文学論争は面白い
遅まきながら、昨年秋に出された小谷野敦『現代文学論争』(筑摩書房、2010.10.)を買って読んでみた。文学論争や文学研究について素養のない私にとっては、初めて知ることが多くて本当に面白かった。この本で紹介された論争にふれることで、「文学」の問題の範囲にとどまらず、自分のふだんの生活における“良識”やら“正義”やらがゆらいできて楽しい。それが文学本来の力なのだろうし、論争の意義なんだろう。また、そうした揺さぶりをかけるのが小谷野さんのキャラクターなのかも。
「たけくらべ」論争
それはそうと、当ブログとの関係では、第九章の「たけくらべ」論争の部分が興味深い。まずは、たけくらべ論争について僕の知らないたくさんの人のいろんな説が紹介されていてすごく勉強になった。その結果、このブログの過去記事のうち、特に論争の基本的構図や経緯について書いた部分に若干修正の必要も感じる。例えば、初潮説を学界の定説として誤って紹介したくだりなどだ。しかし、とりあえずそれは「小谷野さんの本を買って読んでください」ということで勘弁してもらおう。
「たけくらべ」論争とは、樋口一葉の有名な小説『たけくらべ』の主人公である美登利という活発な女の子が、物語の終盤、ある日を境に急に元気を無くしてしまったことの原因はなにか、という論争である。
初潮を迎えたからという説や、吉原遊郭の娼妓としてデビューしたからという初店説、あるいは、娼妓に義務付けられた身体検査を初めて受けたからだという検査場説などなど、諸説が唱えられている。
論争が大きくなったのは、小説家の佐多稲子さんが初店説を唱え初潮説を批判したことに対して、初潮説をとっていた文学者の前田愛さんが反論したことがきっかけであった。
なお、佐多さんの主張について留意すべきは、初店といっても正式な娼妓としての初店ではなくて、店の奥で秘密裡におこなわれた違法な“初店”を佐多さんは主張しているという点である。佐多さんの初店説を支持する人のなかには、美登利が公然と娼妓デビューを果たしたものと考えている人も少なくないようだが、それは佐多さんの主張ではない点に留意すべきである。
さて、この小谷野さんの本を読んだ後、自分の思いは少し佐多説に接近した気がする。最初は、佐多説もいちおう成立可能だけどやっぱり初潮説の方がしっくりくるかなぁ、と思っていて、このブログにも昔そう書いた。その後、次第に佐多説に魅かれつつも、どうしてもそうした“読み”はアクロバティック過ぎるように思い続けてきた。小説が書かれた当時の一般的な読者のリテラシーからして、秘密裡の初店という筋はなかなか思いつかないのではないかと感じていたからである。今回、小谷野さんの本を読んで自分が以前よりも佐多説に傾いたのは、この本で紹介された初潮説提唱者の言い分があまりにひどかったからかもしれない。まあそれは半分冗談。たしかに美登利の変貌の原因を初潮として読まなければならないとする積極的な根拠は見当たらないなあ、と思うようになったからだ(もちろん、初潮が原因ではない、という確実な根拠もまだ見つからない。念のため)。
僕としては、この本で紹介された説の中では、佐多さんの批判を受けた後で前田さんが提出した「代案」や、まだ元の文献自体を読んでいないが、蒲生芳郎さんという人の主張に好感をおぼえた。
小谷野さんのコメントについての疑問点
こんなふうにこの本から多くを学んだが、ただし、各論者の説を紹介・批評しながらときどき示される小谷野さん自身の見解のうち、検査場説についてのコメントには疑問を感じる。
以前の記事で書いたように、小説の最後まで美登利が正式な娼妓となっていないことはほぼ確実である。正式な娼妓になっていないと判断できる根拠は以下のとおり。
①娼妓は遊郭内の居住が義務だが美登利の居住地は遊郭の外であることと、②14歳の美登利は娼妓になることが法的に許される年齢の16歳に達していないこと、以上2点である。
この2点について詳しくは、こちらの記事 と こちらの記事 を参照のこと
明らかに美登利は娼妓デビューしていない。美登利が正式に娼妓になったという単純な初店説は不成立なのである。
