2009/03/06

マルチチュード、フリーター、近世の終焉としての現在

 最近、ネグリ、ハートの本を読んでいる。何を今さら、遅れてるぅ、って笑われるかもしれないが。
 うかつにも、今までは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートという名前と、彼らが<帝国>論というものを唱えているといったぐらいのことしか知らず、その論の簡単な中身を確かめることすらしてなかった。うーむ、お恥ずかしい。

 なぜ恥ずかしいかというと、かなりのブームだった彼らの本の内容をよく知らなかったということもあるが、もっと恥ずかしかったのは、このブログでしばらく連載してきた「近世の終焉としての現在」という記事の内容と、ネグリ、ハートの主張とが、かなり重複しているからだ。きっと、このブログ記事を読んだ多くの人は、なぁんだ、これ、ネグリのパクリじゃん、と思っていたに違いない(誰か教えてくれてもよかったのになぁ)。

 たとえば、「地域」やら、「労働組合」やらが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する拠点にはなりえないだろう、という趣旨の私の主張は、実は、そのまま、ネグリ、ハートの指摘であった。

 そして、労働の問題。
 そもそもこの「近世の終焉としての現在」という記事の連載を思い立ったきっかけは、4年前にNHKで放映された「フリーター漂流」という番組をみたことにある。
 前にも話したが、番組をみた直後にとりあえずの感想を「前編」「中編」としてアップしたものの、まとめとなる「後編」が書けなくなった。もちろん私が怠慢なせいもあるが、これは軽い感想を書いて終わりにするのではなく、歴史研究者としてちゃんと正対して書くべきテーマだと感じたからでもあった。で、その「宿題」を果たすべく、やっと去年の5月から書き始めたのが、「近世の終焉としての現在」という連載記事だ。 ネグリ、ハートが、資本主義的グローバリゼーションに対抗する主体として示した「マルチチュード」(排他性・限定性をもつ近代「労働者階級」じゃなく多数多様性の労働者を指す概念としての「マルチチュード」)の問題と、「フリーター漂流」をみて感じた私の問題意識とは、言うまでもなく、そのまま結びつくわけだ。

 だからといってもろ手をあげてネグリ、ハート万歳じゃないが、これまで、ちょっとばかり日本史の研究をやりながら同時に現代の東京をあちこち見て歩くことによって自分の中で勝手に狭く積み上げてきた素朴な問題の構図と、彼らの提起する問題の構図とがかなり一致しているということがとても面白かった。
 極度に不勉強なせいで、幸か不幸か、<帝国>もマルチチュードも知らないまま、主に日本社会だけを素材に私が導き出した論点が、結果として彼らの提示する論点とかなり重複していたということは、図らずも、これらの論点の大切さの検証となるように思う(ということで、ひとつ、私の怠慢と結果としてのパクリとを許してやってください)。

 で、遅まきながら、ネグリ、ハートを読んでみようかなと。私にとっては取っ付きにくい『<帝国>』を後回しにして、まずは『マルチチュード』から読むことにしよう。
 読後の感想はまた後日。

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2009/03/03

おすすめ、YUI、西原理恵子

 最近、一番よく聴いている音楽は、YUIという若い女性シンガーソングライターの歌だ。「Good-bye days」・「CHE.R.RY」といったあたりが、まあ、有名曲かな。特に中高生から20代前半くらいの世代に人気がある。というわけで、中年のオヤジの僕なんぞがYUIのファンだと言うと、言われた相手はたいていリアクションに困ってしまうらしい。でも、ほんと、なかなかYUIは良いですよ。

 さて、いきなりだけど、YUIって、漫画家の西原理恵子に似てると思う。こんなことを書くと、YUIのファンからも、西原理恵子のファンからも、双方からブーイングが来そうだが。もちろん見た目が似ているわけじゃないけど。で、僕、西原理恵子も好きです。

 西原理恵子のファンだったら僕の同世代にもたくさんいるだろう。さてさて、どっかにいないかなぁ、YUIと西原理恵子の両方が好きだっていうお仲間は。もし、このブログ読んでる数少ない読者の方で、自分も仲間だっていう人がいたら、ぜひコメントくださいな。

 西原理恵子の最新エッセイ、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社、2008.12.)が面白い。「あそこの家のお姉ちゃんはこのあいだ万引きでつかまったとか、昼間からシンナーを吸ってフラフラしていた向かいのお兄ちゃんは、案の定シンナーの吸い過ぎでこのあいだ死んだとか、そんな話は身のまわりに、売るほど転がっていた。」という思春期を経て、とある「非行」で高校を退学させられた西原理恵子は、「貧しさが何もかもをのみこんでいくような、ブラックホールみたいな世界にのみこまれないために、わたしは、絵にすがりついた。…自分は絶対に絵を描く人になって東京で食べていく。そう心に決め」て、たくましく売れっ子漫画家になっていく。

 「なぜわたしが、自分が育ってきた貧しい環境から抜け出せたのかを考えると、それは「神さま」がいたからじゃないかって思うことがある。といっても、わたしは何かの宗教を信じているわけじゃない。でも何かしら漠然とした「神さま」が、わたしの中にいる。もしかしたら「働くこと」がわたしにとっての「宗教」なのかもしれない。だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」ってことになるのかな?わたしは自分の中にある「それ」にすがって、ここまで歩いてきた。…どんなに煮詰まってつらいときでも、大好きな人に裏切られて落ち込んでるときでも、働いていれば、そのうちどうにか、出口って見えるものなんだよ。働くことが希望になる―。人は、みな、そうあってほしい。これはわたしの切なる願いでもある。覚えておいて。どんなときでも、働くこと、働きつづけることが「希望」になる、っていうことを。…人が人であることをやめないために、人は働くんだよ。働くことが、生きることなんだよ。どうか、それを忘れないで。」

