は不可欠の存在となった。この分野も、今後、外国人労働者への依存が急速に強まることはほぼ確実であろう。

 2000年から2050年までの間で、日本の生産年齢人口(15~64歳)を現状で維持する場合には、延べで3千万人以上の移民が必要であるという国連の推計がある。たぶんかなりざっくりとした推計だろうし、実際に3千万人もの移民を日本社会が受け入れられるとは思えないが・・・さあ、どうだろう。
 かつて、自民党の一部の人が、人口の10%にあたる1000万人の移民受け入れ計画を発表した際、たちまち世間から大きな非難がよせられた。
 しかるに、2006年の数字だと、外国人労働者の数は合法的就労者が75万人で、これに不法就労者を加えて、およそ92万人とされている。おそらく今頃は100万人前後に達しているだろう。
 この先、少なくとも数十年間、「日本人」の生産年齢人口の超・激減はもはや確定した事態だし、もし日本経済が今より回復すれば、外国人労働者はたちまち数百万人規模へ増加するように思える。
 こうした事態は、日本社会の歴史において、まったく新しい時代がやってきたことを意味しているだろう。

 さて、小経営の時代が終わって、次に来る時代とは何か。それは、たぶん、資本と労働者の時代ではないだろうか。
 資本と労働者、それは、商工業・サービス業のみならず、第一次産業のうちのかなりの割合までをも包摂していく。ただし、そこにいる労働者の内実は、かつてイメージされていた均質的な近代労働者集団ではない。そのエスニシティーにおいて、そのジェンダーにおいて、働き方において、まったく相異なる多種多様な人々から成っている。そんな人々をくくる唯一の共通項が、労働者であること、だろう。あるいは、マルチチュード、という呼び名もすでに出されている。

 小経営の時代のあとは、資本と労働者の時代。こんなことを書いたりすると、年配の人たちからも、また、若い人たちからも、何を今さら、と鼻で笑われるような気もするが・・・。だけど、これから、本格的な資本と労働者の時代が始まるんだと思ってる。

 
 ※本文を読み返してみると、この川上村の事例は、ちょっと矛盾してますね。外国人「研修生」の「労働」に頼りながら、当面は小経営の維持が図られている事例であって、連載のテーマ「小経営の時代の終焉」とは逆の事態かも。ちょっと補足記事を書いてみました。こちらをご覧くださいな。

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2009/03/26

近世の終焉としての現在 22 まとめ~その4

 これまで述べたように、400年続いた小経営の時代は、今、我々の目の前で終わろうとしている。では、小経営の衰退は、日本の社会全体にどのような影響を及ぼしているのだろうか。

 小経営が消えることにともなって我々の社会から消えているものは何か考えてみよう。

①消えていく子供と結婚

 小経営が消えることによって必要がなくなるもの。それは、まず子供である。小経営の農家や個人商店にとって、後継ぎとなる子供は絶対必要だった。子供がいなければ、せっかく丹精こめて耕してきた田畑はよその家の物になってしまう。だから、もし実子に恵まれなければ、どこかで子供を貰ってきてでも、後継者たる子供を確保する必要があった。しかし、小経営が消えることで、家の相続の重要性は消え、子供は不必要なものとなった。

 こうして子供が不必要になると、次に不必要となるのは、結婚である。さらには、家族労働を中核とする小経営の解体によって、小経営の維持に必要だった夫婦の協働も不要となり、結婚の必要性はますます失われることになった。

 日本型雇用の正社員=擬似小経営的サラリーマンにとっても夫婦の協働が必要だったことは前回書いた通りだ。家庭を守ってくれる嫁が男性サラリーマンには必要だったし、自分を経済的に養ってくれる旦那が主婦には必要だった。しかし、このような擬似小経営的サラリーマンが消えていくことで、やはりここでも結婚の必要性は消えつつある。また、非正規雇用の労働者同士が結婚した場合、子供を持つことの経済的負担とリスクはあまりに大きすぎる。そもそも、彼ら彼女らにとって子供とは何が何でも必要なものではない。

 小経営の時代においては、小経営の維持と相続のため、という社会的動機が、結婚と子作りを人々に強制していたのである。結婚してはじめて一人前の大人だ、とか、結婚したからには子供を作るのが当たり前だ、とかいった強制である。
 そして、現在、小経営の時代の終焉により、そうした社会的動機を喪失した日本人社会において、結婚と子供の数は激減しつつある。

 出生率の急激な低下はわざわざここで紹介するまでもないだろう。結婚の激減についてみると、たとえば、30~34歳の男女を例にとれば、1970年代頃は、およそ10人の男性のうち1人だけが独身といった割合であった。それが2005年では、2人に1人が独身である。女性の場合も、1970年代頃は10人に1人だけが独身であったが、2005年には、3人に1人が独身である。

②消えていく地域コミュニティ

 小経営の時代において、地域コミュニティは小経営の維持のために存在した。農家にとっての村や、個人商店にとっての商店街がそれにあたる。
 コミュニティは、イベントを楽しむための仲良しサークルではない。用水路を浚渫しアーケードを補修し、そして、小経営の後継者である子供たちを通わせる学校の運営に協力しながら、小経営が存続するための経済的・文化的な地域基盤を維持していたのが地域コミュニティであった。
 しかし、小経営の衰退はそうした地域コミュニティを解体していく。集落自体が消失していく数も増加しつつある。

 小経営の時代の最後に登場した擬似小経営的サラリーマンも、擬似的な地域コミュニティを形成した。ただし、彼らの生業自体は地域コミュニティの存在を必要としないため、主として子供の育成環境の整備が擬似的コミュニティの存在意義であった。そこでは、農村に実家をもつサラリーマンたちが子供の頃に経験した農村祭礼などのノスタルジックな模倣も催されたりした。
 しかし、そうした擬似的祭礼や、子供を中心とした生活消費なども、上に書いた通り、子供の育成を目的になされていたため、同一世代で構成されたその擬似的なコミュニティから一斉に子供たちが巣立ってしまうと、たちまちコミュニティ的な様相は失われていくことになる。小学校が閉鎖され、地域の商店が次々に閉店していく、なんとか団地やなんとかニュータウンがそれである。
 あるいは、農家や個人商店などの小経営と擬似小経営的サラリーマンとの間の類似性をもとに、両者が混在するかたちの地域コミュニティ(半擬似的コミュニティ)も成立したが、言うまでもなく、小経営と擬似小経営的サラリーマンの減少によって、こうした地域コミュニティも崩壊しつつある。

 ③消えてゆく名君政治

 小経営の時代において、国民を幸福にするための政治の主たる目標は、小経営の保護・育成=牧民であった。少し前だと、外国からの安価な農産物の流入を食い止め、米価を高値に保ち、農家の保護のための補助金を注ぎ込み、あるいは、大規模小売店の進出を制限し、酒や薬その他の独占的販売体制を守ってきた。こうして小経営を保護してきたのである。
 また、上記小経営の保護政策との間でバランスを保ちながら、国内企業を育てることで、それら企業の下で働く擬似小経営的サラリーマンからの支持をも取りつけてきた。
 他方、擬似小経営的サラリーマンたちの諸要求は、労働組合を通じて、野党勢力がそれを国政の場で展開していたが、保守与党は、それらの要求を部分的に受け容れつつ、同時に先に書いたような企業育成を通じて、擬似小経営的サラリーマンに対しても一定の満足感を与える政治を遂行していた。

 しかし、今、小経営の時代が終わることによって、政治はその目標を失い、ダッチロールに陥っている。
 激減してしまった農家や個人商店などをあてにしていては選挙には勝てなくなった。小経営の没落とともに長期低落傾向にあった自民党をぶっ壊し、小経営を切り捨ててグローバリゼーションに積極的に応じようとする政治が一世を風靡した。
 例えば、これまで地域の小経営を取りまとめて自民党を支えてきた地方名士たる特定郵便局長の地位を危うくすることなど、かつての自民党にとっては絶対受け容れることのできない政策だったが、逆に、そうした政策が喝采を浴びた。その際行われた選挙では、都内の某選挙区でも、地元商店街を支持基盤としてきた自民党の有力議員がその政策に反旗を翻したが、結局、当該区域の地域社会とはなんの縁もない、落下傘で降ってきた刺客に対して、まったく太刀打ちできなかった。
 農家は選別にかけられ、大規模な耕地を確保しての企業的経営に乗り出すことで、国際競争力を高めるように求められている。
 また、雇用多様化のお題目のもと、擬似小経営的サラリーマンは解体されようとしている。そんななか、“正社員クラブ”の労働組合はますますその存在意義を低下させている。また、正社員が手にしていた終身雇用の証文は反古になりつつある。

 こうして、地域コミュニティや労働組合を通しての国民の把握が無効化していくことにより、保守与党の政治家たちは、「無党派」だとか「消費者」だとかいった、抽象的でとらえようのない姿をした国民を相手にした不慣れなパフォーマンスに追われている。
  「抵抗勢力」やら「官僚」やら、「民営化」に巣食う悪党やら、はたまた某国の独裁者やら世界恐慌やらとの格闘を、次々と脈絡なく、前後の自己矛盾も気にせずに上演しつづけることで、移り気なコロッセオの喝采を繋ぎとめようとするしかない状態だ。
 あるいは、山間部の田んぼの脇に積んだビールケースの上から、ぶっ壊される以前の自民党の牧民策(例えば、小規模農家を差別しない補助金政策だとか)を復唱することで、国民のノスタルジーをゆさぶることに成功した野党のリーダー。しかし、最近、彼は自分の領国における師匠直伝の“名君”ぶりがあだとなり、コロッセオでの人気を急落させてしまった。


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2009/03/22

近世の終焉としての現在 21  まとめ~その3

  17世紀前半に始まった小経営の時代。日本社会の基本は、農家や家業的経営の商工業者などの小経営から成っていた。特に、近世期、農家人口は総人口の8割を占めていて、農家と農家が構成する村とが、日本社会の基礎構造一般を構成していた。
 その農家が、日本社会におけるウエイトを急速に低下させたのは、戦後の高度成長期であった。
 それより少し遅れて、20世紀末には、家業的経営の商工業者も急速な減少傾向をみせるようになった。
 
 こうして、20世紀後半、終幕に近づきつつあった小経営の時代だが、その終幕を若干遅くさせたのは、日本型雇用のサラリーマンであった。
 こうしたサラリーマンを、私の拙い造語だが、擬似小経営的サラリーマンと呼びたい。

 サラリーマン=労働者というのは、本来、個々人で労働を行うものだが、日本型雇用のサラリーマンは、サラリーマン個人では労働の継続が難しかった(家庭をもつことを放棄すれば別の話だが)。
 こうしたサラリーマンのほとんどは男性であった。深夜残業でも、単身赴任でも、なんでもこなしながら、会社のために献身的に働いた。
 そんな労働を支えたのは、専業主婦たる妻だった。炊事・洗濯から育児、年老いた親(たいていは夫側の親)の介護、そして、子供会やらPTAやらスポーツ少年団などの世話といった“地域”活動を、もっぱら妻が引き受けた。そんな妻が賃金を得るために働くとしてもそれは内職かパート労働にほぼ限られていた。 
 このような妻による、家庭・地域における“労働”に依存して、サラリーマンたる夫の会社に対する滅私奉公が実現していた。
 つまり、日本型雇用のサラリーマン稼業は、実質、夫と妻の二人三脚による、「夫婦かけむかい」の家業として成立していたのである。

 このような献身的サラリーマンのお父さんを、企業が簡単に解雇することは許されなかった。解雇してしまっては、たちまち一家が路頭に迷うことになるわけで、それは社会的にも許されることではなかったのである。
 サラリーマン側の献身と企業側の終身雇用の約束とによって、サラリーマンの家業的経営は、長期持続的なものとなった。
 こうして、日本型雇用のサラリーマンの家業的経営は、ちょうど、農家の小経営とよく似た性質のものとなった。

 農家とサラリーマン家庭とで一番大きく異なっていたのは、相続の問題だろう。農家の場合、何が何でも後継ぎの子供を確保して、その子に田畑を引き渡すことが相続の根本である。しかるに、サラリーマンの場合、父親の会社でのポストをそのまま息子が継承することはほとんどない。
 しかし、サラリーマン家庭の場合でも、男子の子供については、父親と同等かそれ以上の学歴を積み、父親と同等かそれ以上の年収のサラリーマンになることが一般には理想とされた。女子の場合は、母親と同様、サラリーマンと結婚して専業主婦となることが理想とされた。そうして、家産や生活レベルの継承が求められたのである。

 このように、農家によく似た性格を持つ、疑似小経営的なサラリーマン。これが日本型雇用のサラリーマンであった。
 もちろん、すべての労働者がこのようなサラリーマンだったわけではない。しかし、もっぱらこうしたサラリーマンが、労働者の標準型・理念型とされてきたことが重要であろう。

 日本型雇用のサラリーマンの原型を、近世の武士に求めたり、あるいは、商家奉公人に求める考え方もある。しかし、単身で家庭を持たないのが普通だった商家奉公人と、日本型雇用のサラリーマンとはかなり性格が異なる。武士との間では類似点が多いが、実態としての連続性が乏しいのではないか。
 その大半が農家の出身であった日本のサラリーマンにおいて、「仕事」や「家庭」のあり方についてのメンタリティは、おそらく、農家のそれが継承されていたのだろう、と推測している。

 日本型雇用の制度的な成立時期をめぐっては、第一次大戦後の労働争議が活発化した時期、あるいは戦時体制期、もしくは高度成長期などにそれぞれ画期を見出そうとする諸説がある。
 おそらくは、それらの時期における労使関係や労働政策の諸動向のなかで日本型雇用は段階的に成立したのであろうが、ここでまったくの当て推量を述べさせてもらえるなら、先にも書いた通り、日本型雇用のもとで形成される擬似小経営的な労働者家庭のあり方と、小経営の農家のそれとが類似していることが、日本型雇用の社会的許容の要因となったのではないだろうか。

 まあ、日本型雇用の成立要因をめぐる問題はさておいても、結果として、日本型雇用の擬似小経営的サラリーマンの家庭と小経営の農家との間で類似性が強い、という事実が重要である。
 これにより、小経営の農家や商工業者と、擬似小経営的サラリーマンとを横断して、家族観・労働観・経済観・幸福観・倫理観などが共有されることになった。
 そうした共有をもとにして、均質的な日本社会だとか、一億総中流社会だとかいったイリュージョンが生まれたのだろう。

 本来の小経営である農家や個人経営の商工業者が退潮した分を、擬似小経営的サラリーマンが補うかたちで、小経営の時代の終幕はしばらく先延ばしされ、最後の輝きを見せたわけである。

 そして、現在。この擬似小経営的サラリーマンも減少傾向に入った。いよいよ小経営の時代の終幕である。

 


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2009/03/17

鞆の浦に行って架橋・埋立問題について考えてみました

 先週、仕事があって2泊3日で鞆の浦へ行ってきた。といっても、このブログで取り上げた架橋・埋立問題の調査に行ったわけではない。しかし、鞆の町を歩きながら、その問題についてもいろいろと思うことがあった。

 先の記事でも書いた観光地化の問題。架橋・埋立工事に反対する人々のうち、少なからぬ人々は次のように主張している。
 架橋・埋立工事の経済効果は一時的なものであって、長期的には、観光資源である景観の破壊が鞆の地域経済をダメにする。工事を中止して歴史的景観を守り鞆を観光地化することで地域経済は立て直せる。

 しかし、そうした主張に根拠はあるのか?

 久しぶり(十数年ぶり)に行った鞆では、観光客向けの土産物屋や飲食店が増えているのに驚いた。ちょうど、町では雛祭りのイベントをやっていた。旧家の多い鞆の町内のあちこちで自宅の雛飾りを一般公開していた。また、町のあちこちでは、例のちっちゃな可愛い人魚の絵も目にした。鞆の観光シーズンとしては、海水浴シーズンにつぐハイシーズンだろう。

 だが、先の記事でも書いたとおり、観光地化で地域経済を振興する、というのは、かなり困難なことのように思えた。

 団体客を乗せた大型観光バスは市外のバス会社のものであった。一方、私が乗った地元のバス会社が運行する路線バスに観光客の姿はほとんどなかった。
 土産物屋や飲食店も、日中はそれなりに賑わうものの、朝のうちや夕方以降はガラガラであった。鞆観光は日帰り客(というか短時間通過客)が大半なのだから当然のことだ。ハイシーズンでこの状況なのだから、シーズンオフの状態はおおよそ想像がつく。
 仮に、これら何十軒かの土産物屋や飲食店で雇用が発生するとしても、あまりにわずかな人数であろう。しかも、それらは、年間を通じての雇用ではなく、ハイシーズンのみの短期アルバイトになる。たいていのお店では、経営者の家族や親戚の誰かひとりふたりが忙しい時間帯にお店を手伝えばなんとかやっていけそうである。というか、それが経営的には一番だろう。

 一方、鞆の町の中で、20~30歳ぐらいの間の男性が働いている姿には、公務員系をのぞくと、ほとんど出会わなかった。2日間いて、4~5人会ったかどうか。
 そして、鞆の主要な地域産業である鉄工業はかなりの苦境のようだ。鞆の町の北の方にある鉄工団地周辺を歩いて回ることは今回できなかったが、おそらく、昨年後半から深刻化した不況はいくつかの工場に致命的なダメージを与えているだろう。

 先にも紹介したが、ネットなどで目にする工事反対派の主張のなかには、歴史的景観を活かした観光地化こそが鞆の採るべき将来の道だ、といった発言がしばしば出てくる。公共事業に依存しちゃうような旧来の地域経済振興は不健全であり、鞆の場合、観光地化にこそ、明るく正しい未来があるのだそうだ。

 要するに、国や自治体の税金などを当てにしてはダメで、鞆の人々は自力でもって観光業という「自由」な「市場」でお金を獲得しなさい、という趣旨のご指導である。

 これを聞いたら、髪の長い元首相や元大臣の大学教授などはさぞかしわが意を得たりと感激するだろう。もし本当にそのとおりでうまくいくのなら、つい最近、懺悔の本を書いちゃった経済の先生などは、喜んで再転向して逆懺悔の本なんて出しちゃうかもね。

 まあ、別に、新自由主義がぜったい悪であると言っているわけじゃない。ただ、ふだんは新自由主義やら市場原理主義やらに対して、弱者や田舎の切り捨てだとか批判している人たちが、もう片方で、上に書いたような、公共事業批判と鞆の浦の観光地化の主張をしているのだとしたら、それにはちょっと首をかしげてしまう。
 ましてや、ご自身、公共事業やなんとか助成金といった、国や自治体の税金の恩恵を被っているような人々までもが、“田舎”経済の公共事業依存を批判しているのだとしたら、そりゃもうめちゃくちゃな話だと私なんかは思ってしまうのだが。それは間違っているだろうか。

 念のため付け加えておくが、だからなにがなんでも架橋・埋立工事を実施せよ、と主張するつもりはない。だが、鞆やその周辺の地域経済に対しては、早急で大規模な経済対策がぜひ必要だと思う。それが鞆の地域経済の病気を完治させる薬ではないとしても、まずは今の痛みを緩和し延命を図る薬の処方がすぐさま行なわれるべきだと思う。

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2009/03/12

近世の終焉としての現在 20  まとめ~その2

その2.小経営の時代の終わり
 
 今、私たちの目の前で終わろうとしている時代。それは小経営の時代とでも呼ぶべき時代である。

日本社会において、小経営の時代が本格的に始まったのは、17世紀前半のことだろう。それからおよそ400年を経た今、20世紀末から21世紀初頭において、小経営の時代は終焉を迎えようとしている。

 ここでいう小経営とは、農家や個人商店などの、家族労働を中心として維持されている、家業的な経営のことである。

 近世の日本社会においては、農家人口が総人口の80%を占めていたとされている。第二次大戦の前後では、これが40~50%にまで低下するが、それは総人口自体が増加しているからであり、実際のところ、おおむね3000万人といわれる農家人口の絶対数において、近世以来ほとんど減少はない。
 しかし、その後の高度成長期において、人口比と絶対数の両方の減少が始まり、その減少速度は近年ますます加速している。2006年においては、農家人口は約790万人で、総人口に占める割合は、わずか6.2%となった。 また、農業の就業人口の60%は65歳以上の高齢者が占めていて、今後、農家の減少速度はいっそう速まることが確実視されており、2025年の農家人口の総人口比は、2.7%となることが予測されている。
 統計を確認していないが、農業で生計を立てている(あるいは生計の足しにしている)いわゆる販売農家の割合も激減しているだろう。高齢の「農民」が、大部分の耕地を手放したり(放棄したり)あるいは宅地その他に転用しながら、わずかに残した耕地でもって、自家用の農作物、あるいは都市に出た息子・娘に送るための農作物を細々と栽培している、という、名ばかり「農家」がかなりの割合に達しているのではないか。
 こうして、私たちの日本社会から、伝統的な農家の姿はその大部分が消えようとしている。

 一方、家業的経営の商工業者も急速に減少している。その中のいわゆる個人商店(小売)の数についてみると、1958年には、全国小売店舗総数、約140万店舗のうち、実に90%を個人商店が占めていた。数にすると約126万店舗となる。まさに、小経営中心の小売業であった。その24年後の1982年では、店舗総数が約172万店舗に増加し、その中で個人商店が占める割合は約73%に低下するものの、店舗の数は約125万店舗で、個人商店の数自体は維持されている。しかし、2002年になると、店舗総数は約130万店舗に減少し、その中の個人商店は約55%で、数にすると約72万店舗である。なんと、この20年間で約53万店舗、42%以上も減少している。凄まじい減少である。そして、その後も減少の速度は増大する一方である(2004年から2007年のわずか3年間で13.4%も減少)。
 こうした個人商店の激減ぶりは、身の回りの商店街の様子をちょっと思い浮かべれば容易に実感できるだろう。

 近世の日本社会における「被支配階級の構成する基本的社会集団」は「村と町」であると朝尾直弘はいう。その村を構成していたのが小経営の農家で、これが日本の人口の大部分を占めていた。町を構成していたのが小経営の商工業者であった。
 これらの小経営が基本的社会集団を構成するという社会構造は、明治維新を経てもなお、一定の変化を見せつつも、存続していった。例えば、寄生地主にしたところで、こうした小経営の農家とそれらが構成する集落の存在を前提にしてはじめて成立するものであったことは言うまでもない。
 そして、今、20世紀末から21世紀初頭にかけて、これらの小経営のほとんどが姿を消そうとしている。

 このようにして、17世紀に始まった小経営の時代は、400年後の今、終焉の時を迎えているのである。

 次回は、日本型雇用の労働者とその家庭の“小経営性”と、その衰退について。

※今回のまとめ記事の内容について、詳しくは以下の過去記事を参照のこと。
農家と農村の消滅について
  近世の終焉としての現在 4
  近世の終焉としての現在 5
個人商店や商店街の消滅について
 近世の終焉としての現在 6
小経営の時代の終わりについてのまとめ記事
 近世の終焉としての現在 7

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2009/03/09

近世の終焉としての現在 19  まとめ~その1

 昨年の春以来、「近世の終焉としての現在」というタイトルの記事を計18回連載していきた。そろそろ“おわりに”を書いて仕舞いたいが、その前に、10か月の間、とびとびで連載した記事の内容を、これから3回くらいで簡単にまとめておいてから、“おわりに”を書くことにしたい。

その1.日本史の時代区分をめぐって

 私たちが生きる現代日本社会の直接のルーツは、歴史上のどこにあるのか。この問いに対しては、明治維新期以後の近代化(欧米化・資本主義化など)の過程にルーツを求めるべきだ、と答えるのがたぶん一般的なんだろう。いわば、近世・近代(近現代)断絶論である。
 
 だけど、尾藤正英・朝尾直弘という近世史研究における二大権威の意見をもとにすれば、現代社会のルーツは近世社会の成立過程にある、という別の答えが出てくる。つまり、近世・近代(近現代)連続論である。

 とりあえず、尾藤の主張を引用しておく。「そうしますと、明治維新ではっきりと前と後に区切られるように見えながら、実際には近世と近代も連続しているのではないかという考え方が生まれてきます。少なくとも私はそう考えています。(中略)つまり古代、中世は連続していて、中世と近世の間、南北朝から戦国の時期、そこにこそはっきりした区画線があって、そのあとまた近世、近代は連続している」。(尾藤『江戸時代とはなにか』岩波書店1992)。

 明治維新と近代化の意義を相対的に軽く扱うことにもなるこうした考え方に対しては、きっと異論も多いだろう。
しかし、そもそも、このような問題に対して、唯一絶対の答えがあろうはずもない。要するに、モノの見方の問題なんだから、見る人が違えば、あるいは、見る人の立ち位置が違えば、モノの大きさやかたちはガラッと変わる。どれかひとつの見方が絶対的に優れているということはあり得ない。
 したがって、どのような時代区分を選択しようか、と考える場合、どのような時代区分がより正しいか、ではなく、現在の自分の立ち位置においては、どのような時代区分がより役に立つのか、という基準で選択することになる。

 で、今、私が立っているのは、現在の日本社会における変化の意味を考えよう、とする立場である。その場合、有効なのが、近世・近代(近現代)連続論だと思う。

 上で紹介したとおり、尾藤や朝尾は、近世と近代(近現代)は連続しているという。近世社会の成立過程に現代社会のルーツを求めることになる。

 さて、私がこれに付け加えたいのは、そのように近世から近代(近現代)へと連続してきた時代が、まさに今、私たちの目の前で終わろうとしている、ということである。

 現在の日本社会において生じている諸変化は、ざっと400年間続いてきたひとつの時代の終末現象として位置づけることでこそ、それらの変化がもつ意味がより深く理解できる。私たちは、日本社会の歴史的な大転換に立ち会っているのである。

 私たちの眼前で終焉をむかえようとしている時代。おおよそ17世紀に始まり、20世紀末から21世紀初頭に終わろうとしている時代。とりあえずこれを、小経営の時代、と呼ぶことにしたい。


※今回のまとめ記事の内容について、詳しくは以下の過去記事を参照のこと。
 近世の終焉としての現在 1
 近世の終焉としての現在 2
 近世の終焉としての現在 3

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2009/03/06

マルチチュード、フリーター、近世の終焉としての現在

 最近、ネグリ、ハートの本を読んでいる。何を今さら、遅れてるぅ、って笑われるかもしれないが。
 うかつにも、今までは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートという名前と、彼らが<帝国>論というものを唱えているといったぐらいのことしか知らず、その論の簡単な中身を確かめることすらしてなかった。うーむ、お恥ずかしい。

 なぜ恥ずかしいかというと、かなりのブームだった彼らの本の内容をよく知らなかったということもあるが、もっと恥ずかしかったのは、このブログでしばらく連載してきた「近世の終焉としての現在」という記事の内容と、ネグリ、ハートの主張とが、かなり重複しているからだ。きっと、このブログ記事を読んだ多くの人は、なぁんだ、これ、ネグリのパクリじゃん、と思っていたに違いない(誰か教えてくれてもよかったのになぁ)。

 たとえば、「地域」やら、「労働組合」やらが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する拠点にはなりえないだろう、という趣旨の私の主張は、実は、そのまま、ネグリ、ハートの指摘であった。

 そして、労働の問題。
 そもそもこの「近世の終焉としての現在」という記事の連載を思い立ったきっかけは、4年前にNHKで放映された「フリーター漂流」という番組をみたことにある。
 前にも話したが、番組をみた直後にとりあえずの感想を「前編」「中編」としてアップしたものの、まとめとなる「後編」が書けなくなった。もちろん私が怠慢なせいもあるが、これは軽い感想を書いて終わりにするのではなく、歴史研究者としてちゃんと正対して書くべきテーマだと感じたからでもあった。で、その「宿題」を果たすべく、やっと去年の5月から書き始めたのが、「近世の終焉としての現在」という連載記事だ。 ネグリ、ハートが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する主体として示した「マルチチュード」(排他性・限定性をもつ近代「労働者階級」じゃなく多数多様性の労働者を指す概念としての「マルチチュード」)の問題と、「フリーター漂流」をみて感じた私の問題意識とは、言うまでもなく、そのまま結びつくわけだ。

 だからといってもろ手をあげてネグリ、ハート万歳じゃないが、これまで、ちょっとばかり日本史の研究をやりながら同時に現代の東京をあちこち見て歩くことによって自分の中で勝手に狭く積み上げてきた素朴な問題の構図と、彼らの提起する問題の構図とがかなり一致しているということがとても面白かった。
 極度に不勉強なせいで、幸か不幸か、<帝国>もマルチチュードも知らないまま、主に日本社会だけを素材に私が導き出した論点が、結果として彼らの提示する論点とかなり重複していたということは、図らずも、これらの論点の大切さの検証となるように思う(ということで、ひとつ、私の怠慢と結果としてのパクリとを許してやってください)。

 で、遅まきながら、ネグリ、ハートを読んでみようかなと。私にとっては取っ付きにくい『<帝国>』を後回しにして、まずは『マルチチュード』から読むことにしよう。
 読後の感想はまた後日。

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2009/02/05

2月14日実施予定の巡見『江戸を縦貫する』~ヒルズめぐり編のご案内

 前の記事でお知らせしましたとおり、2月14日に下記の要領で巡見を実施します。
    
 ・日時:2月14日 13:00から夕方まで
 ・集合:JR浜松町駅の北口改札外に13:00集合
     (新橋・東京駅寄りの改札を出て右手にある
      キップ売り場の奥の辺り)
 ・コース:浜松町汐留ビルと高層マンションゾーン
       →汐留日テレ周辺
       →(都バスで)六本木ヒルズ
       →(バスかタクシーで)アークヒルズ
       →(徒歩?)新橋→(JRで)品川インター
         シティとグランドコモンズ

 
※13日付記:空模様が少し心配でしたが、どうやら午後には晴れるみたいですね。ありがたい。
※集合場所のJR浜松町駅北口は、山手線・京浜東北線のホームにおりて、一番北の端(新橋・東京寄り)まで歩いて、突き当たりの下り階段を降りたところにあります。ホーム途中の階段やエスカレーターで上の階に昇らないように。そちらから北口にまわるのはちょっと厄介ですよ。

 東京の都市再開発地区を自分の足で歩いてみて、現代都市社会における“ユートピア”を体感しようという企画です。本当にそこは理想の都市空間なのか?

