2011/05/12

伊藤静「モンスターフェイク」(『週刊モーニング』)

 本日発売の『週刊モーニング』(24号、2011年)に、伊藤静さんの「モンスターフェイク」が掲載されます。3週連続での読み切り作品。

 「実力派」漫画家の伊藤静さん。粗製乱造という言葉とはまったく正反対の、しっかり練られた作品を描かれる作家さんだと思います。今回、私もほんの少しだけ時代考証的なお手伝いをさせていただきました。とても面白い仕事でした。

 「モンスターフェイク」。天保期の江戸で見世物用の細工物を作っている、風変わりな天才職人の男が主人公のお話です。私は、登場人物のなかの蛇女のファンになってしまいました。

 ぜひお読みくださいませ。おすすめです。

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2011/04/10

再考・たけくらべ論争~小谷野敦『現代文学論争』を読んで

文学論争は面白い
 
 遅まきながら、昨年秋に出された小谷野敦『現代文学論争』(筑摩書房、2010.10.)を買って読んでみた。文学論争や文学研究について素養のない私にとっては、初めて知ることが多くて本当に面白かった。この本で紹介された論争にふれることで、「文学」の問題の範囲にとどまらず、自分のふだんの生活における“良識”やら“正義”やらがゆらいできて楽しい。それが文学本来の力なのだろうし、論争の意義なんだろう。また、そうした揺さぶりをかけるのが小谷野さんのキャラクターなのかも。

 「たけくらべ」論争
 
 それはそうと、当ブログとの関係では、第九章の「たけくらべ」論争の部分が興味深い。まずは、たけくらべ論争について僕の知らないたくさんの人のいろんな説が紹介されていてすごく勉強になった。その結果、このブログの過去記事のうち、特に論争の基本的構図や経緯について書いた部分に若干修正の必要も感じる。例えば、初潮説を学界の定説として誤って紹介したくだりなどだ。しかし、とりあえずそれは「小谷野さんの本を買って読んでください」ということで勘弁してもらおう。

 「たけくらべ」論争とは、樋口一葉の有名な小説『たけくらべ』の主人公である美登利という活発な女の子が、物語の終盤、ある日を境に急に元気を無くしてしまったことの原因はなにか、という論争である。
 初潮を迎えたからという説や、吉原遊郭の娼妓としてデビューしたからという初店説、あるいは、娼妓に義務付けられた身体検査を初めて受けたからだという検査場説などなど、諸説が唱えられている。
 論争が大きくなったのは、小説家の佐多稲子さんが初店説を唱え初潮説を批判したことに対して、初潮説をとっていた文学者の前田愛さんが反論したことがきっかけであった。

 なお、佐多さんの主張について留意すべきは、初店といっても正式な娼妓としての初店ではなくて、店の奥で秘密裡におこなわれた違法な“初店”を佐多さんは主張しているという点である。佐多さんの初店説を支持する人のなかには、美登利が公然と娼妓デビューを果たしたものと考えている人も少なくないようだが、それは佐多さんの主張ではない点に留意すべきである。

 さて、この小谷野さんの本を読んだ後、自分の思いは少し佐多説に接近した気がする。最初は、佐多説もいちおう成立可能だけどやっぱり初潮説の方がしっくりくるかなぁ、と思っていて、このブログにも昔そう書いた。その後、次第に佐多説に魅かれつつも、どうしてもそうした“読み”はアクロバティック過ぎるように思い続けてきた。小説が書かれた当時の一般的な読者のリテラシーからして、秘密裡の初店という筋はなかなか思いつかないのではないかと感じていたからである。今回、小谷野さんの本を読んで自分が以前よりも佐多説に傾いたのは、この本で紹介された初潮説提唱者の言い分があまりにひどかったからかもしれない。まあそれは半分冗談。たしかに美登利の変貌の原因を初潮として読まなければならないとする積極的な根拠は見当たらないなあ、と思うようになったからだ(もちろん、初潮が原因ではない、という確実な根拠もまだ見つからない。念のため)。
 僕としては、この本で紹介された説の中では、佐多さんの批判を受けた後で前田さんが提出した「代案」や、まだ元の文献自体を読んでいないが、蒲生芳郎さんという人の主張に好感をおぼえた。

 小谷野さんのコメントについての疑問点

 こんなふうにこの本から多くを学んだが、ただし、各論者の説を紹介・批評しながらときどき示される小谷野さん自身の見解のうち、検査場説についてのコメントには疑問を感じる。

 以前の記事で書いたように、小説の最後まで美登利が正式な娼妓となっていないことはほぼ確実である。正式な娼妓になっていないと判断できる根拠は以下のとおり。
 ①娼妓は遊郭内の居住が義務だが美登利の居住地は遊郭の外であることと、②14歳の美登利は娼妓になることが法的に許される年齢の16歳に達していないこと、以上2点である。
  この2点について詳しくは、こちらの記事 と こちらの記事 を参照のこと

 明らかに美登利は娼妓デビューしていない。美登利が正式に娼妓になったという単純な初店説は不成立なのである。
 そして、すでに娼妓となっている者や娼妓デビュー直前の者たちだけに法律上義務付けられていた検査場での身体検査を美登利が受けることもありえない。検査場説も不成立なのである。

 これに対して小谷野さんは、娼妓の年齢制限が守られなかった可能性や、「一葉が遊郭について詳細な知識を持って」いなかった可能性を示しながら、検査場説になおも成立の余地をみているようだ。

 しかし、娼妓の居住区域制限や年齢制限を一葉が知らなかったとは考えにくい。また、それらを無視した物語設定を一葉がしたとも考えにくい。
 一葉が小説の中で正太に歌わせた流行節の「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」という歌詞は娼妓の年齢制限を前提に作られたものだろう。小学校(当時)に在籍する娼妓という設定はちょっと無理じゃなかろうか。
 つまり、一葉は年齢制限のことは知っていた可能性が大きいし、また、吉原界隈ではちょっとした有名人の小学生・美登利が、その年齢をごまかして娼妓営業の許可を受けるという設定は、あまりに不自然なものではなかろうか。
 また、娼妓は遊郭外に住んではならない、という規定は、江戸時代以来続くもっとも基本的な掟として娼妓たちの自由を縛っていた。吉原遊郭のすぐ隣に暮らした一葉がその掟を知らないはずはないし、小説が書かれた当時の読者の多くも、吉原の娼妓たちがおはぐろ溝に囲まれた廓の中の遊女屋に住まなくてはならない不自由な存在である、という知識は持ち合わせていただろう。実際、美登利の姉はそういう遊女屋に囲われて生きる存在としてちゃんと描かれている。