 バングラデシュの貧困層の女性に対して無担保・無利子の少額融資をおこない働く機会を与えていくムハマド・ユヌスのグラミン銀行のことを紹介したりしながら、上に引用した文章で結ばれるこの西原理恵子のエッセイは美しい。

 で、そんな西原理恵子とYUIがよく似てるんだな、これが。

 西原にとっての絵が、YUIにとっては音楽だったんだろう。高校一年生だか二年生だかのころ、バイトで学費をかせいでいて過労で倒れて入院し、それをきっかけに高校を退学して音楽の道に進むことを決心したそうだ。ストリートで演奏しながら歌手をめざす。彼女が育った家庭環境などに興味のある人は、まあどっかで調べてみて。その辺の事情もちょっと西原理恵子と通じる気がする。結局、オーディションを経て、事務所はスターダスト、レコード会社はソニー(の内部レーベル)という強力なプロモーション体制でもって、映画・ドラマ・CMなどのタイアップでどんどんヒットを出していく。そうやって周囲から期待された「役」を十二分にこなしつつも、その中で自分の音楽を作り上げていこうとする姿は、たくましく、そして凛々しい。周囲の「大人」たちがこれからもっとYUIを売ってたんまり稼いでやるぞって盛り上がっているタイミングで、すぱっと一年間の活動休止を決めたのは、たぶん、彼女自身の意志によるのだろう。なかなかの快挙。そして、活動休止といっても、この間、スタジオにミュージシャンを集めては曲作りをやってるらしく、活動再開が楽しみ。

 というわけで、西原のエッセイ、YUIのアルバムから、元気もらってがんばろうっていう最近の日々です。

2009.3.26.付記 YUI活動再開みたい。4月からのアニメ「鋼の錬金術師」の主題歌で、CD発売は6月3日からとのこと。楽しみ。

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2008/09/04

東野圭吾『白夜行』・『幻夜』の感想

以下、『幻夜』については、いわゆるネタバレ(ネタバラシ?)の感想なので、要注意

 先日、東野圭吾『容疑者Xの献身』を読んで、東野圭吾という作家が気になりはじめた。というわけで、代表作!との声も高い『白夜行』(集英社文庫)を読んだ。さすがに面白かったです。
 うかつにも、これまで東野圭吾の作品というと、テレビドラマ化されたガリレオ・シリーズの原作となった軽い短編をいくつか流し読みしてみて、まあ、さほど暇でもない今、この人の本はわざわざ読む必要もないか、なんて思いこんでいた。
 ところが、先の記事に書いたように、ひょんなことで長編『容疑者Xの献身』を読んで、少し印象が変わった。そこで、この際だから、同じく長編の『白夜行』にチャレンジ。文庫本でなんと860ページ。うちにある文庫本で一番分厚い本だと思う。

 文庫版の解説で、作家・馳星周が、この作品を絶賛しつつ、「ダークな小説」、「ノワールの傑作」と評して、「ノワールの書き手」・「ノワールを書くことに人生を捧げた者」である自分が激しく「嫉妬」させられたことを告白している。
 個人的には、この作品の主要な舞台となっている大阪の都市民衆世界に深く惹かれた。大阪に行ったことはほんの数回だが、東京の“庶民的”な町とは、どこか違った雰囲気や魅力を感じる。いつか、もっと時間をかけて、大阪の町々を本格的に歩き回ってみたいと思う。
 この『白夜行』を読むなら、そんな大阪の町の深いところにどっぷり浸るように、じっくり、ゆっくり、作品世界に入り込んで読むのが良い。長い本だけど、斜め読みは厳禁かな。確か作者自身、この作品のテーマは「純愛」だとどこかで言ってたように思うけど、それをしっかり読み取る方がいい。「純愛」がテーマの「ノワールの傑作」として。

 『幻夜』は、『白夜行』の続編。こちらの文庫版解説で作家・黒川博行が、トマス・ハリスの『ハンニバル』を連想したと書いていることに共感。
 『ハンニバル』は、ご存じ『羊たちの沈黙』の続編。『羊たちの沈黙』と『ハンニバル』を比べると、怖いのは『羊たちの沈黙』の方。『ハンニバル』は、主人公のレクターが、出まくり、しゃべりまくりで、その生い立ちやら心情もさらけ出されてしまい、あんまり怖くない。で、読んで後悔したか、と尋ねられると、いや、後悔はしない、やっぱり読んだ方が良いだろう、というのが答え。やっぱりハンニバルの正体が知りたいもんね。
 
 さて、『幻夜』はどうか。こちらも、『ハンニバル』同様に、『白夜行』では見え隠れ状態だったヒロインが、出まくり、しゃべりまくり。で、テーマは、やっぱり「純愛」なのかなと思いながら読んでいくことになりますが…。ええ、もちろん、『白夜行』みたいな「純愛」物語だと素直に信じて読むほうが、最後にしっかり楽しめます。特に読者が男性の場合は。『白夜行』を読んで、そんなヒロインに、おっかないけど一度お目にかかってみたいと思う男性読者の場合はね。
 『ハンニバル』とはまるで違っちゃってました。
 “賢明”な女性読者の場合は、「この男も(そして素直な男性読者どもも)どいつもこいつもやっぱり馬鹿だわねぇ。」と最初から冷笑しつつ読むんでしょうか。

 つけたし:先の記事に書いたように、『容疑者Xの献身』を読んで、同じく“献身”物の傑作、白石一文『一瞬の光』を思い出したので、白石一文『すぐそばの彼方』を読んでみた。うーん、本の中で展開される政治論は面白かったけど、本筋はどうも僕とは相性が悪かった。『一瞬の光』を超える作品はなかなか書けないのかな。