そして、すでに娼妓となっている者や娼妓デビュー直前の者たちだけに法律上義務付けられていた検査場での身体検査を美登利が受けることもありえない。検査場説も不成立なのである。
これに対して小谷野さんは、娼妓の年齢制限が守られなかった可能性や、「一葉が遊郭について詳細な知識を持って」いなかった可能性を示しながら、検査場説になおも成立の余地をみているようだ。
しかし、娼妓の居住区域制限や年齢制限を一葉が知らなかったとは考えにくい。また、それらを無視した物語設定を一葉がしたとも考えにくい。
一葉が小説の中で正太に歌わせた流行節の「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、今では・・・」という歌詞は娼妓の年齢制限を前提に作られたものだろう。小学校(当時)に在籍する娼妓という設定はちょっと無理じゃなかろうか。
つまり、一葉は年齢制限のことは知っていた可能性が大きいし、また、吉原界隈ではちょっとした有名人の小学生・美登利が、その年齢をごまかして娼妓営業の許可を受けるという設定は、あまりに不自然なものではなかろうか。
また、娼妓は遊郭外に住んではならない、という規定は、江戸時代以来続くもっとも基本的な掟として娼妓たちの自由を縛っていた。吉原遊郭のすぐ隣に暮らした一葉がその掟を知らないはずはないし、小説が書かれた当時の読者の多くも、吉原の娼妓たちがおはぐろ溝に囲まれた廓の中の遊女屋に住まなくてはならない不自由な存在である、という知識は持ち合わせていただろう。実際、美登利の姉はそういう遊女屋に囲われて生きる存在としてちゃんと描かれている。
つまり、義務教育制のもと14歳で地元の小学校に在籍し家族と共に遊郭外に暮らしながらも吉原で正式の娼妓として働く美登利、といった現実では決してありえない設定を、一葉が知識不足ゆえにおこなってしまうことはないし、また、当時の読者の多くが不自然に思うであろうそんなリアリティのひとかけらもない設定を一葉が敢えておこなったとも考えにくい。
もちろん、現代の読者がどのような読みをしようとそれは自由である。例えば、当時の吉原の娼妓が、自宅マンションからタクシーで出勤してくる現代の吉原のおねえさんたちみたいなものだと思うことにすれば(そう思うことだって読み手の自由である)、単純な初店説でも検査場説でもかまわない。そもそも、どうやら美登利の変貌の原因について一葉がどのような想定をしていたのかを最終的に確定するのは困難みたいだ。
しかし、少なくとも、美登利の正式な娼妓デビューを前提にする単純な初店説や検査場説が、執筆当時の一葉の想定や当時の読者の大半の読みからはずいぶんと遠く外れた位置にあることだけは確かである。
そこで、僕個人としては、単純な初店説や検査場説は除外しておいて、それ以外の可能性をあれこれ想像しながら読んでみる、というのが、当面しっくりくる読み方だ。
付:大塚説(on twitter)について
今回、久しぶりに『たけくらべ』について記事を書く際、ネットで検索してたら、ツイッターで大塚ひかりさんという人が
「小谷野さん『現代文学論争』たけくらべ論争、本文に「折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり」ってあるんだから、初潮のわけないなと。初潮は自然となるもので誰かによって「した」と言われるようなことといったら「水揚げ」であることは明らかだよね〜と思った。」
とつぶやいているのを目にした。
ちょっと面白い意見だとは思うけど、問題の文の前の方を読むと、これは、美登利の変貌の原因が何なのか知らない人たちのいわば噂話として、「病気かな」という人もあり、「種なし(台なし)にしたと誹る」人もあり、と並列して書かれていることがわかる。したがって、この無責任な噂話をもってただちに「水揚げ」であると断定することはできないし、初潮を完全否定することも難しい。