 ちょっと欲張りすぎのコース設定かなぁ。まあ、当日のみんなの疲れ具合をみて変更するかも。歩きやすい靴で来て下さいな。

 基本的には、各大学で私が担当する講義やゼミに出席したことのある人向けの巡見企画ですが、一般の方も歓迎します。一般の方は、事前に私宛にメールでご一報ください(アドレスはこのブログのプロフィールのページをごらんください)。

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2009/01/05

巡見「江戸を縦貫する」番外編“ヒルズめぐり”のご案内

 来月、2月14日(土)の午後に巡見「江戸を縦貫する」を実施する予定です。基本的には、各大学で私の講義を受けている学生さん(あるいは受けていた元学生さん)を対象にしてのお誘いですが、一般の方も歓迎します。
 午後1時くらいの集合にするつもりですが、まだ固まっていません。集合時間や集合場所については、後日、あらためてご案内します。

 今年度最後の巡見です。コースは、アークヒルズと六本木ヒルズの現況確認を軸にして、他にもう一箇所か二箇所まわってみる予定です。品川・大崎あたりの再開発地区に行くか、あるいは、久しぶりの表参道ヒルズに行くか。

 それでは、以下、ヒルズめぐりという企画の趣旨などを少し書いてみましょう。趣旨といっても、まあ要するに、都市のユートピアとして作り出されたヒルズを実際に歩いて体感しようというだけなんですが。

 「皆さまは六本木ヒルズ周辺のイメージはどんなでしょう???僕はカッコいいの一言に尽きると思います。六本木ヒルズ周辺地域は昔から根付いたコミュニティを大切にしていて、ビジネスだけの街ではなく総合的な複合タウンであることを教えてもらい、すごく感心しました!六本木ヒルズ周辺はビジネスだけじゃなく総合的な街なんだっていうことに気付かされたことによって六本木ヒルズはまたさらにカッコよく見えた今日この頃でした。(笑)」
(引用おわり)

 これは、ダイヤモンド社(ビジネス関連書籍などをメインとする出版社)が編成した「学生記者クラブ」の大学生さんによる企業取材の記事(「メンターダイヤモンド学生記者クラブBlog」2008.12.19付)からの引用です。なかなか微笑ましい文章ですね(笑)。取りようによっては、涙ぐましい?

 六本木ヒルズ。学生記者も言うように、世間一般では、しばしば、理想的な都市空間の代表例とされてきた街区です。その開発にあたったのが森ビルという不動産会社。
 次の引用は、その森ビルの社長が、自社のホームページの“社長あいさつ”で述べている、ヒルズに対する自賛の言です(無断リンクはダメらしいので、引用元の方が読みたい方は、お手数ですが、検索かけて森ビルのホームページをたずねてみてください)。引用中に出てくるアークヒルズとは、この会社が手がけた街区開発の第一号のことです。

 「森ビルの歴史は、既成概念への挑戦の歴史です。40年近く前、アークヒルズの再開発に着手したとき、「街の破壊だ」と非難されました。完成して21年、アークヒルズは緑に包まれ、成熟した街となりました。森ビルは街を破壊したのではない。既成概念に挑戦し、それを破壊したのです。多くの人が未知の世界に足を踏み入れることを戸惑います。再開発は、そうした人々と対話を重ね、夢を共有し、多くの法規制の壁も超えなくてはなりません。森ビルの仕事は楽ではない。しかし、ここに森ビルの存在意義があります。(中略)
 六本木ヒルズは、国内より世界で高く評価されています。この開発の意義を、世界が先に理解したことはとても象徴的です。森ビルのライバルは「世界」であり、評価を下すのは「未来」です。世界と都市の未来に照準を合わせ、必要とあらば、既成概念や過去の成功体験も捨てて前進します。」
(引用おわり)

 つまり、うちが作ったヒルズは素晴らしい、世界も評価している(その一方で国内の評価はまだ不十分である。それは日本人が古臭い都市概念にとらわれているからだろう)、というお話です。

 では、森社長ご自慢のヒルズはどんなところが素晴らしいのか。以下は、同じく、森ビルのホームページの中の「森ビルの都市づくり」というコーナーからの引用です。

 「森ビルが理想とする都市は「Vertical Garden City - 垂直の庭園都市」。細分化された土地を集約し、建物を高層化してつくるそのコンパクトシティは、様々な特長と魅力を持ち、これまでの都市が抱えてきた数々の課題への解決策も提示します。その都市を核にして、人と人が出会い、交流し、多彩で活発な経済活動や文化活動が生まれる。そこに暮らし、集う人々に活力を与えるだけでなく、安全で、安らぎに満ちた憩いの場所になる。建物とインフラだけで都市をつくることはできません。人々の暮らし、日々の営みを支え、育むこと。未来へ向けて地域やコミュニティの可能性を引き出し、発展の力になること。そのために、社会に対し、様々なヴィジョンや仕組みを提示し、働きかけること。時代の要請に応えながら、遥か先を見据えた都市づくり。それが森ビルの使命だと考えています。」
(引用おわり)

 高層化された垂直都市。つまりは、森社長の信奉する、あのコルビュジエが描いた理想都市の実体化がヒルズ、というわけです。その都市空間は、人々に活力を与え、安全や安らぎで満たされていて、地域やコミュニティの可能性を引き出す、と。

 そんな都市のユートピア、六本木ヒルズはいったいどんなところか。みんな、行ってみたいですよね。

 あと、この巡見では、アークヒルズにも行きます。前にも書いた通り、森ビルが誇るヒルズ・シリーズの第一号。六本木ヒルズの先輩。今年でたしか開業23年目。森社長いわく、「既成概念」を「破壊」して作られ、今は「緑に包まれ、成熟した街」だそうです。
 先に紹介した「学生記者クラブ」の別の記事を読むと、社長は、サステイナブル(持続可能)な街を作ることが大切だ、とも述べています。このアークヒルズで、社長が重視するサステイナビリティを検証してみましょう。

 今、都市を考える上で、森ビルのヒルズにこだわらなくてはならない理由については、こちらの過去記事を読んでみてください。

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2008/12/22

近世の終焉としての現在 18

  Ⅲ.近世の終焉としての現在
 
 ③名君政治の終わりと迷走(その3)

 前回の記事で書いたとおり、農家や、家族を中心に営まれる商工業者といった、小経営の保護・育成=「牧民」が、小経営の時代における基本的な政治課題であった。戦後の保守政治ももちろんそれを継承していた。そして、これらの小経営が保守政治を支える基盤を形成していた。

 それでは労働者の問題はどうだったのか。労働者は、高度成長期以降、社会におけるウエイトを増大させたが、その標準形はいわゆる日本型雇用のサラリーマンであった。私はそれを、擬似小経営的サラリーマンと呼んでいる。

 ここで少しおさらいを。日本型雇用のサラリーマンたる夫の労働は、家事全般を担当する専業主婦との組み合わせで成立していた。つまり、サラリーマン個人の生業ではなく、夫婦を中心とする家業として営まれていた。その存在形態は農家や個人商店などの小経営に類似したものであった。それゆえ、これを擬似小経営的サラリーマンと呼びたい。
 念のため付け加えておくと、日本のサラリーマンが擬似小経営的な形態をとることになった理由はまだわからない。従来の日本社会の基本的構成要素が小経営であったことに規定されて労働者までもが小経営的になった可能性もあるが、検証はできていない。ただ、明らかなのは、ともかく結果としては、日本型雇用のサラリーマンの家庭が、農家や個人商店などとよく似た形態をとったということである。これにより、小経営と擬似小経営的サラリーマンとが横断的につながり、一億総中流社会というイリュージョンを現出し、小経営の時代の終幕を飾った。

 さて、こうした擬似小経営的サラリーマンが労働者の標準形であった高度成長期において、彼らの保護や待遇改善を目的として機能した組織が労働組合である(したがって、擬似小経営的サラリーマンではない労働者、つまり、非正規雇用の労働者は、一般に組合から排除されてきたが、それが現在と比べて量的にも少なく、またその大部分が家計補助的な労働であったため、この排除はさほど問題とならなかった)。
 国政においては、これらの労働組合の支持を基盤とした社会党が最大野党として勢力を確保していた。また、左っぽいのが嫌いな組合に対しては、民社党という政党が用意されていた。
 政府・与党は、これらの野党と時に対立しつつもその要求に配慮しながら、政治を遂行していた。また、財界においては、日経連という組織が、組合側と向き合って労使の妥協点を見出し、それに合わせて経営者側をまとめていく役割を果たしていた。そして、この労使の妥協を調整し成立させることが労働行政の重要な役割であった。
 このようにして、労働組合という組織を媒介にして、政治が擬似小経営的サラリーマンを把握する回路が形成されていたのである。この回路を通じて、主に、雇用の安定と経済状況に応じた賃上げとが労働者にもたらされ、いちおうの幸福感を与えていた。

 以上、前回と今回の記事でみてきたように、かつて、政治は、守り育てるべき対象として小経営を把握していたし、擬似小経営的サラリーマンが労働者の標準形となった時期においては、共にこれをも把握する体制をとっていた。
  “小経営の時代”において、政治が国民の多数の幸福を実現するためには、とりあえず小経営や擬似小経営的サラリーマンの幸福を実現すれば良かった。そして、それを実現するための政治体制がかたちづくられていたのである(なお、そんな国民多数の幸福実現という課題が常に最優先されたわけでないのは前に書いたとおりである。念のため。)。

 ところが、現在、小経営と擬似小経営的サラリーマンは、急速に衰退、あるいは消滅している。労働組合もそれに合わせて衰退しつつある。増大する非正規雇用の労働者を組合に収容し、自分たちの収入を削ってまでこれを救おうなどという度量を組合に期待するのはどだい無理だろう。他方、かつての日経連のように、経営者たちに対する強いイニシアチブをもちながら労使交渉を遂行しうる財界組織も今は無い。結果、政治は、国民多数の幸福を実現する方法、牧民の方法を喪失してしまった。
 かつての政治は、国民多数の姿を、小経営および擬似小経営として捉えておけば良かった。
 しかし、現在の政治は、国民の姿を具体的に捉えることがまったくできなくなってしまった。「無党派」、「消費者」あるいは「日本人」といった、抽象的な姿で捉えることしかできなくなってしまったのである。

 このような状況において、滅び行く小経営を支持基盤とする自民党は低落の一途をたどっていた。小経営と擬似小経営的サラリーマンを基本とする産業構造も、グローバル化の中で崩壊し始め、特に、安い労働力を求める企業の海外流出による産業の空洞化が顕著となっていた。

 そんなとき、「自民党をぶっ壊す」ことを旗印にした政治家が人気を集めた。上述の産業構造の崩壊などがもたらす閉塞感の中にいた人々が彼を支持したからである。彼の手法は、要するに、世界標準(アメリカ標準?)に適合しない小経営と擬似小経営的(年功序列で“終身”雇用の)サラリーマンには見切りをつけ、グローバル化を積極的に受け入れることであった。
 これまで選挙の際には地域の小経営の熱心なとりまとめ役として自民党に協力してきた特定郵便局の局長たちを敵に回すといった彼のやり方は、従来の自民党の政治家から見れば、まったく正気の沙汰とは思えなかったはずである。
 しかし、こうした既存の利権にしがみつく「抵抗勢力」とのバトル、というパフォーマンスを、都市部を中心とする「無党派」の人々は熱狂的に支持した。
 だが、実のところ、彼には、幸福にすべき国民の姿は捉えられてはいなかった。まずは、より安価な労働力と雇用調整の自由を獲得した大企業がグローバル化・新自由主義化の下で潤い、金持ちがもっと金持ちになりやすい環境を整えれば、やがてはそれらからしたたり落ちる雫が、姿の見えない、つかみどころのないうぞうむぞうの輩まで行き渡るだろう、といった、例のトリクル・ダウンっていう、粗雑な発想である。

 その後、彼によってアイデンティティをぶっ壊された自民党の迷走ぶりについて、細かな説明はいらないだろう。相変わらず、幸福にすべき国民の姿が把握できないままの自民党は、とりあえず、朝鮮半島の北の方にいるパンチパーマの「悪者」と格闘してみせる「正義の味方」をリーダーに祭上げ、「日本国民」総体の支持を狙った。が、その格闘は空回りに終わり、国民の方も「美しい国の住民として頑張りましょう。」とかいった抽象論にはまったくついていけず仕舞いであった。(以下、ばかばかしくて略。現在にいたる。例えば、国内の全世帯にお金をばらまこうっていうナントカ給付金なんてアイデア自体、政治が具体的な牧民の方法を喪失してしまったことの証左だろう。)

 一方、田中角栄の愛弟子である野党のリーダーは、自民党が見放した小経営に対して、昔ながらの「牧民」のパフォーマンスを繰り広げた。中国地方の山間部の村にビールケースを積んで遊説の第一歩を刻んだこの前の参議院選挙では、自民党に愛想をつかした小経営がまず彼を支持した。ただし、もはや国民の少数となった小経営の支持だけでは選挙には勝てない。しかし、「痛み」と引き換えに約束されたトリクル・ダウンが幻に過ぎなかったことに失望した人々、小経営の時代末期の輝きを懐かしむ人々までもが、田んぼのそばのビールケースの上の彼にノスタルジックな期待を寄せた。結局、彼は記録的大勝利を収めた。次の総選挙も、おそらく、彼はこのスタイルを踏襲するだろう。しかし、彼には幸福にすべき国民の姿がちゃんと把握できているのだろうか。

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2008/12/10

近世の終焉としての現在 17

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

 ③名君政治の終わりと迷走(その2)

 小経営の時代、政治における最大の課題は、当然のことだが、小経営の保護・育成であった。近世段階における「名君」の最重要の仕事は「牧民」である。それは近代以降も変わることのない政治の基本課題であり続けた。
 もちろん、小経営の保護・育成が、いつなんどきも最優先で不可侵の課題とされたわけではない。他の課題、例えば、戦争の遂行や企業の育成、金融問題の解決、あるいは政治組織の自己防衛などが優先されて、小経営にダメージを与えることもあった。しかし、そうしたダメージを与えたことは、政治の失敗として確実に認識され、その解決が図られてきた。
 戦後の保守政治の支持基盤が、基本的には、農家や小規模の商工業者たちといった小経営が形成する地域コミュニティや同業者組織にあったことは説明するまでもない。外国産の安価な農産物が国内市場に入ってくることを阻止し、大規模な小売店舗の出店を規制し、それらスーパーマーケットで酒や薬が販売されないようにすることが、そうした支持基盤によって立つ自民党の議員たちの責務であった。各選挙区における「牧民」が彼らの仕事だったのである。
 行政のあり方も同様である。例えば、農水省。いわゆる事故米の問題だって、別に、なんとかフーズとかいった悪徳流通業者に儲けさせることがお役人の本来の目的だったわけではない。国内の米作農家の保護を目的に、ミニマムアクセス米という問題だらけの制度を運営していくなかの無理(と手抜き)から発生した、おそまつな事件である。このように、農水省の従来の仕事は、農家の保護・育成であって、そんな役人たちや、農水族議員の中でのしあがってきた大臣が持っているメンタリティとして、所詮「消費者」は受け持ち範囲の外の存在であり、「やかましい」だけの外野だったのは当たり前である。
 (次回は、擬似小経営的サラリーマンと労働組合について)

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2008/12/08

近世の終焉としての現在 16

  Ⅲ.近世の終焉としての現

 ③名君政治の終わりと迷走

 「近世の終焉としての現在」シリーズの続きを。ますます混迷の度合いを強める最近の政治状況のニュースを横目にみながら、私個人はちょっと苦手な政治の話をしようと思うが、このシリーズ記事を書くのが久々なので、自分の記憶を取り戻すためにも、今回はちょっとおさらいを。

 「近世の終焉としての現在」とは、私たちの生きている現在、つまり、20世紀末から21世紀初頭にかけて、日本社会が、歴史上、最大級の転換の過程にある、というお話。

 私たちのちょうど目の前で終焉をむかえようとしているのは、小経営の時代、である。ここでいう小経営とは、家族労働を基本とした家業的経営のことで、農家・個人商店(商家)がその主たる構成要素である。
 小経営の農家とそれらが形成する共同体としての村、そして、小経営の商店とそれらが形成する共同体としての町。こうした小経営と地域コミュニティが社会の基盤をなしていた時代、それが小経営の時代である。
 そんな小経営の時代が始まったのが近世である。その後、明治維新というやや大き目の転換点があり、農家と村、商店と町もそれぞれある程度の変化を見せるが、でも、所詮それは“変化”でしかない。現在進行しているのは、単なる“変化”にとどまらない。それらの存在そのものの“消滅”という事態である(詳しくは、このシリーズのを参照のこと。また、それら農家・個人商店といった小経営と一緒になって「一億総中流社会」を形成していた擬似小経営的サラリーマンと呼びうる日本型雇用の労働者の特質とその衰退状況については、10を参照のこと)。
 したがって、今起きている日本社会の転換は、明治維新などを上回る、より根源的な転換なのである。17世紀ごろに始まった小経営の時代は、その後400年間ほど続き、そして現在、終わろうとしているわけだ。

 このシリーズの後半の記事では、小経営の時代の終焉がもたらす社会の変化の例をいくつかとりあげてみた。
ひとつは、家・子供・結婚の不要化(1314を参照)である。小経営(および擬似小経営的サラリーマン)が無くなると、家はいらなくなる。家がいらなくなれば、当然、子供や結婚の必要性も大幅に低下する。現在、深刻化している少子化や非婚化の問題はこうして発生したと考えられる。小経営の時代の終わりは、こうして、私たちの人生の目標設定、幸福観、価値観に大きな変化をもたらしているといえるだろう。

 もうひとつは、地域コミュニティの解体である(15を参照)。従来の地域コミュニティは、本来、農家や個人商店の経営を成り立たせるための結合である。したがって、それらの小経営が消えると、当然、地域コミュニティも解体する。
 子育ての環境整備も、そんな小経営の継承のため、地域コミュニティに要請された機能のひとつであった。そして、この機能は、日本型雇用の擬似小経営的サラリーマンが集住する団地やら住宅街の場合は、最優先で求められる機能となった(農家などと違って、会社づとめのサラリーマンの各家庭の「経営」そのものは、およそ地域コミュニティを必要としておらず、したがって子育ての環境整備こそが最優先の機能となった)。そのため、それら団地や住宅街で住民の世代交代が起きない場合、つまり子供がいなくなってしまった場合はコミュニティが解体する。
 こうした現象は以前から発生していた。そして現在、擬似小経営的サラリーマンが衰退することで、コミュニティの新規成立や更新は抑制されている。結婚もせず子供も作らず流動するフリーターたちにとって、従来型の地域コミュニティは無用である。
 こうして、都市部・農村部を問わず、地域コミュニティの解体は急速に進んでいる。また、昨今の地域コミュニティ再生運動の多くが、住民のごく一部だけによる、ノスタルジックなコミュニティごっこのイベントに終始してしまうという問題の背景は、およそ、こんなところにある。

 17世紀に始まる小経営の時代。それを終焉へと導いたのは、基本的には、日本の資本主義化・工業化であったのだろう。しかし、上にも述べたように、サラリーマンの標準形が日本型雇用の擬似小経営的サラリーマンとなることで、小経営の時代の寿命はしばらく延ばされてきたように思う。その最後の輝きが「一億総中流社会」のイリュージョンだったのであろう。こうして先送りされてきた日本の「伝統社会」の終焉が、ここにきて決定的なものとなっているのは、おそらく、日本社会がグローバル化の波に飲み込まれたことによるのだろう。ただし、こうした社会の転換の要因については、精密な分析と検証が必要だと思う。

 以上、おさらいでした。次回は、小経営の時代の終焉における、政治の混乱について。

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2008/11/26

今週末予定の巡見「江戸を縦貫する」の延期について

 久しぶりの更新ですが、ちょっと残念なお知らせです。
 今週末の29日土曜に、吉原・上野・浅草界隈の巡見「江戸を縦貫する」の実施を以前から予定していましたが、私の仕事の都合で、どうしても今回は中止せざるをえなくなりました。
 出講先の各大学では、すでに中止の旨をお伝えしましたが、こちらのブログでのご案内をお待ちだった方もいらっしゃるかと思いますので、以上、遅くなってしまい恐縮ですが、お詫びとともにご連絡いたします。

 巡見は中止ですが、29日は浅草酉の市の真っ最中。巡見仲間の何人かは、昨年、知り合いになった熊手売りのお店で販売などのお手伝いにいくようです。ご都合のつく方は、どうぞ、お出かけになってみてください。

 次回の巡見は、12月なかば、あるいは、年が明けて各大学の後期試験が終了したくらいに実施予定です。また決まり次第、こちらのブログでもご連絡します。

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2008/10/22

外国人の幕末日本見聞記の“あれれ?”

 前回の記事で、上野・浅草界隈の巡見のことを書いた。この巡見のポイントのひとつが上野山下で、そこでは、『江戸名所図会』の「山下」図を片手にあちこち歩いてみた。

 今回は、そんな上野山下と『江戸名所図会』にまつわる、ちょっとしたお話を書いてみよう。

『江戸名所図会』の上野山下
 
 近世期の上野山下の状況をなるべく精密に復元することが、大学院修士時代の研究課題だった。その際、『江戸名所図会』の「山下」図の緻密な描写は、もっとも頼るべき史料であった。その当時、大学からの帰り道、上野駅を利用していた。というわけで、ほとんど毎日かつての上野山下の跡を歩きながら、頭の中で、現代の上野駅前の風景に「山下」図の情景(こちらこちらを参照)を重ねてあれこれ想像をめぐらしたものである。

『アンベール幕末日本図絵』

 そんなある日、上野山下のことを詳細に記した、ある文献に出会って衝撃を受けた。それは、『アンベール幕末日本図絵』(高橋邦太郎訳、雄松堂、1969-1970年)である。現在、この本は、講談社学術文庫で『続・絵で見る幕末日本』として文庫版化されている。
 スイスと日本との修好通商条約締結のために、文久2(1863)年から翌年にかけての十数か月間、日本に滞在したスイス人で、スイスの時計業組合の組合長でもある、エメェ・アンベールが記した日本滞在記『日本図絵』が原本である。

アンベールの上野山下

 一部引用してみよう。「山下の大きな広場に近づくにしたがって、群衆の数はふえてゆく。歩道には、竹と葦簾でつくった仮小屋が所狭しと並んでいる。その他、あちらこちらに散らばって、特殊な商人が店を出すが、彼らは群衆にぐるりと取り巻かれて、人垣の中で商売をしている。(中略)山下の広場にだけで、二十から三十も見世物小屋がある。そこには、軽業師、曲芸師、手品師をはじめ、伝説の語り手、庶民の笑劇、あるいは歴史に因んだ仮装行列の役者がいる。この他にも、一、二の曲馬団の興行がある。(中略)めぼしい小屋はかなり遠くからもそれと分かるように、高い櫓でそれと知れる。櫓といったところで、実際には油紙で覆いをかけた、竹の籠のようなものにすぎない。ここで上演される演目は大劇場のそれと比べると、文学的な価値はずっと劣っている。しかしながら、私はこんなことを考えている。もし、その脚本の中からよいものを選び、丹念に翻訳してみれば、日本の国民の真髄を理解するのに貴重な資料を、われわれに提供してくれるだろうと。」

悔しい!