 さらにつけたし:TVドラマ化された『白夜行』は残念ながら見ていない。だけど、そういえば、このドラマの主題歌が柴咲コウの「影」だった。名曲!(PVも良い)。作詞は、いつものごとく、柴咲コウ自身。原作を読んでから作詞したらしいが、とても良い歌詞。原作のテーマ「純愛」をしっかり読み取った歌詞。
 今回、感想記事を書いてから、ネットでパラパラと『白夜行』の書評を読んでみたけど、なかにはひどいものもある。たとえば、悪に手を染めた雪穂と亮司の関係を純愛なんて呼びたくないとか、雪穂みたいな悪女は許せない、嫌い、とかいった類の、夏休み読書感想文のような書評。作品の最初の方に登場する「清華女子学園中等部」の「藤村都子」あたりならいかにもそんなことを書きそうだ。もうちょっと大きくなってからまた読んでね。その点、柴咲コウはさすがやね。
 付記:この記事の末尾に、TBSのサイトでみつけた柴咲コウへのインタヴューの一部を引用しておきます。
 
 そういえば、ここのところ、ちょくちょく思い出してしまう白石一文『一瞬の光』のヒロイン・香折に対しても、あんな身勝手な女が主人公の男性に最後に選ばれるなんて納得できないっていう“夏休み読書感想文”に出くわすことがある。ある種の人々(しばしば女性)にとっては、雪穂も香折も、絶対認めたくない存在なのかなぁ。

以下、柴咲コウへのインタヴューより一部引用

――ドラマ「白夜行」の主題歌という事ですが…
もともと、東野さんの作品が好きで、ドラマになると聞いて「絶対出たい!」と思ってたんですけど、年齢的な問題とかがあってあえなく出られなかったんですが(笑)、主題歌をというお話を頂いて、喜んで書かせて頂きました。
――小説「白夜行」を読んでの感想
なんだろう…すっごくヒドい人生じゃないですか?ホント、死に向かっていく男の子と、生きる欲望はすごく持ってるんだけど、なんかちょっとその方向が違うなって思う女の子。その2人に惹かれてしまいました。読み終わった後に、後を引く感じはあったけど、気持ち悪さは感じなかったですね。最後はあんな別れ方してるのに、「よく彼女はひょうひょうと歩いて行けるな」って思いましたけどね。彼女は強いですね。生きる欲望の強い人なんだと思いました。
――亮司と雪穂の恋愛観について
なんかもう恋愛観という言葉では片付けられないですよね。亮司に関しては「どうしてそんな人になってしまったの?変えられなかったの?」という生き方だし、雪穂は亮司をある意味自分の一部にして生きていて、すごくしたたかな女性なのに、ズル賢くないし、決してイヤミじゃない所がプリンセスだなって思います。
――「影」はどんな思いを込めて書いた詩なんですか?
絶対に主人公の2人の感情をひろって表現したくて、亮司が生まれながらに持っている“深い喪失感”みたいなものと、 “恋とかでは済まされないような愛”が表現出来ればと思って書きました。詩を書く時は亮司目線、逆に歌を歌う時は亮司の気持ちを雪穂が歌っているような気持ちで歌いました。
 

(インタヴューの引用、ここまで)

 “このインタヴューを読んで”
 さすがに、ちゃんと読めてるなぁ、と感心しきりですが。ただ、亮司の人生に対して、「どうしてそんな人になってしまったの?変えられなかったの?」って問いかけてみても、それは無駄だろうなぁと。こうした亮司の生き方は、『容疑者X』の石神と大いに通じるところがあると思う。

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2008/08/25

『容疑者Xの献身』の感想

  9月16日付記:『容疑者Xの献身』が面白かったので、そのいきおいで、『白夜行』とその続編の『幻夜』も読んで感想記事を書きました。よろしかったらそちらもどうぞ。

 映画も見ました。映画の感想は、こちらの記事です

(以下、記事本文)
 
  行儀がひどく良くないのは自分でもわかっているんだけど、混んだ電車のなかで隣の人のひろげている本が視界のなかに入ると、ついつい盗み読みしてしまう。で、仕事柄、文章を斜めに読むスピードが多少他人よりは速いらしく、チラって覗くと、だいたい、そのページ分のあらすじが頭に入り込んでしまう。

 先日、京浜東北線の車内、中年サラリーマン風の乗客が読んでいた本が、殺人事件のまさに殺害のシーン。母娘二人が、母につきまとう男をコタツのコードで絞殺するところ。と、ここまで書けば、分かる人には分かっちゃいますね、この本の正体。だけど、そのときの僕には、作品名も作者も分からなかったんですけど。ただ、なんとなく、文体が好みだなぁと。水商売の女性と、彼女にタカる元夫という人物設定からして、よくある量産型“ハードボイルド”かいな、と思いつつも、ムダの無い、それでいてなんとなくデリケートなタッチの文体の印象と一緒に、犯人母娘の「靖子」・「美里」という名前が頭に残りました。
 翌日、混み合う電車での通勤の途中、昨日と同じく、すぐ顔の脇で本が広げられました。ぱっと見て、あらら、昨日と同じ本。同じシーン。今度の読者は、若い男性。

 こうして昨日今日と立て続けに同じ本に出くわしたからには、これは、かなり面白いんだろうってことで、早速、パソコンで検索。キーワードは「靖子」・「美里」・「殺人」・「小説」。ハイ、すぐにヒットしました。東野圭吾『容疑者Xの献身』。あの探偵ガリレオ・シリーズのなかの最高傑作といわれる作品。直木賞受賞。単行本は2005年だけど、ちょうど文春文庫にて文庫化されたばかり。

 このブログで、たびたび、しつこく、むなしく告白し続けているが、私は、柴咲コウのファン。で、その柴咲コウと福山ナントカって人の主演で大ヒットしたテレビドラマ『ガリレオ』の劇場版として、この秋に公開される映画の原作がこれ。そんなわけで、早速、駅の本屋さんで購入。一気に読み終えました。