 つまり、義務教育制のもと14歳で地元の小学校に在籍し家族と共に遊郭外に暮らしながらも吉原で正式の娼妓として働く美登利、といった現実では決してありえない設定を、一葉が知識不足ゆえにおこなってしまうことはないし、また、当時の読者の多くが不自然に思うであろうそんなリアリティのひとかけらもない設定を一葉が敢えておこなったとも考えにくい。
 
 もちろん、現代の読者がどのような読みをしようとそれは自由である。例えば、当時の吉原の娼妓が、自宅マンションからタクシーで出勤してくる現代の吉原のおねえさんたちみたいなものだと思うことにすれば(そう思うことだって読み手の自由である)、単純な初店説でも検査場説でもかまわない。そもそも、どうやら美登利の変貌の原因について一葉がどのような想定をしていたのかを最終的に確定するのは困難みたいだ。

 しかし、少なくとも、美登利の正式な娼妓デビューを前提にする単純な初店説や検査場説が、執筆当時の一葉の想定や当時の読者の大半の読みからはずいぶんと遠く外れた位置にあることだけは確かである。
 そこで、僕個人としては、単純な初店説や検査場説は除外しておいて、それ以外の可能性をあれこれ想像しながら読んでみる、というのが、当面しっくりくる読み方だ。


付:大塚説(on twitter)について

 今回、久しぶりに『たけくらべ』について記事を書く際、ネットで検索してたら、ツイッターで大塚ひかりさんという人が

 「小谷野さん『現代文学論争』たけくらべ論争、本文に「折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり」ってあるんだから、初潮のわけないなと。初潮は自然となるもので誰かによって「した」と言われるようなことといったら「水揚げ」であることは明らかだよね〜と思った。」

 とつぶやいているのを目にした。

 ちょっと面白い意見だとは思うけど、問題の文の前の方を読むと、これは、美登利の変貌の原因が何なのか知らない人たちのいわば噂話として、「病気かな」という人もあり、「種なし(台なし)にしたと誹る」人もあり、と並列して書かれていることがわかる。したがって、この無責任な噂話をもってただちに「水揚げ」であると断定することはできないし、初潮を完全否定することも難しい。

 ついでに言えば、「初潮が折角の面白い子を種なしにした」という文だって、大塚さんの意見に反して一般的には成り立つわけだから、「した」にこだわって初潮を否定するのはそもそもが不成立だろう(厳密にはそうした擬人的な表現が一葉の作品で普通に用いられているかどうかを検証しなくてはならないが)。
 というか、そもそも原文の「した」の語は、初潮にしたとかしないとかで用いられているのではなく、「種なし」に「した」といっているわけなんだから、大塚さんのこだわりはちょっと筋違いな気もする。

 それはともかく、本来注目すべきは「誹る」という言葉の方だろう。誹られている対象が、美登利を種なしにした人・行為だとすれば、ふつう初潮はそれに当たらないわけで、大塚さんの言うとおり、この噂話の主は、変貌の要因として初潮は念頭に置いていないことになるかもしれない。
 しかし、あくまでそれは変貌の原因を知らない人の噂話だから、やっぱり、これだけで初潮を完全否定するのは難しい。

 ただ以下のような読み方だって可能かもしれない。“原因を知らないで「病気かな」という人もあり、それとは別に、原因をちゃんと知っていて「種なしにした」と誹る人もあり”という読み方である(とはいえ、原文を読む限り、そんなふうに途中で切り替えをする読み方はかなり不自然だと僕は思うけど)。
 ただしそういう読み方をあえて行った場合でも、噂話の主が水揚げを念頭に「誹」っているのかどうかは前後の文章を読んでも皆目わからない。つまり、大塚さんのように水揚げだと断定することはできないのである。

 結局、この「誹る」云々の噂話に注目することによっても、初潮の完全否定は難しいし、水揚げだと断定することもできない。

 ところで、ここでは、吉原界隈の少なからぬ人たちが美登利の身の上に起きたことが全然わからない状態でいる、といったことを一葉自身がはっきり書いているんだから、やっぱり、公然の娼妓デビュー=単純な初店説やそれを前提とした初検査=検査場説が成立しにくい、ということは言えるけどね。


2012.6.1.付記
 先日、巡見で吉原界隈へ行くことがあった。その準備で、久しぶりに、たけくらべ論争の動向をネットでチェック。すると小谷野敦さんのブログ記事で、美登利の変貌要因は水揚げだ、という人の文章が紹介されていた

  (以下小谷野さんのブログ記事から引用:小林)

 『たけくらべ』の最後が水揚げである、と主張したのは佐多稲子で、それより前に太田一夫という正体不明の人が書いていたということを『現代文学論争』(筑摩叢書)に書いたのだが、ウィキペディアを見たら、太田よりはあとだが、こちらは正体明瞭、佐多の前の夫の窪川鶴次郎が書いているとあったので確認した。

 窪川の『東京の散歩道』(現代教養文庫、1964)で、「読売新聞」に1961年4月から64年3月末まで週一回連載されたものだという。

 「作品のおわりのところで美登利は、姉がおいらんで出ている大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる。きのうまでとはまるで人が変わってしまった自身を、自分では理解できない。そういった衝撃の微妙なありようが、自身に対しても勝ち気なままに、実に的確にとらえられている。それはこういった世界にみられる水揚げといった言葉で行われる慣習を想像させずにはおかぬ。」

  (引用終わり:小林)

 小谷野さんが紹介している窪川説、ちょっと面白いけど、やっぱり粗雑すぎる。

 窪川説の重要な前提になっている「大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる」という美登利の行動だけど、これはあくまで窪川さんの“想像”に過ぎない。
 テキストには、美登利の大黒屋宿泊は明記されていないし、それをうかがわせるような記述もない。逆に、美登利が大黒屋に泊っていないことを確かめる材料もないんだけど。
 