 これを初めて読んだときには、本当にショックを受けた。それは、悔しさに似た思いだった。ここに記述されているのは、まさに、あの『江戸名所図会』の「山下」図そのものの情景である。自分が、「山下」図をもとに、江戸町奉行文書などのなかにわずかに残る断片的な史料を分析して、なんとか復元しようとしていた上野山下の状況が、ものの見事に、というか、あっけなく記録されてしまっている。それを読んでまず抱いた感情は、新たな史料を見つけた喜びではなく、まさに、悔しさであった。「そりゃ、まあ、実際に見た者には敵わないよな。」と。

あれれ、変だなぁ

 ところが、数日後、あることにふと気づいた。上野山下で葭簀張が出ていたのは、広場の中の火除明地とされた区域だが、そこに葭簀張を設えての営業は、天保改革の際、傍らでの床店営業と一緒に禁止された。そうして床店・葭簀張は撤去された。その後、当該地域の区画変更などを経て、安政年間に床店の営業は復活するが、かつてのような葭簀張を数多く設置しての大々的な興行などは復活していないはずである。つまり、アンベールが滞在していた頃の上野山下には、例えば、アンベールが言及しているような、「高い櫓」やら曲馬興行などは存在しないはずである。ちょっと変だな。
 そんな疑問を抱いて、もう一度、アンベールの記述を読むと、その内容が、『江戸名所図会』の「山下」図に酷似していることに気づいた。初読のおりには、あまりに見事に『江戸名所図会』の世界と同様の情景が記述されていて、それゆえ、その細密で正確な情景描写は本物であると信じ込んだわけだが、あらためて読むと、アンベールの記述は、『江戸名所図会』と似すぎていた。
 『江戸名所図会』の刊行は天保5年と7年である。つまり、天保改革によって山下の床店・葭簀張が撤去されるより前である。だから、当然、その挿絵のなかには、広場における床店・葭簀張の営業の様子が描かれているのである。

アンベールの捏造

 なるほど。要するにアンベールは、自分の眼で見た上野山下の状況を記録したのではなく、おそらくは、帰国後、『江戸名所図会』を傍らに置き、いかにも自分が実際の上野山下を訪ねたように見せかけて、本当は、『江戸名所図会』に頼って、想像による上野山下の風景描写を書き上げたのであろう。

 例えば、私が実際に行ったイタリアの町の滞在記を書く場合、「この町のドゥオモは何世紀に誰それの設計によって建てられたもので云々」といった記述を正確にするため、旅行ガイドブックなどを参照しながら書くことがある。アンベールが『江戸名所図会』を日本土産として持ち帰っていたことは、彼の本の挿絵のいくつかが、『江戸名所図会』の挿絵を下敷きにして描かれたものであることからも明らかである。アンベールは、そうして持ち帰った『江戸名所図会』などを参照しながら、江戸滞在記をまとめたのであろう。そのとき彼は、自分が見てもいない場所、上野山下の訪問記までをも、あの見事な『江戸名所図会』を眺めながら、ついつい捏造してしまったのだろう。

気をつけなきゃね

 文庫版の裏表紙には、「該博な知識、卓越した識見、犀利な慧眼。(中略) 江戸の町とその生活を見たありのままに描写する。」という“宣伝文句”が載せられている。当時の欧米人の日本旅行記に対しては、ついつい、それなりの客観的な観察結果としての正確さを期待してしまう傾向が、現在、一般的に存在するように思う。ところが、どっこい。もし、それらを史料として利用するなら、当たり前のことだが、やはり、十分な史料批判が欠かせないように思うのである。

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2008/08/04

『信頼と安心の日本経済』

 本の宣伝です。

 岡村宗二編『信頼と安心の日本経済』(勁草書房、2008年6月)

 バブル、デフレ、グローバリゼーション、構造改革、雇用問題、環境問題、資源問題といった喫緊の課題を、経済学の方法で分析して解決への指針をさぐる、という本です。そして、導入部と“まとめ”の他、11章の各章を通じて市場主義に対する問い直しがなされています。

 経済学を教えていらっしゃる大学教員の他に、シンクタンクの研究員や官僚、民間のエコノミストの方々の論文を集めた本です。皆さん、経済学の専門家です。そこになぜか、歴史研究者の私が執筆者に加わって、第七章「江戸の格差社会と現代東京」を書きました。

 本書を通じて、先にあげた現在の日本社会の諸課題について実証的に深く知ることができると同時に、現代社会を分析するツールとしての経済学の魅力にふれることができます。おそらく、あちこちの大学の経済学入門の講座などでテキストとして使用されることもあるでしょう。

 そんななか、例外的に、私の章は、現代社会を分析するツールとして、歴史学、なかんずく日本近世史研究が有効であるということを、経済学の専門家や、経済学に興味をもつ人にわかってもらいたくて、そのことを隠れたテーマに据えて書きました。

 私の場合、いくつもの大学を非常勤講師としてかけもちする日々ですが、歴史学以外の学問である、商学や経済学、法学などを学ぶ学生さんたちを相手に日本近世史の講義をする機会が大半です。そうしたなかで、常に「自分が教えている近世史が学生さんたちの役に立つのだろうか?」という問いを胸に抱いて講義をします。そんな講義のスタイルが反映したのが今回の文章だと思います。

 内容は、このブログで最近書いている連載記事「近世史の終焉としての現在」(2008年5月以降)でおおざっぱに紹介したような問題意識を下地にして、昔書いた「私の研究は面白いですか?」10「(同右)」12でまとめたかつての修士論文の骨子を、リライトしたものになっています。

 まあ、そんな私の章はともかく、現在の日本社会の諸問題を、経済学の視点から、しっかりと捉えてみたいという人は、ぜひ読んでみてください。

 

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2008/07/28

8月8日に巡見やります

 江戸城本丸を出発して、三ノ輪の浄閑寺(亡くなった吉原遊女の投げ込み寺)までを歩きとおす巡見「江戸を縦貫する」は、例年、その全行程を、1.江戸城から日本橋まで、2.日本橋から浅草まで、3.浅草から吉原まで、の3区間に分けて歩いています。今年は、すでに第1区間と第3区間を歩きました。というわけで、今回は残りの第2区間を歩きます。

 第2区間では、東京証券取引所や神田・浅草の問屋街などを巡ります。そのため、通常のような土曜開催だと休業中の施設や商店も多く、歩いていても面白くないので、夏休み期間中の平日開催となります。

 この第2区間は、他区間と比べると、一見、地味なコースなんですが、個人的には、最も興味深く歩けるコースです。特に神田の繊維問屋街が面白い。この問屋街にみられる毎年毎年の少しずつの変化に注目しています。それが、新しい社会を生み出していけるようなたくましい芽なのか否か。問屋街の生命力、市場の生命力の問題。
 例えば、築地の魚市場。取扱量が低落しつつも、最近、漫画化・映画化されたり、外国人旅行客にとって都内でもっとも人気の観光スポットになったりで注目を集めています。それはおそらく築地の魚市場の底力とでも呼ぶべき魅力ゆえだと思いますが、市場としての神田のポテンシャルは築地を上回る可能性だってあるようにも思います。

 ここまで読んで、いったい何のことかいな?と思った人、神田の問屋街を見たことのない人は、ぜひ一緒に歩いてみてください。かなり面白いと思うんだけど。

 なお、この巡見全体の趣旨や目的については、こちらの記事を読んでください。

 おおまかな行程は、日本橋~兜町~人形町~神田問屋街~浅草橋問屋街~浅草寺。そのあともし時間と体力に余裕があれば合羽橋道具街から稲荷町まで。当日の暑さ次第でしょう。

日時:8月8日(金) 13:00から(所要時間はだいたい4時間弱かな)
集合:JR神田駅に13:00集合

 集合場所の詳細は講義中にご案内したとおり。ご案内できていない方は、お手数ですが、私、小林宛にメールをください。アドレスは、このブログのプロフィール頁にあります。


 次回以降ですが、11月29日(土)に酉の市・吉原・佐竹ヶ原・柳原土手跡などを歩く予定です。その他には、各“ヒルズ”や品川あたりの都市再開発地域めぐりも実施予定です。こちらは10月末、あるいは来年2月中旬になると思います。

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2008/07/16

近世の終焉としての現在 15

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ②賞味期限切れの地域コミュニティ

 前回・前々回の記事では、小経営と擬似小経営の衰退(すなわち、農家や個人商店などの小経営、および擬似小経営としての日本型雇用のサラリーマン家庭の衰退)によって要らなくなるものとして、結婚や子供を取り上げた。

 小経営の時代においては、小経営の維持に適合的なかたちで、結婚や子づくりを強制する社会的動機が形成されていた。しかし、現在、その小経営の時代が終わることで、結婚や子づくりの動機は消えつつある。非婚化・少子化はそのために起きている現象ではないか、という思いつきを示してみた(まあ、思いつきには過ぎないんだけど、たぶん当たっているだろう)。

 さて、結婚や子供と同様、小経営の時代が終わることで無用となったものが、従来型の地域コミュニティである。

 今、我々の社会からは、農村や商店街といった地域コミュニティが、急速に消えつつある。その具体的状況については、前章でだいたいのところを確認した。

 農家や個人商店といった小経営が無くなれば、そうした経営を持続させるために形成されていた集団、つまり、農村や商店街といったコミュニティが無くなるのは当然のことである。

 他方、擬似小経営的なサラリーマン家庭が形成していた擬似的コミュニティも、今、崩壊しつつある。

 この擬似的コミュニティは、以前にも書いたとおり、子供を育てるための環境整備を第一の目的として作られる場合が多かった。目的が子育てのための環境整備であるため、場所によっては、同じ環境整備を必要とする農家や個人商店などともリンクするかたちで、この擬似的コミュニティは形成されていた。PTAや子ども会、地域の少年スポーツ団体などがその実体をなしていた。担い手は主として母親たちであった。

 しかし、こうした擬似的コミュニティの多くは短命であった。それが農家や個人商店などとリンクして形成されていた場合、農家・個人商店の消失と共に弱体化し消えつつある。
 他方、擬似的サラリーマン家庭を中心に形成されていたコミュニティの方は、多くの場合、同世代のサラリーマン家庭が集住したため、子供の独立もほぼ同時期であった。そのため、低家賃・好立地の一部の公務員住宅や大企業の社宅などで世代交代が順調な場所をのぞくと、子育ての環境整備という目的を一挙に失って、ある時期からコミュニティ機能が急速に衰えていく。学校が廃校となり隣接する商店街も消えていった各地のなんとか団地やなんとか台ニュータウンがそれである。
 一方、擬似小経営的サラリーマン家庭が日本型雇用の崩壊によって減少するなか、こうした擬似的コミュニティの新たな形成は抑制されている。共働きの夫婦やアパート暮らしのフリーターには、こうしたコミュニティを作り支える余力は無い。

 このようにして、現在の日本社会から、従来型の地域コミュニティは消えつつある。

 昨今、地域コミュニティの再生を訴える声をよく耳にする。そこでモデルとされるのは、依然として、かつての農村や商店街といった地域コミュニティである。しかし、たいていの場合、こうした再生運動はうまくいかない。それはそうである。もともとこれらのコミュニティは、小経営の存立のために必要不可欠な集団として形成されたものであって、イベントサークルみたいな仲良しクラブではない。皆が生きていくためには、否応なく帰属しなくてはならない集団であった。
 用水の管理やアーケードの維持管理などなど、多種多様な、それなりにヘヴィな共同作業が核にあり、その延長上に、共同での祭礼や葬祭などのイベントもあった。
 現在、コミュニティの再生をうたって行われるお祭りなどのイベントは、ただのコミュニティごっこである。もちろん、こうしたコミュニティごっこだって、やらないよりはやった方が良いだろう。しかし、用済みとなった地域コミュニティが、これで再生するとは到底思えない。

 ノスタルジックなコミュニティ再生運動は、このようにほとんど無効だと思うが、さらにいうと、無効であるにとどまらず、有害となる可能性が大きい。
 地域コミュニティ再生運動の有害性については、以前記事を書いた。こちらをクリックして読んでみてくださいな。

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2008/07/07

近世の終焉としての現在 14

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ①少子化・非婚化(その後半) 
 
 相続されるべき小経営が消えることによって、子供をもうけることの必要性も無くなりつつある。

 では、子供が不必要になると、次に何が要らなくなるかといえば、それは結婚である。

 さらには、夫婦の労働を核とする小経営が消えたことによって、あるいは、夫婦の労働分担を必要とする擬似小経営のサラリーマン家庭が解体しつつあることによって、“経営上”においても、結婚の必要性は無くなった。

 ここで年齢別の非婚率の推移をみよう。1970年では、25~29歳男子の非婚率は46.5%で、30~34歳男子が11.7%である。これに対して、2005年には、25~29歳が71.4%、30~34歳が47.1%となっている。1920年だと、25~29歳が25.7%で、30~34歳が8.2%である。
 
 女性の方だと、1970年では、25~29歳が18.1%で、30~34歳が7.2%である。これに対して2005年では、25~29歳が59.0%で、30~34歳が32.0%となっている。1920年だと、25~29歳が9.2%で、30~34歳が4.1%である(クリスマスケーキなんて言葉が昔はあったよね。それも完全に死語になったわけだ。)

 このように非婚率は激増中である。おおざっぱにいうと、30~34歳の男性の場合、1970年以前では、10人中に1人くらいは独身がいるって感じだったのが、今は、10人中で5人近くが独身ということになる。
 30~34歳の女性だと、1970年以前では、10人中で独身者が1人いるかいないかという感じだったのが、今は3人に1人は独身である。

 このように、事実として、小経営が急激に減少したのとほぼ時期を同じくして、この日本においては、夫婦というものも、急激に数を減らしたのである。

 また、非婚化の進行と同時に、晩婚化の方も急激に進行している。特に女性の晩婚化が著しい。それは、結婚という行為が子供をもうけることを主たる目的としないものに変わりつつあることをも示しているのではないか。

 
 小経営の崩壊により、小経営の相続のために必要だった子供は不必要となり、小経営を成り立たせていた夫婦の協働も不必要となった。これらにより、結婚は要らなくなったのである。

 非婚率の急上昇と同じ理屈で、離婚率の急上昇についても、小経営の消滅という事態と関連づけることができるだろうが、それは省略。

 以上、小経営の時代の終わりにおいて、日本社会から子供や夫婦が急速に減っていく様子をみてきた。

 
付け足し
 もちろん、小経営の相続者としてではなく、愛情を注ぐ対象としての子供や、自分たちのDNAを受け継いでもらうための子供を、本能的に欲するということはあるだろう。つまり、より動物的というかプリミティブな、本能的動機による子づくりである。
 同じく、本能にもとづく恋愛の、そのひとつの形式的帰結として結婚も成立するだろう(ただし、ここでいう「本能」は純粋に先天的なものばかりではなく、当然、後天的な“教育”によって助長された「本能」も含めたい)。

 ところが人間というやつは、いうまでもなく、こうした本能的な動機だけでは動かない。本能的動機に社会的な動機が加わることで動く。

 日本社会においては、これまで、小経営の時代に適応したかたちで、結婚や子づくりの社会的動機が形成されていたわけである。
 この社会的動機は相当強力で、たとえ本能的動機が希薄でも、結婚や子づくりは成立した。恋愛無しの結婚もDNA的には非連続な養子取りも、小経営の持続を目的として、ごく当たり前に広く行われていたのである。

 しかし、小経営の時代が終わる現在、その時代に適応して成立していた社会的動機の方も、著しく弱体化している。結婚当日までお互いの顔もよくしらなかったなどという婚姻は姿を消した。養子をとることもごく稀になった(もし子供を得るのなら、それは自分(たち)のDNAを受け継ぐ存在であるべきで、そのために不妊治療などは発達しつつある)。

 昨今、少子化対策として、育児休暇制度の改善や保育施設の充実が進められようとしている。私も、子を持つ親として、もちろん、そういったことはどんどん進めていって欲しいと思う。
 
 しかし、これらの対策で少子化問題が解決することは、まずありえない。ピントはずれもいいところだ。

 いくら子づくりや子育ての“条件”を良くしたところで、基本的にはダメである。今、少子化問題を解決したいのなら、子づくり・子育ての“条件”だけではなく、小経営と共に壊してしまった子づくり・子育ての社会的動機の再建か、あるいはそれに代わる新しい社会的動機の創出が何より必要であろう。
 もし少子化問題を解決したいのなら、という話だが。

 結婚という形式の方はどうしよう? まあ、こっちも、もし復活させたいと思うなら、そのための社会的動機を考案しなきゃね。それとも、こっちはもう要らないって人も、たくさんいるのかいな。

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2008/07/02

近世の終焉としての現在 13 

  Ⅲ.近世の終焉としての現在

  ①少子化・非婚化(その前半)

 前章では、2000年前後の日本社会において、つまり、ちょうど私たちの目の前において、近世以来の小経営の時代が幕を下ろそうとしている状況を確認した。
 これは、日本社会の大転換を意味することだと思うが、そう言われてもピンとこない人がいるかもしれない。そこで、小経営の時代の終わりに起きている社会現象をいくつか挙げてみることにする。

 まずは、小経営つまり家業的経営が無くなると、それにともなって何が無くなるのか、という問題から。

 小経営が無くなることで、その必要性を失い、世の中から減っていくのは、結婚と子供だろう。それから伝統的な地域コミュニティなどである。

 今回は、減っていく結婚・子供について。

 小経営が順調な場合、例えばそれが農家であれば、田んぼや畑を相続する跡継ぎが必ず求められた。そのためには、必ず結婚しなくてはならなかったし、また、夫婦は必ず子供を作らなくてはならなかった。
 これらがうまくいけば、丹誠込めて耕した田んぼが他の家の者に奪われてしまう心配などはしなくてすんだ。また、老後は、跡継ぎが面倒をみてくれた(したがって、小経営が順調な段階では、大規模な老人介護制度などは必要なかった)。事情があって夫婦に子供が出来ない場合、養子を貰ってきて、これを子供とした。

 擬似小経営のサラリーマンの場合、農家や個人商店などと比べると、何が何でも結婚して跡継ぎを作らなきゃ、というプレッシャーは本来無いはずである。しかし、そんなサラリーマンやその妻たちも、その多くは、先代・先々代が農家であり、小経営的な家族観や人生観を継承していたのではないだろうか。
 子供を作り、それが男子であれば、教育にお金をかけて、自分と同じかそれ以上の学歴を与え、自分と同じがそれ以上の年収の会社へ就職させる。老後は跡継ぎ息子とその妻に面倒をみてもらい、家産を相続させる。子供が女子であれば、母親と同じサラリーマンの妻としての安定した生活を送らせる。これが、擬似的小経営のサラリーマンとその家庭の、人生の目的であり、幸福のかたちであった。

 しかし、小経営および擬似小経営が消えていく現在、例えば、フリーター同士が結婚した場合など、子供は不必要である。受け継がせるべき経営も家産も無い。したがって子供は不必要なのである。むしろ、自分たちが使える時間やお金を奪ってしまう子供は、いない方がよりマシな生活ができる。というか、フリーター夫婦の場合は、子供を育てるための時間もお金も不足している。

 正社員同士が結婚した場合でも、そのまま共働きを続けるケースが増えている。それは、女性の職業意識が変化したということもあるが、より切実なのは、夫ひとりの収入に頼っての生活設計はリスクが高く、それを回避するため、いわゆるダブル・インカムを続けた方が安心であるという理由だ。住宅ローンを抱えたまま夫がリストラされてしまい、それから専業主婦だった妻があわてて仕事を探しても、十分な収入が得られるような仕事にはつけない。
 こうした夫婦共働きの状態では、子供を育てることには様々な困難が発生するし、また、かつての擬似小経営的サラリーマン家庭をしばっていた小経営的な家族観や人生観・幸福観はその影響力を弱めている。
 そこでしばしば、特に必要でもない子供なんだから、作らなくてもいいだろう、という選択がなされることになる。(つづく)

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2008/06/30

近世の終焉としての現在 12

  「Ⅱ.小経営の時代の終わり」の章括(その後半)

 日本型雇用のサラリーマンとその家庭とのあり方が、農家や個人商店と似通っていることに注目して、これを擬似小経営的サラリーマン(あるいは、家業的サラリーマン)と呼んでみた。

 もちろん、日本型雇用については、すでにたくさんの研究が発表されている。その整理・理解もできていない状態だが、概観すると、これまでの研究は、サラリーマンである夫の労働形態や企業の雇用形態にのみに注目したものが多く、その妻である専業主婦の「労働」やサラリーマン家庭が形成する「コミュニティ」のあり方までを視野に入れた研究があまり無いように見える。
 で、それなら、とりあえず、擬似小経営的サラリーマンという見方はどうだろうか?という思いつきを書いてみたわけである。

 かつての日本社会の大部分が小経営(もっぱら農家)を基礎として形成された社会であったことの影響を受けて、本来は、小経営的ではないはずの労働者までもが、小経営的な様相を強く持つことになったのかもしれない。が、本当のところはまだわからない。

 ただ、少なくとも結果的には、日本型雇用のサラリーマンとその家庭が、小経営の農家や個人商店との間で、多くの共通点を持っていたことは確かだ。そして、その共通性にもとづいて、農家・個人商店・サラリーマン家庭などを横断して、一定の家族観・労働観・経済観・幸福観・倫理観などが共有されることになったのではないだろうか。

 ところが、今、農家や個人商店の衰退と時期を同じくして、擬似小経営的サラリーマンも退潮傾向にある。こうして、近世以来の小経営の時代は、小経営と擬似小経営とが生み出した「一億総中流社会」・「均質社会」の輝きを最後に、今、幕を下ろそうとしているのだろう。

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2008/06/25

近世の終焉としての現在 11

  「Ⅱ.小経営の時代の終わり」の章括(その前半)

 現在、私たちの目の前で、日本社会の根幹にかかわる、大規模な変化が起きている。それをひとことでまとめるなら、小経営の時代の終わり、ということになる。

 小経営としての農家、小経営としての個人商店が、その数を急激に減らし続けている。

 農業従事者とその家族からなる農業人口は、2006年には793万人余で、総人口比だとわずか6.2%に過ぎない。農業人口の著しい高齢化により、この先、減少率はさらに増大し、2025年には人口比2.7%にまで落ち込むと推計されている。

 個人商店の減少傾向を、とりあえず小売業だけについてみると、1982年には125万店舗あった個人商店は、その20年後の2002年には、なんと、72万店舗にまで減少している。53万店舗も減少するという凄まじさである。

 そして、このような農家と個人商店の激減によって、全国規模でみると、農村(農業共同体としての農村)と商店街(独立した商店経営者が形成する共同体としての商店街のことであり、大規模小売店の周りにチェーン経営の商店が並ぶ繁華街のことではない)の多くがその姿を消しつつある。

 「基本的社会集団」として、これまで地域社会の核をなしていた農村と商店街とが、今、消えようとしているのである。

 私が現在の社会変化を、小経営の時代の終わり、と呼ぶのは、以上のような状況理解に基づいている。

 と、まあ、ここまでのお話も、かなり大雑把な思いつきみたいなものだけど、さらに、雑駁な思いつきのお話を加えてみた。

 いわゆる日本型雇用のサラリーマンを、擬似小経営とみて、社会標準化されたそれと、本来の小経営である農家・個人商店とが一緒になって、小経営の時代の最後の輝きともいえる、一億総中流社会とか、均質的な日本社会とかいったイリュージョンを現出したのではないだろうか、というお話である。
 
 そして、農家・個人商店の激減と、この擬似小経営的サラリーマンの解体とによって、今、小経営の時代はいよいよ終焉を迎えつつあるのではないか、というお話である。(つづく)

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2008/06/23

近世の終焉としての現在 10

  Ⅱ.小経営の時代の終わり
  
  ⑤サラリーマンとその家庭の擬似コミュニティ的結合について

 いわゆる日本型雇用のサラリーマンとその家庭が、その基本的なあり様において、農家や個人商店などの小経営と共通する要素を多くもっていたことを前回の記事で述べた。
 今回は、こうした擬似小経営的サラリーマンとその家庭が形成した、擬似コミュニティ的な結合について書くことにする。

 擬似コミュニティ的な結合は、a.サラリーマンの職場において、および、b.その居住地において、形成された。

 a.職場における擬似コミュニティ的結合
 アメリカなどのサラリーマンの雇用は、一般的には、個別の業務に応じて、その業務をこなす能力をすでに有している人を即戦力として雇うというかたちでおこなわれ、もし、その業務が会社にとって不必要になると、それを担当するサラリーマンは解雇されるのが普通だという。
 これに対して、日本型雇用のサラリーマンは、ある業務に特化したかたちで雇われるのではなく、多くの場合は新卒者が、まずなによりも会社の一員となるかたちで雇用され、その後、社内での教育によって、その具体的な業務能力を高めていく。仮に、あるひとつの業務が会社にとって不必要になったとしても、それに従事していたサラリーマンたちは、同じ会社の内部において別の部署へと配置転換されるなどして、会社員という地位は継続されることが普通だった。
 こうして会社(巨大企業の場合は社内各部署)が、サラリーマンにとって、自分たちの帰属する共同体のごとき存在となっていた。
 若者が共同生活をおこなう宿舎としての独身寮や既婚者のための社宅が設置され、社員旅行・社内運動会などの年中行事が催行されるなどなどの擬似共同体的要素を見出すことは容易である。また、労働組合も、会社別に作られることが多く、“会社共同体”への帰属度が強められていた。
 しかし、あくまで被雇用者のサラリーマンには、会社経営に対する発言権などが認められているわけではなく、農家や個人商店のような小経営が“ヨコ”に結合して形成する農村や商店街などのコミュニティ結合と、会社における擬似コミュニティ的結合とでは、本質的な違いがある。

 b.居住地における擬似コミュニティ的結合
 日本型雇用のサラリーマンの家庭は、その居住地においても、擬似コミュニティ的結合を形成する。これは、しばしば、子どもの生育環境の整備などを目的として形成される結合である。
 例えば、地域の防犯活動などをみても、もっぱら、子どもを犯罪から守ることを主眼に展開される。結合の実態は、学区のPTAだったり、子ども会だったりする。
 親たちの一定の割合は、農村の出身だったり、実家が農村にあってしばしばそこに滞在した経験を有したりしていて、そうした人々を中心に、農村の祭りを模した地域の祭礼が実施されることもある。ただし、祭礼本来の、コミュニティの繁栄や豊作を祈る宗教性などはそこには無く、単にノスタルジックないわば“コミュニティごっこ”の一環として祭礼が実施される。
 また、農村のような個別の小経営が直接依存するコミュニティ結合ではなく、あくまで子どもを介した結合であるため、大人たち本人が肩を腫れ上がらせて神輿を担ぐようなことはなく、子どもに山車を曳かせてみたり、模擬露店を並べ縁日気分を経験させてみたりすることが主たる内容となっている。
 しかし、子どもが成人したり独立して親元を離れたりした家庭や、子どものいない家庭は、こうした結合に加わらないことが多い。そして、しばしば、一定の地域内には同年代のサラリーマン家庭が集中しがちであることから、子どもを媒介とするこのような擬似コミュニティ的な結合は、子どもの成長段階における特定の時期から、急速に解体していくケースが多い。
 子どもを媒介とする結合以外で、最も強固な結合は、資産の保持のための結合であろう(農村や商店街のような、経営の保持のための結合ではない)。こうした結合は、分譲マンションの管理組合が代表的である。あるいは、分譲住宅地における、割り地やアパート開発などを規制する運動にも見出せる。しかし、こうした結合は、限定的な目的の結合であるため、人々の交流内容や交流期間も限定的である場合が多く、そうであるがゆえに、ときに非常に強固な結合にもなりえるが、擬似コミュニティ的結合と呼べるまでは発展しない場合がほとんどであろう。

 以上、擬似小経営的な日本型雇用のサラリーマンとその家庭が形成する、擬似コミュニティ的結合について、おおざっぱに書いてみた。
 
 こうしたサラリーマンが擬似小経営的であるがゆえの、小経営の農家や個人商店と混住した場合の相互融和のしやすさや、その一方でどうしても生じてしまう、コミュニティ活動における“温度差”などについても書いてみたいが、それは省略。

 ともあれ、農村や商店街などのコミュニティと多くの共通点を持つ、擬似コミュニティ的結合にサラリーマンとその家族が包摂されることによって、いわゆる均質的な日本社会が、表層的にはかなり広汎に成立していた(あるいは理念化されていた)ことが重要であろう。

 しかし、擬似小経営的サラリーマンが減少する日本社会において、こうした擬似コミュニティ的結合は、消滅していく農村や商店街と共に、急速な退潮傾向にあるのではないか、という見通しを最後に示しておく。

 この問題については、また後であらためて考えてみたいが、要は、こうした結合は、少子化・非婚化が進み、流動的な非正規雇用の労働者や移民労働者が今後さらに増加することで、社会におけるそのウエイトや存在価値を著しく減じていくのではないだろうか。

 小経営の時代の終わりと共に、擬似小経営の時代も終わろうとしているのだろう。

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巡見「江戸を縦貫する」のご案内

 今週末の28日(土)午後に、巡見をおこないます。雨天決行です。みなさん、照る照る坊主を作ってください。

 コースは、吉原の遊女たちが葬られた三ノ輪の浄閑寺を出発して、吉原遊郭跡(現在はソープランド街)を訪ね、それから、日雇い労働者のドヤ街である山谷へ進み、浅草新町を通り、浅草寺まで。

 初回の江戸城から日本橋までの区間に続いて、本来なら今回は、日本橋から神田、浅草橋、浅草寺までの第二区間の順番なのですが、証券取引所や問屋街をめぐるこの区間は平日に行かないとつまらないので、それを夏休み(たぶん8月8日の金曜あたり)にまわします。で、今回は、第三区間である浅草・山谷・吉原界隈を先に歩きます。

 集合は、地下鉄東京メトロの日比谷線の三ノ輪駅に、28日(土)の14:00です。

 詳細は、各大学での講義の際に連絡いたします。このブログをお読みの一般の方や、昨年以前の受講生の方の参加も歓迎しますので、その場合は、私あてにメールを頂ければ、返信にて詳細をご連絡いたします。メールアドレスはこのブログのプロフィールのページをご参照ください。なお、一般の方で初参加の場合は、メールに住所・氏名をお書き添えください。

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2008/06/16

近世の終焉としての現在 9

  Ⅱ.小経営の時代の終わり
 
  ④擬似小経営的サラリーマン(前回からつづく)

 わざわざ説明するまでもないことだが、雇われの身のサラリーマンは生産手段を所持していないわけだから、例えば土地を所持している農家が小経営であるのとはまったく異なって、本来、サラリーマンの家庭を小経営と呼ぶことはできない。

 しかし、日本のサラリーマン家庭は、農家のような小経営に非常に似ていた。あるいは、次のように言うこともできる。小経営と類似のサラリーマン家庭が標準的であることがかつての日本社会の特徴であった、と。
 