 面白かった。ちょっと大人の本ですね。面白くない人には面白くない。「石神」の「献身」に理解が及ばない、シンパシーが持てないって人にとっては、最終的につまんないだろうな。ネットの書評記事をパラパラみても、記事を書いた人が意識しているかいないかはともかく、そこんとこで評価の良し悪しがかなり決まっているように読める。

 この作品をめぐって作者の東野圭吾自身がざっくりと語った、「やっぱり多くの男って、あ、この恋は伝わらないなと思ったときに、それでも相手の女性に好きな男がいるなり、幸せになる道が自分に関係ないところにあるとしたら、自分が犠牲になってでも叶えてやりたいという、お人好しなところがあるんですよね。」という心情が理解できるか否かにかかっているように思える。途中で登場してきた「工藤」って脇役も、まさにそんな「多くの男」のひとりだろうし。
 2008.9.29.付記:同じ作者の『白夜行』の「亮司」も『幻夜』の「雅也」も、そんな「多くの男」の代表みたいなもの。きっと、東野圭吾が一番惹かれる恋愛=「純愛」のかたちがこれなんだろう。

 個人的には、作品のストーリーとは違って、「石神」の企みが初期段階からうまくいって、その後の年月を通じ、彼の純愛がどんどん陳腐化したり傷だらけになるところが見たい気もするけど。それはひねくれすぎかなぁ。

 本格的な推理小説ファンの一部からは、トリックが途中でわかっちゃってつまらないって声も出たみたい(ちなみに、私は最後まで分かんなかった)。でも、まあ、それは気にならない。この本が、ミステリー系の賞をとったときにイチャモンをつけたミステリー作家がいた。その批評を少し読んでみたが、「石神」の心情分析という点では、まるでお子ちゃまやね、その作家は。

 ついでにいえば、なんとなく、白石一文の『一瞬の光』の主人公の“献身”を連想した。この本も、『容疑者X』同様に、なかなか“荒唐無稽”気味な部分もあるが、それでも肝心のテーマそのものには相当なリアルがあって、面白く読めた。

 まあ、それはともあれ、映画公開が待ち遠しい。先日、テレビニュースの芸能コーナーで、映画の主題歌のPVが少しだけ紹介されていた。もちろん、KOH+。福山ナントカ君は、柴咲コウがカラオケでバラードを歌うのを聴いて、その印象をもとにしてこの新曲を書いたそうだ。なかなか良い曲。テレビシリーズの主題歌「Kissして」も良かったけど、今度の曲も良い。
 そういえば、私の妹がこの福山君のファンで、歳甲斐も無くキャーキャー言ってたが、以前は、どこが良いんだか??って冷ややかに見ていた。が、ここにきて、ちょっと、印象が変わったよ。インタビューとか観ると人柄も良さげだし。うーん、才能もルックスも性格もめぐまれまくった男だなぁ、福山雅治。
 
 というわけで、柴咲ファンとしては、妻夫木ナントカも福山ナントカも許せる。が、許しがたいのは、阿部ナントカだろ!

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2007/11/07

最近面白かったもの~乾くるみ『イニシエーション・ラブ』、映画『パンズ・ラビリンス』

相変わらずちょこまかと忙しく、記事が書けません。書きたいネタはいくつもたまってきてるんですが。

そんなわけで、近況報告を兼ねて、最近、読んだ本やら見た映画で特に良かったものをご紹介。

ここのところ本はあまり読んでないんですが、抜群に面白かったのは、乾くるみさんの『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)。ふだんから作品のディテールを斜め読みしてしまう、かなり先急ぎの読み方をする私は、読み終わってしばらくしても、問題作って呼ばれるこの本のどこがすごいのか、まったく分かりませんでした。ただ、あれれ、ちょっと変だな。作者のミス?って部分が気にはなりましたが。ところがどっこい、ミスじゃなかったんですね。おもしろーい。おすすめです。そんな見事なトリックは別にしても、1960年代生まれの人間にとっては、その世代の恋愛の特徴がすごーく上手に表現されていて感心。描かれているのがあまりに平凡な恋愛だって批判もあるみたいだけど、もちろん、それは作者が意図したところだし、それから、そういう文句言ってるおめーらの恋愛もだいたいこんなもんだろ?って感じかな。
作者の乾くるみって名前は、女性っぽいけど、どうして、こんなに男の心がつかめているのかと不思議に思っていたら、どうやら、男性作家みたいですね。納得。でも、トリックに気がついた後は、なかなか女性の描き方も鋭いなぁと。ただ、まあ、やっぱり、そこに描かれているのは、作者渾身?の「演技シーン」の描写が象徴するように、あくまで紋切り的な、男からみた“女性のすごさ”なのかも。

映画もいくつか観ましたが、とりわけ印象に残ったのは、『パンズ・ラビリンス』。万人にすすめられる映画じゃないと思いますが、もし宣伝とかをみてアンテナが反応してしまい「どうしようかなぁ、行こうかなぁ」って思った人は、なんとか都合をつけて行くべきです(まだやってるかな)。
内戦期のスペインの田舎が舞台の、多感な少女を主人公とするダーク・ファンタジーです。映画評をいくつかみると、「不思議の国のアリス」のダーク版という見方も提示されていますが、私の場合、映画を観てる最中から、「マルチェッリーノ パーネ・エ・ヴィーノ」の物語を連想してました。「マルチェッリーノ」を観て、まずは感動しつつも、こんな悲惨な話を感動の物語に仕立て上げる美化作用というか幻覚作用を持ったキリスト教の怖さや残酷さについて私と共感してくれる人であるなら、なおさら、『パンズ・ラビリンス』は、その辺がストレートに表現されいて、うん納得、の絶対おすすめ映画です。
2007.11.09付記 この記事の末尾のあたり、ちょっと言葉たらずでしたね。この映画で「ストレートに表現されて」いるのは、「キリスト教の怖さや残酷さ」の方ではなくて、物語の「悲惨」さの方です。とってもドライなファンタジーという、一見矛盾した二つの言葉がしっくりとあてはまる映画でした。