 ただ、小谷野さんが引用している窪川さんの文章だと、美登利が大黒屋に泊まったのは明白であるかのように読めてしまう。
 窪川さんの意図的な騙しなのか、あるいは、単に勘違いなのか。そもそも、『たけくらべ』をちゃんと読んだことがないのか。

 このブログでのたけくらべ論争に関する過去記事はこちらをクリック

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2010/10/04

書評:濱口桂一郎『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』

 付記:濱口圭一郎さんのブログからのリンクでいらっしゃった方へ
 
 軽い感じでアップした「書評」でしたが、思いがけず著者の濱口さんのブログで取り上げていただきました。とりあえずは、この頁の元の記事をお読みいただければよいのですが・・・

 このブログ、構成がぐちゃぐちゃで、せっかくいらっしゃた方にはさぞ不愉快な思いをさせてしまっているのではないか、とあわてています。

 濱口さんにも少し触れていただいた、拙ブログの「近世の終焉としての現在」という連載記事の方までもしもご覧になりたい方は、ご面倒ですが、この頁の左端にある「カテゴリー」欄の項目の中の下から五番目、「研究」の項目をクリックしていただいて、飛んだ先のページ末尾にある、カテゴリー記事一覧の記事タイトルからリンクで各記事へ飛んでいってお読みいただくのが楽かもしれません。

 もっとてっとりばやいのは、「近世の終焉」問題について最近書いたごくごく短いこちらの記事「無縁社会が拡大する原因としての“近世”の終焉」をご覧くださいませ。

 ふだん、あまり多くの方にはお読みいただくことを想定していない、資料と研究書とマンガと料理本が混然と積み重なる私の仕事机みたいなブログなので、必要記事をお探しになる場合、さぞご不快なご面倒をおかけすると思いますが、どうかご寛恕を。


 (以下が、元の書評記事です)


 パートのお仕事

 恐縮ながら、まずは私の近況報告から。

 各大学での後期授業がほぼひととおり開始。今年度の後期は、ぜんぶで6つの大学にて、1週間あたり10コマの授業を担当。それ以外にも、東京都公文書館で週2日の準フルタイム勤務。相変わらずぎゅうぎゅう詰めのスケジュールだけど、まあ、こんなふうに仕事があることには感謝せねば。

 大学のようす

 新学期、授業が始まって久しぶりに学生さんたちと会ってみて感じるのは、やはり、昨年来の就職活動の厳しさ。あちこちのキャンパスでリクルートスーツを身にまとった学生の姿が以前よりも目立つように思う。昔は、就職活動など4年生になってするものだったが、今や、3年生から本格的な活動が始まっている。
 大学院への進学を検討している学生さんにもよく出会う。この現象は、もちろん、学生の間で向学心が増しているからではなく、就職活動の成果が芳しくない状況下、ともかく来年以降の身分を確保するための方策として、大学院進学を選ぶ学生さんが発生しているからだ。

 昨年度の大学卒業生の20パーセント近くが、正規雇用の就職や進学をしなかったという。そんな人たちの多くが、非正規雇用の労働者となるのだろう。

 就活のあと

 一方、しばしば接するのは、無事就職した元学生さんたちが職場で悩んでいる話である。まあ、新社会人だから悩むのは当たり前かもしれないが、いろいろ話をきくと、客観的にみても、それぞれの職場での働かされ方に問題があるのではと思えるケースも多い。いわゆる「ブラック企業」というやつだ。「ブラック企業」と呼ばれるもののなかには、得体の知れない怪しげな会社だけでなく、いわゆる有名企業も相当数含まれている。そこでは、「正社員」の肩書きと引き換えに、法規制すれすれの(あるいは明らかに違法な)労働条件下で働くことを強いられている人がたくさんいる。

 小経営の時代のおわりに

 以前、このブログの連載記事「近世の終焉としての現在」で次のような主張を書いた。グローバル化の進む現在の日本社会においては、17世紀以来続いてきた「小経営の時代」が本格的に終焉を迎えていると。「小経営の時代」の終焉に際しては、農家や個人経営の商工業者などの小経営の多くが消失していく。それと歩を同じくして、それら小経営の家とよく似た構造の、日本型雇用のサラリーマン=擬似小経営的サラリーマンの家も解体していく。

 このようにして終焉を迎えた小経営の時代の次に、いよいよ本格的・全面的に成立しつつあるのが、資本と労働者の時代ではないだろうか、という見通しを書いた。

 第二次産業・第三次産業はもとより、将来的には第一次産業の分野でも、例えば大規模農場や“野菜工場”などの場で、雇用労働の比重が高まっていくと思う。

 こうして広汎に成立する労働者の世界は、かつての日本型雇用の正社員を標準型(あるいは理念型)とする世界ではなくて、名ばかり正社員やら、法規制の穴をみつけては様々な亜種に分化する非正規雇用の労働者やらを含む、多種多様な雇用形態からなっていて、さらには、国籍やらエスニシティーやらジェンダーやらによる分化がそれに重なる。いわゆるマルチチュードの世界である。

 だが、生成しつつある新しい労働者の世界に対して遅まきながら向き合おうとし始めた現在のマスメディアやアカデミズム、それから政治や行政を主導する人々の大半は、依然古い労働者の世界に属する人々である。そのせいか、この新しい世界についての議論や政策は、例えば派遣労働禁止法案みたいに、相当現実離れしたものが多い。経営者たちはもちろんのこと、当の派遣労働者のほとんどもこんな法律を望んだりしてはいないだろう。

 濱口さんのご著書の紹介

 このような現状について、「労働問題を冷静に議論する土俵がなかなか構築されず、ややもするとセンセーショナリズムに走る」か、「法解釈学や理論経済学など特定の学問的ディシプリンに過度にとらわれ」て「議論としては美しいが現実には適合しない処方箋を量産するだけに終わりがち」だと指摘し、「労働問題に限らず広く社会問題を論ずる際に、その全体としての現実適合性を担保してくれるものは、国際比較の観点と歴史的パースペクティブであると考え」た上で、「日本の労働社会全体をうまく機能させるためには、どこをどのように変えていくべきか」、「現実的で漸進的な改革の方向を示そうとした」のが、今回の記事のタイトルにあげた濱口桂一郎さんの『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』という本である。