 なお、ここでいう「かつて」がいつ頃から始まるのかは、また後で考えたい。「かつて」の終わりが、まさに今、現在であることは確実だ。

 さて、かつての日本のサラリーマン家庭の特徴は、a.夫婦の協働によって“経営”が成立していた、b.その“経営”が長期的・連続的であった、という点にある。

 a.夫であるサラリーマンの長時間残業・休日出勤(あるいは休日の接待ゴルフ)・単身赴任などを可能にしていたのは、専業主婦たる妻の存在であった。夫が終業後の“つきあい”と呼ばれる飲み会に出ることも、会社という擬似コミュニティの良き一員であるためにはしばしば必要であったが、それを可能にしていたのも専業主婦であった。この専業主婦の妻(あるいは内職や短時間のパート労働だけに従事することが許された妻)が、掃除・洗濯・炊事といった家事や育児・教育、あるいは年老いた親(たいていは夫側の親)の介護や自治会・子ども会・PTAなどの地域活動を引き受けることで、その夫は日本のサラリーマンを全うできていたのである。このような専業主婦の諸活動は、いわゆる賃労働ではないが、家庭の持続に必要な労働である。こうして、かけむかいの夫婦が互いの労働に依存し合うことで成立していたのが、かつての日本の典型的なサラリーマン家庭であった。

 b.いわゆる終身雇用が広く実現し、解雇・転職による“経営”の中断が無く、いったん就職した会社における定年退職に至るまでの長期的な勤務が一般的とされていた。さらには、子どもが男子の場合、その将来においては、父親と同じ会社の同じポストを継承するわけではないものの、父親と同等かそれ以上の学歴を身につけて父親と同等かそれ以上の年収のサラリーマンになることが理想とされた。これにより、父親の“跡継ぎ”として、その家庭の資産あるいは生活のレベルを継承することが重要視された。子どもが女子の場合、一般に男子よりも将来選択の自由度が高いものの、しかるべき年収のサラリーマン男性と結婚し、母親と同じ良妻賢母の道を歩むことが理想とされる場合が多かった。

 夫婦の協働によって成立し、長期的・連続的であったサラリーマン家庭の“経営”は、一種の家業であるといってよいだろう。そして、それは農家や個人商店の経営と類似している。
 このように、日本型雇用のもとで一般的な、農家や個人商店との共通点を多く持つサラリーマンを、私は、擬似小経営的サラリーマン、あるいは、家業的サラリーマンと呼んでいる。

 もちろん、このような擬似小経営的なサラリーマンとその家庭のあり様が、日本だけのものだとは思わない。欧米のサラリーマン家庭の一部にも専業主婦はいる。しかし、そのようなサラリーマンとその家庭のあり方が標準化し、理想化されていたことが、つい最近までの日本の特徴であっただろうし、それゆえ、日本型雇用という概念が有効だったわけである。
 
 次回は、小経営の農家が農村を形成していたように、あるいは、小経営の商店が商店街を形成していたように、擬似小経営的なサラリーマンとその家庭が形成していた、擬似的なコミュニティについて書いてみたい。

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2008/06/11

フリーター漂流

 もう3年以上も前のことになるが、このブログでNHKの「フリーター漂流」というドキュメンタリー番組の感想を書いた。前編、それから中編まで書いて、後編を書こうと思いつつ、書けずにいる。
 この件は、自分のなかでもずっと宿題でありつづけている。今もそうである。最近書いている「近世の終焉としての現在」という連載記事も、実は、その宿題の一環に位置するものだと、自分では思っている。
 
 今朝アクセス解析をやってみたら、ここ数日、その昔書いた番組感想の記事を読みに来られる人が大変多い。これは、例の秋葉原の無差別殺人事件のせいだろう。
 
 番組では、北海道の運送会社で働いた後、フリーターとなり、あちこち漂流したあげくに、愛知の自動車工場での請負労働へと送り込まれていく男性が登場した。彼は一人前の工員としての人生を始めたいと願いながら、漂流の過程で、その夢を打ち砕かれていく。
 これは、青森の運送会社を辞めて静岡の自動車工場での派遣労働に従事していた今回の事件の犯人とどうしてもだぶってしまう。
 おまけに、犯人を雇っていた派遣会社こそ、あの番組のフリーターを雇っていた請負会社である。番組でこの請負会社の社長が、自分の会社が雇ったフリーターのことを、必要に応じて「前線」へ送り込む「弾」と呼んでいたのも印象に残る。刻々と変化する戦況に応じて、弾薬の不足する「前線」へすぐさま「弾」を送り込むことで、自分の会社は社会に貢献していると胸を張っていた。(今は、偽装請負が問題となって、「請負」会社から「派遣」会社へと変化しているが、実態はほとんど変わっていないようだ。)
 
 今回の事件を通じて、はからずも、あらためてこうした漂流するフリーターの姿に接することになった。なんでも、犯人の働いていた自動車工場では、200人のフリーターのうち、150人をいきなり解雇する計画だったとか。相変わらずやね。自動車工場の幹部社員が、記者会見で、この解雇について、うっかり、「切る」って口を滑らせてしまい、あわてて「契約解除」と言い直すシーンも、先の番組の「弾」発言を思い出させてくれた。

 今回の事件の犯人について、こうした境遇を考慮して少しは免責してやるべきだとは、まったく思わない。しかし、テレビ報道をみていて、もうひとつ、印象に残ったシーンがあった。
 彼がもともと切れやすい性格だったということを裏付ける証言として、かつてアルバイト(正社員という報道もある)していた青森の運送会社の同僚が語っていた。時々、仕事上のトラブルで興奮した彼の頭をコンと小突いて、まあ落ち着けとたしなめていたという。彼もそれにおとなしく従っていたという。この同僚は彼のことを不器用な男だと評していた。

 どうして彼がこの運送会社を辞めたのかはわからないが、もしそのままこの会社で働き続けていたらどうなっていたのだろうか。何度も頭を小突かれているうちに、やがて彼は自分の感情をコントロールする術を身につけた一人前の大人になっただろうか。あるいは、小突かれつづけるうちについに暴発してしまっただろうか。
 一方、自動車工場では、彼の頭を小突いて落ち着かせることのできるような職場での人間関係は成立しえたのだろうか。

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2008/06/09

近世の終焉としての現在 8

  Ⅱ.小経営の時代の終わり
  
  ④擬似小経営的サラリーマン

 現在の日本社会において急速に消滅しつつあるものとして、これまで、農家と農村、個人商店と商店街を取り上げてきた。

 今回は、もうひとつ、激減している(と思われる)ものを挙げてみよう。それは専業主婦のいるサラリーマン家庭である。

 1980年、雇用労働者である男性(非正規雇用を含む)と結婚している34歳以下の女性のうち、64.2%が専業主婦であった。それが、2001年には、55.2%にまで低下している。
 これをみると、激減とはいえないんじゃないの、と思うかもしれない。しかし、この割合は、結婚している女性に占める専業主婦率である。そもそも、近年、結婚しない女性が増加している。25歳から29歳までの女性の未婚率は、1980年が24%なのに対して2001年では54%と大幅に上昇。30歳から34歳までだと、9.1%から26.6%へと、これも急上昇している。ちなみに、2005年には、25歳から29歳までだと59%、30歳から34歳までだと32%で、現在、さらに急な上昇が続いている。
 ところで、サラリーマンとは、普通、正社員の男性のことをいう。この記事で注目しているのも、正規雇用の男性労働者=サラリーマンがいる家庭についてである。この正社員男性の数も減少傾向にある。大卒直後に正社員として就職する率は、1992年で88.6%だったものが、2002年には66.7%へと低下。高卒の場合の低下はさらに著しく、1992年で64.8%だったものが、2002年には40.4%となっている。景気動向にかかわらず、産業構造の変化によって、この低下傾向は将来的にも続くという見方が有力だ。
 
 以上のバラバラの統計を組み合わせて正確な結論を得るのは、たちまちは難しいが、おおざっぱにみれば、正社員の夫と専業主婦の妻とが作る家庭の数や比率は、現在、かなり急速に低下しているといっても構わないのではないか(ちょっと雑な話だけど・・・もっと適当な統計がみつかれば書き換えます)。

 さらに条件を絞ると、この記事で特に注目しているのは、こうして減少しつつある正社員のなかでも、いわゆる日本型雇用のサラリーマンについてである。終身雇用・年功序列の日本型雇用システムの下で働くサラリーマンのことだ。最近、話題となっている、いずれ辞めることを前提に酷使されまくりの、使い捨て“名ばかり正社員”のことではない。
 このような日本型雇用のサラリーマンの減少傾向を示す適当な数字も、すぐには見つからなくて恐縮だが、まあ、たぶん、これも減少しているといって間違いはないだろう。

 つまり、現在の日本社会において急速に減りつつあるものとして、私が取り上げたいのは、日本型雇用のサラリーマンの夫と専業主婦の妻が作っている家庭なのである。

 私は、このように、専業主婦を妻として自分が主たる家計支持者となっている日本型雇用のサラリーマンのことを、擬似小経営的サラリーマン、あるいは、家業的サラリーマンなどと呼びたいと思っている。そのように呼ぶことの理由は次回。(つづく)

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2008/06/05

今月、巡見にいくつもりです

 巡見「江戸を縦貫する」の今年度の2回目ですが、吉原・山谷・浅草に行こうと思っています。日程は今月28日の土曜午後。近日中に詳細をお知らせします。
 この巡見の概要や趣旨はこちらの記事をみてください

 もちろん、11月の酉の市のときにも、吉原界隈へは行きます。今年は11月29日の土曜が三の酉なので、その日に実施予定。吉原から酉の市、そして上野山下・下谷の「新開町」佐竹ヶ原・神田柳原土手跡をめぐってみようかなと思います。昨年までとは違う、新しいコースです。

 他には、おそらく8月にはいってすぐくらいに、日本橋から兜町、神田の問屋街、浅草橋の問屋街(できれば稲荷町の仏具店街、合羽橋の道具街まで)を歩く予定。

 そして、ヒルズ巡見、あるいは都市再開発地域巡見を、10月か、来年の2月あたりに予定しています。

 参加を予定していらっしゃるみなさん、よろしくお願いします。

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2008/06/04

近世の終焉としての現在 7

  Ⅱ.小経営の時代の終わり

  ③小経営の時代

 ここまでの記事で、現在、農家と農村、そして個人商店と商店街の多くが、私たちの社会から消滅しようとしている状況を確認してきた。

 農家と農村、個人商店と商店街、これらは、従来、私たちの社会の主要な構成要素であった。そのような時代のことを、とりあえず、小経営の時代とでも呼んでみよう。

 この小経営の時代の終わりが、現在、2000年前後なのである。そして、その時代の始まりは、おおざっぱに1600年前後、つまり、近世社会の成立期である。

 朝尾直弘氏は、1988年に発表した「惣村から町へ」という有名な論文の冒頭で、「近世社会においては、村と町との二つが被支配階級の構成する基本的社会集団」であると述べ、「村といえば農村を、町といえば都市を想起する現代のわれわれの常識的な観念は、近世に成立したものである」としている。村については、特に説明は不要だろう。町について、朝尾氏は、「商業」を「結合の核」とする、「道路に面して向かい合った両側の家並みの住民が形成したもの」、と定義する。つまり、今でいう、個人商店を主体とする商店街のことだ。

 農家と農村、個人商店と商店街を「基本的社会集団」とする時代、すなわち、小経営の時代が、1600年前後に始まり、そして、それから400年たった2000年前後、今まさに幕を閉じようとしているのだ。

 「近世の終焉としての現在 5」で紹介したとおり、1970年当時の調査で、農業集落(北海道をのぞく)の95%は、近世から連続する存在である。その間、例えば、いくら地主制が発達しようが、小経営の農民と農村は持続していく。土地の所有権利形態の変遷とは別に、小経営の農民と彼らが形成する農業集落の存在は、寄生地主の経営にとって不可欠の前提条件だったからだ。

 一方、商店街については、現代の商店街のすべてが近世から直接連続した存在であるとはいえないだろうが、都市内部においてその立地を移動させたり、あるいは、個々の商店の集合離散を繰り返したりしながら、近世以来、その命脈は保たれてきたといえるだろう。それが今まさに、日本社会の大部分において、断たれようとしているわけだ。

 このように書くと、「小林は、小経営の時代、小経営の時代と繰り返すが、自分の家はサラリーマン家庭だし、友達の家も同じ。農家でも個人商店でもないよ。そんなのは別に珍しくもない。だったら、つい最近までが小経営の時代だって考えるのは間違ってませんか。」と思う学生(読者)もいるのではないだろうか。

 なるほど確かに、サラリーマンは小経営者ではない。しかし、私が思うに、日本のサラリーマンの特徴とは(正確にいうと、つい最近までその特徴だったのは)、彼ら(彼女らではない)の多くが、小経営者とよく似ている(似ていた)という点だ。そんな日本のサラリーマンのことを、私は、擬似小経営的サラリーマンと呼んでいる。あるいは、家業的サラリーマンと。

 そんな擬似小経営的家業的サラリーマンの存在にもよって、日本社会はこれまで、小経営の時代と呼びうる状態を保ってきたと考えている。これについて詳しくは、また次回。

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2008/05/28

近世の終焉としての現在 6

  Ⅱ.小経営の時代の終わり

 ②商店街の消滅

 私の家の近所に、○○通り商店街という場所がある。私が引っ越してきた17年くらい前には、まだ通りの入り口には、商店街の名前を掲げたアーチがかかっていた。年末には福引もやっていて、何千円かの商品券をあてた記憶もある。私が引っ越してくる以前は、にぎやかな夏祭りも開かれていたという。
 
 入り口のアーチが撤去されたのは、私が引っ越してきてから数年後のことだった。そして、荒物屋・ケーキ屋・薬局・本屋・寿司屋・豆腐屋などが次々に店をたたんでいった。今は、商店街というよりも、ありふれた住宅街の中に、商店がところどころかたまって点在している、という状態だ。
 一般の住宅街と異なるのは、装飾の施された街灯が通りに並んでいることぐらい。それが唯一、ここがかつては繁華な商店街であったことの痕跡といえるだろう。

 とりあえず、小売商店に注目して、商業統計調査などをパラパラめくり、数字をおおざっぱにあげておこう。1958年だと、全国の小売商店の店舗数(事業所数)は、約140万店舗。そのうちの、なんと90%余りを個人商店が占めていた。数にすると、およそ126万店舗となる。

 その24年後の1982年だと、店舗数は、約172万店舗に増えている。そのうち、個人商店が占める割合は約73%で、その比率は下がっているが、店舗数全体が増加していて、個人商店の数が減ったわけではない。およそ125万店舗が個人商店であって、ほとんど変化は無い。店舗数全体の増加は、法人商店の増加によるものである。

 それから20年後の2002年になると、状況は大きく変わっている。この間、店舗数は減少し、約130万店舗となった。そのうち、個人商店の占める割合はおよそ55%で、その数は約72万店舗。20年間に、なんと53万店舗も減少している。つまり、この20年間で、個人商店の数は、42.46%もの減少をみせたのである。
 まさにこれは激減といえる。

その後の個人商店の減少率は、2002年から2004年までの2年間で7.9%、2004年から2007年までの3年間で13.4%となっていて、依然としてかなり大幅な減少が続いている。

さらに、これらの個人商店のなかから、従業員の多い店舗(例えば、何人ものアルバイトを抱えて経営するコンビニなど)を除いた、家族のみ、あるいは、家族とごくわずかの雇用従業員だけでやっているようなタイプの店舗を対象にすると、その減少傾向は、もっと顕著になるだろう。

 つまり、夫婦・家族を中心にした小売商店というものは、急速にこの日本社会から姿を消しつつある。

 もろもろの統計をあたれば、残ったお店を支える人々の高齢化傾向や後継者の欠如といった状況を数字で明示できるだろう。おじいさんとおばあさんが、さほど儲かっているとも思えないお店をやりつつ、「息子は勤め人だから、この店も私たちの代でおしまいだ。」と言っているようなケースである。全国的な統計分析などは、またいつか。

 このように、先の記事に書いた農家の場合とほぼ同じ状況が、個人商店=商家においても見出せるのである。

 そして、こうした個人商店の激減と平行して現象しているのが、商店街の減少であろう。これも、ちょうど農業集落の減少と同様である。

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2008/05/23

近世の終焉としての現在 5

Ⅱ.小経営の時代の終わり

 ①農家と農村の消滅(その後半)

 以下、農村の現状について、内田多喜生「2005年農林業センサスにみる農業集落の現状と課題について」(『調査と情報』農林中金総合研究所2006.5.)に学びつつまとめてみる。

 まず統計調査における農業集落の定義とその数について。
 1955年の臨時農業基本調査において、農業集落とは、農業生産・農業経営上のあらゆる面での共同に加えて、冠婚葬祭やその他生活面で密接に結びついた農家集団のことだとされていた。その後、1970年の農林業センサスにおいては、上述の農家集団の生産・生活が展開する空間領域の確認に労力がさかれ、属地的に農業集落の範囲が定められた。
 そして、1955年調査の段階では、全国で約15万6千集落が存在したが、1970年の調査段階では、約14万集落となった。その後30年以上、統計上は、この約14万集落前後という数字がおおむねキープされるが、2005年のセンサスにおいて、農業生産にかかる共同作業が実態として存在すること、という条件が加わることによって、カウントされる集落数は一気に減少し、約11万1千集落となった。
 1970年以降、統計上の農業集落の数は、それが属地的に数え上げられていたため、ほとんど減少しなかったものの、実際には、2005年までの間に、約3万集落において、農業共同体としての実態が失われていったわけである。

 今後、前回の記事に書いた農業人口の急速な減少は、農業集落数の減少の動きを早めるはずだ。平野部においては、農業集落から非農業集落への転換が進むだろう。中山間地域においては、いわゆる限界集落が急増し、やがて集落自体が消滅するケースが増えるだろう。
 内田多喜生は次のように述べている。「日本の地域農業を支えてきた農業集落は、現在構造的な変化が生じつつある。条件不利地域においては、高齢化・過疎化により農業集落の機能の維持が難しくなりつつあり、また都市部では混住化により、農業共同組織としての性格が弱まってきている。筆者のここ数年の聞き取り調査でも、関東地方の都市近郊農協で集落構成員のほとんどを非農家が占めるようになり農家組合が解散したケースがあったし、その一方中国地方の山間部では、農家の減少で農業集落そのものが消滅したケースもあった。そして、昭和一ケタ世代が全て75歳以上の後期高齢者層へ移行する今後5年程度でこの傾向はさらに進み、農業集落の持つ多面的な機能が急速に低下していく恐れがある」。

 また、1970年センサスの調査結果のひとつを内田が紹介している。それは、北海道を除く都府県に存在する約14万集落のうちの95%が、明治以前に成立した集落であるというものだ。つまり、近世から現代まで命脈を保っていた農村(農業集落)が、今ここにきて、急速に姿を消しつつあるわけだ。

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2008/05/19

近世の終焉としての現在 4

Ⅱ.小経営の時代の終わり

 ①農家と農村の消滅(その前半)

 今の日本社会において、もっとも急速に消えているものはなにか。それは、街角の公衆電話だろうって思うかもしれないが、それと同じくらいの勢いで数を減らしているのは、農家と農村であろう。

 近世期の農家人口が総人口に占める割合は、一般に、80%を超えるといわれる。その後、戦前まではおおむね農家人口3000万人で、総人口比だと40~50%が保たれる。人口比は長期減少傾向だが、ただし、この間、総人口自体が増加しており、農家人口の絶対数についていえば、それほど極端な減少はなかったといえる。農業の就業人口でみても、明治前期から1960年代までは、1300~1400万人の水準が維持されてきた。

 その後の高度成長期で就業人口は激減し、1990年には、上記水準の3分の1の400万人弱となる。農家人口も減少して1700万人強となり、総人口に占める割合は15%を切った。

 近年、それらの減少傾向は加速している。2006年では、就業人口が320万人あまりとなった。戦前の水準の4分の1をさらに下回っている。農家人口は、1000万人を大きく割り込んで、793万人あまりとなっている。総人口に占める割合は、わずか6.2%となった。

 また、就業人口の60%ちかくは65歳以上の高齢者が占めており、後継者不足の問題とあいまって、今後の農業人口の減少にはさらに拍車がかかる見通しだ。2025年には、農家人口が総人口に占める割合は、2.7%にまで落ち込むという将来推計も出されている。

 今回の記事の見出しの「消滅」は大げさすぎるかもしれないが、それでも、私たちの社会において、農家というものは、相当、希少な存在になりつつある。 (次回は、農村の「消滅」について)

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2008/05/15

近世の終焉としての現在 3

  Ⅰ.日本史の転換点をめぐって

 ②近世・近代連続史観~尾藤説と朝尾説の一致

 もちろん、近世・近代(近現代)連続論は、僕が考えついたものではない。有名な研究者二人の主張の受け売りである。その二人とは、朝尾直弘さんと尾藤正英さんである。
 朝尾さんと尾藤さんについては、日本史研究者相手ならあらためて紹介する必要はないだろう。現在の近世史研究の二大権威といってよいかもしれない。朝尾さんは元・京都大学教授。尾藤さんは元・東京大学教授。尾藤さんは近世思想史が専門。朝尾さんは何が専門とは言いがたく、近世史全般で優れた業績があるが、国家史・社会史とでも呼ぶべき分野が中心かもしれない。乱暴にいえば、朝尾さんと尾藤さんは、同じ近世史研究者であっても、ちょっとタイプの異なる研究者ということになる。しかし、この二人の主張で一致しているのが、僕の学んだ近世・近代連続論である。

 まず、朝尾さんの主張。「応仁の乱以降は日本史のモダーン=エイジなのである」。そして、この「モダーン=エイジ」とは、「いまの生活様式、行動のスタイル、ものの考え方や問題解決の仕方と、おなじ型を共有する時代」だという。これは、朝尾さんの名著『大系日本の歴史 8 天下一統』(小学館1988)の冒頭で述べられたものだ。日本通史を分担執筆するかたちでまとめられたこの論著の対象年代は、織田信長の入京(1568年)から豊臣秀吉の死去(1598年)までである。朝尾さんは、この時代の歴史変動を「近世の開幕」と呼び、「この(通史の)シリーズのなかでも「開国と維新」とならぶ短い期間の歴史である。たしかに、それは明治維新に匹敵するか、それをはるかに上回る大きな変革期であった」としている。
 つまり、応仁の乱以降の移行期を経ての17世紀の初めにおける近世社会の成立は、われわれの社会と「おなじ型」の社会の本格的な確立を意味し、それは、明治維新を「はるかに上回る大きな変革」だったというのである。こうして、近世と近代は連続しているという見方が提示されている。

 次に、尾藤さんの主張。「そうしますと、明治維新ではっきりと前と後に区切られるように見えながら、実際には近世と近代も連続しているのではないかという考え方が生まれてきます。少なくとも私はそう考えています。(中略)つまり古代、中世は連続していて、中世と近世の間、南北朝から戦国の時期、そこにこそはっきりした区画線があって、そのあとまた近世、近代は連続している」。これは、尾藤さんの名著、『江戸時代とはなにか』(岩波書店1992)の序説での主張である。

 尾藤さんの議論は、このあと、近世社会の成立要因としての兵農分離に注目し、兵農分離が順調に進行したことの理由説明として、あの有名な役論が展開されていくのである。

 朝尾さんの方は、若干微妙な言い回しがされていて、明治維新が大きな変革であることを決して否定してはいない。しかし、「近世の開幕」は「明治維新をはるかに上回る大きな変革」だったという部分こそが本音であろう。それゆえ、近世も近代も同じくわれわれの「モダーン=エイジ」に含まれるのである。この朝尾さんの近世・近代連続論は、発表当時、ある種のショックを研究者に与えたことを記憶している。朝尾さんは、しばしばマルクスの歴史理論を有効に応用しながら、近世史の水準を引き上げてきた研究者である。マルクス主義的な歴史理論からすれば、やはり、資本主義化の前と後、つまり、前近代(近世)と近代の間にこそ歴史の大きな転換点がある、と考えるのが一般的だったからである。それに対して、朝尾さんが近世・近代連続論を展開したことに驚く人もいたのである。

 ともあれ、こうして示された近世・近代連続論こそが、今まさに有効な史観であると僕は考えている。それは、17世紀初めに本格的に成立した後、およそ400年のあいだ持続してきた、われわれの社会が、今、目の前でその終末を迎えようとしているからである。すなわち、現在の日本社会にみられる諸々の変化は、「近世の開幕」以来の大変革に他ならないからである。

 

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2008/05/14

近世の終焉としての現在 2

  Ⅰ.日本史の転換点をめぐって

 ①われわれの社会のルーツはどこか

 現在の日本社会のルーツはどこにあるのだろうか。
 もちろん、祖先をさかのぼっていけばキリがないわけだが、そうではなくて、直接のルーツについて考えようということである。例えば、現代ヨーロッパ人のルーツをとことんさかのぼると、それは生命の起源とかにまでいっちゃうかもしれないけど、直接のルーツとして、クロマニヨン人が考えられるという具合である。

 では、現代日本社会のルーツはどこか。われわれと似たような生活習慣をもち、似たような経済や政治のシステムをもつ人々が構成した社会は、どこまでさかのぼれるのだろうか。これについても、いろんな答えがあり得るだろうけど、もっとも一般的なのは、明治初期から中期あたりにルーツがある、という答えではないだろうか。
 この頃、人々は洋服を着用し始め、靴を履き、資本主義が成立し、立憲国家が誕生した。どうやら、われわれの社会の直接のルーツは、この辺りにあるのではないか。

 こういった考え方は、おそらく世間一般において広く受け容れられている。また、大学の先生たちの間でもかなり許容されていると思う。しばしば、大学の日本通史のカリキュラムや教員構成が、前近代と近代(近現代)とに区分されることからも、それは確かめられるだろう。

 つまり、明治の前半、19世紀の後半くらいに、日本史上の大きな変革期があって、現代社会のルーツはその変革を経て形成された、という考え方はひとつの常識となっている。

 しかし、これとは異なる考え方が存在する。いわゆる近世・近代連続論である。応仁の乱から(あるいは南北朝の内乱から)信長・秀吉・家康の天下統一の前後までの時期が、明治維新期などを上回る、日本史上の一大変革期であって、そのあとの近世と近代(近現代)との間には大きな断絶はなく、むしろ両者は連続している、という考え方である。
 こうした考え方にたつと、上記の変革期の後、だいたい17世紀前半に成立した近世社会こそが、われわれの現代社会のルーツだということになる。

 僕としては、まあ、近世・近代断絶論も、近世・近代連続論も、どちらも有効な考え方だと思う。要するに、ものの見方なんだから、見る人の立ち位置や見る目的によって、いろんな見方があって構わないわけだ。
 では、今の大学生の皆さんの立ち位置からすると、どっちの見方が有効なのだろうか。もちろん、人によっていろんな立ち位置があるだろうから、どっちの見方が絶対だ、とか決めつけられないけど、けっこうたくさんの人にとって、近世・近代連続論が有効なんではなかろうか、と思ってる。
 
 その理由は以下のとおり。前回の記事に書いたように、20世紀末から21世紀初め、すなわち現在は、日本史上、他に類をみないくらい大きな転換期である。そんな大変動に立ち会っている皆さんが、その変動を感知するアンテナを立てるためには、近世・近代連続論こそが有効であるからだ。(つづく)

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2008/05/13

近世の終焉としての現在 1

 近年、大学での授業で、たびたびする話がある。その話をしばらくこのブログでも綴ってみたい。

 なぜ、今、学生さんたちは近世史を勉強した方がよいのか、といった話である。

 20世紀末から21世紀初めにかけて、つまり、現在は、きっと、日本史上におけるもっとも大きな転換点だと思う。ただ、ふだん生活していると、そうした転換には気づきにくい。誰しも、今日は昨日とだいたい同じだし、今日と同じ明日が来ると思って生きている。現在、私たちの身の回りで起きている社会の大変化を認識するには、そのためのアンテナを立てる必要がある。で、そんなアンテナを立てるためには、近世史を勉強する必要がある。その理由を説明しようと思う。

 以下の話の構成は、だいたい次のとおり。

Ⅰ.日本史の転換点をめぐって
  われわれの社会のルーツはどこか
  近世・近代連続史観~尾藤説と朝尾説の一致
Ⅱ.小経営の時代の終わり
  農村の消滅
  商店街の消滅
  疑似小経営的サラリーマンの家庭の解体
Ⅲ.近世の終焉としての現在
  家業の解体と少子化・非婚化
  無用となった地域コミュニティー
  名君政治の終わりと迷走