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2007/06/20

おすすめ 桐野夏生『メタボラ』

 去年あたりの朝日新聞に連載されていた桐野夏生の小説『メタボラ』が単行本化されたので買って読んだ。新聞連載中、ほとんど欠かさず読んでいたので、再読ということになる。ここんとこ、時間がなくて、通勤電車の中で読み進めていったが、二日間で読了。約一年かけて連載を読んだ初読のときとはまた違った面白さがあった。
 
小説のテーマは、ひとことで言うと、「自殺」ってことかなぁ。ただし、この場合の「自殺」とは、生命を絶つという狭義の「自殺」だけでなく、安定した生活やら、大切な愛情やら人間関係やらを自分で壊すこと、つまり、自分の人生を壊していくさまざまな行為のことだ。そんな広義の「自殺」がテーマだと思える。

それにしても、桐野夏生という作家が人間を描くときの筆力は図抜けてすごい。そんな作家に連れられて、「下流社会」を「漂流」する若者の世界をじっくりとめぐり歩くことができる。
 そこでさまざまなかたちの「自殺」に追い込まれていく若者たちの切なさ。深夜のコンビニのバイト店員、工場で働く偽装請負のフリーター、ホスト、デリヘル嬢、バックパッカー。彼ら彼女らの切なさが丁寧にリアルに描かれる。

 そんな「負け組」の話なんかには興味なし、という人はどうでもいいけど、そうじゃない人はぜひご一読を。厚い本だけど、あっという間に終わっちゃいます。

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2007/05/16

書評:ドロイス・ハイデン『場所の力』 その1

 本書は2部からなっている。その第1部においては、都市景観の意味を理解する(理解しなおす)ための方法論が展開されている。第2部では、ロスアンジェルスにおける都市景観の保存・デザインの実践が紹介されている。
 第1部のタイトルは「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」で、第2部は「ロスアンジェルス-ダウンタウンの都市景観に見る公共の過去」である。

第1部「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」より
第1章「主張が交錯する場所」

 ハイデンの方法論が示される第1部には三つの章があるが、そのうちの第1章「主張が交錯する場所」の導入部では、ニューヨークの歴史的建造物の保存をめぐるある論争が取り上げられている。
 その論争は、1975年に、都市社会学者のハーバート・J・ギャンズと、建築評論家のアダ・ルイーズ・ハクスタブルとの間でおこなわれた。

 ギャンズは、ニューヨーク・ランドマーク保存委員会による保存対象の指定を批判して次のように述べた。「陽のあたっている著名な建築の一部を保存しているに過ぎず、一般の建物の存在をないがしろにしている」。
 保存委員会を支持するハクスタブルはこれに反論して、「偉大な記念碑的建築に対して、それが富裕層のものであることを理由に汚名を着せたり、それらをエリート主義の文化的な道楽とみなすことは誤りであり、歴史のわい曲であり、(中略)これらの建物はかけがえのない文明の重要な一部である」と述べた。

 また、保存委員会が指定した建物の保存活動への税金の支出について、ギャンズは、「保存という行為は公共の財源に依存する限り、公共的な行為であって、それはすべての人々の過去に呼応するものでなければならない」と述べて、「著名な建築の一部」に偏った保存活用への支出は問題であるとした。それに対してハクスタブルは、「美学的に見て質の高い建築の修復や再利用はきわめて難しい作業であり、大きなコストを必要と」するため「可能な限りの支援のすべてを受けて当然である」と弁護した。

 さて、著者のドロイス・ハイデンの主張については、邦訳本の出版社によって、「本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」であると紹介されている(直前号の記事参照)。この出版社による紹介を読んだだけだと、ハイデンは、ハクスタブルとは敵対し、ギャンズとは意見を同じくしているようにもとれる。「著名な建築の一部」だけでなく「一般の建物」の保存を主張するギャンズのいう「一般の建物」とは、多くの倉庫、店舗、下宿屋などといった「都市のバナキュラーな建物群」のことであり、これはハイデンの「生活景」と重なるようにも思える。

 しかし、日本の出版社が、ハイデンの主張の新しさをこのようなかたちで説明するしかなかったのは、おそらく、いまだ、日本の都市景観をめぐる議論の多くが、30年前のギャンズ・ハクスタブル論争の次元か、あるいはそれ以前の段階にあるためだろう。
 実際に本書を読むと、ハイデンはギャンズに対しても「保存に関しては全くの門外漢」だとしてその不十分さを指摘し、「結局のところ、2人とも、彼(ギャンズ)の都市保存の考えと彼女(ハクスタブル)の建築保存の考えを同時に実現し得る機会を探し出す努力を払わなかった」と述べている。

 したがって、ハイデンの主張の新しさについて理解するためには、その主張が、ギャンズ・ハクスタブル論争の次元をどのように超えているのか、とりわけ、ギャンズの主張をいかに乗り越えているのかという問題関心をもちながらこの第1章を読むことが、私を含め、日本の読者の多くには求められるように思える。

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2007/05/09

都市景観・まちづくり~ドロイス・ハイデン

 都市景観、そして、まちづくり。この二つのテーマについては、このブログでもちょくちょく言及してきた。今年は、もう少しじっくりとこれらのテーマについて考えてみたいと思う。
 
 で、学ぶべき先行研究をいろいろと物色した結果、興味を持ったのは、アメリカのドロイス・ハイデンという人と、日本の蓑原敬という人。二人とも建築系の人だが、それぞれの都市の見方に共感して選んだ。
 二人を選んだ後で、それぞれの経歴を調べたら、これが面白かった。ハイデンは、最初、歴史学を研究し、それから建築学へと転身した人。蓑原も、最初、東大の教養学部でアメリカの地域研究をやった後、日大理工学部の建築に入り、そこを卒業してから、建設省や茨城県で都市計画などを担当した人。つまり、人文科学を経てから建築を学んだという点で二人は共通している。
 結局、歴史研究者の僕が選ぶと、こんな風になるんだな。