 まずは、この本のタイトルに出てくる「労働社会」というタームが、すごく魅力的だ。そして、終章にあたる第四章では、この「労働社会」を基盤とした「民主主義の再構築」の必要性が訴えられている。これは重要な主張。
 小経営の時代の終焉は、小経営の存立基盤として形成されていた地域社会の存在意義を低下させた。これにより、地域社会を基本的な枠組みとするこれまでの民主主義のシステムもその有効性を低下させている(もちろん全面的にこれが無効となってしまうわけではない…念のため)。ここで要請されているのが、新「労働社会」に基盤をおく民主主義のシステムの再構築なのだろう。正社員クラブである既存の労働組合のみを中心した旧「労働社会」のシステムじゃなくてね。

 濱口さんのブログの紹介

 「正規労働者であることが要件の、現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した、その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。」という宣伝文句を本書表紙カバーに載せたのは岩波書店の編集者だと想像できるが、その編集者が著者・濱口圭一郎さんに執筆を依頼したきっかけは、濱口さんが書かれているブログの記事だという。
 実は私もそのブログの愛読者であることを白状しておく。抑制の効いた本書の文章とはかなり味わいのことなる、なかなか刺激的な内容の記事もある。その記事をめぐってしばしば巻き起こる論争はいろんな意味で興味深いし、それにより、濱口さんの主張をある程度は相対的にとらえた上で評価することもできる。
 濱口さんのブログ、ぜひ読みにいってください。

 以上、「書評」とは名ばかりで、自分のブログの過去記事を読み返したりしただけの竜頭蛇尾の記事でしたが・・・

 ともあれ、最近読んだ面白くも大事な本の「紹介」でした。

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2010/06/14

行きました。吉田光男『近世ソウル都市社会研究』書評会。

 先週出席した書評会の感想を少し。

 夕方、浜松町のアルバイト先を出て、書評会が開かれる大学へ向かう。たまたまだけど、その大学が私の出身大学。
 大学に着いて恩師の研究室を外から見ると灯りがついていたので、長らくのご無沙汰のお詫びに急遽訪問。そこで偶然、米国留学から帰って日本の大学に就職したばかりの若い友人も同席。紅茶をご馳走になり3人でしばし歓談。なつかしい。で、3人ともそのまま書評会へ。

 さて、書評会。評者は京都工芸繊維大学の石田潤一郎さん。他にコメンテーターとして、東京理科大学の伊藤裕久さんと東京大学の金銀眞さん。評者・コメンテーターともに、工学部の建築系の研究者の方々。とはいえ、人文系の研究者の立場からみても、そこで示された問題関心については、何の違和感もなく共有できる。
 そのような論点の共有状況は、書評会を主催した研究会組織や、その研究会設立の前提となった研究グループが、30年以上もの間、都市史の分野において、人文系と工学系のクロスオーバーを積み重ねた結果でもあるだろう。久しぶりに出席した研究会で、あらためてその有効性について感心。
 そんな研究環境のもとで研究をスタートさせた前出の若い友人やその同世代の人たちが、今後、きっと新たな都市研究のパラダイムを築いていくんだろう。

 書評会には、著者の吉田光男さんもご出席。時間が限られていて、評者・コメンテーターの質問に吉田さんが回答し、最後は、司会の指名で私の恩師が出した質問に応答があって、会はお開き。いずれも興味深い質疑応答だったが、自分が事前に抱いていたいくつかの疑問を発言する間も無く、それは残念だった。ただ、コメンテーターから出された、ソウルの鐘閣付近の店舗空間に関する議論は、私の研究テーマからしてとても興味深かった。とはいえ、要は、近世・近代初頭のソウルの商業空間の細部についてはまだほとんど何も解明されていないんだな、ってことがよくわかったという感じ。研究余地が広いのは良いことです。うんうん。

 吉田さんのご著書の白眉は、ソウルの戸籍の詳細な分析。その強い実証が基本にあってその上に展開される都市論だからこそ、人文系とか工学系とかいった枠を超えて惹きつけられる魅力がこの本にはある。

 さて、当日の質疑応答にもあったが、吉田さんの所説に対するいくつかの疑問うちの最大のものは次のとおり。
吉田さんは、ソウルをふくめた近世朝鮮社会における地域共同体の存在意義が日本などと比べるとかなり低い、と主張する。その根拠は、主に、住民の高い移動性とコミュニティ内における幅広い身分・階層の雑居性である。例えば、ソウルの「洞」という地域単位においても、そうした移動性と雑居性とが注目され、それにより、「洞」のもつ地縁的結合の弱さが強調される。
 たしかに、全住民を包括するような地縁的結合を見出すのは、そういう地域の場合、吉田さんの言うとおり、困難なのかもしれない。しかし、住民の職業や階層などによっては、ある程度強い地縁的結合を要する人々が、そこには部分的に存在した可能性がある。コルモクキルという、ソウルを訪ねた人ならおなじみの、細い路地を挟んで両側町的に展開する「洞」において、そこに雑居する様々な職業・階層の各々の実態にまで降りてみての、丁寧な分析が必要だろう。

 今年もできればソウルに行って、町あるきをやってみたい。黄鶴洞というところにあるホルモン横丁が気になっている。すぐ背後にロッテが建設した超高級マンション街区に押しつぶされそうになりながら頑張っているその横丁の歴史を知りたい。横丁で一番の古株だというホルモン屋にはもう6~7回通って、そこのオモニに少しは顔を覚えてもらった。聞き取りができたらいいな。
 20年史?30年史? その横丁自体がもっている歴史の長さについてはまだ知らないが、その横丁的空間=社会の系譜をさかのぼっていけば、何らかのかたちで、近世ソウルの街角へと到達するのではないだろうか。

 そうか・・・先日も酔った勢いで発案したけど、このブログを通じてご報告させてもらっている町あるき企画「江戸を縦貫する」の今年の番外編はソウルに行こうか。参加者の学生さん・社会人さん、いかが?