 エピローグ、「新しい日本」

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2008/04/21

今年度第1回めの巡見のご案内

 今年も、巡見「江戸を縦貫する」を開始します。

 年間の全コースは、江戸城本丸跡に始まり、丸ノ内・日本橋・兜町を通って、神田の繊維問屋街・浅草橋の問屋街から浅草寺・浅草新町・山谷ドヤ街・吉原ソープランド街と進んで、三ノ輪の浄閑寺までの区間です。
 (以上が基本コースですが、番外として、ヒルズなどの都市再開発地域や、新大久保・歌舞伎町のコリアンタウンにも行くと思います。)

 第1回めの今回は、江戸城本丸から日本橋界隈までを歩きます。

 巨大都市江戸に一本串を突き刺してみて、その端から端まで歩き通してみるというのが巡見の趣旨です。むろん、江戸を串刺しにする場合、この巡見コース以外にも、いろんな方向に串を打つことが可能です。しかし、江戸の重層性・多様性を実感しつつ、同時に、現代都市東京の重層性・多様性にも幅広く触れるためにもっともふさわしいコースが、江戸城の天守台に始まって、吉原遊郭の裏手で終わる、この巡見コースだと思っています。

 ともすればノッペラボウに見えやすい都市社会が、本当は、それぞれが色もかたちも異なる、多様な部分部分からできた、モザイク画のようなものだという感覚を保つことが大事だと思っています。
 
 そのような感覚こそが、過去・現在の社会の諸局面を対象とする研究のモチベーションにつながるし、また、そうした諸局面に視線を向けている自分自身の立ち位置(モザイクの一片)を相対化し、わが眼のレンズの色やら偏差やらを知らしめてくれるからです。

 また、今後、皆さんが、いろんな場面で、「私たちの社会は・・・」とか、「日本社会とは・・・」とか口にした瞬間、その脳裏に反射的に浮かぶのが、「一般市民」とか「普通の人々」とかのボンヤリした幻像ではなくて、この巡見で出会ったさまざまな街並みと、そこで生きる多様な人々の、クリアでリアルな映像群であってくれればいいなと思います。


 そんなわけで、下記の要領をご検討の上、皆さんふるってお出ましくださいませ。この巡見のお誘いは、基本的には私が今年度担当している各大学での講義・演習の受講生を対象にしていますが、それ以外、過去の受講生の方や一般の方も遠慮なくどうぞ。ただし、一般の方は、ご面倒ですが、私宛に住所・氏名を明記したメールをお出しください。集合場所などを折り返しご連絡します(アドレスはこのブログのプロフィール欄をみてください)。

   記
日時:4月26日(土) 14:00~(たぶん17:30くらいまで。その後、例年のごとく、希望者で飲み会)
集合:JR東京駅に14:00 (詳細は、今週の授業の際にご案内します。あるいは、メールで問い合わせてください。)
コース:東京駅→丸の内オフィス街→江戸城本丸(東御苑)→竹橋・地下鉄東西線で日本橋へ移動→江戸橋広小路→大伝馬町→本町通り→日本銀行→三井→日本橋


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2008/03/05

新宿のイル・バーカロにて

 昨夜、新宿で買い物をしたついでに、新宿三丁目にあるヴェネツィア風居酒屋のイル・バーカロにて、ひとりで夕食。昔から気に入っているこのお店の紹介はまたあらためて。(付記:紹介記事はこちらをクリック

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 食事が終わった頃、建築史の陣内秀信先生が、学生さんたちを連れてご来店。まあ、ヴェネツィアと関わりの深いこのお店に、あの陣内先生がいらっしゃること自体はなんの不思議もないわけだけど、僕にとっては、陣内先生とお会いするタイミングは、なぜかいつも絶妙というか、微妙というか。

 以前、このブログで、盛り場論批判の記事を書いた。批判の対象のひとつが陣内先生のご著書。すると、その直後、先生が所長をされている法政大のエコ地域デザイン研究所から報告の依頼。(そのときの報告内容の要旨についてはこちらの記事を読んでみて下さい。


 今回も、このブログで、鞆の浦の架橋・埋立工事をめぐって、工事反対の運動のやり方への疑問を書いたばかり。そんなタイミングで、反対運動の中心にいらっしゃる陣内先生と、またしても偶然お会いすることに。もちろん、こんなブログの記事なんて、先生はご存じないままだが。

 というわけで、お店の立ち飲みカウンターバーのコーナーで、ワインをご馳走になりながら、これさいわいと、鞆の浦の問題について色々ぶしつけな質問をさせていただいた。それでも、イヤな顔をされることもなく、どの質問にもきっちりと答えてくだる。
 
 先の記事の末尾でもふれた、観光地化した町の過疎化・空洞化の問題についても質問した。すると、すでにその問題は先生も視野に入れていらっしゃって、その上での将来構想も話してくださった。農村部におけるアグリトゥーリズモの漁村版、ペスカトゥーリズモの動きなどは初めて知った。

 故郷のことであるにも関わらず、わからないことだらけで、この問題については判断保留状態のままの自分が少々恥ずかしくなる。

 鞆の話の後は、僕の大好きなイタリアの田舎町スポレートにあるモンテ・ルーコという山の保全活動に陣内先生が関わっておられたことを初めてうかがう。それから、ローマの夜といえばもっぱらナヴォーナ広場周辺が一番だと僕は思っていたけど、そうじゃなくて、最近はカンポ・ディ・フィオーリが熱いんだとかいった話も。
 他にもたくさんの話題で時間があっという間。同席の学生さんたち、先生を独り占めしちゃってすみませんでした。

 おしまいには、調子にのって、先生のご本では「イタリア都市再生の論理」が一番好きです、などと口走ってしまった。まあ、実際、僕はこの本が大好き。おそらく、一般に公開された先生のお仕事の中では、最も初期のものだろう。かなり過激な内容の本。この本を読めば、たとえば、歴史的建造物のファサードだけを残してこと足れりとするような保存の問題点がはっきりとわかる。そんな本。
 近年もたくさんの研究成果を世に送り続けていらっしゃる先生に対して、受け取りようによっては失礼なことを口走ったわけだけど、それに対しても、今のご自身からみたその本に対する思いなどをストレートにきかせてくださった。

 文字通り、願ってもない、まことに貴重な夜だった。

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2008/02/27

鞆の浦の問題

 先日、鞆の浦の架橋・埋立問題について少し触れた記事を書いたら、ネット検索でそれを読みに来られる人がけっこうたくさんいらっしゃる。というわけで、今回は少し補足の記事を。

思い出のなかの鞆 

 鞆港の風景は美しい。近世以来の港湾施設もたくさん残っている。船が通ると静かな波のうねりが雁木をタプタプとたたき、繋留された小型漁船の間には、小さな雑魚の群れが時々サッと身を翻しながら泳いでいるのがみえる。
 生まれて初めて酔っ払った経験は、たぶん小学生低学年頃に、鞆の名産、保命酒粕を食べ過ぎた時だった。結婚当初、金も無く、新婚旅行は日帰りの路線バス旅行で鞆へ行った。僕にとって、鞆はなにかと懐かしい町である。

 そんな鞆の港に橋を架ける計画が進んでいる。計画では埋立地も造成する予定である。それらによって、鞆港の景観は大きく改変される。新婚旅行のとき、港の先の小さな砂浜で写真を撮ったりした記憶があるが、きっとその辺りが埋め立てられるのだろう。

住民の工事賛成

 計画に反対する人々は、この架橋・埋立工事は「暴挙」だという。歴史的景観の価値など省みられることがなかったひと昔前ならいざしらず、今はそうした景観を守ることの大切さが広く認知され始めている。そんな中、鞆港の歴史的景観を破壊する工事なんて、まったく時代錯誤の「暴挙」なのだと。

 一方、鞆の成人住民の9割を超える人々が、かつて、架橋・埋立に賛成の署名をした。こうした住民の支持を受けて、広島県や福山市は工事を進めようとしている。それに対して反対派の人々は、この賛成署名は鞆の町内有力者たちが地域社会のしがらみを利用して集めたものであり、問題があると主張する。それもまあある程度は事実だろう。

 反対派の心情・動機は、冒頭に紹介したような鞆の思い出を持つ者として、また、歴史研究者として、それなりに理解できる。

反対のやり方

 ただ、反対のやり方がまずいって気がしてならない。反対派の主張内容がもし上記の通りだとすると、彼らは賛成派の住民に対して、「あなたがたは無知で時代遅れで自立した意見など持てない非民主的な人たちです」って言い放っているようなものだ。これじゃあ、喧嘩にしかならないだろう。歴史的景観を後生大事に守ることを唱えながら、片方で、鞆の歴史的地域社会をズタズタに破壊していることになる。目に見えない分、後者の傷の方が深刻な状況へ進みやすいようにも思う。

 県や市の主張を崩して工事をストップしようとするなら、賛成派の住民の大勢を説得して味方に引き入れ、鞆の住民の少なくとも過半数以上でもって工事反対を訴えるべきだ。県や市は、これまで、この工事計画は住民の多数の支持を受けているから実施するんだと主張してきたわけだから、これが一番有効かつ唯一の反撃方法ではないだろうか。

 反対派が自分たちの思いをぶつけていくべきは、県や市に対してではなく、まずは、賛成派の住民に対してである。そうやって、鞆の住民の過半数の反対署名とかを獲得できれば、この工事を中止に追い込むことができるだろう。
(付記:このことについては、hatsudaさんからコメント拝受。私としては、やはり、反対運動が住民多数の支持を得ていない状態のままだと、たぶん運動は成功しないだろうし、もし仮に工事を中止できたとしても、鞆の将来に深刻な問題を残すのではないかと思います。)

なぜ工事に賛成するのか

 反対運動を行うためには、まず、工事に賛成している住民の心情をちゃんと理解する必要がある。理解の前提は、まず鞆の町のとめどもない衰退・過疎化状況を知ることだろう。賛成派住民たちのうちの少なからぬ人々は、おそらく、橋がかかったからといって、鞆の町の抱える問題が解決するわけではないことぐらい、よく分かっているだろう。それでも、どうして人々は工事に賛成しているのだろうか。もし有効な反対運動を展開したいのなら、そこのところを、十分なシンパシーをもって理解していかなくてはならないだろう。おそらくそれは、県や市のかかげる建前としての工事目的(渋滞緩和やら観光開発やら)なんかとは相当違うところにあると思う。

 それが理解できないまま、やみくもに、歴史的景観の保護は絶対だ、とか主張するのは、間違っていると思う。


観光化の問題

 一方、工事反対派が描く、観光地・鞆の将来像に対しては違和感が強い。港の景観を守りながら、それを“売り”にして観光業を盛り立てていくべきだとかいった将来像である。世界遺産にしようとかいった運動もあるんだとか。
 うーむ、観光で鞆の地域経済が潤うっていう目論見のずさんさが気になる。以前の記事にも書いたが、そのためには鞆に来る観光客が、短時間通過型ではなくて、宿泊滞在型になる必要があるだろうが、それは可能なのか?
 滞在時間が数時間以内で通過していくタイプの観光客相手に十分儲けられるのは、せいぜい土産物店か軽い飲食店か、はたまた駐車場くらいだろう。まあ、鞆の町なかの条件の良い場所に土地や家屋を確保しているごく一部の人にとってはそれで良いのかもしれないが。そうじゃない人にとって、あまりに恩恵は薄い。

 歴史的景観を“売り”にした観光地化に鞆の将来を託そうと主張する人々が決まってお手本に持ち出すのが、イタリアの古い町々である。そんな人たちは、例えば、ヴェネツィアの超深刻な過疎化問題なんかを知っているのだろうか(ちなみに温暖化による水位上昇がこの町の過疎化の原因だというのは誤解だろう。問題の原因はもっと本質的なところにある)。あるいは、トスカーナのサンジミニャーノやピエンツァみたいな歴史テーマパーク化して空洞化する小さな町々の姿を。
 鞆がそんな歴史テーマパークを目指すなら、それはそれで重大な覚悟が要ることだ。それは、架橋・埋立工事と同じくらい、従来の鞆の町を変えてしまうことだから。(付記:その後、架橋反対を熱心に主張されている法政大の陣内先生と偶然お会いして少しだけお話をうかがう機会に恵まれました。それについてはこちらの記事をご覧下さい。

2009.3.27.付記 先々週、鞆の浦へ行きました。架橋・埋立問題とは無関係の仕事があったからですが、実際に鞆の町を歩いてあらためて思ったことを書きましたので、よろしければ、こちらの記事へ。
 それから、ネット検索してて、この問題について私としては共感できる部分が多いブログ記事にやっと出会えたので、勝手に紹介します。付けられたコメントも説得的な内容です。 『あそコロ♪優パパ日記』から「続・鞆の浦架橋問題」

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2008/01/18

2月17日「巡見~江戸を縦貫する・番外編」のご案内

来月2月17日に巡見をおこないます。今回はヒルズめぐりをしましょう。今年度の「巡見~江戸を縦貫する」もこれで最終回です。

これまで、江戸城本丸から日本橋へ、日本橋から浅草へ、浅草から山谷吉原へ、と歩いてきました。江戸の都市社会の重層性をたどりつつ、現代東京の都市社会の重層性をも同時にたどってみようという意図で設定したコースです。

ただし、現代東京についていえば、このコースではやや物足りない感じです。行きたいところを挙げればきりはありませんが、新大久保のコリアンタウンと、都内各所の都市再開発地域はぜひ行きたいポイントです。

コリアンタウンと歌舞伎町は、まあ、巡見後の“飲み”で何度も行くから、とりあえずそれでいいかなと。というわけで、こんどの番外編では、都市再開発地域=ヒルズを歩くことにします。

  日時:2月17日(日)13:00~
  集合:JR新橋駅に13:00
  内容:アークヒルズ・六本木ヒルズには行きます。
      他は未定。表参道か、ミッドタウンか、汐留か

いちおう、各大学での私の講義に出てくださっている学生さんに声をかけての企画ですが、それ以外の方の参加も歓迎です。集合場所などは、講義のときにお知らせします。講義に出ていらっしゃらない方は、メールでお問い合わせください。アドレスはこのブログのプロフィール頁にあります。

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2007/12/29

ヒルズの原点

(前回の記事のつづき)
 港区生涯学習センターでの講義の前々日に、六本木ヒルズとアークヒルズに出かけて、資料用写真を撮った。今回紹介するのはアークヒルズの写真。
 アークヒルズは、森ビルが手がけた街区開発型ヒルズの第一号。森ビルいわく、「成熟を重ねる森ビル都市再開発の原点」が、このアークヒルズだ。
 
次の写真は、そのアークヒルズの中心の広場。名前はカラヤン広場。アークヒルズには、有名なクラシック用コンサートホールがあるが、その設計にアドバイスをした往年の名指揮者の名前を冠しての命名だ。

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 撮影日時は、2007年11月14日水曜の19:30頃。観光客とおぼしき人と、それから広場に面した飲食店の従業員さんが写っている。これは、なにも人が少なくなったタイミングを選んで撮影したわけではない。撮影時の前後、誰も広場にいない時間帯もあった。

 次の写真は、広場に面した飲食店のテーブル。右手奥に少し人がかたまっているが、それはアークヒルズにあるホテルの出入り口。

Rimg0004

 次の写真は、タワービルの中の商店・飲食店フロア。右手のシャッターが降りている店は書店。この時間(夜の7時半すぎ)でもう店じまいしている。この写真も、特に人通りが少ないタイミングを選んだわけではない。お店の前で撮った写真もあるが、それをここに載せるのは遠慮。
 サムネイルで載せたけど、拡大がうまくできない。すみません。

Rimg0005_2

 アークヒルズの夜間のゴーストタウンぶりは、昨年のクリスマスの“イブイブ”の土曜に出会ったのとまったく同じだった。そのときは、平日の夜ならもう少し人がいるのかな、と思った。で、今回、平日を選んで出かけてみたのだが。

 どうやら、森ビルが誇る「ヒルズの原点」には、失敗のDNAが存在するように思える。そして、そのDNAは、六本木ヒルズにも受け継がれているように思うのだが。
(つづく)

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2007/12/26

いま「六本木の都市化」について考えなきゃ!

 先日、港区の生涯学習センターの歴史講座に呼ばれて講義をしてきた。センターから私に与えられたお題は「六本木の都市化」。

 講義の準備をしながら、これはなかなか重要なテーマだと思うようになった。センター職員の方に感謝。

 では、なぜ「六本木の都市化」は重要か。

 六本木には「ヒルズ」の本山がある。

 現在、例えばマッカーサー道路がらみの再開発など(ここや、ここを参照)もあって、港区においてとどまることなく増殖している「ヒルズ」は、次第に都内各地へも転移していく勢いである。

 また、六本木ヒルズで開かれているアカデミーヒルズが拠点となって、ここで“都市再開発の奥義”を学んだディベロッパーや都市計画系コンサル、地方自治体の公務員などが宣教師となり、「ヒルズ」の思想を日本全国の都市再開発の現場へ、せっせせっせと伝道していく。

 他方、アジア経済の中心上海のそのまたど真ん中に複写された「ヒルズ」がお手本となり、それはいずれ中国各地あるいはアジア諸地域の都市へとコピーされていく(まあそんな戦略も、そのうちどっかでコケるかもしれないけどね)。

 つまり、六本木の都市化や再開発の問題は、日本全国およびアジア諸地域の都市化や再開発の問題と直接につながる。

 だから、「六本木の都市化」は、今考えなきゃいけない大事なテーマとなるわけだ。

 港区の歴史講座では、そんな問題意識をにじませつつ、幕末から現代までの「六本木の都市化」の歴史についてしゃべった。

 このブログで講義内容の紹介はしないが、次回の記事には、その代わりに写真を少しのせてみよう。講義の準備のため、六本木ヒルズやアークヒルズに出かけて撮った写真だ。その中からアークヒルズの写真をいくつかのせてみるつもり(つづく)

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2007/12/19

メキシコの民衆的市場~ティアンギス

 面白い論文を読んだ。増山久美さんという人が書いた「「ティアンギス」と地域社会-メキシコ市大衆地区の青空市と地域住民とのかかわりについての一考察-」(『人文・自然・人間科学研究』18号、拓殖大学人文科学研究所、2007.10.)。

 ティアンギスというのは、論文の副題にあるように、メキシコの「青空市」のこと。ティアンギスという語でネット検索すれば、たくさんのメキシコ旅日記系のブログなどにたどり着き写真を見られるが、その中で個人的に気に入った写真・記事は、こことかここあたりかな。

 自分は、大学院入学以来、江戸や東京の露店(床店葭簀張)営業地の実態解明を研究テーマとしている。こうした露店営業地の存在を、「非日常」やら「祝祭」やら「アンダーワールド」などなどの言葉で飾り立てていたずらにキワモノ扱いする従来の研究については、それらを盛り場論と名づけて、実証的に否定してきた(つもりである)。
 
 でもって、そうした露店営業地を民衆的市場と呼ぶことにして、都市民衆世界の基本的な構成要素としての存在意義を明らかにしてきた(つもりである)。そんな私の主張をかいつまんで紹介したものは、こちらの記事へのコメントや、こちらの記事

 で、今回読んだ増山さんの論文にとても共感。同論文では、ティアンギスの「地域社会」における存在意義が具体的に明らかにされる。その一方で、「ティアンギスの存在は貧困層救済のための必要悪」だとかいった見方が間違いであることもはっきりと示されている。

 また、ティアンギスのような社会=空間が、今後の日本の都市においても有意義なものになりうるのではないか、といった示唆もある。(近い将来、不毛の“都市再開発空間”がいよいよゴーストタウン化したあとを再生するときにも、これは重要かな。)

 いつか、こうした民衆的市場社会の国際的な比較研究をやってみたいもんだ。増山さんにも、いつかどこかでお会いできるとよいなぁ。

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2007/12/15

業務連絡~都留文科大学ゼミ生へ

 都留文科大学で地域史のゼミに出ている学生さんへのご連絡です。レポート執筆の際、書式サンプルとしてご参照いただきたいのは、拙著『江戸の民衆世界と近代化』の71頁の終わりの方(第2章第3節冒頭)から76頁の12行目までの箇所です。よろしくお願いします。
 この本は文大の図書館にも入っているようですが、予約で混み合っているみたいです。年明けのゼミの際には、私の方から該当箇所のコピーを配布予定です。以上。

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2007/10/17

11月10日「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

早いもので、今年もそろそろ酉の市の季節がやってきました。というわけで、浅草酉の市の日程に合わせて、恒例の浅草・山谷・吉原界隈の巡見をやります。

今年の「壱の酉」は11月11日(日)です。酉の市は日付が11日にかわった深夜0時に始まりますが、美しく飾られた市の熊手を見るのには、市が始まる前、10日(土)の午後がおすすめ。

巡見のコースは、三ノ輪にある吉原遊女の“投げ込み寺”浄閑寺からスタートして、酉の市を見学し、吉原遊郭跡、山谷ドヤ街、浅草新町をめぐり、浅草寺周辺がゴールの予定。巡見全体の趣旨やらねらいやらについては、こちらの記事をみてください。

今年の春に、江戸城本丸から丸の内オフィス街を通って日銀やら三井タワーのある日本橋界隈を歩き、夏には、日本橋・兜町界隈から神田繊維問屋街を通って、両国・浅草橋・蔵前まで巡りました。今回はその続きで、「江戸を縦貫する」コースの最終区間にあたります。

いつものとおり、基本的には各大学で私の講義を聴いてくださっている学生さんたちをお誘いしての巡見ですが、かつて私の講義に出られていた方々や一般の方々も、どうぞ遠慮なく一緒に歩いてくださいませ。

集合:10日土曜の午後に地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に集合します。
    集合についての詳細は各講義で配布の案内状を参照のこと。
    案内状を受け取れない方はメールでお問い合わせください。
    メールアドレスは、このブログのプロフィール頁にあります。
    9日現在で複数の方からメールをいただいております。
    そんなわけで、今年の学生さん以外の方も遠慮なく。
   ※10日午前6時までにメールいただければ大丈夫です。
    ただし返信は9日深夜か10日午前6時までお待ち下さい。
    巡見自体は、だいたい18時前には終了・解散の予定です。

付:個人的には、今年こそ、巡見終了後、そのまま浅草で飲んで開催直後の酉の市に行きたいなと思っています。山谷で門限無しの宿を探して泊まろうかとも考えているんですが、じゃなくて、飲んで、酉の市に行って、で、カラオケかネットカフェで始発待ちしようかなとも。本当は、山谷に泊まって、カフェバッハで極上のモーニングコーヒーってのがかねてからの念願なんですが。

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2007/08/22

猛暑巡見のかんたんな報告~中編

江戸のメインストリート
 人形町から大門通りを神田方面へ進む。前方に、通行量の多い大通りとの交差点が見えてくる。この大通りの現在の名は、江戸通り。江戸時代の呼び方だと、本石町通り。大門通りから見ると、本石町通り沿いは、周囲と比べて微高地であることがわかる。

本町通りと本石町通り
 さて、その本石町通りに出る少し手前で、我々は右折する。この通りが本町通り。由緒正しき江戸のメインストリート。常盤橋際から浅草橋際まで延びる。江戸の建設期、江戸町方の中心である日本橋北地区一帯の町割り造成工事がこの本町通りを中心軸にして行われたと、かつては考えられていたこともあるが、最近の研究だと、実際の中心軸は、本町通りの隣を平行して走る本石町通りだったという説が有力だ。
 ただし、造成工事の中心軸が本石町通りだったとしても、江戸城下の町方の社会的編成上の中心軸が本町通りであることは疑うべくも無い。
 こうした中心軸の二重化はどうして生じたのか?その理由を勝手に想像してみよう。徳川氏の城下町として江戸が建設される以前から、中世の江戸湊や浅草辺りには、ある程度の町場の発達があったとされる。江戸湊の内奥の低地にあって、微高地上を走る本石町通り沿いには、すでに、ぱらぱらと町場ができていた(のかもしれない)。日本橋北地区の造成に際しては、まずこの本石町通りを直線的に整備し直し、それを基準線として、一帯の町割を進めた(同前)。しかし、江戸のメインストリートには、本石町通りではなく、その隣の道筋が選ばれた。新たに造られたその道路沿いの土地は、先住者のいない新規造成地であり、徳川氏に随伴する有力町人たちを入植させるには、本石町通りよりも好都合だった(同前)。こうして、新たなメインストリートには、本町・大伝馬町といった、江戸で最も格式の高い町々が作られていった。
 と、まあ、想像してみたけど、実際のところはどうだったんだろう。単に、日本橋北地域に向けた江戸城の玄関ともいえる常盤橋門に対して、本石町通りの入り口よりも本町通りの入り口の方が近かったから、というのが理由かも知れない。

 さて、そんなことを思いつつ、本石町通りの手前で大門通りを右折し、本町通りに入る。これを浅草橋の方向に少し進むと、龍閑川埋立地に着く。戦後、廃墟の瓦礫でもって埋め立てられた場所だ。この埋立地の歴史にはかなりの思い入れがあるが、今回はそれに触れることもパス。
 この先が、繊維問屋街の中心だ。(つづく)

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2007/08/09

猛暑巡見のかんたんな報告~前編

 おととい、巡見にいった。江戸城本丸から、日本橋・神田・浅草をとおって、三ノ輪にある通称投げ込み寺の浄閑寺までを歩く「江戸を縦貫する」コースの第二区間。日本橋兜町から浅草稲荷町まで。
 
 地下鉄茅場町駅の集合場所では、思ったよりもたくさんの学生さんが集まってくれていた。暑い中、夏休みにもかかわらず。感心、感心。

 最初は、第一国立銀行跡を通って、東京証券取引所へ。見学。周辺には証券会社が集まっていて、その中心がこの取引場。いうまでもなく、ここは株の市場。めまぐるしい取引が今まさにここでおこなわれているのだろうが、取引所の中も、兜町界隈も、拍子抜けするほど静か。取引所の資料展示室の写真などを眺めて、株屋さんたちがひしめき合う、かつての市場の様子に思いをはせる。そういえば、もうすぐ株券も無くなって電子化されちゃうんだっけ。

 取引所を出て、日本橋川を渡り、人形町へ。途中、穀物商品取引所の前を通り、人形町。天保改革前までの芝居の町。改革後は、名主熊井理左衛門の支配町々。
 甘酒横丁に入り、大門通りへ。この辺り、いわゆる元吉原。江戸の初期、吉原遊郭があった場所。

 大門通りを神田方面へ進み、本町通りにたどり着く。
(つづく)

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2007/08/05

8月7日「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

次回巡見の直前ご案内です。日程は、8月7日の火曜午後。
各大学とも夏休みに入ってる上に、この暑さ、いったい何人の人が一緒に歩いてくれるのか、少々不安ですが、まあ、もし少人数であれば、それなりに濃密?な巡見(+アフター巡見)を楽しみましょう。

コース:東京証券取引所と兜町界隈→本町通り→神田繊維問屋街→両国橋広小路跡・柳橋界隈→浅草橋問屋街→蔵前(余裕があれば浅草寺雷門まで)

集合:地下鉄茅場町駅B1Fの定期券売場の前あたり(8番出口の近く)で13:00集合です。

各自、暑さ対策をそれなりに。

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2007/06/27

「巡見~江戸を縦貫する」のスケジュール

「巡見~江戸を縦貫する」の今後のスケジュールをお知らせします。

スケジュール
・次回の巡見は8月7日(火)に実施する予定。
・6月末に予定していたヒルズ巡見は10月初旬へ延期。
・浅草山谷吉原の巡見は11月10日(土)に実施予定。

この巡見の趣旨や概要については、こちらこちらの記事を参照してください。
同行をお誘いする対象は、まず各大学で私の講義を受けてくださっている学生の皆さんですが、過去に私の講義を受けてくださっていた方々や、この記事をご覧になって興味を持たれた一般の方々の参加も可能です。その場合、このブログのプロフィールの頁にあるメールアドレス宛にご連絡ください。集合場所などの詳細を折り返しご連絡いたします。“一般の方々”は、恐れ入りますが、メールに住所と氏名を記入してください。