 それはさておき、まず、ドロイス・ハイデンの本について簡単に紹介しておこう。
ドロイス・ハイデン『場所の力-パブリック・ヒストリーとしての都市景観』(後藤春彦・篠田裕見・佐藤俊郎訳、学芸出版社、2002年)
 出版社による本書の紹介をみると、「バナキュラーな街並み、市井の人々の仕事や営みさえも、地域の人々にとって価値あるものであることが、日本でもようやく気付かれるようになってきた。(中略)本書は、「美観」「文化財」といった従来の枠組を超える「生活景」の価値をパブリック・ヒストリーという概念から説いた意欲的な試み」だという。
 では、「パブリック・ヒストリーとしての都市景観」、すなわち、都市景観としてのパブリック・ヒストリーとは、いったいどのようなものか。
 訳者の紹介によると、「彼女(ハイデン)が言う社会的な記憶とは労働者の歴史であり、民族や女性の歴史を意味する。特に、地域社会における悲痛な体験や敗北した闘争の歴史を含むものである。これらは、書物に記されたり、公園や広場の銅像となって表象される、強者や勝者、すなわちメジャーの歴史とは明らかに異なるもので、人々の口伝や街角の何気ない景観などのよってのみ伝えられる市井の人々のアイデンティティとも言えるものだろう」とのことである。
 ハイデンは、「私達アメリカ人は、自分達の言い分を社会に伝えてくれる代弁者を持たない圧倒的多数の人々、すなわち一般の労働者、すべての民族の女性、男性、子ども達の個々人の心に共振する歴史が刻み込まれた都市の歴史的かつ公共的な場所を手にすることができる」という希望を掲げている。

 少し前までは、某大学で、都市論という講義を担当していた。今も続けていたら、格好の素材として講義で取り上げられたのになぁ。まあ、今回も、ちょっとした講義ノートを作成するつもりで、書評に取り組んでみたい。
 そのなかで、本書の長所と弱点をクリアにしていきたいと思う。

 もう一人注目の蓑原敬については、また記事をあらためて紹介しよう。

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2006/11/01

書評:五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』

 以前、このブログでも紹介したが、日本橋再生事業のいかがわしさを先駆的に指摘したのは、建築家の五十嵐太郎だ。
 その五十嵐の新著は、書名自体が「美しい景観100景・悪い景観100景」の選定に対する批判的パロディとなっていることはいうまでもない。選定にあたっている「美しい景観を創る会」では、当初、「悪い景観」という表現を「醜い景観」とする予定だったらしい。
 
 都市景観の場合、「美しい景観」として選ばれるための要件をすべて満たそうとすると、それは北朝鮮の平壌みたいな都市景観に近づいていくのではないか、という五十嵐の指摘はなかなか強烈である。
 日本橋再生事業に対する批判についても共感する。このブログでの私の主張も引用されていて、ちょっと嬉しかったりもする(この本が売られている間は、細々とでも更新して、このブログも続けなきゃね)。

 そんな五十嵐の好著に対して私が抱いた不満はふたつ。

 ひとつめは、この本で展開される五十嵐の主張は、ほとんど共感できることばかり、我が意を得たりって話ばかりで、私にとっては、ちょっと刺激不足だったこと。

 まあ、それはほとんど冗談だが、ふたつめはまじめな感想。私が残念だったのは、「美しい景観を創る会」的な思想や手法に対置されるべき、五十嵐の思想・手法が明示されていないことである。「美しい景観を創る会」的思想や手法がもつ幼稚さや危険性の指摘は容易である。もちろん、そうした幼稚な単純さが、単純であるがゆえに、大きな政治力をもちやすい点は要注意であり、それに対抗するためにも、平壌の例などを持ち出しての単純で平明な批判は必要である。

 問題はその先だろう。五十嵐が考える、あるべき都市像なり、あるべき都市整備の手法なりが示されるべきである。このブログでも、さんざん日本橋再生事業のでたらめさを指摘したあとで、対置すべき私の主張を組み立てようと試みた。途中でストップしているが、「お江戸日本橋の魅力とは?」と題する連載記事のなかでの取り組みである。そうした試みをなんとか続けるにあたっても、知恵の足らない私は、ここらでふたたび五十嵐からの刺激が欲しかった。

 五十嵐に限らず、優秀で良識を持ち合わせた建築や景観、都市計画の専門家たちのほとんどに共通して言えることだが、景観整備やまちづくりに、「市民」やら「住民」やらの声を取り入れたり、あるいは、そうした「人々」を事業の主役にすえることで、諸々の問題がクリアできると考えているふしがある。「人々」が選択する景観整備やまちづくりこそが、なされるべき事業であると。そこで議論が止まってしまう。

 そのような「市民」やら「住民」の集合のことを、私は「地域社会」と言い換え、先の連載記事でもちょっとだけ論じかけたことがあるが、こうした「地域社会」への無邪気な依存は危険である。
 だって、場合により「地域社会」なんてもう存在していないかもしれないんだから。ここを見誤ると致命的である。ありもしない軍勢を頼りに戦ったりしてると、結局、馬鹿にしてた相手にも簡単に打ち負かされちゃうんじゃないかな。

 五十嵐太郎『美しい都市・醜い都市-現代景観論』(中央公論新社、2006)

 2006.11.5.付記 今日、もういちど五十嵐さんの本を読み返してみた。結果、下線を施した部分で述べた批判は、少なくとも今回の五十嵐さんの本に対してはあまり当たっていないことに気づきました。この部分を抹消しようかとも思ったけど、まあ、どうせなら間違いの形跡も残しておこうと考えました。

 