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2010/06/09

吉田光男『近世ソウル都市社会研究』の書評を聞きに

 今夜は、吉田光男さんが書かれた朝鮮近世都市史の研究書、『近世ソウル都市社会研究-漢城の街と住民』(草風館、2009.2.)の書評会に出かけてみるつもり。

 このブログでもちょっと書いたけど、最近、ソウルという都市に興味をもっている。特に興味をもっているのは、自分のこれまでの研究との関連で、ソウルの市場や露店の世界。
 今年の夏休みも、単独でソウルへ調査旅行にいくつもり。今回は、できたら通訳を誰かにお願いして、これまでのソウル旅行で通って見知った市場や露店の人たちに聞き取りもしてみたいなぁ、と夢を膨らませている。

 もちろん、こうした市場や露店の世界の特徴や存在意義を考えるには、その周囲の都市社会も視野に入れる必要がある。さらに、上掲の吉田さんの本には、市場に関する論文も収められている。というわけで、この本を読み始めていたところ、タイミングよく、かつて頻繁にお邪魔していた研究会が書評会を開催するとの案内メール。ここ何年かご無沙汰の研究会で、なんとなく敷居が高いが・・・まあいいや。そんな過剰の自意識はともかく、まずは書評が楽しみだー。

 次回の記事は、この書評会の報告かな。

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2009/03/06

マルチチュード、フリーター、近世の終焉としての現在

 最近、ネグリ、ハートの本を読んでいる。何を今さら、遅れてるぅ、って笑われるかもしれないが。
 うかつにも、今までは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートという名前と、彼らが<帝国>論というものを唱えているといったぐらいのことしか知らず、その論の簡単な中身を確かめることすらしてなかった。うーむ、お恥ずかしい。

 なぜ恥ずかしいかというと、かなりのブームだった彼らの本の内容をよく知らなかったということもあるが、もっと恥ずかしかったのは、このブログでしばらく連載してきた「近世の終焉としての現在」という記事の内容と、ネグリ、ハートの主張とが、かなり重複しているからだ。きっと、このブログ記事を読んだ多くの人は、なぁんだ、これ、ネグリのパクリじゃん、と思っていたに違いない(誰か教えてくれてもよかったのになぁ)。

 たとえば、「地域」やら、「労働組合」やらが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する拠点にはなりえないだろう、という趣旨の私の主張は、実は、そのまま、ネグリ、ハートの指摘であった。

 そして、労働の問題。
 そもそもこの「近世の終焉としての現在」という記事の連載を思い立ったきっかけは、4年前にNHKで放映された「フリーター漂流」という番組をみたことにある。
 前にも話したが、番組をみた直後にとりあえずの感想を「前編」「中編」としてアップしたものの、まとめとなる「後編」が書けなくなった。もちろん私が怠慢なせいもあるが、これは軽い感想を書いて終わりにするのではなく、歴史研究者としてちゃんと正対して書くべきテーマだと感じたからでもあった。で、その「宿題」を果たすべく、やっと去年の5月から書き始めたのが、「近世の終焉としての現在」という連載記事だ。 ネグリ、ハートが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する主体として示した「マルチチュード」(排他性・限定性をもつ近代「労働者階級」じゃなく多数多様性の労働者を指す概念としての「マルチチュード」)の問題と、「フリーター漂流」をみて感じた私の問題意識とは、言うまでもなく、そのまま結びつくわけだ。

 だからといってもろ手をあげてネグリ、ハート万歳じゃないが、これまで、ちょっとばかり日本史の研究をやりながら同時に現代の東京をあちこち見て歩くことによって自分の中で勝手に狭く積み上げてきた素朴な問題の構図と、彼らの提起する問題の構図とがかなり一致しているということがとても面白かった。
 極度に不勉強なせいで、幸か不幸か、<帝国>もマルチチュードも知らないまま、主に日本社会だけを素材に私が導き出した論点が、結果として彼らの提示する論点とかなり重複していたということは、図らずも、これらの論点の大切さの検証となるように思う(ということで、ひとつ、私の怠慢と結果としてのパクリとを許してやってください)。

 で、遅まきながら、ネグリ、ハートを読んでみようかなと。私にとっては取っ付きにくい『<帝国>』を後回しにして、まずは『マルチチュード』から読むことにしよう。
 読後の感想はまた後日。

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2009/03/03

おすすめ、YUI、西原理恵子

 最近、一番よく聴いている音楽は、YUIという若い女性シンガーソングライターの歌だ。「Good-bye days」・「CHE.R.RY」といったあたりが、まあ、有名曲かな。特に中高生から20代前半くらいの世代に人気がある。というわけで、中年のオヤジの僕なんぞがYUIのファンだと言うと、言われた相手はたいていリアクションに困ってしまうらしい。でも、ほんと、なかなかYUIは良いですよ。

 さて、いきなりだけど、YUIって、漫画家の西原理恵子に似てると思う。こんなことを書くと、YUIのファンからも、西原理恵子のファンからも、双方からブーイングが来そうだが。もちろん見た目が似ているわけじゃないけど。で、僕、西原理恵子も好きです。

 西原理恵子のファンだったら僕の同世代にもたくさんいるだろう。さてさて、どっかにいないかなぁ、YUIと西原理恵子の両方が好きだっていうお仲間は。もし、このブログ読んでる数少ない読者の方で、自分も仲間だっていう人がいたら、ぜひコメントくださいな。

 西原理恵子の最新エッセイ、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社、2008.12.)が面白い。「あそこの家のお姉ちゃんはこのあいだ万引きでつかまったとか、昼間からシンナーを吸ってフラフラしていた向かいのお兄ちゃんは、案の定シンナーの吸い過ぎでこのあいだ死んだとか、そんな話は身のまわりに、売るほど転がっていた。」という思春期を経て、とある「非行」で高校を退学させられた西原理恵子は、「貧しさが何もかもをのみこんでいくような、ブラックホールみたいな世界にのみこまれないために、わたしは、絵にすがりついた。…自分は絶対に絵を描く人になって東京で食べていく。そう心に決め」て、たくましく売れっ子漫画家になっていく。

 「なぜわたしが、自分が育ってきた貧しい環境から抜け出せたのかを考えると、それは「神さま」がいたからじゃないかって思うことがある。といっても、わたしは何かの宗教を信じているわけじゃない。でも何かしら漠然とした「神さま」が、わたしの中にいる。もしかしたら「働くこと」がわたしにとっての「宗教」なのかもしれない。だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」ってことになるのかな?わたしは自分の中にある「それ」にすがって、ここまで歩いてきた。…どんなに煮詰まってつらいときでも、大好きな人に裏切られて落ち込んでるときでも、働いていれば、そのうちどうにか、出口って見えるものなんだよ。働くことが希望になる―。人は、みな、そうあってほしい。これはわたしの切なる願いでもある。覚えておいて。どんなときでも、働くこと、働きつづけることが「希望」になる、っていうことを。…人が人であることをやめないために、人は働くんだよ。働くことが、生きることなんだよ。どうか、それを忘れないで。」