ついでに言えば、「初潮が折角の面白い子を種なしにした」という文だって、大塚さんの意見に反して一般的には成り立つわけだから、「した」にこだわって初潮を否定するのはそもそもが不成立だろう(厳密にはそうした擬人的な表現が一葉の作品で普通に用いられているかどうかを検証しなくてはならないが)。
というか、そもそも原文の「した」の語は、初潮にしたとかしないとかで用いられているのではなく、「種なし」に「した」といっているわけなんだから、大塚さんのこだわりはちょっと筋違いな気もする。
それはともかく、本来注目すべきは「誹る」という言葉の方だろう。誹られている対象が、美登利を種なしにした人・行為だとすれば、ふつう初潮はそれに当たらないわけで、大塚さんの言うとおり、この噂話の主は、変貌の要因として初潮は念頭に置いていないことになるかもしれない。
しかし、あくまでそれは変貌の原因を知らない人の噂話だから、やっぱり、これだけで初潮を完全否定するのは難しい。
ただ以下のような読み方だって可能かもしれない。“原因を知らないで「病気かな」という人もあり、それとは別に、原因をちゃんと知っていて「種なしにした」と誹る人もあり”という読み方である(とはいえ、原文を読む限り、そんなふうに途中で切り替えをする読み方はかなり不自然だと僕は思うけど)。
ただしそういう読み方をあえて行った場合でも、噂話の主が水揚げを念頭に「誹」っているのかどうかは前後の文章を読んでも皆目わからない。つまり、大塚さんのように水揚げだと断定することはできないのである。
結局、この「誹る」云々の噂話に注目することによっても、初潮の完全否定は難しいし、水揚げだと断定することもできない。
ところで、ここでは、吉原界隈の少なからぬ人たちが美登利の身の上に起きたことが全然わからない状態でいる、といったことを一葉自身がはっきり書いているんだから、やっぱり、公然の娼妓デビュー=単純な初店説やそれを前提とした初検査=検査場説が成立しにくい、ということは言えるけどね。
2012.6.1.付記
先日、巡見で吉原界隈へ行くことがあった。その準備で、久しぶりに、たけくらべ論争の動向をネットでチェック。すると小谷野敦さんのブログ記事で、美登利の変貌要因は水揚げだ、という人の文章が紹介されていた。
(以下小谷野さんのブログ記事から引用:小林)
『たけくらべ』の最後が水揚げである、と主張したのは佐多稲子で、それより前に太田一夫という正体不明の人が書いていたということを『現代文学論争』(筑摩叢書)に書いたのだが、ウィキペディアを見たら、太田よりはあとだが、こちらは正体明瞭、佐多の前の夫の窪川鶴次郎が書いているとあったので確認した。
窪川の『東京の散歩道』(現代教養文庫、1964)で、「読売新聞」に1961年4月から64年3月末まで週一回連載されたものだという。
「作品のおわりのところで美登利は、姉がおいらんで出ている大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる。きのうまでとはまるで人が変わってしまった自身を、自分では理解できない。そういった衝撃の微妙なありようが、自身に対しても勝ち気なままに、実に的確にとらえられている。それはこういった世界にみられる水揚げといった言葉で行われる慣習を想像させずにはおかぬ。」
(引用終わり:小林)
小谷野さんが紹介している窪川説、ちょっと面白いけど、やっぱり粗雑すぎる。
窪川説の重要な前提になっている「大黒屋にはじめて泊まって寮へもどってくる」という美登利の行動だけど、これはあくまで窪川さんの“想像”に過ぎない。
テキストには、美登利の大黒屋宿泊は明記されていないし、それをうかがわせるような記述もない。逆に、美登利が大黒屋に泊っていないことを確かめる材料もないんだけど。
ただ、小谷野さんが引用している窪川さんの文章だと、美登利が大黒屋に泊まったのは明白であるかのように読めてしまう。
窪川さんの意図的な騙しなのか、あるいは、単に勘違いなのか。そもそも、『たけくらべ』をちゃんと読んだことがないのか。
このブログでのたけくらべ論争に関する過去記事はこちらをクリック
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