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2006/07/26

田中夏子先生にお会いして

ここ3、4年、非常勤講師として、山梨の都留文科大学に通っている。
今年から担当科目が社会学科の歴史関係の科目になったため、同学科にもっぱら出入りするようになった。
ここの学科には、現代イタリアの協同組合の研究で有名な田中夏子先生がいらっしゃる。

地域・地域社会のありさまやその可能性を探る際に、人々の労働の側面からこれらの問題にアプローチしていく田中先生の研究姿勢には強く共感をおぼえる。

以前の記事にも書いたが、地域社会の再生をもし考えるのなら、「住民」が構成する地域社会だけではなく、「働く人々」がつくりあげる地域社会も重要であると思っている。むしろ、後者の方がより重要だろうと思っている。

その一方、私は重度のイタリア中毒である(W杯はうれしかった)。本来の自分の研究とは関係なく、ともかくいつのまにか、気がつくとイタリアが大好きになっていたのだが、実は、自分がこうまでイタリアにのめり込む原因と、上に書いた研究上の問題関心とは、どこかで強く結びついているのではないか、と思ってはいた。そう思ってはいたが、その結びつきが何なのか、これまではあまりつきつめて考えることはしなかった。

そんなふうに、これまであいまいだった、自分の研究関心とイタリアとの結びつきが、田中先生のご研究によって明確な姿を現すのではないだろうかと、最近思い始めた。

今年、社会学科の研究棟で時々先生の姿をお見かけするものの、いつもお忙しそうなご様子にて話しかけるのをためらっていたが、やっと昨日、思い切ってごあいさつさせていただいた。相変わらずお忙しいご様子でコピー機に向かわれているところ、強引に声をおかけした。

自分は日本の都市史研究者でイタリアの地域社会構造にも興味があることをお伝えすると、少しは面白いやつと思ってくださったのか、ご著書を私にくださった。
田中夏子『イタリア社会的経済の地域展開』(日本経済評論社、2004年)
早速、この本を読んだ感想をまとめて先生には報告せねばならないが、その過程で考えたことなど、少しこのブログに書いてみたい。

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2005/09/21

NANA おとな買い

話題のコミック、矢沢あい『NANA-ナナ-』の1~3巻(集英社、りぼんマスコットコミックス)を買った。

中・高生の頃だったら、1冊ずつ買うところだけど、そこは大人。
まとめて3冊の“おとな買い”。 まあ、1冊390円だったし(笑)。

そんな話はともあれ・・・
13巻まで出ているこの『NANA』。累計で2600万部発売。2600万!すごい!
しかも、現在、品切れ状態の本屋さんも多くて、まだまだ売れそう。

基本的に、私、メジャー信仰。
たくさんの人が“良い”と思うものは、実際、良い(ことが多い)、と信じてます。

そんなわけで、遅まきながら、『NANA』を読んでみることに。

ひょんなことからルームシェアして暮らす二人のNANA。
かっこいい女性ヴォーカルのナナと、恋愛依存症の奈々の二人の物語。

1巻収録部分は、読み切りを前提にかかれたらしく、正直、どうしてこれが大ヒットなの?という感じ。

ところが、連載へと切り替えられたあとの2巻、3巻を読むと、だんだん面白くなってくる。
もし1巻だけ買ってたら、その後は買うのをやめてたかも。“おとな買い”して良かった。
帯にあった「進化する少女まんが」ってコピーは、なるほど正しそうだなっと。

3巻までだと、まだ累計2600万部の魅力の真髄には到達しない感じがするけど、期待大。


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2005/02/19

シリーズ『週刊日本の伝説を旅する』を読む その2

世界文化社から『週刊日本の伝説を旅する』第2号が送られてきた。今回は、江戸と伊豆七島の伝説と旅。

とりあげられた伝説は「八百屋お七」・「太田道灌」・「伊豆七島の伝説」の三本。この三本については、創刊号の京都の伝説よりは面白く読めた。伊豆七島の伝説は、知らない話もあって勉強になった。

ただ、相変わらず、物故者の文章が載せられている。前回はそれが二本。今回は一本。ともあれ、昔、別の雑誌か本で発表された文章を、この雑誌は転載しているわけだろう。ご健在の執筆者の文章についても、既発表の文章の転載ではないか?と勘ぐってしまう。どうなんでしょう?

「鉄道で巡る伝説の地」のコーナーは、西武新宿線がとりあげられていたが、伝説と何の関係もない、しかもあまりに平凡な紀行文。

旅行案内の情報記事は、手抜きしすぎじゃないでしょうか?観光案内所や旅行会社がタダでくれるパンフレットと大差はない内容にがっかり。

井沢元彦の連載「伝説の住人」は、江戸・伊豆七島の号なのになんで出雲の神話なの?前号に引き続き、怨霊やら鎮魂の話としてまとめられている。「怨霊・鎮魂」という他人のアイデアを借りるのは、足利義満の話と同様に、みっともないやり方だとは思うが、まあそれでも構わない。ただ、借りたアイデアなら、もう少しそれをちゃんと使いこなすべきだと思う。借り物の話の枠の中にあまりに根拠薄弱な思いつきが並べられているだけ。

どうでもいいことだが、井沢元彦と井出孫六とが同じ雑誌に執筆者として並んでいるのは最近珍しいかも。

前の号の評にも書いたかもしれないが、冒頭の伝説紹介の部分に関しては、有名じゃなくても、若手でもっと面白い記事が書けるライターさんはいるんじゃないかな。手堅く無難な文章よりも、活きのいい文章が読みたいと思う。いやいや「一般読者」にはこの位が、なんてタカをくくってたら、そのうちそっぽ向かれるんじゃないかな。創刊特別価格350円なら許せるけど、この内容で560円は高いと思うよ。

次回の北海道の号には期待したい。北海道の伝説なんてほとんど知らないし。楽しみにしよう。

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2005/02/08

教えて!阿部和重『シンセミア』なぜ鶲なの?