 バングラデシュの貧困層の女性に対して無担保・無利子の少額融資をおこない働く機会を与えていくムハマド・ユヌスのグラミン銀行のことを紹介したりしながら、上に引用した文章で結ばれるこの西原理恵子のエッセイは美しい。

 で、そんな西原理恵子とYUIがよく似てるんだな、これが。

 西原にとっての絵が、YUIにとっては音楽だったんだろう。高校一年生だか二年生だかのころ、バイトで学費をかせいでいて過労で倒れて入院し、それをきっかけに高校を退学して音楽の道に進むことを決心したそうだ。ストリートで演奏しながら歌手をめざす。彼女が育った家庭環境などに興味のある人は、まあどっかで調べてみて。その辺の事情もちょっと西原理恵子と通じる気がする。結局、オーディションを経て、事務所はスターダスト、レコード会社はソニー(の内部レーベル)という強力なプロモーション体制でもって、映画・ドラマ・CMなどのタイアップでどんどんヒットを出していく。そうやって周囲から期待された「役」を十二分にこなしつつも、その中で自分の音楽を作り上げていこうとする姿は、たくましく、そして凛々しい。周囲の「大人」たちがこれからもっとYUIを売ってたんまり稼いでやるぞって盛り上がっているタイミングで、すぱっと一年間の活動休止を決めたのは、たぶん、彼女自身の意志によるのだろう。なかなかの快挙。そして、活動休止といっても、この間、スタジオにミュージシャンを集めては曲作りをやってるらしく、活動再開が楽しみ。

 というわけで、西原のエッセイ、YUIのアルバムから、元気もらってがんばろうっていう最近の日々です。

2009.3.26.付記 YUI活動再開みたい。4月からのアニメ「鋼の錬金術師」の主題歌で、CD発売は6月3日からとのこと。楽しみ。

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2008/09/04

東野圭吾『白夜行』・『幻夜』の感想

以下、『幻夜』については、いわゆるネタバレ(ネタバラシ?)の感想なので、要注意

 先日、東野圭吾『容疑者Xの献身』を読んで、東野圭吾という作家が気になりはじめた。というわけで、代表作!との声も高い『白夜行』(集英社文庫)を読んだ。さすがに面白かったです。
 うかつにも、これまで東野圭吾の作品というと、テレビドラマ化されたガリレオ・シリーズの原作となった軽い短編をいくつか流し読みしてみて、まあ、さほど暇でもない今、この人の本はわざわざ読む必要もないか、なんて思いこんでいた。
 ところが、先の記事に書いたように、ひょんなことで長編『容疑者Xの献身』を読んで、少し印象が変わった。そこで、この際だから、同じく長編の『白夜行』にチャレンジ。文庫本でなんと860ページ。うちにある文庫本で一番分厚い本だと思う。

 文庫版の解説で、作家・馳星周が、この作品を絶賛しつつ、「ダークな小説」、「ノワールの傑作」と評して、「ノワールの書き手」・「ノワールを書くことに人生を捧げた者」である自分が激しく「嫉妬」させられたことを告白している。
 個人的には、この作品の主要な舞台となっている大阪の都市民衆世界に深く惹かれた。大阪に行ったことはほんの数回だが、東京の“庶民的”な町とは、どこか違った雰囲気や魅力を感じる。いつか、もっと時間をかけて、大阪の町々を本格的に歩き回ってみたいと思う。
 この『白夜行』を読むなら、そんな大阪の町の深いところにどっぷり浸るように、じっくり、ゆっくり、作品世界に入り込んで読むのが良い。長い本だけど、斜め読みは厳禁かな。確か作者自身、この作品のテーマは「純愛」だとどこかで言ってたように思うけど、それをしっかり読み取る方がいい。「純愛」がテーマの「ノワールの傑作」として。

 『幻夜』は、『白夜行』の続編。こちらの文庫版解説で作家・黒川博行が、トマス・ハリスの『ハンニバル』を連想したと書いていることに共感。
 『ハンニバル』は、ご存じ『羊たちの沈黙』の続編。『羊たちの沈黙』と『ハンニバル』を比べると、怖いのは『羊たちの沈黙』の方。『ハンニバル』は、主人公のレクターが、出まくり、しゃべりまくりで、その生い立ちやら心情もさらけ出されてしまい、あんまり怖くない。で、読んで後悔したか、と尋ねられると、いや、後悔はしない、やっぱり読んだ方が良いだろう、というのが答え。やっぱりハンニバルの正体が知りたいもんね。
 
 さて、『幻夜』はどうか。こちらも、『ハンニバル』同様に、『白夜行』では見え隠れ状態だったヒロインが、出まくり、しゃべりまくり。で、テーマは、やっぱり「純愛」なのかなと思いながら読んでいくことになりますが…。ええ、もちろん、『白夜行』みたいな「純愛」物語だと素直に信じて読むほうが、最後にしっかり楽しめます。特に読者が男性の場合は。『白夜行』を読んで、そんなヒロインに、おっかないけど一度お目にかかってみたいと思う男性読者の場合はね。
 『ハンニバル』とはまるで違っちゃってました。
 “賢明”な女性読者の場合は、「この男も(そして素直な男性読者どもも)どいつもこいつもやっぱり馬鹿だわねぇ。」と最初から冷笑しつつ読むんでしょうか。

 つけたし:先の記事に書いたように、『容疑者Xの献身』を読んで、同じく“献身”物の傑作、白石一文『一瞬の光』を思い出したので、白石一文『すぐそばの彼方』を読んでみた。うーん、本の中で展開される政治論は面白かったけど、本筋はどうも僕とは相性が悪かった。『一瞬の光』を超える作品はなかなか書けないのかな。