次回の巡見について
次回の巡見は、前回の「江戸城から日本橋」のつづきで、「日本橋から浅草」を歩きます。東京証券取引所と兜町周辺、神田繊維問屋街、両国界隈、浅草橋問屋街などをめぐる予定です。このコースには、東証や問屋街など、休日は閉まっている場所も多いため、開催日は大学が夏休みに入ってからの平日にしました。いわゆる猛暑巡見となりますが、がんばって歩きましょう。江戸城や吉原などの「人気スポット」をもつ他コースと比べて一見地味なせいか、例年、参加者が少なめになってしまうコースですが、個人的にはおすすめのコースです。例えば、問屋街=市場の町並みは、都市景観としても、見るべきものが多いと思います。こうした問屋・市場の存在を、前代の遺物みたいに考えるのは、いうまでもなく、それこそ、前代の遺物的な思考じゃないでしょうか。問屋街=市場の景観は、そうしたことを見る人に気づかせてくれるかもしれません。
集合などについての詳細は、来月の第二週あたりに各大学において発表します。たぶん、地下鉄茅場町駅のどこかに午後1時くらいに集合かなと。

11月10日の巡見について
例年、浅草酉の市の前日に、吉原界隈を歩いています。今年の酉の市は11月11日(日)と23日(金)だそうです。市の前日、まだ見物人がまばらなうちに、すでに飾りつけられた名物の熊手をみてあるきます。酉の市は、11日の午前零時に始まります。今年こそは、巡見終了後、山谷に宿をとって、開始直後の酉の市を見物しようかな。というわけで、吉原・山谷・浅草の巡見は、11月10日開催がすでに決定です。

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2007/06/06

続・たけくらべ論争~検査場説の再検証

 以前、いわゆる「たけくらべ論争」についての記事を書きました。いまだにアクセス数の多い記事です。先日、そちらの記事にコメントがありました。
 「たけくらべ論争」とは、樋口一葉の小説『たけくらべ』のヒロインである少女、美登利が、物語の終局、酉の市の日を境に、それまでの活発さを失って、まるで別人のようにおとなしくなってしまったことの原因をめぐる論争です。美登利は吉原で娼妓となる宿命の少女ですが、論争は、主に、美登利変貌の原因を初潮とする説と、初店(=初めての売春)とする説との間で繰り広げられてきました。そもそもは、通説である初潮説をとる著名な文学者の前田愛に対して、これまた有名な作家である佐多稲子が初店説をぶつけたことで論争が始まりました。
 私がこの論争に興味をもったきっかけやら、初潮説・初店説についての私見はこちらの記事をご覧ください。
 で、今回、いただいたコメントとは、実は初潮説・初店説の双方を否定する説=初検査説というものがある、というご教示でした。そのコメントで紹介された文献を今日やっと読むことができましたので、お礼かたがた、感想を書いてみます。
 とはいえ、私の結論としては、初検査説はちょっと難点が大きすぎるということになってしまいましたが・・・。

 以下が、その感想です。


初検査説(検査場説)とは

 上杉省和「美登利の変貌」(『文学』56、1988.7.)と、近藤典彦「「たけくらべ」検査場説の検証」(『国文学解釈と鑑賞』70-9、2005.9.)を読みました。まず上杉論文が美登利の変貌原因=初検査説を提唱し、近藤論文が再主張するという内容でした。近藤論文は題目で「検証」をうたっていますが、実際のところ、客観的検証作業をしたものではなく、初検査説の再主張といった体裁でした。
 
 初検査説のおおまかな内容は次のとおり。当時、吉原遊郭の娼妓、あるいは新規に娼妓となる者には、遊郭に隣接した検査場での性病その他の検査が義務づけられていた。娼妓デビュー直前の美登利は検査場で初検査を受けたが、そのショックで、それまでの活発さを喪失した。以上が初検査説です。

 この初検査説の主張の根拠は、おおよそ次のとおり。①初潮説・初店説ともに問題がある。したがって、初潮・初店以外の変貌原因が存在する。②変貌した美登利が目撃された場所は検査場の近くである(検査場の方向からやってきた美登利に友達が会ったところ、その様子が変だった)。③美登利に思いを寄せているその友達正太が、美登利に会う少し前、彼女を探しに出るときに口ずさんだ流行ぶしは、ある一部分がとばされている。その部分とは、ちょうど、検査を受ける娼妓のつらさを歌った部分である。これは、一葉が美登利の身上に起きていることを暗示するために仕掛けたものである。以上が、初検査説の主な論拠です。

初検査説の難点

 この初検査説はなかなか面白い説だとは思いますが、やはり難点があると思います。まず、初潮説・初店説を否定する際の論拠がやや薄弱です。たとえば、近藤氏を含む初潮説否定論者がしばしば「なによりの証拠」として注目するのは、当日夕方の美登利の母親の「風呂場に加減見る」行為です。当時、初潮だったら風呂には入らないはずだと。
 しかし、この「風呂」の準備が美登利ひとりのためだと断定する根拠は見当たりません。美登利一家が留守居をしている大黒屋(遊女屋)の寮(別宅)の「風呂」に入る、美登利以外の人物の候補として、美登利の母親・父親・大黒屋の主人・療養中の大黒屋の娼妓などなどが、可能性の大小は別にして、比較的容易に想定できると思います。したがって、風呂の件は、初潮説否定の決定的証拠とはなりえません。他の証拠も、これと同じように、解釈の仕方次第で無効となりうるように思います。
 一方、初店説を否定する論拠として、初店(美登利の初売春)がおこなわれる時間が無いという点を上杉氏は指摘しています。変貌した美登利は「昨日の美登利の身に覚えなかりし思ひ」で恥ずかしがっているわけだから、初店は変貌の当日におこなわれたことになる。だが、美登利の朝からの行動を追うとそのような時間的余裕は無いと。
 しかし、佐多稲子氏が主張するとおり、初店が昨夜遅くのことであれば、問題はなくなるのではないでしょうか。「昨日の美登利」とは、昨日の日中までの美登利だと解釈しても、そんなに問題はないと思います。

 それはさておき、そもそも、初検査説が抱える最大の難点は、上杉氏・近藤氏の主張に反して、美登利が物語の最後まで正式な娼妓デビューをしないことです。

 明治22年の貸座敷引手茶屋娼妓取締規則では、16歳未満の者が娼妓になることは禁止されています。また、娼妓は「貸座敷内」つまり遊廓の遊女屋内以外の場所に住むことを禁止されています。遊郭内居住の義務は、こうした規則ができる以前、江戸時代から、遊廓の営業独占を維持する手段として重要視された、吉原内部の決まりごとでもありました。
 美登利の年齢は、作品中に明記されているとおり、14歳です。小学校の最終学年としてまだ学校に通っている美登利(2007/6/10付記:「最終学年」は間違いで、美登利は最上級生信如のひとつ下の学年でした)を正式に娼妓デビューさせることは、ふつう無理です。

 また、変貌の日以降、少なくとも物語のラストまで、一貫して美登利は遊廓吉原の外で暮らしています。これも、美登利がまだ娼妓となっていないことを示しています。検査期間に注目すると、娼妓は1週間に1回の検査が義務です。つまり、美登利が初検査を受けたのなら、それから1週間以内に廓内に移り娼妓デビューしないと、検査を受けた意味がなくなるのではないでしょうか。ふつうに考えると、検査後、1週間をまたず、早々にデビューするのが自然なように思えます。ここで変貌の日から物語のラストの水仙の朝まで、どのくらいの日数がたっているのかを確定するのは難しそうですが、さびしがっている友達からの遊びの誘いに対して、美登利が「今に今に」という「空約束」を「はてしなく」繰り返しつつ、その変貌ぶりが町の人々の噂にまでのぼり、例の水仙の朝のラストにいたる、といった展開からは、この間、決して少なくない日数が経過しているかのような印象を個人的には受けます。もし、変貌の日に、娼妓デビューのための検査を受けたとすると、その後、物語のラストにいたってもなお続く美登利の廓外居住は不可解です。

 まだ14歳であるにもかかわらず、美登利が娼妓デビューのための直前検査を受けたと主張する上杉氏や近藤氏は、その論拠として、『吉原大全』(上杉氏)、『北里見聞録』・『広辞苑』(近藤氏)の記述を引用しています。これらの文献では、娼妓デビューを「新造出し」「突出し」などと表現しています。そして、そうしたデビューが、13、14歳、あるいは14、15歳でおこなわれたとこれらの文献には書かれている。したがって、14歳の美登利が娼妓デビューすることになったと考えてもよいだろうというのです。

 しかし、わざわざ指摘するまでもなく、『吉原大全』は明和年間、『北里見聞録』は文化年間の文献です。残る『広辞苑』の記述がはたして論拠になりうるのかどうか疑問ですが、おそらくは、『吉原大全』や『北里見聞録』などの江戸時代の文献にもとづく記述でしょう。つまり、上杉氏や近藤氏が依拠するこれらの記述は、明治中期の吉原遊郭と娼妓についてはあまり有効ではありません。

 結局、上杉氏や近藤氏が主張する、14歳の美登利の娼妓デビューは、もしそれが実現したとするなら、佐多稲子氏が言うような、秘密の(違法な)初店であると考える必要があるでしょう(しかし、上杉・近藤両氏とも、自分の主張する美登利の娼妓デビューが、そうした特殊なケースだという自覚はないようです)。

 まあ、確かに、美登利のデビューがそんな秘密のデビューになってしまう可能性は否定できません。その点、佐多氏の初店説はなお有効でしょう。
 しかし、初検査説にとってそれは致命的な難点となります。秘密裡のデビューであるならば、美登利がわざわざ検査場へ行って正規の検査を受けてつらい思いをする必要はないからです。

 ここまで、初検査説に対する反証を挙げてみました。まとめると、①美登利は法的に娼妓デビューが可能な年齢に達していない。②美登利は廓外にずっと居住しているから正式な娼妓デビューにはいたっていないことが明らかである。③仮に正式なデビューではなく秘密裡の違法なデビューだとしたら、そもそも検査を受ける必要はない。  以上、①から③により、美登利が検査を受けたとは考えられません。

初検査説の可能性

 それでは、初検査説が成り立つ可能性についても検討してみましょう。上記の反証で依拠しているのは、明治22年の娼妓取締規則です。仮に物語の年代設定が明治27年ぐらいだとしたら、それまでに規則が変更され、14歳の娼妓デビューが公認されている可能性もあります(ちょっとだけ私も規則変更に関わるような史料を探しましたが、見つかりませんでした)。逆に、物語の年代設定が明治22年以前であれば、なんとかなるかもしれません。ただし、今度は検査場の建設が明治22年であることがネックですね。
 あるいは、『たけくらべ』はしょせん樋口一葉の創作の世界だから、14歳の正式デビューだって、初検査だって、何でもありえる、という読み方をしてみる。もしくは、一葉の吉原に対する知識が正確さを欠いていると考える。
 うーむ、それはちょっと難しいかも。娼妓の就業可能年齢や廓内居住義務について一葉が知らなかったとは思えません。創作だから・・・というのなら、まあ、何でもありといえばありですが。

2009.6.24.付記:最近、この記事のような主張に対しては、美登利の年齢が詐称される可能性や、上にも書いたように、一葉の知識に問題がある可能性にもとづく反論があることを知りました。検討の結果、やはりそうした可能性は低いだろうと考えています。興味のある方は、こちらの記事を。

 

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2007/05/30

今年も巡見始めました。

先週末の土曜、巡見「江戸を縦貫する」の2007年度シリーズ第1回をおこないました。歩いたのは東京駅~丸の内~江戸城~江戸橋広小路跡~大伝馬町~本町~日本橋の区間です。歩いてみての感想はまた近日中にアップします。

今回初めての参加者の方に加えて、去年から引き続きの参加者もいらっしゃって、案内人としてはうれしかったです。

巡見後の打ち上げは、恒例の新大久保コリアンタウン。いつもの韓国料理屋さんに行きました。カイコのサナギはうまかったかいな。その後、2次会・3次会とつづき、解散は翌朝、始発が動き始めた新宿駅。歌舞伎町のカラオケルーム7階から眺めた、あけぼのの靖国通りの景色が妙に記憶に残っています。

次回は、おそらく、6月末に、番外編のヒルズ(+ミッドタウン?)巡見。各大学が夏休みに入ってすぐ、8月最初の週くらいの平日に、日本橋から浅草橋までの第2区間を歩く予定です。暑いだろうなぁ。ビールがうまそう。

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2007/05/16

書評:ドロイス・ハイデン『場所の力』 その1

 本書は2部からなっている。その第1部においては、都市景観の意味を理解する(理解しなおす)ための方法論が展開されている。第2部では、ロスアンジェルスにおける都市景観の保存・デザインの実践が紹介されている。
 第1部のタイトルは「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」で、第2部は「ロスアンジェルス-ダウンタウンの都市景観に見る公共の過去」である。

第1部「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」より
第1章「主張が交錯する場所」

 ハイデンの方法論が示される第1部には三つの章があるが、そのうちの第1章「主張が交錯する場所」の導入部では、ニューヨークの歴史的建造物の保存をめぐるある論争が取り上げられている。
 その論争は、1975年に、都市社会学者のハーバート・J・ギャンズと、建築評論家のアダ・ルイーズ・ハクスタブルとの間でおこなわれた。

 ギャンズは、ニューヨーク・ランドマーク保存委員会による保存対象の指定を批判して次のように述べた。「陽のあたっている著名な建築の一部を保存しているに過ぎず、一般の建物の存在をないがしろにしている」。
 保存委員会を支持するハクスタブルはこれに反論して、「偉大な記念碑的建築に対して、それが富裕層のものであることを理由に汚名を着せたり、それらをエリート主義の文化的な道楽とみなすことは誤りであり、歴史のわい曲であり、(中略)これらの建物はかけがえのない文明の重要な一部である」と述べた。

 また、保存委員会が指定した建物の保存活動への税金の支出について、ギャンズは、「保存という行為は公共の財源に依存する限り、公共的な行為であって、それはすべての人々の過去に呼応するものでなければならない」と述べて、「著名な建築の一部」に偏った保存活用への支出は問題であるとした。それに対してハクスタブルは、「美学的に見て質の高い建築の修復や再利用はきわめて難しい作業であり、大きなコストを必要と」するため「可能な限りの支援のすべてを受けて当然である」と弁護した。

 さて、著者のドロイス・ハイデンの主張については、邦訳本の出版社によって、「本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」であると紹介されている(直前号の記事参照)。この出版社による紹介を読んだだけだと、ハイデンは、ハクスタブルとは敵対し、ギャンズとは意見を同じくしているようにもとれる。「著名な建築の一部」だけでなく「一般の建物」の保存を主張するギャンズのいう「一般の建物」とは、多くの倉庫、店舗、下宿屋などといった「都市のバナキュラーな建物群」のことであり、これはハイデンの「生活景」と重なるようにも思える。

 しかし、日本の出版社が、ハイデンの主張の新しさをこのようなかたちで説明するしかなかったのは、おそらく、いまだ、日本の都市景観をめぐる議論の多くが、30年前のギャンズ・ハクスタブル論争の次元か、あるいはそれ以前の段階にあるためだろう。
 実際に本書を読むと、ハイデンはギャンズに対しても「保存に関しては全くの門外漢」だとしてその不十分さを指摘し、「結局のところ、2人とも、彼(ギャンズ)の都市保存の考えと彼女(ハクスタブル)の建築保存の考えを同時に実現し得る機会を探し出す努力を払わなかった」と述べている。

 したがって、ハイデンの主張の新しさについて理解するためには、その主張が、ギャンズ・ハクスタブル論争の次元をどのように超えているのか、とりわけ、ギャンズの主張をいかに乗り越えているのかという問題関心をもちながらこの第1章を読むことが、私を含め、日本の読者の多くには求められるように思える。

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2007/05/09

都市景観・まちづくり~ドロイス・ハイデン

 都市景観、そして、まちづくり。この二つのテーマについては、このブログでもちょくちょく言及してきた。今年は、もう少しじっくりとこれらのテーマについて考えてみたいと思う。
 
 で、学ぶべき先行研究をいろいろと物色した結果、興味を持ったのは、アメリカのドロイス・ハイデンという人と、日本の蓑原敬という人。二人とも建築系の人だが、それぞれの都市の見方に共感して選んだ。
 二人を選んだ後で、それぞれの経歴を調べたら、これが面白かった。ハイデンは、最初、歴史学を研究し、それから建築学へと転身した人。蓑原も、最初、東大の教養学部でアメリカの地域研究をやった後、日大理工学部の建築に入り、そこを卒業してから、建設省や茨城県で都市計画などを担当した人。つまり、人文科学を経てから建築を学んだという点で二人は共通している。
 結局、歴史研究者の僕が選ぶと、こんな風になるんだな。

 それはさておき、まず、ドロイス・ハイデンの本について簡単に紹介しておこう。
ドロイス・ハイデン『場所の力-パブリック・ヒストリーとしての都市景観』(後藤春彦・篠田裕見・佐藤俊郎訳、学芸出版社、2002年)
 出版社による本書の紹介をみると、「バナキュラーな街並み、市井の人々の仕事や営みさえも、地域の人々にとって価値あるものであることが、日本でもようやく気付かれるようになってきた。(中略)本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」だという。
 では、「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」、すなわち、都市景観としてのパブリック・ヒストリーとは、いったいどのようなものか。
 訳者の紹介によると、「彼女(ハイデン)が言う社会的な記憶とは労働者の歴史であり、民族や女性の歴史を意味する。特に、地域社会における悲痛な体験や敗北した闘争の歴史を含むものである。これらは、書物に記されたり、公園や広場の銅像となって表象される、強者や勝者、すなわちメジャーの歴史とは明らかに異なるもので、人々の口伝や街角の何気ない景観などのよってのみ伝えられる市井の人々のアイデンティティとも言えるものだろう」とのことである。
 ハイデンは、「私達アメリカ人は、自分達の言い分を社会に伝えてくれる代弁者を持たない圧倒的多数の人々、すなわち一般の労働者、すべての民族の女性、男性、子ども達の個々人の心に共振する歴史が刻み込まれた都市の歴史的かつ公共的な場所を手にすることができる」という希望を掲げている。

 少し前までは、某大学で、都市論という講義を担当していた。今も続けていたら、格好の素材として講義で取り上げられたのになぁ。まあ、今回も、ちょっとした講義ノートを作成するつもりで、書評に取り組んでみたい。
 そのなかで、本書の長所と弱点をクリアにしていきたいと思う。

 もう一人注目の蓑原敬については、また記事をあらためて紹介しよう。

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2007/04/18

第1回「巡見~江戸を縦貫する」の日程

先の記事でご案内のとおり、今年も「巡見~江戸を縦貫する」を始めます。
第1回は、江戸城本丸から日本橋までの区間です。

日時:5月26日(土) 14:00~
集合:未定(たぶんJR東京駅に14:00)
コース:東京駅→丸の内オフィス街→江戸城本丸(東御苑)→竹橋・地下鉄東西線で日本橋へ移動→江戸橋広小路→大伝馬町→本町通り→日本銀行→三井→日本橋

集合場所などの詳細は各大学の講義の際にお知らせします。講義に出ていない方は、このブログのプロフィールの頁にある宛先まで、氏名を明記したメールを送ってください。折り返し小林からご案内の返信を差し上げます。

次回以降の予定
できれば6月下旬の土曜に番外編としてのヒルズ歩き比べをやりたいです。
本編の第2回は、各大学が夏休みに入ってすぐの平日に、日本橋から浅草蔵前までを歩くつもりです。兜町や神田の問屋街、浅草橋周辺の問屋街の活況を見て歩きましょう。

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2007/04/11

今年も「巡見~江戸を縦貫する」を始めます

 毎年、各大学の授業の受講生さんたちやかつて受講生だった人たちをお誘いして、東京の町あるきをやっています。もうこの企画も始めてから10年くらいかな。

 例年は、吉原遊郭の裏手にある“投げ込み寺”の浄閑寺からスタートして、吉原→山谷→浅草新町→浅草寺→蔵前→浅草橋→神田問屋街→日本橋→丸の内まで進み、最後は江戸城本丸がゴールです。このコース設定は、江戸という巨大都市に一本の串を刺してみて、その端から端まで歩いてみるためのものです。番外編として上記コース以外に六本木ヒルズや新宿歌舞伎町・新大久保などにも行きました。
 この巡見全体のねらいについては、こちらの過去記事を参照してください。

 今年はちょっと趣向を変えて、スタート地点とゴール地点を逆にしてみようかなと思っています。第1回目(5月中)で江戸城本丸から丸の内・日本橋まで。第2回目(夏休みに入ってすぐくらいの平日)で日本橋から浅草まで。10月上旬くらいにはいちど番外編かな。それで、第3回目(11月の酉の市にあわせて)は浅草・山谷・吉原。それからまた番外編を2月あたりに。
 今年の番外編では渋谷界隈に行こうかなぁ。あるいは、下谷の佐竹ヶ原(かつての新開町)や秋葉原にしようかなぁ。都心再開発地域の歩き比べってのも面白いかなぁ。

 で、第1回目は、来月の19日(土)午後か、26日(土)午後を予定しています。まだどっちか決めていませんが、どっちがいいでしょうか。(2007.4.18.付記 26日(土)に決定しました。)
 もしも「行ってみたいけど、できればこっちの日程の方が好都合。」っていう人がいたら、教室で直接か、あるいはメールにて私におっしゃってください。判断材料とさせていただきます。もしくは、番外編ではここに行ってみたいという希望があればそれも遠慮なくどうぞ。

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2007/04/04

「新年度の授業の抱負」、あるいは、「歴史研究は本当に細分化したのか?」

そろそろ新学年の授業が始まる。新しい学生さんたちと顔を合わせるのは本当に楽しみなんだけど、初回の授業をどんな話から始めるか、毎年悩む。
でもって、だいたい僕が話すのは、なぜ歴史を学ぶほうがよいか、という話。あるいは、歴史研究なんかやってて何が面白いのか、という話。

話題は変わるが、歴史学界の現状について、「研究の深化によって、研究内容が細分化してしまい、全体像が論じられなくなった。」と憂う声がよく聞かれる。
こういう意見に対しては、まあ、それもそうかな、と一時は思ったりもしたが、最近は、それは違うんじゃないかな、と考えるようになった。
いわゆる古典とされるような、普遍的価値が広く認められている研究論文を読み返してみても、多くの場合、その内容自体は、とてもローカルで細かな事象を分析したものである。その点、最近の研究と大差は無い気がする。

神は細部に宿る、という。だから、とことん細部にこだわって、そこに神を見出さなくてはならない。普遍的価値とは、きっと、そんな神がもつ偉さのことだろうなと思う。
その神を自分ではまだ見出せていないうちに、おまえがいるのは蛸壺だ、という野次に動揺して外海に泳ぎだしてみても、今度は波間に漂い、その時の潮や風に流されるクラゲになるだけだろう。

さらに話題は変わるが、最近の大学生の学力は低下した、と嘆く声をしばしば耳にする。しかし、私の場合、学生時代の自分が劣等生だったせいもあって、最近の学生の学力が低下したと思うことはほとんどない。
“古い人たち”が自分のモノサシを後生大事に持っていて、それを今の学生さんたちに押し当ててみては、あっちが足らない、こっちが短い、と言っているだけのような気もする。

というわけで、私は学生さんたちのことをかなり信頼している。そんな学生さんたちを確かな評者として、自分が歴史の細部=蛸壺の底で出会った(つもりでいる)神のことを話してみる。
そうやって話してみて、学生さんたちにその神の偉さが伝わらなければ、その神は賞味期限切れの古い神なんだと思うようにしよう。あるいは、私の細部へのこだわりが中途半端で、その神の普遍性をまだ自分のものにできていないんだと反省しよう。
ちゃんとラテン語を学んでない奴らに神のことを話しても無駄だ、とか愚痴っててはだめなんだじゃないかと思うんだ。

だから、私の場合、歴史研究を続け、神を探し続けていくためには、授業という試金石が欠かせないと思ってる。

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2007/02/28

明暦江戸大絵図と失われた江戸

去年の秋頃はたくさん江戸図をみた。昔、仙台の千葉正樹さんという研究者と一緒に、東北大の図書館が所蔵する大量の江戸図をみたことがあるが、それ以来の経験。 2度目の経験で、鈍感な私にも、やっと江戸図の面白さがわかってきたような気もする。
 今回、江戸図をみたのは、明暦江戸大絵図が刊行されるのに際して、その本に解説を書く仕事を引き受けたからだ。
 執筆の準備段階で、初期江戸についての高名な研究者の村井益男さんと一緒に絵図を調べる機会にもめぐまれた。学ぶことが多かった。

 現在、ちょっと大きめの本屋さんに行けば、江戸図の複製はすぐに手に入る。しかし、その大半は幕末期のもの。明暦江戸大絵図は、その名の通り、幕末からは200年もさかのぼる初期江戸の絵図である。おそらくは明暦大火前に作成された原図に大火直後の情報が記載されて成立した絵図だ。
 江戸は、明暦大火を契機にその姿を大きく変えたとされるが、その時期の江戸の空間構造について考える場合、これは必見の絵図だ。というのも、これまで多く利用されてきたこの時期の他の絵図とは桁違いに良い絵図だからだ。この絵図を見ながらの研究と、この絵図を見ないままでまとめた研究とでは、その中身にかなりの違いが生じるだろう。例えば・・・とここで書いちゃうのはやめておこう。

 最近、広島大の金行信輔さんなどのお仕事などによって、初期の江戸図の研究レベルは格段に上がりつつある。いうまでもなく、この時期の江戸に関する文字史料は非常に乏しい。江戸図研究の刷新の動きは、初期江戸の都市社会に関する研究の飛躍へ直結するだろう。
 
 さて、今回刊行の『明暦江戸大絵図』。出版社は之潮。コレジオと読む。歴史書や地図の出版で有名な柏書房の社長さんが独立して作られた出版社。一冊一冊手作業で製本された、限定157部の『明暦江戸大絵図』はなかなか高価な本だけど、印刷・装丁も素晴しく、また、拙い解説文はともあれ、地図上の文字情報をほとんど網羅する索引も付されていて、美しくも機能的な本となっている。之潮のホームページにいけば、オリジナルや本と比べると、発色がイマイチですが、この素晴しい絵図の中心部分のサンプル写真と、それに付された村井益男さんの解説文があります。いちどおでかけください。
 付記:之潮のホームページに行かれる方は、ぜひ、会社案内や短信の頁もご覧ください。面白いです。おすすめ。

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2007/01/22

「巡見~江戸を縦貫する」本年度最終回のご案内

 本年度の「巡見~江戸を縦貫する」では、三ノ輪にある遊女の投げ込み寺・浄閑寺からスタートして、吉原ソープ街→山谷ドヤ街→浅草新町→浅草寺→浅草橋問屋街→神田問屋街と歩いてきました。今回がいよいよ本年度の最終回で、日本橋から丸の内を経て江戸城本丸までの区間を歩き、巡見の全行程を完結させます。

 巨大都市江戸に一本串を突き刺してみて、その端から端まで歩き通してみるというのが巡見の趣旨です。むろん、江戸を串刺しにする場合、この巡見コース以外にも、いろんな方向に串を打つことが可能です。しかし、江戸の重層性・多様性を実感しつつ、同時に、現代都市東京の重層性・多様性にも幅広く触れるためにもっともふさわしいコースが、吉原遊郭の裏手に始まって江戸城の天守台に終わるこの巡見コースだと思っています。

 問屋街を歩いた先日の巡見は、季節はずれの豪雨にぶつかりました。寒いなか足を濡らしながらの強行軍にて、参加者のみなさん、ご苦労様でした。また、番外の巡見として近代都市史研究者の大岡聡さんたちと一緒に行った新大久保のコリアンタウンの活況は印象的でした。それから、赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの三ヒルズ歩き比べは、現在、東京のあちらこちらで増殖している「都市再開発」空間の過去と未来を考えるための手がかりを豊富に与えてくれました。

 ともすればノッペラボウに見えやすい都市社会が、本当はそれぞれがかなり異なった多様な部分からできた、モザイクのようなものだという感覚を保つことが大事だと思っています。
 
 そのような感覚こそが、過去・現在の社会の諸局面を対象とする研究のモチベーションにつながるし、また、そうした諸局面に視線を向けている自分自身の立ち位置を相対化し、わが眼のレンズの色やら偏差やらを知らしめてくれるからです。