少し前に、阿部和重の小説『シンセミア』の読書ノートを書いた時から頭を離れない疑問。
気になって仕方ない。誰か答えを教えてくださいな。

この作品の最大の山場は洪水の場面で、その最後はパン屋の若夫婦が山に登るシーン。
この洪水の場面は、ノアの箱舟の話にいろいろ似せて書かれている。

なかなか深刻な状態に陥っている若夫婦は、この山の頂で将来への展望をつかみかけるが、結局、うまくはいかない。
このシーンで妻が最後にその姿を見失ってしまう鳥が、鶲ヒタキである。ヒタキのなかでもキビタキという美しい鳥。
この鳥の姿を見失うってことが何かを象徴しているように思うんだけど。
この作品においては重要な場面である。
作者のヒタキへのこだわりは、後から出てくる別の場面で、妻がわざわざ友人から鳥類図鑑を送ってもらってヒタキを調べていることにも示されてる。ただなんとなくヒタキってわけじゃないように思える。

なぜヒタキなのか?これが私の疑問である。「箱舟」で「鳥」とくれば、オリーブをくわえたハトなんだろうけど、そうではない。
もしかしたらヒタキの学名のナルシスに関係するのか?自己愛とか自己肯定とかにかかわる?

『シンセミア』読者の方。あなたの“読み”を教えてくださいな。

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2005/02/04

シリーズ『週刊日本の伝説を旅する』を読む その1

世界文化社からの刊行が始まった『週刊日本の伝説を旅する』の創刊号が自宅に送られてきた。「ブログ上で書評しませんか?」というお話を世界文化社の編集の方から頂いたからだ。もっと正確に言うと、私のブログのお師匠さんのところへ最初にお話があり、それに私も相乗りさせて頂いたわけである。

「伝説」と「旅」。どちらも私の大好物である。このシリーズでもって、きれいな写真や絵を眺めながら、伝説めぐりの旅が擬似体験できれば楽しいだろうなってことで、しばらく書評してみます。

創刊号は京都の伝説がテーマで、小野小町・酒呑童子・小督局が取り上げられています。中高年女性の旅行が盛んな昨今、少し女性の読者を意識したラインナップなのでしょうか。
冒頭の安西篤子による小町と深草少将のエピソードは、しっとりと味わい深く読めました。それ以下の酒呑童子と小督局に関する文章は、各伝説のあまり要領のよくないあらすじ紹介が文章の大部分を占めていて、正直面白くない。有名作家の既発表の文章を転載したものなのだと思うんだけど、やっぱりそれじゃものたりないなあ。
どうせなら、旅している気分にしてくれたり、旅にいざなってくれたりする文章をメインに読みたいな。このシリーズのタイトルは「伝説を旅する」なんだから。有名作家の文章じゃなくてもいいから、伝説にもとづいて現地取材をした生の文章をたくさん読みたい。

 さて、次号は私の本拠地「江戸」がテーマ。送られてくるのが楽しみ楽しみ。

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2005/01/30

読書ノート1~阿部和重『シンセミア』

阿部和重

最近、とあるところで知り合って仲良くしてもらってる友に、その友と同郷の阿部和重という小説家が面白そうだと教えてもらった。阿部和重は近作『グランド・フィナーレ』が芥川賞を受賞したから、名前を知ってる人も多いのかな。

阿部は、自分の出身地、山形県にある神町という実在の小さな町を舞台にして、いくつか作品を書いている。芥川賞を獲った『グランド・フィナーレ』もそのひとつ。ディープなロリコンであることがばれて妻と娘に去られた男が、故郷の神町に帰る。そこで出会った二人の小学生の女の子と親しくなって・・・というお話。


歴史小説『シンセミア』

さて、今回読んだ『シンセミア』は、その神町という町を舞台に、というより、神町の社会そのものを主人公にした小説である。歴史小説と呼ぶのがふさわしいかもしれない。神町には戦後アメリカ占領軍の基地ができる。この占領軍との関係を梃子にして町の実力者にのしあがったグループがあった。こうして彼らが作り上げた町の社会・権力構造は、今、まさに崩壊しようとしている。産廃処理施設をめぐる抗争、盗撮組織の暗躍、売春、淫行、ドラッグなどなどがグルグルと渦を巻いて、町の旧来の秩序を崩していく。

上・下2冊、1600枚の長編全体にわたって、おおよそ救いがたいエピソードがえんえんと積み重ねられていく。唯一美しいのは、ノアの箱舟の話を念頭にして書かれた、町を襲う大洪水の話で、雨があがったあと、盗撮グループを抜けようとしているパン屋の若旦那が妻を追って山に登ったときの情景である。雲間から差す陽光の帯のごとく、希望の光が物語にも差し込むかと思われる。だが、結局、夫婦は新世界の存在を確かに告げてくれるはずの鳥を見つけることができない。

戦後史

若旦那のパン屋の戦後史が、この小説のひとつの軸である。占領軍の基地に出入りし、また、アメリカの占領政策ともうまく結びついて大きくなっていったパン屋は、一方で、町の政治やヤクザの世界と裏でつながる。こうして町のボスのひとりとなったパン屋の初代と二代目。若旦那はそうした家の宿命から逃れようともがく三代目である。

この小さな町の話を、ぐうっと拡大して戦後日本社会全体のあり方にあてはめることは容易である。また、山形以外のどこか別の地方都市にだぶらせることもできる。この本が語る神町フォークロアは戦後日本において相当に普遍的なフォークロアである。

さて、本を読み終えて得られるのは、感動やら爽快感やらとはかけ離れた、グッタリするような読後感であり、「こんな小説は嫌いだ。」と文句言う人も多いだろうが、そうした読後感とは無関係に、また本人の意思とも関係なく、読み終わった人の意識の深いところに必ず決定的な何かを残す小説だと思う。

阿部和重『シンセミア』上・下(朝日新聞社2003)

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