 さらにつけたし:TVドラマ化された『白夜行』は残念ながら見ていない。だけど、そういえば、このドラマの主題歌が柴咲コウの「影」だった。名曲!(PVも良い)。作詞は、いつものごとく、柴咲コウ自身。原作を読んでから作詞したらしいが、とても良い歌詞。原作のテーマ「純愛」をしっかり読み取った歌詞。
 今回、感想記事を書いてから、ネットでパラパラと『白夜行』の書評を読んでみたけど、なかにはひどいものもある。たとえば、悪に手を染めた雪穂と亮司の関係を純愛なんて呼びたくないとか、雪穂みたいな悪女は許せない、嫌い、とかいった類の、夏休み読書感想文のような書評。作品の最初の方に登場する「清華女子学園中等部」の「藤村都子」あたりならいかにもそんなことを書きそうだ。もうちょっと大きくなってからまた読んでね。その点、柴咲コウはさすがやね。
 付記:この記事の末尾に、TBSのサイトでみつけた柴咲コウへのインタヴューの一部を引用しておきます。
 
 そういえば、ここのところ、ちょくちょく思い出してしまう白石一文『一瞬の光』のヒロイン・香折に対しても、あんな身勝手な女が主人公の男性に最後に選ばれるなんて納得できないっていう“夏休み読書感想文”に出くわすことがある。ある種の人々(しばしば女性)にとっては、雪穂も香折も、絶対認めたくない存在なのかなぁ。

以下、柴咲コウへのインタヴューより一部引用

――ドラマ「白夜行」の主題歌という事ですが…
もともと、東野さんの作品が好きで、ドラマになると聞いて「絶対出たい!」と思ってたんですけど、年齢的な問題とかがあってあえなく出られなかったんですが(笑)、主題歌をというお話を頂いて、喜んで書かせて頂きました。
――小説「白夜行」を読んでの感想
なんだろう…すっごくヒドい人生じゃないですか?ホント、死に向かっていく男の子と、生きる欲望はすごく持ってるんだけど、なんかちょっとその方向が違うなって思う女の子。その2人に惹かれてしまいました。読み終わった後に、後を引く感じはあったけど、気持ち悪さは感じなかったですね。最後はあんな別れ方してるのに、「よく彼女はひょうひょうと歩いて行けるな」って思いましたけどね。彼女は強いですね。生きる欲望の強い人なんだと思いました。
――亮司と雪穂の恋愛観について
なんかもう恋愛観という言葉では片付けられないですよね。亮司に関しては「どうしてそんな人になってしまったの?変えられなかったの?」という生き方だし、雪穂は亮司をある意味自分の一部にして生きていて、すごくしたたかな女性なのに、ズル賢くないし、決してイヤミじゃない所がプリンセスだなって思います。
――「影」はどんな思いを込めて書いた詩なんですか?
絶対に主人公の2人の感情をひろって表現したくて、亮司が生まれながらに持っている“深い喪失感”みたいなものと、 “恋とかでは済まされないような愛”が表現出来ればと思って書きました。詩を書く時は亮司目線、逆に歌を歌う時は亮司の気持ちを雪穂が歌っているような気持ちで歌いました。
 

(インタヴューの引用、ここまで)

 “このインタヴューを読んで”
 さすがに、ちゃんと読めてるなぁ、と感心しきりですが。ただ、亮司の人生に対して、「どうしてそんな人になってしまったの?変えられなかったの?」って問いかけてみても、それは無駄だろうなぁと。こうした亮司の生き方は、『容疑者X』の石神と大いに通じるところがあると思う。

2010.9.3.付記 
 それにしても、亮司の気持ちを雪穂に歌わせるって柴咲コウの着想がすごすぎるね。天才的。残念ながらドラマや映画では雪穂の役が回ってこなかった彼女だけど、この曲を歌いPVのなかで演技することで、東野圭吾も書かなかった『白夜行』の外伝を高い完成度で作り上げることに成功している。ホント、このPVは良いですよー。
 っていう付記を書く気になったのは、最近の『白夜行』人気。今、中国ですごく売れているんだとか。ちょっと前はたしか韓国で注目されて、リメイクのドラマだか映画だかが作られたんじゃなかったっけ。
 日本では、こんどは掘北真希の雪穂か…うーむ。確かに良い女優さんだけど。あ、そうだ、柴咲コウには、『幻夜』のヒロインのチャンスがあると思う。実現しないかな。

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2008/08/25

『容疑者Xの献身』の感想

  9月16日付記:『容疑者Xの献身』が面白かったので、そのいきおいで、『白夜行』とその続編の『幻夜』も読んで感想記事を書きました。よろしかったらそちらもどうぞ。

 映画も見ました。映画の感想は、こちらの記事です

(以下、記事本文)
 
  行儀がひどく良くないのは自分でもわかっているんだけど、混んだ電車のなかで隣の人のひろげている本が視界のなかに入ると、ついつい盗み読みしてしまう。で、仕事柄、文章を斜めに読むスピードが多少他人よりは速いらしく、チラって覗くと、だいたい、そのページ分のあらすじが頭に入り込んでしまう。

 先日、京浜東北線の車内、中年サラリーマン風の乗客が読んでいた本が、殺人事件のまさに殺害のシーン。母娘二人が、母につきまとう男をコタツのコードで絞殺するところ。と、ここまで書けば、分かる人には分かっちゃいますね、この本の正体。だけど、そのときの僕には、作品名も作者も分からなかったんですけど。ただ、なんとなく、文体が好みだなぁと。水商売の女性と、彼女にタカる元夫という人物設定からして、よくある量産型“ハードボイルド”かいな、と思いつつも、ムダの無い、それでいてなんとなくデリケートなタッチの文体の印象と一緒に、犯人母娘の「靖子」・「美里」という名前が頭に残りました。
 翌日、混み合う電車での通勤の途中、昨日と同じく、すぐ顔の脇で本が広げられました。ぱっと見て、あらら、昨日と同じ本。同じシーン。今度の読者は、若い男性。

 こうして昨日今日と立て続けに同じ本に出くわしたからには、これは、かなり面白いんだろうってことで、早速、パソコンで検索。キーワードは「靖子」・「美里」・「殺人」・「小説」。ハイ、すぐにヒットしました。東野圭吾『容疑者Xの献身』。あの探偵ガリレオ・シリーズのなかの最高傑作といわれる作品。直木賞受賞。単行本は2005年だけど、ちょうど文春文庫にて文庫化されたばかり。