 そんなわけで、下記の要領をご検討の上、皆さんふるってお出ましくださいませ。例によって、この巡見のお誘いは、基本的には私が今年度担当している各大学での講義の受講生を対象にしていますが、それ以外、過去の受講生の方や一般の方も遠慮なくどうぞ。ただし、一般の方は、ご面倒ですが、私宛に住所・氏名を明記したメールをお出しください。集合場所などを折り返しご連絡します(アドレスはプロフィール欄をみてください)。

    記
 日時:2007年2月17日(土)の午後。所要時間3時間半強。
 集合:当日正午12:00。
 集合場所:講義の際のご案内のとおりです。
     集合場所がご不明の場合はメールでお尋ねください。

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2006/12/28

ヒルズ巡見を終えて その5 景観からの疎外

景観からの疎外、街からの疎外
 景観からの疎外の問題。以前、日本橋再生に関する記事のなかでも書いたが、今回のヒルズ巡見を通じて、やはりこの問題が気になった。
 今回はとりあえず、各ヒルズの商業施設部分に限定して考えてみる。ここでいう景観とは、ミクロなレベルでの景観である。壁や通路、天井のデザインや素材、色、それから個々のお店の看板、ショーウィンドウやら内装、あるいは、商品・テーブルの配置やお店で働く人々の服装なんかを含めてもいい。訪れた人々の目に入ってくるそれら様々な要素から成立する景観というものを考える。
 それでは、ヒルズの景観はだれが作っているだろうか。たとえば、六本木ヒルズの場合、壁や通路などの基本デザインを決めたのは、外国の著名な設計事務所である。各ショップの内装・外装などを決めるのは誰なんだろう。まあ、店によって事情は違うだろうが、ふだんお店にはいない人が決定する場合が多いだろう。いずれにせよ、ヒルズの景観の大部分は、ヒルズから遠隔のところにいる人々が決めているんだろう(この辺の記述、ちゃんと調べもせずにいい加減に書いちゃってすみません。違ってたらご指摘を)。
 景観の最もミクロな部分、商品のディズプレイや店員の服装については、実際にお店で働く人々が決める部分もあるだろう。しかし、その一方で、そうした景観の最小単位まで、どっか遠くの“本部”によってコントロールされる場合も少なくない。
 ヒルズを歩くと、ここは景観から疎外された人々が集ってる空間なんだと思う。アートが売り物の六本木ヒルズの場合、さしずめ、そこは、客とアルバイトの場内整備係とがいる美術館のなかみたいなものだ。展示品自体はもちろん、その配置についても、照明の具合についても、そこにいる誰も手出しできない。

ヒルズを好きになる“いつか”
 僕がヒルズを好きになる“いつか”が来るとしたら、そうした景観の決定権を、そこにいる人々が手にするようになったときだ(もちろん、そのためには現在の労働形態そのものも変わる必要がある。そして、街=社会における人間の存在様式が考え直される必要がある。たとえば、今、六本木ヒルズの商業施設で働く人々に占めるパート労働者率はどのくらいだろうか)。
 表参道ヒルズを比較的高く評価したのも、そんな“いつか”が来たとき、人々がその空間で何かを表現したり、空間をアレンジしたりしやすい造りになっていると思ったからだ。ひとつひとつの店舗区画が小さめであることや、シンプルなデザインが、そうした“いつか”に好都合だと思ったからだ(先に表参道ヒルズの市場の魅力がどうしたこうしたと書いたが、今はまだなんとなくアンテナショップめいたお店も多くて、市場は市場でも、どこか見本市っぽい雰囲気は好きになれずにいる)。
 

六本木城
 一方、六本木ヒルズはどうだろう。多くの店舗区画が大きすぎることや、先にも書いた商業スペースの散在性なんかが、そうした“いつか”が来たときの障害になるように思える。
 安手の近未来SFみたいで恐縮だが、何十年かして、六本木ヒルズ全体が、かつての香港の九龍城砦みたいになった姿を夢想する。六本木ヒルズにとっての“いつか”は、そんな姿になったときかもしれないなぁと。

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2006/12/27

ヒルズ巡見を終えて その4

表参道ヒルズ編~後編
 表参道ヒルズの一番良いところは、先の記事でも書いたとおり、訪れた人々が、その場の繁華の全体を一挙に視野に入れて実感できることにあるのだと思う。こういったあたりが、断裁されて散在する六本木ヒルズの商業スペースなんかとの大きな相違点であろう。
 
 先の記事では、明治期に流行した勧工場との類似性をあげてみたりもした。一方、勧工場との違いは、表参道ヒルズでは客が個々の店に触れつつも同時に全体の繁華も感じることができるという点にあるかもしれない。

 要するに、ここは“市場”の魅力を最大限に活かす空間づくりに成功しているんだと思う。大きな吹き抜け空間を中央に設けて、その周りに通路とテナントを配するという手法は、例えば、最近好調が伝えられるイオンなんかのショッピングセンターでも部分的に用いられてたりする。それと比較すると、表参道ヒルズの場合は、通路が傾斜し、らせん状になっているあたりが特徴だろう。なんでも、表参道の坂道の傾斜角をそのまま採用したんだそうだ。個々のお店で“市場”の細部に接しつつ、同時に“市場”全体の繁華も感じやすい構造だと思う。

 自分の身体が“市場”の繁華に包まれる感覚。これが“市場”の魅力だろうし、消費行為がもたらす快楽を高めるための舞台的要素だろう。ネットショッピングがいくら便利になっても“市場”が滅びない原因は、こうした感覚を人々があいかわらず求めていることにあると思う。
 社会学者の吉見俊哉が、北田暁大の議論を参照しつつ、六本木ヒルズのあのわかりづらい内部構成を、WEBサイト上の諸情報の配置になぞらえている。六本木ヒルズの、商業空間としてのつまらなさ、あるいは、都市空間としてのつまらなさの理由は、結局、そうした“市場”の魅力の欠如にあるのではなかろうか。渋谷やディズニーリゾートをめぐっての吉見と北田の主張の違いが思い起こされたりもする。吉見・北田の議論に参画するには、ここでいう“市場”の魅力の中身をもっと厳密に分析していく必要があるが、まあ、それはまたいつか機会があれば。
 参考文献:吉見俊哉・若林幹夫編『東京スタディーズ』(紀伊国屋書店、2005年)
 
 以上、表参道ヒルズについては、かなり高い評価をしてみた。ただし、これは、様々な制約のなかで作り上げられた、“箱”としての表参道ヒルズに対する評価である。
 なるほど、安藤忠雄って建築家は優秀なんだと思った。ここで安藤が実現しているのは、“市場”や商店街としての魅力を発揮するための前提条件の整備である。
 こうしたごく当たり前の前提条件を六本木ヒルズや赤坂アークヒルズは欠いてしまっている。その点において、表参道ヒルズの建築は高く評価できるという話である。

 しかし、与えられた比較的良好な条件を、表参道ヒルズの店々が現在うまく活かせているか否か、あるいは将来的に活かせていけるか否かは、また別の話である。

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2006/12/23

「巡見~江戸を縦貫する」のご案内

今年の「巡見~江戸を縦貫する」の第二部です。
前回歩いた三ノ輪~吉原~浅草のつづきで、浅草界隈~神田~日本橋までを歩きます。テーマは“問屋街の現在”といったところでしょうか。
両国橋広小路・柳原土手通り・岩本町古着市場などの跡もめぐります。本当は佐竹ヶ原にも行きたいところですが、それはまた別の機会に。
今回、参加呼びかけの対象は、各大学で私の講義を受けている学生さんや、かつてうけていた学生さんたちですが、それ以外の方も歓迎します。
日時:12月26日(火)の13:00から。所要時間は約3時間半ていど。
集合時間:13:00
集合場所:講義中にお伝えしたとおりです。講義に出ていない方は私宛にメールでお問い合わせ下さい。

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2006/12/18

ヒルズ巡見を終えて その3

表参道ヒルズ~前編

 人影まばらな赤坂アークヒルズを出て、地下鉄銀座線の溜池山王駅へ。そこから表参道へ出て、この日最後のヒルズ、表参道ヒルズに向かう。
 表参道ヒルズにはたしか三つぐらい入り口があったと思うけど、建物の面白さを味わうには、青山通りの方から表参道の坂をおりていって、一番最初にある入り口から入るのが良いと思う。
 小さなエスカレーターをおりると、コンクリートうちっぱなしの壁。その壁の間の細い入り口を進むと、急に、目の前に地下3階地上3階をつらぬいた大きな吹き抜け空間が現れる。
 この入り口からだと、狭い入り口を潜り抜けたあとの吹き抜け空間との出会いが劇的である。おおまかにいうとこの大きな吹き抜け空間は細長い三角柱のかたちをしているが、その一番尖った方から入っていくことになる。

 さて、その吹き抜け空間の側面にはらせん状の通路がつけられ、その通路に面して商店が並んでいる。入り口にたって空間と向き合うと、らせん通路のあちこちを、上へ下へと歩く大勢の人々の動きが同時に視界に入ってくる。
 ここで久石譲の音楽でもかければ、『千と千尋の神隠し』に出てくる巨大湯屋のシーンに少し似てくるだろう。
 吹き抜けにしたおかげでもちろんテナント用のスペースは減るわけだが、その代わりに得られたのは、どこからでも一望で確かめられる浮き立つような繁華の体感だろう。
 ついでにいえば、六本木ヒルズとは対蹠的に、誰もが自分の目的地を視認して迷わずそこへ行くことができるという明快さもある。

 通路に面して並ぶ商店。要するにここは、基本的な商店街のラインがパタパタと折りまげられて収容された空間だ。

 あるいは、明治期に流行したという勧工場を連想する。勧工場研究の第一人者である初田亨は、商品を陳列展示する近代的店舗形式のはしりが勧工場だというが、それは不正確だろう。商品の陳列展示は、江戸の露店マーケットですでに満面開花していた。それらは明治になって広場から追われた。勧工場の多くは、そうした露店マーケットを室内に収容して作られたものではないかと私は思っている。

 それはともかく、表参道ヒルズは、そんな大衆消費の華としての勧工場の魅力を持つと同時に、勧工場になかった内部空間の開放と賑わいの可視を備えて成立している。(つづく)

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2006/12/13

ヒルズ巡見を終えて その2

赤坂アークヒルズ編
 
赤坂アークヒルズは、森ビルが手がける都市街区再開発の第一弾。ヒルズシリーズの祖。1986年開業で、今年20周年を迎えたところ。森ビルのホームページの言葉を引用すれば、「成熟を重ねる森ビル都市再開発の原点」だそうだ。

 オフィスタワーの低層部分には飲食店を中心とするショップが入居し、住宅棟・ホテル・コンサートホールがセットになっている。オープン当初は、東京で一番洗練された“街”としてもてはやされ、物見遊山の人も集まった。たしか、高視聴率を維持していた頃のニュース・ステーション(テレビ朝日)もここから全国に中継されていたと記憶する。

 タクシーを降りてエスカレーターで上層に移動し、ヒルズ中央のカラヤン広場に移動する。ギリシャ・ローマ風?の列柱回廊の外に広がるカラヤン広場は、大きなアーチ式の屋根を備えている。小雨のふる巡見当日であったが、おかげでここは快適である。イルミネーションの輝く大きなクリスマスツリーも登場していた。

閑散 
 ただ、その広場には人がいない! 誰もいない。いや、ただひとり、散歩でもしているのかな、といったリラックスした普段着姿の中年男性がひとり、広場の端に作られたステージ周辺を歩いていたが、それ以外には誰もいない。しばらくしていると、住居棟の下層にある店に向かうグループが通った(その後、ヒルズ内を歩いていると、サントリーホールでコンサートでもあるらしく、ホールの入り口に20~30人の人だかりができていた)。
 
 開業当時、大学のオーケストラに所属していた私は、このサントリーホールの演奏会に出たことがある。たしかオープン記念でその年だけはホール使用料が半額だったため、都内のあちこちの大学オケがここで演奏会をやった。その頃の広場は、コンサートに来た客だけでなく、大勢の人で賑わっていた。

 今回巡見でアークヒルズを訪ねたのが休日・土曜の午後5時頃。多くのオフィスが開いている平日であれば、もっと人影は濃かったのかもしれない。とはいっても、その日はボーナス直後の土曜の夜。あまりに寂しすぎじゃなかろうか。少なくとも開業当初はこんなんじゃなかったぞ。
 
 森ビルのトップが、どっかの週刊誌の対談で、新宿の高層ビル街は、面としての開発が出来ていないためビルとビルとが孤立しているなどと馬鹿にしまくっていたが、そっちの街路の方が、同じ曜日、同じ時間なら、アークヒルズよりずっと賑やかなのは確実だ。

 森ビルいわく、アークヒルズの開発理念は、単なるビジネス街ではなく、「多彩な都市機能」を「ひとつの街の中に融合させた」、「文化発信」の空間を作ることにあるそうだ。
 そうした「多彩な都市」として「成熟」を重ねてきたという森ビルの自画自賛と、無人の広場でツリーが寂しく無意味にピカピカしている姿との間には、かなりの隔たりがある。

 広場を見終わってから、レストランなどが入ったフロアをめぐる。誰もお客のいない店。客が入っている店でも、せいぜい数人の客。
 今年の初めにここを巡見したとき、フロアの入り口近くの壁に、「この奥、営業しています」といった手書きの張り紙がしてあったのを目にして絶句した。さすがにその張り紙はもう見当たらなかったが、グループで歩くわれわれに向けて店のスタッフが注ぐ期待の視線が痛い。
 土日は休みにしている店もいくつかあって、そこはシャッターがおりちゃってる。どっかの駅前商店街に来たような気分だ。

地域活性化モデルの卵
 ちょうど良い機会だから、この際、ここアークヒルズにおいて、森ビルは、沈滞した地域の再活性化の手法を鍛え上げてみてはどうだろうか?それがもし成功すれば、なかなか商品価値は高いんじゃないかなと思う。いずれ、それが六本木ヒルズでも役立つかもしれないしさ。

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2006/12/11

ヒルズ巡見を終えて その1

六本木ヒルズ編 

 先週末の土曜、ヒルズの歩き比べで、六本木ヒルズ・赤坂アークヒルズ・表参道ヒルズを巡ってみました。時折冷たい雨が降る中、学生さんたち、ご苦労さまでした。

グルメマップ
 六本木ヒルズではちょっとしたゲームをやってみました。都立中央図書館で、今から3年前の六本木ヒルズ開業当時のグルメマップをコピー。それを手に、学生さんたちと手分けして、ヒルズ開業当時に入居していたレストランのうち、これまで撤退したものをピックアップしてみました。

 で、作業後の学生さんたちの感想で、もっとも多かったのは、そもそも店の位置が分かりにくい、というものでした。店名のリストと地図とを手に探しても、なお店の場所が分かりにくい、というのはやはりなかなかのことです。それから、フロア毎で人の賑わいに差があるという感想も。

 作業の結果ですが、71軒のうちの13軒が撤退していました。3年でこの数字、多いとみるか、少ないと見るか。
さらに注目すべきは、撤退した後、新しい店が入っていない区画が3~4軒あるということ。なかには7月くらいからずっと空き店舗の場所もあります。

 一方、オフィスタワーの方では、ライブドアをはじめとするいくつかの企業のオフィス撤退が話題になっていますが、それについての森ビルのトップのコメントは、空きが出来てもすぐに次の入居者が決まるから問題ないというもの。本当に大丈夫か?

アークヒルズへ
 六本木ヒルズに店を構えているということが、ある種のステータスだったり、宣伝効果をもたらしているうちは、各レストランともに、少々数字が悪くても、頑張って商売を続けるかもしれないけど、この後、10年・20年たったらどうなるだろう?
 そのひとつの答えが、次に行く赤坂アークヒルズの現況ではないか。

すべてをアート化せよ
 ところで、前回の巡見の感想でも書いたが、六本木ヒルズにおける、すべてをアート化せよ、という強迫観念は凄まじい。壁から天井から床から、照明のひとつひとつまで。
 折からやっていた六本木ヒルズ全体のクリスマスイベントのテーマは、その名もずばり、アーテリジェント(Artelligent)・クリスマス2006というもの。
 ここで問題なのは、そうした“街”のアート化の担い手がいったい誰なのか、ということだけど、それはまたいつか検討しましょう。

 われわれ一行は、六本木交差点の近くまで行ってタクシーに分乗し、次の目的地、赤坂アークヒルズへと出発。

2006.12.13.付記
 本文中、無くなっていたレストランについて、「撤退」という言葉を使ってしまいました。しかし、実際のところ、経営者は以前と変わらず、ただ、速いテンポで移り変わるお客の「ニーズ」に対応するため、お店の「コンセプト」を変えただけ、そのコンセプト変更によって、看板も架け替えただけって店だってあると思います。単純に「撤退」と片付けてはいけないかもしれませんね。

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2006/12/08

ヒルズ巡見のご案内

明日9日土曜午後のヒルズ巡見のご案内です。
 六本木ヒルズ・赤坂アークヒルズ・表参道ヒルズを歩き比べます。
  集合: 14:30にJR恵比寿駅の西口改札を出たところ
  所要時間: だいたい3時間強かな。
 学生の皆さんは、学生証を持参して下さい。
 六本木ヒルズの有料展望台へ行くかも知れません。ここは学割があります。
基本的に、私の講義を受けている(受けたことがある)学生の皆さんを対象とするご案内ですが、もし一般の方で参加を希望される場合は、今晩中に住所・氏名を明記したメールを私にください。アドレスはこのブログのプロフィールページにあります。
 

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2006/11/24

朝日カルチャー公開講座へのお誘い

年が明けて、1月から3月にかけて3回、朝日カルチャーセンターの新宿教室で講座を持ちます。
タイトルは「古文書と絵図で読み解く-江戸の町探訪-」です。
 第1回~1月12日(金)
 第2回~2月9日(金)
 第3回~3月23日(金)
いずれも、13:30~15:00です。場所は、新宿住友ビルの朝日カルチャーセンター。
応募人数が一定数に達さないと中止になるとのこと。
どうか、皆さん、来てね。 お・ね・が・いっ!
大学生であれば、たしか800字くらいの感想文提出と引き替えに、9760円の受講料が、なんと無料!で受講できるモニター制度があったと思います。会場が寂しいとホントとっても悲しいので、試験中でご多忙?とは思うけど、私の各大学での受講生の皆様、よろしかったら、顔を出してやってください。大歓迎させていただきます。

受講のお申し込みやモニター制度の詳細は、こちらをご覧下さい。

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2006/11/22

江戸絵図復刻本の解説を書く

 ここのところ、ちょっと手こずっていた仕事=原稿が、月曜にやっと一段落。しばし解放感に浸ってます。本当は、他の仕事も山積みで、そんな余裕は無いはずだけど。

 執筆の途中、大体いつ頃に仕上がるか見当をつけて随時それを出版社に伝えてきましたが、結局、実際の仕上がりはそれからずいぶんと遅れました。文字通り、ナントカの出前状態。

 出版社の方は、諸事情があってそんなに待ってはいられなかったはずで、本当に申し訳ないかぎり。
で、原稿を読んでくださった編集の方から感想メールの中に次のひとこと。
「待った甲斐がありました。」
うーん、うれしい。
かけた迷惑を考えるととても言えたセリフじゃないため、このブログ上での独り言にて、
「そうおっしゃってくださると、書いた甲斐があります。」

 今回の原稿は、そんな長大なものではなく、400字詰めで20枚いかないくらい。それでも、結構、難儀してしまいました。
 おそらくは年内に刊行されるであろう、明暦期の江戸絵図の復刻に付した解説です。部数も限定で、あまり一般書店に並ぶ本ではないので、皆さんのお目にかかることは少ないかもしれませんが、もしどこかでご覧になられたら、解説文の方もチラッと見てやってください。

 解説文はともかくとしても、絵図本体はなかなかすごいです。謎につつまれた成立期江戸の実態に迫るには、誰もが絶対見なくてはならない絵図です。

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2006/11/20

上海ヒルズ

うかつにも知らなかったんだけど、森ビルは上海にも進出していたんだね。
で、上海に、今度、500メートルくらいある超高層ビルをおったてて、それを中心に街区を開発。
上海ヒルズって命名するんだって。ちょっと笑ってしまった。

森ビルはブランド路線にいっちゃうのね(^^)。
ついでにここらでかっこいいマスコットキャラクターでも作って売りだしても良いかな。
六本木ヒルズのオープニングのころの宣伝用ホンワカキャラクターではダメだと思うけどね。

「ヒルズ」の世界制覇?
「ヒルズ」は、絶対、世界標準の都市ユートピアにはなりえないと思うけど、上海あたりだと歓迎されるのかな。
ともあれ、来月のヒルズ巡見は、ちょっと頑張って下調べしようかな(学生さん、誰か手伝ってくれない?だめか)。
でもって、いつかはヒルズの歩き比べも、上海に行こうかな。

2006.11.25.付記
今朝の朝日新聞みたら、上海ヒルズって命名に、上海では反対する声が出まくってるみたい。まあ、当たり前か。「○○ケ丘」やら「△△台」のカタカナ版というか、どこぞの国の西海岸の高級住宅地の真似というか、いずれにせよ、あまりセンスのないネーミングだし、そもそも、外国企業の“商品名”を街の名前にされたんじゃかなわないもんね。早くも、森ビル世界制覇の夢は挫折か。
ただ、命名はともかく、重要なのは街づくりの中身の問題だけど。その点は、来月のヒルズ歩き比べでいろいろ見てきましょ。

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2006/11/17

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズくらべ

 今年も、巡見「江戸を縦貫する」を実施中です。
現在、三ノ輪・吉原から浅草寺までの第1区を、春と今月と、2回歩きました。次は、本来、浅草から日本橋までの第2区ですが、ここで番外編をひとつ。
 昨年歩いて、思った以上に面白かった、ヒルズの歩き比べをやります。赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの3ヒルズをめぐります。

 日程は、12月9日土曜の午後を予定。今日の東京女子大での講義の終わりに、「12月2日の予定」と発表しましたが、諸般の事情で、1週間ずれて、12月9日の予定です(ごめんなさい)。

 六本木ヒルズにオフィスを構え、六本木ヒルズの住人になることが、成功の証しだった時期がありました(いちおう、今もそうかな)。いわば、現代都市のユートピアです。
 その六本木ヒルズのプロトタイプである赤坂アークヒルズも、かつては、そうした都市のユートピアとして、東京の観光名所だった時期があります。
 この二つのユートピアの現在を歩き比べてみましょう。

 いちおう、今年度、各大学で私の講義を聴いて下さっている学生さんたちをお誘いしての巡見ですが、一般の方も、ご興味がありましたら、小林まで、氏名・住所を明記したメールをください(アドレスはこのブログのプロフィールのページにあります)。
 詳しいご案内は、またあらためて。

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2006/11/08

セレモニーホールと日本社会 その2

前回の記事で書いたように、セレモニーホールの増加には数年来、関心をもっており、講義でも取り上げていたが、今年になって、福田充・八木澤壮一「葬儀業としての会葬葬儀の普及と変化について」(共立女子大学家政学部紀要52、2006.1.)という論文によって、それが思った以上の急増ぶりであることを知った。

同論文に載せられた全国調査の記録によれば、自宅で葬儀を行ったケースが1983年では葬儀全体の54.7%で、1986年には58.1%、1989年には56.7%、1992年には52.8%、1995年には45.2%、1999年には38.9%、2003年には19.4%となっているのに対して、「葬儀専門の式場」での葬儀は、同じ年次で、5.2%、5%、10.5%、17.8%、17.4%、30.2%、56.1%となっている。自宅や「式場」以外の場所として多いのは寺社や教会で、これはやや減少気味となっていて2003年では16.4%、他には集会所・公民館などがわずかにある。

以上の数字が示すのは、まず「葬儀専門の式場」=セレモニーホールの激増である。2003年になって、日本人の葬儀の過半数がセレモニーホールで行われるようになっている。逆に、かつては葬儀の過半数が自宅で行われていたのが、2003年には自宅での葬儀は19.4%へと急減しているのである。

同論文は、「現在では、葬儀の担い手が地域コミュニティから専門の事業者(葬儀社および冠婚葬祭互助会、農協・生協などの団体)に移行しており、その提供する商品やサービスは多様化の一途を辿っている。なかでも、葬儀を専門の用途とする斎場(葬祭会館・セレモニーホール)の建設が増加しており、葬儀を行う場所が急速に葬祭会館に移行している」とまとめている。

それでは、こうしてセレモニーホールが急増しているとき、自宅での葬儀と同様、世の中から急速に姿を消しつつあるものは何であろうか?

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2006/11/06

江戸切絵図と江戸名所図会のあいだを読む

 昨日は、日野市郷土資料館の特別展「絵図から見える江戸と日野」の関連講座で講演。
 ここの資料館には良質の絵図コレクションが寄贈されていて、その一部が展示されている。
 ていねいな力作の展示を、講演前にざっと見せていただいた。その充実ぶりに驚く。
 たとえば、幕末期の村絵図作成の際に作られたたくさんの制作作業図。
 当時の測量作業の緻密さにも感心するが、そうした作業図や作業記録をもとにして、当時の手順にしたがい館員の方々が村絵図を再現。現存するオリジナルの村絵図と、結果的に寸分たがわぬ図を復元されている。すごい!
 この村絵図作図作業の体験講座も予定されているみたい。村落研究者は必見ですね。

 そうした展示にひきかえ、私の講演は、時間配分もまずく、申し訳ないかぎりでした。
 論文でも使用した史料にでてくる、とある町の位置もあやふやで、受講者の方からのご指摘を受けました。
 さらには、それが正当なご指摘にもかかわらず、その場ではあいまいな回答をしてしまい、反射的にミスを取り繕おうとしたことも大反省。
 私にもいつの間にやら悪い意味での“先生根性”が染み付いたようで、自己嫌悪。

 それはさておき、日野市郷土資料館のこの講座、このあとは
村井益男先生や陣内秀信先生のご講演もあるとのこと。おすすめです。

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2006/11/01

書評:五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』

 以前、このブログでも紹介したが、日本橋再生事業のいかがわしさを先駆的に指摘したのは、建築家の五十嵐太郎だ。
 その五十嵐の新著は、書名自体が「美しい景観100景・悪い景観100景」の選定に対する批判的パロディとなっていることはいうまでもない。選定にあたっている「美しい景観を創る会」では、当初、「悪い景観」という表現を「醜い景観」とする予定だったらしい。
 
 都市景観の場合、「美しい景観」として選ばれるための要件をすべて満たそうとすると、それは北朝鮮の平壌みたいな都市景観に近づいていくのではないか、という五十嵐の指摘はなかなか強烈である。
 日本橋再生事業に対する批判についても共感する。このブログでの私の主張も引用されていて、ちょっと嬉しかったりもする(この本が売られている間は、細々とでも更新して、このブログも続けなきゃね)。

 そんな五十嵐の好著に対して私が抱いた不満はふたつ。

 ひとつめは、この本で展開される五十嵐の主張は、ほとんど共感できることばかり、我が意を得たりって話ばかりで、私にとっては、ちょっと刺激不足だったこと。

 まあ、それはほとんど冗談だが、ふたつめはまじめな感想。私が残念だったのは、「美しい景観を創る会」的な思想や手法に対置されるべき、五十嵐の思想・手法が明示されていないことである。「美しい景観を創る会」的思想や手法がもつ幼稚さや危険性の指摘は容易である。もちろん、そうした幼稚な単純さが、単純であるがゆえに、大きな政治力をもちやすい点は要注意であり、それに対抗するためにも、平壌の例などを持ち出しての単純で平明な批判は必要である。

 問題はその先だろう。五十嵐が考える、あるべき都市像なり、あるべき都市整備の手法なりが示されるべきである。このブログでも、さんざん日本橋再生事業のでたらめさを指摘したあとで、対置すべき私の主張を組み立てようと試みた。途中でストップしているが、「お江戸日本橋の魅力とは?」と題する連載記事のなかでの取り組みである。そうした試みをなんとか続けるにあたっても、知恵の足らない私は、ここらでふたたび五十嵐からの刺激が欲しかった。

 五十嵐に限らず、優秀で良識を持ち合わせた建築や景観、都市計画の専門家たちのほとんどに共通して言えることだが、景観整備やまちづくりに、「市民」やら「住民」やらの声を取り入れたり、あるいは、そうした「人々」を事業の主役にすえることで、諸々の問題がクリアできると考えているふしがある。「人々」が選択する景観整備やまちづくりこそが、なされるべき事業であると。そこで議論が止まってしまう。

 そのような「市民」やら「住民」の集合のことを、私は「地域社会」と言い換え、先の連載記事でもちょっとだけ論じかけたことがあるが、こうした「地域社会」への無邪気な依存は危険である。
 だって、場合により「地域社会」なんてもう存在していないかもしれないんだから。ここを見誤ると致命的である。ありもしない軍勢を頼りに戦ったりしてると、結局、馬鹿にしてた相手にも簡単に打ち負かされちゃうんじゃないかな。

 五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』(中央公論新社、2006)

 2006.11.5.付記 今日、もういちど五十嵐さんの本を読み返してみた。結果、下線を施した部分で述べた批判は、少なくとも今回の五十嵐さんの本に対してはあまり当たっていないことに気づきました。この部分を抹消しようかとも思ったけど、まあ、どうせなら間違いの形跡も残しておこうと考えました。

 

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2006/10/25

セレモニーホールと日本社会 その1

 今、世の中で増えているものは何か?