 このブログで、たびたび、しつこく、むなしく告白し続けているが、私は、柴咲コウのファン。で、その柴咲コウと福山ナントカって人の主演で大ヒットしたテレビドラマ『ガリレオ』の劇場版として、この秋に公開される映画の原作がこれ。そんなわけで、早速、駅の本屋さんで購入。一気に読み終えました。

 面白かった。ちょっと大人の本ですね。面白くない人には面白くない。「石神」の「献身」に理解が及ばない、シンパシーが持てないって人にとっては、最終的につまんないだろうな。ネットの書評記事をパラパラみても、記事を書いた人が意識しているかいないかはともかく、そこんとこで評価の良し悪しがかなり決まっているように読める。

 この作品をめぐって作者の東野圭吾自身がざっくりと語った、「やっぱり多くの男って、あ、この恋は伝わらないなと思ったときに、それでも相手の女性に好きな男がいるなり、幸せになる道が自分に関係ないところにあるとしたら、自分が犠牲になってでも叶えてやりたいという、お人好しなところがあるんですよね。」という心情が理解できるか否かにかかっているように思える。途中で登場してきた「工藤」って脇役も、まさにそんな「多くの男」のひとりだろうし。
 2008.9.29.付記:同じ作者の『白夜行』の「亮司」も『幻夜』の「雅也」も、そんな「多くの男」の代表みたいなもの。きっと、東野圭吾が一番惹かれる恋愛=「純愛」のかたちがこれなんだろう。

 個人的には、作品のストーリーとは違って、「石神」の企みが初期段階からうまくいって、その後の年月を通じ、彼の純愛がどんどん陳腐化したり傷だらけになるところが見たい気もするけど。それはひねくれすぎかなぁ。

 本格的な推理小説ファンの一部からは、トリックが途中でわかっちゃってつまらないって声も出たみたい(ちなみに、私は最後まで分かんなかった)。でも、まあ、それは気にならない。この本が、ミステリー系の賞をとったときにイチャモンをつけたミステリー作家がいた。その批評を少し読んでみたが、「石神」の心情分析という点では、まるでお子ちゃまやね、その作家は。

 ついでにいえば、なんとなく、白石一文の『一瞬の光』の主人公の“献身”を連想した。この本も、『容疑者X』同様に、なかなか“荒唐無稽”気味な部分もあるが、それでも肝心のテーマそのものには相当なリアルがあって、面白く読めた。

 まあ、それはともあれ、映画公開が待ち遠しい。先日、テレビニュースの芸能コーナーで、映画の主題歌のPVが少しだけ紹介されていた。もちろん、KOH+。福山ナントカ君は、柴咲コウがカラオケでバラードを歌うのを聴いて、その印象をもとにしてこの新曲を書いたそうだ。なかなか良い曲。テレビシリーズの主題歌「Kissして」も良かったけど、今度の曲も良い。
 そういえば、私の妹がこの福山君のファンで、歳甲斐も無くキャーキャー言ってたが、以前は、どこが良いんだか??って冷ややかに見ていた。が、ここにきて、ちょっと、印象が変わったよ。インタビューとか観ると人柄も良さげだし。うーん、才能もルックスも性格もめぐまれまくった男だなぁ、福山雅治。
 
 というわけで、柴咲ファンとしては、妻夫木ナントカも福山ナントカも許せる。が、許しがたいのは、阿部ナントカだろ!

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2007/11/07

最近面白かったもの~乾くるみ『イニシエーション・ラブ』、映画『パンズ・ラビリンス』

相変わらずちょこまかと忙しく、記事が書けません。書きたいネタはいくつもたまってきてるんですが。

そんなわけで、近況報告を兼ねて、最近、読んだ本やら見た映画で特に良かったものをご紹介。

ここのところ本はあまり読んでないんですが、抜群に面白かったのは、乾くるみさんの『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)。ふだんから作品のディテールを斜め読みしてしまう、かなり先急ぎの読み方をする私は、読み終わってしばらくしても、問題作って呼ばれるこの本のどこがすごいのか、まったく分かりませんでした。ただ、あれれ、ちょっと変だな。作者のミス?って部分が気にはなりましたが。ところがどっこい、ミスじゃなかったんですね。おもしろーい。おすすめです。そんな見事なトリックは別にしても、1960年代生まれの人間にとっては、その世代の恋愛の特徴がすごーく上手に表現されていて感心。描かれているのがあまりに平凡な恋愛だって批判もあるみたいだけど、もちろん、それは作者が意図したところだし、それから、そういう文句言ってるおめーらの恋愛もだいたいこんなもんだろ?って感じかな。
作者の乾くるみって名前は、女性っぽいけど、どうして、こんなに男の心がつかめているのかと不思議に思っていたら、どうやら、男性作家みたいですね。納得。でも、トリックに気がついた後は、なかなか女性の描き方も鋭いなぁと。ただ、まあ、やっぱり、そこに描かれているのは、作者渾身?の「演技シーン」の描写が象徴するように、あくまで紋切り的な、男からみた“女性のすごさ”なのかも。

映画もいくつか観ましたが、とりわけ印象に残ったのは、『パンズ・ラビリンス』。万人にすすめられる映画じゃないと思いますが、もし宣伝とかをみてアンテナが反応してしまい「どうしようかなぁ、行こうかなぁ」って思った人は、なんとか都合をつけて行くべきです(まだやってるかな)。
内戦期のスペインの田舎が舞台の、多感な少女を主人公とするダーク・ファンタジーです。映画評をいくつかみると、「不思議の国のアリス」のダーク版という見方も提示されていますが、私の場合、映画を観てる最中から、「マルチェッリーノ パーネ・エ・ヴィーノ」の物語を連想してました。「マルチェッリーノ」を観て、まずは感動しつつも、こんな悲惨な話を感動の物語に仕立て上げる美化作用というか幻覚作用を持ったキリスト教の怖さや残酷さについて私と共感してくれる人であるなら、なおさら、『パンズ・ラビリンス』は、その辺がストレートに表現されいて、うん納得、の絶対おすすめ映画です。
2007.11.09付記 この記事の末尾のあたり、ちょっと言葉たらずでしたね。この映画で「ストレートに表現されて」いるのは、「キリスト教の怖さや残酷さ」の方ではなくて、物語の「悲惨」さの方です。とってもドライなファンタジーという、一見矛盾した二つの言葉がしっくりとあてはまる映画でした。

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