 〆切を過ぎた私の仕事も増える一方だが、外を歩いていて最近、特に目立つものは、「○○セレモニーホール」とか、「△△やすらぎ会館」という名称の建物だ。

 駅から歩いて数分という交通至便の場所に、暖かく柔らかい色調の建物が建っている。ホテル名が書かれた派手なネオンもなければ、洗濯物がぶらさがるベランダもない中層のその建物を、いったい何かと眺めてみると、「○○セレモニーホール」・「△△やすらぎ会館」という看板。
 一方、最寄り駅の出口あたりでは、「××家」と書かれた白黒の案内板を持った喪服の若者が立っていて、そうした“セレモニーホール”への誘導をやっている。

 以前は、こうした“セレモニーホール”が近所に建ちそうになると、「地域」住民の反対運動が起きて、「○○斎場建設反対!」とか書かれたのぼり旗やポスターをよく目にしたが、最近では、そうした反対運動もあまり目立たなくなったようである。“セレモニーホール”の存在が人々に受け容れられはじめたということだろう。
 「死」のタブーも乗り越え、それはなぜ社会のあちこちで受け容れられはじめたのか。思うに、多くの人々が、実際に“セレモニーホール”を利用した経験を持つようになり、その「商品」としての良さや必要性を納得するようになったからではないだろうか。

 ここ2~3年、私が大学で日本近世史関連の講義を担当するとき、そのイントロとして、この“セレモニーホール”の増加現象を紹介することが多い。このブログでも、以前、ちょっと言及したことがある(ような気がする)。

 “セレモニーホール”の増加や受容は、確かに、その「商品」としての良さが認められたことによるものだろうが、そのような認知が広まる背景には、日本の社会構造の著しい変化があるように思う。
(つづく)

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2006/10/04

次回巡見のご案内

 2006年11月実施予定の巡見「江戸を縦貫する」のご案内です。

 今年も早いもので、もう10月。来月11月には、浅草で酉の市が開かれ、それが過ぎるといよいよ年末です。

 さて、その酉の市開催にあわせて、下記の要領で、恒例の吉原・山谷・浅草の巡見をおこなう予定です。

 今年の酉の市は三の酉までありますが、巡見は一の酉の前日、11月3日に設定しました。3日の午後には、酉の市の名物である熊手売りの店ごしらえもかなり出来上がっていて、市が人でごった返す前に、見事な熊手の飾りつけをゆっくり眺めることができます。
 また昔から、酉の市の開催日は、遊客以外の人々にも吉原遊郭を通り抜けることが許される日でした。それにならって、今回の巡見でも、かつての遊郭跡(現在のソープランド街)を突っ切ってみましょう。
 酉の市・吉原以外にも、浄閑寺(遊女の投げ込み寺)や山谷ドヤ街などへ立ち寄る予定です。

 川村学園女子大学・日本大学・都留文科大学・東京女子大学で私の講義を受けている学生さんには、講義の際に案内を配布します。学園祭にぶつかる大学もありますが、あしからず。
 それ以外の方(このブログの一般読者の方や過去に私の講義を受けていた方など)で参加を希望される場合は、このブログの「プロフィール」のページにあるメールアドレス(小林)宛に、氏名・住所を明記の上、参加ご希望の旨をご連絡ください。折り返し、集合方法その他の詳細をお知らせします。

    記
 日時:2006年11月3日(土)(金・文化の日)12:30~16:00 雨天決行
 コース:三ノ輪浄閑寺~鷲神社・長国寺(酉の市)~吉原~山谷~
     浅草
   (その後、オプションツアーあり?)


※次回以降の巡見「江戸を縦貫する」の予定
・11月下旬には、昨年度実施してとても面白かったヒルズめぐり(赤坂アークヒルズ・六本木ヒルズ・表参道ヒルズの歩き比べ)。
・12月下旬(冬休みに入ってすぐ)の平日午後には、浅草から日本橋にかけての問屋街。
・年が明けてから、日本橋から江戸城本丸跡まで。

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2006/09/26

お江戸日本橋と都市景観 補遺

小泉総理の任期切れで、例の日本橋再生事業の話はうやむやになるのか、はたまた、「美しい国」づくりとやらの一環にうまくはまり込んで実現に向かうのか。まあ、どうでもいいような話といえばそれまでだが。

 とりあえず、総理の任期切れスレスレのタイミングで、「日本橋川に空を取り戻す会」と名乗る「有識」者会議からの「総理への提言」がまとまったようである。こうして具体化してきた再生事業プランをみて、あらためて思ったことを少し書こう。(本来、以下のような批判的内容の記事から無断リンク張るのはマナー違反かもしれないが、この「提言」自体、公的な性格をもっている訳で、それに対して納税者の一人としての意見を書いた記事からリンクするくらいは、まあ、許されるだろう。「提言」の内容はこちらをクリックして読んでくださいな。)

 この「提言」では、日本橋再生事業がいかに儲かる事業であるかということが、念入りに説明されている。なんでも、2兆、3兆円といった経済効果=儲け話が予測されるから、事業はぜひとも実施すべきなんだそうだ。

 そして、この日本橋再生事業では、パブリック・プライベート・パートナーシップという、新しい事業手法をとることが望ましいと「提言」されている。

 再生事業が実施されると、不動産とかでボロ儲けする人が出てくる。将来的にそうしたボロ儲けの一部を還元させて事業費用にあて、国の支出を軽減する。これがパブリック・プライベート・パートナーシップという新しい手法だそうだ。
 残念ながら、私にはどこが新しいのか、さっぱりわからない。もしも、ボロ儲けする人や儲けの額なんかが予想より少なかったらどうするんだろう。結局、税金で穴埋めするしかないのでは?今の「景気回復」とやらはあと十年二十年と持続するの?ありもしない通行量増大や地域経済の発展をあてにして高速道路やら長大橋やらを建設する従来の手法と、その基本はあまり変わらないようにも思えるのだが。

 また、悪意をもって解釈すれば、つまるところ、借金まみれの国に税金つかわせておいて、自分たちばかりがそんなにボロ儲けしちゃったら気がとがめるだろうから、儲けた人たちにも、せめていくぶんかは事業費用を負担してもらおうってことじゃないだろうか。そんな負担(見込みだと二千億円に近い)を引き受けてでも、今回の再生事業は、日本橋で不動産やってる人たちにとってメチャクチャおいしそうな話なんだということが、ホント、よーくわかる。

 そして、この手法のもっとも重大な問題は、事業自体がそうした金儲け目的へととめどなく傾いてしまうことにある。金儲けを阻害する要素は、支出増大の原因として、事業内容からは極力取り除かれていくだろう。
 
 例えば、「提言」では、川沿い部分には公園や低層の建物で開放的な空間を確保して、その余剰分の容積率を「隣接区域」に移すというが、でもどうやら、川岸から数十メートルも離れちまえば、そこはもう「隣接区域」になってしまうらしい。そして、この「隣接区域」=川沿い区域では、かつてなかった高層の巨大なビル建設を可能とする規制緩和が実施され、お決まりの都心再開発がハメを外して進められるだろう。隣接区域における高層ビル建設の禁止・抑制という、本来、景観問題からすると必須とも思える措置は、今回の日本橋再生事業の構想のなかにはどう間違ってもつけ加えられることはないだろう。

 景観再生のための事業の結果、高層ビルが増加する。そんな誰が聞いても矛盾した話が、大まじめで語られている(結構リアルで力作の完成予想図において、なぜかそれら高層ビルの姿だけが淡い灰色でぼかして描かれている。しかも、周囲のビル群が一番視界から外れるアングルが多用される。)

 前にも書いたとおり、同じ景観阻害要因であっても、日本橋地域の金儲けに寄与しない首都高の高架は何が何でも退治するが、日本橋地域に金儲けをもたらしてくれる高層ビル建設は大歓迎する、というのが、今度の再生事業の主な中身だろう。
 そして、経済効率を犠牲にしてでも景観や文化・歴史を優先する、とかいった、文化人好みの当初の高邁な理念は、今回の「提言」からは、跡形もなく消えさっている

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2006/08/11

集中講義にて学ぶ

 先日、初めて集中講義なるものを担当した。講義を聴いてくれたのは、埼玉県の川越の近くにある東京国際大学の商学部の学生さんたち。ざっと100人くらい。
 試験を含めて13コマの講義を4日間で済ませる。聴いてくれる学生さんにとっては、なかなかハードな4日間だったと思うが、こちらも初めての経験ゆえ、結構、疲れた。
 
 しかし振り返ってみると、集中講義というスタイルは大変有意義で、これは予想外の収穫。

 講義の内容はいわゆる日本史概説。今回は古代から近世までの通史をしゃべった(9月にまた4日間出講して、そのときに近世近代を扱う)。同じような概説は他の大学でも担当させてもらっているが、それらは週1回1年間の通常講義である。そうしたペースに余裕のある通常講義と今回の集中講義とを比較して思ったが、通史のようなものは、ある程度、期間を圧縮して一気にやる方がもしかすると良いかもしれない。

 学生さんの立場にたつと、通年の場合、何ヶ月も前の講義内容については記憶が薄れてしまうが、集中講義であれば、古代の国家体制と中世の国家体制とを比較対照する場合でも、つい昨日聴いたばかりの講義の内容と今日の講義の内容との照らし合わせだったりするから、歴史のダイナミズムが感得されやすいように思う。

 それともうひとつ。講義の内容自体について。週1回の講義だと、1回1回の講義ごとに話の“山場”をひとつずつ作っていけば、それである程度、しゃべってる方もちゃんと自己満足できるんだけど、集中講義だと、そうやって作ってきた1コマ1コマの“山場”が、1日に3個も並び立っちゃうことになる。そうなると、どうしても、それぞれの“山場”同士の関係についてもきちんとしゃべることになるし、あるいは、そうした1コマ1コマの“山場”を土台にして、もっと高くて大きな新規の“山場”を、その日のまとめとして作らなきゃいけなくなる。

 こうしてみると、今までやってきた通年の日本史概説の講義内容については、それが毎週毎週の単なるトピックの羅列のように感じられる面も出てきた。これは貴重な反省材料だと思う。

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2006/07/26

田中夏子先生にお会いして

ここ3、4年、非常勤講師として、山梨の都留文科大学に通っている。
今年から担当科目が社会学科の歴史関係の科目になったため、同学科にもっぱら出入りするようになった。
ここの学科には、現代イタリアの協同組合の研究で有名な田中夏子先生がいらっしゃる。

地域・地域社会のありさまやその可能性を探る際に、人々の労働の側面からこれらの問題にアプローチしていく田中先生の研究姿勢には強く共感をおぼえる。

以前の記事にも書いたが、地域社会の再生をもし考えるのなら、「住民」が構成する地域社会だけではなく、「働く人々」がつくりあげる地域社会も重要であると思っている。むしろ、後者の方がより重要だろうと思っている。

その一方、私は重度のイタリア中毒である(W杯はうれしかった)。本来の自分の研究とは関係なく、ともかくいつのまにか、気がつくとイタリアが大好きになっていたのだが、実は、自分がこうまでイタリアにのめり込む原因と、上に書いた研究上の問題関心とは、どこかで強く結びついているのではないか、と思ってはいた。そう思ってはいたが、その結びつきが何なのか、これまではあまりつきつめて考えることはしなかった。

そんなふうに、これまであいまいだった、自分の研究関心とイタリアとの結びつきが、田中先生のご研究によって明確な姿を現すのではないだろうかと、最近思い始めた。

今年、社会学科の研究棟で時々先生の姿をお見かけするものの、いつもお忙しそうなご様子にて話しかけるのをためらっていたが、やっと昨日、思い切ってごあいさつさせていただいた。相変わらずお忙しいご様子でコピー機に向かわれているところ、強引に声をおかけした。

自分は日本の都市史研究者でイタリアの地域社会構造にも興味があることをお伝えすると、少しは面白いやつと思ってくださったのか、ご著書を私にくださった。
田中夏子『イタリア社会的経済の地域展開』(日本経済評論社、2004年)
早速、この本を読んだ感想をまとめて先生には報告せねばならないが、その過程で考えたことなど、少しこのブログに書いてみたい。

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2006/02/16

お江戸日本橋の魅力とは? その11

「地域社会」への過大な期待

 「都市計画」やら「まちづくり」やらの「専門家」と称する人々がしばしば過大な楽観的期待を寄せる対象となっているのが、「地域住民」やら「市民」やらの存在である。ここでは、こうした存在をおおざっぱにまとめて、「地域社会」とでも呼ぶことにしよう。

排除する「地域社会」

 ところが、私たちがこうした「地域社会」の一員になるのはなかなか難しい。一言でいって、持たざる者はそこから排除される。
 
 何を持ってないと排除されるのか?それは、土地・家屋・商店の営業権・子供などである。

 だから、仮に結婚していたとしても、安アパートに暮らす子供のいないフリーターなどは、「地域社会」の一員になかなかなれない(そして、フリーター自身も、多くの場合、「地域社会」の一員などにはなりたがっていない)。

 土地・家屋や店を持っていなくても、子供がいて地域の小学校などに通っている間は、「学区」を単位とする「地域社会」にコミットする道が開かれるが、それは子供が成長するまでのほんの一時期である。

 さらに、これを持っていないと「地域社会」からはほぼ確実に排除されるであろうモノとして、日本国籍または有効なビザ、住民基本台帳法上の「住所」などを挙げることができる。
 ただし、これらのものは、それをもっていなければほぼ確実に排除の対象となるが、持っていたからといって「地域社会」の一員として認められるわけではない。先に挙げた、土地・家屋・店の権利・子供などを持つことが必要である。

賞味期限切れの「地域社会」幻想

 弱体化した「地域社会」の再生を図るには、「地域社会」に入る資格を持っているのに「地域社会」の一員として行動することには消極的な人々を口説いて、積極的な参加をうながせばよい、という牧歌的な時代が、かつてはあったのかもしれない。
 
 実際、今なおそうした幻想を抱いて「地域社会」の再生を主張し、その一方で、土日に働いて疲れたフリーターや外国人労働者が、やっと休めた平日の午後に小学校の通学路や公園へ迷い込んだりしたところを白い目でもって監視しろと、ポスターを貼りまくって呼びかける人たちもいる。あるいは、そんなフリーター風情が入居してくるような賃貸のワンルームアパートの建設には、「地域」一丸、体を張って反対するぞぉっていう人たちもいる。
 そんな賞味期限切れの「地域社会」に何かを期待しての「都市計画」や「まちづくり」は、そろそろ見直さなきゃいけないんじゃなかろうか。

多様性とディテールの景観

 取り組むべきは、新しいスタイルの「地域社会」を創ることだろう。日本橋「地域」や六本木ヒルズ「地域」においても根付く(あるいは首都圏の後背で「荒廃」する北関東各地などでも根付く)、新たな「地域社会」を。そんな「地域社会」に生きる多様な人々が各々コミットして産み出した都市景観には、本物の多様性とディテールの美しさが宿るんじゃないかと夢想する。

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2006/02/15

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズヒルズヒルズ 感想その1

すべてをデザインせよ! 

 東証から日本橋、アークヒルズ、六本木ヒルズ、最後に表参道ヒルズ。ヒルズの歩き比べは、思った通り、というより、思った以上に面白かった。

 全体の感想はまた近日中に書きたいが、今回は六本木ヒルズを歩いて印象的だったことを少し。
 六本木ヒルズの空間を支配しているのは、ここもあそこも全部アートデザインしつくさなければだめ、という意識ではないだろうか。

 ビルの外観はもちろん、天井に床に、柱の一本一本、それから、小さな照明一つ一つにいたるまで、すべて丁寧にデザインしていこうという意図。結果、建物内部のちょっとしたコーナーにまで変な置物がおかれている。べつにそんなもの置かなくてもいいじゃないか、と思う場所にも、なにがしかのオブジェがあったりする。
 デザインの洪水。アートデザイン化の強迫。

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2006/02/13

お江戸日本橋の魅力とは? その10

ご紹介
 本連載「お江戸日本橋の魅力とは?」のその8では、何かの手違い(?)からだと思うんですが、ビルオーナーの日ごろの主義主張を真っ向から否定し、日本橋に背を向ける方向で建てられてしまった高層ビルについて批評してみました。
 その後、ネットを検索していて、「都市徘徊blog」のasabataさんの書かれた、「まさにそのとおり!」と共感できる記事とお写真に出会えたので、無断ですが、紹介します。こちらをクリックしてみてくださいませ。
 ニューヨークからやってきた、逆走する帆船の姿です。
 他にも、「都市徘徊blog」さんの方では、都市景観について興味深い記事がたくさんあります。これまた無断ですが、おすすめします。たとえば、こちらとか、こちらとか。
 個人的には、こういう写真や、こういう写真に見入ってしまいました。

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2006/02/10

巡見~江戸を縦貫する 番外 ヒルズヒルズヒルズ

本年度、各大学で、奇特にも私の講義を受講してくださった方への業務連絡です。

巡見「江戸を縦貫する」の番外を、来週2月14日の火曜午後に実施します。
集合の場所と時間は、JR東京駅丸の内中央改札を出たところに13:00です。
そこから兜町の東証を見学したあと、地下鉄などで移動して、六本木ヒルズ、赤坂アークヒルズ、もし時間があれば、表参道ヒルズにも行きましょう。打ち上げは、いつものごとく歌舞伎町かな?
ヒルズの発達史や、ホリエモンの夢の跡などをたどりましょう。

大学の受講生以外の方でも、もし興味があればご一緒に。その場合、このブログのプロフィールページでアドレスをご覧の上、事前にメールしてくださるとさいわいです。

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2006/02/03

お江戸日本橋の魅力とは? その9

景観からの疎外

 前回、前々回の記事で、景観からの疎外という問題について、二、三の素材をあげ、ごく簡単な検討を試みた。

 地域社会に生きる人々が景観から疎外される、という問題的状況は、現在、ますます深刻化しているように思う。

 都市広域のグランドデザインをお役人や「専門家」が策定し、その中の街区開発は大手のデベロッパーが専横する。そして、そこに建つ新しいビルの外観は、デベロッパーが選んだ、遠隔の地に暮らす建築デザイナーたちが考え、その内部のテナントの外装・内装は、例えばそのテナントがもしコンビニであれば、コンビニチェーンの「本部」が細部まで決定する(これがコンビニやファストフード店ではなく、それぞれ「個性的」なたたずまいのブランドショップなどであっても、大筋で同じことだろう)。

 こうして、マクロなレベルからミクロなレベルにいたるまで、地域に生きる人々をほぼ疎外しつくして作り出された景観が、東京の「最先端」とされる都市空間においては共通して見いだせる。

模造される多様性やディテール

 実際に地域に生きる人々を疎外して遠隔の人々がコントロールする景観に、多様性やディテールは生まれない。出来の良いテーマパークみたいに、もしそこに多様性やディテールのように見えるものがしつらえられていたとしても、それは多様性やディテールの模造に過ぎない。

 次に考えなくてはならないのは、地域に生きる人々とは誰のことをいうのか、という問題である。「地域に生きる人々」と認定されるためのハードルの問題である。

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2006/01/30

お江戸日本橋の魅力とは? その8

 六本木ヒルズの主要なデザイナーのひとりが、日本橋の高層ビルもデザインしている。コレド日本橋。日本橋付近の景観に決定的な影響を与えるこのビルのデザインに、地域に存在する人々はどこまでコミットしえたのか。それが問題である。

フロム・ニューヨークの帆船の逆走
 
 船の帆に似たコレド日本橋の外観をデザインした人は、ニューヨークの設計事務所のメンバーだそうだ。この人がふだんどこに住んでいるのかはよく知らないが、日本橋の近所で暮らしたりはしてないらしい。国籍についても知らないが、ミネソタの生まれみたいだから、たぶんアメリカ人なんだろう。

 この人のデザインしたコレド日本橋が、何を間違えたのか、南北を逆にして建っていることについては、以前にもこのブログで書いた。
 ビルのオーナーである不動産会社は、「川を中心にした日本橋の街づくり」を提唱し、「ゆるやかに流れる川を中心とした昔ながらの風景」の再生を主張している(「まち日本橋」というタイトルのこの会社のホームページより。それにしても、「昔ながらの風景」を壊しているのはいったい誰よ?)。
 そんな会社の主張にまるで反して、どうしたことか、このビルは、日本橋や日本橋川へ完全に背を向けて建てられてしまったのである。このビルは南側から眺めるためにデザインされている。そして、日本橋や日本橋川はビルのすぐ北側。

 オーナーの不動産会社は、れっきとした日本橋商人の末裔である(厳密にいうと、その昔、本店は京都にあったらしいが)。だが、アメリカ人のデザイナーに白羽の矢を立てて、色々注文つけたのは、間違いなく、日本橋界隈の地理に暗い社員だったのだろう。
 そんなわけだから、実際にビルを作ってみたら、南北が逆になって、日本橋に背を向けてしまった。

 なんでも、この種のビルのデザインをおしゃれなポストモダン焼きっていうらしいが、少なくとも日本橋のそばから見上げるこのビルの裏側は、僕なんかが幼い頃から慣れ親しんできた、コテコテのモダン焼き。馬鹿でかい、真ったいらな四角の壁に、規則正しく窓が並ぶ焼き上がり。

 そのモダン焼きの巨大で無表情な壁が日本橋の南の空を広く覆ってしまっている。

 建てる前から、その高さ・巨大さによって地域の景観を大きく変えてしまうことが確実だったこのビルのデザインについて、日本橋地域で働き暮らす人々はどこまでコミットできたのだろうか。ぜひ確かめてみたいものだ。

付記
 いちおう、このビルのポストモダン焼きの側を写した画像にリンクを張っておく。皆さんは、実際に日本橋に行ってみて、橋のたもとからモダン焼きの側も眺めてみるといい。まさに、お芝居のセットを裏側から見ている気分がするから。
 日本橋の景観がどうのこうのって言う人は、マスメディアやネットでばらまかれる、日本橋と首都高をアップで撮ったツーショット写真だけを眺めるのではなく、ぜひ、首都高とドッコイドッコイのこの巨大な壁の圧迫感を体感してから、日本橋の景観問題を議論すべきだ。

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2006/01/23

お江戸日本橋の魅力とは? その7

景観から疎外された人々

 前回の記事では、私の好きな景観の条件として次のようなことを掲げた。

 多様な人々の存在を認める地域社会があり、そうした多様な人々がそれぞれ主体的に地域の景観形成にコミットできているならば、その地域の景観には多様性とディテールが生まれる。そんな多様性とディテールとを備えた景観が好きだ、と書いた。

 では、景観形成へのコミット、という問題について、もう少し具体的に検討する。

 まずはコンビニについて考えてみよう。コンビニの屋外看板が景観の構成要素であることについては、簡単に納得してもらえるだろう。さらに、店の内外における照明の色や強さ、ガラスの壁ごしにみえる商品陳列棚のデザインや配置なども、景観の構成要素としてみよう。他にも、店の外からも見える店員のユニフォームなども、思い切って、広義の景観的要素としていいかもしれない。

 コンビニ以外でも、チェーン展開のコーヒーショップ(例えば、日本橋北詰の角地、つまり日本橋の超一等地にもこれがある)やファストフード、ファミレスなどの飲食店も似たような事例とすることができるだろう。

上に挙げたコンビニその他のお店における景観的要素、すなわち、看板・照明・商品陳列棚・ユニフォーム(?)の、色や大きさ、デザインなんかを決めているのは誰なのかってことが重要な問題となる。

 これらのお店で働く店員さんや店長さんが、こうした景観的要素を決定する過程にどの程度関与できるのだろうかってことが問題なのだ。

 このようなコンビニやチェーン展開の飲食店は、おそらく極端な事例かもしれないが、その他、多くのアパレルショップやドラッグストア、その他、個人経営ではないお店について、同じような問いを発してみよう。

 こうしたお店の店内、あるいは、お店が商売している地域社会の範囲内に、これら景観的要素の決定に深く関わった人が存在するか否か。多くの場合、答えは、否ということになるのではないか。

 ここには、自分たちが働き暮らす地域社会において、その景観づくりから疎外されたままの、たくさんの人々を見出すことができる。

 次回は、こうしたお店がテナントとして入居する商業ビルの設計・デザインなどを考えるのが、どこの誰なのか、って問題について考えてみたい。

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2006/01/16

お江戸日本橋の魅力とは? その6

多様性とディテール

 前回の記事で、私の好きな都市景観の条件とは、多様性とディテールである、と書いた。そして、多様性とディテールが景観に備わるためには、地域社会の側に多様性とディテールが備わっていなくてはならない、と書いた。
 地域社会における多様性とディテールについては、さらに説明が必要だと思う。多様でディテールをもった社会とは、どのような社会なのか。

 それは、①「多様な人間が共存する地域社会」であり、かつ、②「多様な人間のひとりひとりが社会のディテールとしての存在意義を持ちうる地域社会」である。

多様な人間が共存する地域社会

 ①については、そんなに説明はいらないだろう。お年寄りの暮らせない地域や子供の遊べない地域はこれに該当しない。あるいは、体などに障害をもつ人や「外国人」などのマイノリティを排除する地域もこれに該当しない。
 例えば、役人ばっかりがたくさんいる官庁街や、大企業のビジネスマンばかりがいるオフィス街などは、その存在を否定する気はないが、私の場合、ことさら好きになる対象でもない。

人間がディテールとして存在する地域社会、試金石としての景観

 よく考えなくてはならないのは②の方である。①でいうような多様な人間が存在する地域であったとしても、ただ存在するだけではだめである。
 では、どのようなかたちで存在する地域社会が良い地域社会なのか?それを判断するための試金石として有効なのが、実は景観の問題なんだと思う。私が景観にこだわる理由は、ただもうこの一点のみにあるといっていいかもしれない。
 多様な人間のひとりひとりが景観にコミットできているか否か。コミットできている地域社会を良い地域社会だと私は考える。
 仮に、多様な人間がそこ存在していたとしても、地域の景観に対して主体的にコミットできていないのならば、その人間は社会のディテールとしては認められていない状態にあると考える。
 なお、ここでいう「存在する」とは、居住することだけではない。その町で働いていることも、その町に「存在する」ことである。

六本木ヒルズにディテールはあるか

 例えば、六本木ヒルズを考えてみよう。たしかに、そこには多様な人々が暮らしたり、あるいは働いたりしている。
 しかし、それら多様な人々が皆、あの“町”のディテールとして存在しえているかどうか。つまり、ヒルズの景観にコミットできているか否かが問題となる。
 次回は、こうした問題を検討する。

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第2回ワン・コイン古文書講座が開かれました。

第2回ワン・コイン古文書講座のご報告

おおぜいお集まりいただきありがとうございました 
 前の記事でご案内いたしましたとおり、先週末の土曜午後4時から、品川の立正大学で、第2回ワン・コイン古文書講座が開かれ、私が講師をつとめました。
 あいにく当日は季節外れの豪雨でしたが、悪天候のなかご出席いただいた方々には心から感謝いたしております。出席名簿を拝見いたしますと、第1回から引き続きのご